今日は6日のBSフジ『プライム・ニュース』でナマ放送された作家の曽野綾子氏と南アの駐日大使モハウ・ペコ氏の対談について書く。曽野綾子氏は知る人ぞ知る、櫻井よしこ氏ほどではないにしても、かなりナショナリズム思想の持ち主である。南ア大使との対談を仕掛けたBSフジは言うまでもなく産経新聞社系列のテレビ局である。
問題になったのは産経新聞の2月11日に掲載された曽野氏のコラムの内容だった。曽野氏は日本の人口減に歯止めがかからないという前提で、大胆に移民を受け入れるべきだったと書いた。そのこと自体は問題になるようなことではない。ただ移民を受け入れる場合、日本人との居住地域を分けるべきだとコラムで主張した。曽野氏に外国人に対する排斥思想が強いとは断言できない。もしそうなら移民政策を大胆に進めるべきだなどとは主張しなかったかもしれない。が、とんでもないことを書いた。曽野氏の主張の要点を述べる。厳密な表現はBSフジのプライム・ニュースの録画がネットで確認できるので確認していただきたい。
南ア・ヨハネスブルグのマンションの家族4人暮らしが標準の1部屋(原文では「1区画」とあるが、マンションである以上「区画」という表現自体が正確ではない)に20~30人の黒人が住み込んで、大量の水道水を使ったために住民が水道を使えなくなり(原文では「いつでも水栓から水が出なくなった」とある)、その結果、白人が逃げ出して住み続けたのは黒人だけになった。居住区だけは白人・アジア人・黒人というふうに分けて住む方がいい。
この主張に、南ア大使がかみついた。南ア大使だけでなく、産経新聞の読者からも曽野氏に対する批判がかなり殺到したようだ。
曽野氏の弁解は2点。①「このコラムに書いたマンションの事例が事実かどうかは分からない。噂(うわさ)話にすぎないのか、それとも本当なのかはわからない」②「自分は区別という言葉と差別という言葉を使い分けている。自分は一人ひとりを区別しており、差別という政治的表現は使っていない」。
これがプロの作家の弁解として通用するとでも曽野氏は、本当に思っているのだろうか。まず南アの「マンション事件」の話を事実かどうかも確認せずに、人種ごとに居住区を分けるべきだという主張の根拠にしたこと。
小説ならいざ知らず、移民政策についての提言である。作家だから「面白くする必要があった」などと言う言い訳が通用するなら、猪瀬直樹氏が「自分は
政治家ではなく作家だから政治とカネの問題に疎かった」という弁解を、自分の作家としての知名度を生かして大いに弁護したらどうか。
作家であろうとジャーナリストであろうと、はたまた政治家であろうと、また法律家であろうと、何らかの提言なり主張をしようという場合には、論理的に説得力のある主張をするか、疑いを容れない事実を根拠に主張する以外は許されない。しかも曽野氏は、かつてブラジルに日本人が大量に移民したとき、ブラジル政府から移民日本人がどういう待遇を受けたかを知らないはずはないだろう。ブラジルだけでなく、日本人の大量移民を受け入れた国は日本人移民に対してきわめて過酷な隔離政策をとった。アメリカもそうだった。そもそもアメリカの黒人奴隷政策は、労働力確保のための強制的な移民政策だった。
日本もまた日韓併合以降、貴重な労働力として朝鮮人を大量に移民させた。日本政府は移民朝鮮人に対して苛酷な隔離政策をとってきた。いまでは高校生でも知っている、そうした労働力確保のための移民・隔離政策を再びやれと言っているように、曽野氏の主張は思える。
次に2点目の「区別」と「差別」の用語法だ。曽野氏は「差別」するためではないと主張しているが、では人種ごとに居住地域を隔離するのは、単なる「区別」なのか、それとも「差別」なのか。
「区別」というのは、たとえばレストランなどで「喫煙席」と「禁煙席」を別々に設ける程度の意味しか持っていない。いちおう名の通った作家として知られている曽野氏が、その程度の用語法すらわきまえていないということは、もはや作家としても失格だということを意味する。
人種によって居住区を分けるということは、レストランでの席分けとはまるで意味が違う。かつてアメリカを略奪した白人種が、原住民のインディアンをペンペン草も生えないような僻地に強制的に隔離した。また黒人専用バスと白人専用バスを分けたりもした。曽野氏はコラムで「爾来(じらい)、私は言っている。人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし、居住だけは別にしたほうがいい」と書いた。運動におけるアメリカ社会の人種隔離の実態を曽野氏は知っているのか。ロス五輪でゴルフが正式種目に採用されることがいったん決まった。が、どうせなら全米1の名門ゴルフ場であるオーガスタ・ナショナルで行おうとしたが、黒人はプレー禁止というゴルフ場の方針により、ゴルフがオリンピック種目に加えられることはなかった。そうしたやりかたを、曽野氏は単なる「区別」として容認すべきだというのか。
異なる文化や風習、慣習、宗教観を持った異なる人種を受け入れるということは、日本人がどうやってそういう価値観の差異を超えて移民と対等に付き合えるようになるかが試されていることでもある。実際単なる労働力の確保が目的で、イスラム教徒を移民として受け入れてきたヨーロッパ先進国が、いまイスラム過激派のテロに脅えている。移民の受け入れに際して、宗教観の差異を選別基準にするわけにもいくまい。まず日本人が多様な価値観に寛容にならないと、必ず問題が生じる。日本人がどこまで国際化できるかが問われている。ある意味では日本人が、移民政策に成功すれば、その移民政策が国際標準モデルになり、日本のフェアさが国際社会から評価されるようになるかもしれない。曽野氏ほどの見識のある人ならば、その程度のことは理解してほしい。
問題になったのは産経新聞の2月11日に掲載された曽野氏のコラムの内容だった。曽野氏は日本の人口減に歯止めがかからないという前提で、大胆に移民を受け入れるべきだったと書いた。そのこと自体は問題になるようなことではない。ただ移民を受け入れる場合、日本人との居住地域を分けるべきだとコラムで主張した。曽野氏に外国人に対する排斥思想が強いとは断言できない。もしそうなら移民政策を大胆に進めるべきだなどとは主張しなかったかもしれない。が、とんでもないことを書いた。曽野氏の主張の要点を述べる。厳密な表現はBSフジのプライム・ニュースの録画がネットで確認できるので確認していただきたい。
南ア・ヨハネスブルグのマンションの家族4人暮らしが標準の1部屋(原文では「1区画」とあるが、マンションである以上「区画」という表現自体が正確ではない)に20~30人の黒人が住み込んで、大量の水道水を使ったために住民が水道を使えなくなり(原文では「いつでも水栓から水が出なくなった」とある)、その結果、白人が逃げ出して住み続けたのは黒人だけになった。居住区だけは白人・アジア人・黒人というふうに分けて住む方がいい。
この主張に、南ア大使がかみついた。南ア大使だけでなく、産経新聞の読者からも曽野氏に対する批判がかなり殺到したようだ。
曽野氏の弁解は2点。①「このコラムに書いたマンションの事例が事実かどうかは分からない。噂(うわさ)話にすぎないのか、それとも本当なのかはわからない」②「自分は区別という言葉と差別という言葉を使い分けている。自分は一人ひとりを区別しており、差別という政治的表現は使っていない」。
これがプロの作家の弁解として通用するとでも曽野氏は、本当に思っているのだろうか。まず南アの「マンション事件」の話を事実かどうかも確認せずに、人種ごとに居住区を分けるべきだという主張の根拠にしたこと。
小説ならいざ知らず、移民政策についての提言である。作家だから「面白くする必要があった」などと言う言い訳が通用するなら、猪瀬直樹氏が「自分は
政治家ではなく作家だから政治とカネの問題に疎かった」という弁解を、自分の作家としての知名度を生かして大いに弁護したらどうか。
作家であろうとジャーナリストであろうと、はたまた政治家であろうと、また法律家であろうと、何らかの提言なり主張をしようという場合には、論理的に説得力のある主張をするか、疑いを容れない事実を根拠に主張する以外は許されない。しかも曽野氏は、かつてブラジルに日本人が大量に移民したとき、ブラジル政府から移民日本人がどういう待遇を受けたかを知らないはずはないだろう。ブラジルだけでなく、日本人の大量移民を受け入れた国は日本人移民に対してきわめて過酷な隔離政策をとった。アメリカもそうだった。そもそもアメリカの黒人奴隷政策は、労働力確保のための強制的な移民政策だった。
日本もまた日韓併合以降、貴重な労働力として朝鮮人を大量に移民させた。日本政府は移民朝鮮人に対して苛酷な隔離政策をとってきた。いまでは高校生でも知っている、そうした労働力確保のための移民・隔離政策を再びやれと言っているように、曽野氏の主張は思える。
次に2点目の「区別」と「差別」の用語法だ。曽野氏は「差別」するためではないと主張しているが、では人種ごとに居住地域を隔離するのは、単なる「区別」なのか、それとも「差別」なのか。
「区別」というのは、たとえばレストランなどで「喫煙席」と「禁煙席」を別々に設ける程度の意味しか持っていない。いちおう名の通った作家として知られている曽野氏が、その程度の用語法すらわきまえていないということは、もはや作家としても失格だということを意味する。
人種によって居住区を分けるということは、レストランでの席分けとはまるで意味が違う。かつてアメリカを略奪した白人種が、原住民のインディアンをペンペン草も生えないような僻地に強制的に隔離した。また黒人専用バスと白人専用バスを分けたりもした。曽野氏はコラムで「爾来(じらい)、私は言っている。人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし、居住だけは別にしたほうがいい」と書いた。運動におけるアメリカ社会の人種隔離の実態を曽野氏は知っているのか。ロス五輪でゴルフが正式種目に採用されることがいったん決まった。が、どうせなら全米1の名門ゴルフ場であるオーガスタ・ナショナルで行おうとしたが、黒人はプレー禁止というゴルフ場の方針により、ゴルフがオリンピック種目に加えられることはなかった。そうしたやりかたを、曽野氏は単なる「区別」として容認すべきだというのか。
異なる文化や風習、慣習、宗教観を持った異なる人種を受け入れるということは、日本人がどうやってそういう価値観の差異を超えて移民と対等に付き合えるようになるかが試されていることでもある。実際単なる労働力の確保が目的で、イスラム教徒を移民として受け入れてきたヨーロッパ先進国が、いまイスラム過激派のテロに脅えている。移民の受け入れに際して、宗教観の差異を選別基準にするわけにもいくまい。まず日本人が多様な価値観に寛容にならないと、必ず問題が生じる。日本人がどこまで国際化できるかが問われている。ある意味では日本人が、移民政策に成功すれば、その移民政策が国際標準モデルになり、日本のフェアさが国際社会から評価されるようになるかもしれない。曽野氏ほどの見識のある人ならば、その程度のことは理解してほしい。
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