☆世界一周ルートはどうして決めた?!
そもそも世界一周のルートをどうやって決めたのか?定年後世界一周をすると決めた時からノートの真ん中に世界地図を張って、テレビで見たり、ブログを見たりして気になった場所を放射線状にメモをしたり、紙ナプキンに書いたメモなど。普段ツアーなどで行ける東南アジや、北米、ヨーロッパなど今回は除外。なかなかいけない国をピックアップして、世界一周のスタートは世界の屋根エベレストに登ることに決めました。ここならそう簡単には行けないだろう。どうだ!!
第二話
「カトマンズ危機一髪脱出?」の巻
4月1日に成田を発ちクアラルンプールを経由してネパールのカトマンズに降りたちました。
到着後現地の入山許可証などの手続きを終え、17人乗りのプロベラ機でヒマラヤ街道の入り口の町、ルクラ2640mに降りたちました。ここで帰りのチケットをロッジに預けます。初めてといってもいい本格的トレッキング、何日かかるかわからなし、天候不順も考えられる。そこで3,000m付近に降りてきてから連絡をして帰りの航空券の予約してもらわないと、飛行機は17人乗りと座席も少ないし、最悪何日間も足止めを食らうことになるから。
もちろんヒマラヤ街道にはバスや自動車もなくすべて自力、またはヤク(牛の一種)かポーターに助っ人に頼んで荷物を運んでもらうのが一般的です。私も最初はガイドとポーターを頼むはずだったのですが、出発前にネットで25,6歳の日本人の女の子が予算の関係でヘロヘロになりながら一人で登ったというブログ「キラキラ☆旅ガール」を見つけました。若い女の子が一人で登れたのだから、男の意地で、今回はノーガイド、ノーポーターのひとり旅としました。最初は気合いが入っていたんですね。そして道案内の地図も彼女の作った簡素なものを使いました。
しかし早くも1日目から肩に食い込む荷物の重さに、これならポーターだけでもつけておけばよかったと後悔していました。途中綺麗な桜の花に癒されながら一日目の宿をモンジョに決め、初めての宿の交渉も何とかなってロッジに泊まりました。二日目もブログの地図を頼りに、ナムチョ3440mに到着。高度順応の為二泊。そしてパンポチェ3930m、チュクリン4730m、トゥクラ4620mと4000m台の高度順応を重ねました。途中何度も中国から来たパーティと抜きつ抜かれつしながら登って行きました。こんな時は言葉なんかいりません、すぐに友達になりました。
しかし4000mを超えてくると寝ていても寒くて息苦しい。1時間毎に目が覚め熟睡出来ない、何度も寝袋の中で兄にもらった般若心経を唱えました。食欲も落ちてきました。このままのスピードでは高度順応は出来ても体力を消耗するというジレンマです。愚図愚図してはおれない体力が残っている内に一気に頂上にアタックすることにしました。残る体力をすべて使ってベースキャンプ、ゴラクシップ5140mへ到着しました。最初に行ったゲストハウスは満員で断られ、テントならどうと言う。部屋のペットボトルも凍るほど寒いのに、か弱い私は死んじゃう。二件目でやっとゲット。
夕食を取りながら聞いてみると、夜中に出発して頂上で夜明けを迎えるのがいいと言う。しかしあのブログのチャチな地図では夜道も分からない。4時に起きてにロッジにいたアメリカ人のグループに紛れ、普通の装備で登れるヒマラヤ最高峰カラ.パタール5550mを目指しました。空気は薄く、冷凍人間になるぐらい寒い。五歩歩いては一休み、また五歩、また五歩と足を進める。前日降った雪が道に積もっていました。登り始めて1時間半後、遂に憧れのカラパタール5550m頂上目前。しかしそこには5,6人の中国人の女の子が陣取っていて、他人の迷惑など顧みず登山用品をばらまいて、写真を撮ったり、寝転がってご飯まで食べたりしています。なかなか道を譲ってくれません。無理やりその脇をこじ開けて進み、崖から滑り落ちそうになりながらやっと頂上へたどり着きました。日の出に感無量、感激の記念撮影をしました。
ベースキャンプのゴラクシップに戻り1時間仮眠して本物の8,848mへアタックするベースキャンプ5304mを目指して出発しました。往復6時間、さすがに疲労困憊。ベースキャンプで日本隊を探してポーターのテントにでも一泊させてもらおうと思っていましたが、あまりの多くのテントに日本隊を発見する事が出来ませんでした。残念。途中パンポチェで一緒の宿だったドイツの青年とすれ違い、お互いの健闘讃えてハグをしました。
8日掛けて登った道も帰りはなんと3日で下山です。下山3日目、朝起きて見ると外は大雪、11日間禁酒していましたが、前の晩あとは一日だけと思い、登頂記念にビールを飲んでしまった。山の天気は本当に変わりやすい、天下のエベレストなめちゃいけない。何度も積もった雪に足を取られながら、なんとか飛行場のあるルクラへ戻ってきました。ここで出発の時に預けた航空券の予約を確定してもらいました。この手筈もなかなか大変でした。
その後カトマンズに戻り幸せの国ブータンに行きました。昔のソ連のように予めブータン国内の会社へツアーを申し込み、事前承諾書が必要になっていました。基本的には一日2万円以上、そのうち65米ドル分を国に納めて、国民の医療と教育を無料にしているらしい。ブータンはヒマラヤの桃源郷として知られる敬虔な仏教徒の国。崖っぷちに建てられた世界遺産のタクツァン僧院、ブータンで一番有名で尊敬されている日本人のダショウ西岡さん。20世紀末まで鎖国のような状態だった謎の「幸せの国」を満喫。しかし携帯電話が普及して、思ったより普通の国になっていました。
その後カトマンズに戻りブッタ生誕の地ルンビニーで二泊してお昼にはカトマンズに戻り、ガイドのラムさんの家で休憩させていただく。奥さんから疲れているでしょうから今晩は家に泊まっていってはと親切に勧められました。しかし世界一周の旅はエベレストに行ったとはいえまだ始まったばかり、ここはお気持ちだけを頂き夕方の夜行バスでインドのダージリンへ出発した。
6時間も遅れて出発した超満員のバスは、舗装もされてない真っ暗闇の山道を進んでいきました。20時間かけてやっとダージリン到着。
(途中の山奥の休憩所)
ダージリンで一泊後、トイトレンと言う可愛い山岳列車に乗って麓まで下りて行きました。
途中多くの人が野外に出てきて何かに驚いていました。
そのあと麓の町ニュージャルバイグリではリキシャに騙されながらやっとの思い出でコルカタへ向かう夜行寝台に乗り込みました。片言の英語で乗り合わせたインド人に旅行の話をしていると、そのインド人が携帯電話のニュースを見せながらネパールの大地震について教えてくれました。「おまえ本当に一昨日までカトマンズにいたのか。もう1000人以上は死んでるぞ」。後から写真を見てみるとあの沢山の人が外に出て騒いでいた時が地震発生直後のようでした。なんと2日違い。あの時カトマンズのラムさんの家に一泊していたら、ネパールの山奥に閉じ込められて一カ月ぐらいは行方不明だったでしょう。間一髪とはこのことか。寝台車の二段ベットで眠りにつこうとすると、急に不安が押し寄せてきました。
この時携帯電話はネパールでペットボトルの締め忘れで水没。現地で同じSIMフリーのアイフォンを買うも、ドコモのSIMカード入れても、ショートメールも通話も受信が出来ない。日本に問い合わせるも「他で買った携帯にはお答えできません」と無情な回答。だってSIMはドコモなのに。そんな訳で日本にいる家族への「無事に生きている」連絡が遅れて心配をかけてしまった。
次は
第三話
「やられた!インドの洗礼?!」の巻