今年の新年もいつもと変わらぬ風景が、そこかしこに見られた。私も近所の神社に「初詣」に行ったが、集まった人々の顔は例年と変わらず明るかった。それほど皆が幸せ感を抱いて新年を迎えたのだろうか。もっとも日本人のすべてが着飾って「初詣」に出かけたわけではないし、私も普段着で出かけた。
日産の独裁者だったゴーン氏は留置所の中でカップラーメンの年越しそばをふるまわれ、元日には形ばかりのおせちも出たという。ゴーン氏にしてみれば「一日にして天と地がひっくり返った」ような昨年だっただろう。自業自得だったのか、それとも検察の勇み足だったのかは、裁判の行方を見守るしかない。私自身は、おそらく検察がメディアにリークしたであろうゴーン氏の「悪業」の数々も、また日産経営陣の告発も、「眉唾」で聞いている。もしゴーン氏の言い分のほうに理があれば、あるいは理がなくても、検察と司法取引した西川社長をはじめ日産経営陣も、共同正犯とまでは言えないにしても、最低でも「見て見ぬふりをしてゴーン体制」を支えてきた取締役義務違反のそしりはぬぐえないだろう。
昨年末の『今年最後のブログ』で、安倍総理の今年の漢字「転」をからかって「わかっているなら、早よ転んでくれや」と書いたが、残念ながらそう簡単には転びそうもない。
私の漢字はつねに「問」である。「疑問」の「問」であり、いかなることも鵜呑みにはしないという、いやらしい性格の表れでもある。もっともジャーナリストが素直になったら、世の中はどうなるだろう。
世界には様々な情報が飛び交っている。情報の出どこの多くは要人の発言だ。たとえば年末から年初にかけて世界の株式市場や為替が大きく動いた。その原因は米FRB(アメリカの中央銀行)議長の発言と金利きき上げ、それに対する大統領の「解任発言」である。
各国の中央銀行の金利政策は、基本的には自国の消費者物価指数の動向を最大に考慮する。日本を例にとれば、安倍総理が日本の経済状況を「デフレ不況」と決めつけた瞬間から日銀の金利政策はスタートした。日本経済は確かに停滞していたが、その根本原因を、アベノミクスを提案した経済学者の浜田氏すらわかっていなかった。前回のブログでも書いたが、デフレかインフレかは需要と供給のバランスが一方に傾いたときに生じる。日本の場合(日本だけではなく世界で先進国共通の現象でもあるが)、少子高齢化によって年々需要は減少せざるを得ないのは当然である。だから私は安倍第2次政権が発足した時に『新政権への期待と課題』と題したブログで需要を喚起するには相続税と贈与税の関係を逆転して、高齢の富裕層が貯めこんでいる金融資産を若い世代に移せと提案した。ま、孫の教育資金として非課税枠を増やしはしたが、それで経営状態が良くなったのは学習塾だけだろう。教育の範囲がどう定められたかは知らないが、ひょっとしたらスポーツや囲碁将棋の世界も認められたのかもしれない。若い世代が、どの分野であろうと育つことは私も喜んではいるが、その原因が非課税の教育資金贈与にあるとしたら、そう素直には喜べない。
私が「問」を常に自らの思考回路のベースに置いているのは、そういう疑問を抱くことを常に心がけているせいだ。なぜ「デフレ不況」が続いているのか。その原因を論理的に追求せずして、金利政策によって需要を喚起しようとしてきたのがアベノミクスであり、その6年間の結果がどうだったのかを論理的に分析するのが経済学者でありジャーナリズムだと、私は考えている。
かといって私は別に特定の党の支持者ではないから、政権交代させるために権力批判をしてきたわけではない。安部政権は民主主義の宿命的ともいえる致命的欠陥を、これ以上は不可能といえるほど巧みに操って一強体制を構築してきた。私はこれまでブログで20回にわたって『民主主義とは何かが、いま問われている』と題する連載記事を書いてきた。
民主主義という政治システムは多数決原理に基づいている。この基本的原理を否定したら、民主主義という政治システムは成り立たない。
なぜ民主主義の政治システムに多数決原理が導入されたか。政治に民意を反映させるためだろう。が、民意は権力者によって容易に操ることができる。だから北朝鮮も国名を「朝鮮民主主義人民共和国」として、国民の大多数は矛盾を感じていないようだ。金体制に逆らう人は「反逆者」あるいは「国家転覆謀略者」として、北朝鮮の「民主主義体制」から排除されてしまうから、「民主的」に独裁体制が構築される。同様なことは戦前に日本やナチスドイツでも民主主義の名のもとに行われてきた。
民主主義政治が行われていると、大半の国民が思い込んでいる日本でも、実は民主主義の根幹にかかわるような選挙で、安倍総理は「独裁」に近いといえるほどの一強体制を構築してきた。言うまでもなく自公が衆参両院で圧倒的多数を占める状況では自民党総裁が総理の座に就くことは至極当然といえる。ところが、自民党総裁選が民主主義の原則を逸脱しているのだ(野党の代表選も同様だが)。
第2次安倍政権が発足する直前、12年9月に行われた自民党総裁選では安倍、石破、石原の3氏が総裁選に立候補した。自民党総裁選はなぜか、党員選挙(あえて「党員選挙」と書く)と、国会議員選挙(あえて「国会議員選挙」と書く)の2段階で行われる。
12年の総裁選では、党員選挙で石破氏が165票、安部氏が87票と2倍近い大差をつけて石破氏が勝った。党の総裁や代表は党所属の国会議員の代表ではなく、本来は党員の代表であるべきではないだろうか。国会議員であろうと、地方議員であろうと、一般党員であろうと、1票の重さは同じはずだ。それが民主主義政治の根幹をなす選挙制度だ。その党員選挙の結果を、国会議員選挙でひっくり返した。こういうやり方って、共産圏の国の選挙制度とそっくりじゃない?
昨年の自民党総裁選の報道について私はNHKと朝日新聞に「地方票と議員票」という言い方はおかしい。自民党が総裁選のまやかしをごまかすために、そういう言い方をしてきた経緯があるのかもしれないが、では地方票には東京や大阪などの大都市の党員の票は含まれていないのか。「地方票」という表現や表記はやめて「党員票」とすべきだと申し入れてきた。
NHKが私の提言を受け入れたのか否かは知らないが、総裁選についての報道では終始「党員票」「議員票」と位置付けるようになった。一方、朝日新聞は表記が混乱していた。記事の多くは「党員票」と表記されるようになったが、一部「地方票」という表記が混じっていた。で、その都度、私は朝日新聞の読者対応窓口の方に、表記を「党員票」に統一するよう申し入れてきたが、一向に改められない。で、9月13日、朝日新聞の表記の混乱についてブログで告発することを伝えたうえで、17日投稿のブログで書いた。びっくりしたのは総裁選翌日の21日の朝日新聞朝刊の記事である。1面トップから解説記事、「時々刻々」「社説」に至るまでものの見事に党員票を「地方票」という表記に統一してしまったのだ。そのことも17日投稿のブログに【追記】として書き加えた。
次の総裁選では、私がまだ元気でブログを書くことができる状態にあれば、「党員票vs議員票」という選挙の構図の表記について、「党員選挙vs国会議員選挙」と改めるよう自民党本部やメディアに申し入れるつもりだ。そうすれば総裁選で国会議員の一票が国会議員以外の党員の2000倍を超える格差を有していることがだれの目にも明らかになる。自民党総裁選が、いかに民主主義を破壊した構図になっているか。最も自民党だけではないが…。
自民党よりもっとひどいのは共産党だ。共産党の主張内容には支持できることも少なくないが、党の執行部は最終的には選挙結果の責任を取らなければならない。それが民主主義政治の原則だ。
共産党は17年11月の衆院選挙で惨敗した。「立憲野党に選挙協力したため」というのが敗北を正当化する理由だったが、その前の参院選では1人区で民主党と選挙協力した結果、民主党は惨敗したが共産党は躍進した。そのときの共産党の総括は「選挙協力という我が党の方針が正しかった」と、胸を張ったはずだ。整合性が取れない論理で選挙のたびに執行部の選挙方針を正当化し、そうした執行部に「おかしい」という疑問の声さえ出ない共産党の体質を、私は支持するわけにはいかない。結果に対して執行部が自ら責任を取らずに済む世界は、宗教だけだ。
今年は皇太子に皇位が継承されて新しい天皇が誕生するとともに、選挙の年でもある。4月には統一地方選挙があり、7月には参院選がある。すでに6月衆院解散・衆参同時選挙の声さえあちこちから噴き出している。もちろん衆院を解散するにはそれなりの大義名分が必要だ。メディアでは三度消費税増税の延期を行うために「国民に信を問う」という「大義名分論」もささやかれている。時あたかもアップルが業績の下方修正を発表したことで世界同時株安が生じたこともあったためだが、いわゆる「アップル・ショック」は一時的なものでしかない。安倍総理は「今度消費税増税を延期するとしたらリーマン・ショック級の事態が生じたときだ」と明言しており、リーマン・ショックとアップル・ショックは象とリンゴくらいの差がある(本当はリンゴとの比喩では果物を書きたかったが、私が知る限り最大の果物はスイカで、スイカと比べるならリンゴは大きすぎ、リーマン・ショックとアップル・ショックの差をスイカと比較するならせいぜい甲州ブドウくらいだろう)。リーマン・ショックの時はアメリカだけでなく世界中の金融機関が大打撃を受け、世界経済は大混乱に陥った。バブル崩壊後の一大金融再編成を経た日本の金融界は、リーマン・ショックの直接的被害はあまり受けなかったが、世界経済の大混乱のあおりを免れることはできなかった。仮にアップルが倒産するようなことがあったとしても、リーマン・ショックの時のような金融大混乱は絶対に生じない。
だから消費税増税の延期をいまさら国民に問うことは不可能だし、ありえないと私は考えている。もし衆院解散・衆参同時選挙がありうるとしたら、安倍総理が、何が何でも在任中に憲法改正を強行しようとしている場合だ。
元日、石破氏が「今度の参院選は危うい」と発言した。政治家の発言は額面通りには受け取れない。石破氏がどういう計算でそういう発言をしたのかを考える必要がある。言うまでもなく、石破氏は「ポスト安倍」を狙っている。憲法観は安倍総理とは「月とスッポン」ほど違っているが、この際、衆参同時選挙への道慣らしに協力して安倍改憲をとりあえずさせ、自分が総理になった時、新憲法の下での自衛隊の運用について自分の憲法観を反映させようと考えているのかもしれない。
だが、その前に通常国会があり、統一地方選挙がある。1月後半が予定されている通常国会で安倍内閣は憲法改正を最重要課題として取り組むはずだ。が、立憲民主党がメディアでのPRなどを含む国民投票法案の論議が先だ、と譲る姿勢を見せていない。今回だけは公明党が憲法改正に消極的で(もし公明党が憲法改正に協力姿勢を見せれば、支持母体の創価学会との亀裂が決定的になりかねないため)、その結果、通常国会で憲法議論が宙に浮いてしまった場合、統一地方選挙での自公選挙協力体制にひずみが生じかねない。
その時政界に大変動が生じる可能性が高くなる。つまり安倍自民が山口公明を切り捨て、維新や希望など憲法改正に協力的な第三野党グループとの政界再編成に乗り出す可能性が十分ある。その時、安倍総理は衆院を解散して衆参同時選挙を強行するだろう。もちろん衆院解散の大義名分は「自衛隊が違憲だと考えている憲法学者が7~8割いる。自衛隊違憲論争に終止符を打つことについて国民に信を問う」というものになる。
実はメディアの世論調査によれば、国民の大半(朝日新聞の場合は8割)は「自衛隊は合憲」と考えている。が、現行憲法9条の改正については国民の55%が「反対」である。
私自身は、厳密に憲法の条文に照らして解釈すれば、自衛隊は違憲だと考えている。おそらく憲法学者の大半も違憲だと考えていよう。だが、自衛隊違憲論争が盛んだったのは自衛隊創設時から砂川闘争までの頃であり、いまでは自衛隊という存在は国民生活の中に完全に根付いている。自衛隊違憲論争などという代物は、言うなら墓場に葬られているのが現実だ。だから国民は「自衛隊は必要であり、自衛隊の存在は認められるべきだ」という意味で「自衛隊合憲」と判断している。そう考えなければ、国民の8割が自衛隊は合憲としながら、憲法改正の必要性を認めない、という一見矛盾した世論調査の結果は生じない。
が、安倍総理の小ずるい点は、墓場の中に埋もれている「自衛隊違憲論争」を墓石の下から掘り起こし、あたかも今でも自衛隊員が日陰者扱いされているかのような妄想を振りまくことによって憲法改正論議の焦点にしようとしていることだ。だから、万一憲法改正案が国会で発議されたら、間違いなく国民投票で改正案は過半数の支持を受けてしまう。国民投票に向けて安倍政権は国民にこう訴えることは確実だからだ。
「自衛隊はいまだに違憲の存在だという憲法学者が多い。もしこの国民投票で改正案が否決されたら自衛隊は違憲ということになり、国民の命を守り、大災害の時に避難者を救済するために命懸けで取り組んでくれている自衛隊を、解散せざるを得なくなります。そうなって、いいんですか?」と。
アメリカ高官筋から「何も今憲法を改正しなくても、集団的自衛権を行使できる安保法制も成立したし、これ以上リスクは冒してほしくない」という声が聞こえきても、安倍総理が意に介さず憲法改正にまっしぐらの突き進もうとしているのは、国会が改正案を発議して国民投票に持ち込めれば、絶対に勝てるという絶対的自信があるからだ。
野党やメディアが、そうした安倍戦略をどこまで読み切るかが、間もなく始まる通常国会では問われる。すでに述べたように、私の漢字は「問」である。
ちなみに私の憲法観。もちろん9条についてである。
自衛隊が合憲か違憲かといった議論など、私はどうでもいいと思っている。すでに述べたように、現行憲法を素直に読めば、自衛隊が違憲であることは自明だ。9条2項で、日本は戦力の不保持と交戦権の放棄をうたっている。である以上、世界でも核を保持していないだけで有数の軍事力を有している自衛隊の存在が憲法に抵触しないという主張は論理的には成り立たない。
が、過去の政権は鳩山野合政権や民主野合政党政権も含めて「自衛のための『実力(?)』を有することまで憲法は否定していない」と主張してきた。つまり9条解釈の根幹に横たわっているのは、日本の安全保障についての基本的理念である。私は過去の基本的理念を「抑止力神話」と呼んでいる。
抑止力…とは何か。
「他国からの軍事攻撃や軍事的圧力を防ぐための軍事力」というのが、一般的解釈だろう。だから他国の軍事的脅威に対する抑止力として、自衛隊の「実力」は整備されてきた。中国やロシア、北朝鮮の核に対する抑止力として自衛隊が核を保持しようとしないのは、日本はアメリカの核に守られているという「核の傘神話」を政府もメディアも信奉しているからだ。ところで、そのアメリカの核は、日本にとって永遠に脅威にはならないのか?
日米安全保障条約という同盟関係があるからアメリカの核は日本にとって脅威ではない、と本気で考えているのが政治家でありメディアだ。しかし日米が親密な関係を築いてきたのは、人類の歴史のほんの70ページほどでしかない。今後も数十年あるいは数百年にわたって続くという保証はあるのだろうか。アメリカが、例えば中国との関係を重視して米中の国益のために「日米同盟」を破棄するといったことは絶対にありえないと、だれが確信をもって言えるのか。歴史には、あらゆる可能性がありうるのだ。
一方、第2次世界大戦以降、戦争はどこで起きたか。
言っておくが、戦争とは国と国の軍事衝突の究極的な状態のことである。私の記憶にある限り「イ・イ戦争(イラン・イラク戦争)と「湾岸戦争」くらいしかない。イ・イ戦争はイスラム教の覇権争いから生じた戦争である。湾岸戦争のきっかけになったイラクのクウェート侵攻はクウェートとの軍事衝突はしていない。言うならイラクによる無防備な女性に対する「強姦」的侵略行為だ。だから誰もイラク・クウェート戦争とは呼ばない。日本がかつて朝鮮を併合した時も、日本は朝鮮と戦争をしたわけではない。だから日朝戦争という言葉はない。アメリカを中心とする多国籍軍が行った湾岸戦争はイラク軍vs多国籍軍のあいだでの紛れもない戦争だった。
朝鮮戦争やベトナム戦争はどうか。朝鮮やベトナムがどこかの国と戦争をしたというのか。そんな歴史的事実はない。いわゆる「朝鮮戦争」は朝鮮共産党軍と大韓民国軍の権力争奪戦であり、その国内紛争にアメリカや中国が軍事干渉しただけだ。いわゆる「ベトナム戦争」も同じだ。では中国の覇権争いであった蒋介石軍と毛沢東軍の戦いを、なぜ「中国戦争」と言わないのか。中国が他国と軍事衝突した戦争ではないからだ。
なぜ私が戦争の定義にこだわったかと言うと、「抑止力」の性質が第2次世界大戦までと以降とでは根本的に変わったからだ。第2次世界大戦までの戦争の目的は基本的に経済的権益をめぐる強国間の衝突が原因だった。そういう意味ではすべての戦争が当事者にとっては「自衛のための戦争」といえる要素を含んでいた。「盗人にも三分の理あり」といっても差し支えないほどの自分勝手な屁理屈であっても、例えば日中戦争にしても当時の日本政府には「ソ連軍南下の脅威を防ぐため」といった口実があった。
いわゆる朝鮮戦争やベトナム戦争は、アジア全体への共産勢力の浸透を防止することがアメリカの国策だった。
そういう観点で今日の世界を見るとき、もはや体制間の軍事衝突はありえない。ソ連や東欧共産圏は体制が崩壊したし、北朝鮮もアメリカと本気で戦争を始めるほど馬鹿ではあるまい。
では、北朝鮮はなぜ逆立ちしても勝てっこないアメリカに対して、軍事的抑止力として核やミサイルを開発してきたのか。米韓関係が基本にあるためだろうが、アメリカは一貫して北朝鮮に対して敵視政策をとってきた。「テロ支援国家」「ならず者国家」「悪の枢軸」…すべて米大統領が北朝鮮に投げつけてきた言葉だ。現に日本が、日米安保条約がない状態の中でどこかの核大国からあからさまな敵視政策を受けたら、どういう抑止力を持とうとするか。北朝鮮の金委員長が「日本や韓国はアメリカの核の傘で守られているが、我が国は自力で核の脅威から守らなければならない」と核開発の正当性を主張したのは、ある意味正当である。もし、中国なりロシアなりが北朝鮮と安全保障条約を結んでいれば、北朝鮮も国民生活を犠牲にしてまで核開発に狂奔する必要はない。
そうした北朝鮮の立場を考えたら、いたずらに北朝鮮の核やミサイルの脅威をがなり立て、かえって北朝鮮を挑発するような「抑止力」の強化に奔走する安倍政権の安全保障策が、私には理解できない。
歴史は繰り返すというが、ある国の軍事的抑止力の強化は、その国にとっては他国の軍事的脅威から自国を防衛するためという理屈があっても、そうした軍事的抑止力の強化は同時に他国にとっては新たな軍事的脅威になるというパラドックスを、政治家もメディアも理解していないのだろうか。
さらに言えば、兵器の技術的進歩によって戦争は自国の経済的権益の拡大を生むどころか、かえって払う犠牲の大きさや侵略後の新体制の維持にかかるコストを計算すれば、経済的には戦争によって(たとえ戦争に勝ったとしても)得るものより失うもののほうが大きいことに、多くの国は気付き始めている。現にアメリカが「大量破壊兵器を隠し持っている」といった妄想に駆られて起こしたイラク戦争で、結果的に大量破壊兵器などなかっただけでなく、フセインは殺害したものの、その後のイラク経営にかかるコストや宗教対立に巻き込まれるリスクを回避して、破壊するだけ破壊して「あとは俺たちの知ったこっちゃねぇ」と放り出してしまった付けが、現在の中東の混乱やテロの暴発を招いている。アメリカに対して「自分がやったことの責任くらい取れ」と、日本の総理はなぜ言えないのか。アメリカの最大の同盟国のイギリスですら逡巡していたイラク攻撃に、世界で真っ先に「やれやれ」とけしかけたのは日本の小泉総理だったはずだ。
軍事的抑止力の強化が自国の安全保障にとっては効果を持たず、かえって他国との軍事的緊張を増幅するだけだという理由はお判りいただけたと思う。では、どうやって他国の軍事的脅威を取り除けばいいか。
経済的・文化的な友好関係を構築することが、実は最大の抑止力になる。たとえば北朝鮮。日本政府が北朝鮮に対して「我が国がアメリカの敵視政策を止めさせるから、逆立ちしても勝てもしない相手に軍事力で対抗しようなどというばかげた政策はやめなさい。そんなことに国力を使うより、国民生活を豊かにするための経済活動の発展に力を入れなさい。そういう方向に政策転換するなら、日本が資金や技術の面で大いに協力してあげるよ」と、金委員長を説得することだ。拉致問題も、こうした方向で日朝関係が良化すれば。おのずと解決に向かう。日本がそういうモデル・ケースを世界に示せば、世界の安全保障環境は大きく変わるだろう。
【追記】産経新聞の速報によれば、現在無所属の細野豪志衆院議員(静岡5区)が自民党二階派と会合を重ね自民党入りを画策しているという。
「驚き木、桃の木、山椒の木」かいな。
細野氏は言うまでもなく旧民主党の幹部であり、現東京都知事の小池氏と組んで「希望の党」結党に奔走したが、小池氏の「排除」発言で先の衆院選で大敗北を喫し、細野氏は希望の党を離れ無所属になった。
そうしたいきさつは不問に付するとしても、少なくとも細野氏は自民党と対峙して自公連立政権に代わる政権交代を、彼自身の政治姿勢としてきたはずだ。
その彼が自民党入党を模索しているという。産経新聞によれば地元の自民党静岡県連は猛反発しているというが。二階派は細野氏を受け入れる意向だという。こんなことが罷り通れば、国民の政治不信は募るばかりだ。
そもそも細野氏のかつての政治姿勢は何だったのか。
「自らの政治信条を貫くために、政権交代の可能性が低い野党側で政治活動をするより、政権の懐に飛び込んで政権の改革をしたい」と、もし考えているというのなら、いったん議員を辞職してゼロから再スタートすべきだろう。
細野のような若造は知らないのだろうが、かつて60年安保闘争が終焉した時、いわゆる「文化的進歩人」の代表格であった石原慎太郎氏が、政権の懐に入って改革を目指すと称して自民党入りをして。結局は「ミイラ取りがミイラになった」。ミイラになったどころではなく、自民党改革どころか自民党でも最右翼に転向した。そのことは私が1992年に祥伝社から上梓した『忠臣蔵と西部劇』に書いたが、その少し前石原氏は盛田昭夫氏(当時ソニー社長)との対談集『NOと言える日本』がアメリカで大問題になったことがある。石原氏は雑誌『文藝春秋』で「アメリカの人種差別問題を批判したため」と争点外しをしたが、そんなことでアメリカが怒ったわけではない。石原氏は日本の政治家として致命的なことを同書で書いた(実際には「発言」)。原文通りに引用する。
「要するに(アメリカの兵器は)日本の半導体を使わなくては精度の保証ができなくなってきており、彼らがどんなに軍拡を続けたところで日本が、チップを売るのを中止する、と言えばどうにもならないところまできている。
仮に日本が、半導体をソ連に売ってアメリカに売らないと言えば、それだけで軍事力のバランスががらりと様相を変えてしまう。(日本が)そんなことを考えるならアメリカは日本を占領する、とあるアメリカの人たちは言っています。確かにそういう時代になってきているのです」
この引用にはまったく作為をしていない。私はいわゆる「日米同盟」には疑問を持っているし、次回のブログで私の考えを述べるが(原稿はすでに完成している。ただ、いまのブログの読者が増大し続けているので、投稿のタイミングを考えているところだ)、なぜ石原氏の発言にアメリカが憤ったのかは、もはや説明に必要はないだろう。
でもアホな読者のために多少解説を加えれば、同書で石原氏が「ソ連」と言っているように、まだ冷戦の真っ最中での発言である。当時日米間では貿易摩擦が最高潮に達していた時期ではあったが、こともあろうに日本が兵器の基幹技術ともいえる半導体を、同盟国のアメリカに売らずに敵対国のソ連に売るという発想は、日本の政治に責任を持つ政治家の言うべきことか。
その石原氏が、その後東京都知事になり無謀というか、無意味というべきか、あるいは「そこまでボケたのか」と言いたい東京オリンピック招致に血眼になったことについて、メディアも一切批判していない。私は東京都都庁の広報室に確認したが、東京オリンピックの開催が決まって以降、東京都民だけでなく全国の国民から批判が殺到したようだ。オリンピック開催期間中は一時的に景気は浮揚するかもしれないが、オリンピック開催のために投じた金やハコモノは間違いなく大きな負のレガシーになる。
基本的に人口減少が進み、しかも日本人の金融総資産が、金を使わない高齢者に集中している状況で、国内の総需要はいかなる金融政策をとっても回復はしない。外国人労働者を受け入れたとしても、彼らは稼いだ金を本国の家族に送金するだけで、日本在住の人口は増えても日本国内の総需要は増えない。そんなことも理解できずに物価指数の上昇率を対前年比2%というバカげたインフレ政策をとってきた責任はだれが負ってくれるのか。
細野氏は自分では「ミイラ」になるつもりはないかもしれないが、石原氏の体たらくを、まずどう考えているのか、そのことから「転向」説明をしていただきたい。
日産の独裁者だったゴーン氏は留置所の中でカップラーメンの年越しそばをふるまわれ、元日には形ばかりのおせちも出たという。ゴーン氏にしてみれば「一日にして天と地がひっくり返った」ような昨年だっただろう。自業自得だったのか、それとも検察の勇み足だったのかは、裁判の行方を見守るしかない。私自身は、おそらく検察がメディアにリークしたであろうゴーン氏の「悪業」の数々も、また日産経営陣の告発も、「眉唾」で聞いている。もしゴーン氏の言い分のほうに理があれば、あるいは理がなくても、検察と司法取引した西川社長をはじめ日産経営陣も、共同正犯とまでは言えないにしても、最低でも「見て見ぬふりをしてゴーン体制」を支えてきた取締役義務違反のそしりはぬぐえないだろう。
昨年末の『今年最後のブログ』で、安倍総理の今年の漢字「転」をからかって「わかっているなら、早よ転んでくれや」と書いたが、残念ながらそう簡単には転びそうもない。
私の漢字はつねに「問」である。「疑問」の「問」であり、いかなることも鵜呑みにはしないという、いやらしい性格の表れでもある。もっともジャーナリストが素直になったら、世の中はどうなるだろう。
世界には様々な情報が飛び交っている。情報の出どこの多くは要人の発言だ。たとえば年末から年初にかけて世界の株式市場や為替が大きく動いた。その原因は米FRB(アメリカの中央銀行)議長の発言と金利きき上げ、それに対する大統領の「解任発言」である。
各国の中央銀行の金利政策は、基本的には自国の消費者物価指数の動向を最大に考慮する。日本を例にとれば、安倍総理が日本の経済状況を「デフレ不況」と決めつけた瞬間から日銀の金利政策はスタートした。日本経済は確かに停滞していたが、その根本原因を、アベノミクスを提案した経済学者の浜田氏すらわかっていなかった。前回のブログでも書いたが、デフレかインフレかは需要と供給のバランスが一方に傾いたときに生じる。日本の場合(日本だけではなく世界で先進国共通の現象でもあるが)、少子高齢化によって年々需要は減少せざるを得ないのは当然である。だから私は安倍第2次政権が発足した時に『新政権への期待と課題』と題したブログで需要を喚起するには相続税と贈与税の関係を逆転して、高齢の富裕層が貯めこんでいる金融資産を若い世代に移せと提案した。ま、孫の教育資金として非課税枠を増やしはしたが、それで経営状態が良くなったのは学習塾だけだろう。教育の範囲がどう定められたかは知らないが、ひょっとしたらスポーツや囲碁将棋の世界も認められたのかもしれない。若い世代が、どの分野であろうと育つことは私も喜んではいるが、その原因が非課税の教育資金贈与にあるとしたら、そう素直には喜べない。
私が「問」を常に自らの思考回路のベースに置いているのは、そういう疑問を抱くことを常に心がけているせいだ。なぜ「デフレ不況」が続いているのか。その原因を論理的に追求せずして、金利政策によって需要を喚起しようとしてきたのがアベノミクスであり、その6年間の結果がどうだったのかを論理的に分析するのが経済学者でありジャーナリズムだと、私は考えている。
かといって私は別に特定の党の支持者ではないから、政権交代させるために権力批判をしてきたわけではない。安部政権は民主主義の宿命的ともいえる致命的欠陥を、これ以上は不可能といえるほど巧みに操って一強体制を構築してきた。私はこれまでブログで20回にわたって『民主主義とは何かが、いま問われている』と題する連載記事を書いてきた。
民主主義という政治システムは多数決原理に基づいている。この基本的原理を否定したら、民主主義という政治システムは成り立たない。
なぜ民主主義の政治システムに多数決原理が導入されたか。政治に民意を反映させるためだろう。が、民意は権力者によって容易に操ることができる。だから北朝鮮も国名を「朝鮮民主主義人民共和国」として、国民の大多数は矛盾を感じていないようだ。金体制に逆らう人は「反逆者」あるいは「国家転覆謀略者」として、北朝鮮の「民主主義体制」から排除されてしまうから、「民主的」に独裁体制が構築される。同様なことは戦前に日本やナチスドイツでも民主主義の名のもとに行われてきた。
民主主義政治が行われていると、大半の国民が思い込んでいる日本でも、実は民主主義の根幹にかかわるような選挙で、安倍総理は「独裁」に近いといえるほどの一強体制を構築してきた。言うまでもなく自公が衆参両院で圧倒的多数を占める状況では自民党総裁が総理の座に就くことは至極当然といえる。ところが、自民党総裁選が民主主義の原則を逸脱しているのだ(野党の代表選も同様だが)。
第2次安倍政権が発足する直前、12年9月に行われた自民党総裁選では安倍、石破、石原の3氏が総裁選に立候補した。自民党総裁選はなぜか、党員選挙(あえて「党員選挙」と書く)と、国会議員選挙(あえて「国会議員選挙」と書く)の2段階で行われる。
12年の総裁選では、党員選挙で石破氏が165票、安部氏が87票と2倍近い大差をつけて石破氏が勝った。党の総裁や代表は党所属の国会議員の代表ではなく、本来は党員の代表であるべきではないだろうか。国会議員であろうと、地方議員であろうと、一般党員であろうと、1票の重さは同じはずだ。それが民主主義政治の根幹をなす選挙制度だ。その党員選挙の結果を、国会議員選挙でひっくり返した。こういうやり方って、共産圏の国の選挙制度とそっくりじゃない?
昨年の自民党総裁選の報道について私はNHKと朝日新聞に「地方票と議員票」という言い方はおかしい。自民党が総裁選のまやかしをごまかすために、そういう言い方をしてきた経緯があるのかもしれないが、では地方票には東京や大阪などの大都市の党員の票は含まれていないのか。「地方票」という表現や表記はやめて「党員票」とすべきだと申し入れてきた。
NHKが私の提言を受け入れたのか否かは知らないが、総裁選についての報道では終始「党員票」「議員票」と位置付けるようになった。一方、朝日新聞は表記が混乱していた。記事の多くは「党員票」と表記されるようになったが、一部「地方票」という表記が混じっていた。で、その都度、私は朝日新聞の読者対応窓口の方に、表記を「党員票」に統一するよう申し入れてきたが、一向に改められない。で、9月13日、朝日新聞の表記の混乱についてブログで告発することを伝えたうえで、17日投稿のブログで書いた。びっくりしたのは総裁選翌日の21日の朝日新聞朝刊の記事である。1面トップから解説記事、「時々刻々」「社説」に至るまでものの見事に党員票を「地方票」という表記に統一してしまったのだ。そのことも17日投稿のブログに【追記】として書き加えた。
次の総裁選では、私がまだ元気でブログを書くことができる状態にあれば、「党員票vs議員票」という選挙の構図の表記について、「党員選挙vs国会議員選挙」と改めるよう自民党本部やメディアに申し入れるつもりだ。そうすれば総裁選で国会議員の一票が国会議員以外の党員の2000倍を超える格差を有していることがだれの目にも明らかになる。自民党総裁選が、いかに民主主義を破壊した構図になっているか。最も自民党だけではないが…。
自民党よりもっとひどいのは共産党だ。共産党の主張内容には支持できることも少なくないが、党の執行部は最終的には選挙結果の責任を取らなければならない。それが民主主義政治の原則だ。
共産党は17年11月の衆院選挙で惨敗した。「立憲野党に選挙協力したため」というのが敗北を正当化する理由だったが、その前の参院選では1人区で民主党と選挙協力した結果、民主党は惨敗したが共産党は躍進した。そのときの共産党の総括は「選挙協力という我が党の方針が正しかった」と、胸を張ったはずだ。整合性が取れない論理で選挙のたびに執行部の選挙方針を正当化し、そうした執行部に「おかしい」という疑問の声さえ出ない共産党の体質を、私は支持するわけにはいかない。結果に対して執行部が自ら責任を取らずに済む世界は、宗教だけだ。
今年は皇太子に皇位が継承されて新しい天皇が誕生するとともに、選挙の年でもある。4月には統一地方選挙があり、7月には参院選がある。すでに6月衆院解散・衆参同時選挙の声さえあちこちから噴き出している。もちろん衆院を解散するにはそれなりの大義名分が必要だ。メディアでは三度消費税増税の延期を行うために「国民に信を問う」という「大義名分論」もささやかれている。時あたかもアップルが業績の下方修正を発表したことで世界同時株安が生じたこともあったためだが、いわゆる「アップル・ショック」は一時的なものでしかない。安倍総理は「今度消費税増税を延期するとしたらリーマン・ショック級の事態が生じたときだ」と明言しており、リーマン・ショックとアップル・ショックは象とリンゴくらいの差がある(本当はリンゴとの比喩では果物を書きたかったが、私が知る限り最大の果物はスイカで、スイカと比べるならリンゴは大きすぎ、リーマン・ショックとアップル・ショックの差をスイカと比較するならせいぜい甲州ブドウくらいだろう)。リーマン・ショックの時はアメリカだけでなく世界中の金融機関が大打撃を受け、世界経済は大混乱に陥った。バブル崩壊後の一大金融再編成を経た日本の金融界は、リーマン・ショックの直接的被害はあまり受けなかったが、世界経済の大混乱のあおりを免れることはできなかった。仮にアップルが倒産するようなことがあったとしても、リーマン・ショックの時のような金融大混乱は絶対に生じない。
だから消費税増税の延期をいまさら国民に問うことは不可能だし、ありえないと私は考えている。もし衆院解散・衆参同時選挙がありうるとしたら、安倍総理が、何が何でも在任中に憲法改正を強行しようとしている場合だ。
元日、石破氏が「今度の参院選は危うい」と発言した。政治家の発言は額面通りには受け取れない。石破氏がどういう計算でそういう発言をしたのかを考える必要がある。言うまでもなく、石破氏は「ポスト安倍」を狙っている。憲法観は安倍総理とは「月とスッポン」ほど違っているが、この際、衆参同時選挙への道慣らしに協力して安倍改憲をとりあえずさせ、自分が総理になった時、新憲法の下での自衛隊の運用について自分の憲法観を反映させようと考えているのかもしれない。
だが、その前に通常国会があり、統一地方選挙がある。1月後半が予定されている通常国会で安倍内閣は憲法改正を最重要課題として取り組むはずだ。が、立憲民主党がメディアでのPRなどを含む国民投票法案の論議が先だ、と譲る姿勢を見せていない。今回だけは公明党が憲法改正に消極的で(もし公明党が憲法改正に協力姿勢を見せれば、支持母体の創価学会との亀裂が決定的になりかねないため)、その結果、通常国会で憲法議論が宙に浮いてしまった場合、統一地方選挙での自公選挙協力体制にひずみが生じかねない。
その時政界に大変動が生じる可能性が高くなる。つまり安倍自民が山口公明を切り捨て、維新や希望など憲法改正に協力的な第三野党グループとの政界再編成に乗り出す可能性が十分ある。その時、安倍総理は衆院を解散して衆参同時選挙を強行するだろう。もちろん衆院解散の大義名分は「自衛隊が違憲だと考えている憲法学者が7~8割いる。自衛隊違憲論争に終止符を打つことについて国民に信を問う」というものになる。
実はメディアの世論調査によれば、国民の大半(朝日新聞の場合は8割)は「自衛隊は合憲」と考えている。が、現行憲法9条の改正については国民の55%が「反対」である。
私自身は、厳密に憲法の条文に照らして解釈すれば、自衛隊は違憲だと考えている。おそらく憲法学者の大半も違憲だと考えていよう。だが、自衛隊違憲論争が盛んだったのは自衛隊創設時から砂川闘争までの頃であり、いまでは自衛隊という存在は国民生活の中に完全に根付いている。自衛隊違憲論争などという代物は、言うなら墓場に葬られているのが現実だ。だから国民は「自衛隊は必要であり、自衛隊の存在は認められるべきだ」という意味で「自衛隊合憲」と判断している。そう考えなければ、国民の8割が自衛隊は合憲としながら、憲法改正の必要性を認めない、という一見矛盾した世論調査の結果は生じない。
が、安倍総理の小ずるい点は、墓場の中に埋もれている「自衛隊違憲論争」を墓石の下から掘り起こし、あたかも今でも自衛隊員が日陰者扱いされているかのような妄想を振りまくことによって憲法改正論議の焦点にしようとしていることだ。だから、万一憲法改正案が国会で発議されたら、間違いなく国民投票で改正案は過半数の支持を受けてしまう。国民投票に向けて安倍政権は国民にこう訴えることは確実だからだ。
「自衛隊はいまだに違憲の存在だという憲法学者が多い。もしこの国民投票で改正案が否決されたら自衛隊は違憲ということになり、国民の命を守り、大災害の時に避難者を救済するために命懸けで取り組んでくれている自衛隊を、解散せざるを得なくなります。そうなって、いいんですか?」と。
アメリカ高官筋から「何も今憲法を改正しなくても、集団的自衛権を行使できる安保法制も成立したし、これ以上リスクは冒してほしくない」という声が聞こえきても、安倍総理が意に介さず憲法改正にまっしぐらの突き進もうとしているのは、国会が改正案を発議して国民投票に持ち込めれば、絶対に勝てるという絶対的自信があるからだ。
野党やメディアが、そうした安倍戦略をどこまで読み切るかが、間もなく始まる通常国会では問われる。すでに述べたように、私の漢字は「問」である。
ちなみに私の憲法観。もちろん9条についてである。
自衛隊が合憲か違憲かといった議論など、私はどうでもいいと思っている。すでに述べたように、現行憲法を素直に読めば、自衛隊が違憲であることは自明だ。9条2項で、日本は戦力の不保持と交戦権の放棄をうたっている。である以上、世界でも核を保持していないだけで有数の軍事力を有している自衛隊の存在が憲法に抵触しないという主張は論理的には成り立たない。
が、過去の政権は鳩山野合政権や民主野合政党政権も含めて「自衛のための『実力(?)』を有することまで憲法は否定していない」と主張してきた。つまり9条解釈の根幹に横たわっているのは、日本の安全保障についての基本的理念である。私は過去の基本的理念を「抑止力神話」と呼んでいる。
抑止力…とは何か。
「他国からの軍事攻撃や軍事的圧力を防ぐための軍事力」というのが、一般的解釈だろう。だから他国の軍事的脅威に対する抑止力として、自衛隊の「実力」は整備されてきた。中国やロシア、北朝鮮の核に対する抑止力として自衛隊が核を保持しようとしないのは、日本はアメリカの核に守られているという「核の傘神話」を政府もメディアも信奉しているからだ。ところで、そのアメリカの核は、日本にとって永遠に脅威にはならないのか?
日米安全保障条約という同盟関係があるからアメリカの核は日本にとって脅威ではない、と本気で考えているのが政治家でありメディアだ。しかし日米が親密な関係を築いてきたのは、人類の歴史のほんの70ページほどでしかない。今後も数十年あるいは数百年にわたって続くという保証はあるのだろうか。アメリカが、例えば中国との関係を重視して米中の国益のために「日米同盟」を破棄するといったことは絶対にありえないと、だれが確信をもって言えるのか。歴史には、あらゆる可能性がありうるのだ。
一方、第2次世界大戦以降、戦争はどこで起きたか。
言っておくが、戦争とは国と国の軍事衝突の究極的な状態のことである。私の記憶にある限り「イ・イ戦争(イラン・イラク戦争)と「湾岸戦争」くらいしかない。イ・イ戦争はイスラム教の覇権争いから生じた戦争である。湾岸戦争のきっかけになったイラクのクウェート侵攻はクウェートとの軍事衝突はしていない。言うならイラクによる無防備な女性に対する「強姦」的侵略行為だ。だから誰もイラク・クウェート戦争とは呼ばない。日本がかつて朝鮮を併合した時も、日本は朝鮮と戦争をしたわけではない。だから日朝戦争という言葉はない。アメリカを中心とする多国籍軍が行った湾岸戦争はイラク軍vs多国籍軍のあいだでの紛れもない戦争だった。
朝鮮戦争やベトナム戦争はどうか。朝鮮やベトナムがどこかの国と戦争をしたというのか。そんな歴史的事実はない。いわゆる「朝鮮戦争」は朝鮮共産党軍と大韓民国軍の権力争奪戦であり、その国内紛争にアメリカや中国が軍事干渉しただけだ。いわゆる「ベトナム戦争」も同じだ。では中国の覇権争いであった蒋介石軍と毛沢東軍の戦いを、なぜ「中国戦争」と言わないのか。中国が他国と軍事衝突した戦争ではないからだ。
なぜ私が戦争の定義にこだわったかと言うと、「抑止力」の性質が第2次世界大戦までと以降とでは根本的に変わったからだ。第2次世界大戦までの戦争の目的は基本的に経済的権益をめぐる強国間の衝突が原因だった。そういう意味ではすべての戦争が当事者にとっては「自衛のための戦争」といえる要素を含んでいた。「盗人にも三分の理あり」といっても差し支えないほどの自分勝手な屁理屈であっても、例えば日中戦争にしても当時の日本政府には「ソ連軍南下の脅威を防ぐため」といった口実があった。
いわゆる朝鮮戦争やベトナム戦争は、アジア全体への共産勢力の浸透を防止することがアメリカの国策だった。
そういう観点で今日の世界を見るとき、もはや体制間の軍事衝突はありえない。ソ連や東欧共産圏は体制が崩壊したし、北朝鮮もアメリカと本気で戦争を始めるほど馬鹿ではあるまい。
では、北朝鮮はなぜ逆立ちしても勝てっこないアメリカに対して、軍事的抑止力として核やミサイルを開発してきたのか。米韓関係が基本にあるためだろうが、アメリカは一貫して北朝鮮に対して敵視政策をとってきた。「テロ支援国家」「ならず者国家」「悪の枢軸」…すべて米大統領が北朝鮮に投げつけてきた言葉だ。現に日本が、日米安保条約がない状態の中でどこかの核大国からあからさまな敵視政策を受けたら、どういう抑止力を持とうとするか。北朝鮮の金委員長が「日本や韓国はアメリカの核の傘で守られているが、我が国は自力で核の脅威から守らなければならない」と核開発の正当性を主張したのは、ある意味正当である。もし、中国なりロシアなりが北朝鮮と安全保障条約を結んでいれば、北朝鮮も国民生活を犠牲にしてまで核開発に狂奔する必要はない。
そうした北朝鮮の立場を考えたら、いたずらに北朝鮮の核やミサイルの脅威をがなり立て、かえって北朝鮮を挑発するような「抑止力」の強化に奔走する安倍政権の安全保障策が、私には理解できない。
歴史は繰り返すというが、ある国の軍事的抑止力の強化は、その国にとっては他国の軍事的脅威から自国を防衛するためという理屈があっても、そうした軍事的抑止力の強化は同時に他国にとっては新たな軍事的脅威になるというパラドックスを、政治家もメディアも理解していないのだろうか。
さらに言えば、兵器の技術的進歩によって戦争は自国の経済的権益の拡大を生むどころか、かえって払う犠牲の大きさや侵略後の新体制の維持にかかるコストを計算すれば、経済的には戦争によって(たとえ戦争に勝ったとしても)得るものより失うもののほうが大きいことに、多くの国は気付き始めている。現にアメリカが「大量破壊兵器を隠し持っている」といった妄想に駆られて起こしたイラク戦争で、結果的に大量破壊兵器などなかっただけでなく、フセインは殺害したものの、その後のイラク経営にかかるコストや宗教対立に巻き込まれるリスクを回避して、破壊するだけ破壊して「あとは俺たちの知ったこっちゃねぇ」と放り出してしまった付けが、現在の中東の混乱やテロの暴発を招いている。アメリカに対して「自分がやったことの責任くらい取れ」と、日本の総理はなぜ言えないのか。アメリカの最大の同盟国のイギリスですら逡巡していたイラク攻撃に、世界で真っ先に「やれやれ」とけしかけたのは日本の小泉総理だったはずだ。
軍事的抑止力の強化が自国の安全保障にとっては効果を持たず、かえって他国との軍事的緊張を増幅するだけだという理由はお判りいただけたと思う。では、どうやって他国の軍事的脅威を取り除けばいいか。
経済的・文化的な友好関係を構築することが、実は最大の抑止力になる。たとえば北朝鮮。日本政府が北朝鮮に対して「我が国がアメリカの敵視政策を止めさせるから、逆立ちしても勝てもしない相手に軍事力で対抗しようなどというばかげた政策はやめなさい。そんなことに国力を使うより、国民生活を豊かにするための経済活動の発展に力を入れなさい。そういう方向に政策転換するなら、日本が資金や技術の面で大いに協力してあげるよ」と、金委員長を説得することだ。拉致問題も、こうした方向で日朝関係が良化すれば。おのずと解決に向かう。日本がそういうモデル・ケースを世界に示せば、世界の安全保障環境は大きく変わるだろう。
【追記】産経新聞の速報によれば、現在無所属の細野豪志衆院議員(静岡5区)が自民党二階派と会合を重ね自民党入りを画策しているという。
「驚き木、桃の木、山椒の木」かいな。
細野氏は言うまでもなく旧民主党の幹部であり、現東京都知事の小池氏と組んで「希望の党」結党に奔走したが、小池氏の「排除」発言で先の衆院選で大敗北を喫し、細野氏は希望の党を離れ無所属になった。
そうしたいきさつは不問に付するとしても、少なくとも細野氏は自民党と対峙して自公連立政権に代わる政権交代を、彼自身の政治姿勢としてきたはずだ。
その彼が自民党入党を模索しているという。産経新聞によれば地元の自民党静岡県連は猛反発しているというが。二階派は細野氏を受け入れる意向だという。こんなことが罷り通れば、国民の政治不信は募るばかりだ。
そもそも細野氏のかつての政治姿勢は何だったのか。
「自らの政治信条を貫くために、政権交代の可能性が低い野党側で政治活動をするより、政権の懐に飛び込んで政権の改革をしたい」と、もし考えているというのなら、いったん議員を辞職してゼロから再スタートすべきだろう。
細野のような若造は知らないのだろうが、かつて60年安保闘争が終焉した時、いわゆる「文化的進歩人」の代表格であった石原慎太郎氏が、政権の懐に入って改革を目指すと称して自民党入りをして。結局は「ミイラ取りがミイラになった」。ミイラになったどころではなく、自民党改革どころか自民党でも最右翼に転向した。そのことは私が1992年に祥伝社から上梓した『忠臣蔵と西部劇』に書いたが、その少し前石原氏は盛田昭夫氏(当時ソニー社長)との対談集『NOと言える日本』がアメリカで大問題になったことがある。石原氏は雑誌『文藝春秋』で「アメリカの人種差別問題を批判したため」と争点外しをしたが、そんなことでアメリカが怒ったわけではない。石原氏は日本の政治家として致命的なことを同書で書いた(実際には「発言」)。原文通りに引用する。
「要するに(アメリカの兵器は)日本の半導体を使わなくては精度の保証ができなくなってきており、彼らがどんなに軍拡を続けたところで日本が、チップを売るのを中止する、と言えばどうにもならないところまできている。
仮に日本が、半導体をソ連に売ってアメリカに売らないと言えば、それだけで軍事力のバランスががらりと様相を変えてしまう。(日本が)そんなことを考えるならアメリカは日本を占領する、とあるアメリカの人たちは言っています。確かにそういう時代になってきているのです」
この引用にはまったく作為をしていない。私はいわゆる「日米同盟」には疑問を持っているし、次回のブログで私の考えを述べるが(原稿はすでに完成している。ただ、いまのブログの読者が増大し続けているので、投稿のタイミングを考えているところだ)、なぜ石原氏の発言にアメリカが憤ったのかは、もはや説明に必要はないだろう。
でもアホな読者のために多少解説を加えれば、同書で石原氏が「ソ連」と言っているように、まだ冷戦の真っ最中での発言である。当時日米間では貿易摩擦が最高潮に達していた時期ではあったが、こともあろうに日本が兵器の基幹技術ともいえる半導体を、同盟国のアメリカに売らずに敵対国のソ連に売るという発想は、日本の政治に責任を持つ政治家の言うべきことか。
その石原氏が、その後東京都知事になり無謀というか、無意味というべきか、あるいは「そこまでボケたのか」と言いたい東京オリンピック招致に血眼になったことについて、メディアも一切批判していない。私は東京都都庁の広報室に確認したが、東京オリンピックの開催が決まって以降、東京都民だけでなく全国の国民から批判が殺到したようだ。オリンピック開催期間中は一時的に景気は浮揚するかもしれないが、オリンピック開催のために投じた金やハコモノは間違いなく大きな負のレガシーになる。
基本的に人口減少が進み、しかも日本人の金融総資産が、金を使わない高齢者に集中している状況で、国内の総需要はいかなる金融政策をとっても回復はしない。外国人労働者を受け入れたとしても、彼らは稼いだ金を本国の家族に送金するだけで、日本在住の人口は増えても日本国内の総需要は増えない。そんなことも理解できずに物価指数の上昇率を対前年比2%というバカげたインフレ政策をとってきた責任はだれが負ってくれるのか。
細野氏は自分では「ミイラ」になるつもりはないかもしれないが、石原氏の体たらくを、まずどう考えているのか、そのことから「転向」説明をしていただきたい。