笹井氏の記者会見は、結局理研がセットした形になってしまった。理研の理事が同席した会見なら、理研にとって都合が悪いことを笹井氏がしゃべるわけがない。笹井氏が記者会見で説明したことは、STAP細胞研究の最終段階であり、小保方氏が論文としてまとめる段階だったから、それ以前の研究内容については責任が持てないという弁解に終始した。
確かに笹井氏が京大教授から理研の発生・再生科学総合センターに副センター長として転職したのは昨年の4月であり、小保方ユニットチームのSTAP細胞研究は最終段階に入っていたことは間違いない。だから笹井氏の研究への関与は主に論文作成の手伝いにすぎなかったであろうことは否めない。
だったら、笹井氏は論文の責任共著者として名を連ねるべきではなかったはずだ。責任共著者として名前を連ねた以上、論文全体に責任を負わなければならないのは、一般社会(たとえば私企業や公的組織でも)ではそれが常識というものだ。
たとえば私の世界――私には共著がないが、共著の本の場合、だれがどの部分を書いたかを明確にするのが基本的な決まりになっている。たとえばアメリカから袋叩きにあった石原慎太郎氏と盛田昭夫氏の共著『NOと言える日本』(光文社)の場合も、各章ごとに著者名が明記されている。実際にはこの本は二人の対談をゴーストライターが石原氏の発言部分と盛田氏の発言部分を整理して、共著の責任分担を明確にしたようだ。まれに責任分担を明確にしない共著の著作もないではないが、その場合は共著者全員がすべての内容について責任を分かち合うということが前提である。これが著作物の大原則である。そうしないと著作物の権利(著作権)が誰にあり、もし内容が不必要に誰かの名誉を気づ付けたりした場合の責任をだれがとるのかが不明になってしまう。
たとえば比較的最近の例では『週刊朝日』が連載を始めようとした「ハシシタ・奴の本性」(2012年10月16日号)が、大阪市長の橋下徹氏の血流を根拠に人格否定を目的とした記事だとして橋下氏が激怒、朝日新聞出版の神徳英雄社長が引責辞任し、活字離れが続く中で唯一生き残っていた大宅壮一ノンフィクション賞作家の佐野眞一氏は、この記事の著者として事実上作家生命を絶たれた状態にある。
ところが、科学の世界では、こうした著作物の原則が無視されているようだ。責任共著者でありながら、「文章の改良や書き直しの指導をしただけ」だから(責任の重大性は言葉では認めながら)事実上、自分には論文の誤りについての責任はないと主張した。ということは『ネイチャー』などの科学誌に掲載された論文は著作物ではない、ということを意味している。つまり無断で引用しようと盗作しようと自由気ままにどうぞ、という世界だということになる。
笹井氏は、こうも主張した。「私は小保方氏の直属の上司ではない。大学で学生に実験ノートの提出を求めるような権限は、ユニットリーダーの小保方氏に対して行使できない」とも。「私は論文の改良や書き直しの指導をしただけ」というなら、書籍や雑誌記事でいえば編集者の仕事をしただけということになる。私の世界の場合、著作物に本当の著者以外に編集者が責任著作者として名を連ねるケースは、寡聞にして聞いたこともなければ見たこともない。
笹井氏はこうも弁解した。「本当は共著者にはなるべきではないと思っていた
が、若山教授らに責任共著者になってほしい」と頼まれ、「いやとは言えなかっ
た」とも述べた。少なくとも私の世界では、編集の仕事しかしていないのに共
著者として名を連ねることは絶対にありえない。共著者になったら、著作物に対する責任も発生するが、権利も発生する。編集者に自分の著作物の権利(たとえば印税収入など)を頭を下げて貰ってもらうようなことは常識から考えてもあり得ない。そういった非常識な論理が、科学論文の分野ではまかり通っているということを、笹井氏の釈明は図らずも明らかにしてしまった。
私は笹井氏の釈明を聞いていて、著作権無視の海賊版が市民権を得ている中国での話か、とさえ感じた。それでいて笹井氏は「論文の撤回が最も適切な処置」とも述べた。もともと笹井氏は論文の撤回に同意しており、改めて強調する必要はないのだが、そもそも論文が著作物でない以上「撤回」もへったくれもないではないか。第一「責任がない」人が論文撤回を求める「権利」などあろうはずがないではないか。こうした場合、論文を撤回する権利はだれにもなく、『ネイチャー』に論文を削除する権利があるだけだ。おそらく著作権の問題として裁判所に判断を仰いだら、裁判官はそういう判断を下すだろう。それが「著作物の権利・責任」の関係である。笹井氏ができることは「論文の撤回をうんぬんすること」ではなく、論文の著作者から降りると宣言することだけだ。そう宣言すれば、笹井氏は著作者としての責任はある程度免れることができるかもしれない。
ただ多少、笹井氏も気が咎めたのだろう。理研がSTAP論文に批判的な丹羽氏をリーダーに据えて検証研究をスタートさせたことについては「理研内外(※理研外部からも研究者を参加させることを意味する表現だ)で再検証する必要がある」と、理研の官僚主義をチクリと皮肉ったのがせめてもの救いか。
ほかには科学者ではない私が云々できることではないが、理研が若山氏の告発を受けてSTAP論文の検証をすることを発表したとき、論文撤回には同意しながら「STAP細胞の存在を前提にしないと説明できないデータもある」と言いながら、具体的な説明をしなかったことについては研究者たちに対してはかなり説得力をもつ具体的説明はしたように私には感じられた。
だが、その説明の中で私のような素人でも、おかしいと感じる点があった。笹井氏は「STAP現象(※細胞とは言わなかった)は合理性が高い可能性のある仮説として再検証する必要がある」と述べた。そして、STAP現象が存在する可能性の高さを示す例として、「STAP細胞は非常に小さい細胞で、山中先生が作ったips細胞よりはるかに小さい。再現に成功する人がいないのは、STAP細胞が小さくて電子顕微鏡で見ても発見できなかったのではないか」と述べた。また細胞は死ぬときに緑色発光するのをSTAP細胞の発光と勘違いしたのではないかという研究者たちの疑問に対しては「細胞が死ぬ時の発光とは明らかに違う発光をしており、しかも発光しながら動き回っているのを確認している」とも述べた。
それが事実だとすれば、笹井氏はSTAP細胞の存在を確認していたことになり、「STAP現象(※しつこいようだが、かつてはSTAP細胞と言っていた)を前提にしないと説明できないデータがある」などと回りくどい言い方をしなくても「私は自分の目でSTAP細胞の存在を確認している」と明言すればいいのではなかったのかという疑問を持たざるを得ない。自分の目で確認していなければ「STAP細胞はips細胞よりはるかに小さい」とか「STAP細胞の発光は一般に細胞が死ぬときの発光とは明らかに違う」とか「発光しながら動いているのを見た」という説明は「論文作成にしかタッチしていない。小保方氏の直属の上司ではないからノートや画像の提出を要求できなかった」という言い訳と明らかに矛盾する。
STAP細胞が小さすぎて発見しにくいことを確認しているなら、せめて「理研の再検証研究チームに小保方氏も加えるべきだ。小保方氏でなければ再検証研究をしてもSTAP細胞の存在を確認できないおそれがある」と主張してほしかった。笹井氏に、科学者としての良心が爪の垢ほどでもあったなら、という話だが…。
なお、このブログは昨夜(16日)に書いた。今日は、この後左目の白内障手術のために出かけるので、今日の朝刊の論評は何も見ていない。私程度の分析すら、おそらく理系出身の記者が記事を書くだろうが、ま、期待するのは無理だろう。
最後にダメ押しだけしておこう。「論文の編集作業しかせず、ノートやデータのチェックはしなかった(できる立場になかった)」と主張しながら、その一方で、おそらくSTAP細胞の存在自体に疑問を抱いていた研究者たちに対する相当程度の説得力がある(と、私は思っているが)「STAP現象(※くどいようだが「STAP細胞」のはず)を前提としない限り説明できないデータがある」と主張して、かつその内容を記者会見でかなり詳細に説明したことは、完全に自己矛盾している。釈明が理路整然としていただけに、かえって釈明そのものが自己破綻していたことに、笹井氏自身気づいていないのだろう。ま、ノーベル賞級と目されている研究者の論理的思考力がその程度のものだったということが分かっただけでも、私には大きな収穫があった記者会見だった。念のため、これは皮肉でもなんでもない。事実を述べただけだ。
この笹井氏の説明の大変な自己矛盾に気づいた新聞記者は多分いないはずだ。少なくともNHKの『ニュース7』と『ニュースウォッチ9』では、ほかに大きな事件(韓国の大型船が転覆して死者・行方不明者が多数出たこと)があったため、多くの時間を割けなかったのかもしれないが、NHKのアナウンサーやコメンテーター(科学者)は気づいていなかった。
なお明日のブログは、前に書いておいた記事を投稿する予定でいる。
確かに笹井氏が京大教授から理研の発生・再生科学総合センターに副センター長として転職したのは昨年の4月であり、小保方ユニットチームのSTAP細胞研究は最終段階に入っていたことは間違いない。だから笹井氏の研究への関与は主に論文作成の手伝いにすぎなかったであろうことは否めない。
だったら、笹井氏は論文の責任共著者として名を連ねるべきではなかったはずだ。責任共著者として名前を連ねた以上、論文全体に責任を負わなければならないのは、一般社会(たとえば私企業や公的組織でも)ではそれが常識というものだ。
たとえば私の世界――私には共著がないが、共著の本の場合、だれがどの部分を書いたかを明確にするのが基本的な決まりになっている。たとえばアメリカから袋叩きにあった石原慎太郎氏と盛田昭夫氏の共著『NOと言える日本』(光文社)の場合も、各章ごとに著者名が明記されている。実際にはこの本は二人の対談をゴーストライターが石原氏の発言部分と盛田氏の発言部分を整理して、共著の責任分担を明確にしたようだ。まれに責任分担を明確にしない共著の著作もないではないが、その場合は共著者全員がすべての内容について責任を分かち合うということが前提である。これが著作物の大原則である。そうしないと著作物の権利(著作権)が誰にあり、もし内容が不必要に誰かの名誉を気づ付けたりした場合の責任をだれがとるのかが不明になってしまう。
たとえば比較的最近の例では『週刊朝日』が連載を始めようとした「ハシシタ・奴の本性」(2012年10月16日号)が、大阪市長の橋下徹氏の血流を根拠に人格否定を目的とした記事だとして橋下氏が激怒、朝日新聞出版の神徳英雄社長が引責辞任し、活字離れが続く中で唯一生き残っていた大宅壮一ノンフィクション賞作家の佐野眞一氏は、この記事の著者として事実上作家生命を絶たれた状態にある。
ところが、科学の世界では、こうした著作物の原則が無視されているようだ。責任共著者でありながら、「文章の改良や書き直しの指導をしただけ」だから(責任の重大性は言葉では認めながら)事実上、自分には論文の誤りについての責任はないと主張した。ということは『ネイチャー』などの科学誌に掲載された論文は著作物ではない、ということを意味している。つまり無断で引用しようと盗作しようと自由気ままにどうぞ、という世界だということになる。
笹井氏は、こうも主張した。「私は小保方氏の直属の上司ではない。大学で学生に実験ノートの提出を求めるような権限は、ユニットリーダーの小保方氏に対して行使できない」とも。「私は論文の改良や書き直しの指導をしただけ」というなら、書籍や雑誌記事でいえば編集者の仕事をしただけということになる。私の世界の場合、著作物に本当の著者以外に編集者が責任著作者として名を連ねるケースは、寡聞にして聞いたこともなければ見たこともない。
笹井氏はこうも弁解した。「本当は共著者にはなるべきではないと思っていた
が、若山教授らに責任共著者になってほしい」と頼まれ、「いやとは言えなかっ
た」とも述べた。少なくとも私の世界では、編集の仕事しかしていないのに共
著者として名を連ねることは絶対にありえない。共著者になったら、著作物に対する責任も発生するが、権利も発生する。編集者に自分の著作物の権利(たとえば印税収入など)を頭を下げて貰ってもらうようなことは常識から考えてもあり得ない。そういった非常識な論理が、科学論文の分野ではまかり通っているということを、笹井氏の釈明は図らずも明らかにしてしまった。
私は笹井氏の釈明を聞いていて、著作権無視の海賊版が市民権を得ている中国での話か、とさえ感じた。それでいて笹井氏は「論文の撤回が最も適切な処置」とも述べた。もともと笹井氏は論文の撤回に同意しており、改めて強調する必要はないのだが、そもそも論文が著作物でない以上「撤回」もへったくれもないではないか。第一「責任がない」人が論文撤回を求める「権利」などあろうはずがないではないか。こうした場合、論文を撤回する権利はだれにもなく、『ネイチャー』に論文を削除する権利があるだけだ。おそらく著作権の問題として裁判所に判断を仰いだら、裁判官はそういう判断を下すだろう。それが「著作物の権利・責任」の関係である。笹井氏ができることは「論文の撤回をうんぬんすること」ではなく、論文の著作者から降りると宣言することだけだ。そう宣言すれば、笹井氏は著作者としての責任はある程度免れることができるかもしれない。
ただ多少、笹井氏も気が咎めたのだろう。理研がSTAP論文に批判的な丹羽氏をリーダーに据えて検証研究をスタートさせたことについては「理研内外(※理研外部からも研究者を参加させることを意味する表現だ)で再検証する必要がある」と、理研の官僚主義をチクリと皮肉ったのがせめてもの救いか。
ほかには科学者ではない私が云々できることではないが、理研が若山氏の告発を受けてSTAP論文の検証をすることを発表したとき、論文撤回には同意しながら「STAP細胞の存在を前提にしないと説明できないデータもある」と言いながら、具体的な説明をしなかったことについては研究者たちに対してはかなり説得力をもつ具体的説明はしたように私には感じられた。
だが、その説明の中で私のような素人でも、おかしいと感じる点があった。笹井氏は「STAP現象(※細胞とは言わなかった)は合理性が高い可能性のある仮説として再検証する必要がある」と述べた。そして、STAP現象が存在する可能性の高さを示す例として、「STAP細胞は非常に小さい細胞で、山中先生が作ったips細胞よりはるかに小さい。再現に成功する人がいないのは、STAP細胞が小さくて電子顕微鏡で見ても発見できなかったのではないか」と述べた。また細胞は死ぬときに緑色発光するのをSTAP細胞の発光と勘違いしたのではないかという研究者たちの疑問に対しては「細胞が死ぬ時の発光とは明らかに違う発光をしており、しかも発光しながら動き回っているのを確認している」とも述べた。
それが事実だとすれば、笹井氏はSTAP細胞の存在を確認していたことになり、「STAP現象(※しつこいようだが、かつてはSTAP細胞と言っていた)を前提にしないと説明できないデータがある」などと回りくどい言い方をしなくても「私は自分の目でSTAP細胞の存在を確認している」と明言すればいいのではなかったのかという疑問を持たざるを得ない。自分の目で確認していなければ「STAP細胞はips細胞よりはるかに小さい」とか「STAP細胞の発光は一般に細胞が死ぬときの発光とは明らかに違う」とか「発光しながら動いているのを見た」という説明は「論文作成にしかタッチしていない。小保方氏の直属の上司ではないからノートや画像の提出を要求できなかった」という言い訳と明らかに矛盾する。
STAP細胞が小さすぎて発見しにくいことを確認しているなら、せめて「理研の再検証研究チームに小保方氏も加えるべきだ。小保方氏でなければ再検証研究をしてもSTAP細胞の存在を確認できないおそれがある」と主張してほしかった。笹井氏に、科学者としての良心が爪の垢ほどでもあったなら、という話だが…。
なお、このブログは昨夜(16日)に書いた。今日は、この後左目の白内障手術のために出かけるので、今日の朝刊の論評は何も見ていない。私程度の分析すら、おそらく理系出身の記者が記事を書くだろうが、ま、期待するのは無理だろう。
最後にダメ押しだけしておこう。「論文の編集作業しかせず、ノートやデータのチェックはしなかった(できる立場になかった)」と主張しながら、その一方で、おそらくSTAP細胞の存在自体に疑問を抱いていた研究者たちに対する相当程度の説得力がある(と、私は思っているが)「STAP現象(※くどいようだが「STAP細胞」のはず)を前提としない限り説明できないデータがある」と主張して、かつその内容を記者会見でかなり詳細に説明したことは、完全に自己矛盾している。釈明が理路整然としていただけに、かえって釈明そのものが自己破綻していたことに、笹井氏自身気づいていないのだろう。ま、ノーベル賞級と目されている研究者の論理的思考力がその程度のものだったということが分かっただけでも、私には大きな収穫があった記者会見だった。念のため、これは皮肉でもなんでもない。事実を述べただけだ。
この笹井氏の説明の大変な自己矛盾に気づいた新聞記者は多分いないはずだ。少なくともNHKの『ニュース7』と『ニュースウォッチ9』では、ほかに大きな事件(韓国の大型船が転覆して死者・行方不明者が多数出たこと)があったため、多くの時間を割けなかったのかもしれないが、NHKのアナウンサーやコメンテーター(科学者)は気づいていなかった。
なお明日のブログは、前に書いておいた記事を投稿する予定でいる。
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