人間の知恵を使い、国を挙げてすべきは戦争準備ではなく、戦争しない国作り、外交による平和的紛争の解決ではないでしょうか。紛争を武力で対応することは過去から繰り返し、行ってきたことです。しかし、第一次、第二次大戦を経て、世界的規模での戦争による惨禍を如何に防止するかが、政治経済の主要な課題となっています。
人類が平和的に共存する時代を作り出すことこそが政治に与えられた最高の課題です。紛争を武力によって対応することは、アメリカ、イギリス、かつてのドイツ、日本が行ってきた愚かな選択であり、歴史的な進歩はなにもありません。
日本が持つ平和憲法は、基本的人権の尊重、交戦権の放棄、国民主権の基本原則が一国のものではなく、世界各国が採用して、実施することで、理想的な国際環境を作り出すことができる理念です。それは、何千万人ものアジア、ヨーロッパなどの人々の死と犠牲によってもたらされたものであり、人類の財産でもあると思います。
<琉球新報社説>戦後70年フォーラム 戦争への道断つ方策共有
沖縄は非戦の誓いと日本の民主主義の成熟度を映し出す鏡である。あらためてそんな思いを深めた。
那覇市で催された戦後70年記念フォーラム「沖縄から平和を考える」は熱気が渦巻いた。この国を新たな戦争に導きかねない安倍政権の危い動きを断つ方策が共有された意義は大きい。
県民12万2千人余が犠牲になった沖縄戦、名護市辺野古への新基地建設、安倍政権が今国会で成立を図る安全保障法制は、国民の生命を危険にさらす地続きの問題であることが照らし出された。
安保政策に精通する元自民党副総裁の山崎拓氏、辛口の政治評論で知られる森田実氏、凄惨(せいさん)な沖縄戦を体験した唯一の衆院議員である仲里利信氏が登壇した。
太平洋戦争を経験した戦中派の3氏の発言には、政治の暴走に歯止めをかける立憲主義が崩れることへの危機感と、それに歯止めをかける使命感が宿っていた。
違憲論が勢いを増す安保法制をめぐる3氏の論を沖縄語で表せば「がってぃんならん(絶対に許さない)」になるだろう。
山崎氏は「(戦後70年間)青年が一人も血を流さなかった日本は珍しい平和国家だ。『一国平和主義』でいいではないか」と述べ、安保法制の廃案を強く求めた。
森田氏は「過去の自民党のリーダーは誇りを保ち、米国とつばぜり合いした。安倍首相はべったりだ」と痛烈に批判した。対米従属と強権性を深める安倍政権にあらがう突破口に、世界の共感が広がる「辺野古新基地阻止」を挙げた。
「軍拡競争で真っ先にやられるのは沖縄だ。子や孫に哀れな思いをさせない」。父や弟を沖縄戦で失った経験から、党派を超えて非戦を貫くことを訴える仲里氏の発言は説得力に満ちていた。
米軍普天間飛行場の移設を伴う辺野古新基地をめぐり、山崎氏が「期限付き返還を提唱して再交渉を」と提案すると、即座に怒声が飛んだ。
世論調査で80%以上の県民が反対するだけに当然の反応だ。長い経緯を振り返った時、山崎発言には意義も見いだせる。一貫して辺野古やむなしと主張してきた同氏でさえ、沖縄の民意を無視した現行計画のごり押しは「無理」と烙印(らくいん)を押したのである。
「政治の変化は世論が実現する」(森田氏)。県民はさらに自信を深めていいはずだ。
暗闇の喝采
戦後沖縄の政治家、瀬長亀次郎氏が残した資料を集めた那覇市内の「不屈館」を訪ねた時のこと。資料館まで乗ったタクシーの運転手さんが「父は亀次郎さんのファンでした」とあるエピソードを語ってくれた。
米軍施政下で沖縄の解放を求めた瀬長氏は一九四五年に「うるま新報」(現琉球新報)を発刊、四七年に沖縄人民党創設に参加する。五〇年代に立法院議員から那覇市長を務め、親しみやすい演説は大人気。小学生の運転手さんもお父さんに連れられて演説を聴いたそうだ。だが、軍用地接収で「島ぐるみ闘争」に燃えた時代。米軍の労働者は演説会場にいたことを職場に知られると解雇もある。「だから市長公邸であった演説では瀬長さんだけ照らして聴衆の側は真っ暗。瀬長さんが『これでいいのか!』と訴えると、暗闇から『あらんど(違う)!』って呼応した。大歓声や指笛がすごかった」
沖縄戦で数え切れない命を失った。民衆の側に立ち続けた瀬長氏に希望を見いだし、演説に喝采を送った人々の姿が目に浮かぶ。
闘争を続ける沖縄の心は今、やりきれない。「憲法の下に帰る」を合言葉に日本復帰して四十余年。名護市辺野古の新基地建設に県民は反対の意思を示したが、日本政府は顧みない。海でボーリング調査を強行し、抗議する市民に監視カメラを向ける。暗闇で喝采があがった時代よりも激しい。 (佐藤直子)