兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

坂本龍馬の婚約者・千葉佐那(さな子)

2019年11月29日 | 歴史
坂本龍馬の歴史的評価の見直しが話題となっている。坂本龍馬は司馬遼太郎によってつくられたヒーローで、実像とは大きく異なっていると言われる。有名な「船中八策」も存在せず、幕府の神戸海軍操練所塾頭であったという説も信用できない。龍馬が設立した亀山社中の役割も過大評価であるという。但し、龍馬は末っ子、坊ちゃん育ちで、女性にはかなりもてたらしい。龍馬の婚約者に千葉佐那(さな子)という女性がいる。

佐那は北辰一刀流千葉道場主・千葉定吉の次女で、佐那は北辰一刀流小太刀免許皆伝、長刀師範の腕前の持ち主。父親の千葉定吉は千葉周作の弟、剣客として有名。安政3年(1856年)19歳の佐那は伊達家の姫君の剣術師範として伊達屋敷に通っていた。後に藩主になった伊達宗徳は当時27歳、佐那は宗徳と立ち会って勝ったと記録されている。記録には「佐那は、容色も、両御殿中、第一にて」と屋敷に出入りする女性の中で一番の美人と記されている。佐那は美貌で知られ、「千葉の鬼小町」「小千葉小町」と呼ばれていた。

龍馬は18歳のとき、江戸に出て、北辰一刀流桶屋千葉道場主・千葉定吉へ剣術修行に行っている。その後、佐那と婚約関係となった。婚約は安政5年(1858年)頃と言われ、龍馬23歳、佐那20歳である。父親・定吉は佐那の結婚のため、坂本家の紋付を仕立てている。龍馬の帰国後、両家の関係は徐々に疎遠になっていった。

しかし龍馬の実家坂本家は龍馬の許婚としての佐那の存在を認識していたようだ。龍馬も29歳の時、姉・乙女あての手紙で「佐那は今年26歳、馬によく乗り、剣もよほど強く、長刀もでき、力は並みの男より強く、顔も少しよい」と記している。この頃、龍馬はおりょうとも知り合っている。おりょうもかなりの美人である。

龍馬が29歳のときに、有名な池田屋事件発生した。その後、禁門の変、長州征伐と時代は激動期を迎え、龍馬は全国を駆け巡る活動家となっていく。1866年、龍馬31歳のとき寺田屋事件が発生する。おりょうは風呂場から裸で飛び出し、龍馬の逃亡を助けた。その後、おりょうとの関係が深くなり、おりょうは龍馬の妻となる。しかし1867年11月32歳、近江屋で中岡慎太郎とともに襲撃を受け、龍馬は即死した。

佐那は龍馬死後も彼を想い、一生を独身で過ごしたと伝えられている。しかし元鳥取藩・山口菊次郎と明治7年(1874年)に結婚したことが、2010年に明治の新聞記事資料が発見された。記事では数年で菊次郎と離婚して、その後は独身で過ごしたとされる。離婚後、学習院女子部の舎監として奉職、その後は千住で家伝の灸を生業として治療院を営み、明治29年(1896年)58歳でこの世を去った。

坂本龍馬の妻・おりょうは佐那に直接会ったことはないが、佐那の悪口を言っている。おりょうは回顧録で次のように述べている。「千葉周作(本当は千葉定吉、周作の弟である)の娘・さな子は、親に似ず、淫奔女であったそうです。人がいないときは、若い優男を捉えては口説く、箸にも棒にもならぬ女で、それも美人だったら、付き合う男もいるが、器量の悪い女の深情けで、腕力が強く、嫉妬深いから、男は皆、逃げ回っていた。龍馬も門弟になったとき、早速付け文をされ、龍馬もあきれ返って、なるべき顔を合わせないようにしていたそうです。」と佐那に対して、散々な評価である。

おりょうは、佐那の存在を知り、龍馬と自分との関係を脅かす存在と考えていたようだ。女の嫉妬、恨みは恐ろしい。龍馬の同志だった土佐藩士佐々木孝行は、「(おりょうは)有名なる美人のことなれど、賢夫人や否やは知らず。」と日記に書いている。龍馬死後、龍馬の友人たちがおりょうを積極的に支援しなかったことは、彼女の人柄に関係があるかもしれない。龍馬の死後、おりょうを支援した縁者は、寺田屋の女主人お登勢、西郷隆盛、勝海舟等ごくわずかである。おりょうは佐那より3歳年下で、佐那の死から10年後、明治39年65歳で死亡している。


ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
土佐藩御用達の火消し・相模屋政五郎


写真は山梨県甲府市の清運寺にある千葉さな子の墓。裏側に「坂本龍馬室」と彫られている。
千葉ひな子の死後、無縁墓になる可能性があったため、ひな子から灸治療を受けていた山梨県の自由民権運動家・小田切鎌明が小田切家菩提寺である清運寺に建立した。



下の写真は神奈川県横須賀市大津町にある、おりょう(楢崎龍)の墓。
晩年、あまり裕福な生活ではなかったようだが、思ったよりも立派な墓だ。維新への功績を考慮した明治政府の意向が見える。


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