ようやく森口尚史・自称「ips細胞臨床応用研究者」のニセ研究成果をめぐってのてんやわんやの大騒動が沈静化したようだ。ただ当人は6件と発表していた臨床応用のうち5件はウソだったと認めているが、1件は実際に行ったと、依然として主張し続けている。しかし森口氏が「研究者」としての最後の砦と頑張っているその1件も、いつ臨床応用の手術を行ったのかについては「今年の2月」から「昨年の6月」に「思い違いだった」と訂正するなど、あやうさを通り越してウソの上塗りとしか思えない言い訳に終始している。手術を行った病院名も明らかにせず、臨床応用手術を行った執刀者の氏名も明らかにせず(森口氏によれば口止めされているとのことだが)、具体的な裏付けは何もない。
こんな大騒動になったのは、そもそも日本最大の発行部数を誇る読売新聞が11日付朝刊1面で森口氏の「快挙」を大々的に報じたからだ。読売新聞によれば、森口氏らは今年2月、ips細胞から心筋細胞をつくり重症の心不全患者6人に移植する世界初の臨床応用を行ったということだった。しかもこの臨床応用は、ハーバード大の倫理委員会から「暫定承認」を得ており、米国際学会で発表するほか、英ネイチャー・プロトコルズ電子版で近く論文発表する予定だという。
また全国の新聞社などに記事を配信している共同通信も読売新聞と同様の記事を配信し、地方紙何紙かは記事化した。
この件について世界中からハーバード大に問い合わせが殺到したようだ。ハーバード大は真偽を確認したうえで当日「森口氏は1999年から2000年まで(一か月間は)研究員だったが、それ以降、関係はしていない。大学や病院(マサチューセッツ総合病院)も彼に関係するいかなる臨床研究も承認していない」と発表した。
そして肝心の森口氏は、やはり当日ニューヨーク幹細胞財団主催の国際会議に現れず、予定していた研究発表をボイコットした。
こうして森口氏の研究成果に疑問が生じた結果、読売新聞は翌12日付朝刊1面に「ips移植発表中止」の見出しをつけた記事を掲載し、森口氏が発表する予定だった学会会場に現れなかったことや、ハーバード大が森口氏と協力関係にないと表明したことを報じ、さらに同日夕刊ではやはり1面に「事実関係を調査します」という見出しの記事を掲載して事実上誤報であったことを認めた。
実はこの「ビッグニュース」は読売新聞や共同通信が独自の取材活動でつかんだ『特ダネ』ではなかった。朝日新聞や日本経済新聞、毎日新聞にも森口氏はメールで「快挙」を送信しており、各紙はそれぞれ森口氏に面談取材をしていた。たとえば朝日新聞の場合、9月30日に「世界初の人ips細胞の臨床応用」なるメールを受け、同紙記者が10月3日、東大病院の会議室で3時間にわたり面談取材を行っている。
朝日新聞によれば、森口氏の売り込みを記事化しなかった理由は以下のようだ(13日付朝刊社会面)。
「だが(17日か18日に掲載される予定の英科学誌電子版の)論文の共著者はいずれも日本の研究者で、ips細胞の研究者も臨床医もおらず、移植手術の実施場所も明示されていなかった」「(その後)11日の電話取材では、移植手術を実施した共同研究者について『長期休暇中でアフリカでボランティア活動をしていたり、政治的な活動をしていたりなどをしたりしていて、戻ってこられなくなった人もいる。取材には応じられない』などと話した」「最終的に研究データや論文の信頼性は低いと判断し、記事化はしていない」「記者は今年2月にも、東京大病院で森口氏が『自分の研究室だ』と説明した部屋で取材した。6畳ほどの部屋で隅に冷蔵庫のような箱があった。森口氏は『この中にすごいips細胞が入っている』と話した」「朝日新聞は1996,97年に医療経済研究機構調査部長だった森口氏による肝炎の治療効果分析の記事を2本、2002年には東大先端科学技術研究センター特任助教授時代の森口氏の診療報酬改定に異論を唱える投稿を掲載している」
この記事にあるように、朝日新聞は1990年代後半から森口氏の活動に関する記事を、投稿も含めて3本掲載している。おそらく森口氏は朝日新聞と同様読売新聞にも1990年代後半頃から接触を試みてきたと思われる。
では森口氏とはどういう人物だったのか。ウィキペディアによれば彼は医学界において相当な業績を積み重ねてきた堂々たるキャリアの持ち主のようだ。東大や慶応大学の医学部出身者でも彼ほどの実績を誇れる医学者はそういない。彼が「ips臨床応用に成功した」などというウソをつかなければ、一流の医学研究者としての道を歩み続けていたのではないかと想像するに足る人物だった。
森口氏は1964年生まれ。40代半ば過ぎの働き盛りだ。彼は東京医科歯科大学で保健衛生学科看護学を専攻して看護師の資格を取得、卒業後は同大学院に進学して保健学修士号の資格を取得している。修士論文のテーマは「健康診断における異常所見の評価とその予後に関する考察~超音波エコーによる胆のうポリープの自然経過の検討」という、彼が専攻した「看護」の分野を超え「臨床医学」の分野に踏み込んだと言っても差し支えない研究論文を書いている。おそらく森口氏が当初目指していたのは病院で医師の補助的仕事を行う看護師(当時は看護婦と呼ばれていた。ただし看護婦の資格は看護士)ではなく、医学・医療の分野だったのではないかと思われる。
その彼がなぜ東京医科歯科大学で保健衛生学科看護学を専攻したのか。推測の域を出ないが、常識的に考えられることは同大学は国立大学であり、かつ保健衛生学科は医学部に属しながら医学科と異なり学費があまりかからないという事情があった故だったのではないか。朝日新聞は13日付朝刊社会面で森口氏の経歴について「看護師資格、職を転々」という見出しをつけて紹介しているが、この見出しが読者に与える「負の印象」とは全く異なる赫々たるキャリアを彼は重ねてきた。そのキャリアをウィキペディアから転載する。
▰1995年~1999年.財団法人医療経済研究機構主任研究員・調査部長、ハーバ
ード大学メディカルスクール・マサチューセッツ総合病院客員研究員
▰1997年、東京医科歯科大学医学部保健衛生学科非常勤講師(国際看護保健学、
健康情報データベースと統計分析など担当(2009年まで)
▰1998年8月、東京大学先端科学技術研究センター研究員(知的財産権大部門)
(非常勤)
▰1991年11月~2001年1月、マサチューセッツ総合病院胃腸科客員研究員
▰2000年10月、東京大学先端科学技術研究センター客員助教授(非常勤)
▰2002年4月、東京大学先端科学技術研究センター特任助教授(次世代知的財
産戦略研究ユニット、先端医療システム研究)(常勤)
▰2006年、東京大学先端科学技術研究センター特任教授(システム生物医学)(非
常勤)
▰2007年9月、東京大学大学院より、博士号(学術)取得
博士論文題目は「ファーマコゲノミ薬用の難治性C型慢性肝炎治療の最
適化」、主査は児玉龍彦東京大学先端科学技術研究センター教授
▰2010年、東京医科歯科大学教授・薬品メーカーと共同でC型肝炎の予防及び
治療に有用な特許を発明者として提出し、2012年特許公開
▰2010年、東京大学医学部付属病院客員研究員。東京大学先端科学技術研究セ
ンター交流研究員(無給)
▰2012年3月~8月、東京大学附属病院形成外科・美容外科技術補佐員(非常勤)
▰2012年9月~現在、同病院同科で有期契約の特任研究員(常勤)として所属、
研究テーマは「過冷却(細胞)臓器凍結保存技術開発の補助」
これが「看護師」の資格しか持っていない森口氏の研究活動のグラウンドであった。医学・医療の研究者を志す者にとってはまぶしいばかりの経歴ではないか。森口氏が「医師免許を所有している」と虚偽の資格を勤務先に言っていたら、それは「詐称」の犯罪になるが、そういった事実は今のところ明らかになっていない。ということは、これだけの研究歴と研究グラウンドを持ちえたのは、学歴や資格はともかく、研究者としての実力がそれなりに評価されてきたからにほかならないと言っても過言ではない。読売新聞や共同通信の記者がいとも簡単に森口氏の「ips臨床応用に成功した」という虚偽の成果を信じてしまったのはその故だったのかもしれない。
実力や能力の評価はそんなに簡単ではない。私は山中伸弥・京大教授がノーベル賞を受賞したその日、NHKのニュース7でその事実を知り、直後にブログでこう書いた。
「ノーベル賞を受賞した日本人は米国籍の南部陽一氏を含めると山中教授が19人目になる。だが、山中教授の研究業績は、単なる1/19ではない」「ノーベル賞の受賞者は、日本人であろうと外国人であろうと、受賞に値する研究成果を出した人たちである。そういう人たちにケチをつけるつもりは毛頭ない。だが、過去のノーベル受賞の対象になった研究成果に比べても、山中教授の研究成果は突出した数少ない研究の一つと言っても差し支えないと思う」
私がそのブログをノーベル賞受賞のニュースの直後に書いたのは、翌日からマスコミ界を含め日本中が大騒ぎになると思ったからである。実際その通りになったのだが、テレビ各局のインタビューの中で山中教授自らが「実は挫折の連続だった」という自分の過去を語った。山中教授は当初研究者ではなく、外科医を志していた。だが不器用で、いつも同僚から「邪魔中」と揶揄されていたという。
1963年からTBSがアメリカのテレビドラマ『ベン・ケーシー』を放送した。海外の連続テレビドラマとしては空前の大ヒットになり、最高視聴率が50%を超えたこともある。この記録は今も破られていない。正義感が強く、妥協を一切せず、しかし脳外科医としての腕は超一流。まさに理想の医師を主人公にしたドラマだった。
患者が医師に求めるものは何か。的確な判断や処置、薬の処方などいろいろある。やさしさや親切な対応もその中に含まれるだろう。内科系の医師にはそういう要素がとくに求められる。だが、外科医とくに脳外科医や心臓外科医にとって最も必要とされるのは、極端な言い方をすればバカでもチョンでもいい、芸術的な手先の器用さである。どんなに優秀な頭脳の持ち主であっても、手先が不器用な医師の手術は願い下げにしたい、というのが患者や患者の家族の本音である。「邪魔中」と揶揄された山中教授が外科医の道をあきらめていなかったら、患者や患者の家族から「願い下げ」の医師の部類になっていたであろう。そう考えると、山中教授がへたくそな外科医だったことが、世界の医療・創薬に革命を起こす可能性が極めて高い研究を成功させた要因の一つだったということは、ある意味で皮肉な結果でもあった。
私がベン・ケーシーと山中教授の話を書いたのは、どういう仕事にはどういう能力が必要かは、自分がどういう仕事をやりたいかということとは全く無関係だということを明確にするためである。つまり、やりたいということと、やりたいことを実現できる能力を持っているかということとは全く別だということなのである。
そういう視点から読売新聞と共同通信の誤報を考えると、両社ともジャーナリストとして絶対に必要な能力を欠いた記者が取材したとしか考えられない。
ではジャーナリストとして絶対に必要な能力とは何か。取材に際し、いったん頭の中を空っぽにすることである。実際にはそんなことは不可能なのだが、少なくとも空っぽにしようと心がけることである。
もちろん、ジャーナリストがいかなる情報もないのに取材に入るということはありえない。今回の場合、「世界初のips細胞臨床応用に成功」という情報は森口氏側から持ち込まれた。森口氏のマサチューセッツ総合病院客員研究員、東京大学先端科学技術研究センター常勤特任助教授、東京大学大学院で博士号取得、東京大学医学部付属病院客員研究員等々といった華麗な研究者経歴を見ると、森口氏から寄せられた情報には信憑性がかなり高いと思うこと自体は致し方ないと思う。が、それを先入観として残したまま取材に入ると、森口氏の説明内容の不自然さに気付かず、もろに信じ込んでしまうことになる。こうした思い込みを頭の中から排除することが、困難ではあるが、ジャーナリストにとって最大の課題なのだ。ジャーナリストにとって、取材に際しいったん頭の中を空っぽにすることが最も必要とされる能力と書いたのはそういう意味なのである。
森口氏の「快挙」を報じた読売新聞も共同通信も、誤報が明らかになった時点で直ちに謝罪を表明した。共同通信は誤報を認め謝罪記事をマスコミ各社に配信しただけだが、読売新聞は一般人を読者にした新聞社だけに謝罪だけでは済まないと思ったのだろう、12日付夕刊で「事実関係を調査します」と表明した。翌13日付朝刊では検証結果を掲載することを明らかにした。だが、いまだに検証結果は掲載されていない。森口氏がいかにインチキ研究者だったかという記事はしばしば掲載されているが、検証すべきは読売新聞がどうして誤報を防げなかったのかの社内の報道体制のはずだ。
ここまで書いてきた、たった今NHKのニュース7で、東大が森口氏を懲戒解雇処分したことを知った。当然の処分であろう。森口氏自身も「もう研究者としてはやっていけない」と覚悟していたくらいだから、処分は時間の問題だった。あとは東大としては、「この処分で森口問題は解決した」と蓋を閉めてしまわないことだ。勘違いしていけないのは、森口氏が虚偽の研究成果を発表したことと、実際に森口氏が東大医学部や附属病院の特任研究者として研究してきた内容の検証は別個の問題だということだ。もし東大で森口氏が行ってきた研究がいい加減なものだったとしたら、森口氏の懲戒解雇はトカゲのしっぽ切りになってしまう。当然、いい加減な研究を今日まで誰もチェックしていなかったとしたら、東大は研究者や研究内容についての管理システムが全く機能していなかったことを意味する。もしそうだとしたら、森口問題の責任を組織としてどう解明し、森口問題を防げなかった管理体制の徹底的な見直しと、医学部のトップ(医学部長)の責任まで問われなければならない。
同じことが読売新聞や共同通信の場合にも言える。ただ謝罪して済む問題ではない。森口氏に対する追及を、重箱の隅をつつくようにすることが誤報の責任の取り方と考えていたとしたら、マスコミとしての責任感が皆無であると断じざるを得ない。
JR西日本の若い、運転技術が未熟な運転手が起こした尼崎脱線事故。直接の原因は脱線事故を起こした急カーブの現場にATC(自動列車停止装置)が設置されていなかったこととされているが、マスコミ各社はJR西日本の企業体質、安全重視を無視した過密ダイヤ、日勤教育と称する懲罰的社員管理体制などに事故を誘発した要因があると糾弾、事故の重大性もあったがトップを総退陣に追い込んだ。
もちろん森口問題と尼崎脱線事故を同列視するわけではないが、他社には厳しい追及をすることを権利と考え、誤報を防げなかった原因究明をさらなる森口批判にすり替えるようでは、もはやジャーナリズムとしての資格がないと言わざるを得ない。読売新聞や共同通信が行うべき検証は、再び言うが、誤報を防げなかった社内体制の欠陥と、その結果防げなかった誤報についての人的組織的責任を明らかにし、責任を取るべき社員に対する厳しい処分を行い、そのことを紙面で明らかにすることである。
こんな大騒動になったのは、そもそも日本最大の発行部数を誇る読売新聞が11日付朝刊1面で森口氏の「快挙」を大々的に報じたからだ。読売新聞によれば、森口氏らは今年2月、ips細胞から心筋細胞をつくり重症の心不全患者6人に移植する世界初の臨床応用を行ったということだった。しかもこの臨床応用は、ハーバード大の倫理委員会から「暫定承認」を得ており、米国際学会で発表するほか、英ネイチャー・プロトコルズ電子版で近く論文発表する予定だという。
また全国の新聞社などに記事を配信している共同通信も読売新聞と同様の記事を配信し、地方紙何紙かは記事化した。
この件について世界中からハーバード大に問い合わせが殺到したようだ。ハーバード大は真偽を確認したうえで当日「森口氏は1999年から2000年まで(一か月間は)研究員だったが、それ以降、関係はしていない。大学や病院(マサチューセッツ総合病院)も彼に関係するいかなる臨床研究も承認していない」と発表した。
そして肝心の森口氏は、やはり当日ニューヨーク幹細胞財団主催の国際会議に現れず、予定していた研究発表をボイコットした。
こうして森口氏の研究成果に疑問が生じた結果、読売新聞は翌12日付朝刊1面に「ips移植発表中止」の見出しをつけた記事を掲載し、森口氏が発表する予定だった学会会場に現れなかったことや、ハーバード大が森口氏と協力関係にないと表明したことを報じ、さらに同日夕刊ではやはり1面に「事実関係を調査します」という見出しの記事を掲載して事実上誤報であったことを認めた。
実はこの「ビッグニュース」は読売新聞や共同通信が独自の取材活動でつかんだ『特ダネ』ではなかった。朝日新聞や日本経済新聞、毎日新聞にも森口氏はメールで「快挙」を送信しており、各紙はそれぞれ森口氏に面談取材をしていた。たとえば朝日新聞の場合、9月30日に「世界初の人ips細胞の臨床応用」なるメールを受け、同紙記者が10月3日、東大病院の会議室で3時間にわたり面談取材を行っている。
朝日新聞によれば、森口氏の売り込みを記事化しなかった理由は以下のようだ(13日付朝刊社会面)。
「だが(17日か18日に掲載される予定の英科学誌電子版の)論文の共著者はいずれも日本の研究者で、ips細胞の研究者も臨床医もおらず、移植手術の実施場所も明示されていなかった」「(その後)11日の電話取材では、移植手術を実施した共同研究者について『長期休暇中でアフリカでボランティア活動をしていたり、政治的な活動をしていたりなどをしたりしていて、戻ってこられなくなった人もいる。取材には応じられない』などと話した」「最終的に研究データや論文の信頼性は低いと判断し、記事化はしていない」「記者は今年2月にも、東京大病院で森口氏が『自分の研究室だ』と説明した部屋で取材した。6畳ほどの部屋で隅に冷蔵庫のような箱があった。森口氏は『この中にすごいips細胞が入っている』と話した」「朝日新聞は1996,97年に医療経済研究機構調査部長だった森口氏による肝炎の治療効果分析の記事を2本、2002年には東大先端科学技術研究センター特任助教授時代の森口氏の診療報酬改定に異論を唱える投稿を掲載している」
この記事にあるように、朝日新聞は1990年代後半から森口氏の活動に関する記事を、投稿も含めて3本掲載している。おそらく森口氏は朝日新聞と同様読売新聞にも1990年代後半頃から接触を試みてきたと思われる。
では森口氏とはどういう人物だったのか。ウィキペディアによれば彼は医学界において相当な業績を積み重ねてきた堂々たるキャリアの持ち主のようだ。東大や慶応大学の医学部出身者でも彼ほどの実績を誇れる医学者はそういない。彼が「ips臨床応用に成功した」などというウソをつかなければ、一流の医学研究者としての道を歩み続けていたのではないかと想像するに足る人物だった。
森口氏は1964年生まれ。40代半ば過ぎの働き盛りだ。彼は東京医科歯科大学で保健衛生学科看護学を専攻して看護師の資格を取得、卒業後は同大学院に進学して保健学修士号の資格を取得している。修士論文のテーマは「健康診断における異常所見の評価とその予後に関する考察~超音波エコーによる胆のうポリープの自然経過の検討」という、彼が専攻した「看護」の分野を超え「臨床医学」の分野に踏み込んだと言っても差し支えない研究論文を書いている。おそらく森口氏が当初目指していたのは病院で医師の補助的仕事を行う看護師(当時は看護婦と呼ばれていた。ただし看護婦の資格は看護士)ではなく、医学・医療の分野だったのではないかと思われる。
その彼がなぜ東京医科歯科大学で保健衛生学科看護学を専攻したのか。推測の域を出ないが、常識的に考えられることは同大学は国立大学であり、かつ保健衛生学科は医学部に属しながら医学科と異なり学費があまりかからないという事情があった故だったのではないか。朝日新聞は13日付朝刊社会面で森口氏の経歴について「看護師資格、職を転々」という見出しをつけて紹介しているが、この見出しが読者に与える「負の印象」とは全く異なる赫々たるキャリアを彼は重ねてきた。そのキャリアをウィキペディアから転載する。
▰1995年~1999年.財団法人医療経済研究機構主任研究員・調査部長、ハーバ
ード大学メディカルスクール・マサチューセッツ総合病院客員研究員
▰1997年、東京医科歯科大学医学部保健衛生学科非常勤講師(国際看護保健学、
健康情報データベースと統計分析など担当(2009年まで)
▰1998年8月、東京大学先端科学技術研究センター研究員(知的財産権大部門)
(非常勤)
▰1991年11月~2001年1月、マサチューセッツ総合病院胃腸科客員研究員
▰2000年10月、東京大学先端科学技術研究センター客員助教授(非常勤)
▰2002年4月、東京大学先端科学技術研究センター特任助教授(次世代知的財
産戦略研究ユニット、先端医療システム研究)(常勤)
▰2006年、東京大学先端科学技術研究センター特任教授(システム生物医学)(非
常勤)
▰2007年9月、東京大学大学院より、博士号(学術)取得
博士論文題目は「ファーマコゲノミ薬用の難治性C型慢性肝炎治療の最
適化」、主査は児玉龍彦東京大学先端科学技術研究センター教授
▰2010年、東京医科歯科大学教授・薬品メーカーと共同でC型肝炎の予防及び
治療に有用な特許を発明者として提出し、2012年特許公開
▰2010年、東京大学医学部付属病院客員研究員。東京大学先端科学技術研究セ
ンター交流研究員(無給)
▰2012年3月~8月、東京大学附属病院形成外科・美容外科技術補佐員(非常勤)
▰2012年9月~現在、同病院同科で有期契約の特任研究員(常勤)として所属、
研究テーマは「過冷却(細胞)臓器凍結保存技術開発の補助」
これが「看護師」の資格しか持っていない森口氏の研究活動のグラウンドであった。医学・医療の研究者を志す者にとってはまぶしいばかりの経歴ではないか。森口氏が「医師免許を所有している」と虚偽の資格を勤務先に言っていたら、それは「詐称」の犯罪になるが、そういった事実は今のところ明らかになっていない。ということは、これだけの研究歴と研究グラウンドを持ちえたのは、学歴や資格はともかく、研究者としての実力がそれなりに評価されてきたからにほかならないと言っても過言ではない。読売新聞や共同通信の記者がいとも簡単に森口氏の「ips臨床応用に成功した」という虚偽の成果を信じてしまったのはその故だったのかもしれない。
実力や能力の評価はそんなに簡単ではない。私は山中伸弥・京大教授がノーベル賞を受賞したその日、NHKのニュース7でその事実を知り、直後にブログでこう書いた。
「ノーベル賞を受賞した日本人は米国籍の南部陽一氏を含めると山中教授が19人目になる。だが、山中教授の研究業績は、単なる1/19ではない」「ノーベル賞の受賞者は、日本人であろうと外国人であろうと、受賞に値する研究成果を出した人たちである。そういう人たちにケチをつけるつもりは毛頭ない。だが、過去のノーベル受賞の対象になった研究成果に比べても、山中教授の研究成果は突出した数少ない研究の一つと言っても差し支えないと思う」
私がそのブログをノーベル賞受賞のニュースの直後に書いたのは、翌日からマスコミ界を含め日本中が大騒ぎになると思ったからである。実際その通りになったのだが、テレビ各局のインタビューの中で山中教授自らが「実は挫折の連続だった」という自分の過去を語った。山中教授は当初研究者ではなく、外科医を志していた。だが不器用で、いつも同僚から「邪魔中」と揶揄されていたという。
1963年からTBSがアメリカのテレビドラマ『ベン・ケーシー』を放送した。海外の連続テレビドラマとしては空前の大ヒットになり、最高視聴率が50%を超えたこともある。この記録は今も破られていない。正義感が強く、妥協を一切せず、しかし脳外科医としての腕は超一流。まさに理想の医師を主人公にしたドラマだった。
患者が医師に求めるものは何か。的確な判断や処置、薬の処方などいろいろある。やさしさや親切な対応もその中に含まれるだろう。内科系の医師にはそういう要素がとくに求められる。だが、外科医とくに脳外科医や心臓外科医にとって最も必要とされるのは、極端な言い方をすればバカでもチョンでもいい、芸術的な手先の器用さである。どんなに優秀な頭脳の持ち主であっても、手先が不器用な医師の手術は願い下げにしたい、というのが患者や患者の家族の本音である。「邪魔中」と揶揄された山中教授が外科医の道をあきらめていなかったら、患者や患者の家族から「願い下げ」の医師の部類になっていたであろう。そう考えると、山中教授がへたくそな外科医だったことが、世界の医療・創薬に革命を起こす可能性が極めて高い研究を成功させた要因の一つだったということは、ある意味で皮肉な結果でもあった。
私がベン・ケーシーと山中教授の話を書いたのは、どういう仕事にはどういう能力が必要かは、自分がどういう仕事をやりたいかということとは全く無関係だということを明確にするためである。つまり、やりたいということと、やりたいことを実現できる能力を持っているかということとは全く別だということなのである。
そういう視点から読売新聞と共同通信の誤報を考えると、両社ともジャーナリストとして絶対に必要な能力を欠いた記者が取材したとしか考えられない。
ではジャーナリストとして絶対に必要な能力とは何か。取材に際し、いったん頭の中を空っぽにすることである。実際にはそんなことは不可能なのだが、少なくとも空っぽにしようと心がけることである。
もちろん、ジャーナリストがいかなる情報もないのに取材に入るということはありえない。今回の場合、「世界初のips細胞臨床応用に成功」という情報は森口氏側から持ち込まれた。森口氏のマサチューセッツ総合病院客員研究員、東京大学先端科学技術研究センター常勤特任助教授、東京大学大学院で博士号取得、東京大学医学部付属病院客員研究員等々といった華麗な研究者経歴を見ると、森口氏から寄せられた情報には信憑性がかなり高いと思うこと自体は致し方ないと思う。が、それを先入観として残したまま取材に入ると、森口氏の説明内容の不自然さに気付かず、もろに信じ込んでしまうことになる。こうした思い込みを頭の中から排除することが、困難ではあるが、ジャーナリストにとって最大の課題なのだ。ジャーナリストにとって、取材に際しいったん頭の中を空っぽにすることが最も必要とされる能力と書いたのはそういう意味なのである。
森口氏の「快挙」を報じた読売新聞も共同通信も、誤報が明らかになった時点で直ちに謝罪を表明した。共同通信は誤報を認め謝罪記事をマスコミ各社に配信しただけだが、読売新聞は一般人を読者にした新聞社だけに謝罪だけでは済まないと思ったのだろう、12日付夕刊で「事実関係を調査します」と表明した。翌13日付朝刊では検証結果を掲載することを明らかにした。だが、いまだに検証結果は掲載されていない。森口氏がいかにインチキ研究者だったかという記事はしばしば掲載されているが、検証すべきは読売新聞がどうして誤報を防げなかったのかの社内の報道体制のはずだ。
ここまで書いてきた、たった今NHKのニュース7で、東大が森口氏を懲戒解雇処分したことを知った。当然の処分であろう。森口氏自身も「もう研究者としてはやっていけない」と覚悟していたくらいだから、処分は時間の問題だった。あとは東大としては、「この処分で森口問題は解決した」と蓋を閉めてしまわないことだ。勘違いしていけないのは、森口氏が虚偽の研究成果を発表したことと、実際に森口氏が東大医学部や附属病院の特任研究者として研究してきた内容の検証は別個の問題だということだ。もし東大で森口氏が行ってきた研究がいい加減なものだったとしたら、森口氏の懲戒解雇はトカゲのしっぽ切りになってしまう。当然、いい加減な研究を今日まで誰もチェックしていなかったとしたら、東大は研究者や研究内容についての管理システムが全く機能していなかったことを意味する。もしそうだとしたら、森口問題の責任を組織としてどう解明し、森口問題を防げなかった管理体制の徹底的な見直しと、医学部のトップ(医学部長)の責任まで問われなければならない。
同じことが読売新聞や共同通信の場合にも言える。ただ謝罪して済む問題ではない。森口氏に対する追及を、重箱の隅をつつくようにすることが誤報の責任の取り方と考えていたとしたら、マスコミとしての責任感が皆無であると断じざるを得ない。
JR西日本の若い、運転技術が未熟な運転手が起こした尼崎脱線事故。直接の原因は脱線事故を起こした急カーブの現場にATC(自動列車停止装置)が設置されていなかったこととされているが、マスコミ各社はJR西日本の企業体質、安全重視を無視した過密ダイヤ、日勤教育と称する懲罰的社員管理体制などに事故を誘発した要因があると糾弾、事故の重大性もあったがトップを総退陣に追い込んだ。
もちろん森口問題と尼崎脱線事故を同列視するわけではないが、他社には厳しい追及をすることを権利と考え、誤報を防げなかった原因究明をさらなる森口批判にすり替えるようでは、もはやジャーナリズムとしての資格がないと言わざるを得ない。読売新聞や共同通信が行うべき検証は、再び言うが、誤報を防げなかった社内体制の欠陥と、その結果防げなかった誤報についての人的組織的責任を明らかにし、責任を取るべき社員に対する厳しい処分を行い、そのことを紙面で明らかにすることである。