民主主義の大原則は、すべて物事を多数決で決めるということにある。この大原則を否定するシステムは、いかなる理由付けをしようと民主主義ではない。そのことをまず今回の連載ブログの大前提としてご理解いただきたい。
もちろん私は多数決で決定したことが、必ず正しい結果を生むとは言っていない。システムとして民主主義とはそういうものだということをご理解いただかないと、私のブログは無意味になる。
民主主義の政治システムは時代とともに変化してきたし、また国によってもとらえ方が違う。たとえば大統領制を採用している国の大半は直接選挙である。有権者の投票によって選出されるため、絶大な権力を持つケースが多い。
が、アメリカの場合は昨日のブログでも書いたように、有権者は自分が居住地として届けている州に割り当てられた選挙人団にしか投票できない。選挙人はロボットのようなもので、実際に特定できる選挙人が存在するわけではない。つまりカリフォルニア州の場合、55の選挙人が割り当てられているが、実際に55人の選挙人が存在するわけではない。「選挙人」という名称の大統領選挙での投票権が予備選挙で決まるだけである。アメリカの大統領制は直接選挙で選出されると勘違いしている人が少なくないが、実質的にはロボットによる間接選挙だということを理解しておく必要がある。
日本でも大統領制を導入すべきだと主張している政党が少なくないが、それだけしか言わないと、有権者の大半はアメリカの大統領選挙制度の実態を知らずに、アメリカ型の大統領制をイメージしてしまう。アメリカの大統領選挙制度がどうして選挙人制になったのかはネットでは分からなかったが、実に奇妙な制度と言わざるを得ない。実際各州に割り当てられた選挙人数は州の人口に比例しているが、ドント方式という総取り制のため、全国の投票総数では負けていたのに選挙人の数で上回った結果、大統領になれたという逆転現象も何回もあった。
日本でも自民党総裁選の党員投票が、各県に割り当てられた選挙人の総取り方式を採用していたが、いまは選挙人制は廃止になっている。一昨年の総裁選では党員投票で最多票を獲得した石破茂氏は、衆参両院国会議員の投票で安倍晋三氏に敗れて総裁になれなかった。自民党の総裁は、党の代表者であり、党員投票で決めるのが本来の民主制のはずだが…。
議院内閣制の日本では、総理大臣は衆参両院の国会議員の投票で選出されることになっている。厳密な意味では、こうした方式が間接選挙である。衆議院と参議院で選出される総理大臣が異なった場合は、衆議院での選挙が優先されることになっている。これも、よく考えればおかしな仕組みだ。衆議院の優位性はいいのだが、それなら参議院で選挙をやる必要はない。参議院での選挙はまったく意味のない「儀式」と言われても仕方ないだろう。
ところで、ヤフーで「民主主義」というキーワードで検索してみた。政治家やメディアの人たちの最大の欠陥は、知識に頼りながら、「民主主義」という普遍的な言葉について、改めてネット検索してみようと考えないことだ。私はウィキペディアを利用することが多いが、いきなりウィキペディアで検索したりはしない。インターネットのトップページにグーグルを設定している人がメディア関係者では多いようだが、私は前から使い慣れているためヤフーをトップページにしている。
で、いつものようにヤフーで「民主主義」を検索してみた。その結果、びっくりした。400万件を超える検索結果のトップにウィキペディアの「民主主義」が出てくるのは当然としても、2番目に得体のしれない「民主主義の原則」という項目が出てくる。3番目がコトバンクの「民主主義とは」という用語解説。興味深かったのは4番目の「日本人が苦手な議論。あるいは、いかにして民主主義は死に至るか」である。2番目の「民主主義の原則」は後で書き手の正体と、なるほどと思わせるために仕組まれた作為について明らかにするが(今日のブログでは無理かもしれない)、4番目が面白いので、そちらの方から検証する。
これはNHKの討論番組の司会でも有名なマイケル・サンデル氏の講演を匿名のブロガーがまとめたものである。サンデル氏はハーバード大学の政治哲学を専門とする教授で、コミュニタリアニズム(共同体主義)の代表的論客とされている。舌をかみそうな言語ではなく邦訳語で語ったほうが分かりやすいが、共同体主義とは自由主義(個人主義)に対立する概念ではあるが、全体主義でもない。いわば中間的な概念ととらえた方がよさそうだ。
マンデル氏の討論番組の最大の特徴は、実際には競技ディベートの方式を採りながら、参加者や視聴者にそれと気づかせずに、マンデル氏自身の考え方に巧みに誘導する手法(テクニック)の名人という評価に尽きる。最近日本の大学や高校でも取り入れだした競技ディベートは、あるテーマについて賛成派と反対派に分かれて論争する教育方法で、アメリカでは盛んに行われている。これは論争相手を説得するための弁論技術(テクニック)を学ぶ教育方法とされているが、必ずしも論理的思考力を高めるとは限らない。むしろ小さな出来事を過大に評価するテクニックや、屁理屈をあたかも論理的であるかのように見せかけるテクニックを、身に付けてしまう危険性のほうが私は高いと考えており、「百害あって一利なし」とまでは言わないが、あまり評価はしていない。
サンデル氏は、競技ディベートには二つの議論の方法があるという。「プラクティカル」な方法と「フィロソフィカル」な方法らしい。プラクティカルな議論とは、具体的で方法論的な議論を指す(※個別の事例で説得しようとする「例証主義」のことか?)。フィロソフィカルな議論とは、物事の価値観を問うような抽象的で哲学的な議論を指す(※子供のような素直な感覚で、相手の主張の
論理的矛盾を見つける方法のことか?)。
サンデル氏は日本人は後者が苦手だという。が、サンデル氏はなぜ日本人がフィロソフィカルな議論が苦手なのかを自分自身が考えると、途端に彼自身がプラクティカルな方法に頼ってしまう。彼はこう言う。
「日本では、プラクティカルな議論が偏重されがちだ。新聞もテレビも、インターネットでも、フィロソフィカルな議論をしようとすると『現実的でない』『夢想的だ』という烙印を押される。こうして日本人は、物事の『本質』について議論する機会を失うのだ」
こうした説得方法自体がサンデル氏の言う「プラクティカル」な説得方法ではない? 確かに知識重視の教育が近代以前から行われてきた日本では、個別的事例をたくさん並べたてた方が議論を有利に運べるという傾向はあるが、そうしたことを根拠に「日本人は物事の本質について議論する機会を失う」と、結論付けるのがプラクティカルの典型的方法のはずだ。氏はこうも言う。
「プラクティカルな議論をするためには、土台となる価値観を固めなければいけない。価値観を固めるには、フィロソフィカルな議論が欠かせない。しかし日本では、国の政策でも、企業の事業計画でも、フィロソフィカルな議論は滅多にされず、いつの間にか“空気”で決まっている場合が多いのではないだろうか」
ちょっと待ってよ。この引用した二つの文章は連続して書かれている。前段の文章でサンデル氏はプラクティカルな方法で日本人は勝手に「物事の本質についての議論が苦手だ」と結論付けておいて、後段の主張は支離滅裂としか言いようがない。「プラクティカルな議論をするためには」とプラクティカルな議論のやり方を肯定しておきながら、そのために必要な「土台となる価値観を固めるにはフィロソフィカルな議論が欠かせない」とは、文章の脈絡上、どう理解すればいいのか。
言っておくが、民主主義システムの最大の欠陥は多数決主義にある。そのためプラトンは「民主主義は衆愚政治だ」と喝破したのはいいのだが、では民主主義に変わるより良い政治システムはどうあるべきかという問題になると、とたんに「哲学者による独裁政治」を主張して大哲学者の晩節を汚した。
私は民主主義は永遠に行きつ戻りつしながら、やっと少しずつ欠陥を修正する方法を、まだ手探り状態ながら歩み続けていると考えている。欠陥を完全になくすということは、はっきり言って無理である。そういう意味では日本の現在の政治システムとアメリカの政治システムを比較して、どちらが「より民主的か」と考えたら、私はたとえ日本人ではなくても日本に軍配を上げる。
日本は民主主義というものについて戦後、アメリカから学んだ。だが、日本にはとくに徳川幕府時代に培われた儒教精神が社会的規範として定着しており、
そこにアメリカ型民主主義の考え方が接木された。そのため西欧社会とは異質な民主主義システムが日本という土壌に育っていったことは事実だが、サンデル氏はドント方式が民主的政治システムの根幹をなしているアメリカの民主主義については、何も語ろうとしない。なお彼は共和党のブッシュ政権でも民主党のクリントン政権でも、かなりの要職についていたようだが、彼自身の価値観はどこにあるのか。少なくともNHKの討論番組に関する限り、自分自身の主張を明確にせず、自分の考えにそぐわない意見に対する反論を、討論参加者の中から誘導的に引き出すテクニックだけは、人並みすぐれた弁論家であることを認めるにやぶさかではない。(続く)
もちろん私は多数決で決定したことが、必ず正しい結果を生むとは言っていない。システムとして民主主義とはそういうものだということをご理解いただかないと、私のブログは無意味になる。
民主主義の政治システムは時代とともに変化してきたし、また国によってもとらえ方が違う。たとえば大統領制を採用している国の大半は直接選挙である。有権者の投票によって選出されるため、絶大な権力を持つケースが多い。
が、アメリカの場合は昨日のブログでも書いたように、有権者は自分が居住地として届けている州に割り当てられた選挙人団にしか投票できない。選挙人はロボットのようなもので、実際に特定できる選挙人が存在するわけではない。つまりカリフォルニア州の場合、55の選挙人が割り当てられているが、実際に55人の選挙人が存在するわけではない。「選挙人」という名称の大統領選挙での投票権が予備選挙で決まるだけである。アメリカの大統領制は直接選挙で選出されると勘違いしている人が少なくないが、実質的にはロボットによる間接選挙だということを理解しておく必要がある。
日本でも大統領制を導入すべきだと主張している政党が少なくないが、それだけしか言わないと、有権者の大半はアメリカの大統領選挙制度の実態を知らずに、アメリカ型の大統領制をイメージしてしまう。アメリカの大統領選挙制度がどうして選挙人制になったのかはネットでは分からなかったが、実に奇妙な制度と言わざるを得ない。実際各州に割り当てられた選挙人数は州の人口に比例しているが、ドント方式という総取り制のため、全国の投票総数では負けていたのに選挙人の数で上回った結果、大統領になれたという逆転現象も何回もあった。
日本でも自民党総裁選の党員投票が、各県に割り当てられた選挙人の総取り方式を採用していたが、いまは選挙人制は廃止になっている。一昨年の総裁選では党員投票で最多票を獲得した石破茂氏は、衆参両院国会議員の投票で安倍晋三氏に敗れて総裁になれなかった。自民党の総裁は、党の代表者であり、党員投票で決めるのが本来の民主制のはずだが…。
議院内閣制の日本では、総理大臣は衆参両院の国会議員の投票で選出されることになっている。厳密な意味では、こうした方式が間接選挙である。衆議院と参議院で選出される総理大臣が異なった場合は、衆議院での選挙が優先されることになっている。これも、よく考えればおかしな仕組みだ。衆議院の優位性はいいのだが、それなら参議院で選挙をやる必要はない。参議院での選挙はまったく意味のない「儀式」と言われても仕方ないだろう。
ところで、ヤフーで「民主主義」というキーワードで検索してみた。政治家やメディアの人たちの最大の欠陥は、知識に頼りながら、「民主主義」という普遍的な言葉について、改めてネット検索してみようと考えないことだ。私はウィキペディアを利用することが多いが、いきなりウィキペディアで検索したりはしない。インターネットのトップページにグーグルを設定している人がメディア関係者では多いようだが、私は前から使い慣れているためヤフーをトップページにしている。
で、いつものようにヤフーで「民主主義」を検索してみた。その結果、びっくりした。400万件を超える検索結果のトップにウィキペディアの「民主主義」が出てくるのは当然としても、2番目に得体のしれない「民主主義の原則」という項目が出てくる。3番目がコトバンクの「民主主義とは」という用語解説。興味深かったのは4番目の「日本人が苦手な議論。あるいは、いかにして民主主義は死に至るか」である。2番目の「民主主義の原則」は後で書き手の正体と、なるほどと思わせるために仕組まれた作為について明らかにするが(今日のブログでは無理かもしれない)、4番目が面白いので、そちらの方から検証する。
これはNHKの討論番組の司会でも有名なマイケル・サンデル氏の講演を匿名のブロガーがまとめたものである。サンデル氏はハーバード大学の政治哲学を専門とする教授で、コミュニタリアニズム(共同体主義)の代表的論客とされている。舌をかみそうな言語ではなく邦訳語で語ったほうが分かりやすいが、共同体主義とは自由主義(個人主義)に対立する概念ではあるが、全体主義でもない。いわば中間的な概念ととらえた方がよさそうだ。
マンデル氏の討論番組の最大の特徴は、実際には競技ディベートの方式を採りながら、参加者や視聴者にそれと気づかせずに、マンデル氏自身の考え方に巧みに誘導する手法(テクニック)の名人という評価に尽きる。最近日本の大学や高校でも取り入れだした競技ディベートは、あるテーマについて賛成派と反対派に分かれて論争する教育方法で、アメリカでは盛んに行われている。これは論争相手を説得するための弁論技術(テクニック)を学ぶ教育方法とされているが、必ずしも論理的思考力を高めるとは限らない。むしろ小さな出来事を過大に評価するテクニックや、屁理屈をあたかも論理的であるかのように見せかけるテクニックを、身に付けてしまう危険性のほうが私は高いと考えており、「百害あって一利なし」とまでは言わないが、あまり評価はしていない。
サンデル氏は、競技ディベートには二つの議論の方法があるという。「プラクティカル」な方法と「フィロソフィカル」な方法らしい。プラクティカルな議論とは、具体的で方法論的な議論を指す(※個別の事例で説得しようとする「例証主義」のことか?)。フィロソフィカルな議論とは、物事の価値観を問うような抽象的で哲学的な議論を指す(※子供のような素直な感覚で、相手の主張の
論理的矛盾を見つける方法のことか?)。
サンデル氏は日本人は後者が苦手だという。が、サンデル氏はなぜ日本人がフィロソフィカルな議論が苦手なのかを自分自身が考えると、途端に彼自身がプラクティカルな方法に頼ってしまう。彼はこう言う。
「日本では、プラクティカルな議論が偏重されがちだ。新聞もテレビも、インターネットでも、フィロソフィカルな議論をしようとすると『現実的でない』『夢想的だ』という烙印を押される。こうして日本人は、物事の『本質』について議論する機会を失うのだ」
こうした説得方法自体がサンデル氏の言う「プラクティカル」な説得方法ではない? 確かに知識重視の教育が近代以前から行われてきた日本では、個別的事例をたくさん並べたてた方が議論を有利に運べるという傾向はあるが、そうしたことを根拠に「日本人は物事の本質について議論する機会を失う」と、結論付けるのがプラクティカルの典型的方法のはずだ。氏はこうも言う。
「プラクティカルな議論をするためには、土台となる価値観を固めなければいけない。価値観を固めるには、フィロソフィカルな議論が欠かせない。しかし日本では、国の政策でも、企業の事業計画でも、フィロソフィカルな議論は滅多にされず、いつの間にか“空気”で決まっている場合が多いのではないだろうか」
ちょっと待ってよ。この引用した二つの文章は連続して書かれている。前段の文章でサンデル氏はプラクティカルな方法で日本人は勝手に「物事の本質についての議論が苦手だ」と結論付けておいて、後段の主張は支離滅裂としか言いようがない。「プラクティカルな議論をするためには」とプラクティカルな議論のやり方を肯定しておきながら、そのために必要な「土台となる価値観を固めるにはフィロソフィカルな議論が欠かせない」とは、文章の脈絡上、どう理解すればいいのか。
言っておくが、民主主義システムの最大の欠陥は多数決主義にある。そのためプラトンは「民主主義は衆愚政治だ」と喝破したのはいいのだが、では民主主義に変わるより良い政治システムはどうあるべきかという問題になると、とたんに「哲学者による独裁政治」を主張して大哲学者の晩節を汚した。
私は民主主義は永遠に行きつ戻りつしながら、やっと少しずつ欠陥を修正する方法を、まだ手探り状態ながら歩み続けていると考えている。欠陥を完全になくすということは、はっきり言って無理である。そういう意味では日本の現在の政治システムとアメリカの政治システムを比較して、どちらが「より民主的か」と考えたら、私はたとえ日本人ではなくても日本に軍配を上げる。
日本は民主主義というものについて戦後、アメリカから学んだ。だが、日本にはとくに徳川幕府時代に培われた儒教精神が社会的規範として定着しており、
そこにアメリカ型民主主義の考え方が接木された。そのため西欧社会とは異質な民主主義システムが日本という土壌に育っていったことは事実だが、サンデル氏はドント方式が民主的政治システムの根幹をなしているアメリカの民主主義については、何も語ろうとしない。なお彼は共和党のブッシュ政権でも民主党のクリントン政権でも、かなりの要職についていたようだが、彼自身の価値観はどこにあるのか。少なくともNHKの討論番組に関する限り、自分自身の主張を明確にせず、自分の考えにそぐわない意見に対する反論を、討論参加者の中から誘導的に引き出すテクニックだけは、人並みすぐれた弁論家であることを認めるにやぶさかではない。(続く)
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