6月20日(木)
今日も朝から青空です。
明日からのお稽古に備えて、午前中から掃除や道具の出し入れです。
手早く済ませて、忘れてしまわない内に東海道五十三次散歩の備忘録です。
第二日目は、前日のゴール地の有松からスタートでした。
有松の由来
この松が地名の由来だそうですが、宿の中に一本の松があったので、そのまま「有松」となったそうですが、何とも簡単に付けたものです。
街並み
準備運動をして、出発です。
朝早かったためか、私たち以外には人がおりませんでした。
一里塚
有松の一里塚です。
日本橋から87番目の一里塚です。
地元の皆さんの強い意志によって、平成24年に新しく完成したそうです。
瑞泉寺
曹洞宗のお寺さんで、総門や本堂などが文化財に指定されております。
総門の「曇華峰」は、「どんげぼう」と読み、三千年に一度だけ花が咲くといわれている伝説の樹のことだそうです。
仏道を志、正しく仏法学んだ時に、あらゆるものが優曇華として花開くといった意味だと言われております。
瑞泉寺入り口
瑞泉寺の入り口です。
導かれるように入って行きました。
鳴海城跡
太閤記や信長記に出てくる鳴海城跡です。
こんな地に立つとワクワクしてきます。
芭蕉供養塔
誓願寺境内にある芭蕉供養塔は、芭蕉が亡くなった翌月の命日に門人たちにより建立されたもので、供養塔としては最古のものといわれております。
元禄7年の建立です。
千句公園
芭蕉をゆかりの公園です。
丘の上に千鳥と波がコンクリートに刻んでありました。
千鳥塚
東海道から少し入ったところにある千句公園に、芭蕉が存命中に建てられた唯一の自筆の句碑がありました。
星崎の 闇を見よやと 啼く千鳥 芭蕉
海抜
千句公園から街道に戻ると、電柱にこんな表示がありました。
公園が高台になっていりましたから、ここが昔は海であった事を示しております。
街道を歩いていて一番心が躍るのが、立派な一里塚に出会ったときです。
笠寺一里塚
日本橋より88番目の一里塚です。
直径が10メートルはあろうかという塚には、当時のままの榎が悠然と立っておりました。
笠覆寺
このお寺さんは、一般的には「笠寺観音」または、「笠寺」と呼ばれております。
荒廃した寺のご本尊「十一面観世音菩薩像」が雨に濡れているのが忍びなく、長者の娘が笠を被せている姿を、時の関白の息子の目にとまり、これが縁となって結婚したといわれております。
そんな逸話から、縁結びの観音様として有名になりましたが、ご本尊は今でも笠を被っているそうです。
多宝塔
このお寺のシンボルでもある多宝塔ですが、今は、その前に石で刻んだ、竹千代(家康)と織田信広の人質交換が行われたという伝承に基づき碑が作られておりました。
まだ、真新しかった・・・
再び有松へ
昼食のために、バスで再び有松へ行きました。
江戸時代に、この宿も火災に見舞われほとんどが消失したといわれております
それを教訓に、再建の時は延焼を免れるために、各家との境に丈夫な「うだつ」を作ったそうです。
今まで見た中では、一番立派な「うだつ」でした。
再び街道へ
昼食を済ませて再び東海道へ戻りました。
東海道と鎌倉街道の交差点です。
私たちはしばらく鎌倉街道を歩くことになりました。
地蔵院
案内されたのは、地蔵院と呼ばれる小さな寺院でした。
良くある話ですが、海中から引き揚げられた地蔵菩薩ですが、この時に、一人の老人が現れて、「この像に祈願するときは、湯をかけてお参りするように・・・」と語って姿を消したことから、村の人々は「湯浴地蔵」と呼ぶようになったと伝えられております。
お地蔵さま
このお地蔵さまは、この地方では珍しく鋳鉄像であることが特筆されております。幾多の災難で頭部と両手を残して他の部分は失われてしまいましたが、人々は、コンクリートで胴体を復元して、お堂に安置されて、今なお信仰されております。
愛知県の由来
私たちは、白毫寺というお寺さんに案内されましたが、境内を抜け奥へと進むと、大きな石碑が建っておりました。
「年魚市潟勝景」という石碑で、「あゆちがた」と読むそうですが、読めませんでした。
遥か昔は、この地から海を望み、その景色が素晴らしく歌枕になっていたといいます。。
今は木々に覆われて、その向こうは名古屋の市街地ですので想像もできません。
この「あゆち」が愛知県の県名の由来だそうです。
国道1号線
鎌倉街道から東海道に戻りましたが、1号線に合流しております。
357k・・・歩きました。
線路
いつもブログに掲載しますが、線路は真っすぐです。
伝馬町一里塚
日本橋から89番目の一里塚です。
熱田一里塚とか宮一里塚とも呼んだそうです。
裁断橋跡
豊臣秀吉の家臣堀尾金助という若者が18歳で亡くなってしまい、それを悲しんだ母親がこの橋を架け替えたそうです。
川は埋め立てられており橋はなくなっておりますが、かつての川は、精進川といい、この橋のたもとには、死者の服を奪い取る奪衣婆(だついば)を祀る姥堂があり、橋の名の由来は、死者を閻魔大王が裁断する場であったからだそうです。
そんな言われを知った母親は、息子が閻魔大王に良きように裁断されるように、橋を架け替えたのだと思います。
母の愛はすごい・・・
都都逸発祥の地
こんなところで都都逸発祥の地を見るとは思いませんでした。
都都逸は、都都逸坊扇歌によって広められたといわれております。
七・七・七・五の音数律によって成り立っております。
立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花
惚れて通えば 千里も一里 逢えずに帰れば また千里
これらがよく知られております。
三叉の道標
東海道・名古屋・木曽路と七里の渡しとの分岐点を示す道標で寛政2年に建立されたものが残っております。
しかし、これはレプリカで本物は個人の所有になっているとか・・・これが不思議??
七里の渡し場
宮宿から桑名への「七里の渡し」の湊があったところで、今は市民の憩いの場になっておりました。
常夜燈
熱田湊の灯台の役目をしており、犬山藩主成瀬正虎によって建てられたといわれております。
時の鐘
時の鐘は、渡しの開閉時間を知らせるために設置されたもので、昭和58年に公園のモニュメントとして現在地に設置されました。
本日の街道歩きは、ここ「七里の渡し場」でゴールということです。
熱田神宮
天照大神・日本武尊・素戔鳴尊・宮簀姫命などの五神そして「三種の神器」の一つ「草薙の剣」がご神体になっております。
源頼朝の母が大宮司の娘であったといわれ、頼朝はこの熱田神宮への崇敬の念が強かったと伝えられております。
そうした事から、代々の武将たちの尊崇が厚かったようです。
信長が一騎で駆け出して、熱田の森に集結して戦勝祈願を済ませて、桶狭間に向かったという話は有名です。
二十五丁橋
境内にある石の橋のことですが、25枚の花崗岩で作られており、かっては神宮の堀に架けられていたそうですが、拡張工事の際に取り壊されて、現在の所に移されたといわれております。
今回の散歩中に、ここで三度こうした石橋を見たことになります。
石橋の構造
橋げたは石が組み込んであり、当時の技術の高さがうかがえます。
信長塀
熱田神宮に集結した信長は、熱田神宮に戦勝祈願をしてから出陣し、見事に敵の大将を討ち取り勝利を収めましたので、そのお礼にとこの塀を寄進したと伝えられております。
熱田の森は広かった・・・
お参りをして私たちはホテルに向かいました。
歩いた距離16.3k 歩数は24.179歩