都鳥一家の闇討ちを受け、深手を負った森の石松は、小松村の七五郎の家に身を隠した。ふたたび二俣街道に出たところ、地蔵堂の近くで殺された。この話は芝居、講談にも登場し、有名な場面である。森の石松は架空の人物という人もいる。しかし小松村の七五郎は実在の人間である。
七五郎の家があった長上郡小松村は現在の浜北市小松町にあたる。浜松市街中心から二俣街道(旧国道152号)を10キロほど北上し、江戸時代の頃は寒村だった。秋葉山へ向かう街道が通っていたため、旅人の往来は多い。秋葉山の火祭りのときには高市が開き、多くの渡世人が集まった。
(博徒名) 小松村の七五郎 (本名) 松本七五郎
(生歿年) 文化14年(1817年)~明治5年(1872年)5月24日 享年55歳 病死
(妻女) 松本その
(生歿年) 文政8年5月15日~明治38年8月22日 享年81歳 病死
七五郎は、もともとは甲州の生まれ、「はんか打ち」博徒だった。「はんか打ち」とは子分をもたない一匹狼のばくち打ちである。当時、七五郎の家は小松村の百姓の家だった。家には男の子がおらず、娘の「その」が甲斐国出身の庄太という若者を婿養子に取り、農業を営んでいた。
ところが数年で、庄太が病気となり、回復の兆しもなかった。それを風のたよりで聞いた庄太と同郷の七五郎が小松村まで、見舞いに来た。七五郎に看取られて、庄太は嘉永3年(1850年)に息をひきとった。庄太の法名は寺の過去帳によると「方室宗道信士」とある。
七五郎は、旦那を失った女房の「その」を励ました。その励ましが愛に変わり、「その」は七五郎と夫婦となった。七五郎は「はんか打ち」渡世人のため、七五郎の家には多くの博徒たちが立ち寄るようになった。その中の一人が森の石松であり、都鳥一家の事件が発生した。
七五郎は「はんか打ち」博徒のため、見附の大和田友蔵、山梨の巳之助のように親分とは言われない。現在の松本家に、七五郎が愛用した二振りの「脇差し」が残されている。一振りは白鞘に納められ、長さ一尺九寸五分(約59cm)鞘に「遠州侠客小松村七五郎刀」と墨書きされている。七五郎の女房・そのが使っていた「火のし」(昔のアイロン)と茶釜、それに清水一家の者と一緒に撮影された写真も残されている。
七五郎の女房「その」は身の丈、5尺3寸(153cm)、一升を飲み干すほど酒に強く、度胸もある美人だった。ある日、七五郎は捕り方に追われて逃げ帰った。「その」は七五郎を布団と蚊帳に包んで、その上に腰を下ろし、手槍を持って捕り方を待ち構えた。捕り方が「七五郎を出せ」叫ぶと、「居ねえものが出せるか!」と啖呵を切って追い返したという。
石松が都田一家に追われた時も、石松を仏壇の下に隠して、啖呵を切った。その仏壇も、晩年「その」が売り払って酒代になってしまったが、かなり大きかったという。石松は身長5尺そこそこ、約150cm余りの小男のため、隠れることができた。当時「その」は36歳の大年増だった。
江戸時代に姓を持たなかった七五郎の家は、明治に入り「松本」を姓とする。七五郎と「その」の間には子供がなかった。そのため跡継ぎは両もらいで家系をつないだ。浜松宿丸塚村(浜松市東区丸塚町)から百姓の定八を、「その」の身内から「とく」という娘をもらい、定八の女房とさせた。松本家は今も小松町に存続している。
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石松を殺した博徒・都田吉兵衛
次郎長より有名な博徒・森の石松
写真は小松村の七五郎の墓。浜北市小松町の紹隆寺にある。
七五郎は「松本家」養子。紹隆寺過去帳には七五郎は「戒名・秀岸良苗居士・明治5年5月24日歿、享年55歳」女房「その」は「蓮宝貞香大姉・明治38年8月22日歿、享年81歳」とある。
明治4年、浜松五社神社で行われた荒神山手打ち式での清水一家写真。後列右から6人目が小松村の七五郎。死去の1年前である。右隣は大瀬の半五郎。
後列の左から4人目が大政。座っている前列の左から、増川仙右エ門、桶屋の鬼吉、清水次郎長。次郎長の右隣は、二代目お蝶を殺した旧幕武士を斬った田中敬次郎。国定忠治一家の3代目、博徒取締りから逃亡、次郎長の客分となった。
七五郎の家があった長上郡小松村は現在の浜北市小松町にあたる。浜松市街中心から二俣街道(旧国道152号)を10キロほど北上し、江戸時代の頃は寒村だった。秋葉山へ向かう街道が通っていたため、旅人の往来は多い。秋葉山の火祭りのときには高市が開き、多くの渡世人が集まった。
(博徒名) 小松村の七五郎 (本名) 松本七五郎
(生歿年) 文化14年(1817年)~明治5年(1872年)5月24日 享年55歳 病死
(妻女) 松本その
(生歿年) 文政8年5月15日~明治38年8月22日 享年81歳 病死
七五郎は、もともとは甲州の生まれ、「はんか打ち」博徒だった。「はんか打ち」とは子分をもたない一匹狼のばくち打ちである。当時、七五郎の家は小松村の百姓の家だった。家には男の子がおらず、娘の「その」が甲斐国出身の庄太という若者を婿養子に取り、農業を営んでいた。
ところが数年で、庄太が病気となり、回復の兆しもなかった。それを風のたよりで聞いた庄太と同郷の七五郎が小松村まで、見舞いに来た。七五郎に看取られて、庄太は嘉永3年(1850年)に息をひきとった。庄太の法名は寺の過去帳によると「方室宗道信士」とある。
七五郎は、旦那を失った女房の「その」を励ました。その励ましが愛に変わり、「その」は七五郎と夫婦となった。七五郎は「はんか打ち」渡世人のため、七五郎の家には多くの博徒たちが立ち寄るようになった。その中の一人が森の石松であり、都鳥一家の事件が発生した。
七五郎は「はんか打ち」博徒のため、見附の大和田友蔵、山梨の巳之助のように親分とは言われない。現在の松本家に、七五郎が愛用した二振りの「脇差し」が残されている。一振りは白鞘に納められ、長さ一尺九寸五分(約59cm)鞘に「遠州侠客小松村七五郎刀」と墨書きされている。七五郎の女房・そのが使っていた「火のし」(昔のアイロン)と茶釜、それに清水一家の者と一緒に撮影された写真も残されている。
七五郎の女房「その」は身の丈、5尺3寸(153cm)、一升を飲み干すほど酒に強く、度胸もある美人だった。ある日、七五郎は捕り方に追われて逃げ帰った。「その」は七五郎を布団と蚊帳に包んで、その上に腰を下ろし、手槍を持って捕り方を待ち構えた。捕り方が「七五郎を出せ」叫ぶと、「居ねえものが出せるか!」と啖呵を切って追い返したという。
石松が都田一家に追われた時も、石松を仏壇の下に隠して、啖呵を切った。その仏壇も、晩年「その」が売り払って酒代になってしまったが、かなり大きかったという。石松は身長5尺そこそこ、約150cm余りの小男のため、隠れることができた。当時「その」は36歳の大年増だった。
江戸時代に姓を持たなかった七五郎の家は、明治に入り「松本」を姓とする。七五郎と「その」の間には子供がなかった。そのため跡継ぎは両もらいで家系をつないだ。浜松宿丸塚村(浜松市東区丸塚町)から百姓の定八を、「その」の身内から「とく」という娘をもらい、定八の女房とさせた。松本家は今も小松町に存続している。
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写真は小松村の七五郎の墓。浜北市小松町の紹隆寺にある。
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後列の左から4人目が大政。座っている前列の左から、増川仙右エ門、桶屋の鬼吉、清水次郎長。次郎長の右隣は、二代目お蝶を殺した旧幕武士を斬った田中敬次郎。国定忠治一家の3代目、博徒取締りから逃亡、次郎長の客分となった。
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