小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

御嶽山大噴火の教訓…予知連絡会会長・東大名誉教授の「登山者自己責任」論に、被害者や遺族は納得するか?

2014-10-06 07:18:47 | Weblog
 4日午後7時30分からNHKが放送したNHKスペシャル『緊急報告 御岳山噴火~戦後史上最悪の被害』には、視聴者から大変な抗議の電話が殺到したようだ。ただしNHKに対する抗議の電話ではない。そのことはNHKふれあいセンターに確認済みだ。
 抗議の的になったのは、ゲストとして出演した火山噴火予知連絡会会長の藤井敏嗣氏だ。どういうわけか、藤井氏が登場したシーンに氏の肩書を示すテロップが表示されなかった。「火山噴火予知連絡会会長」としか表示されなかった(火山予知連絡会だったかもしれない)。連絡会が置かれている気象庁の名称も、藤井氏の本職である東京大学名誉教授の肩書も表示されなかった。NHKの放送では、異例の処置と言っていいだろう。藤井氏側からの要請があったと思われる。東大に火を付けかねられないと警戒したのかもしれない。
 午後8時13分までの放送時間中、藤井氏の顔が映し出された映像では、私がかけている「色眼鏡」のせいか、氏の表情は一見沈痛にみえた。歳をとったせいか、私の「色眼鏡」もかなり曇ってきたようだ。というのは、私の目には見えた氏の沈痛な面持ちとは裏腹に、氏からは被害者への謝罪の言葉も、遺族へのいたわりの言葉もいっさい、なかったからだ。いや、そもそも噴火を予知できなかったことへの責任感のひとかけらも、顔の表情とは裏腹に、言葉の端端から感じることができなかった。よくよく見れば、沈痛に見えた顔つきは無表情なそれだった。
 これからは私の記憶で書く。藤井氏の発言内容をNHKふれあいセンターに問い合わせたが、教えてもらえなかった。コミュニケーターから、「私が不正確なお伝えをしたら問題になりますから、メールで問い合わせてください」と言われ、メールで「ブログに書くため正確な発言を文字化して返送してほしい」旨を頼んだ。その返答がこうだった。
「番組の内容の文字化のサービスは行っておりません。またNHKからの回答は、みなさま宛のものであり、ブログ掲載など、内容を転用、二次使用することは固くお断りします」
 文字化のサービスをしていないというなら仕方ないが、武田キャスターの質問に対する藤井氏の回答発言は、NHKが著作権を持っているとでもいうのか。仮に著作権があったにせよ、批判や論評のための引用は著作権上認められている。そんなことも知らずに「内容を転用、二次使用することは固くお断り」する権利が、NHKにあるのか。それなら著作権法上の例外としてNHKが放送した内容に関しては、いかなる目的でも、またいかなるメディアにも、引用や転用、二次使用できないよう法律改正を要求すべきだ。もちろん、そうした行為が不可能なように、録画もできないよう映像にデジタル信号を張り付ければいい。そのくらいの技術はNHK技術研究所は持っているはずだ。宝の持ち腐れにならないよう、大いに活用したらいい。
 念のため、NHKふれあいセンターは2カ所あり、FAXやメールは東京・渋谷の本局で受け取っているが、新聞のラテ欄に掲載されている電話対応の組織は神奈川・川崎にあり、NHKとは別の下請け会社である。新聞社など、読者対応に定年退職者を臨時雇用するケースはあるが、組織そのものは当然本社内に置かれている。NHKは音声対応だけでなく電話番号も記録しており、それでも音声対応の組織を本局と切り離した別組織にしなければならない理由が何かあるのだろうか。スカパーが有料で再放送するというなら納得できるが、視聴料で運営しているNHKが有料のオンデマンドで二度稼ぎしたり、本来本局に置かれるべき視聴者窓口を別組織にして、しかも本局からかなり離れた川崎に置く必要がなぜあるのか、私には合理的理由が分からない。

 そういうわけで、藤井氏の発言については、私は少なくともねつ造するつも
りはないが、正確な情報を入手できないため、私の記憶に頼って書くことにする。もし間違いがあれば、遠慮なく指摘してもらいたい。私の人格に対する攻撃以外の批判やご指摘については一切削除しない。
 まず周知のこととして110ある日本の活火山のなかで御嶽山はリスク5段階のうち最小レベルの1(平常)にランクされていた(現在のランクは知らない)。その御嶽山が、戦後史上最悪の大災害を引き起こす噴火を生じた。なぜだ。
 御岳山は標高3000メートルを超える山ながら、北アルプスなどと違って急峻な山ではないため、この季節には比較的身軽な服装で登山する人も多いという。とくにこれから紅葉のシーズンが本格化するらしく、地元観光業界にとっては書き入れ時の期待も強かったようだ。それが、藤井氏の色眼鏡を曇らせた可能性は否定できないと思う。ただ、その可能性は山に詳しくない私の色眼鏡にしか見えないレベルかもしれない。
 実は噴火が生じた9月27日(土)の翌々日29日(月)には、気象庁が噴火の2週間ほど前から山頂付近を震源とする火山性地震が増えていたこと、また地下での活動があることを示すとされる体に感じない低周波地震も起きていたことは情報として掴んでいたことを明らかにしている。また、9月11日から3回にわたって火山性の地震が増加していることから、気象庁は「火山解説情報」を出し、火山活動の推移に注意するよう呼びかけていたようだ(9月29日のNHKニュース7による。なお、NHKは私を著作権侵害で訴えられるものなら訴えてもよい。その場合にはNHKの告訴窓口に私の個人情報を伝える)。
 気象庁による「噴火警戒レベル1(平常)」についての説明はこうだ。
「火山活動は静穏。火山活動の状態によって、火口内で火山灰の噴出等が見られる。(この範囲=火口内=に入った場合には生命に危険が及ぶ)」
 御嶽山の噴火警戒レベルは、噴火までレベル1(平常)に据え置かれていた。据え置いた責任はだれにあるのか。気象庁のトップなのか、それとも予知連絡会のトップなのか。また噴火の兆候だったと、現在では考えられている情報を無視した理由はなにか。地元の観光業界への配慮なのか。それとも、科学的に無視できるレベルと判断したのか。
 こうした、私たちが当然持たざるを得ない疑問に、藤井氏は一切口をつぐんだ。それどころか、被害者は「自己責任」と言いたいように見える責任転嫁さえした。自己責任とは、自分自身にも責任が幾分かの比率で合理的に認められる責任の度合いを言う。交通事故で過失割合が裁判で争われるケースが多いのは、生じた事故の原因について双方の自己責任の比率を合理的に裁定するためである。御岳山噴火事故の場合、登山者の自己責任というなら、気象庁が入手していたリスク情報のすべてを登山者に開示していたかどうか、開示していたとしたらどのような方法で開示していたかの誠実な説明が求められる。私は、気象庁が入手していたリスク情報の開示を、強権によってストップさせたのが予知連絡会ではなかったのかという疑問さえ持っている。
「噴火口の中に人間が入って調べることはできない」と、噴火を予知できなかった「理由」も口にした。誰が、そこまでやれと言っている。被害者や遺族も気象庁や予知連絡会に、そこまでの要求はしていない。それとも藤井氏のもとにそういった脅迫まがいの責任追及の声が寄せられたとでも言うのか。だったら、直ちに地元警察署に被害届を出すべきだ。「二次災害」(と言えるかどうかは分からないが…)を防ぐために、警察は藤井氏の身の安全を講じてくれただ
ろう。
 とにかく、誠意も謝罪の気持ちも、顔の表情を別にすると、いっさい視聴者に伝わらない言い訳と弁解、そして居直り…それ以外に言葉を探すのが難しい。
 理研の発生再生科学総合センターの笹井副センター長が組織防衛のために、自らの命を引きかえた行為を他人事のように思っている野依理事長と、その体質において変わらない。
 ネットに「予知検討会は必要なのか」という疑問が寄せられている。同感だ。というより、税金の無駄遣いとはこのことだ、と言いたい。
 むかしから、山火事が起きたら真っ先に動物たちが逃げ出すと言われている。沈みかけた船から真っ先に逃げ出すのは鼠だという話もある。ナマズの地震予知能力については本気で研究している学者もいるらしい。
 フランスの物理学者で思想家のパスカルは「人間は考える葦である」といった。一般的には、人間は動物としては弱い存在だが、知能という動物にはない武器を持っていると理解されているが、私は「人間は考えるしか能がない動物だ」と思っている。「考える能力」は大きな武器ではあるが、知識や経験則に頼りすぎると、突発的に生じる自然災害のような出来事に対してはかえって弱点になる。自然災害に備える最も重要な武器は、人間が失っていった「動物の本能」かもしれない。
 だとすれば、今後、火山噴火の予知に、「動物の本能」をどう活かしていくかということも、学者の沽券に掛かると反発されるかもしれないが、研究する必要があるのではないだろうか。
 火山噴火を予知できなかったのは、今度の御嶽山のケースだけではない。普賢岳の火砕流も、三原山の噴火も、専門家は予知できなかった。スポーツの解説者も「結果解釈」しかできない人もいれば、理論的な予測をする人もいる。その予測が必ず当たるとは限らないが、予測の根拠を明確に述べられる解説者は、外れた予測の理由についても理論的に解説できる。私は、あまり好きではないが、元巨人の江川卓氏などはまれにみる理論的解説者の一人だ。私が江川氏を「あまり好きではない」と書いたのは、彼の人間性のことではなく、私のひいきチームがいつも江川投手にやられていたからにすぎない。
 私がどのチームをひいきしていようがいまいが、そんなことはどうでもいいが、江川氏の優れた解説は投手や打者の心理にまで踏み込んで、こういう状況では投手はこう考えがちだ、一方打者はこう考えがちだ、ということを常に予測の原点に置いていることだ。私が、テニスの全米オープン決勝戦で、錦織選手にとって極めて不利な試合になると予測したのは、江川氏の予測手法と同じような方法で考えたからだ。
 昨日、錦織選手は日本オープンで優勝したようだ。全米オープン後のトーナメントで2連勝したという。おそらく錦織選手は、全米オープンの決勝戦で格下相手に3タテを食った苦い経験から、おそらく彼のテニス生活において最大のものを学んだのだろうと思う。
 その学んだものをどうこれから育てていくか、彼自身の自分との本当の戦いがもう始まっている。
 理研の野依理事長について、こうブログで書いたことがある。
 私が小学校のころから、プロ野球の世界では「一流選手、必ずしも名監督ならず」とすでに言われていた。そんな、子供にでも分かる理屈が、なぜ学者の世界では通用しないのか。
 野依氏にしても藤井氏にしても学者としては一流かもしてないが、組織のトップとして決断を下すべき時に然るべき決断を下せないようでは、組織のトップとしてふさわしくないのはスポーツの世界と同じだ。もちろん組織のトップとしての決断力に富んだ人物が、常に正しい決断を下すとは限らない。下した決断の結果には、想定外の事態が反映されることもあるからだ。が、大きな失敗でなければ、その失敗が新たな決断の確率を高める要素になるだろうし、大きな失敗だった場合には、潔く責任をとり、自らの失敗の教訓を後世に伝えることが大きな責任の取り方になる。
 藤井氏も、野依氏も、結果として決断できなかったことが組織に大きなダメージを与え、取り返しのつかない事態を生んだことを最大の教訓として、学者としての実績は三流であっても、組織のトップとして必要な能力には別の要素があることを身にしみて感じ、そうした能力のある人に後を任せてもらいたい。

 ついでのことに、今回の噴火を受けて先週中ごろ経産省の原発再稼働担当者に電話した。小渕優子氏が安倍改造内閣で経産相に就任したときの記者会見で、「安全が確認され次第、原発を順次再稼働していきたい」とした発言について、「今の自然災害に対する予知科学のレベルで規制委の判断で安全が確認できたと言えるのか。私は反原発でも脱原発でもない。日本のエネルギー事情から考えて日本の産業力や国民生活を維持するためにも環境保全の観点からも必要最小限度の原発の再稼働はやむを得ないと考えてはいるが、再稼働については政府が決めるということになると、人的事故は別として、自然災害による事故は政府の責任になるよ」と申し上げたところ、「いえ、事故が生じたら原因のいかんにかかわらず事業者の責任です」と言い返された。「だとしたら、政府が再稼働についての権限を行使するのは越権行為にならないか」と重ねて聞いたが答えは返ってこなかった。

 さらについでにもう一つ。日本産業界が安い人件費を求めて国境なき生産活動進出した先で次々に大きな問題を生じている。日本産業界の責任だけとは言わないが、中国が「世界の工場」となった結果、世界一環境汚染が激しい国にもなった。結果論と言われればそれまでだが、生産拠点を移すことによって、日本産業界は環境汚染も一緒に輸出しているのではないか。
 先の大戦から、日本は何を反省すべきか、という新たな視点をとりあえず提起しておく。自分さえよければいいという「国益」の追及が、果たして国際社会から尊厳をもって迎えられる新しい国づくりになりうるのか。安倍内閣の政策の危うさを感じるゆえんである。


コメントを投稿