統一地方選の後半戦がようやく昨日終了した。予想通りというか、予定通りというべきか、有権者の多くがこのバカバカしい選挙にソッポを向き、各地で投票率は史上最低を記録した。なぜ立候補者たちは、いま日本とくに地方が直面している問題から目をそむけ、絶対に効果のない少子化対策のための保育所作りや、絶対に不可能な高齢者福祉の充実といった公約を掲げ続けるのか。
私のブログが立て続けに炎上してしまったため、更新ができず賞味期限切れになってしまった記事が少なくない。この記事も4月初めにワードで書き上げていたのだが、より緊急性を要する問題が生じたため「お蔵入り」していた。が、統一地方選が終わった今、多少加筆して投稿することにした。
政府は4月3日労働基準法の改正案を閣議決定した。法律の改正だから、閣議決定しただけで発効するわけではない。改正案を国会に上程し、衆参予算委員会で集中論議を重ねて可決し本国会で採決を経なければ、いまの段階ではまだ一つの「案」にすぎない。が、野党もメディアも安倍内閣の「案」のデタラメさにまだ気づいていないようなので、この際私が問題点を指摘しておきたい。
閣議決定された「案」は現行の労働基準法で定められている時間外手当(残業や休日出勤などに対する割増賃金)の法律を改正して、労働者が働いた時間の長短に関わらず労働の成果に対して賃金を決めるという「案」だ。
実はこの「案」は約1年ほど前から政府内で浮上していた。メディアも「残業代ゼロ政策」(成果主義賃金制度)として大きく取り上げてきた。私も昨年5月21日から3日間にわたり『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結びつけることができるか』と題したブログで問題点を指摘してきた。
政府が閣議決定したこの「案」は正式に「高度プロフェショナル制度」と命名された。この原案の作成は安倍総理が直々に座長を務めた「産業競争力会議」で昨年つくられたものだ。このときの「案」では、時間外手当を支給しなくてもいい従業員について原則年収1000万円以上の社員を対象とするが、高給取りでなくても労働組合との合意があれば、年収にとらわれず対象に加えてもいいというものだった。ただし、成果主義賃金の受け入れには本人の同意が必要という「救済策」がいちおう盛り込まれていたが、会社vs従業員との力関係を考慮すると、会社側が同意を求めたのに対して従業員は事実上拒めないのではないかという指摘もされていた。この「案」に労働組合側は一斉に「サービス残業が増える」と反発し、メディアも「残業代ゼロ政策」と批判した。
私自身は原則としてこの「案」に賛成してきた。昨年5月21日に投稿した第1回目のブログで私はこう書いた。
「私は基本的に、その方針については賛成である。が、どうして安倍総理はいつも方針(あるいは政策)が中途半端なのだろうか。総理の頭が悪いのか。それとも取り巻きのブレーンの頭が悪いのか。あっ、両方か…」
日本人は優秀だ、と日本人は勝手に思い込んできた。戦後の荒廃から短期間で経済の立て直しに成功し、世界第2位の経済大国にのし上がったからだ(今は中国に抜かれた第3位)。
が、OECD(経済協力開発機構)の調査によれば、2012年度の日本人の労働
生産性は加盟34か国中21位にとどまっている。とりわけショックだったのは先進7か国中に限れば、日本人の労働生産性は19年連続最下位に甘んじているということだ。
なぜ高学歴社会の日本で、労働生産性が低いのか。おそらく机に向かう時間をだらだらと長くすることで、あたかも一生懸命仕事をしているかのように見せかける習慣が日本の労働現場に定着してきたからだろうと思われる。いま大卒でも理系の場合は引く手あまたで、とくに主に工学・技術系の専門教育を行っている5年生の高等専門学校(高専)卒業生の就職率はほぼ100%に達している。いっぽう文系の場合は就職難が続いている。正規社員として就職できずフリーターになったり、非正規社員として不安定な就業生活を送っている若者たちは少なくないはずだ。
なぜ文系大卒者にとって不利な状態が続いているのか。事務系の仕事の多くがIT化されて、ルーチンな仕事はほとんどパソコンが処理してしまうようになったからだろう。その結果、民間企業の事務系社員の採用数が激減してしまった。その救済機関として機能しているのが、事実上役所である。私自身の経験を語る。高齢者ということもあって、高額医療費の還付を受けることがときどきある。たかだか2~3000円の還付金を受け取りに区役所の健康保険課まで出向かなければならない制度になっている。あまりにもバカバカしいので、市長に抗議文をFAXで送りつけた。その一部を転記する。
私は高齢ですから、持病もいろいろ持っています。入院・手術などをした場合は還付金も高額になると思いますが、通常かかる医療費は還付金が生じる場合も少額です。なぜ区役所の職員の仕事を確保するために高齢者が交通費まで自己負担して区役所まで申請に出向かなければならないのでしょうか。
区役所の保険課に電話をして、保険料を自動引き落としにしている銀行口座に振り込んでほしいとお願いしましたが、「できません」の一点張りです。「できない理由」を聞いても「そういう手続きはしていません」という答えしか返ってきませんでした。確かに区民の利便性を優先していたら区役所の職員の仕事が減ります。何が何でも自分たちの仕事量を確保するのが、この制度の本当の目的ですから、口が裂けても本当の理由を区民に教えるわけにはいきませんよね。
で、「では還付金請求は2年間可能だから、2年後私が生きているかどうかは分からないけど、とりあえず少額還付が続く間は申請を保留する。ついては、現在保険金は銀行口座からの自動引き落としにしているが、集金に来てほしい」とお願いしました。ところが係の方は「集金はしていません。集金するということになると、職員を増やさなければならなくなりますし、市民の負担が大き
くなりますからね。自動引き落としを止める場合は銀行かコンビニでのお支払
いになりますが、ご高齢の方のようですからその都度足を運ぶのも大変でしょう」という、大変思いやりのあるご返事をいただきました。
そこまで高齢者に気遣いをしてくださるのなら、なぜ還付申請のために高齢者に足を、銀行やコンビニよりはるかに困難な区役所まで足を運ばせる必要があるのでしょうか。区独自のやり方なのか、市の方針なのかわかりませんが、市長は民間企業の経営を手掛けて来られた経験の持ち主ですからお分かりだと思いますが、民間企業は事務系の仕事をIT化によってどんどん合理化を進めているのに、官公庁(中央も地方も)だけはIT化はするけど職員の仕事の合理化には手を付けないという理由をよくご存じのはずです。
この皮肉たっぷりの抗議文をFAXしてからほったらかしにしていたが、半年ほどたってから還付金支給方法を銀行振り込みに変えてくれた。こんな程度のシステム変更にも半年かけるのが役所という組織なのだ。日本人の労働生産性の低さは、この一例でも証明されたと言えよう。
私自身はすでに述べたように、賃金形態を成果主義に変えることには基本的に賛成である。現在の労働時間を基準にした賃金体系の下では、はっきり言って無能な従業員ほど高額の給料を手にすることができるからだ。たとえば、同じ成果を出すのに有能な従業員なら5時間の労働ですむが、10時間かけなければ同じ成果を出せない無能な従業員は、労働時間が倍になるから労働時間を基準にした賃金体系の下では、有能な従業員よりかえって高給取りになる仕組みになっている。
そういう意味では成果主義(専門的には「裁量労働制)という)を賃金体系の基本にすることによって、有能な人の働く意欲をさらに高め、労働生産性も飛躍的に高まることが考えられる。最近テレビのニュースで見たが、昼寝自由というIT関連の企業の話が紹介された。社長の話では「眠いのに目をこすりながら机に向かっても、仕事の能率は上がらないしミスも犯しやすくなる。ちょっと昼寝をすれば、頭も活性化するし、かえって仕事の能率は上がる。アイディアも出やすくなる」というのが目的らしい。従業員が昼寝をしやすいように、椅子もリクライニングに変えたという。
私がシアトル郊外にあるマイクロソフトの本社を取材で訪問したことがある。ビル・ゲイツをはじめ幹部数人へのインタビューが目的だったが、驚いた風景を見た。まだ勤務時間内なのに、広々とした芝生の庭で多くの社員が、中には歓談したり、本を読んだり、昼寝をしたりしていた。私はマイクロソフトのやり方にはかなり手厳しい批判もしてきたが、ここまで徹底して裁量労働制を採用していることには「さすがに」と感嘆した。
マイクロソフトの従業員はすべて個室を与えられており、周囲の雑音に気をとられることなく精神を集中して仕事ができるようにしている。いちおう個室のドアはすべてオープンにしており閉塞感が生じないように気を遣ってはいるが、それでも孤独な環境になりがちだ。解放感に浸りたくなったり、アイディアに行き詰まったりした時、芝生の庭で寝転んで空を見上げて雑念を追い払うのも効果的だと思う。同僚と雑談するのも、気がまぎれるし、雑談の中からアイディアのヒントが得られるかもしれない。
成果主義賃金は、このように「同一労働・同一賃金」制度をベースにしないと本当の効果は生まれない。賃金の支給基準を年齢や学歴、性別、労働時間などをベースにした年功序列体系を持続させたままで導入しても、逆効果になりかねない。だから安倍さんのやり方は中途半端だと私は言うのだ。
翻って、これからの日本をどうやって支えていくのかを考えても、思い切って賃金体系を年功序列型から同一労働同一賃金型に大転換する必要があると私は思う。それが辺野古移設問題ではないが、「唯一の解決策」ではないか。
私は今年、後期高齢者の仲間に入る。私たちの世代は高度経済成長時代、低賃金で必死に働き、2階で年金生活をしていた高齢者たちの生活を支えてきた。その私たちの世代が、今2階に上がり年金生活を送っている。私たち世代は、現役時代に2階に住んでいた高齢者の生活を支えてきただけに、そういう意味では私たちの世代は1階に住む現役世代の人たちに支えられ、悠々自適の生活を送れる権利がある、はずだ。
が、現実は厳しい。1階の現役世代が2階の高齢者の生活を支えきれない状態になっているからだ。その理由は二つある。一つは高度成長時代と異なり、現役世代の収入が2階の住民を支えられるだけの余裕がなくなりつつあること。もう一つは、医学の進歩などによって日本人の高齢化が進み、2階の住民が増えすぎたことによる。はっきり言えば「定員オーバー」だ。
さらに深刻なのは、まだ1階に上がっていない地下の住民が減少していることだ。いま1階で、何とか2階の住民である私たち高齢者の生活を支えてくれている現役世代も、いずれは2階の住民になる。そのとき、地下に住んでいる子供たちが1階に上がり、現役世代になったとき、果たして2階の高齢者の生活を支えることができるだろうか。絶対に不可能だ。政治が、そしてメディアは、その逃れようのない現実からの逃避をいつまで続けるのか。
すでに述べたように、私は今年後期高齢者の仲間入りをする。その私が言うのだ。高齢者が、自ら権利を放棄しない限り、日本の将来はない、と。日本は
すでに人口の減少時代に突入してから4年になる。高齢者の寿命が延びながら人口が減少しているということは、日本の高齢化は幾何級数的に進むことを意味している。日本の少子化には、どうやっても歯止めはかけられない。
厚労省の調査によれば、合計特殊出生率(一人の女性が一生の間に産む子供の数)は、地域の人口に反比例して減少している。ブロックごとの出生率は、沖縄・九州・東北が高く、南関東・北海道・近畿が低い。人口が多い地域ほど出生率は低くなる傾向が明確であり、特に東京都23区においてはすべての区で出生率の単純平均は1を割り込んでいる。
政令指定都市の中でも東京都に続いて出生率が低かった横浜市は10年ほど前から出生率を高めるための実験を行ってきた。保育所を増設して、母親の育児環境を整備することにしたのである。そしていったん、待機児童ゼロを達成した。その結果、出生率は高まったか。横浜市が公表しているデータによれば、2010年の出生率1.30が13年には1.31と0.1ポイント増えた。その間、全国平均は1.39から1.43に0.4ポイント増えている。横浜市が10年かけて行った「待機児童ゼロによる出生率向上作戦」は成功したと言えるのか。なお、子供一人増やすために必要なコストは全国平均で2,780万円かかるという(厚労省の試算)。私は、横浜市の壮大な実験は失敗に終わったと考えている。待機児童ゼロ作戦のために投じた税金は、もっと別のことに使うべきだったのではないだろうか。
いずれにせよ、保育所の増設は出生率向上には何の役にも立たなかったという現実を、政治家やメディアはなぜ明らかにしないのか。もちろん、育児環境の整備によって、女性の社会進出の機会が増えたという効果を私は否定しているわけではない。いかなる政策もメリットもあればデメリットもある。が、政策はやみくもに行うものではなく、ある目的を達成するために行われる。その目的とは別の結果が生じたのなら、その是非は改めて市民や国民に問うべきだろう。言っておくが、女性の社会進出の機会が増えれば増えるほど、出生率はかえって低下するだろうことは子供でも分かりそうなものだが…。現に、女性の社会進出の機会が日本より多い欧米では、白人系女性の出生率は激減し、黒人系やアラブ系、アジア系移民の女性の出生率だけが増えている。
私は女性の社会進出を否定するわけではない。女性であろうと男性であろうと、国民一人ひとりが自分の能力を社会のために活かせる社会になることはいいことだと思っている。が、安倍政権が掲げる女性が輝く社会の建設と出生率の向上は、絶対に両立しえない二兎を追う行為だという真実を、国民に明らかにするのが政治であり、メディアの使命ではないのか。
二兎を追うことが不可能なら、日本の国づくりをどう進めるべきかを改めて国民に問うべきではないか。
少子高齢化とひとくくりにして言われるが、少子化と高齢化は切り離して対策を考えるべきだと私は考えている。
少子化に歯止めがかけられないなら、高齢化対策に政策の軸足を移さなければならない。いま、政府は高齢化対策として年金を減らし、高齢者の健康保険負担を増加させようとしている。昨年4月から前期高齢者の健康保険負担を2割に増やした。やり方が間違っている、と私は考える。
テレビのニュースで見ていると、統一地方選の候補者たちはいずれも「高齢者福祉の充実」を訴えている。私には中身が空っぽの「玉手箱」をばらまこうとしているようにしか見えない。高齢者福祉を充実させるための財源をどうするのかを考えずに、ひたすら高齢者の票を獲得せんがための空約束でしかないからだ。いつまで有権者も、そうした空っぽの「玉手箱」に期待して投票してしまうのか。アリストテレスやプラトンが、あの世で「そら、見たことか」と腹を抱えて笑っているのが目に見えるようだ。
これからの日本を考えると解決策はこの方法を実行するしかない。
ひとつは、中途半端ではあるが、安倍政権が発足したとき、私がブログで提案したことの一部はすでに行われているが、それを徹底することだ。当時私がブログで提案したのは贈与税と相続税の関係をひっくり返して、贈与税を軽減化し、反対に相続税を重くすることだった。なぜそんな提案をしたのか。
私の周りにもいっぱいいるが、大金をため込んでいる高齢者はカネを増やすことしか考えず、消費に回して日本経済の活性化に寄与しようなどとは考えていないからだ。裕福な高齢者はすでに必要なものはすべて持っており、消費に回すカネはせいぜいゴルフくらいだ。ついでにゴルフ利用税は70歳になるとかからなくなるが、その目的は健康増進のために制度化されたと思うが、いまどきゴルフに興じることができる高齢者はかなりの富裕層だから、むしろガッポガッポ税金をとったほうがいい。その代わり、本当に健康増進のためにスポーツジムなどに通っている高齢者に対しては、何らかの支援策を考えるべきだと思う。スポーツジムの会員会費など月額で1万円そこそこでしかない。
ちょっと話が横道にそれたが、要は「死にカネ」を「生きカネ」に変えることが私の提案の狙いで、相続税を高くして贈与税を軽減化すれば、高齢者の富裕層は子供や孫にどんどん贈与するようになる。現役世代や子供たちは欲しいものがたくさんあるから、「死にカネ」が一気に「生きカネ」に代わる。安倍内閣も多少、そうした考え方をするようになっているが、私に言わせればまだまだ中途半端だ。相続税を重くしたことは無条件に支持できるが、贈与税の軽減化には孫の教育費とか子供が家を購入することに限定している。それでは贈与したカネは学習塾や不動産業者にしか渡らない。従来の税制の考え方にとらわれているからだ。
現在の税制では贈与税は贈与した側に、相続税は相続を受けた側にかかるようになっている。そのシステムを変えなければならない。贈与税も相続税と同様、贈与を受けた側にかけるようにしたら、贈与税の軽減化に使途条件を付ける必要もなくなる。いずれにしても、「死にカネ」が「生きカネ」となって市中に出回って消費を刺激しない限り、円安によって自動車や電気など輸出大メーカーは史上空前の利益を計上できても、円安による物価高は消費者とくに高齢者の生活を直撃しており、消費者に景気回復の実感がわかないのは当然である。
次に日本経済が抱えている構造的問題、すなわち少子高齢化にどう政策的に立ち向かうかである。少子化に歯止めをかけられないなら(※少子化は移民の多い国を除いて先進国共通の現象である)、高齢化に歯止めをかけるしかない。
もちろん年齢の上限を決め、上限年齢に達したら強制的に安楽死させるなどといった非人道的な方法は採れない。健康保険制度を「改悪」するしか方法はない。これこそ少子高齢化問題を解決する「唯一の解決策」である。
実は、この構想は少子高齢化が社会問題に浮上し始めたころから、ひそかに温めてきたアイディアである。が、社会がこのアイディアを受け入れざるを得ない状況に達するまでは公表するつもりはなかった。「何でも平等」が日本型民主主義であると国民が信じ込んでいる間は、猛烈な反発を食うだろうと思われたからだ。が、時代が変われば民主主義の概念も微妙に変化していく。私は最近メディアの方たちや遊び仲間たちに、このアイディアをぶつけ始めた。数年前は反発する人たちが多かったが、最近はむしろ賛成してくれる人のほうが多くなってきた。そのため公表することにした。
私は少子高齢化問題の対策は健康保険制度の「改悪」しかない、と書いた。それが「唯一の解決策である」とも。
具体的には、年金生活に入った人たちには健康保険をすべて1割負担にする。ただし年金受給年齢に達した人でも収入が現役世代並みにある方は現役世代と同様3割負担をしてもらう。
が、ここが味噌なのだが、健康保険医療の1割負担の方たちの保険適用医療範囲を思い切って限定してしまう。医療費が高額の高度先進医療は保険適用外とする。一方、3割負担の方たちには高度医療は出来るだけ保険を適用するようにして、現役世代や若い人たちが高度医療技術の恩恵を受けられるようにする。ただし、1割負担の高齢者が高度医療を受ける場合は、自己負担を原則としながらも何らかの形で支援策を講じる。たとえば国か地方自治体が医療費の3割を援助するといった方法を考えてもいい。またアメリカの保険会社のように、掛け金に応じて高度医療費を保険会社が負担する制度を導入するのもいい。収入は年金しかないが、カネはたくさん持っているという富裕層は、高度医療を受けるために高い保険料を支払っても医療保険に加入するだろうし、それは自由だ。
もう一つ、延命治療は年齢にかかわらず、すべて保険適用の対象外とする。人間の尊厳を失い、回復の見込みがきわめて少ない場合は、破綻に瀕している
保険財源の負担を少しでも軽減化するために延命治療はすべて自己負担にすべきだと思う。医師会など医療関係者は猛反対するだろうが、すべての国民が平等に保健医療の適用を受けられる時代は終わった。健康保険制度そのものが破綻に瀕しているからだ。
最近日本の医療技術は世界をリードするまでになった。まだ実験室の中ではあるが…。京都大学の山中伸也教授が作り出したips細胞は世界に医療革命をもたらす可能性を秘めている。世界中で一斉によーいドンで研究開発競争が始まっている。が、ips医療が実際に実用化段階に入ったとき、日本がいまの保険制度を継続する限り、研究の主導権はアメリカに奪われてしまうだろう。実用化段階に入ったとき、ips医療の実施にどれくらいの金がかかるのかはまだ不明だが、相当高額になるだろうことはほぼ間違いないと思われる。日本の健康保険制度でips医療を保険対象医療にすれば、健康保険料をかなり引き上げる必要が生じる。国民がその負担増に耐えられるか。同一労働同一賃金の原則を導入しない限り、若い人たちとくに非正規社員やフリーターにとっては耐えきれなくなるのは目に見えている。
アメリカは一応「オバマケア」が導入されたが、きわめて不評らしい。「何でも自由」「何でも自己責任」というのも困るが、健康の維持は基本的に自己責任というアメリカ社会の大原則からすれば、そうした責任を果たそうとしない人たちまで保険で救済するのはいかがなものか、と多くのアメリカ人は考えているようだ。確かに難しい問題だが、日本がアメリカ人の健康保険の考え方に口を挟むべきでもない。
もしips医療が日本では保険適用外医療となったら、ips医療に携わる研究者たちは一斉に海の向こうに移ってしまうだろう。せっかく世界のトップレベルに達した日本の医療研究は途絶してしまうことになる。日本はこれまで医療関係の研究開発では、常にアメリカやヨーロッパの後塵を排してきた。日本人研究者の能力が低かったためではない。日本の「国民皆保険制度」が高度な医療関係の研究開発者の研究意欲をそいできたからだ。いくら研究しても、日本では高度で高額な医療費がかかる医療や医療機器は保険対象にならない限り市場が生まれないからだ。自由診療が原則だったアメリカでは、新しい医療技術や高度医療機器の市場が一気に生まれる。高度医療に限らず、市場が生まれないところに研究開発の芽が育たないのは当り前だ。
せっかく日本から生まれた医療革命の芽が、日本で育てられなかったら、それこそ日本人の恥だ。国際社会から「アホな国だ」と冷たい目で見られるようになるだろう。そうならないためにも、混合医療への転換と健康保険制度の見直しは絶対に不可欠だ。医師会などビジネスとして医療を行う側からは、「国民皆保険制度を守れ」の大合唱が続いているが、自分たちの仕事と優雅な生活を守るためのきれいごとにしか、私の耳には聞こえない。
私は安倍政権の政策に反対することがしばしばあるが、何でもかんでも反対
しているわけではない。まだブログでは書いていないが、農業政策の大転換には大賛成だ。妥協せずに、日本の農業を本当に強くするためにあらゆる努力をしていただきたいと考えている。実際私は1991年11月に青春出版社から上梓した『日本が欺(あざむ)く米 ブッシュが狙うコメ』と題する本で日本の農政を批判し、日本の農業を強くするためには保護をやめる以外に方法がないと主張している。ヨーロッパには「獅子は子を千尋の谷につき落とす」ということわざがあり、日本にも「可愛い子には旅をさせよ」ということわざがある。いずれも、過保護は子のためにならないという教えだ。同様に農業を強くするには、過保護を止める以外にない。過保護を続ける限り、日本の農業は先細りするだけだ。自民党にとって大きな票田のひとつである農業団体を敵に回してでも農政の転換を図ろうとしている安倍農業改革政策には、私はもろ手を挙げて支持したい。ただ、やるなら徹底的にやるべきだ。中途半端が一番よくない。「虻蜂取らず」ということわざが当てはまらないことを期待したい。
安倍農業改革にとって幸いなことは、突然火を噴きだした海外の日本食ブームだ。円安で海外からの観光客が急増し、日本食の素晴らしさを実感したのが、海外での日本食ブームを呼んだらしいが、おかしな日本食が海外に出回らないように、政府が海外におけるホンモノの日本食店に何らかの方法で「お墨付き」を与えることも考えた方がいい。いたずらに「日本食」を名乗る日本食店がアメーバ―のように広がると、かえってマイナスになる。そうなってしまってからでは、取り返しがつかない。いま直ちに政府は本物の日本食店の海外展開を後押しする方策を講じるべきだと思う。
少子高齢化問題を論じる予定だったが、話が横道にそれすぎたし、またブログも長くなりすぎた。何か中途半端な終わり方で申し訳なかったが、今回のブログはこれで終える。「走りながら考える」という言葉があるが、私はその典型で、「何を書くか」というテーマだけ決めたら「どう書くか」は書きながら考える習性がある。そのため話がしばしば横道にそれる。読者にはご迷惑をおかけすることになるが、わき道にそれた話も本筋からつながる大切な話なので、あえて削除せずにそのまま掲載することにしている。いずれ安倍農業改革については本格的な検証をしたいと思っている。
私のブログが立て続けに炎上してしまったため、更新ができず賞味期限切れになってしまった記事が少なくない。この記事も4月初めにワードで書き上げていたのだが、より緊急性を要する問題が生じたため「お蔵入り」していた。が、統一地方選が終わった今、多少加筆して投稿することにした。
政府は4月3日労働基準法の改正案を閣議決定した。法律の改正だから、閣議決定しただけで発効するわけではない。改正案を国会に上程し、衆参予算委員会で集中論議を重ねて可決し本国会で採決を経なければ、いまの段階ではまだ一つの「案」にすぎない。が、野党もメディアも安倍内閣の「案」のデタラメさにまだ気づいていないようなので、この際私が問題点を指摘しておきたい。
閣議決定された「案」は現行の労働基準法で定められている時間外手当(残業や休日出勤などに対する割増賃金)の法律を改正して、労働者が働いた時間の長短に関わらず労働の成果に対して賃金を決めるという「案」だ。
実はこの「案」は約1年ほど前から政府内で浮上していた。メディアも「残業代ゼロ政策」(成果主義賃金制度)として大きく取り上げてきた。私も昨年5月21日から3日間にわたり『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結びつけることができるか』と題したブログで問題点を指摘してきた。
政府が閣議決定したこの「案」は正式に「高度プロフェショナル制度」と命名された。この原案の作成は安倍総理が直々に座長を務めた「産業競争力会議」で昨年つくられたものだ。このときの「案」では、時間外手当を支給しなくてもいい従業員について原則年収1000万円以上の社員を対象とするが、高給取りでなくても労働組合との合意があれば、年収にとらわれず対象に加えてもいいというものだった。ただし、成果主義賃金の受け入れには本人の同意が必要という「救済策」がいちおう盛り込まれていたが、会社vs従業員との力関係を考慮すると、会社側が同意を求めたのに対して従業員は事実上拒めないのではないかという指摘もされていた。この「案」に労働組合側は一斉に「サービス残業が増える」と反発し、メディアも「残業代ゼロ政策」と批判した。
私自身は原則としてこの「案」に賛成してきた。昨年5月21日に投稿した第1回目のブログで私はこう書いた。
「私は基本的に、その方針については賛成である。が、どうして安倍総理はいつも方針(あるいは政策)が中途半端なのだろうか。総理の頭が悪いのか。それとも取り巻きのブレーンの頭が悪いのか。あっ、両方か…」
日本人は優秀だ、と日本人は勝手に思い込んできた。戦後の荒廃から短期間で経済の立て直しに成功し、世界第2位の経済大国にのし上がったからだ(今は中国に抜かれた第3位)。
が、OECD(経済協力開発機構)の調査によれば、2012年度の日本人の労働
生産性は加盟34か国中21位にとどまっている。とりわけショックだったのは先進7か国中に限れば、日本人の労働生産性は19年連続最下位に甘んじているということだ。
なぜ高学歴社会の日本で、労働生産性が低いのか。おそらく机に向かう時間をだらだらと長くすることで、あたかも一生懸命仕事をしているかのように見せかける習慣が日本の労働現場に定着してきたからだろうと思われる。いま大卒でも理系の場合は引く手あまたで、とくに主に工学・技術系の専門教育を行っている5年生の高等専門学校(高専)卒業生の就職率はほぼ100%に達している。いっぽう文系の場合は就職難が続いている。正規社員として就職できずフリーターになったり、非正規社員として不安定な就業生活を送っている若者たちは少なくないはずだ。
なぜ文系大卒者にとって不利な状態が続いているのか。事務系の仕事の多くがIT化されて、ルーチンな仕事はほとんどパソコンが処理してしまうようになったからだろう。その結果、民間企業の事務系社員の採用数が激減してしまった。その救済機関として機能しているのが、事実上役所である。私自身の経験を語る。高齢者ということもあって、高額医療費の還付を受けることがときどきある。たかだか2~3000円の還付金を受け取りに区役所の健康保険課まで出向かなければならない制度になっている。あまりにもバカバカしいので、市長に抗議文をFAXで送りつけた。その一部を転記する。
私は高齢ですから、持病もいろいろ持っています。入院・手術などをした場合は還付金も高額になると思いますが、通常かかる医療費は還付金が生じる場合も少額です。なぜ区役所の職員の仕事を確保するために高齢者が交通費まで自己負担して区役所まで申請に出向かなければならないのでしょうか。
区役所の保険課に電話をして、保険料を自動引き落としにしている銀行口座に振り込んでほしいとお願いしましたが、「できません」の一点張りです。「できない理由」を聞いても「そういう手続きはしていません」という答えしか返ってきませんでした。確かに区民の利便性を優先していたら区役所の職員の仕事が減ります。何が何でも自分たちの仕事量を確保するのが、この制度の本当の目的ですから、口が裂けても本当の理由を区民に教えるわけにはいきませんよね。
で、「では還付金請求は2年間可能だから、2年後私が生きているかどうかは分からないけど、とりあえず少額還付が続く間は申請を保留する。ついては、現在保険金は銀行口座からの自動引き落としにしているが、集金に来てほしい」とお願いしました。ところが係の方は「集金はしていません。集金するということになると、職員を増やさなければならなくなりますし、市民の負担が大き
くなりますからね。自動引き落としを止める場合は銀行かコンビニでのお支払
いになりますが、ご高齢の方のようですからその都度足を運ぶのも大変でしょう」という、大変思いやりのあるご返事をいただきました。
そこまで高齢者に気遣いをしてくださるのなら、なぜ還付申請のために高齢者に足を、銀行やコンビニよりはるかに困難な区役所まで足を運ばせる必要があるのでしょうか。区独自のやり方なのか、市の方針なのかわかりませんが、市長は民間企業の経営を手掛けて来られた経験の持ち主ですからお分かりだと思いますが、民間企業は事務系の仕事をIT化によってどんどん合理化を進めているのに、官公庁(中央も地方も)だけはIT化はするけど職員の仕事の合理化には手を付けないという理由をよくご存じのはずです。
この皮肉たっぷりの抗議文をFAXしてからほったらかしにしていたが、半年ほどたってから還付金支給方法を銀行振り込みに変えてくれた。こんな程度のシステム変更にも半年かけるのが役所という組織なのだ。日本人の労働生産性の低さは、この一例でも証明されたと言えよう。
私自身はすでに述べたように、賃金形態を成果主義に変えることには基本的に賛成である。現在の労働時間を基準にした賃金体系の下では、はっきり言って無能な従業員ほど高額の給料を手にすることができるからだ。たとえば、同じ成果を出すのに有能な従業員なら5時間の労働ですむが、10時間かけなければ同じ成果を出せない無能な従業員は、労働時間が倍になるから労働時間を基準にした賃金体系の下では、有能な従業員よりかえって高給取りになる仕組みになっている。
そういう意味では成果主義(専門的には「裁量労働制)という)を賃金体系の基本にすることによって、有能な人の働く意欲をさらに高め、労働生産性も飛躍的に高まることが考えられる。最近テレビのニュースで見たが、昼寝自由というIT関連の企業の話が紹介された。社長の話では「眠いのに目をこすりながら机に向かっても、仕事の能率は上がらないしミスも犯しやすくなる。ちょっと昼寝をすれば、頭も活性化するし、かえって仕事の能率は上がる。アイディアも出やすくなる」というのが目的らしい。従業員が昼寝をしやすいように、椅子もリクライニングに変えたという。
私がシアトル郊外にあるマイクロソフトの本社を取材で訪問したことがある。ビル・ゲイツをはじめ幹部数人へのインタビューが目的だったが、驚いた風景を見た。まだ勤務時間内なのに、広々とした芝生の庭で多くの社員が、中には歓談したり、本を読んだり、昼寝をしたりしていた。私はマイクロソフトのやり方にはかなり手厳しい批判もしてきたが、ここまで徹底して裁量労働制を採用していることには「さすがに」と感嘆した。
マイクロソフトの従業員はすべて個室を与えられており、周囲の雑音に気をとられることなく精神を集中して仕事ができるようにしている。いちおう個室のドアはすべてオープンにしており閉塞感が生じないように気を遣ってはいるが、それでも孤独な環境になりがちだ。解放感に浸りたくなったり、アイディアに行き詰まったりした時、芝生の庭で寝転んで空を見上げて雑念を追い払うのも効果的だと思う。同僚と雑談するのも、気がまぎれるし、雑談の中からアイディアのヒントが得られるかもしれない。
成果主義賃金は、このように「同一労働・同一賃金」制度をベースにしないと本当の効果は生まれない。賃金の支給基準を年齢や学歴、性別、労働時間などをベースにした年功序列体系を持続させたままで導入しても、逆効果になりかねない。だから安倍さんのやり方は中途半端だと私は言うのだ。
翻って、これからの日本をどうやって支えていくのかを考えても、思い切って賃金体系を年功序列型から同一労働同一賃金型に大転換する必要があると私は思う。それが辺野古移設問題ではないが、「唯一の解決策」ではないか。
私は今年、後期高齢者の仲間に入る。私たちの世代は高度経済成長時代、低賃金で必死に働き、2階で年金生活をしていた高齢者たちの生活を支えてきた。その私たちの世代が、今2階に上がり年金生活を送っている。私たち世代は、現役時代に2階に住んでいた高齢者の生活を支えてきただけに、そういう意味では私たちの世代は1階に住む現役世代の人たちに支えられ、悠々自適の生活を送れる権利がある、はずだ。
が、現実は厳しい。1階の現役世代が2階の高齢者の生活を支えきれない状態になっているからだ。その理由は二つある。一つは高度成長時代と異なり、現役世代の収入が2階の住民を支えられるだけの余裕がなくなりつつあること。もう一つは、医学の進歩などによって日本人の高齢化が進み、2階の住民が増えすぎたことによる。はっきり言えば「定員オーバー」だ。
さらに深刻なのは、まだ1階に上がっていない地下の住民が減少していることだ。いま1階で、何とか2階の住民である私たち高齢者の生活を支えてくれている現役世代も、いずれは2階の住民になる。そのとき、地下に住んでいる子供たちが1階に上がり、現役世代になったとき、果たして2階の高齢者の生活を支えることができるだろうか。絶対に不可能だ。政治が、そしてメディアは、その逃れようのない現実からの逃避をいつまで続けるのか。
すでに述べたように、私は今年後期高齢者の仲間入りをする。その私が言うのだ。高齢者が、自ら権利を放棄しない限り、日本の将来はない、と。日本は
すでに人口の減少時代に突入してから4年になる。高齢者の寿命が延びながら人口が減少しているということは、日本の高齢化は幾何級数的に進むことを意味している。日本の少子化には、どうやっても歯止めはかけられない。
厚労省の調査によれば、合計特殊出生率(一人の女性が一生の間に産む子供の数)は、地域の人口に反比例して減少している。ブロックごとの出生率は、沖縄・九州・東北が高く、南関東・北海道・近畿が低い。人口が多い地域ほど出生率は低くなる傾向が明確であり、特に東京都23区においてはすべての区で出生率の単純平均は1を割り込んでいる。
政令指定都市の中でも東京都に続いて出生率が低かった横浜市は10年ほど前から出生率を高めるための実験を行ってきた。保育所を増設して、母親の育児環境を整備することにしたのである。そしていったん、待機児童ゼロを達成した。その結果、出生率は高まったか。横浜市が公表しているデータによれば、2010年の出生率1.30が13年には1.31と0.1ポイント増えた。その間、全国平均は1.39から1.43に0.4ポイント増えている。横浜市が10年かけて行った「待機児童ゼロによる出生率向上作戦」は成功したと言えるのか。なお、子供一人増やすために必要なコストは全国平均で2,780万円かかるという(厚労省の試算)。私は、横浜市の壮大な実験は失敗に終わったと考えている。待機児童ゼロ作戦のために投じた税金は、もっと別のことに使うべきだったのではないだろうか。
いずれにせよ、保育所の増設は出生率向上には何の役にも立たなかったという現実を、政治家やメディアはなぜ明らかにしないのか。もちろん、育児環境の整備によって、女性の社会進出の機会が増えたという効果を私は否定しているわけではない。いかなる政策もメリットもあればデメリットもある。が、政策はやみくもに行うものではなく、ある目的を達成するために行われる。その目的とは別の結果が生じたのなら、その是非は改めて市民や国民に問うべきだろう。言っておくが、女性の社会進出の機会が増えれば増えるほど、出生率はかえって低下するだろうことは子供でも分かりそうなものだが…。現に、女性の社会進出の機会が日本より多い欧米では、白人系女性の出生率は激減し、黒人系やアラブ系、アジア系移民の女性の出生率だけが増えている。
私は女性の社会進出を否定するわけではない。女性であろうと男性であろうと、国民一人ひとりが自分の能力を社会のために活かせる社会になることはいいことだと思っている。が、安倍政権が掲げる女性が輝く社会の建設と出生率の向上は、絶対に両立しえない二兎を追う行為だという真実を、国民に明らかにするのが政治であり、メディアの使命ではないのか。
二兎を追うことが不可能なら、日本の国づくりをどう進めるべきかを改めて国民に問うべきではないか。
少子高齢化とひとくくりにして言われるが、少子化と高齢化は切り離して対策を考えるべきだと私は考えている。
少子化に歯止めがかけられないなら、高齢化対策に政策の軸足を移さなければならない。いま、政府は高齢化対策として年金を減らし、高齢者の健康保険負担を増加させようとしている。昨年4月から前期高齢者の健康保険負担を2割に増やした。やり方が間違っている、と私は考える。
テレビのニュースで見ていると、統一地方選の候補者たちはいずれも「高齢者福祉の充実」を訴えている。私には中身が空っぽの「玉手箱」をばらまこうとしているようにしか見えない。高齢者福祉を充実させるための財源をどうするのかを考えずに、ひたすら高齢者の票を獲得せんがための空約束でしかないからだ。いつまで有権者も、そうした空っぽの「玉手箱」に期待して投票してしまうのか。アリストテレスやプラトンが、あの世で「そら、見たことか」と腹を抱えて笑っているのが目に見えるようだ。
これからの日本を考えると解決策はこの方法を実行するしかない。
ひとつは、中途半端ではあるが、安倍政権が発足したとき、私がブログで提案したことの一部はすでに行われているが、それを徹底することだ。当時私がブログで提案したのは贈与税と相続税の関係をひっくり返して、贈与税を軽減化し、反対に相続税を重くすることだった。なぜそんな提案をしたのか。
私の周りにもいっぱいいるが、大金をため込んでいる高齢者はカネを増やすことしか考えず、消費に回して日本経済の活性化に寄与しようなどとは考えていないからだ。裕福な高齢者はすでに必要なものはすべて持っており、消費に回すカネはせいぜいゴルフくらいだ。ついでにゴルフ利用税は70歳になるとかからなくなるが、その目的は健康増進のために制度化されたと思うが、いまどきゴルフに興じることができる高齢者はかなりの富裕層だから、むしろガッポガッポ税金をとったほうがいい。その代わり、本当に健康増進のためにスポーツジムなどに通っている高齢者に対しては、何らかの支援策を考えるべきだと思う。スポーツジムの会員会費など月額で1万円そこそこでしかない。
ちょっと話が横道にそれたが、要は「死にカネ」を「生きカネ」に変えることが私の提案の狙いで、相続税を高くして贈与税を軽減化すれば、高齢者の富裕層は子供や孫にどんどん贈与するようになる。現役世代や子供たちは欲しいものがたくさんあるから、「死にカネ」が一気に「生きカネ」に代わる。安倍内閣も多少、そうした考え方をするようになっているが、私に言わせればまだまだ中途半端だ。相続税を重くしたことは無条件に支持できるが、贈与税の軽減化には孫の教育費とか子供が家を購入することに限定している。それでは贈与したカネは学習塾や不動産業者にしか渡らない。従来の税制の考え方にとらわれているからだ。
現在の税制では贈与税は贈与した側に、相続税は相続を受けた側にかかるようになっている。そのシステムを変えなければならない。贈与税も相続税と同様、贈与を受けた側にかけるようにしたら、贈与税の軽減化に使途条件を付ける必要もなくなる。いずれにしても、「死にカネ」が「生きカネ」となって市中に出回って消費を刺激しない限り、円安によって自動車や電気など輸出大メーカーは史上空前の利益を計上できても、円安による物価高は消費者とくに高齢者の生活を直撃しており、消費者に景気回復の実感がわかないのは当然である。
次に日本経済が抱えている構造的問題、すなわち少子高齢化にどう政策的に立ち向かうかである。少子化に歯止めをかけられないなら(※少子化は移民の多い国を除いて先進国共通の現象である)、高齢化に歯止めをかけるしかない。
もちろん年齢の上限を決め、上限年齢に達したら強制的に安楽死させるなどといった非人道的な方法は採れない。健康保険制度を「改悪」するしか方法はない。これこそ少子高齢化問題を解決する「唯一の解決策」である。
実は、この構想は少子高齢化が社会問題に浮上し始めたころから、ひそかに温めてきたアイディアである。が、社会がこのアイディアを受け入れざるを得ない状況に達するまでは公表するつもりはなかった。「何でも平等」が日本型民主主義であると国民が信じ込んでいる間は、猛烈な反発を食うだろうと思われたからだ。が、時代が変われば民主主義の概念も微妙に変化していく。私は最近メディアの方たちや遊び仲間たちに、このアイディアをぶつけ始めた。数年前は反発する人たちが多かったが、最近はむしろ賛成してくれる人のほうが多くなってきた。そのため公表することにした。
私は少子高齢化問題の対策は健康保険制度の「改悪」しかない、と書いた。それが「唯一の解決策である」とも。
具体的には、年金生活に入った人たちには健康保険をすべて1割負担にする。ただし年金受給年齢に達した人でも収入が現役世代並みにある方は現役世代と同様3割負担をしてもらう。
が、ここが味噌なのだが、健康保険医療の1割負担の方たちの保険適用医療範囲を思い切って限定してしまう。医療費が高額の高度先進医療は保険適用外とする。一方、3割負担の方たちには高度医療は出来るだけ保険を適用するようにして、現役世代や若い人たちが高度医療技術の恩恵を受けられるようにする。ただし、1割負担の高齢者が高度医療を受ける場合は、自己負担を原則としながらも何らかの形で支援策を講じる。たとえば国か地方自治体が医療費の3割を援助するといった方法を考えてもいい。またアメリカの保険会社のように、掛け金に応じて高度医療費を保険会社が負担する制度を導入するのもいい。収入は年金しかないが、カネはたくさん持っているという富裕層は、高度医療を受けるために高い保険料を支払っても医療保険に加入するだろうし、それは自由だ。
もう一つ、延命治療は年齢にかかわらず、すべて保険適用の対象外とする。人間の尊厳を失い、回復の見込みがきわめて少ない場合は、破綻に瀕している
保険財源の負担を少しでも軽減化するために延命治療はすべて自己負担にすべきだと思う。医師会など医療関係者は猛反対するだろうが、すべての国民が平等に保健医療の適用を受けられる時代は終わった。健康保険制度そのものが破綻に瀕しているからだ。
最近日本の医療技術は世界をリードするまでになった。まだ実験室の中ではあるが…。京都大学の山中伸也教授が作り出したips細胞は世界に医療革命をもたらす可能性を秘めている。世界中で一斉によーいドンで研究開発競争が始まっている。が、ips医療が実際に実用化段階に入ったとき、日本がいまの保険制度を継続する限り、研究の主導権はアメリカに奪われてしまうだろう。実用化段階に入ったとき、ips医療の実施にどれくらいの金がかかるのかはまだ不明だが、相当高額になるだろうことはほぼ間違いないと思われる。日本の健康保険制度でips医療を保険対象医療にすれば、健康保険料をかなり引き上げる必要が生じる。国民がその負担増に耐えられるか。同一労働同一賃金の原則を導入しない限り、若い人たちとくに非正規社員やフリーターにとっては耐えきれなくなるのは目に見えている。
アメリカは一応「オバマケア」が導入されたが、きわめて不評らしい。「何でも自由」「何でも自己責任」というのも困るが、健康の維持は基本的に自己責任というアメリカ社会の大原則からすれば、そうした責任を果たそうとしない人たちまで保険で救済するのはいかがなものか、と多くのアメリカ人は考えているようだ。確かに難しい問題だが、日本がアメリカ人の健康保険の考え方に口を挟むべきでもない。
もしips医療が日本では保険適用外医療となったら、ips医療に携わる研究者たちは一斉に海の向こうに移ってしまうだろう。せっかく世界のトップレベルに達した日本の医療研究は途絶してしまうことになる。日本はこれまで医療関係の研究開発では、常にアメリカやヨーロッパの後塵を排してきた。日本人研究者の能力が低かったためではない。日本の「国民皆保険制度」が高度な医療関係の研究開発者の研究意欲をそいできたからだ。いくら研究しても、日本では高度で高額な医療費がかかる医療や医療機器は保険対象にならない限り市場が生まれないからだ。自由診療が原則だったアメリカでは、新しい医療技術や高度医療機器の市場が一気に生まれる。高度医療に限らず、市場が生まれないところに研究開発の芽が育たないのは当り前だ。
せっかく日本から生まれた医療革命の芽が、日本で育てられなかったら、それこそ日本人の恥だ。国際社会から「アホな国だ」と冷たい目で見られるようになるだろう。そうならないためにも、混合医療への転換と健康保険制度の見直しは絶対に不可欠だ。医師会などビジネスとして医療を行う側からは、「国民皆保険制度を守れ」の大合唱が続いているが、自分たちの仕事と優雅な生活を守るためのきれいごとにしか、私の耳には聞こえない。
私は安倍政権の政策に反対することがしばしばあるが、何でもかんでも反対
しているわけではない。まだブログでは書いていないが、農業政策の大転換には大賛成だ。妥協せずに、日本の農業を本当に強くするためにあらゆる努力をしていただきたいと考えている。実際私は1991年11月に青春出版社から上梓した『日本が欺(あざむ)く米 ブッシュが狙うコメ』と題する本で日本の農政を批判し、日本の農業を強くするためには保護をやめる以外に方法がないと主張している。ヨーロッパには「獅子は子を千尋の谷につき落とす」ということわざがあり、日本にも「可愛い子には旅をさせよ」ということわざがある。いずれも、過保護は子のためにならないという教えだ。同様に農業を強くするには、過保護を止める以外にない。過保護を続ける限り、日本の農業は先細りするだけだ。自民党にとって大きな票田のひとつである農業団体を敵に回してでも農政の転換を図ろうとしている安倍農業改革政策には、私はもろ手を挙げて支持したい。ただ、やるなら徹底的にやるべきだ。中途半端が一番よくない。「虻蜂取らず」ということわざが当てはまらないことを期待したい。
安倍農業改革にとって幸いなことは、突然火を噴きだした海外の日本食ブームだ。円安で海外からの観光客が急増し、日本食の素晴らしさを実感したのが、海外での日本食ブームを呼んだらしいが、おかしな日本食が海外に出回らないように、政府が海外におけるホンモノの日本食店に何らかの方法で「お墨付き」を与えることも考えた方がいい。いたずらに「日本食」を名乗る日本食店がアメーバ―のように広がると、かえってマイナスになる。そうなってしまってからでは、取り返しがつかない。いま直ちに政府は本物の日本食店の海外展開を後押しする方策を講じるべきだと思う。
少子高齢化問題を論じる予定だったが、話が横道にそれすぎたし、またブログも長くなりすぎた。何か中途半端な終わり方で申し訳なかったが、今回のブログはこれで終える。「走りながら考える」という言葉があるが、私はその典型で、「何を書くか」というテーマだけ決めたら「どう書くか」は書きながら考える習性がある。そのため話がしばしば横道にそれる。読者にはご迷惑をおかけすることになるが、わき道にそれた話も本筋からつながる大切な話なので、あえて削除せずにそのまま掲載することにしている。いずれ安倍農業改革については本格的な検証をしたいと思っている。