物語の登場人物は実際にはおりません。しかし、それを演じる俳優はそこにおります。存在するのに本物ではない。では、偽物なのでしょうか。…偽物でもありません。本物なのです。世の俳優さんは、この事実に意外と早く行きつく方と、かなりかかって行きつく方とに分かれます。御見物(お客様)の目にする登場人物は、本当の「生きるもの」でなければならないのです。
…とまぁ、難しい話はこれくらいにして、我らが今回の物語。
劇団 浮狼舎の作家 神原は、おおよその流れとゴールは構想にあっても、物語を書き上げてから配役することはしません(再演を除く)。
枠(物語)に人(俳優)を当てはめるのではなく、その人が物語を生きる姿を見て、書き進める作家なのです。何かが降りてきて猛然と書き出したかと思ったら、自分でも思わぬ方向に話が進みだしてしまい、作家自身が驚いてしまうことなどよくあります(恐山のイタコみたいな感じ)。基本は本人の特性が生かされる当て書きが多いです。だから俳優のパーソナリティが暴かれてしまうこともしばしば。今回は私も、すんげえコアな台詞を書かれてしまい、ギョギョギョなのです。是非見にいらして、どこがそうなのか当ててみてください。
世の人は、物語なんて絵空事だとお思いでしょう。しかしそれならば、千年以上読み演じ継がれて来たシェイクスピアなどは、何故今ももて囃され、感銘を受けるのか。名作だから?いやいや、人間臭いドロドロ劇ですよ。シェイクスピアも源氏物語も結構ドロドロ。人間が生き生きと、そしてドロドロと駆け抜けている姿があるからおもろいんです。
生きることは演じること、演じることは生きること。これが私らの普通。ですから、芝居と縁を切った自分は想像できません。自分をさらけ出しつつ、そしてそれ以上をお見せするのが私どもの仕事だと思っております。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます