弘化2年、和田島の太左衛門と津向文吉が興津川での喧嘩に清水次郎長が駆けつけ、仲裁して男を上げた話は有名だ。和田島太左衛門は次郎長の叔父となっているが、血のつながりはない。太左衛門は江尻宿の博徒、評判の良い親分だった。駆け出し頃、次郎長は太左衛門に子分にして欲しいと頼んだ。「渡世人なんかになるものではない」と断られている。
講談では興津川騒動を仲裁した次郎長の器量を評価する。しかし当時の次郎長の貫禄で仲裁が付く話ではない。だが次郎長が2,3回川原を行き来しただけで、急転直下、収まった。理由は、津向の文吉の弟分で、通称「三馬政」という男が居た。太左衛門の所に転がり込んできたが、この男、すこぶる身性が悪かった。
太左衛門も目に余ったので、注意した。それを根に持ち、逆恨み、和田島一家と津向一家に紛争を起こさせようと企む。双方にデタラメを言って、けしかけた。それで興津川の対陣となった。
次郎長の仲裁で原因が分かり、誤解とわかれば、面倒はない。二人はその場で和解。「三馬政に振り回されて、世間の笑いものになるところだった。お前さんのおかげで、恥をかかずにすんだよ」と次郎長に礼を言って、甲州へ引き上げた。この一件にオヒレがつき、噂となり、次郎長の名が高まった。次郎長として上手に男を上げた形である。
太左衛門は、江尻宿から三里ほど北の和田島村の名主・上田家の三男として生まれた。いわゆる「旦那親分」である。本名を竹次郎といい、生まれが生まれだけあって、おっとりした人柄、悪い話は伝わっていない。
竹次郎には二人の兄と一人の弟がいた。長兄は家を継いで名主を務め、次兄は仏門に入って、生家から一つ山向こうにある宝樹寺の住職となり、「宝樹寺三世中興」といわれた信庵禅師である。弟は江尻の伝馬町に住んでいた田中屋の勇吉と言われた。
一方、津向の文吉は当時、35歳の男盛り、すでに甲州では名の知られた親分である。文吉は、読み書きソロバンが達者、絵心もあり、医術の心得もあった。腕っぷしにモノを言わせるタイプでなく、利巧に立ち回って男を売るタイプである。
縄張りの鴨狩津向は富士川沿いの寒村、盆で稼げる土地でもなく、博奕となるとガメツかったらしい。「津向の文吉 火事より怖い 火事は 裸で飛んで来ぬ」と地元で歌われた。文吉は、喧嘩のとき、裸で出かけて行ったためである。
文吉は、和田島の太左衛門と悶着があった4年後、嘉永2年4月、八丈島に遠島となった。理由は「博奕筒取り、貸元をした者」の罪である。それから2年後、嘉永4年4月、通称「吃安」こと竹居の安五郎が新島に遠島となった。
八丈島での生活は20年に及んだ。御一新でご赦免になって帰ると、妻はすでに死亡、倅の栄吉は行方不明、家も取り壊されていた。悄然とした文吉はかつての知り合いの清水次郎長を訪ねた。次郎長は、文吉の訪問がよほど嬉しかったのだろう。大事な賓客として処遇、行方知れずの文吉の長男・栄吉までも探し出し、世話をした。ここから次郎長との長い付き合いが始まった。
明治4年、清水次郎長と穴太徳(安濃徳)との手打ち式が浜松の五社神社で行われた。荒神山騒動の正式決着である。手打ちの仲介を取ったのは、津向文吉と藤枝の長楽寺清兵衛である。
(博徒名)和田島の太左衛門 (本名)山田竹治郎
(生没年)生年不詳~明治元年(1868年)8月5日 病死 享年不詳
(博徒名)四ツ目の房五郎 (本名)山田房五郎
(生没年)弘化2年(1845年)~明治35年(1902年)9月29日 病死 享年58歳
和田島の太左衛門は、明治元年8月5日、江尻宿紺屋町(現・静岡市清水区江尻)で病死した。墓は法雲寺にある。法雲寺の過去帳には、「博道慈愛居士・明治元年8月5日歿、町内・竹治郎」とある。法雲寺には、清水次郎長の子分の山田房五郎の墓もある。
山田房五郎は、弘化2年7月、江尻宿の旅籠「四ツ目屋」を経営する山田惣左衛門の子として生まれた。惣左衛門は和田島太左衛門の女房の実家である。
太左衛門は、女房の実家、江尻宿の旅籠・四ツ目屋に婿入りし、「四ツ目屋伝左衛門」を襲名していたといわれる。「伝左衛門」は四ツ目屋の通称である。太左衛門との関係で、次郎長は房五郎を可愛がり、子分にしたと思われる。山田房五郎は「四ツ目の房五郎」と名乗った。
文久3年5月、黒駒勝蔵の子分が遠州の大和田の友蔵を襲撃、敗退した事件が起きた。これを聞いた勝蔵は、80余名の子分を集め、天竜川西岸に集結させ、友蔵にケンカ状を叩きつけた。友蔵は次郎長に応援を頼み、次郎長一家も子分を集め、天竜川東岸に集結した。この部隊に房次郎の名が載っている。
その後、荒神山騒動の決着、吉良の仁吉の敵討ちのために、清水一家が穴太徳と対決、伊勢古市に集結した部隊にも、房五郎の名があった。山田房次郎は、明治35年9月29日、58歳で病死した。
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次郎長の兄貴分博徒・津向文吉
次郎長と連携した遠州博徒・大和田の友蔵
写真は静岡市清水区の法雲寺にある和田島の太左衛門の墓。墓の正面に「博道慈愛居士・蓮台妙華大姉」と法名が刻まれている。向かって左側面には「文久三亥年6月初4日、町内・俗名 さと」とある。
写真は山田房五郎の墓。正面に「侠客房五郎」とある。戒名は「勇山道義居士」墓石の土台に「山田」とある。
講談では興津川騒動を仲裁した次郎長の器量を評価する。しかし当時の次郎長の貫禄で仲裁が付く話ではない。だが次郎長が2,3回川原を行き来しただけで、急転直下、収まった。理由は、津向の文吉の弟分で、通称「三馬政」という男が居た。太左衛門の所に転がり込んできたが、この男、すこぶる身性が悪かった。
太左衛門も目に余ったので、注意した。それを根に持ち、逆恨み、和田島一家と津向一家に紛争を起こさせようと企む。双方にデタラメを言って、けしかけた。それで興津川の対陣となった。
次郎長の仲裁で原因が分かり、誤解とわかれば、面倒はない。二人はその場で和解。「三馬政に振り回されて、世間の笑いものになるところだった。お前さんのおかげで、恥をかかずにすんだよ」と次郎長に礼を言って、甲州へ引き上げた。この一件にオヒレがつき、噂となり、次郎長の名が高まった。次郎長として上手に男を上げた形である。
太左衛門は、江尻宿から三里ほど北の和田島村の名主・上田家の三男として生まれた。いわゆる「旦那親分」である。本名を竹次郎といい、生まれが生まれだけあって、おっとりした人柄、悪い話は伝わっていない。
竹次郎には二人の兄と一人の弟がいた。長兄は家を継いで名主を務め、次兄は仏門に入って、生家から一つ山向こうにある宝樹寺の住職となり、「宝樹寺三世中興」といわれた信庵禅師である。弟は江尻の伝馬町に住んでいた田中屋の勇吉と言われた。
一方、津向の文吉は当時、35歳の男盛り、すでに甲州では名の知られた親分である。文吉は、読み書きソロバンが達者、絵心もあり、医術の心得もあった。腕っぷしにモノを言わせるタイプでなく、利巧に立ち回って男を売るタイプである。
縄張りの鴨狩津向は富士川沿いの寒村、盆で稼げる土地でもなく、博奕となるとガメツかったらしい。「津向の文吉 火事より怖い 火事は 裸で飛んで来ぬ」と地元で歌われた。文吉は、喧嘩のとき、裸で出かけて行ったためである。
文吉は、和田島の太左衛門と悶着があった4年後、嘉永2年4月、八丈島に遠島となった。理由は「博奕筒取り、貸元をした者」の罪である。それから2年後、嘉永4年4月、通称「吃安」こと竹居の安五郎が新島に遠島となった。
八丈島での生活は20年に及んだ。御一新でご赦免になって帰ると、妻はすでに死亡、倅の栄吉は行方不明、家も取り壊されていた。悄然とした文吉はかつての知り合いの清水次郎長を訪ねた。次郎長は、文吉の訪問がよほど嬉しかったのだろう。大事な賓客として処遇、行方知れずの文吉の長男・栄吉までも探し出し、世話をした。ここから次郎長との長い付き合いが始まった。
明治4年、清水次郎長と穴太徳(安濃徳)との手打ち式が浜松の五社神社で行われた。荒神山騒動の正式決着である。手打ちの仲介を取ったのは、津向文吉と藤枝の長楽寺清兵衛である。
(博徒名)和田島の太左衛門 (本名)山田竹治郎
(生没年)生年不詳~明治元年(1868年)8月5日 病死 享年不詳
(博徒名)四ツ目の房五郎 (本名)山田房五郎
(生没年)弘化2年(1845年)~明治35年(1902年)9月29日 病死 享年58歳
和田島の太左衛門は、明治元年8月5日、江尻宿紺屋町(現・静岡市清水区江尻)で病死した。墓は法雲寺にある。法雲寺の過去帳には、「博道慈愛居士・明治元年8月5日歿、町内・竹治郎」とある。法雲寺には、清水次郎長の子分の山田房五郎の墓もある。
山田房五郎は、弘化2年7月、江尻宿の旅籠「四ツ目屋」を経営する山田惣左衛門の子として生まれた。惣左衛門は和田島太左衛門の女房の実家である。
太左衛門は、女房の実家、江尻宿の旅籠・四ツ目屋に婿入りし、「四ツ目屋伝左衛門」を襲名していたといわれる。「伝左衛門」は四ツ目屋の通称である。太左衛門との関係で、次郎長は房五郎を可愛がり、子分にしたと思われる。山田房五郎は「四ツ目の房五郎」と名乗った。
文久3年5月、黒駒勝蔵の子分が遠州の大和田の友蔵を襲撃、敗退した事件が起きた。これを聞いた勝蔵は、80余名の子分を集め、天竜川西岸に集結させ、友蔵にケンカ状を叩きつけた。友蔵は次郎長に応援を頼み、次郎長一家も子分を集め、天竜川東岸に集結した。この部隊に房次郎の名が載っている。
その後、荒神山騒動の決着、吉良の仁吉の敵討ちのために、清水一家が穴太徳と対決、伊勢古市に集結した部隊にも、房五郎の名があった。山田房次郎は、明治35年9月29日、58歳で病死した。
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次郎長の兄貴分博徒・津向文吉
次郎長と連携した遠州博徒・大和田の友蔵
写真は静岡市清水区の法雲寺にある和田島の太左衛門の墓。墓の正面に「博道慈愛居士・蓮台妙華大姉」と法名が刻まれている。向かって左側面には「文久三亥年6月初4日、町内・俗名 さと」とある。
写真は山田房五郎の墓。正面に「侠客房五郎」とある。戒名は「勇山道義居士」墓石の土台に「山田」とある。
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