もう25年前の話です。
ひとつ上の先輩「水沢(仮称)」さんのお話。
水沢さんとは確か1995年~1997年の金融法人部時代。
水沢さんが「株式トレーダー」、私が「債券トレーダー」で机を並べて仕事をしていました。
水沢さんは東都六大学リーグで某大学のセカンドベースマンとして神宮球場で活躍されていたほどのスポーツマン。
ハンサムで優しく穏やかな好人物、よく2人で茅場町や日本橋界隈を飲み歩いたものです。
奥様も美人の「美男美女夫婦」ですから、3人の娘さんもいずれも美人でした。当時、確か「長女8歳」、「次女6歳」、「三女4歳」だったと思いますが記憶が定かでありません。
とある年の冬の晴れた日に水沢さん家族に呼ばれて「富士急ハイランド」にスケートをしに行きました。
そこで初めて美人三姉妹にお会いしたのですが、二番目の娘さんに何らかの障害があることに気が付きました。
水沢先輩はどの娘さんも等しく愛していましたが、殊更、二番目の娘さんのことを愛していたように思えます。
家族も仲良しで、滑ることが出来ないその娘さんを椅子のようなソリに載せて押しながら滑っていました。
本当に素晴らしいご家族です。その娘さんの眩しく可愛い笑顔を今でもよく覚えています。
さて、それから一年経った頃です。
我々の仕事も忙しくなり、連日残業の日々を過ごしている頃、先輩のご自宅から電話があり二番目の娘さんが高熱だと伝えられました。
横でそのやり取りを聞いていた私は、早く帰るように促しましたが、先輩はもう少し片づけてからといい、結局かなり遅い時間まで会社に残っていました。
そして翌朝、いつも早い出社の先輩の姿が見えません。何となく嫌な予感がします。
そして朝会が始まるなり部長から「水沢君の二番目のお子様が今朝お亡くなりになった。」と告げられました。
まだほんの幼いのに神様は何と無慈悲なことをされるのでしょう。
お通夜、告別式とお手伝いをさせて頂きましたが、遺影の写真をまともに見ることが出来ませんでした。
そして悄然とする先輩にかける言葉もありません。
お通夜や告別式は娘さんの通う幼稚園の友達が大勢お別れに来てくださいました。皆に愛されていたのですね。
それでも、元気な子供たちを連れた母親達の姿を見るにつれ、先輩や奥様はどうしてうちの子だけ?と心が引き裂かれる思いだったのだと思います。
小さな友人たちも神妙な悲しい面持でした。
通夜の弔問客がはけた後、先輩は
「おい朴!娘の顔を見てやってくれ。そしてさよならを言ってやってくれ!お前のこと好きだったからさ。」と泣き笑い。
人は本当に悲しい時は「泣き笑い」になるんだと思います。
私は恐々と小さな棺の中に眠るもっとちいさな娘さんに対面し、その場で立てなくなってしまいました。
「ば~か!なんでお前が泣くんだよ!」
「だって先輩、まだ6歳ですよ。なんでこんなことに。悔しいし可哀想じゃないですか!」
「朴さぁ、これで良かったんだよ。」
「どうしていいんですか、良くないじゃないですか!」
「この娘は障害があってこれから少し生きたとしても長くは生きられなかったかもしれない。また大きくなったとしても、俺たち夫婦が死んだら誰も面倒診て上げられないかもしれないし。」
「・・・・」
「これで良かったんだよ。」
と泣き笑いの先輩でした。
あれから幾星霜
長女が結婚し先輩もおじいちゃんになってしまいました。
三女も最近結婚したとかで先輩は幸せそうでした。
2人目の娘さんだけ思い出の中で歳をとらないんだよと話してくださった先輩。
ふたりでしんみりと泣きながら杯を重ねました。