次郎長は三人の妻を娶っている。最初の妻の名は「お蝶」である。その後の妻にもお蝶と名乗らせている。今では考えられない事だ。女性の人権が認められない時代だからできたこと。お蝶と名乗らされた女性たちはどんな気持ちだったろうか?
次郎長は無宿になる前、養父・次郎八の米問屋・甲田屋を継いだ時、一度結婚している。次郎長17歳のときである。その意味では4人の妻と言うべきである。妻の名を「きわ」と言った。
次郎長は、商売をしながらも博奕と喧嘩に明け暮れ、ついに喧嘩の末、人を斬ってしまう。そのため店を実姉夫婦に譲り、妻とも離別している。その後、弟分の大熊と一緒に清水を出奔して、無宿人稼業に入る。
初代お蝶は、次郎長の弟分江尻の大熊の妹である。大熊とは次郎長が博徒渡世を始めた時からの知り合いで一緒に賭場荒らしもした。弘化2年(1845年)甲斐国津向村の津向文吉と次郎長の叔父・和田島大右衛門の間で出入りが起きた。二人の調停をしたのが次郎長で駿河、甲斐一帯に次郎長の名前が知られるようになった。それから2年後、次郎長28歳、大熊の妹・お蝶と結婚した。
甲州の柳町卯吉一家、祐天仙之助との抗争で役人に追われ、次郎長は駿河から尾張へ逃亡の旅に出る。尾張で旅同行のお蝶が病気となる。立ち寄り先の巾下長兵衛宅でお蝶は病死する。安政5年(1858年)12月30日である。実際に死亡したのは年が明けた1日の朝と言う。
お蝶との結婚生活は12年、次郎長は39歳。浪曲では死に際に、次郎長がお蝶に「苦労を掛けた」と謝る。お蝶は「惚れた男と一緒にいて、こんな幸せはないよ」と答えた。涙のシーンである。初代お蝶の法名は「思量院信解妙諦大姉」である。
二代目お蝶は、駿河国羽島村出身「ハナ」と言い、芸妓上がりで身請けされた。小説では二代目お蝶は投げ節「お仲」だという説もある。「投げ節」とは歌を流して暮す旅人をいう。お仲はツボ振りの「いかさま女賭博師」という説。しかし脚本かかっている。実際は江戸深川の芸者あがりで、伊豆長岡に来たとき知り合い、次郎長が惚れて、二代目お蝶になった。気の強いやんちゃな女だったという。
どちらにしても詳細は不明である。ただ、二代目お蝶はあまり評判は良くなかったようだ。二代目お蝶は次郎長が留守の間に、久能山勤番組隊士・木暮半次郎に殺害される。明治2年(1869年)5月23日である。次郎長に酒代をせびりに来た小暮半次郎がお蝶との応対のいざこざで、誤って殺害したと言われる。半次郎は江戸で二代目お蝶とも知り合い、勤番組元隊長・山岡鉄舟との繋がりもあった。元々半次郎は酒癖が良くなかった。
次郎長は駿府隠居中の慶喜の側近・山岡鉄舟から、勤番組の件を大事にしないように依頼された。次郎長は殺された勤番組隊士・小暮半次郎の義兄勤番組隊士・榊原鍵吉の所に謝罪に行った。榊原鍵吉は小暮という武士は存在しないと回答、事件はそのまま収まった。謝罪に行った次郎長に対し、博徒が姐御の仇討ちをして何が悪いと不満を持った小政は次郎長のもとを去り、浜松に戻った。二代目お蝶との結婚生活は長くはなかった。二代目お蝶の法名は「真量院退栄妙休大姉」である。
三代目お蝶は、元西尾藩士・江崎丹次(篠原東吾という説もある)の娘・おけんである。当時、おけんは夫と死別し、連れ子とともに実家に戻っていた。次郎長との間を取り持ったのが西尾の治助という博徒である。前年に二代目お蝶は死亡している。翌年、明治3年(1870年)二人は結婚した。次郎長50歳、三代目お蝶は17歳年下の33歳である。
三代目お蝶は、相応の学問もあり、貧乏士族の生まれで苦労も知っていた。その後、23年間結婚生活で次郎長一家をしっかりと陰で支えてきた。明治26年6月12日、次郎長は74歳、博徒の生涯を終える。戒名は梅蔭寺住職が付けた。「碩量軒雄山義海居士」である。三代目お蝶は、その後も長生きをして、81歳で次郎長の後を追い、死亡した。
次郎長の死後、お蝶の面倒は次郎長の子分・当目の岩吉がみていた。岩吉の死亡後は、鈴木与平、芝野栄七らがみた。大正5年6月15日、お蝶は81歳で没した。実子の入谷清太郎が最期を看取った。三代目お蝶の法名は「参量院真相妙諦大姉」辞世の句は「頼み無き此の世を後に旅衣、あの世の人にあふそ嬉しき」武家の出らしく、さ辞世の句は事前に用意していたという。
ブログ内に下記記事があります。よろしければ閲覧ください。
悪玉博徒・保下田の久六
次郎長妻・三代目お蝶の仲人・西尾の治助
次郎長一家 小政の獄死
写真は三人のお蝶の墓。3人の法名が連記されている。静岡市清水区梅蔭禅寺にある。
3人のお蝶の墓の隣に並んで清水次郎長の墓がある。墓名の筆は榎本武揚である。
次郎長は無宿になる前、養父・次郎八の米問屋・甲田屋を継いだ時、一度結婚している。次郎長17歳のときである。その意味では4人の妻と言うべきである。妻の名を「きわ」と言った。
次郎長は、商売をしながらも博奕と喧嘩に明け暮れ、ついに喧嘩の末、人を斬ってしまう。そのため店を実姉夫婦に譲り、妻とも離別している。その後、弟分の大熊と一緒に清水を出奔して、無宿人稼業に入る。
初代お蝶は、次郎長の弟分江尻の大熊の妹である。大熊とは次郎長が博徒渡世を始めた時からの知り合いで一緒に賭場荒らしもした。弘化2年(1845年)甲斐国津向村の津向文吉と次郎長の叔父・和田島大右衛門の間で出入りが起きた。二人の調停をしたのが次郎長で駿河、甲斐一帯に次郎長の名前が知られるようになった。それから2年後、次郎長28歳、大熊の妹・お蝶と結婚した。
甲州の柳町卯吉一家、祐天仙之助との抗争で役人に追われ、次郎長は駿河から尾張へ逃亡の旅に出る。尾張で旅同行のお蝶が病気となる。立ち寄り先の巾下長兵衛宅でお蝶は病死する。安政5年(1858年)12月30日である。実際に死亡したのは年が明けた1日の朝と言う。
お蝶との結婚生活は12年、次郎長は39歳。浪曲では死に際に、次郎長がお蝶に「苦労を掛けた」と謝る。お蝶は「惚れた男と一緒にいて、こんな幸せはないよ」と答えた。涙のシーンである。初代お蝶の法名は「思量院信解妙諦大姉」である。
二代目お蝶は、駿河国羽島村出身「ハナ」と言い、芸妓上がりで身請けされた。小説では二代目お蝶は投げ節「お仲」だという説もある。「投げ節」とは歌を流して暮す旅人をいう。お仲はツボ振りの「いかさま女賭博師」という説。しかし脚本かかっている。実際は江戸深川の芸者あがりで、伊豆長岡に来たとき知り合い、次郎長が惚れて、二代目お蝶になった。気の強いやんちゃな女だったという。
どちらにしても詳細は不明である。ただ、二代目お蝶はあまり評判は良くなかったようだ。二代目お蝶は次郎長が留守の間に、久能山勤番組隊士・木暮半次郎に殺害される。明治2年(1869年)5月23日である。次郎長に酒代をせびりに来た小暮半次郎がお蝶との応対のいざこざで、誤って殺害したと言われる。半次郎は江戸で二代目お蝶とも知り合い、勤番組元隊長・山岡鉄舟との繋がりもあった。元々半次郎は酒癖が良くなかった。
次郎長は駿府隠居中の慶喜の側近・山岡鉄舟から、勤番組の件を大事にしないように依頼された。次郎長は殺された勤番組隊士・小暮半次郎の義兄勤番組隊士・榊原鍵吉の所に謝罪に行った。榊原鍵吉は小暮という武士は存在しないと回答、事件はそのまま収まった。謝罪に行った次郎長に対し、博徒が姐御の仇討ちをして何が悪いと不満を持った小政は次郎長のもとを去り、浜松に戻った。二代目お蝶との結婚生活は長くはなかった。二代目お蝶の法名は「真量院退栄妙休大姉」である。
三代目お蝶は、元西尾藩士・江崎丹次(篠原東吾という説もある)の娘・おけんである。当時、おけんは夫と死別し、連れ子とともに実家に戻っていた。次郎長との間を取り持ったのが西尾の治助という博徒である。前年に二代目お蝶は死亡している。翌年、明治3年(1870年)二人は結婚した。次郎長50歳、三代目お蝶は17歳年下の33歳である。
三代目お蝶は、相応の学問もあり、貧乏士族の生まれで苦労も知っていた。その後、23年間結婚生活で次郎長一家をしっかりと陰で支えてきた。明治26年6月12日、次郎長は74歳、博徒の生涯を終える。戒名は梅蔭寺住職が付けた。「碩量軒雄山義海居士」である。三代目お蝶は、その後も長生きをして、81歳で次郎長の後を追い、死亡した。
次郎長の死後、お蝶の面倒は次郎長の子分・当目の岩吉がみていた。岩吉の死亡後は、鈴木与平、芝野栄七らがみた。大正5年6月15日、お蝶は81歳で没した。実子の入谷清太郎が最期を看取った。三代目お蝶の法名は「参量院真相妙諦大姉」辞世の句は「頼み無き此の世を後に旅衣、あの世の人にあふそ嬉しき」武家の出らしく、さ辞世の句は事前に用意していたという。
ブログ内に下記記事があります。よろしければ閲覧ください。
悪玉博徒・保下田の久六
次郎長妻・三代目お蝶の仲人・西尾の治助
次郎長一家 小政の獄死
写真は三人のお蝶の墓。3人の法名が連記されている。静岡市清水区梅蔭禅寺にある。
3人のお蝶の墓の隣に並んで清水次郎長の墓がある。墓名の筆は榎本武揚である。
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