小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

橋下発言なぜ問題になったのか。橋下発言を問題視した側には問題がないのか。

2013-05-17 06:56:14 | Weblog
 橋下徹・日本維新の会共同代表の発言が問題になっている。
 もちろん従軍慰安婦についての発言である。
 確かに歴史的事実としては、間違ったことを言ったわけではない。だが、政治家は事実だからといって、軽々しい発言が許されるわけではない、というイロハのイを橋下氏はまったくご存じないようだ。
 つい最近のブログで「勝てば官軍、負ければ賊軍」の話を書いた。勝者はどんな酷いことをしても咎められることはなく、一方敗者は重箱の隅を突くように有ること無いこと、いつまでも非難される運命にあるのが世の常なのだ。
 ちょっと考えれば、すぐわかることだ。いや、考えなくてもわかることだ。
 たとえばアメリカは、もう戦局が最終的段階に来ていたのに、広島と長崎に原爆を投下した。
 何のためか。
 アメリカは今でも「戦争を早期に終了させるため」「米軍兵士の犠牲を増やさないため」と言い訳しているが、本音は違う。
 日本が降伏してしまうと、原爆の人体実験ができなくなるからだ。だから、日本が降伏する直前に、何が何でも人体実験で原爆の威力を実際に確かめたかったのだ。それが証拠に広島に投下した原爆はウラン型、長崎に投下した原爆はプルトニウム型。つまり二つのタイプの原爆が大都市の壊滅にどの程度の威力を発揮するか、砂漠での地下実験では確かめることができない人体実験を行うのが原爆投下の目的だったのである。そう考えなければ、広島で日本に壊滅的打撃を与えた直後に、わざわざ別のタイプの原爆を長崎に投下した理由の説明がつかない。
 しかし、この世界史的大虐殺人体実験が国際社会から非難されたことはかつてない。アメリカが戦争に勝ったからだ。人体実験の対象にされた日本の政治家も、腹の中ではどう思っているかわからないが、アメリカ政府に面と向かって抗議した人はだれもいない。
 アメリカが戦争で非難されたのは、ベトナム戦争で、ダイオキシンを大量に含んだ枯葉剤散布や、ものすごい高熱で周辺を一瞬で焦土に化したナパーム弾の投下だけである。なぜ枯葉剤散布やナパーム弾投下が問題にされたのか。アメリカが唯一負けた戦争だったからだ。アメリカがベトナム戦争に勝っていれば、うやむやになっていたはずだ。
 しかし負けたため、枯葉剤作戦やナパーム弾作戦が国際的に非難を浴び、以降、枯葉剤作戦は行えなくなり、ナパーム弾作戦も極めて限定された範囲でしか行使できなくなった。極めて限定されたナパーム弾作戦も、まれに投下地点を間違えて少女にやけどを負わせたりすると、たちまち国際的非難を浴びる。
 イギリスが中国に仕掛けたアヘン戦争で、イギリスは国際社会から非難を浴びたことがあるか。もしイギリスが中国に負けていたら、いまでもイギリスは国際社会から非難され続けているだろう。
「勝てば官軍」……勝者はどんなことをしても国際社会から非難を浴びることはない。それが国際社会における政治的原則である。
 一方「負ければ賊軍」……敗者はいつまでも根掘り葉掘り、有ること無いこと非難され続ける。抗弁は許されない。とくに政治家は、いかなるいわれなき非難に対しても抗弁すれば、たちまち国際世論の総攻撃を受ける。当該国(このケースの場合は韓国)からはなおさらだ。
 日本が戦争に負けた途端、政府あるいは軍の責任者の誰かが指令を出したのか、または地方自治体のトップが命じたのか、あるいは自然発生的にそういう状況が発生したのか、私には調べる手段がないが、妙齢の女性たちは米兵が駐留する地域では全員頭を丸刈りにして男装をしたようだ。もちろん米兵によるレイプを防ぐためだ。
 そういうことは今ではほとんど見られないが(インターネットで事実がたちまち世界中に知れ渡ってしまうからだ)、かつてはそういうことが日常茶飯事だった。
 妙な言い方になるかもしれないが、日本軍が従軍慰安婦を公募したのは、日本軍兵士による規律違反のレイプを防止するための方策であったことも、今は事実として明らかになっている。
 かつて読売新聞が調査し、検証して記事にしたことがあるが(いわゆる「河野談話」に関連して)、慰安婦を強制連行したという事実はほとんどなかったという。沖縄の集団自殺にしても、軍(実態はその地区に駐屯していた部隊)が地元住民に集団自殺を命じたケースは2件だけだったことも読売新聞は検証している。
 マスコミは一般に流布されている風評の真偽を明らかにし、検証した結果を公表する権利と責任があるが、政治家がマスコミと同様にふるまうと、おかしな話ではあるが国際世論の総攻撃を受ける。
 実際、当時の日本軍の兵士に対する規律はかなり厳しかったようだ。しかし、現在でも学校の女性教諭が売春したり、警官が万引きしたりする不祥事が絶えることはない。まして戦時下で、公募しても慰安婦の応募が少なかったりした場合、その地区の部隊の兵士の一部(あるいは部隊の責任者の指令もあったと考えられる)が、民家に押し入って妙齢の女性を慰安婦として強制連行したことは事実として間違いなくあったと思う。だが、個々のそういう犯罪をすべて軍の行為として認定してしまうと、では現在も絶えない警察官の不祥事が生じるたびにその警察官が所属する警察署の署長から県警本部長、さらに警察庁長官に至るまでいもづる式に警察組織の犯罪行為として責任を取らなければならなくなってしまう。
「河野談話」の一億総懺悔的謝罪発言は、実はそういうことを意味しているのだ。安倍政府が「河野談話」の見直しをするのは当然である。だが、安倍政府が見直すとしているのは慰安婦公募(あるいは調達と言ってもいいかもしれない)を否定しようとしているわけではなく、「軍の行為として行ったわけではない」ということを検証するという意味だと私は解釈している。一部の部隊や兵士の集団による強制連行があったことも事実として明らかになっており、そうした行為に対して軍の規律が末端まで行き届かなかったことについては謝罪すべきだろうが、「河野談話」についての見直しはそれ以上でもそれ以下でもあってはならないと思う。
 現に日本軍は朝鮮(当時)においてだけ慰安婦を公募していたわけではない。タイヤビルマ(現ミャンマー)などの進駐先でも兵士の性的欲求がレイプのような形で暴発するのを防ぐため慰安婦公募を行っていたはずだ。そして応募者が少なかった場合、一部の部隊や兵士による強制連行もあったと考えて不自然ではない。にもかかわらず、タイヤビルマでは慰安婦問題が生じていないのはなぜか。韓国だけで慰安婦問題が政治化して、いまだに尾を引きずっている意味を冷静に考えてみてほしい。韓国政府の政治的意図が透けて見えてくるはずだ。
 そこを、慰安婦問題を正当化もせず、かといって卑屈にもならず、謝罪すべき点については謝罪し、言いがかり的な要求に対しては毅然として撥ね付ける。安倍総理にはそうしたスタンスで「河野談話」に正面から向かい合ってほしい。
 橋下氏の発言が問題になったのは、確かに事実ではあったが、当時の戦争では当たり前のことだったということをあまりにもあからさまにして慰安婦公募を正当化してしまったことによる。
 橋下氏が、自分が正しいと思うことをそのまま発言してしまうことに、私は従来の政治家には見られない新鮮さを、実は感じている。
 政治家がすべて本音で国民と向かい合える社会が、民主主義政治をさらに成熟させていく道への大きな一歩だとさえ思っている。
 しかし、国民の意識も、政治家の意識も、まだ橋下氏の率直さを好意的に受け止めるところまで成長していない。政治家は、そうした国民の意識のレベルを前提に考え、発言しなければならない。
「敗軍の将、何も語らず」
 という格言もあるではないか。それがいいことだとは私も思わないが、「勝てば官軍、負ければ賊軍」のような価値観が否定され、「敗軍の将、大いに語れる」社会を実現していくための道はまだ遠い。