大学などの高等研究機関は、思想信条、学問研究の自由が保障されない限り、その使命は果たすことが困難です。従来の学説などとは異なる考え方、新たな先進的な学説などは思考の自由、学問研究の自由が保障されてこそ、発想され実現し確立されるものです。
そのことを無視して、大手企業が製品開発や利益に結びつく成果のみを大学、高等研究機関に求めても、高度な研究、優れた成果は生み出すことができないことは明らかです。
行政は予算を出すから、口を出すのは当たり前と考えているのかもしれません。大学などにおける学問研究は10年、50年、100年単位での基礎研究と専門的な技術の開発、検証、議論と研究などによってしか、その価値と成果は生みだされません。
利益、利益、企業にとっての成果を性急に求めることで基礎的な研究、学問がおろそかになり、人類社会にとって価値ある研究成果は得られないでしょう。
自公政権の目先しか考えない短絡的な考え方を大学などに押し付けないことを要求するものです。大学への研究予算は、税金であり、国民のものです。自民党、公明党のものではありません。
<北海道新聞社説>国立大「改革」無理ある要請だ。撤回を
下村博文文部科学相はきのう国立大の学長を集め、中期目標(2016~21年度)の策定に当たって踏まえるべき基本線を示した。
各大学は国や経済界が描く大学像に沿うように特色づくりや学部再編を進めてもらいたい―。文科相の要請には、こうした国の意思が強くにじんだ。
だが、大学を鋳型にはめ込み、研究現場から自由や自主性、多様性を奪えば、知力が先細りするのは目に見えている。文科相は要請を撤回すべきである。
要請は、すでに文科省が各大学に通知した「人材育成などで地域に貢献」「強みある分野で世界的、全国的な教育研究」「全学的に世界で卓越した教育研究」の三つの枠組みに沿った改革方針だ。
各大学はいずれかを選んで研究内容や組織を見直す。国から高い評価を得れば交付される運営費が増え、場合によっては逆もある。
1兆円を超える運営費の分配が各大学で収入の3~4割を占める以上、従わない選択肢はあるまい。今後、お眼鏡にかなう目標や計画が出せるかを競う状況が生まれることは避けられない。
特に問題なのは、教員養成系や人文社会科学系の学部・大学院に対し「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に取り組む」と促したところだ。
経済成長や技術革新を重視するあまり、実利や短期的な成果が期待できない分野を切り捨てる発想が見て取れる。
しかし、人文・社会科学の基礎を成すのは価値観や倫理、社会思想の探究であり、それは健全な批判精神や創造力につながる。
それなくして社会が進むべき方向づけや心の豊かさの実現、すべきこと、なすべきではないことの判別はままならない。
15日に開かれた国立大学協会の総会で学長らから懸念が相次ぎ、里見進会長(東北大学長)が「短期で成果を挙げようと世の中が性急になりすぎているのでは」とクギを刺したのはもっともだ。
文科省の方針の下敷きには政府の産業競争力会議からの要請がある。4月の会議で、大学の役割を明確にし交付金の配分にメリハリを付ける方向を打ち出した。そもそもそれが筋違いで無理がある。
04年に国立大学が法人化された際、各大学が独自性を発展させ、主体的に研究を切磋琢磨(せっさたくま)する将来像を多くの教員が描いたはずだ。
その期待を裏切るばかりか、反対の方向に向かうようでは大学の未来は危うい。