今日で、このシリーズも最終回にする。ただし、シリアの内紛を巡って米ロの対立が激しくなっている現在、難民問題をめぐって日本がどういう「立ち位置」をとることになるか、予測不可能な事態になっているため、集団的自衛権問題を再検証する必要が生じる可能性はある。
とりあえず、今回のブログでは、政府が集団的自衛権行使のケースとして主張している「存立危機事態」としているケースを検証したい。
前回のブログでも書いたが、安倍総理の言葉には「意味不明」なことが多すぎる。あるいは政策課題をどうやって実現するのか、肝心の方法論(手段)がすっぽり抜け落ちていることが多すぎる。前回のブログでは「積極的平和主義」と「安保理改革」について中身がまったくないことを指摘したが、先ほどの内閣改造で公式に表明した『新三本の矢』も、「積極的平和主義」や「安保理改革」に比べればわかりやすい言葉だが、どうやって実現するのか、専門家も頭を抱えている。専門家どころか、自民党内部から「大風呂敷の広げすぎだ」という批判が漏れ聞こえてきている。
いま政界で大問題になっているのが「1億総活躍」だ。内閣改造後、安倍総理が「新3本の矢」とともに打ち上げた経済活性化のためのアドバルーンだが、早くも民主党の岡田代表から「民主党綱領のパクリだ」とクレームを付けられた。野党だけではない。与党の石破地方創生相が「国民に戸惑いがないとは思えない」と、国民から理解されていないと批判した。公明・山口代表も「中身がさっぱり分からない」と苦言を呈された。中身のないキャッチフレーズつくりの名人は佐高信氏だが、ひょっとしたら安倍総理は佐高氏からキャッチフレーズづくりのテクニックを教えてもらっているのかもしれない。言っておくが、これはブログ記事とはいえ、公の言論機関による批判である。佐高氏が名誉棄損で訴えるなら、受けて立つ覚悟はある。その場合、かつて『週刊金曜日』に投稿した私の佐高氏への批判を彼が無視したことは、彼にとって致命傷になるだろうことも指摘しておく。
それはともかく「新三本の矢」と自ら命名した以上、安倍総理は「旧三本の矢」を前提にしているはずで、「旧三本の矢」の検証抜きには「新三本の矢」は語れないはずだが、肝心の「旧三本の矢」の検証はまったく行っていない。「旧三本の矢」政策が失敗したから、新アベノミクス(経済政策)として「新三本の矢」に取り替えることにしたのか、「旧三本の矢」が一応成功を収めたので、ステップアップして「新三本の矢」に移行することにしたのか、私たち国民にはさっぱり分からない。問題なのはメディアで、その検証をしようという意図すらまったく感じられないことは、「情けない」という言葉を通り越してメディアそのものが「存立危機事態」に陥っているとしか言いようがない。
一応政府は「新3本の矢」について「アベノミクスの第2ステージ」と位置
付けているので、「旧3本の矢」は当初の目的を達したので、次の段階に入ると
主張していると思われるので、「旧3本の矢」にもいちおう触れておこう(ただし詳細な検証ではない。すでに何度もブログで検証してきたから)。
もともと第2次安倍政権が誕生したときの経済政策は「2本の矢」だった。政治家もメディアも総健忘症(あるいは総痴呆症)にかかっているせいか、そのことをすっかり忘れているようだ。第2次安倍政権が誕生したときの経済政策は「デフレ脱却」と「バラマキ公共工事による経済活性化」の二つだけだった。約半年後に「成長戦略」なる意味不明なアドバルーンを打ち上げて「アベノミクスの三本の矢」がいちおう揃ったことを、総健忘症群(総痴呆症群)にかかっている方たちはすっかり忘れているようだ。忘れてしまったことは、検証のしようがない。たとえ忘れても、ネットで調べれば、「あっ、そうだった」と「旧三本の矢」の検証の必要性に気付くはずなのだが、総白痴化しているような人たちには、そういう作業の必要性すら理解できないようだ。
このブログで事細かく検証する必要はないので、結論だけ書いておくと、「旧三本の矢」はすべて中途半端で終わった。3年たっても国民や企業の大半は「デフレ脱却」を実感していないし、「バラマキ公共工事」も肉体労働者の雇用増大と賃金上昇は生じたが、増えたのは派遣労働者と海外からの出稼ぎ労働者の雇用だけで、大企業の正規社員はほとんど増えていない。そのうえ派遣労働法まで改悪してしまったから、若い労働者の不安定性・低賃金化には歯止めもかけられなくなった。その証拠に、政府内から消費回復のために低所得層を対象に3~5万円のクリスマス・プレゼントを配ろうという声まで出始めた。「成長戦略」も「強い農業を育てる」という掛け声だけは、安倍総理をバカにしている私も大いに支持したいのだが、具体的な方法論がまったくない。これほど中身がなく、かつキャッチフレーズだけ乱発して得意になっている総理は、かつて見たことがない。そんなバカ総理を自民党議員はいつまで担ぐつもりなのか。
「購買力平価」という経済用語がある。各国通貨の実質的価値を表す言葉で、たとえば1ドル=120円の為替相場だとすると、アメリカで1ドルで買える商品は日本では120円で買えることを意味する。旧アベノミクスは日本の輸出産業の国際競争力を回復するために、日銀・黒田総裁に指示して金融緩和・円安誘導への為替介入を行った。が、結果日本の工業製品(自動車・電機など)の輸出量はまったく増えなかったのに、輸出産業界は為替差益によって史上空前の利益を計上した。当然輸出関連企業の株は暴騰し、「ミニ株バブル」も生じた。
しかし、いかなる政策も(つまり経済政策だけではないということ)、必ずメ
リットとデメリットがある。効果の高い薬ほど副作用も大きい(必ずしもそうとは言いきれないが、一般にそう思われているからたとえとして書いただけ)と言われる。経済政策も、金融緩和・円安誘導を行えば、「こういうメリットはあるが、同時にこういうデメリットも生じる。生じるデメリット対策としては、こういう手を打つ」と、国民に説明するのが政府の責任だが、そうした説明責任を安倍総理は果たしてきたと言えるだろうか。甘い蜜であるメリットだけしか説明せず、デメリットには一切触れない、というのが旧アベノミクスの最大の特徴だった。
安倍政権も円安政策をとれば輸出価格は下落するが、輸入品の物価は上昇することは分かっていたはずだ。たまたま悪性インフラに陥らなかったのは、想定外の原油安で物価が一応安定していたからだ。が、原油安効果も薄れつつある現在、GDPの6割を占める国内消費が低迷したままだ。そんな程度の足し算・引き算が出来なかったら、安倍内閣は経済政策など云々する資格がない。
円が20%下落すれば輸入品の物価は20%上昇する。これが小学生レベルの足し算・引き算だが、現実の経済はそんなに単純ではない。たとえば日本の輸出工業品と競合関係にある国の企業が対抗上値段を下げれば、その分円安効果は減少する。逆に輸入品も、必ずしも為替相場をダイレクトに反映するとは限らない。やはり競合関係にある国の企業が生産量を維持するため低価格輸出に踏み切る可能性があるからだ。もし輸出価格を為替相場に連動させて高く設定すれば、よほど競争力のある商品でなければ生産量を減らさざるを得ない。生産量が減少すれば、当然のことだが商品1個当たりの生産コスト(生産設備の減価償却費・メンテナンス費・人件費・原材料や部品の購入費など)が増加し、かえって競争力を失うことになる。それが実態経済を動かしている競争原理というものだ。
安倍総理と黒田・日銀総裁は為替相場を円安誘導すれば、日本の工業製品は海外で販売価格が下落して輸出が増大し、輸出企業は海外での需要の増大に応じるため設備投資を行い、雇用や給料も増加して日本経済復活の原動力になると考えたと思う。が、結果はそうならなかった。輸出企業が設備投資を行い生産量を増やすことに、大きなリスクが伴うことを知っていたからだ。そのため輸出企業は設備投資を伴う生産量の増加という経営方針を採用せず、輸出価格を据え置いて、輸出量を増やさずに為替差益を増加するという道を選んだのだ。政府・日銀が一体となって円安誘導した結果が、日本の工業製品の輸出量が増えずに、輸出企業の為替利益だけが膨大に膨らんだ理由は、その一点にある。そのことを証明できる過去の出来事があった。
1985年のプラザ合意でドル安誘導政策を行うことで、主要各国の中央銀行・
財務大臣(G5)がまとまったとき、日本の輸出産業界は円高に対してどのよう
に対応したか。先に述べた理由から、メーカーにとっては生産量を維持するこ
とが最大の目標になる。生産量を減らせば、生産コストが上昇して競争力を失
い、その結果さらに生産量を減らせば生産コストがさらに上昇するという悪循環に陥り、最後は競争力を完全に失うことになる。日本の輸出メーカーは、その悪循環に陥ることを最も恐れた。そのため生産量は落とさず、海外とくにアメリカにはダンピング輸出をして競争力を維持することにした。ドル安にもかかわらず、日本からの輸入製品の価格が下がらなかったため、アメリカは「ダンピング輸出だ」と猛反発した。それに対して日本メーカーは「必死に努力をして生産コストを引き下げた結果だ」と反論した。もし、その時の日本メーカーの反論が正しければ、日本の消費者は不当に高額な価格で同じ商品を買わされていたことになる。が、日本メーカーの本音は違った。技術開発などによって生産コストを引き下げたことも事実だろうが、円はプラザ合意直前の240円から2年間で一気に倍の120円になった。2年間で生産コストを半減するような技術開発など、ノーベル賞10個分に相当するほどの画期的な発明が行わなければ不可能だ。つまり日本メーカーは生産量を維持することにより対米輸出価格を抑える一方、国内では販売価格を維持あるいは引き上げて輸出と国内消費のバランスをとったのだ。生き残るためには、やむを得ない経営方針だったかもしれないが、為替の自由化はそうした結果をしばしば生むことを日本のエコノミストはまったく分かっていない。
これは大きな政策転換がどういう結果をもたらすかの一例に過ぎないが、こ
の時期の日本メーカーのお行儀の悪さを指摘したのは、エコノミストでも何でもない私だけだった。論理的に検証するということの意味と大切さを、読者にご理解いただきたいために古い話を書いた。
16日、安倍総理は財界幹部らを集め、国内での積極的な設備投資を行うよう促した。確かに安倍政権が発足して以降、円安誘導の金融政策によって輸出産業を中心に企業の経常利益は16兆円増え、内部留保も50兆円増加、企業が貯めこんでいる内部留保は354兆円の巨額に達した。その一方で安倍政権発足後の設備投資の伸びは5兆円にとどまっている。
が、いくら安倍総理が笛を吹いても、産業界は踊らない。その理由は先に述べたように、設備投資=生産量の拡大は巨大なリスクを伴うからだ。円安にもかかわらず日本の輸出メーカーは輸出価格を為替に連動して引き下げずに据え置き、輸出量は増えないのに為替差益で史上空前の利益を上げるという経営方針をとった。プラザ合意後の2年間で円は倍になったのに日本のメーカーは輸出価格を引き上げずに、国内消費者の犠牲の上で生産量の縮小を防いだ。競争原理に基づく企業の行動は一貫して変わらない。
現に、「亀山モデル」と称して一時は液晶テレビの業界で世界を席巻したシャープが「亀山モデル」がまだまだ売れると考えて新工場を作ったりして生産設備の増強を図った。が、シャープの計画は空転し、いま企業存続に危機に直面
している。安倍総理が、いくら笛を吹いても日本メーカーはおいそれとは設備
投資に走れない。政府がメーカーに設備投資の増強を迫る以上、何らかの結果責任を政府も負うことを企業に約束しなければ不可能だ。その場合、設備投資=生産量拡大が失敗したときのツケを国民にシワ寄せされたのではたまらないから、政府与党の国会議員が個人資産をすべて投げ出してメーカー救済に当たることを保障すべきだ。安倍さんが何でも自分の思いどおりになると考えていたら、思い上がりもいいところだ。
さて「旧3本の矢」に比べ、「新三本の矢」に至っては「砂上の楼閣」とすら言えない代物だ。「GDP600兆円(希望を生み出す強い経済)」を実現するにはバブル経済を復活するしか不可能な経済政策だし(実際、エコノミストも呆れ返っている)、「50年後も日本人口1億を維持するために特殊合計出生率1.8を実現する(夢をつむぐ子育て支援)」という計画は、日本が国教をイスラム教に変えて「一夫多妻制」を導入し、かつ子沢山の家庭には膨大な家計費支援を行うようにしなければ不可能な話だ。それ以外に「魔法の杖」などありはしない。
ただ「3本目の矢」の「介護離職者をゼロにする(安心につながる社会保障)」という政策は、あながち不可能とは言えない。かつて「3K」と言われ、若い人たちから敬遠された仕事があった。「きつい・汚い・危険」の頭文字をとって作られた言葉だが、現在の介護職はまさに「3K」の典型である。そういう職業を
魅力的なものにするには、職場環境を改善し、給料も平均労働者の1.5~2倍に
すれば実現する。安倍総理をはじめとする富裕層に「特別富裕税」を課し、「介護職員支援協会」なる資金援助財団を作って、まじめに介護の仕事に取り組んでいる方たちを優遇する給与システムを構築すれば、おそらく問題は解決する。そういうことをやれば、安倍総理は戦後の最高の栄誉が得られるかもね。自分が総理のうちに、自分自身に対して「国民栄誉賞」を授与しても、国民は反対しないだろう。
「旧・新三本の矢」の話はそのくらいにして、本題に戻る。「憲法解釈の変更によって集団的自衛権を行使しなければ、日本が存立危機事態に陥る」としたケースの検証だ。
まず最初に明らかにしておくべきことがある。この問題は「まず集団的自衛
権行使ありき」から始まっているということだ。安倍総理は「日本を取り巻く
安全保障環境が激変している」という現状認識を持ちだし、従って「いまや1国だけで自国の安全と防衛を守ることは不可能」であり、「だから日米同盟を強化して抑止力を高める必要があり」そのためには「これまでは憲法の制約によって行使できないとしてきた集団的自衛権を、憲法解釈の変更によって行使できるようにする」というのが安倍総理の論理であり、それ以上でもなければ、それ以下でもない。
安倍論理が「まず集団的自衛権行使ありき」からスタートしたため、国会での議論はありもしない「想定」を巡って二転三転した。たとえば、「朝鮮半島有
事の際、日本人を救出してくれている米艦を自衛隊が守らなくてもいいのか」
などというマンガにもならないようなケースを(実際安倍総理はそういうマンガ・プラカードを手に説明した)安倍総理は「集団的自衛権行使の1例」として得意げに語った。そのとたん、肝心のアメリカから「有事の際米艦が救出するのはアメリカ人であり、他国人を救出するとしたらイギリス人が最優先だ」とにべもなく否定され、安倍総理は二度とこのマンガじみたケースを語らなくなった。この問題に関連して8月26日には中谷防衛相が「邦人が乗っているか否かは絶対的な要素ではない」と苦しい答弁をして安倍総理の発言との矛盾を指摘され、その後9月11日には安倍総理も「米国と共同作戦をする場合、日本人が乗っていない船を守ることもありうる」と、いとも簡単に前言を翻した。
またホルムズ海峡での機雷除去も「集団的自衛権行使のケース」として大々的に喧伝したが、公明・山口代表の参院特別委での質問(9月14日)「今のイラン・中東情勢から機雷除去の必要性が想定できるのか」と問われたのに対し、安倍総理は「現実問題としてそういう事態は想定していない」と前言をひっくり返した。この機雷除去問題については野党からも「経済的理由だけで存立危機と言えるのか」と立て続けに質問され、政府は立ち往生した。
結局、当初安倍総理が想定していた「集団的自衛権行使」のケースは野党の追及の前に次々と崩壊した。そうなると憲法解釈を変更してまでアメリカへの軍事協力を強化しなければならないとした「存立危機」とはどういう事態なのかが問題になった。安倍総理は9月14日の参院特別委で「わが国に戦禍が及ぶ蓋然性は、攻撃国の様態、規模、意志などについて総合的に判断する」と言わざるを得なくなった。
ちょっと待ってよ。「わが国に戦禍が及ぶ蓋然性」が「集団的自衛権行使」の前提になるのであれば、それは個別的自衛権の範疇ではないか。そして日本1国だけでは戦禍を防ぎきれない場合は、日米安保条約によって米軍が自衛隊に協力してわが国を防衛してくれることになっているはずだ。そのためにわが国は日本防衛のためだけではない在日米軍に基地を提供し、思いやり予算まで「プレゼント」してきたのではなかったか。
さらに安倍内閣は苦し紛れに「存立危機」とは別に「重要影響事態」なる概念も持ち出した。政府は「放置しておけば日本が攻撃される可能性が認められる事態」と説明するが、想定される「重要影響事態」の具体的ケースについては、とうとう説明しないままで安保法案を強行採決した。中谷防衛相は「存立危機事態、重要影響事態は、最後は政府が判断する」として「切れ目のない」(つまり政府の判断で何でもできるということ)「集団的自衛権行使」が可能になるとした。
では、そういう現実的可能性がある具体的なケースについて考えてみよう。「イスラム国」(IS)なるテロリスト集団の破壊活動はイラク1国にとどまらず、今や世界中に広がりつつある。すでにアジアでもISは破壊活動を強めており、日本だけが無縁などと考えるのは空想的だ。今すぐにISに対する軍事行動に出るべきだなどと主張するつもりはないが、日本への飛び火を回避する方法と、実際に飛び火した場合の対策は講じておくべきだ。とくに難民受け入れに消極的な日本は国際社会から孤立しつつある。国際社会の要請を受け入れて、日本が難民受け入れに積極的な方針に転換したら、当然日本はISの攻撃目標になりかねない。これは安倍総理が想定してきたような「非現実的」なケースではない。日本が難民受け入れに消極的な姿勢を取り続けている間は、ISの標的になる可能性は少ないと思われるが、いつまでも難民問題に頬被りしているわけにはいかない。
安倍総理は、中身がまったくない「安保理改革」をキャッチフレーズにして常任理事国入りを目指しているが、常任理事国の資格を国際社会から認めてもらうには、難民問題から目を背け続けているわけにはいかない。そのくらいのことも、安倍総理は理解できずに常任理事国になれると思っているのか。バカもいい加減にしろと言いたい。
強行採決によって国会では安保法案は成立したが、こんなデタラメな法律を最高裁が認めるわけがない。すべての野党と安保法制に対する反対活動を行っている非政治的国民団体(「シールズ」や「ママの会」など)は、憲法学者や弁護士の提訴に共同原告として加わり、裁判によって安保法制を葬らなければならない。
私はこれまで何度も書いてきたように「護憲論者」ではない。憲法9条を改正して、日本が国際社会とりわけアジア太平洋地域の平和と安全に積極的に寄
与できるような集団安全保障体制を構築すべきだ、と主張してきた。もちろん、その集団安全保障体制からアメリカを排除すべきではないし、世界最大の強大な軍事力を擁するアメリカを中心としながらも、アメリカ以外のアジア太平洋の諸国、具体的には韓国、カンボジア、タイ、マレーシア、ミャンマー、インドネシア、ニュージーランド、フィリピン、オーストラリア、カナダ、メキシコ、エクアドル、チリなどは当然、政治体制の異なる中国、北朝鮮、ベトナムなども含めた集団安全保障体制の構築に全力を注ぐべきだと考えている。そういう集団安全保障体制を構築できれば、これまでアジア太平洋地域の「警察官」としての役割を果たしてきたアメリカの負担も大幅に軽減できるし、ことさら沖縄に米軍基地を集中配備する必要もなくなる。
その場合、この安全保障機能を確実なものにするため、「アジア太平洋連合機構」を作り、どこかの国の平和破壊活動に対しては加盟国の3分の2以上の同意によって、あらゆる非軍事的措置・あらゆる軍事的措置をとることが出来るようにする。もちろんいかなる国にも、国連安保理の常任理事国に与えられているような拒否権は認めない。
そういうアジア太平洋地域の集団安全保障体制構築の音頭を日本が取れば、日本はアジア太平洋諸国から「平和と安全を最重要視している国」として認めてもらえる。日本の安保理常任理事国入りも、そうした国際貢献活動が国際社会から認められた時に初めて可能になる。そのとき、日本人は戦後、初めて主権国家の国民としての尊厳を取り戻すことが出来るだろう。
とりあえず、今回のブログでは、政府が集団的自衛権行使のケースとして主張している「存立危機事態」としているケースを検証したい。
前回のブログでも書いたが、安倍総理の言葉には「意味不明」なことが多すぎる。あるいは政策課題をどうやって実現するのか、肝心の方法論(手段)がすっぽり抜け落ちていることが多すぎる。前回のブログでは「積極的平和主義」と「安保理改革」について中身がまったくないことを指摘したが、先ほどの内閣改造で公式に表明した『新三本の矢』も、「積極的平和主義」や「安保理改革」に比べればわかりやすい言葉だが、どうやって実現するのか、専門家も頭を抱えている。専門家どころか、自民党内部から「大風呂敷の広げすぎだ」という批判が漏れ聞こえてきている。
いま政界で大問題になっているのが「1億総活躍」だ。内閣改造後、安倍総理が「新3本の矢」とともに打ち上げた経済活性化のためのアドバルーンだが、早くも民主党の岡田代表から「民主党綱領のパクリだ」とクレームを付けられた。野党だけではない。与党の石破地方創生相が「国民に戸惑いがないとは思えない」と、国民から理解されていないと批判した。公明・山口代表も「中身がさっぱり分からない」と苦言を呈された。中身のないキャッチフレーズつくりの名人は佐高信氏だが、ひょっとしたら安倍総理は佐高氏からキャッチフレーズづくりのテクニックを教えてもらっているのかもしれない。言っておくが、これはブログ記事とはいえ、公の言論機関による批判である。佐高氏が名誉棄損で訴えるなら、受けて立つ覚悟はある。その場合、かつて『週刊金曜日』に投稿した私の佐高氏への批判を彼が無視したことは、彼にとって致命傷になるだろうことも指摘しておく。
それはともかく「新三本の矢」と自ら命名した以上、安倍総理は「旧三本の矢」を前提にしているはずで、「旧三本の矢」の検証抜きには「新三本の矢」は語れないはずだが、肝心の「旧三本の矢」の検証はまったく行っていない。「旧三本の矢」政策が失敗したから、新アベノミクス(経済政策)として「新三本の矢」に取り替えることにしたのか、「旧三本の矢」が一応成功を収めたので、ステップアップして「新三本の矢」に移行することにしたのか、私たち国民にはさっぱり分からない。問題なのはメディアで、その検証をしようという意図すらまったく感じられないことは、「情けない」という言葉を通り越してメディアそのものが「存立危機事態」に陥っているとしか言いようがない。
一応政府は「新3本の矢」について「アベノミクスの第2ステージ」と位置
付けているので、「旧3本の矢」は当初の目的を達したので、次の段階に入ると
主張していると思われるので、「旧3本の矢」にもいちおう触れておこう(ただし詳細な検証ではない。すでに何度もブログで検証してきたから)。
もともと第2次安倍政権が誕生したときの経済政策は「2本の矢」だった。政治家もメディアも総健忘症(あるいは総痴呆症)にかかっているせいか、そのことをすっかり忘れているようだ。第2次安倍政権が誕生したときの経済政策は「デフレ脱却」と「バラマキ公共工事による経済活性化」の二つだけだった。約半年後に「成長戦略」なる意味不明なアドバルーンを打ち上げて「アベノミクスの三本の矢」がいちおう揃ったことを、総健忘症群(総痴呆症群)にかかっている方たちはすっかり忘れているようだ。忘れてしまったことは、検証のしようがない。たとえ忘れても、ネットで調べれば、「あっ、そうだった」と「旧三本の矢」の検証の必要性に気付くはずなのだが、総白痴化しているような人たちには、そういう作業の必要性すら理解できないようだ。
このブログで事細かく検証する必要はないので、結論だけ書いておくと、「旧三本の矢」はすべて中途半端で終わった。3年たっても国民や企業の大半は「デフレ脱却」を実感していないし、「バラマキ公共工事」も肉体労働者の雇用増大と賃金上昇は生じたが、増えたのは派遣労働者と海外からの出稼ぎ労働者の雇用だけで、大企業の正規社員はほとんど増えていない。そのうえ派遣労働法まで改悪してしまったから、若い労働者の不安定性・低賃金化には歯止めもかけられなくなった。その証拠に、政府内から消費回復のために低所得層を対象に3~5万円のクリスマス・プレゼントを配ろうという声まで出始めた。「成長戦略」も「強い農業を育てる」という掛け声だけは、安倍総理をバカにしている私も大いに支持したいのだが、具体的な方法論がまったくない。これほど中身がなく、かつキャッチフレーズだけ乱発して得意になっている総理は、かつて見たことがない。そんなバカ総理を自民党議員はいつまで担ぐつもりなのか。
「購買力平価」という経済用語がある。各国通貨の実質的価値を表す言葉で、たとえば1ドル=120円の為替相場だとすると、アメリカで1ドルで買える商品は日本では120円で買えることを意味する。旧アベノミクスは日本の輸出産業の国際競争力を回復するために、日銀・黒田総裁に指示して金融緩和・円安誘導への為替介入を行った。が、結果日本の工業製品(自動車・電機など)の輸出量はまったく増えなかったのに、輸出産業界は為替差益によって史上空前の利益を計上した。当然輸出関連企業の株は暴騰し、「ミニ株バブル」も生じた。
しかし、いかなる政策も(つまり経済政策だけではないということ)、必ずメ
リットとデメリットがある。効果の高い薬ほど副作用も大きい(必ずしもそうとは言いきれないが、一般にそう思われているからたとえとして書いただけ)と言われる。経済政策も、金融緩和・円安誘導を行えば、「こういうメリットはあるが、同時にこういうデメリットも生じる。生じるデメリット対策としては、こういう手を打つ」と、国民に説明するのが政府の責任だが、そうした説明責任を安倍総理は果たしてきたと言えるだろうか。甘い蜜であるメリットだけしか説明せず、デメリットには一切触れない、というのが旧アベノミクスの最大の特徴だった。
安倍政権も円安政策をとれば輸出価格は下落するが、輸入品の物価は上昇することは分かっていたはずだ。たまたま悪性インフラに陥らなかったのは、想定外の原油安で物価が一応安定していたからだ。が、原油安効果も薄れつつある現在、GDPの6割を占める国内消費が低迷したままだ。そんな程度の足し算・引き算が出来なかったら、安倍内閣は経済政策など云々する資格がない。
円が20%下落すれば輸入品の物価は20%上昇する。これが小学生レベルの足し算・引き算だが、現実の経済はそんなに単純ではない。たとえば日本の輸出工業品と競合関係にある国の企業が対抗上値段を下げれば、その分円安効果は減少する。逆に輸入品も、必ずしも為替相場をダイレクトに反映するとは限らない。やはり競合関係にある国の企業が生産量を維持するため低価格輸出に踏み切る可能性があるからだ。もし輸出価格を為替相場に連動させて高く設定すれば、よほど競争力のある商品でなければ生産量を減らさざるを得ない。生産量が減少すれば、当然のことだが商品1個当たりの生産コスト(生産設備の減価償却費・メンテナンス費・人件費・原材料や部品の購入費など)が増加し、かえって競争力を失うことになる。それが実態経済を動かしている競争原理というものだ。
安倍総理と黒田・日銀総裁は為替相場を円安誘導すれば、日本の工業製品は海外で販売価格が下落して輸出が増大し、輸出企業は海外での需要の増大に応じるため設備投資を行い、雇用や給料も増加して日本経済復活の原動力になると考えたと思う。が、結果はそうならなかった。輸出企業が設備投資を行い生産量を増やすことに、大きなリスクが伴うことを知っていたからだ。そのため輸出企業は設備投資を伴う生産量の増加という経営方針を採用せず、輸出価格を据え置いて、輸出量を増やさずに為替差益を増加するという道を選んだのだ。政府・日銀が一体となって円安誘導した結果が、日本の工業製品の輸出量が増えずに、輸出企業の為替利益だけが膨大に膨らんだ理由は、その一点にある。そのことを証明できる過去の出来事があった。
1985年のプラザ合意でドル安誘導政策を行うことで、主要各国の中央銀行・
財務大臣(G5)がまとまったとき、日本の輸出産業界は円高に対してどのよう
に対応したか。先に述べた理由から、メーカーにとっては生産量を維持するこ
とが最大の目標になる。生産量を減らせば、生産コストが上昇して競争力を失
い、その結果さらに生産量を減らせば生産コストがさらに上昇するという悪循環に陥り、最後は競争力を完全に失うことになる。日本の輸出メーカーは、その悪循環に陥ることを最も恐れた。そのため生産量は落とさず、海外とくにアメリカにはダンピング輸出をして競争力を維持することにした。ドル安にもかかわらず、日本からの輸入製品の価格が下がらなかったため、アメリカは「ダンピング輸出だ」と猛反発した。それに対して日本メーカーは「必死に努力をして生産コストを引き下げた結果だ」と反論した。もし、その時の日本メーカーの反論が正しければ、日本の消費者は不当に高額な価格で同じ商品を買わされていたことになる。が、日本メーカーの本音は違った。技術開発などによって生産コストを引き下げたことも事実だろうが、円はプラザ合意直前の240円から2年間で一気に倍の120円になった。2年間で生産コストを半減するような技術開発など、ノーベル賞10個分に相当するほどの画期的な発明が行わなければ不可能だ。つまり日本メーカーは生産量を維持することにより対米輸出価格を抑える一方、国内では販売価格を維持あるいは引き上げて輸出と国内消費のバランスをとったのだ。生き残るためには、やむを得ない経営方針だったかもしれないが、為替の自由化はそうした結果をしばしば生むことを日本のエコノミストはまったく分かっていない。
これは大きな政策転換がどういう結果をもたらすかの一例に過ぎないが、こ
の時期の日本メーカーのお行儀の悪さを指摘したのは、エコノミストでも何でもない私だけだった。論理的に検証するということの意味と大切さを、読者にご理解いただきたいために古い話を書いた。
16日、安倍総理は財界幹部らを集め、国内での積極的な設備投資を行うよう促した。確かに安倍政権が発足して以降、円安誘導の金融政策によって輸出産業を中心に企業の経常利益は16兆円増え、内部留保も50兆円増加、企業が貯めこんでいる内部留保は354兆円の巨額に達した。その一方で安倍政権発足後の設備投資の伸びは5兆円にとどまっている。
が、いくら安倍総理が笛を吹いても、産業界は踊らない。その理由は先に述べたように、設備投資=生産量の拡大は巨大なリスクを伴うからだ。円安にもかかわらず日本の輸出メーカーは輸出価格を為替に連動して引き下げずに据え置き、輸出量は増えないのに為替差益で史上空前の利益を上げるという経営方針をとった。プラザ合意後の2年間で円は倍になったのに日本のメーカーは輸出価格を引き上げずに、国内消費者の犠牲の上で生産量の縮小を防いだ。競争原理に基づく企業の行動は一貫して変わらない。
現に、「亀山モデル」と称して一時は液晶テレビの業界で世界を席巻したシャープが「亀山モデル」がまだまだ売れると考えて新工場を作ったりして生産設備の増強を図った。が、シャープの計画は空転し、いま企業存続に危機に直面
している。安倍総理が、いくら笛を吹いても日本メーカーはおいそれとは設備
投資に走れない。政府がメーカーに設備投資の増強を迫る以上、何らかの結果責任を政府も負うことを企業に約束しなければ不可能だ。その場合、設備投資=生産量拡大が失敗したときのツケを国民にシワ寄せされたのではたまらないから、政府与党の国会議員が個人資産をすべて投げ出してメーカー救済に当たることを保障すべきだ。安倍さんが何でも自分の思いどおりになると考えていたら、思い上がりもいいところだ。
さて「旧3本の矢」に比べ、「新三本の矢」に至っては「砂上の楼閣」とすら言えない代物だ。「GDP600兆円(希望を生み出す強い経済)」を実現するにはバブル経済を復活するしか不可能な経済政策だし(実際、エコノミストも呆れ返っている)、「50年後も日本人口1億を維持するために特殊合計出生率1.8を実現する(夢をつむぐ子育て支援)」という計画は、日本が国教をイスラム教に変えて「一夫多妻制」を導入し、かつ子沢山の家庭には膨大な家計費支援を行うようにしなければ不可能な話だ。それ以外に「魔法の杖」などありはしない。
ただ「3本目の矢」の「介護離職者をゼロにする(安心につながる社会保障)」という政策は、あながち不可能とは言えない。かつて「3K」と言われ、若い人たちから敬遠された仕事があった。「きつい・汚い・危険」の頭文字をとって作られた言葉だが、現在の介護職はまさに「3K」の典型である。そういう職業を
魅力的なものにするには、職場環境を改善し、給料も平均労働者の1.5~2倍に
すれば実現する。安倍総理をはじめとする富裕層に「特別富裕税」を課し、「介護職員支援協会」なる資金援助財団を作って、まじめに介護の仕事に取り組んでいる方たちを優遇する給与システムを構築すれば、おそらく問題は解決する。そういうことをやれば、安倍総理は戦後の最高の栄誉が得られるかもね。自分が総理のうちに、自分自身に対して「国民栄誉賞」を授与しても、国民は反対しないだろう。
「旧・新三本の矢」の話はそのくらいにして、本題に戻る。「憲法解釈の変更によって集団的自衛権を行使しなければ、日本が存立危機事態に陥る」としたケースの検証だ。
まず最初に明らかにしておくべきことがある。この問題は「まず集団的自衛
権行使ありき」から始まっているということだ。安倍総理は「日本を取り巻く
安全保障環境が激変している」という現状認識を持ちだし、従って「いまや1国だけで自国の安全と防衛を守ることは不可能」であり、「だから日米同盟を強化して抑止力を高める必要があり」そのためには「これまでは憲法の制約によって行使できないとしてきた集団的自衛権を、憲法解釈の変更によって行使できるようにする」というのが安倍総理の論理であり、それ以上でもなければ、それ以下でもない。
安倍論理が「まず集団的自衛権行使ありき」からスタートしたため、国会での議論はありもしない「想定」を巡って二転三転した。たとえば、「朝鮮半島有
事の際、日本人を救出してくれている米艦を自衛隊が守らなくてもいいのか」
などというマンガにもならないようなケースを(実際安倍総理はそういうマンガ・プラカードを手に説明した)安倍総理は「集団的自衛権行使の1例」として得意げに語った。そのとたん、肝心のアメリカから「有事の際米艦が救出するのはアメリカ人であり、他国人を救出するとしたらイギリス人が最優先だ」とにべもなく否定され、安倍総理は二度とこのマンガじみたケースを語らなくなった。この問題に関連して8月26日には中谷防衛相が「邦人が乗っているか否かは絶対的な要素ではない」と苦しい答弁をして安倍総理の発言との矛盾を指摘され、その後9月11日には安倍総理も「米国と共同作戦をする場合、日本人が乗っていない船を守ることもありうる」と、いとも簡単に前言を翻した。
またホルムズ海峡での機雷除去も「集団的自衛権行使のケース」として大々的に喧伝したが、公明・山口代表の参院特別委での質問(9月14日)「今のイラン・中東情勢から機雷除去の必要性が想定できるのか」と問われたのに対し、安倍総理は「現実問題としてそういう事態は想定していない」と前言をひっくり返した。この機雷除去問題については野党からも「経済的理由だけで存立危機と言えるのか」と立て続けに質問され、政府は立ち往生した。
結局、当初安倍総理が想定していた「集団的自衛権行使」のケースは野党の追及の前に次々と崩壊した。そうなると憲法解釈を変更してまでアメリカへの軍事協力を強化しなければならないとした「存立危機」とはどういう事態なのかが問題になった。安倍総理は9月14日の参院特別委で「わが国に戦禍が及ぶ蓋然性は、攻撃国の様態、規模、意志などについて総合的に判断する」と言わざるを得なくなった。
ちょっと待ってよ。「わが国に戦禍が及ぶ蓋然性」が「集団的自衛権行使」の前提になるのであれば、それは個別的自衛権の範疇ではないか。そして日本1国だけでは戦禍を防ぎきれない場合は、日米安保条約によって米軍が自衛隊に協力してわが国を防衛してくれることになっているはずだ。そのためにわが国は日本防衛のためだけではない在日米軍に基地を提供し、思いやり予算まで「プレゼント」してきたのではなかったか。
さらに安倍内閣は苦し紛れに「存立危機」とは別に「重要影響事態」なる概念も持ち出した。政府は「放置しておけば日本が攻撃される可能性が認められる事態」と説明するが、想定される「重要影響事態」の具体的ケースについては、とうとう説明しないままで安保法案を強行採決した。中谷防衛相は「存立危機事態、重要影響事態は、最後は政府が判断する」として「切れ目のない」(つまり政府の判断で何でもできるということ)「集団的自衛権行使」が可能になるとした。
では、そういう現実的可能性がある具体的なケースについて考えてみよう。「イスラム国」(IS)なるテロリスト集団の破壊活動はイラク1国にとどまらず、今や世界中に広がりつつある。すでにアジアでもISは破壊活動を強めており、日本だけが無縁などと考えるのは空想的だ。今すぐにISに対する軍事行動に出るべきだなどと主張するつもりはないが、日本への飛び火を回避する方法と、実際に飛び火した場合の対策は講じておくべきだ。とくに難民受け入れに消極的な日本は国際社会から孤立しつつある。国際社会の要請を受け入れて、日本が難民受け入れに積極的な方針に転換したら、当然日本はISの攻撃目標になりかねない。これは安倍総理が想定してきたような「非現実的」なケースではない。日本が難民受け入れに消極的な姿勢を取り続けている間は、ISの標的になる可能性は少ないと思われるが、いつまでも難民問題に頬被りしているわけにはいかない。
安倍総理は、中身がまったくない「安保理改革」をキャッチフレーズにして常任理事国入りを目指しているが、常任理事国の資格を国際社会から認めてもらうには、難民問題から目を背け続けているわけにはいかない。そのくらいのことも、安倍総理は理解できずに常任理事国になれると思っているのか。バカもいい加減にしろと言いたい。
強行採決によって国会では安保法案は成立したが、こんなデタラメな法律を最高裁が認めるわけがない。すべての野党と安保法制に対する反対活動を行っている非政治的国民団体(「シールズ」や「ママの会」など)は、憲法学者や弁護士の提訴に共同原告として加わり、裁判によって安保法制を葬らなければならない。
私はこれまで何度も書いてきたように「護憲論者」ではない。憲法9条を改正して、日本が国際社会とりわけアジア太平洋地域の平和と安全に積極的に寄
与できるような集団安全保障体制を構築すべきだ、と主張してきた。もちろん、その集団安全保障体制からアメリカを排除すべきではないし、世界最大の強大な軍事力を擁するアメリカを中心としながらも、アメリカ以外のアジア太平洋の諸国、具体的には韓国、カンボジア、タイ、マレーシア、ミャンマー、インドネシア、ニュージーランド、フィリピン、オーストラリア、カナダ、メキシコ、エクアドル、チリなどは当然、政治体制の異なる中国、北朝鮮、ベトナムなども含めた集団安全保障体制の構築に全力を注ぐべきだと考えている。そういう集団安全保障体制を構築できれば、これまでアジア太平洋地域の「警察官」としての役割を果たしてきたアメリカの負担も大幅に軽減できるし、ことさら沖縄に米軍基地を集中配備する必要もなくなる。
その場合、この安全保障機能を確実なものにするため、「アジア太平洋連合機構」を作り、どこかの国の平和破壊活動に対しては加盟国の3分の2以上の同意によって、あらゆる非軍事的措置・あらゆる軍事的措置をとることが出来るようにする。もちろんいかなる国にも、国連安保理の常任理事国に与えられているような拒否権は認めない。
そういうアジア太平洋地域の集団安全保障体制構築の音頭を日本が取れば、日本はアジア太平洋諸国から「平和と安全を最重要視している国」として認めてもらえる。日本の安保理常任理事国入りも、そうした国際貢献活動が国際社会から認められた時に初めて可能になる。そのとき、日本人は戦後、初めて主権国家の国民としての尊厳を取り戻すことが出来るだろう。