小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

米カリフォルニア州で分離・独立運動が盛んだ。「民主主義とは何か」がいま問われている。③

2014-08-07 08:36:07 | Weblog
 マイケル・サンデル氏のディベート・テクニックについて説明する。昨日引用した二つの文章に引き続いて述べられているものだ。実に巧みなテクニックで、確かに説得力はありそうだ。
「国家の借金と個人の借金は本質的に同じものだろうか。個人の秘密と国家の秘密は、本質的に同じものだろうか。『同じだ』と主張することはもちろん可能だろう。大切なのは、その主張に説得力があるかどうかだ。それが、物事の本質について議論するということだ」
 こう言われると、サンデル氏の主張はもっともだとお感じになる方が大半だと思う。が、サンデル氏が強調する説得力とは、そういうテクニックを駆使することであり、それ以上でも、それ以下でもない。
 そもそも「借金」とか「秘密」といった言葉の持つ概念は、個々のケースによって異なる。国や企業などの共同体(戦後日本の代表的思想家の一人である吉本隆明氏は『共同幻想論』において「共同体とは擬制でしかない」と指摘し、60年代から70年代にかけて若者層から絶大な共感を得た)はそれを構成する無数・有数の個人から構成されており、古代ギリシャ時代から哲学者たちの頭を悩ませてきた問題の最大の一つが「個と全(共同体)」の関係の解明にあった。そもそも民主主義という政治システムは、「個と全の調和」を実現するためのシステムとして発明されたものである。
 が、政権によって異なる擬制共同体である国家の利害(国家の利害は、時の政権の判断で変わる)と、その構成員である国民の利害を同じ俎上で論じるというレトリック手法を、サンデル氏はこの主張で駆使している。
 サンデル氏が個別の例としてあげた「借金」について言えば、「国家の借金」と「個人の借金」を、なぜ彼はあえて同列視しようとしたのか。100人が100人「違う」と答えることを前提に、サンデル氏は「借金」という個別の例を出した。もうこの段階で議論の相手に対する心理的誘導が始まっている。
 そしてサンデル氏は続いて「個人の秘密と国家の秘密は本質的に同じものだろうか」と問いかける。明らかにテーマのすり替えがここで行われている。こういう手法をレトリックという。レトリックがしばしば説得力を持つ手法になりうるのは、このように全く別次元のケースを持ち出すことによって相手の思考方法を自分の土俵に引きずり込んでしまうからである。レトリックは一見論理的に見えて、実はその論理性に疑問を挟む余地のないケースを引き合いにして、まったく別の事例に同じ論理を当てはめようとするテクニックである。
 もう少しわかりやすく解説する。「個人の借金」と「国家の借金」が本質的に別の概念であることはだれも否定できない。が、「秘密」という概念になると、「借金」と同じ類のものと考えていいのか、という疑問が、通常の感覚だったら生じる。が、そういう通常誰もが抱く疑問をあらかじめ封じ込んでしまうために、100人が100人否定しない「個人の借金と国家の借金」を例えとして提起し、そういうレトリックを駆使することによって、全く別次元の「個人の秘密と国家の秘密」について同じ思考法を要求している。そうした議論の進め方はフェアと言えるだろうか。
 実は、結論を先に行ってしまうと、私とサンデル氏の結論にはほとんど差異はない。が、たとえばエベレストの頂上に立つために、酸素ボンベなどの重い荷を背負ってエッチらコッチら登山して頂上に立つのと、ヘリコプターで一気に頂上に降り立つのと、頂上に立つという現象については同じであっても、それを同じ価値と見なすことはできないだろう。

「個人の秘密」と「国家の秘密」について私見を述べておく。「個人の秘密」はプライバシーであり、その個人が「私人」か「公人」かによってプライバシーの侵害に当たるかどうかの法的判断は分かれる。「私人」の場合、基本的にプライバシーは保護される。ただし、家族内では個人のプライバシーが保護されるべきかどうかはケースバイケースだと思う。たとえば夫婦の一方が不倫していたり、内緒でサラ金から莫大な借金をしていた場合も、プライバシーとして保護されるべきかどうかについては、多くの読者が疑問を持たれると思う。が、「公人」の場合は、基本的に保護されるプライバシーはきわめて制限されるべきだ。とくに金銭問題や、公人としての権限の行使についてはプライバシー保護の対象にはなりえないと考えるのが合理的だと思う。難しいのは「公人」ではないがタレントやスポーツ選手などの「有名人」のケースである。「異性との秘密の交際」を写真週刊誌などでスクープされた場合、プライバシーの侵害に当たるのかどうか。「秘密の交際」を暴かれた有名人が訴訟を起こせば法の判断の基準が示されるが、そういう訴訟がないのに、勝手に裁判所が裁判を開いて判決を下すわけにはいかない。なおプライバシー侵害は親告罪であり、他人が訴訟を起こすことはできない。
 一方「国家の秘密」は、原則ありえない。国家が「秘密にすること」を決定するためには、最低限国会での承認が必要であり(この場合「非公開国会法」を制定して、非公開国会での議論を漏えいした議員は、有無を言わさず議員の資格をはく奪して永久に公職から追放するくらいの、厳しい機密性を確保する対策は必要と思う)、特定の限られた「秘密を知りうる個人の判断」で、国民の命や生活に重要な影響がある情報を「特定秘密」に指定することは、民主主義の破壊行為とすら言える。
 昨日(6日)午後10時からの『NHKスペシャル』で、ビキニ水爆実験の秘匿されてきた被ばく実態が明らかにされた。読者の大半もそうだったと思うが、私もこの番組を見るまでビキニ水爆実験の被害を受けたのは第5福竜丸の乗組員だけだと思っていた。が、被害実態はかなり多く、その事実の公開を厚生省(当時)が「資料がない」と拒み続けてきたことが明らかになった。実は資料はあったのだ。が、おそらく「ビキニ実験を行ったアメリカに対する政治的配慮」なのだろう、厚生省は「資料がない」ことにしてきた。こうした行為が、個人あるいは特定の数人の「国益判断基準」によって許されるということになると、国民は国を信じることができなくなる。

 結論から言えば、サンデル氏がこの短い文章で言いたかったことは、「個人の借金と国家の借金」は別物であると同様、「個人の秘密と国家の秘密」も同列で論じられるべきではないということであり、そのサンデル氏の考えに私は異を唱えているわけではない。だが、サンデル氏は、「個人の秘密」も「国家の秘密」も一括りにしたうえで、同一に論じるべきではないとしている。そうしたレトリックを、少なくともメディアからは排除したいために、私はこのブログを書き続けている。
 もちろん、メディアが特定の価値観や主張を持ってはいけないと言いたいのではない。公共放送であるNHKも、一切の政治的主張をしてはいけないとは私は考えていない。ただ政府に迎合するために、意図的な誤報や偏った報道はすべきでないと考えている。どのような主張であっても、私は「言論の自由」はあらゆる自由の中でも最高に優先度の高い自由であるべきだと思っている。
 が、自由や権利は、それに伴う責任がある。責任を伴わない自由や権利が、メディアにだけ許されていると思っていたら、思い上がりも度を越している。
 5日の朝日新聞朝刊が見開き2ページを使って20数年前の「従軍慰安婦」報道についての検証記事を書いた。私もこの問題はさんざんブログで書いてきたし、朝日新聞もとうとう「一部に誤報があった」として「記事の取り消し」を表明した。そのことが、何を意味するのか。朝日新聞内部の権力闘争の結果なのか。よくわからん。
 誤報の訂正はいいが、誤報だということはとっくに明らかになっており、当時の記事のどの部分が誤報で、なぜ誤報に至ったのかの検証などする必要が、20数年後の今頃になって、「なぜ突然生じたのか」の説明責任を果たすことのほうがはるかに重要なはずだ。
 他紙によれば、この「訂正記事」について、朝日新聞広報部は「特にコメントすることはありません」と取材を拒否したようだ。他紙もだらしがないのは、朝日新聞広報部の「特にコメントすることはありません」というコメントを紹介しただけで、それを「取材拒否」と報じなかったことだ。
「言論の自由」は最高に優先度の高い自由だと書いた。が、「最高に優先度が高い自由」だということは、「それに伴う責任の重さも最高に優先度が高い」ことを意味している、と考えるのが常識人だと思うのだが、「言論の自由」だけを声高に主張して、それに伴う「責任の重さ」については無自覚なメディアの体質が問われざるを得ない。それは朝日新聞だけのことではないからだ。
 メディアが健全性を確保する唯一の手段は、報道に対する読者や視聴者の意見を無視しないことだ。たとえば新聞はすべて読者の投稿欄を設けているが、自紙の報道に対する支持の意見は喜んで掲載するが、批判的な意見は一切掲載しない。そういう姑息なやり方を続けている限り、メディアとしての健全性は崩れざるを得ない。メディアが健全であろうとするなら、報道を支持する意見より、批判的な意見のほうを重視し、読者の批判に対する社としての見解も堂々と掲載すればいい。
 朝日新聞事件が、そういう意味で読者に門戸を開くスタートラインになれば、それはそれで大きな意味を持つ。私は、そうあってほしいと願っている。(続く)

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