石巻を中心とした新聞です。震災報道、救援活動でも大きな力を発揮したと言われています。大手の新聞、地方の大きな新聞社とは違います。地域が分断され、情報が途絶える中で、地域に根ざした新聞は被災地情報、生活情報などで重要な役割を果たしました。FMの地域放送も多くの自治体(市町村単位)ごとに立ち上がり、昨年活動していました。
<日本大震災から1年…2市1町で追悼式>
東日本大震災で約6千人の死者、行方不明が出た石巻地方。震災から1年を迎えた11日には発災時刻の午後2時46分に合わせ、黙とうを捧げた。2市1町では追悼式や慰霊祭が営まれ、参列者は花をたむけて犠牲者をしのんだ。各会場では政府主催の追悼式が中継された。
【悲しみ今も癒えず…石巻市追悼式】
石巻市の追悼式は河北総合センターで行われた。遺族代表の田倉さんが「巨大津波は多くの命と暮らしを一瞬で奪った。1年たった今も信じることができない」と祭壇に向けて無念の思いを語った。
遺族ら約2500人が参列し、会場は鎮魂の祈りに包まれた。田倉さんは「歴史ある石巻の復興に希望を持って立ち向かうことを霊前に誓う」と話していた。
式辞では亀山紘市長が「震災からの復興を市民と一緒に取り組む」と強調。村井嘉浩知事は「人知を超える大災害を前にし、無念の思いで頭を垂れ、手を合わせることしかできない悲しみは今も決して忘れることはできない」と哀悼の意を捧げた。
【心通わせ共に…東松島市慰霊祭】
東松島市慰霊祭は航空自衛隊松島基地格納庫で行われ、犠牲者の遺族ら2500人(市発表)が参列した。
阿部秀保市長は式辞で国内外の支援に感謝し、「復興の道のりは長く険しいが、追悼の思いを胸に市民と共に心を通わせ歩む」と誓った。五野井敏夫市議会議長らが追悼の辞を捧げ、市を支援しているデンマークの皇太子から、大使館を通じて花輪が届けられた。
津波で長女を亡くした相澤さんは「娘が変わり果てた姿で見つかったのは3月21日、誕生日だった。悲しむ心を励ましたのは孫の笑顔。生かされたからには使命がある。できる範囲で少しずつがんばりたい」と遺族代表の言葉を述べた。
【天国から見守って…女川町追悼式】
女川町の追悼式は総合体育館で行われ、約2千人が参列。津波で実母と祖父母を亡くした会社員の鈴木さんが遺族を代表して、「復興に貢献していく。天国から見守ってほしい」と祭壇に向けて語りかけた。
式辞で須田善明町長が「次世代に引き継いでいくべき町をつくる」と決意を述べた。
県内ゆかりの著名人で結成する「みやぎ びっきの会」は、中国人研修生を避難誘導中に亡くなった水産加工会社専務佐藤充さん(当時55)が作詞作曲した「潮の唄」を披露。参列者は目頭を押えながら「女川に生まれ、女川に育ち、これからも俺たちはここで生きていく」の一節を口ずさんでいた。
<日本大震災から1年…2市1町で追悼式>
東日本大震災で約6千人の死者、行方不明が出た石巻地方。震災から1年を迎えた11日には発災時刻の午後2時46分に合わせ、黙とうを捧げた。2市1町では追悼式や慰霊祭が営まれ、参列者は花をたむけて犠牲者をしのんだ。各会場では政府主催の追悼式が中継された。
【悲しみ今も癒えず…石巻市追悼式】
石巻市の追悼式は河北総合センターで行われた。遺族代表の田倉さんが「巨大津波は多くの命と暮らしを一瞬で奪った。1年たった今も信じることができない」と祭壇に向けて無念の思いを語った。
遺族ら約2500人が参列し、会場は鎮魂の祈りに包まれた。田倉さんは「歴史ある石巻の復興に希望を持って立ち向かうことを霊前に誓う」と話していた。
式辞では亀山紘市長が「震災からの復興を市民と一緒に取り組む」と強調。村井嘉浩知事は「人知を超える大災害を前にし、無念の思いで頭を垂れ、手を合わせることしかできない悲しみは今も決して忘れることはできない」と哀悼の意を捧げた。
【心通わせ共に…東松島市慰霊祭】
東松島市慰霊祭は航空自衛隊松島基地格納庫で行われ、犠牲者の遺族ら2500人(市発表)が参列した。
阿部秀保市長は式辞で国内外の支援に感謝し、「復興の道のりは長く険しいが、追悼の思いを胸に市民と共に心を通わせ歩む」と誓った。五野井敏夫市議会議長らが追悼の辞を捧げ、市を支援しているデンマークの皇太子から、大使館を通じて花輪が届けられた。
津波で長女を亡くした相澤さんは「娘が変わり果てた姿で見つかったのは3月21日、誕生日だった。悲しむ心を励ましたのは孫の笑顔。生かされたからには使命がある。できる範囲で少しずつがんばりたい」と遺族代表の言葉を述べた。
【天国から見守って…女川町追悼式】
女川町の追悼式は総合体育館で行われ、約2千人が参列。津波で実母と祖父母を亡くした会社員の鈴木さんが遺族を代表して、「復興に貢献していく。天国から見守ってほしい」と祭壇に向けて語りかけた。
式辞で須田善明町長が「次世代に引き継いでいくべき町をつくる」と決意を述べた。
県内ゆかりの著名人で結成する「みやぎ びっきの会」は、中国人研修生を避難誘導中に亡くなった水産加工会社専務佐藤充さん(当時55)が作詞作曲した「潮の唄」を披露。参列者は目頭を押えながら「女川に生まれ、女川に育ち、これからも俺たちはここで生きていく」の一節を口ずさんでいた。