小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

混迷する改憲論議――今こそ憲法を国民の手に取り戻すべき時ではないか。

2013-05-12 11:47:07 | Weblog
 憲法96条改正論議がおかしな方向に進み出した。
 その最大の理由は、二つある。
 一つは言うまでもなく民主、社民、共産などが、96条を改正したら自民は「平和憲法」の9条に手を付けようとするに決まっているという理由で反対しているからだ。自民と連立政権を組む公明ですら、やはり9条を守るという立場から憲法96条の改正に慎重な態度を崩していない。すでに96条改正に賛成を表明している維新やみんなを加えると衆院では3分の2を超える勢力になっているが、参院では維新やみんなが賛成しても3分の2に到底及ばない。この状態を変えないと国会が憲法改正の発議ができない。
 もう一つの大きな理由は、マスコミが政党と同じく96条改正問題と自民の新憲法草案をいっしょくたにして論じているからだ。そして朝日新聞や毎日新聞がそうした立場から反対に回っていることも、国民の判断をおかしな方向に導きかねないことである。賛成派の読売新聞や日本経済新聞、産経新聞も同じ発想で賛成論をぶっており、96条改正=9条改正という議論に結びつきかねない状況にある。
 こうして憲法論議の状況を何とか打開しない限り、国民主権の憲法をつくることができない。
 まず憲法96条は、憲法を改正するための手続きを定めた条文である。憲法の全部ではなく一部でも改正するためにも二重の手続きを踏まなければならないことを定めたのが96条である。
 具体的には、まず衆参両院でそれぞれ改正案について3分の2以上の賛成を得なければ、国会は憲法改正の発議(国民に賛否を問うこと)ができない。このハードルの高さが、日本の憲法は「硬性憲法」と言われるゆえんである。
 戦後日本の政治はほぼ一貫して保守陣営が政権の座についてきた。特に1955年には保守、革新両陣営がそれぞれ合同し(10月に日本社会党が統一、11月に自由民主党が結成)、以来ほぼ一貫して自民党が政権を担ってきた。その自民党は結党以来憲法改正を党是としてきたが、硬性憲法のハードルの高さに行く手を阻まれ、自民党党是はこれまで「夢のまた夢」だった。
 だ、先の総選挙で自民が294と議員総数480の単独過半数を占め、維新54、みんな18を加えた96条改正賛成グループ366は衆議院議員総数の76.25%を占め、3分の2以上というハードルをすでに突破している。が、参議院では自民が84と総数242の約3分の1しかなく、維新やみんなを合わせても100と、過半数にも達しない。そのため今夏の参院選が、がぜん注目を集めることになったのである。しかし参院で3分の2以上の賛成を集めるには3党で162に達しなければならず、そのため自民は慎重派の公明に対する説得や、賛成派が党内に少なくない民主の分裂を画策しているというわけだ。
 確かに自民は憲法96条の憲法改正発議要件を改正した後、9条の見直しを目指していることは間違いない。9条は一言でいうと「不戦条項」である。一般にはこの9条を指して「平和憲法」と解釈している人たちが多いが(マスコミでも朝日新聞や毎日新聞はその立場に立っている)、そう解釈する人(団体)は「平和憲法」なる言葉の定義すらはっきり言って、していない。
 いわゆる市民団体の「憲法9条を守る会」なるものは全国に無数に存在するが、彼らの主張は「戦後、日本が平和だったのは9条のおかげだ」という全く根拠のない非論理的解釈に過ぎない。彼らの主張が正しいとすれば「犯罪を犯したら罰せられる」という法律さえ作っておけば、警察も刑務所も不要なはずだ。
 彼らの主張は非論理的であるだけでなく、より正確に言えば宗教団体の思考法とまったく変わらない。日本の法律は、基本的なことは小学校や中学校でも教えているので、たとえば殺人を犯せば死刑になることもあるとか、万引き(窃盗)すれば警察に捕まるなどと、憲法が保障している自由にも一定の制約があることを学ぶが、日本の憲法9条の「不戦条項」を学校で教えてくれている国が世界に一つでもあるだろうか。「日本にはこういう憲法があるから攻撃してはいけないよ」などといった教育は、最大の同盟国であるアメリカでさえ行っていない。(私のこの指摘によって朝日新聞は最近「平和憲法」という表記はあまり使わなくなったようだ)

 なぜ日本の基地に駐留している米兵だけが、基地周辺で頻繁に性犯罪を起こすのか、彼らは考えたことがあるだろうか。米軍基地は世界の至る所にあるが、どの国の基地でも日本ほど性犯罪は頻発していない。なぜか。日米地位協定のせいでもなければ、アメリカがとくに悪質な兵士を日本の基地に配属しているからでもない。
 はっきりしていることは、もし日本が他国から攻撃を受けたときは米軍兵士は血を流して日本を守る義務があるが、アメリカが攻撃されても日本の自衛隊は知らん顔をする、と 駐留米軍兵士は上官から教えられており、そうしたことに対するストレスがたまりにたまり、何か面白くないことがあって憂さ晴らしの飲酒をした時などに暴発したのではないかと私は思っている。
 私は日本が自国の平和を維持するためにも、また日本が世界の中で占める地位の高さから考えても、世界の平和を守るために応分の貢献を果たす義務があると思う。集団的自衛権を、解釈改憲を無理に無理を重ねて行うのではなく、憲法に明確に盛り込むことで世界平和に貢献する日本の毅然たる姿勢を示すことが、なぜ「平和憲法」の理念に反するのか、私にはまったく理解できない。
 解釈改憲によって、すでに日本は現行憲法に厳密な意味では違反していることは国民が等しく認めるところだ。もし違憲状態でなければ「解釈改憲」ということばが公然と使われることはありえない。現行憲法9条は極めて明確に「戦力の保持と行使」を禁止しているからだ。一応全文を記載しておこう。

  1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の
   発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決す
   る手段としては、永久にこれを放棄する。
  2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
   国の交戦権は、これを認めない。

 この短い条文は、短いがゆえに様々な解釈の余地を残した。この憲法の条文を作成した人たちは、解釈によって将来「戦力の保持と行使」が可能になる余地を意図的に残したのであろうか。実際、この憲法9条の条文を無理に無理を重ねて拡大解釈することで自民党政府は9条を事実上有名無実化してきた。
 現行憲法は連合国による占領下(実質的にはGHQ=連合国軍最高司令官総司令部、総司令官は米ダグラス・マッカーサー元帥)の1946年11月3日に公布され、翌47年5月3から施行され、今日に至っている。
 実は9条をめぐる国会での議論は条文の作成過程からあった。衆議院における審議で日本共産党の野坂参三議員は、侵略戦争と自衛戦争は別だと主張し、「自衛権を放棄すれば民族の独立が危うくなる」と警鐘を鳴らし、共産党は議決にも賛成しなかった。「えっ、ウソ!」と思われる方もいらっしゃると思うが事実である。
 野坂議員だけでなく、自衛権についての議論は国会で避けて通れない問題だった。当時の吉田茂総理は「憲法9条は自衛権も否定しているのではないか」との相次ぐ質問に対し、以下のように答弁している。これが日本政府の最初の公式見解である。
「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定してはおりませぬが、第9条第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」(46年6月26日)
 つまり、自衛のための軍隊は、憲法9条制定時には政府は認めていないのである。その後、なし崩し的に自衛力についての拡大解釈が行われるようになる。54年7月1日の自衛隊設立時における鳩山一郎内閣が定めた定義「第2項のいう『戦力』とは自衛のための必要最小限度を超える実力」が今日に至るまで一応政府の公定解釈とされている。なおあとで詳述するが、日本が国連に加盟を承認されたのは56年12月18日の国連総会によるものであり、国連憲章によって固有の自衛権が国際的に認められたのもその日からである(ただし独立国家が自衛権を有するのは国連憲章によらずとも当然の権利である)。
 では「必要最小限度を超えない実力」の限界はどう定めるのか。57年5月13日の衆院予算委員会における岸信介総理の答弁はこうだ。
「今日核兵器と言われておるところの原水爆やその他これに類似したようなものが、これはその性格から申しましても、もっぱら攻撃的なものでありまして、こんなものを日本が持つということは、これは憲法の自衛権というものの解釈からいってもこれは許せないことであろう。(中略)憲法に核兵器は禁止しておるという私は明文はないと思うのです。ただ自衛権の内容というもの、自衛というもののワクでもって、われわれが持ち得る一つの実力といいますか、力というものは、限定されなければならないというのが私の憲法の議論でございます」(※つまり憲法は核兵器を持つことを禁止していないが、自衛という枠の中で持ちうる戦力は限定されるべきという意)
 その10年後の67年3月31日には佐藤栄作総理が衆院予算委員会で、こう答弁している。具体的に「核兵器」という言葉は使用していないが、自衛力についての以下のような考えを述べている。
「わが国が持ち得る自衛力、これは他国に対して侵略的脅威を与えるようなものであってはならないのであります。これは、いま自衛隊の自衛力の限度だ。かように私理解しておりますので、ただいま言われますように、だんだん強くなっております。これはまた武器等におきましても、地域的な通常兵器による侵略と申しましても、いろいろそのほうの力が強くなっておりますから、それは、これに対応し得る抑止力、そのためには私のほうも整備しておかねばならぬ。かように思っておりますが、その問題とは違って憲法が許しておりますものは、他国に対し侵略的な脅威を与えない。そういうことで、はっきり限度がおわかりいただけるだろうと思います」
 さらにその12年後、79年3月16日、大平正芳総理は衆院本会議において次のように答弁している。
「自衛のために最小限度を超えない実力を保持することは憲法によって禁止されておらない。したがって、自衛のための必要最小限度の範囲を超えることになるものは、通常兵器でありましてもその保有は許されないと解されるのが憲法の精神だろうと思いますが、その精神は、一方、核兵器でございましても、仮に右の範囲内にとどまるものであれば、憲法上はその保有を禁ずるものではないという解釈を政府は取っておりますことはご案内のとおりであります」
 この発言と同時に大平総理は国是としての「非核三原則」を持ち出し、「一切の核兵器を保有し得ないとしていることは言うまでもないところでございます」とも述べている。非核三原則は、米国から返還が決まった小笠原諸島に核兵器が持ち込まれるのではないかとの、67年12月11日の衆院予算委員会における成田知己・社会党委員長の質問に対し、佐藤栄作総理が示した日本は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という国家方針(国是)である。
 しかし沖縄の米軍基地に核兵器が装備されていることは、いわば公然の秘密とも言われている。現在、北朝鮮の核による脅威が現実的になりつつある。もちろん北朝鮮が日本を現在標的にしようとしているわけではないが、あの国のありようから考えて、日本に核の矛先を絶対に向けないという保証はない。「抑止力」としての核について、いまから考えておく必要性は現実的になりつつあると私は思っている。平和志向の理念との整合性を維持することを前提にだが。

 一方、集団的自衛権についてはどうか。
 実は自衛権は、51年9月8日、日本がサンフランシスコ講和条約に調印し、翌52年4月28日に発効して独立を回復、56年に国際連合(国連)に加盟し、国連憲章51条によって国際的に認められた固有の権利である。同条を引用する。
「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響を及ぼすものではない」
 日本が国連に加盟し、国連憲章による権利と制約を受けることを承認した時点で、占領下において定められた憲法9条の制約はいったん消滅し、新たに国連憲章が定めた「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を日本が保有することになったと考えるのが自然であろう。
 過去の世界の歴史を見ても、占領下あるいは植民地下にあった国が、独立を勝ち取った時点で、占領下あるいは植民地下で制定された憲法は無効になり、新たに独立国家としての誇りを持って新憲法を制定するのが当たり前の話である。仮に占領下における憲法を独立後もそのまま維持する場合も、その手続きを法的に整備することは言うまでもなく必要不可欠である。それを怠ったことが、そもそも今日の憲法改正論議が混迷している根っこにあるのだ。

 よく「憲法三原則」と言われる。憲法をどのように改正しようと、三原則は不可侵、というのが日本憲法についての国民共有の基本認識である。その三原則とは、①国民主権 ②基本的人権の尊重 ③平和主義、の三つである。96条改正反対派は、この憲法三原則が脅かされるがごとき主張を繰り返している。
 だが、一体どの政党が、この憲法三原則を否定しようとしているのか。自民党の新憲法草案もこの憲法三原則を尊重していることは、冷静に読めば誤解を招く余地がない(ただし、私は自民党草案のすべてに同意しているわけではない)。96条改正に賛成している維新やみんなも自民党の新憲法草案を支持しているわけではない。とりあえず、憲法三原則の①「国民主権」の憲法にするには、憲法改正手続きを定めた現行憲法96条のハードルが高すぎるから、そのハードルを低くしようという話のはずだ。
 さらに国会での発議のハードルを低くしようというだけで、両院の過半数の賛成で憲法改正案が発議されたとしても、国民の同意(有権者による国民投票で過半数を得ない限り、国会での改正案は否決される)を絶対要件にしている。両院での3分の2以上の賛成がなければ憲法改正の発議ができないというのは、それこそ「国民主権」の否定ではないか。
 各政党は、国会での発議のハードルを低くしたうえで(つまり両院の過半数の賛成で発議できるようにする)、それぞれ憲法三原則を単なる空理空論にとどめるのではなく、憲法三原則を現実的に守れるような条文を考えて国民の信を問えばよい。それが真の民主主義というものだ。またそれが真の意味で「国民主権」を実現する唯一の方法ではないだろうか。