今日、日韓両国の在大使館で日韓国交正常化50年を記念して式典が行われる。その式典に、日韓の両首脳が出席することが分かった。涙が出るほど嬉しい。前回のブログで、歴史の検証は政治を目的にして行ってはいけないと書いた。政治を目的にして歴史の検証を行えば、その検証作業は国内世論の誘導、政策の正当化につながる。いま両国の対韓、対日感情は戦後最悪と言ってもいいほど悪化している。その一方で民間の世論調査によれば、両国の関係改善を望む両国民はそれぞれ70%に達しているという。世論は政治を動かす力を持っているという歴然たる証明でもある。両国首脳が、世論に配慮したことは、政治の主体は国民にあることを証明した。民主主義は、亀のような歩みかもしれないが、一歩一歩前進していることを、私は心の底から噛みしめた思いだ。
自民は通常国会を9月末まで延期することを決めたようだ。公明の反発をできるだけ抑えるために、強行採決を避けることにしたのだろう。自民・谷垣幹事長(元総裁)が、20日山口県宇部市で講演して今週初めにも会期を延期することを決める予定を明らかにした。
またその講演で安保法制について、とうとう安倍構想の本音も明らかにしてしまった。もともと安倍総理は国内での説明と海外での説明を変えてきた。はっきり言えば「二枚舌」を使ってきた。
当初、安倍総理は「韓国有事などの際、日本人を救出するために出動した米国艦船が攻撃を受けた場合、米艦船を助けなくてもいいのか」と主張をしていた(「ホルムズ海峡が機雷によって封鎖されたら日本の存立にかかわる。機雷掃海は自衛権の範囲だ」とも主張していた)。この米艦防護の発言に対して米政府は直ちに否定した。「日本人を救出するために米艦船を出動させることはありえない。米政府が最初に救出するのは米国人であり、次に優先的に救出するのはイギリス人だ。日本人を救出するとしたら、その他の同盟国の国民と同じ扱いになる」と。
その後、安倍総理は積極的に海外首脳と会談を重ね、「安倍安保法制」の構想を語り、賛意を取り付けていった。その首脳会談そのものはメディア抜きで行われたため、安倍総理がどう説明したかは全く分からない。が、安倍総理は「私の積極的平和主義が海外首脳から歓迎された」としかコメントせず、肝心の「積極的平和主義」なるもの中身はわれわれ日本人には依然としてわからない。海外首脳も「日本の積極的平和主義を歓迎する」というコメントしか出さず、どういう国際紛争が生じたときに、日本政府が自衛隊の実力を行使するのかはいまだ明らかではない。が、海外首脳が安倍総理の「積極的平和主義」を歓迎している以上、安保法制の海外での説明が「自国が攻撃されていなくても、密接な関係にある国が攻撃されたら助けますよ」と約束しただろうことは間違いない、と私は思っていた。
が、国内での説明はいぜんとして「日本が国家存立の危機にさらされたとき」「日本人の生命が脅かされたとき」としか言ってこなかった。が、その程度の範囲であれば、何も「憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を可能にする」などと、大半の憲法学者が「違憲法制だ」と声を上げるまでもなく、憲法も否定していないと解釈されている「個別的自衛権」(実際には現行憲法は自衛のための戦力の保持も否定しているのだが)の行使範囲を明確にすることによって、自衛隊を出動させることは可能なはずだ。
だが、前回のブログで明らかにしたように、国連憲章51条は「個別的」(自国の軍事力)であるにせよ「集団的」(密接な関係にある他国の軍事力)であるにせよ、いずれも自国防衛のために行使できる「固有の権利」として認めてい
るだけだ。いかに密接な関係にあったとしても、自国以外の他国から頼まれもしないのに、勝手に他国防衛のために自国の軍事力を行使することなど、憲章51条は一切認めていない。憲章51条は条項そのものを「自衛権」と位置付けられているように、国連安保理がいかなる手段でも国際の紛争を解決できなかった場合にのみ、安保理が紛争を解決するまでの間に限って「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と明記している。「個別的」が自国防衛のためで、「集団的」は他国防衛のためなどという解釈のデタラメさは、中学生程度の読解力があれば誰でも分かる話だ。政治やメディアの世界で仕事をするには、中学生以下の読解力しかないと資格がないことを意味しているとしか思えない。
ところが、このブログの冒頭に書いたように、谷垣幹事長が、つい安保法制の本当の狙いを喋ってしまった。その個所を発言のとおりに文字化する。
「日本周辺の安全保障環境は変わってきて、テロのようなものも起きるようになってきた。アメリカは、かつてほど世界のどこにでも目を光らせているという状況ではなくなってきており、それを補わなければならない」
谷垣氏は元衆院議員の杉村太蔵氏のようなできそこないの政治家ではない。自民党の元総裁であり、現幹事長の要職にある。勝手に自分の考えを述べられる立場にはない。谷垣氏が言ったことは、「国際社会に置けるアメリカの権威が低下した部分を、自衛隊の軍事力で補う」ということだ。それ以外に解釈のしようがない。
確かに日米安全保障条約は片務性が問題視されており、岸内閣時の「60年安保改定」や、78年から行われるようになった「思いやり予算」(在日米軍駐留費負担)の増加に次ぐ増加などで、かなり片務的傾向は薄められてはきたが、それでもアメリカだけが日本防衛の義務を負い、日本はアメリカ防衛の義務を負わなくてもよいというギャップは、とくに米国民の一部にいまだに根強く残っている反日感情のしこりの原因になっていることは疑いを容れない。
そういう意味では、安倍構想を私は真っ向から否定しているわけではない。が、相対的に弱体化したアメリカの、「世界の警官」としての国際的地位を日本が補完するというのであれば、まず憲法を改正したうえでのことだろう。現行憲法には手を触れず、憲法解釈の変更によって自衛隊がアメリカの補完的役割を担うというのは、あまりにも国民をバカにした話ではないか。
念のため、私は「一国平和主義者」ではない。現在の日本国憲法が成立した時代の日本の国力から考えても、また占領下における日本の防衛の義務は占領国側(実態はGHQ)にあったから、日本は「自衛のための戦力すら持たずにすんだ」ことは憲法制定時の吉田茂総理の国会答弁からも明らかである。
が、サンフランシスコ講和条約によって日本が独立した時点で、「自衛のための戦力さえ否定した」現行憲法を改正せず、経済復興を最優先した吉田内閣の判断は、ある程度やむを得ざる状況だったことを考慮しても、憲法改正への道だけは作っておくべきだったと、私は思っている。吉田総理の功罪は改めて「政治的目的」を排除したうえで検証すべきだろう。
(追記)昨日のNHKスペシャルに再び感動した。私は湾岸戦争時に毎週テレビ朝日の『サンデーモーニング』を見ていた。当時朝日新聞の田岡俊次記者や小川和久軍事評論家などが「一国平和主義」を前提とした主張をしていたと思う。
その当時のメディアの姿勢に対して、私は「日本はこれでいいのか」という思いを込めて『日本が危ない』(1992年、コスモの本より上梓)を書いた。そのまえがきで私はこう書いた。
正直なところ、私は湾岸戦争と旧ソ連邦の解体に直面するまで、日本の安全や防衛問題について深い関心を抱いていたわけではなかった。
戦後40数年の間、日本は自ら軍事行動に出たこともなく、また他国から侵略されることもなく、見せかけの平和が続く中で経済的繁栄を遂げてきた。私はそういう状態が今後も長く続くに違いない、と無意識のうちに思い込んでいたのかもしれない。日本とアメリカの結びつきは政治的にも経済的にも強固であり、日米関係に突拍子もない異変が生じない限り、日本の安全は世界のどの国よりも保障されている、と信じて疑わなかった。
だが、湾岸戦争と旧ソ連邦の解体は、そんな勝手な思い込みをアッという間に打ち砕いてしまった。
まず湾岸戦争。イラクが突如、クウェートに侵攻し、日本人141人が人質にされた。経済大国日本の海外駐在のビジネスマンが、テロリストの標的にされる事件は最近、頻発しているが、いかなる犯罪とも関係のない日本人の、それも民間人の生命が他国の国家権力の手によって危機にさらされるという事態は、戦後40数年の歴史で初めてのことだった。
このとき日本政府は主体的な解決努力を放棄し、ひたすら国連頼み、アメリカ頼みに終始した。独立国家としての誇りと尊厳をかけて、人質にされた同胞の救出と安全に責任を持とうとするのでなく、アメリカやイギリスの尻馬にのってイラクへの経済封鎖と周辺諸国への医療・経済援助、さらに多国籍軍への資金カンパに応じただけであった。
私は、自衛隊を直ちに中東に派遣すべきだった、などと言いたいのではない。現行憲法や自衛隊法の制約のもとでは、海外派兵が難しいことは百も承知だ。
「もし人質にされた日本人のたった一人にでも万が一のことが生じたときは、日本政府は重大な決意をもっと事態に対処する」
海部首相がそう宣言していれば、日本の誇りと尊厳はかすかに保つことができたし、人質にされた同胞とその家族の日本政府への信頼も揺るがなかったに違いない。
もちろん、そのような宣言をすれば、国会で「自衛隊の派遣を意味するものだ」と追及されたであろう。そのときは、直ちに国会を解散して国民に信を問うべきであった。その結果、国民の総意が「人質にされた同胞を見殺しにしても日本は戦争に巻き込まれるべきではない」とするなら、もはや何をか言わんやである。私は日本人であることを恥じつつ、ひっそりと暮らすことにしよう。
私の本書における基本的スタンスは、その一点にあることを、前もって明らかにしておきたい。(後略)
本書の締めで私はこう書いた。
高校での日本史の授業はせいぜい明治維新で打ち切りになっていることが多いという。なぜ軍国主義時代の日本や戦後の日本についての正しい歴史教育を行わないのか。聖徳太子の17条憲法を教えることも大切だろうが、現行憲法や国連憲章、日米安保条約、IMFやガットのルールについて正しい理解を育むことのほうが、将来の日本を担う子供たちにとってはるかに大切である。
いま世界は、確かに平和に向かって大きく前進しようとしている。大局的にはそう言えるが、地域的に見れば民族紛争、国境紛争、宗教対立はかえって激しさを増している。たまたま日本はそういった紛争から局外にあるため、“平和の配当”を求める声が強いが、当然の権利として“平和の配当”を求めるためには、まず“平和の代償”を支払わなければならないことを子供たちに教えなければいけない。そして日本がきちんと“平和の代償”を支払ったとき、初めて日本は世界から仲間として受け入れられるであろう。
同書を上梓した直後、朝日新聞の田岡氏から私の自宅に電話をいただいた。いきなり「危険な書だ」と批判された。“平和ボケ”した田岡氏から見ると危険な書に見えたのかもしれないが、日本は“平和”の実がなる木を持っているわけではない。平和を維持するためには、それなりの国際社会への責任を果たすことが必要だ。
私は1時間を超える田岡氏からの電話の最後に、こう疑問をぶつけた。「もし人質にされた日本人の一人にでも、他国の国家権力から被害を受けた場合、では日本政府は見殺しにすべきだとおっしゃるのですか」と。
田岡氏はしばらく沈黙した後「その答えは持ち合わせていません」とお答えになった。1時間余に及ぶ電話はこのやり取りで終わった。いま田岡氏は湾岸戦争との絡みで、安倍安保法制についてどう考えているのだろうか。ぜひ聞いてみたいと思う。
昨日のNスぺは湾岸戦争当時のアメリカからの日本への強い要請と、それに答えようとしていた海部内閣のスタンス、さらに自衛隊派遣の法律改正が廃案に追い込まれたいきさつを、憶測ではなく事実を根拠に報道した。そうした経緯があったことは当時のメディアではほとんど報道されなかったと思う。だから私はメディアの報道を根拠に、先に書いたような「まえがき」を書いた。いま、私はジャーナリストの端くれとして、そのことを恥じている。
ただNHKへの要求もある。憲章51条の徹底的な解明を目的とした報道番組を制作してほしい。なぜ「集団的自衛権」についての解釈の混乱が生じているのか、その解明はNHKの報道使命の一つだと思うからだ。
自民は通常国会を9月末まで延期することを決めたようだ。公明の反発をできるだけ抑えるために、強行採決を避けることにしたのだろう。自民・谷垣幹事長(元総裁)が、20日山口県宇部市で講演して今週初めにも会期を延期することを決める予定を明らかにした。
またその講演で安保法制について、とうとう安倍構想の本音も明らかにしてしまった。もともと安倍総理は国内での説明と海外での説明を変えてきた。はっきり言えば「二枚舌」を使ってきた。
当初、安倍総理は「韓国有事などの際、日本人を救出するために出動した米国艦船が攻撃を受けた場合、米艦船を助けなくてもいいのか」と主張をしていた(「ホルムズ海峡が機雷によって封鎖されたら日本の存立にかかわる。機雷掃海は自衛権の範囲だ」とも主張していた)。この米艦防護の発言に対して米政府は直ちに否定した。「日本人を救出するために米艦船を出動させることはありえない。米政府が最初に救出するのは米国人であり、次に優先的に救出するのはイギリス人だ。日本人を救出するとしたら、その他の同盟国の国民と同じ扱いになる」と。
その後、安倍総理は積極的に海外首脳と会談を重ね、「安倍安保法制」の構想を語り、賛意を取り付けていった。その首脳会談そのものはメディア抜きで行われたため、安倍総理がどう説明したかは全く分からない。が、安倍総理は「私の積極的平和主義が海外首脳から歓迎された」としかコメントせず、肝心の「積極的平和主義」なるもの中身はわれわれ日本人には依然としてわからない。海外首脳も「日本の積極的平和主義を歓迎する」というコメントしか出さず、どういう国際紛争が生じたときに、日本政府が自衛隊の実力を行使するのかはいまだ明らかではない。が、海外首脳が安倍総理の「積極的平和主義」を歓迎している以上、安保法制の海外での説明が「自国が攻撃されていなくても、密接な関係にある国が攻撃されたら助けますよ」と約束しただろうことは間違いない、と私は思っていた。
が、国内での説明はいぜんとして「日本が国家存立の危機にさらされたとき」「日本人の生命が脅かされたとき」としか言ってこなかった。が、その程度の範囲であれば、何も「憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を可能にする」などと、大半の憲法学者が「違憲法制だ」と声を上げるまでもなく、憲法も否定していないと解釈されている「個別的自衛権」(実際には現行憲法は自衛のための戦力の保持も否定しているのだが)の行使範囲を明確にすることによって、自衛隊を出動させることは可能なはずだ。
だが、前回のブログで明らかにしたように、国連憲章51条は「個別的」(自国の軍事力)であるにせよ「集団的」(密接な関係にある他国の軍事力)であるにせよ、いずれも自国防衛のために行使できる「固有の権利」として認めてい
るだけだ。いかに密接な関係にあったとしても、自国以外の他国から頼まれもしないのに、勝手に他国防衛のために自国の軍事力を行使することなど、憲章51条は一切認めていない。憲章51条は条項そのものを「自衛権」と位置付けられているように、国連安保理がいかなる手段でも国際の紛争を解決できなかった場合にのみ、安保理が紛争を解決するまでの間に限って「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と明記している。「個別的」が自国防衛のためで、「集団的」は他国防衛のためなどという解釈のデタラメさは、中学生程度の読解力があれば誰でも分かる話だ。政治やメディアの世界で仕事をするには、中学生以下の読解力しかないと資格がないことを意味しているとしか思えない。
ところが、このブログの冒頭に書いたように、谷垣幹事長が、つい安保法制の本当の狙いを喋ってしまった。その個所を発言のとおりに文字化する。
「日本周辺の安全保障環境は変わってきて、テロのようなものも起きるようになってきた。アメリカは、かつてほど世界のどこにでも目を光らせているという状況ではなくなってきており、それを補わなければならない」
谷垣氏は元衆院議員の杉村太蔵氏のようなできそこないの政治家ではない。自民党の元総裁であり、現幹事長の要職にある。勝手に自分の考えを述べられる立場にはない。谷垣氏が言ったことは、「国際社会に置けるアメリカの権威が低下した部分を、自衛隊の軍事力で補う」ということだ。それ以外に解釈のしようがない。
確かに日米安全保障条約は片務性が問題視されており、岸内閣時の「60年安保改定」や、78年から行われるようになった「思いやり予算」(在日米軍駐留費負担)の増加に次ぐ増加などで、かなり片務的傾向は薄められてはきたが、それでもアメリカだけが日本防衛の義務を負い、日本はアメリカ防衛の義務を負わなくてもよいというギャップは、とくに米国民の一部にいまだに根強く残っている反日感情のしこりの原因になっていることは疑いを容れない。
そういう意味では、安倍構想を私は真っ向から否定しているわけではない。が、相対的に弱体化したアメリカの、「世界の警官」としての国際的地位を日本が補完するというのであれば、まず憲法を改正したうえでのことだろう。現行憲法には手を触れず、憲法解釈の変更によって自衛隊がアメリカの補完的役割を担うというのは、あまりにも国民をバカにした話ではないか。
念のため、私は「一国平和主義者」ではない。現在の日本国憲法が成立した時代の日本の国力から考えても、また占領下における日本の防衛の義務は占領国側(実態はGHQ)にあったから、日本は「自衛のための戦力すら持たずにすんだ」ことは憲法制定時の吉田茂総理の国会答弁からも明らかである。
が、サンフランシスコ講和条約によって日本が独立した時点で、「自衛のための戦力さえ否定した」現行憲法を改正せず、経済復興を最優先した吉田内閣の判断は、ある程度やむを得ざる状況だったことを考慮しても、憲法改正への道だけは作っておくべきだったと、私は思っている。吉田総理の功罪は改めて「政治的目的」を排除したうえで検証すべきだろう。
(追記)昨日のNHKスペシャルに再び感動した。私は湾岸戦争時に毎週テレビ朝日の『サンデーモーニング』を見ていた。当時朝日新聞の田岡俊次記者や小川和久軍事評論家などが「一国平和主義」を前提とした主張をしていたと思う。
その当時のメディアの姿勢に対して、私は「日本はこれでいいのか」という思いを込めて『日本が危ない』(1992年、コスモの本より上梓)を書いた。そのまえがきで私はこう書いた。
正直なところ、私は湾岸戦争と旧ソ連邦の解体に直面するまで、日本の安全や防衛問題について深い関心を抱いていたわけではなかった。
戦後40数年の間、日本は自ら軍事行動に出たこともなく、また他国から侵略されることもなく、見せかけの平和が続く中で経済的繁栄を遂げてきた。私はそういう状態が今後も長く続くに違いない、と無意識のうちに思い込んでいたのかもしれない。日本とアメリカの結びつきは政治的にも経済的にも強固であり、日米関係に突拍子もない異変が生じない限り、日本の安全は世界のどの国よりも保障されている、と信じて疑わなかった。
だが、湾岸戦争と旧ソ連邦の解体は、そんな勝手な思い込みをアッという間に打ち砕いてしまった。
まず湾岸戦争。イラクが突如、クウェートに侵攻し、日本人141人が人質にされた。経済大国日本の海外駐在のビジネスマンが、テロリストの標的にされる事件は最近、頻発しているが、いかなる犯罪とも関係のない日本人の、それも民間人の生命が他国の国家権力の手によって危機にさらされるという事態は、戦後40数年の歴史で初めてのことだった。
このとき日本政府は主体的な解決努力を放棄し、ひたすら国連頼み、アメリカ頼みに終始した。独立国家としての誇りと尊厳をかけて、人質にされた同胞の救出と安全に責任を持とうとするのでなく、アメリカやイギリスの尻馬にのってイラクへの経済封鎖と周辺諸国への医療・経済援助、さらに多国籍軍への資金カンパに応じただけであった。
私は、自衛隊を直ちに中東に派遣すべきだった、などと言いたいのではない。現行憲法や自衛隊法の制約のもとでは、海外派兵が難しいことは百も承知だ。
「もし人質にされた日本人のたった一人にでも万が一のことが生じたときは、日本政府は重大な決意をもっと事態に対処する」
海部首相がそう宣言していれば、日本の誇りと尊厳はかすかに保つことができたし、人質にされた同胞とその家族の日本政府への信頼も揺るがなかったに違いない。
もちろん、そのような宣言をすれば、国会で「自衛隊の派遣を意味するものだ」と追及されたであろう。そのときは、直ちに国会を解散して国民に信を問うべきであった。その結果、国民の総意が「人質にされた同胞を見殺しにしても日本は戦争に巻き込まれるべきではない」とするなら、もはや何をか言わんやである。私は日本人であることを恥じつつ、ひっそりと暮らすことにしよう。
私の本書における基本的スタンスは、その一点にあることを、前もって明らかにしておきたい。(後略)
本書の締めで私はこう書いた。
高校での日本史の授業はせいぜい明治維新で打ち切りになっていることが多いという。なぜ軍国主義時代の日本や戦後の日本についての正しい歴史教育を行わないのか。聖徳太子の17条憲法を教えることも大切だろうが、現行憲法や国連憲章、日米安保条約、IMFやガットのルールについて正しい理解を育むことのほうが、将来の日本を担う子供たちにとってはるかに大切である。
いま世界は、確かに平和に向かって大きく前進しようとしている。大局的にはそう言えるが、地域的に見れば民族紛争、国境紛争、宗教対立はかえって激しさを増している。たまたま日本はそういった紛争から局外にあるため、“平和の配当”を求める声が強いが、当然の権利として“平和の配当”を求めるためには、まず“平和の代償”を支払わなければならないことを子供たちに教えなければいけない。そして日本がきちんと“平和の代償”を支払ったとき、初めて日本は世界から仲間として受け入れられるであろう。
同書を上梓した直後、朝日新聞の田岡氏から私の自宅に電話をいただいた。いきなり「危険な書だ」と批判された。“平和ボケ”した田岡氏から見ると危険な書に見えたのかもしれないが、日本は“平和”の実がなる木を持っているわけではない。平和を維持するためには、それなりの国際社会への責任を果たすことが必要だ。
私は1時間を超える田岡氏からの電話の最後に、こう疑問をぶつけた。「もし人質にされた日本人の一人にでも、他国の国家権力から被害を受けた場合、では日本政府は見殺しにすべきだとおっしゃるのですか」と。
田岡氏はしばらく沈黙した後「その答えは持ち合わせていません」とお答えになった。1時間余に及ぶ電話はこのやり取りで終わった。いま田岡氏は湾岸戦争との絡みで、安倍安保法制についてどう考えているのだろうか。ぜひ聞いてみたいと思う。
昨日のNスぺは湾岸戦争当時のアメリカからの日本への強い要請と、それに答えようとしていた海部内閣のスタンス、さらに自衛隊派遣の法律改正が廃案に追い込まれたいきさつを、憶測ではなく事実を根拠に報道した。そうした経緯があったことは当時のメディアではほとんど報道されなかったと思う。だから私はメディアの報道を根拠に、先に書いたような「まえがき」を書いた。いま、私はジャーナリストの端くれとして、そのことを恥じている。
ただNHKへの要求もある。憲章51条の徹底的な解明を目的とした報道番組を制作してほしい。なぜ「集団的自衛権」についての解釈の混乱が生じているのか、その解明はNHKの報道使命の一つだと思うからだ。