この社説を読んで感動した。感動のあまり、正直に言うが、つい眼がしらが熱くなった。このブログを書き始めた今も私の眼はうるんでいる。
日ごろから私は朝日新聞の論説委員の方たちを軽蔑していた。ガソリン税についての主張をひと月もたたないうちに180度転換したり(説明抜きに)、阿倍内閣が手をつけた(手をつけただけで、挫折し無責任に政権を放り出してしまったが)公務員制度改革の目的をどういうふうに頭脳を働かせればこれほど曲解できるのかと摩訶不思議に思っていたら、案の定公務員改革問題について半年間完黙を続けた後、これまた何の説明もなく主張を180度転換して、「公務員制度――改革の動きを止めるな」と、かつては全否定していた政府の公務員制度改革の目的をほぼ正確に理解して今度は全面支援の立場に回るという、恥も外聞も投げ捨てた主張を行ってきた。その朝日新聞の論説委員が、これほど高潔で品位の高い社説を書けるとは思ってもいなかった。
朝日新聞を取っていない人はぜひ朝日新聞のホームページか「あらたにす」で読んでほしい。このブログの読者も、私と同じ感動を受けるだろう。そんなのは面倒という人のために、この社説の概略を私の理解力と文章力の限界は承知の上で紹介する。
広島で行われたG8議長サミットの参加者たちが原爆慰霊碑に献花を捧げてくれた時、米下院議長のナンシー・ペロシ氏はいったん献花した後、もう一度慰霊碑に向かい、胸の前で小さく十字を切った。米下院議長といえば、大統領が死亡したり大統領としての責務を果たせない状態に陥った時、副大統領に次いで大統領の責務を果たすことが米憲法で定められている最大級の重要人物である。
原爆により日本の降伏が早まり多くの人命が救われたというのが米政府の見解だ。これに対し日本は原爆がなくても早晩降伏しただろうし、一般市民を無差別に殺し、生き延びた人々にも深刻な後遺症を残した原爆は人道上許されないというのが国民感情である。
ただし同盟関係に配慮する日本政府は「核兵器使用は国際法に違反するとまでは言えない」というあいまいな態度に終始している。(この後社説は原爆投下に対する米国の見解を事実上容認した久間元防衛相の発言を批判し、さらにG8議長サミットを広島に誘致した河野衆院議長の、非人道的兵器を使用した事実を直視することにより核軍縮を議論しようという思いを肯定的に紹介している)
ペロシ氏はサミット終了後、短い声明を発表した。「広島訪問を通じて戦争の持つ破壊力をありありと思い起こし、すべての国が平和を促進してより良い世界をつくることが喫緊の課題だと思いました」(ごめんなさい。私はこのブログを書きながら、不覚にも涙が止まらなくなりました。とりあえず続けます)
ペロシ氏は民主党でもリベラルな立場で核軍縮にも積極的だが、下院を代表する議長としての訪問だ。米世論の批判を浴びるかもしれない。断行した勇気と見識に敬意を表する。
私は1997年9月に光文社から上梓した『ウィンテル神話の嘘』という単行本の前書きの冒頭でこう書いた。
アメリカはその建国以来の二百数十年の歴史の中で、世界史から消すことのできない大きなミステークを四回やってきた。
最初の誤りは、アフリカから黒人を強制的に連れてきて奴隷にし、人身売買をしたことである。
二つ目の過ちは、禁酒法を発令してギャングを育てたことである。
三つ目の大きなミスは、言うまでもなく広島・長崎への原爆投下である。この政策判断について、アメリカは今もなお「戦争の早期終結とアメリカ軍兵士のこれ以上の犠牲を避けるためにはやむをえなかった」と正当化しているが、どのような理由があろうと、戦争責任がまったくない日本市民数十万人を虐殺した罪は千年経っても消えないであろう。
私に言わせれば、この大量虐殺は、ナチスによるユダヤ人虐殺、日本軍による南京虐殺、ソ連軍による日本人捕虜のシベリア抑留・酷使と並ぶ、第二次世界大戦における4大戦争犯罪なのである。
なお自民党の橋本総裁は97年8月、広島・長崎での原爆慰霊祭に出席し、弔辞を述べた。が、橋本は一度でもアメリカ政府に対し原爆投下の責任を問うたことがあるだろうか。米政府に対し、何の抗議もしない橋本龍太郎から、どんな慰めを受けたとしても、原爆の犠牲者は浮かばれないであろう。
ちなみに、アメリカ人の間では、今でも「リメンバー・パールハーバー」なる反日感情があって、それが自国の原爆投下に対する良心を麻痺させているようだ。
もちろん、アメリカ人のそういう感情は私にも理解できるし、日本が犯した戦争犯罪についてどんな弁護をするつもりもない。たとえ、野村吉三郎・来栖三郎両大使にアクシデントがあったとしても、アメリカに対し宣戦布告を行う前に真珠湾奇襲を行ってしまったことの責任を、やはり日本は免れえないであろう。
少なくとも日本政府は、両大使が米政府に宣戦布告を行ったかどうか確認してから奇襲を行うべきであった。この、外交上の最も基本的確認作業を行わずに攻撃してしまった以上、日本政府はその責任を野村・来栖両大使に転嫁することは不可能である。
だがしかし、日本海軍が攻撃したのは真珠湾に集結していた米艦隊に対してであって、アメリカがやったように無差別に一般市民を殺戮したわけではない。米政府やアメリカ人がどんなに宣戦布告なき奇襲を非難したとしても、だからといって広島・長崎市民に対する無差別の殺戮行為を正当化できるわけではないのだ。
私が、第二次世界大戦における四大戦争犯罪の中に、日本による真珠湾攻撃を含めず、アメリカによる原爆投下を加えたのは、そういう理由による。(後略)
『ウィンテル神話の嘘』を上梓した5年前の92年11月に、当時激化の一途をたどっていた日米経済摩擦を、例えば自動車輸出を自己規制するなどといった小手先の摩擦回避の手段ではなく、根本的に解決する方法を提言した『忠臣蔵と西部劇』のエピローグでは、私はこう書いた。
(イギリスとの戦争に勝って1783年に独立した)アメリカは、北部・南部・西部がそれぞれ異なった顔を持って別々の道を歩んだ。北部が商工業を中心に資本主義経済を発達させれば、南部は黒人奴隷の労働力を基盤とした綿花王国を築き、遅れて西部は牧畜に活路を求める、というぐあいだった。その矛盾が飽和点に達して爆発したのが、南北戦争(1861~65年)である。北軍の勝利によって、南部の奴隷制度は崩壊した(ただし、黒人に対する人種差別はその後も長く続き、今日でも人種問題がアメリカ最大の恥部になっている)。※この文章は16年前のものです。現在では人種差別はかなり減少しています。
アメリカへの移民が急増するようになったのは、20世紀に入ってからである。まず、東欧や南欧からの新移民がどっと押し寄せ、1980年代には、西欧や北欧からの旧移民の数を上回った。日本や中国などからのアジア系移民も増え、アメリカはまさに人種の坩堝と化した。
民族・言語・宗教・文化・風習・ルールなどの異なる多くの人種の混合国家は、当然のことながら、人種対立や人種差別を激化させる。
日系人への差別は、太平洋戦争中の強制収容ばかりがクローズアップされるが、じつは、真珠湾攻撃の35年も前に、カリフォルニアでは排日運動が激化している。1906年の日系児童の学級隔離、13年の排日土地法成立(日系人の土地所有禁止・借地制限など)、24年の排日移民法と、黒人差別と甲乙つけがたいほどの人種差別の洗礼を、日系移民は受けてきた。
太平洋戦争の末期に、もう勝敗の帰趨は完全に見えているのに、日本に原爆を、それも広島で息の根を止めたのに、長崎で止めまで刺すという行為は、単に「リメンバー・パールハーバー」だけでは説明できないものがある。仮定の話をしても仕方がないが、ドイツにだったら、あそこまでやっただろうか、という思いは拭いきれない。
黒人や日系人に対する差別だけではない。先住民のインディアンに対しては、もっと残虐であった。メキシコ人からもテキサスやカリフォルニアを奪い取ったうえ、メキシコ人住民を弾圧した。
こうしたアメリカの過去を知るとき、占領下の日本で、世界の歴史で初めて占領軍が、敗戦国民に対して寛大であり紳士的であったということは奇跡にさえ思える。ひょっとしたら、広島・長崎に対する罪の意識(この罪の意識というのは、キリスト教徒の特質であって、アジア人には希薄である)が、彼らの行動を束縛したのかもしれない。(後略)
私が過去、アメリカの広島・長崎への原爆投下についてどう主張してきたかをご理解いただいたうえで、アメリカ政府の自己弁護の欺瞞性を初めて暴いて見せよう。その方法論をあらかじめこのブログをお読みの方に明らかにしておこう。その方法論は簡単である。まず米政府の見解(私は「米政府の主張」あるいは「米政府の口実」と書いたほうが用語法として適切だと思っているが)をいちおう素直に受け入れることによってその欺瞞性がだれの目にも自然に明らかになるという方法論で行う。いたずらに原爆が非人道的兵器であることを口を極めて叫んでも米政府の開き直りとは噛み合わないからだ。
そのために私は太平洋戦争とベトナム戦争を対比させることで、米政府の主張の妥当性を検証することにした。この論法を使えば米政府の主張の欺瞞性が一瞬にして明らかになってしまうのである。
まず最初に太平洋戦争の経緯を簡単に述べよう。
日本海軍がハワイ真珠湾に集結していた米艦隊に宣戦布告なしの奇襲攻撃をかけたのは1941年12月8日だった。開戦当初日本軍は連戦連勝、無敵の快進撃を続けた。が、42年6月、ミッドウェー海戦で圧倒的戦力を誇っていたはずの日本海軍は米艦隊に歴史的大敗北を喫した。この敗北で戦局が一転した。
この大勝利で一気に反攻に転じた米軍は同年8月ガダルカナル島に上陸、日本の守備隊と激戦の末日本軍を撃破、43年2月、日本軍はガダルカナル島から撤退した。私の手元に資料がないので推測するしかないが、このときの戦いでは米軍兵士にも多大の犠牲者が出たようだ。
その後は米軍が連戦連勝を続けた。同年5月にはアッツ島で日本軍守備隊2500人が全滅、44年7月にはサイパン島の守備隊3万人が全滅。翌8月にはグアム島の守備隊18000人とテニヤン島の守備隊8000人が全滅した。さらに同年10月にはレイテ沖海戦で日本は連合艦隊の主力を失った。
さらに米軍の攻勢は続き、45年3月には硫黄島の守備隊2万3千人が全滅、4月には米軍が沖縄本島に上陸、激戦の末6月には日本軍守備隊は全滅、民間人も含め死者は19万人に達した。この沖縄戦でも米軍兵士の損傷は少なくなかったようだ。
この沖縄戦を最後に米軍は戦略を一変する。米軍兵士の損傷を防ぐため、日本本土への上陸作戦を中止、もっぱら制空権を握った米空軍による大都市(東京・大阪・横浜など)への無差別空襲作戦に舵を大きく切った。なかでも45年3月10日の東京大空襲では、戦争責任がまったくない一般市民10万人を殺戮した。この東京大空襲が広島・長崎への原爆投下の事実上の布石であった。
8月6日 米軍、広島へ原爆投下
8月8日 ソ連スターリン、米大統領ルーズベルトの要請により対日宣戦布告
8月9日 米軍、長崎へ原爆投下
8月15日 日本、ポツダム宣言を受け入れ無条件降伏
太平洋戦争は概略このような経緯をたどって終結した。アメリカが広島・長崎に原爆を投下した時点では、もはや日本には戦争継続能力は皆無だった。それでもアメリカは「戦争の早期終結。米軍兵士の損傷防止」を口実に原爆を投下した。その口実を、今でも正当だと主張するなら、太平洋戦争(1941.12.8~45.8.15)よりはるかに長期化して、しかも米国史上初めて敗北を喫したベトナム戦争で、ホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)の首都ハノイに原爆をなぜ投下しなかったのか。私は理解に苦しむ。
そこでベトナム戦争の経緯を簡略に述べよう。
ベトナム共産党の指導者ホー・チ・ミンが「ベトナム8月革命」を率いてベトナム民主共和国(北ベトナム)を誕生させたのは1945年9月、つまり日本が無条件降伏してベトナムから撤退した直後だった。これによりベトナムは南北に分離、南ベトナム政府は共産主義勢力の南下を食い止めようとする(ドミノ政策)アメリカがバックアップし、生まれたばかりのひ弱だった北ベトナムはソ連と中国が背後から支えるという状態が15年間続き、それなりに均衡状態が保たれていた。
が、60年12月、北ベトナムやソ連・中国の後ろ盾で「南ベトナム解放民族戦線」(以下解放軍と記す)が結成され、南北対立が火を噴く。
共産勢力の攻勢に対しアメリカは南ベトナム政府を支えるため61年11月にヘリコプター部隊と軍事顧問団を派遣、翌62年2月に米軍が「南ベトナム軍事援助司令部」を設置した。
南ベトナム政府軍(以下政府軍と記す)と共産勢力(表向きは「南北統一・民族独立」を掲げた解放軍)との小競り合いが急展開したのは、63年1月に生じたアプバクの戦いで圧倒的軍事力を誇っていた政府軍が解放軍に敗北したことがきっかけだった。この報に接した米大統領ケネディは米軍の本格投入を決断した。
65年に入り、米軍は2月、北爆を開始、3月には米海兵隊がダナンに上陸した。この時期からアメリカはベトナム戦争の泥沼にのめりこんでいく。が、ベトナムのジャングルに姿を隠してゲリラ戦を始めた解放軍(実態はソ連・中国の後ろ盾を得た北ベトナム軍)に政府軍と米軍は手を焼き、にっちもさっちもいかない状態に陥っていく。
米軍は事態を好転すべく、大量の枯れ葉剤を撒いてジャングルに隠れたゲリラをあぶりだそうとするが、この枯葉剤はダイオキシン類などの薬剤を含んでおり、のちに大きな問題化する。
しかし戦局は政府軍・米軍側にますます不利になる一方で、69年6月には解放軍・北ベトナム軍が「南ベトナム臨時革命政府樹立」を宣言し、共産勢力による南ベトナムの実効支配が明らかになった。
苦境に陥った政府軍と米軍は一気に事態を転換すべく戦火を周辺諸国に拡大(共産勢力への軍事物資の輸送ルートになっているという理由で)、70年4月にはカンボジアに侵攻、続いて71年2月にはラオスにも侵攻、ラオスではクラスター爆弾(対人・対戦車用の空対地爆弾)を大量に投下した。このなりふり構わぬ米軍の非人道的兵器(枯れ葉剤やクラスター爆弾)の使用に世界の世論が一気に反米化しただけでなく、米国内でもベトナム戦争反対運動が激化するに至り、米軍はますます苦境に立った。その事態を打開すべく米軍はいったん中止していた無制限北爆を再開したが、ますます世論の反発を招き、すぐに停止した(72年12月)。
事ここに至ってアメリカも敗北を認めざるを得なくなり、翌73年1月にはパリ協定を締結して終戦、南北ベトナムは統一国家になり共産圏の仲間入りを果たした。13年間続いたベトナム戦争(太平洋戦争は3年と8カ月)で、アメリカは最盛期で一度に50万人の地上軍を投入したとされる。太平洋戦争でアメリカが苦戦したのは開戦直後の約半年だけで、すでに述べたようにミッドウェー海戦での大勝利以降連戦連勝を重ね、アッツ島・サイパン島・テニヤン島・硫黄島・沖縄本島で行った地上戦も、米軍兵士の上陸直前に日本軍守備隊基地への徹底した空爆と艦砲射撃で日本軍の戦力をほぼ壊滅してから上陸したため、米軍兵士の損傷は極めて少なかった。その後は東京・大阪・横浜などの大都市への空襲を繰り返しただけで米軍兵士の損傷はほとんどなかった。
にもかかわらず、アメリカは「戦争の早期終結・米軍兵士の損傷回避」のためと称して広島・長崎に原爆を投下した。その原爆投下と、その行為を正当化した二つの口実を、米政府はいまだに正当化するのであれば、太平洋戦争よりはるかに長期にわたり、かつ米軍兵士の莫大な損傷をこうむり、現在に至るまで大きな爪痕を残しているベトナム戦争で、「戦争の早期終結・米軍兵士の損傷回避」のために、北ベトナム軍の拠点・ハノイになぜ原爆を投下しなかったのか。
広島・長崎に原爆を投下した戦争責任を回避するため、後から付け加えた口実をあくまで正当化するなら、より原爆投下の正当性を主張できるはずのハノイに原爆を投下せず、戦争の長期化と莫大な米軍兵士の損傷を招いた責任をどう説明できるのか(念のために、私はハノイに原爆を投下すべきだったなどと言っているのではない。この主張はアメリカの欺瞞性を明らかにするためのレトリックである)。
最後に福田の後継総理になる方にお願いしたい。日本がアメリカと真の友人として世界の平和のために尽くそうとするのであれば、原爆投下の戦争責任を米政府に認めさせ、レーガンの後継大統領を広島・長崎に招き、ナンシー・ペロシ氏のように原爆慰霊碑の前で、小さくていいから十字を切ってもらってほしい。それが日本の総理大臣が持つべき矜持である。(了)
日ごろから私は朝日新聞の論説委員の方たちを軽蔑していた。ガソリン税についての主張をひと月もたたないうちに180度転換したり(説明抜きに)、阿倍内閣が手をつけた(手をつけただけで、挫折し無責任に政権を放り出してしまったが)公務員制度改革の目的をどういうふうに頭脳を働かせればこれほど曲解できるのかと摩訶不思議に思っていたら、案の定公務員改革問題について半年間完黙を続けた後、これまた何の説明もなく主張を180度転換して、「公務員制度――改革の動きを止めるな」と、かつては全否定していた政府の公務員制度改革の目的をほぼ正確に理解して今度は全面支援の立場に回るという、恥も外聞も投げ捨てた主張を行ってきた。その朝日新聞の論説委員が、これほど高潔で品位の高い社説を書けるとは思ってもいなかった。
朝日新聞を取っていない人はぜひ朝日新聞のホームページか「あらたにす」で読んでほしい。このブログの読者も、私と同じ感動を受けるだろう。そんなのは面倒という人のために、この社説の概略を私の理解力と文章力の限界は承知の上で紹介する。
広島で行われたG8議長サミットの参加者たちが原爆慰霊碑に献花を捧げてくれた時、米下院議長のナンシー・ペロシ氏はいったん献花した後、もう一度慰霊碑に向かい、胸の前で小さく十字を切った。米下院議長といえば、大統領が死亡したり大統領としての責務を果たせない状態に陥った時、副大統領に次いで大統領の責務を果たすことが米憲法で定められている最大級の重要人物である。
原爆により日本の降伏が早まり多くの人命が救われたというのが米政府の見解だ。これに対し日本は原爆がなくても早晩降伏しただろうし、一般市民を無差別に殺し、生き延びた人々にも深刻な後遺症を残した原爆は人道上許されないというのが国民感情である。
ただし同盟関係に配慮する日本政府は「核兵器使用は国際法に違反するとまでは言えない」というあいまいな態度に終始している。(この後社説は原爆投下に対する米国の見解を事実上容認した久間元防衛相の発言を批判し、さらにG8議長サミットを広島に誘致した河野衆院議長の、非人道的兵器を使用した事実を直視することにより核軍縮を議論しようという思いを肯定的に紹介している)
ペロシ氏はサミット終了後、短い声明を発表した。「広島訪問を通じて戦争の持つ破壊力をありありと思い起こし、すべての国が平和を促進してより良い世界をつくることが喫緊の課題だと思いました」(ごめんなさい。私はこのブログを書きながら、不覚にも涙が止まらなくなりました。とりあえず続けます)
ペロシ氏は民主党でもリベラルな立場で核軍縮にも積極的だが、下院を代表する議長としての訪問だ。米世論の批判を浴びるかもしれない。断行した勇気と見識に敬意を表する。
私は1997年9月に光文社から上梓した『ウィンテル神話の嘘』という単行本の前書きの冒頭でこう書いた。
アメリカはその建国以来の二百数十年の歴史の中で、世界史から消すことのできない大きなミステークを四回やってきた。
最初の誤りは、アフリカから黒人を強制的に連れてきて奴隷にし、人身売買をしたことである。
二つ目の過ちは、禁酒法を発令してギャングを育てたことである。
三つ目の大きなミスは、言うまでもなく広島・長崎への原爆投下である。この政策判断について、アメリカは今もなお「戦争の早期終結とアメリカ軍兵士のこれ以上の犠牲を避けるためにはやむをえなかった」と正当化しているが、どのような理由があろうと、戦争責任がまったくない日本市民数十万人を虐殺した罪は千年経っても消えないであろう。
私に言わせれば、この大量虐殺は、ナチスによるユダヤ人虐殺、日本軍による南京虐殺、ソ連軍による日本人捕虜のシベリア抑留・酷使と並ぶ、第二次世界大戦における4大戦争犯罪なのである。
なお自民党の橋本総裁は97年8月、広島・長崎での原爆慰霊祭に出席し、弔辞を述べた。が、橋本は一度でもアメリカ政府に対し原爆投下の責任を問うたことがあるだろうか。米政府に対し、何の抗議もしない橋本龍太郎から、どんな慰めを受けたとしても、原爆の犠牲者は浮かばれないであろう。
ちなみに、アメリカ人の間では、今でも「リメンバー・パールハーバー」なる反日感情があって、それが自国の原爆投下に対する良心を麻痺させているようだ。
もちろん、アメリカ人のそういう感情は私にも理解できるし、日本が犯した戦争犯罪についてどんな弁護をするつもりもない。たとえ、野村吉三郎・来栖三郎両大使にアクシデントがあったとしても、アメリカに対し宣戦布告を行う前に真珠湾奇襲を行ってしまったことの責任を、やはり日本は免れえないであろう。
少なくとも日本政府は、両大使が米政府に宣戦布告を行ったかどうか確認してから奇襲を行うべきであった。この、外交上の最も基本的確認作業を行わずに攻撃してしまった以上、日本政府はその責任を野村・来栖両大使に転嫁することは不可能である。
だがしかし、日本海軍が攻撃したのは真珠湾に集結していた米艦隊に対してであって、アメリカがやったように無差別に一般市民を殺戮したわけではない。米政府やアメリカ人がどんなに宣戦布告なき奇襲を非難したとしても、だからといって広島・長崎市民に対する無差別の殺戮行為を正当化できるわけではないのだ。
私が、第二次世界大戦における四大戦争犯罪の中に、日本による真珠湾攻撃を含めず、アメリカによる原爆投下を加えたのは、そういう理由による。(後略)
『ウィンテル神話の嘘』を上梓した5年前の92年11月に、当時激化の一途をたどっていた日米経済摩擦を、例えば自動車輸出を自己規制するなどといった小手先の摩擦回避の手段ではなく、根本的に解決する方法を提言した『忠臣蔵と西部劇』のエピローグでは、私はこう書いた。
(イギリスとの戦争に勝って1783年に独立した)アメリカは、北部・南部・西部がそれぞれ異なった顔を持って別々の道を歩んだ。北部が商工業を中心に資本主義経済を発達させれば、南部は黒人奴隷の労働力を基盤とした綿花王国を築き、遅れて西部は牧畜に活路を求める、というぐあいだった。その矛盾が飽和点に達して爆発したのが、南北戦争(1861~65年)である。北軍の勝利によって、南部の奴隷制度は崩壊した(ただし、黒人に対する人種差別はその後も長く続き、今日でも人種問題がアメリカ最大の恥部になっている)。※この文章は16年前のものです。現在では人種差別はかなり減少しています。
アメリカへの移民が急増するようになったのは、20世紀に入ってからである。まず、東欧や南欧からの新移民がどっと押し寄せ、1980年代には、西欧や北欧からの旧移民の数を上回った。日本や中国などからのアジア系移民も増え、アメリカはまさに人種の坩堝と化した。
民族・言語・宗教・文化・風習・ルールなどの異なる多くの人種の混合国家は、当然のことながら、人種対立や人種差別を激化させる。
日系人への差別は、太平洋戦争中の強制収容ばかりがクローズアップされるが、じつは、真珠湾攻撃の35年も前に、カリフォルニアでは排日運動が激化している。1906年の日系児童の学級隔離、13年の排日土地法成立(日系人の土地所有禁止・借地制限など)、24年の排日移民法と、黒人差別と甲乙つけがたいほどの人種差別の洗礼を、日系移民は受けてきた。
太平洋戦争の末期に、もう勝敗の帰趨は完全に見えているのに、日本に原爆を、それも広島で息の根を止めたのに、長崎で止めまで刺すという行為は、単に「リメンバー・パールハーバー」だけでは説明できないものがある。仮定の話をしても仕方がないが、ドイツにだったら、あそこまでやっただろうか、という思いは拭いきれない。
黒人や日系人に対する差別だけではない。先住民のインディアンに対しては、もっと残虐であった。メキシコ人からもテキサスやカリフォルニアを奪い取ったうえ、メキシコ人住民を弾圧した。
こうしたアメリカの過去を知るとき、占領下の日本で、世界の歴史で初めて占領軍が、敗戦国民に対して寛大であり紳士的であったということは奇跡にさえ思える。ひょっとしたら、広島・長崎に対する罪の意識(この罪の意識というのは、キリスト教徒の特質であって、アジア人には希薄である)が、彼らの行動を束縛したのかもしれない。(後略)
私が過去、アメリカの広島・長崎への原爆投下についてどう主張してきたかをご理解いただいたうえで、アメリカ政府の自己弁護の欺瞞性を初めて暴いて見せよう。その方法論をあらかじめこのブログをお読みの方に明らかにしておこう。その方法論は簡単である。まず米政府の見解(私は「米政府の主張」あるいは「米政府の口実」と書いたほうが用語法として適切だと思っているが)をいちおう素直に受け入れることによってその欺瞞性がだれの目にも自然に明らかになるという方法論で行う。いたずらに原爆が非人道的兵器であることを口を極めて叫んでも米政府の開き直りとは噛み合わないからだ。
そのために私は太平洋戦争とベトナム戦争を対比させることで、米政府の主張の妥当性を検証することにした。この論法を使えば米政府の主張の欺瞞性が一瞬にして明らかになってしまうのである。
まず最初に太平洋戦争の経緯を簡単に述べよう。
日本海軍がハワイ真珠湾に集結していた米艦隊に宣戦布告なしの奇襲攻撃をかけたのは1941年12月8日だった。開戦当初日本軍は連戦連勝、無敵の快進撃を続けた。が、42年6月、ミッドウェー海戦で圧倒的戦力を誇っていたはずの日本海軍は米艦隊に歴史的大敗北を喫した。この敗北で戦局が一転した。
この大勝利で一気に反攻に転じた米軍は同年8月ガダルカナル島に上陸、日本の守備隊と激戦の末日本軍を撃破、43年2月、日本軍はガダルカナル島から撤退した。私の手元に資料がないので推測するしかないが、このときの戦いでは米軍兵士にも多大の犠牲者が出たようだ。
その後は米軍が連戦連勝を続けた。同年5月にはアッツ島で日本軍守備隊2500人が全滅、44年7月にはサイパン島の守備隊3万人が全滅。翌8月にはグアム島の守備隊18000人とテニヤン島の守備隊8000人が全滅した。さらに同年10月にはレイテ沖海戦で日本は連合艦隊の主力を失った。
さらに米軍の攻勢は続き、45年3月には硫黄島の守備隊2万3千人が全滅、4月には米軍が沖縄本島に上陸、激戦の末6月には日本軍守備隊は全滅、民間人も含め死者は19万人に達した。この沖縄戦でも米軍兵士の損傷は少なくなかったようだ。
この沖縄戦を最後に米軍は戦略を一変する。米軍兵士の損傷を防ぐため、日本本土への上陸作戦を中止、もっぱら制空権を握った米空軍による大都市(東京・大阪・横浜など)への無差別空襲作戦に舵を大きく切った。なかでも45年3月10日の東京大空襲では、戦争責任がまったくない一般市民10万人を殺戮した。この東京大空襲が広島・長崎への原爆投下の事実上の布石であった。
8月6日 米軍、広島へ原爆投下
8月8日 ソ連スターリン、米大統領ルーズベルトの要請により対日宣戦布告
8月9日 米軍、長崎へ原爆投下
8月15日 日本、ポツダム宣言を受け入れ無条件降伏
太平洋戦争は概略このような経緯をたどって終結した。アメリカが広島・長崎に原爆を投下した時点では、もはや日本には戦争継続能力は皆無だった。それでもアメリカは「戦争の早期終結。米軍兵士の損傷防止」を口実に原爆を投下した。その口実を、今でも正当だと主張するなら、太平洋戦争(1941.12.8~45.8.15)よりはるかに長期化して、しかも米国史上初めて敗北を喫したベトナム戦争で、ホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)の首都ハノイに原爆をなぜ投下しなかったのか。私は理解に苦しむ。
そこでベトナム戦争の経緯を簡略に述べよう。
ベトナム共産党の指導者ホー・チ・ミンが「ベトナム8月革命」を率いてベトナム民主共和国(北ベトナム)を誕生させたのは1945年9月、つまり日本が無条件降伏してベトナムから撤退した直後だった。これによりベトナムは南北に分離、南ベトナム政府は共産主義勢力の南下を食い止めようとする(ドミノ政策)アメリカがバックアップし、生まれたばかりのひ弱だった北ベトナムはソ連と中国が背後から支えるという状態が15年間続き、それなりに均衡状態が保たれていた。
が、60年12月、北ベトナムやソ連・中国の後ろ盾で「南ベトナム解放民族戦線」(以下解放軍と記す)が結成され、南北対立が火を噴く。
共産勢力の攻勢に対しアメリカは南ベトナム政府を支えるため61年11月にヘリコプター部隊と軍事顧問団を派遣、翌62年2月に米軍が「南ベトナム軍事援助司令部」を設置した。
南ベトナム政府軍(以下政府軍と記す)と共産勢力(表向きは「南北統一・民族独立」を掲げた解放軍)との小競り合いが急展開したのは、63年1月に生じたアプバクの戦いで圧倒的軍事力を誇っていた政府軍が解放軍に敗北したことがきっかけだった。この報に接した米大統領ケネディは米軍の本格投入を決断した。
65年に入り、米軍は2月、北爆を開始、3月には米海兵隊がダナンに上陸した。この時期からアメリカはベトナム戦争の泥沼にのめりこんでいく。が、ベトナムのジャングルに姿を隠してゲリラ戦を始めた解放軍(実態はソ連・中国の後ろ盾を得た北ベトナム軍)に政府軍と米軍は手を焼き、にっちもさっちもいかない状態に陥っていく。
米軍は事態を好転すべく、大量の枯れ葉剤を撒いてジャングルに隠れたゲリラをあぶりだそうとするが、この枯葉剤はダイオキシン類などの薬剤を含んでおり、のちに大きな問題化する。
しかし戦局は政府軍・米軍側にますます不利になる一方で、69年6月には解放軍・北ベトナム軍が「南ベトナム臨時革命政府樹立」を宣言し、共産勢力による南ベトナムの実効支配が明らかになった。
苦境に陥った政府軍と米軍は一気に事態を転換すべく戦火を周辺諸国に拡大(共産勢力への軍事物資の輸送ルートになっているという理由で)、70年4月にはカンボジアに侵攻、続いて71年2月にはラオスにも侵攻、ラオスではクラスター爆弾(対人・対戦車用の空対地爆弾)を大量に投下した。このなりふり構わぬ米軍の非人道的兵器(枯れ葉剤やクラスター爆弾)の使用に世界の世論が一気に反米化しただけでなく、米国内でもベトナム戦争反対運動が激化するに至り、米軍はますます苦境に立った。その事態を打開すべく米軍はいったん中止していた無制限北爆を再開したが、ますます世論の反発を招き、すぐに停止した(72年12月)。
事ここに至ってアメリカも敗北を認めざるを得なくなり、翌73年1月にはパリ協定を締結して終戦、南北ベトナムは統一国家になり共産圏の仲間入りを果たした。13年間続いたベトナム戦争(太平洋戦争は3年と8カ月)で、アメリカは最盛期で一度に50万人の地上軍を投入したとされる。太平洋戦争でアメリカが苦戦したのは開戦直後の約半年だけで、すでに述べたようにミッドウェー海戦での大勝利以降連戦連勝を重ね、アッツ島・サイパン島・テニヤン島・硫黄島・沖縄本島で行った地上戦も、米軍兵士の上陸直前に日本軍守備隊基地への徹底した空爆と艦砲射撃で日本軍の戦力をほぼ壊滅してから上陸したため、米軍兵士の損傷は極めて少なかった。その後は東京・大阪・横浜などの大都市への空襲を繰り返しただけで米軍兵士の損傷はほとんどなかった。
にもかかわらず、アメリカは「戦争の早期終結・米軍兵士の損傷回避」のためと称して広島・長崎に原爆を投下した。その原爆投下と、その行為を正当化した二つの口実を、米政府はいまだに正当化するのであれば、太平洋戦争よりはるかに長期にわたり、かつ米軍兵士の莫大な損傷をこうむり、現在に至るまで大きな爪痕を残しているベトナム戦争で、「戦争の早期終結・米軍兵士の損傷回避」のために、北ベトナム軍の拠点・ハノイになぜ原爆を投下しなかったのか。
広島・長崎に原爆を投下した戦争責任を回避するため、後から付け加えた口実をあくまで正当化するなら、より原爆投下の正当性を主張できるはずのハノイに原爆を投下せず、戦争の長期化と莫大な米軍兵士の損傷を招いた責任をどう説明できるのか(念のために、私はハノイに原爆を投下すべきだったなどと言っているのではない。この主張はアメリカの欺瞞性を明らかにするためのレトリックである)。
最後に福田の後継総理になる方にお願いしたい。日本がアメリカと真の友人として世界の平和のために尽くそうとするのであれば、原爆投下の戦争責任を米政府に認めさせ、レーガンの後継大統領を広島・長崎に招き、ナンシー・ペロシ氏のように原爆慰霊碑の前で、小さくていいから十字を切ってもらってほしい。それが日本の総理大臣が持つべき矜持である。(了)
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