『12人の怒れる男』というアメリカ映画をご存じだろうか? 1957年にアメリカで公開され、日本では2年後の1959年(昭和34年)に公開された。私が大学に入った年である。もちろんモノクロが主流だった時代で、この映画もモノクロで、しかも倒産寸前の映画会社がたった35万ドルの予算で制作し、もしヒットしなければ倒産を覚悟して作った映画だった。
この映画は、父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、ほとんどのシーンが12人の陪審員による密室の中での論議で占められている。単調と言えば単調だが、少年にとって圧倒的に不利な証拠や証言が法廷に提出された中で、たった一人の陪審員が「無罪」の票を投じたことから感動的なドラマが始まる。
ここで一応アメリカの陪審員制度について簡単に触れておく(ウィキペディアおよびジョン・グリシャムの小説による)。まずアメリカには州法があり、たとえば死刑を廃止した州もあればひとつひとつの罪に対する量刑を加算して数百年の懲役刑を科す州もある。また陪審員の数も12人と決まっているわけではなく6人制の州もある。また陪審員を決めるにあたって20人ほどの候補者を選び、候補者全員に対して原告(検察官)と被告代理人(弁護士)が、陪審員として何らかの予断や偏見を持っていないか手厳しい質問を投げかける。そして検察と弁護士が忌避しなかった12人が陪審員として選ばれる。日本の裁判員制度と違って裁判官が陪審員の論議に参加することはないし、陪審員が量刑を決めることはない。陪審員が決めるのは被告が有罪か無罪かだけであって(それを「評決」という)、全員一致が大原則である。このことはアメリカの裁判映画を一度でも見た方はご存じのはずだが、こういう制度があるから検察も弁護士も裁判官に対して主張するより陪審員に対して主張することに力点を置く。そして密室に閉じこもって議論を尽くし陪審員全員が無罪か有罪かで一致したとき公判が再開され、裁判官が陪審員に向かって「評決が出ましたか?」と尋ね、陪審員の一人が「はい、出ました」と答え、書記官に評決書を手渡す。
こうしたアメリカの裁判制度をご理解いただけないと『12人の怒れる男』が観客の大きな感動を呼び、裁判映画の最高峰とまで位置付けられてきた理由がお分かりいただけない。
この映画の大半を占める陪審員会議のシーンでは、法廷に提出された多くの証拠や証言のひとつひとつをめぐって信じるに値するか否かの議論が行われ、ある程度議論を尽くした段階で全員が「有罪」か「無罪」と書いた無記名投票を行う。ほとんど全員が「有罪」で一致するだろうと思っていたが、たった一人が「無罪」の投票をした。
そうなると再び議論が蒸し返される。映画の観客も誰が「無罪」の投票をしたのかわからないくらい巧みな演出で、「有罪」を投票した11人の陪審員も「無罪」投票をしたのがだれかわからない。そして再び無記名投票をした結果「無罪」票を2人が投じた。また証拠や証言の信ぴょう性について議論が再開され、3度目の投票では「無罪」票が3人に増えた。「無罪」票を投じた陪審員が誰だか分からないだけに全員が疑心暗鬼に陥る。陪審員たちのいらだちも観客に伝わってくる。
こうして議論を何度も何度もやり直すたびに「無罪」票が一人二人と増え、最後に12人の陪審員全員が無記名で「無罪」票を投じる。その感動的なシーンは、アメリカ映画史上に刻まれたほどである。
実はこの映画について私のブログ読者にお伝えしたかったのは昨日(12月19日)の読売新聞夕刊1面に掲載された「よみうり寸評」に考えさせられることがあったからである。「寸評」の要旨は「自殺は痛いから苦しまずに殺してもらうため、無差別殺人をした犯人に死刑判決が言い渡された。犯人の望み通りの判決だ。これで遺族の苦しみはいやされるのだろうか」という趣旨である。
死刑制度を廃止している国もあるし、アメリカにも死刑制度を廃止している州もある。日本でも死刑制度に反対する人も少なくないし、私自身は廃止論者ではないが、廃止論者の主張にも理解できる部分もある。もともと刑法で定める量刑は犯人に犯した犯罪を償わせるという側面と、犯罪を未然に防ぐための抑止力という二つの要素を持っている。後者の側面が最も大きな効果を持ったのは飲酒運転による人身事故の量刑を大幅に引き上げたことだ。かつては重過失致死罪が適用され最大6年の懲役刑だったのが、危険運転致死罪が制定され最大20年の懲役が科せられるようになった。その結果飲酒運転が激減した。が一方、量刑の整合性が危険運転致死罪の法制化によって一気に崩れ、殺意のない飲酒運転による「殺人」が、殺意を持って人を殺した犯人に下される量刑より軽くなるというおかしな結果になった。かつては1人の殺人者は死刑にしないというのが量刑の原則だったが、残忍性や残酷さ、被害者に与えた恐怖感などを重視し、1人の殺人であっても死刑判決を下す裁判官が増えてきた。が、それを逆手に取って苦しまずに死にたいといった身勝手な殺人を行うケースが出てくるようだと、重罰化が必ずしも犯罪の抑止効果を持たないということになる。
日本では死刑に次ぐ重い量刑は無期懲役だが、刑務所の中で病死するケースを除き、事実上20年くらいで仮釈放されている。私は死刑廃止論者の主張に一定の理解を持ちながら同意できないのは、死刑に次ぐ重罰の無期懲役が事実上「終身刑」ではないからだ。だから死刑廃止運動をされている方々にお願いしたいのは、同時に「仮釈放なしの終身刑」を設けるべきだと主張していただきたいという1点だ。そういう主張だったら多くの国民の支持を得られるだろうし、また被害者の肉親の多くも「死刑で簡単に死なせるより一生刑務所の中で罪を償ってほしい」と思うのではないだろうか。このブログ記事に対して多くの読者からのご意見を求めたい。
この映画は、父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、ほとんどのシーンが12人の陪審員による密室の中での論議で占められている。単調と言えば単調だが、少年にとって圧倒的に不利な証拠や証言が法廷に提出された中で、たった一人の陪審員が「無罪」の票を投じたことから感動的なドラマが始まる。
ここで一応アメリカの陪審員制度について簡単に触れておく(ウィキペディアおよびジョン・グリシャムの小説による)。まずアメリカには州法があり、たとえば死刑を廃止した州もあればひとつひとつの罪に対する量刑を加算して数百年の懲役刑を科す州もある。また陪審員の数も12人と決まっているわけではなく6人制の州もある。また陪審員を決めるにあたって20人ほどの候補者を選び、候補者全員に対して原告(検察官)と被告代理人(弁護士)が、陪審員として何らかの予断や偏見を持っていないか手厳しい質問を投げかける。そして検察と弁護士が忌避しなかった12人が陪審員として選ばれる。日本の裁判員制度と違って裁判官が陪審員の論議に参加することはないし、陪審員が量刑を決めることはない。陪審員が決めるのは被告が有罪か無罪かだけであって(それを「評決」という)、全員一致が大原則である。このことはアメリカの裁判映画を一度でも見た方はご存じのはずだが、こういう制度があるから検察も弁護士も裁判官に対して主張するより陪審員に対して主張することに力点を置く。そして密室に閉じこもって議論を尽くし陪審員全員が無罪か有罪かで一致したとき公判が再開され、裁判官が陪審員に向かって「評決が出ましたか?」と尋ね、陪審員の一人が「はい、出ました」と答え、書記官に評決書を手渡す。
こうしたアメリカの裁判制度をご理解いただけないと『12人の怒れる男』が観客の大きな感動を呼び、裁判映画の最高峰とまで位置付けられてきた理由がお分かりいただけない。
この映画の大半を占める陪審員会議のシーンでは、法廷に提出された多くの証拠や証言のひとつひとつをめぐって信じるに値するか否かの議論が行われ、ある程度議論を尽くした段階で全員が「有罪」か「無罪」と書いた無記名投票を行う。ほとんど全員が「有罪」で一致するだろうと思っていたが、たった一人が「無罪」の投票をした。
そうなると再び議論が蒸し返される。映画の観客も誰が「無罪」の投票をしたのかわからないくらい巧みな演出で、「有罪」を投票した11人の陪審員も「無罪」投票をしたのがだれかわからない。そして再び無記名投票をした結果「無罪」票を2人が投じた。また証拠や証言の信ぴょう性について議論が再開され、3度目の投票では「無罪」票が3人に増えた。「無罪」票を投じた陪審員が誰だか分からないだけに全員が疑心暗鬼に陥る。陪審員たちのいらだちも観客に伝わってくる。
こうして議論を何度も何度もやり直すたびに「無罪」票が一人二人と増え、最後に12人の陪審員全員が無記名で「無罪」票を投じる。その感動的なシーンは、アメリカ映画史上に刻まれたほどである。
実はこの映画について私のブログ読者にお伝えしたかったのは昨日(12月19日)の読売新聞夕刊1面に掲載された「よみうり寸評」に考えさせられることがあったからである。「寸評」の要旨は「自殺は痛いから苦しまずに殺してもらうため、無差別殺人をした犯人に死刑判決が言い渡された。犯人の望み通りの判決だ。これで遺族の苦しみはいやされるのだろうか」という趣旨である。
死刑制度を廃止している国もあるし、アメリカにも死刑制度を廃止している州もある。日本でも死刑制度に反対する人も少なくないし、私自身は廃止論者ではないが、廃止論者の主張にも理解できる部分もある。もともと刑法で定める量刑は犯人に犯した犯罪を償わせるという側面と、犯罪を未然に防ぐための抑止力という二つの要素を持っている。後者の側面が最も大きな効果を持ったのは飲酒運転による人身事故の量刑を大幅に引き上げたことだ。かつては重過失致死罪が適用され最大6年の懲役刑だったのが、危険運転致死罪が制定され最大20年の懲役が科せられるようになった。その結果飲酒運転が激減した。が一方、量刑の整合性が危険運転致死罪の法制化によって一気に崩れ、殺意のない飲酒運転による「殺人」が、殺意を持って人を殺した犯人に下される量刑より軽くなるというおかしな結果になった。かつては1人の殺人者は死刑にしないというのが量刑の原則だったが、残忍性や残酷さ、被害者に与えた恐怖感などを重視し、1人の殺人であっても死刑判決を下す裁判官が増えてきた。が、それを逆手に取って苦しまずに死にたいといった身勝手な殺人を行うケースが出てくるようだと、重罰化が必ずしも犯罪の抑止効果を持たないということになる。
日本では死刑に次ぐ重い量刑は無期懲役だが、刑務所の中で病死するケースを除き、事実上20年くらいで仮釈放されている。私は死刑廃止論者の主張に一定の理解を持ちながら同意できないのは、死刑に次ぐ重罰の無期懲役が事実上「終身刑」ではないからだ。だから死刑廃止運動をされている方々にお願いしたいのは、同時に「仮釈放なしの終身刑」を設けるべきだと主張していただきたいという1点だ。そういう主張だったら多くの国民の支持を得られるだろうし、また被害者の肉親の多くも「死刑で簡単に死なせるより一生刑務所の中で罪を償ってほしい」と思うのではないだろうか。このブログ記事に対して多くの読者からのご意見を求めたい。