人生訓読 ブログ(日本語)

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御言葉選集4(16)

2024年07月14日 17時39分01秒 | 学習


文鮮明先生御言葉選集 4 - 16. 耐え忍ぶ者になろう (1958年5月18日)
耐え忍ぶ者になろう
1958年5月18日(日)、前本部教会


マタイの福音書24:1-14


<祈り>


 今、この時は2千年前のイスラエル民族が混乱していたその時と同じ時であり、メシアが来なければならない時です。私たちはそのような時に直面しており、真実が何であるか、偽りが何であるかを見分けるのが難しい時代にいます。今までの歴史の過程では、多くの苦労した教師がいましたし、また多くの指導者をお迎えしていましたが、今日私たちは心の中心を失っています。


 今日の人々が混乱した生活環境にあることを、お父様、あなたはご存知であると思います。お父様、私たちの生活を整理し、心を整理し、私たちの理念を整理して、天性の前に依存して生きることができる幸せな時間を与えてください。その一日を探す人は多いのですが、「見つけた」と言う人はまだいません。


 その一日を証する人は多いのですが、本当にお父様を喜ばせる人は極めて少ないのです。今日のように混乱した世の中に生きる私たち、私たちの心と体が進むべき理念を私たちの生活で体現し、心から感謝できるようにしてください。そして、お父様の望まれる息子娘と称賛され、復帰の使命を果たした息子娘として祝福を受けることができるようにしてくださいと、切に願い求めます。


 お父様、私たちの心を知ってください。私たちの心は誰よりも私たちの行くべき道をよく知っています。私たちの心は本来の真の道を歩むことを望んでいます。お父様、私たちの心の願いを叶えてくれる真理と宗教を許してくださり、救いの摂理の意志を成し遂げるよう導いてください。


 愛するお父様、哀れなこの民族を憐れんでください。道を失い迷うあなたの息子娘たちを憐れんでください。勝利の日に向かって前進する私たちを憐れんでください。お父様の意志を私たちが成し遂げられるよう共にいてください。


    1


 今や逆境に遭うとしても、お父様の意志を成し遂げなければならない時が私たちの前に来ました。その逆境を乗り越え、お父様の栄光を望む心と体を持つことができるようにしてください。たとえ一人でも逆境を乗り越えてお父様の心情を心配しながら、誰にも知られない隠れた祭壇を築き、お父様の心を似るために、お父様の心情を体感するためにすべてを捧げることのできるあなたの息子娘が多く現れるよう導いてください。お父様、切に願い求めます。


 ここにはどんな教団も、どんな集まりも、どんな教派も問題ではないことを知っています。お父様が知ってくださる内なる心情、お父様の心を体感できる切なる心情を持って進むことが真理の核心であり、真理のすべてであることを私たちが知ることができるように許してください。お父様、切に願い求めます。


 数多くの教派に分かれて全教界が混乱しています。お父様、憐れんでください。ここで孤立しているお父様の息子娘がいますか? 彼らをお父様が励ましてくださると信じます。私たちは彼らの心情を体感し、お父様の意志を証することができるように許してください。そして、孤独な者たちが集まり、お父様の真の息子娘として立つことのできる喜びの日が早くこの地に訪れるように許してください。切に願い求めます。


 お父様、今集まったあなたの愛する息子娘を憐れんでください。ここに集まるようにされたのもあなたでした。お父様、彼らを責任持ってください。変わらない私たちの心を収め、真心を尽くして本来のお父様の心情を通して感じられる衝動を、今、この時間、各自が心と体で感じられるように許してください。そして、自分の行くべき道を見つけることができるように、お父様の直接的な導きを許してください。愛するお父様、切に願い求めます。


 2千年前に来られたイエス様の姿を私たちが感じ、そのイエス様の悲しみを心から同情する息子娘になることを許してください。そして、子供のような心を持ち、お父様の心に悲しみがあればその悲しみを私たちの心で感じ、喜びがあればその喜びを私たちの心で感じて、お父様の真の息子娘の姿になることができるように許してください。お父様、切に願い求めます。


    2


 今、私たちが持っているすべての主義や主張、そして慣習的な条件をすべてお父様の前に差し出し、子供のような心情でお父様の愛を求めるこの時間となることを許してください。切に願い求めます。


 話す人の心も、受け取る人の心も、一つであるようにしてください。サタンは常に話す人と受け取る人の心の隔たりを狙っていることを私たちは知っています。願わくば、私たちが子羊の姿を持ち、お父様の言葉によって再創造されることができるこの時間となるようにしてください。初めから終わりまで、ただお父様だけが主管してください。切に願い求めます。すべての言葉を主の名前によって申し上げました。アーメン。






<御言葉>


 今日、皆さんにお伝えする言葉のタイトルは「耐え忍ぶ者になろう」です。


 今日朗読した聖書の言葉には、終末の兆候についての言葉がありました。終末には、信仰を中心に生きていくことが難しいことがここに記されています。したがって、この困難な混乱期を克服して勝利者になるためには、最後まで耐え忍ぶ者にならなければならないことを、皆さん自身が理解し、まず心で感じて恩恵を受けるこの時間となることを願います。


 私たちは誰もが神を考える時、栄光の主として存在していると考えがちです。また、神は多くの力を持っており、万人の行動を把握していると簡単に考えるかもしれません。しかし、6千年という長い歳月を経て、神はまだ栄光の一日を見つけていません。私たち人間を統治する権能の行使も、まだ経験したことがありません。これを考える時、神には誰も知ることができない深い心配と深い苦難、そして深い痛みがあることを私たちは考えなければなりません。


    3


 天地万物は私たちが簡単に考えるように、神の栄光のために創造され、権能の行使のために創造されました。しかし、神の栄光を示し、権能の相対者となるべき人間がその位置に立たなかったため、神は栄光を得られず、権能の行使もできないまま、今までその希望の一日を成し遂げるために摂理を進めてきたことを皆さんはよく知っています。


 アダムを創造し、喜んでいた神が堕落したアダムを見る時、皆さんが想像することのできない悲しみが神の心に訪れました。神がアダムを中心に創造の理念を立てた意図が大きければ大きいほど、アダムの過ちによる悲しみはさらに大きかったのです。そして、誰にも言うことができず、誰にも伝えることができない神の内的な悲しみを知る者はいません。


 この悲しみに加えて、苦しみと逆境を経験しなければならなかった神、言い表せない苦しみと逆境を経験しなければならなかった神がいました。このように悲しい立場にあっても、人間に対して救いの摂理を行わなければならなかった神は、人間が想像できない二重の苦しみの心情を感じなければならなかったのです。


 堕落したアダムをエデンの園から追い出した神ですが、その追い出した人間を放っておくことができず、再び愛の手を差し伸べたのは、神が愛の心情を持っているからだということを、私たちは今日考えるべきです。しかし、天倫の創造理念を破壊したアダムとエバの家庭を中心に、再び第二の希望を持ってきた神の心情はどのようなものであったでしょうか。神のこの心情を皆さんが知る必要があります。捨てられた子供を再び未練を持って対処しなければならない神の事情を知る者がいるなら、その人は神の切ない心情を知ることができるでしょう。そして、その人は神がどのような立場にあるかを知ることができるでしょう。


 神はアダムとエバを通して復帰の摂理を始めなければなりませんでした。そしてカインとアベルを選び、ノアを選び、他の多くの家庭を選び建てて、復帰の摂理を進めてきました。このような摂理の歴史を導いてきた神の心情は、言い表せないほど切ない心情でした。しかし、そのような心情を抑えながら、今日まで耐え忍び続けてきたのです。


    4


 それでは、神が今まで耐え忍び続けてきたその切ない心情を感じ、神にしがみついて涙を流す人が今日のこの地上に何人いるでしょうか?もしこの地上にそのような神の心情を知り涙する人がいるならば、その人は神が天地万物を創造された時の喜びと共に、人間の堕落によって全天地万物を覆った神の悲しみを知ることができるでしょう。


 この地上において、今まで耐え忍び続けてきた神の心情を代わりに担う人、また神の悲しみと共に泣いてくれる人がいるならば、神も創造主としての面目を忘れ、創造主の栄光や権威などすべてを忘れて、その人と共にただ涙を流されることでしょう。このような事情に満ちた神の心情を皆さんは理解しなければなりません。


 神はそのような切ない心情を抱えながら、裏切ったアダムやノア、アブラハムを立てて再び摂理を行わなければなりませんでした。また、苦難と逆境の中で呻きながらも、イスラエル民族を見捨てることなく、モーセを立てて祝福のカナンの地へ導いた神の心情を皆さんは理解しなければなりません。


 神は数多くの預言者や先祖を選び、彼らに悲しみの道を歩ませながら摂理の歴史を展開してきました。そして4千年の歴史が経過した時、すなわち今から2千年前に、新たな歴史を展開し、4千年の悲しみと憤りを晴らすために、この地上にイエス・キリストを送りました。しかし、そのイエス様を十字架につけてしまったイスラエル民族を見捨てることなく、摂理を続けなければならなかった神の悲しみを知る者がどこにいたでしょうか。そのような教会や民族がどこにあったでしょうか。神はそのような個人、教会、民族が現れることを望んでいます。


 天の道が良いと知って進んだとしても、神の心情を掘り下げれば掘り下げるほど、それは涙の峠です。神の心が栄光の中にあると思っていたのに、実際には悲しみの要素を持つ神であることを知るでしょう。皆さんはこのような神を理解しなければなりません。

    5

 今日、私たちは神の悲しみに代わって悲しむ天の息子娘となるべきです。皆さんは、周囲からの圧力や排斥を受けるどのような困難があっても、神の悲しい心情を慰めることができなければなりません。今こそ私たちは自分の切なさを忘れ、神が今まで耐え忍んできた意志を見習い、神の悲しみと苦しみを代わりに背負って進むべきです。

 神は私たちのために、教会のために、そして裏切ったイスラエルのために耐え忍び、また裏切った世界のために耐え忍んできました。このような神の心情を今日、終わりの時代に残された信徒たちは涙をもって見習い、このような神の心を慰めるべきです。このような真の息子娘にならなければなりません。

 天が4千年間耐え忍び続けてきたのは、イエス・キリストを送り出す時にイスラエル民族が信じてくれることを望んだからです。しかし、その民族がイエスを十字架にかけた時、地に対する神の希望は水泡に帰しました。イスラエル民族は神が望んだ意志を成し遂げるべき立場、すなわち天倫の一時期を約束するべき立場にありましたが、イスラエル民族は神の最愛の独り子を殺してしまいました。

 それでは、今私たちが「父」と呼ぶその父は、6千年間悲しみと苦しみの道を耐え忍んできた父であることを皆さんは知っておくべきです。私の父は6千年間耐え忍んできたのです。また、このように6千年間耐え忍んできた父は、単なる名目上の父ではありません。


 神は6千年間耐え忍んできましたが、神が支配できる地はまだ復帰されていません。したがって、皆さんは今、地全体を蕩減復帰しなければなりません。皆さんは新しい歴史を創造し、新しい理念を探し求めなければなりません。したがって、このような立場にある皆さんは何よりもまず耐え忍ぶ者にならなければなりません。


    6


 そして、皆さんは真の宗教を探し求めなければなりません。真の天の息子娘を探し求めなければなりません。耐え忍ぶ信仰者を探して支えなければなりません。耐え忍ぶ教団を探して求めなければなりません。耐え忍ぶ民族、国家を探し求める使命が今日の天を目指して進む信仰者にあることを皆さんは知っておくべきです。


 今日まで、すべての宗教は耐え忍ぶ者が創立してきました。これからも耐え忍ぶ宗教が世界を導くことでしょう。人類の歴史を振り返ってみても、やはり耐え忍ぶ者が勝利してきたのです。天においても地においてもそうでした。それゆえに、現在もこの地は、神を心配し節操を立ててくれる人物を迎えるために嘆息していることを皆さんは知っておくべきです。


 宗教について見ると、今日のキリスト教が世界的な宗教になったのも、キリスト教がより耐え忍んだからです。イエス様は、4千年間耐え忍んできた神の心情を感じ、また万民が歴史的に耐え忍んできたことを考えた時、ゴルゴダの山で自分の体が十字架にかけられても耐えなければならなかったのです。それで両手両足に釘が打たれながらも、イエス様は彼らのために「父よ、彼らをお赦しください。」と祈ることができたのです。


 このように神が耐え忍んできたその心情を万民とサタンの前に示したため、耐え忍ばざるを得ないサタンはその心情の前に屈服せざるを得なかったのです。これがイエス・キリストが私たちに示してくれた模範的な耐え忍ぶ道でした。またこの地上の人間はもちろん、あらゆる物も今まで6千年間耐え忍んできました。


 そして、人間が堕落したことで霊界にもその影響が及び、天使世界にもその影響が及びました。ですから皆さんには、万物はもちろん霊界にまで染み渡っている嘆きと、6千年間耐え忍んできた神の事情を責任をもって担わなければならない使命が残されています。


    7


 したがって、今皆さんはそのような外的な心配と宇宙的な責任を代わりに心に抱き、耐え忍ぶ覚悟と決意を持たなければなりません。もしそのような覚悟と決意がなければ、今日の皆さんは天の道に同行できないでしょう。


 ですから、今日の皆さんはまず天の祝福と天の栄光を望む前に、天の血を流すような心情、悲しい心情を晴らしてあげなければなりません。神の耐え忍ぶ心は全宇宙を包み込むほど大きいのに、今日私たちは罪深い環境の中で罪深い自分を持って生きています。このような立場では宇宙を抱えて耐え忍んできた神をお迎えすることはできません。つまり、6千年の歴史を摂理してこられた神を迎え入れることはできないのです。


 したがって、今皆さんは今日まで歴史を支配してきた神の心情と意志を理解し、神を迎え入れることができるようにならなければなりません。6千年間摂理してきた中で耐え忍んできたその心情を持たなければならないのです。つまり、今日の終末に置かれた皆さんには、神を心に迎え入れ、その方を万民に証しする使命があるのです。


 それでは、今、6千年間耐え忍んできた神の心情を持ち、神を迎え入れて慰めることのできる真の息子娘は誰なのでしょうか。神はそのような息子娘が現れるのを待っておられます。天を裏切り、天使長サタンの誘惑に陥って堕落した人間を見捨てることなく、再び救うために6千年間耐え忍んできた神がいらっしゃいます。今日、皆さんはその神の心を理解しなければなりません。


 さらに今日、皆さんはこの民族を救おうとする心がありますか? 今日ここに集まった人々、真に天の懐かしさを感じる心がありますか? 皆さんは民族の苦しみを代わりに背負う姿でなければなりません。どのような苦しみと逆境の中でも耐え忍ぶ覚悟と決意を持たなければなりません。耐え忍ぶ者にならなければ、民族を責任をもって担うことはできないと理解してください。

    8

 また、皆さんが世界を救おうとする心があるなら、まず世界の悲しみと世界の困難を自分の身に背負い、耐え忍ぶ覚悟と決意を持たなければなりません。しかし、もしそのような覚悟と決意がなければ、世界のどの部分にも天の理念を残すことはできないでしょう。

 神はサタン世界と地獄世界さえも包み込み、そこでも耐え忍ぶ心があるため、地獄にいるサタンたちさえもその前には頭を垂れます。ですから、皆さんが最後の勝利者、最後の父の息子娘になりたいと願うなら、皆さんは神の耐え忍ぶ心を自分の耐え忍ぶ心で、神の耐え忍ぶ姿勢を自分の耐え忍ぶ姿勢で心と体で感じることのできる人にならなければなりません。今日のキリスト教も耐え忍ぶ道理を教えたからこそ、世界的な宗教となり世界を支配しているのです。

 今日のユダヤ民族は地上に生きています。しかし、その民族は神の意志を裏切った民族でありながら、なぜ神は彼らを見捨てることができないのでしょうか。もちろん、ユダヤ民族は道を誤りましたが、神の選んだ選民として神をために変わらない心を持ち続けているからです。天に反対する立場にありながら、いつか神を見つけ出す時には、どの民族よりも神の耐え忍ぶ仕事、耐え忍ぶ仕事を担うことのできる民族であるため、摂理の道を裏切りましたが、見捨てることができないのです。

 歴史の過程でどんな逆境に直面しようとも、天のために摂理の歴史を守り続ける民族があるならば、その民族は世界を支配するでしょう。たとえ一時的に神の意志に背き、サタンの手先として働いたとしても、もし彼らの決意と覚悟が天のための心に基づいているならば、最終的にサタンは屈服せざるを得なくなります。

 サタンは耐え忍ぶことができず、耐えることもできません。もしサタンが耐え忍ぶことができたなら、神を裏切り6千年の歴史を逆らってくることはなかったでしょう。

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 神を中心とする民族がどんな逆境に直面しても、自分たちの民族が天の選民であると主張し続けるなら、その民族は世界から消えることはありません。今日のユダヤ民族が世界の経済権を握り、その他の多くの分野で主導権を握っているのも、それには理由があるのです。

 歴史の過程もまた同じです。過去のどの時代でも、逆境に直面して混乱と混沌の中にあった時、耐え忍ぶ心を永遠の理念に結びつけて進んできた人々が新しい歴史を展開してきたことを私たちはよく知っています。民族も、歴史も、宗教もそうでした。

 それでは、終末にはこれらがどのようになるでしょうか?終末には、民族の中から中心民族が、宗教の中から中心宗教が、歴史の中から中心歴史が現れるということを皆さんは知っておくべきです。

 神は「私はアルファでありオメガであり、最初であり最後であり、始めであり終わりである。」(黙示録22:13)とおっしゃいました。しかし、終末には、宗教の中でもより耐え忍ぶ宗教、キリスト教の中でもより耐え忍ぶ教派が勝利するでしょう。また、民族の中でもより耐え忍ぶ民族が勝利するでしょう。天はこのようにしてより耐え忍ぶ者たちを探し出し、新しい時代を切り開いてきたのです。このような原則があることを皆さんは知っておくべきです。

 神は4千年間イスラエル民族を選び、精一杯の努力と誠実をもって導き、摂理の意志を成し遂げるためにこの地にイエス様を送りました。しかし、そのイエス様はキリスト教徒たちが歴史を経て信じ、敬ってきたような素晴らしい立場、尊敬される立場には立てませんでした。裏切り者であり、異端者であり、民族の反逆者という烙印を押されて亡くなったのです。

    10

 それでは、神はなぜ新しい摂理の理念を立てる際に、耐え忍ばなければならない環境にイエスを置かざるを得なかったのでしょうか。それは、人類の歴史が堕落から始まったからです。イエス様は堕落の歴史を終わらせなければならなかったのです。聖書や歴史的記録に残っているイエスと、その当時のイエスには大きな違いがあります。当時のユダヤ教団が今日のキリスト教信徒が信じるほどにイエスを信じていたならば、イエスは十字架にかかることはなかったでしょう。

 殺してから探し求め、後悔する民族が堕落した民族です。当時、天倫の一時期を待ちながら耐え忍んでいるイエス様に反対したイスラエル民族は地獄に落ちました。ユダヤ教徒たちは自分たちが真理を代表していると自負していましたが、歴史の過程を経てみると、非真理のように見えたイエスが真理を代表しており、むしろユダヤ教が非真理の立場にあったのです。このように、天の動きは歴史の過程で矛盾しているように見えることがあります。当時のユダヤ教徒たちは、イエスを中心に理念的な事実は知っていましたが、実証的な事実とはかけ離れていました。

 しかし今日、一国家の運命においてどんな悲運が訪れたとしても、それに対して悲しまずに天倫の摂理を知り、その中で団結し耐え忍ぶ民族となるならば、その民族は滅びることなく生き続けるでしょう。神が4千年間イスラエル民族を通して築いたユダヤ教は、天の内的使命を果たすための犠牲になるべきでしたが、ユダヤ教団は腐敗し、形式主義的な観念に陥っていました。しかし、当時これを嘆き悲しむ者は多かったものの、イエスに従う者はいなかったのです。

 神は私たちに終末が来ると予告されました。全ての人々が大審判の日を免れないと予告されました。それでは、このような神の摂理の歴史を分析してみると、何を根拠にしてそのような歴史的摂理の過程を経なければならなかったのでしょうか。神が耐え忍び続ける立場にあるため、サタンと対立する立場に置かれ、サタン世界が天の側に転換される時には、必ず耐え忍ぶ過程を経て新しい歴史が創造されるのです。ですから、忠臣の子は滅びることはなく、貞婦や孝子、孝女の息子娘も滅びることはないのです。

 したがって、この民族は歴史に名を残さなければなりません。しかし、この民族は4千年という長い歴史を持ちながらも、固有の民族性がありません。それでは、この民族に対する摂理を考えるとき、この民族はどうすべきでしょうか?この民族にも一時期があるということは何を意味するのでしょうか?この民族は同じ民族に対しても、世界に対しても苦難を受ける立場にありますが、これはむしろこの民族にとって幸せの基盤になるかもしれません。このような立場にこの民族は置かれているのです。

    11

 したがって、皆さんは心を広く持たなければなりません。大韓民国のために他国の人々がこの地に来て犠牲を払いました。そしてこの国は今も他国の援助を受けています。したがって、皆さんはその人々の頭上に手をかざして祝福する心を持たなければなりません。また、この民族に対する神の内的なすべての事情が人々に伝わらないからといって落胆せず、未来に向けて、どのような方向を通じても祝福する心を持たなければなりません。

 もし皆さんがそのような心を持てば、新しい理念を中心にこの民族を通して新しい摂理の歴史が展開されるでしょう。民族もそうですが、キリスト教社会もまた同様です。したがって、この民族は世界の前に、あるいは宇宙の前に押し寄せられる民族でなければなりません。実際に、この民族は24億の人類の前に押し寄せられることになるでしょう。

 イエス様が十字架につけられるとき、右側の強盗は天を信じようとしましたが、左側の強盗は天を信じない立場を取りました。このように、今日の世界は二つの世界に分かれています。つまり、右側の強盗のような立場で形成された右翼の世界と、左側の強盗のような立場で形成された左翼の世界に分かれています。左翼の世界は、神を知らない世界となっています。

 では、そのような世界で証しなければならないのは何でしょうか? それは真の愛です。したがって、これまでイエス様の名を頼りに証してきたように、今後は天を探し求める宗教的な形態を持つ国家が現れて真の愛を証しなければなりません。これまでイエスの理念は現れませんでしたが、これからはイエスの理念が現れなければなりません。したがって、終末には必ず何か新しいものが現れなければなりません。

 それでは、終末に全人類が求めるものは何でしょうか?それは、イエス様が主張した真理ではなく、主張できなかった真理の背後の心情を超える何かです。ですから、終末には必ずそれが現れなければなりません。そしてその時がまさに世界的な理念時代です。そのような時が必ず来るでしょう。聖書に固執し、それだけを守る人々、あるいは自分たちの固有の思想だけを主張する民族は適応できません。

    12

 したがって、今日の皆さんは「お父様、私たちを世界の民族の前に押し寄せられる者としてください。お父様を頼りに死ぬ者となり、お父様を捨てる者とならないようにしてください。」と祈る人々となるべきです。

 私たち教会の家族は、押し寄せられる者となったからといって他人を非難しないようにしましょう。他人の欠点を取り上げて中傷し、自分の利益を追求しようとした民族は滅びました。ですから、今日の皆さんは自分の心と体に真理がないからといって嘆いてはいけません。自分に知識がなく、持ち物がないからといって嘆かず、権力や勢力がないからといって嘆かず、「父よ、私のすべてを奪われてもイエスの道を守ることができる天の精兵としてください。私たちを最後の勝利の手段としてください。」と祈ることができるようにすべきです。

 イエス様は両親も失いました。親戚も失いました。自分の教派も、自分が指導すべき民族もすべて失いました。しかし、彼はそのすべてを失ったにもかかわらず嘆きませんでした。より大きな天の心情を抱きしめ、神の忍耐を見習って死の場でも耐え忍びました。これまで殉教者たちの魂はあの世に行きましたが、自分だけが救われるために死んだ人は良い場所に行けませんでした。しかし、自分のような罪人は何万回死んでも当然だと思う人は天国の高い場所にいるということです。

 したがって、今や世界が祝福を受けるとき、世界だけのために働いた人は世界を超えて宇宙世界では落ちてしまいます。したがって、今日私たちには新たな心を持ち、新たな出発を展開し、この小さな三千里の国土を中心に世界を揺るがす責任があるのです。これは決して空論でも妄想でもありません。

 イエス様がサタンに対する憤り、民族に対する憤りを抱くこともできたが、神が愛する民族であることを知っていたので憤りを抱かなかったのです。皆さんもそのような事情に直面するとき、すなわち憤りの心が起こるとき、それを超えてむしろ祈る者となるべきです。そうして倒れた先祖たちが立ち上げようとした教団を再び立ち上げ、この民族を動かし、さらに世界的なキリスト教を革新しなければなりません。このような使命が私たちにあるのです。

    13

 それでは、今日の特に若い男女の皆さん、あなた方はどこで死ぬつもりであり、どの分野で天の前に条件を立てて死ぬつもりですか。また、あなた方はこれまで誰のために生きてきましたか?その理念において、その良心において、その生活において誰を頼りに生きてきましたか?もしこれまで自分だけのために生きてきたのなら、自己反省し、自分を戒めなければなりません。

 永遠の理念を中心に動くことができる者たちは、その理念的な主体が消えない限り滅びることはありません。ヤコブも神の意志ひとつを握りしめて、21年間ラバンの冷遇と軽蔑を受けました。父の意志ひとつを胸に抱き、父の祝福の意志を忘れずに21年を一日ごとに生活しました。アブラハムも同様でした。モーセも選ばれた民を心配しながら、ファラオの宮殿で40年、ミディアンの荒野で40年を耐え忍びました。そして、イエス様も同様であったことを皆さんは知るべきです。

 それでは、終末に置かれた今日の私たちが、サタンの世界に抱かれていた人類、神の悲しみの条件を持つ哀れな人類を救うために戦いを展開するならばどうなるでしょうか?この戦いで人類を救うために犠牲になる人がいるならば、その人の墓は神が建ててくださり、その人の死後の足跡は神が明らかにしてくださるでしょう。行き詰まった道に立っている皆さんは、「自分の命を守ろうとする者はそれを失い、失う者はそれを得るであろう」(ルカ17:33)という聖書の言葉を覚えておくべきです。サタンの条件を掲げてイエスを裏切った者たちはすべて滅びました。

 私たちの民族も日本の統治下にあった時、自分の不利な立場を逃れるために神社参拝をし、教団を売り渡した人々は皆滅びました。涙のない教団、民族、そして世界はすべて滅びるのです。ですから、皆さんはこの民族に対して、神の摂理の前に他のどの民族よりも早く移されるための神の隠れた摂理の意志があることを知るべきです。

 したがって、皆さんがイエスの事情を理解し、神の立場を代わりに担うことができれば、神の理念の時代が来た時、この地上で第二のキリストの福音を受け継ぐ天が許した生命の息子娘となることができるのです。これを心に刻んでおかなければなりません。

 また、皆さんには民族に対する責任があり、多くの教団に対する責任があるのです。ところで、皆さんは食事をしたり、服を着たり、眠ったりする時に、この民族のために、あるいは天地に対して無限の心配をしたことがありますか?もしこの世界に対して、天地に対して心配する息子娘がいるならば、その人は新しい時代の主人公となることを皆さんは確信すべきです。

 摂理的な歴史の過程を思い起こすと、涙を抑えることはできません。しかし、そこに留まらず、それを鏡として今日耐えなければならない環境、耐え忍ばなければならない環境において敗北者とならず、天が喜ぶことのできる天の息子娘として立つことのできる者となるべきです。



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第四十四選集
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御言葉選集4(13,14,15)

2024年07月13日 17時20分16秒 | 学習

文鮮明先生御言葉選集 4 - 13. 中心を探し求める私たち (1958年5月4日)
1958年5月4日(日)、前本部教会。

聖書拝読:ペテロの手紙第一 1:18-25


<祈祷>

 お父様、私たちが命を持っていると言うならば、その命の原動力が私一人に限定されないように許してください。また、御言葉の力を持っていると言うならば、その御言葉が私たち一個人に留まらないようにお許しください。

     20

 さらに、その御言葉と命の力が民族を超え、世界を席巻し、天地を動かす力となることを許してくださいますように、お父様、切に願い求めます。

 これまで私たちは安らぎの中でイエス様を迎えようとし、安らぎの中でイエス様を探そうとしましたが、十字架で血を流す姿として現れるイエス様を見ないわけにはいかないことを私たちは知っています。


 今やお父様を求めて出発した私たち、お父様はただ私たちが考えるように栄光のお父様だけではなく、十字架の難所も超えておられるお父様であることを私たちは知りませんでした。今日、栄光の主を待ち望む者は多いが、苦難の主に従って行く真意を持つ者はおりません、お父様、この哀れな人間たちをお許しください。

 もし今日、私たちが栄光の主に出会ったならば、十字架にかかった主を思い、その苦しみを受けた主の体を私たちが担うことができるよう導いてください。

 そうしてゴルゴタの道で民族の前に拒絶され追われた十字架を背負って進んでいたイエス様の守護を受けることができるよう許してください、お父様、切に願い求めます。

     21


 復活の主に出会って喜ぶことを願っていたが、その復活の主とは関係のない立場に立っていた愚かな使徒たちのような姿にならないよう導いてください。復活の主を迎え、お父様を慰めることができる息子娘とならせてください。またそのような使命を全うしても余りある息子娘とならせてください、お父様、切に願い求めます。


 お父様、今日ここに集まった取るに足らない者たちに、お父様が共にいてください。いま、犠牲の峠を越えなければならない私たちですが、お父様が私たちを見つけるために先に言葉に尽くせない苦労をして来られたことを知る時、私たちはこの道を進まざるを得ないと感じます。


 歴史的なすべての負債を償わなければならない全体的な使命が今日の私たちにあることをお父様が知っているので、私たちに不足があると言うならば、それを取り除き、課された使命を全うできるように許してください。


 この民族のために、あるいは世界のために、あるいは天地のために、まずこの民族をお父様の前に立たせることができるよう許してください、そしてその後でも余りある息子娘とならせてください、お父様、切に願い求めます。


 6千年の歴史過程で残された罪の叫び声を聞いている私たち、今後はアダムとエバの立場を経て新たな善の祖先として進まなければならない立場に立っていることを知っているので、現実のすべてを踏み越え新しい世界を創造する天の勇者として立ててください、愛の父よ、切に願い求めます。


     22


 これまで私たちを慰めてくれたお父様を見つけました。慰めを求めて見つけましたが、今や慰めてくれるそのお父様に代わる主をむしろお迎えできる私たちとならせてください。また、この使命を全うするために努力した私たちのすべての力と能力が私たちの心にその希望が実現するまで残るように、お父様、導いてください、切に願い求めます。

 今日ここに集まった兄弟たち、皆、お父様の懐に抱かれ父の悲痛な心情を体感できるように許してください。そしてすべてを体感した人の心情を持ちそのお父様を慰めることができる息子娘とならせてください、切にお願い申し上げます。すべての御言葉を愛する主の名によってお祈りいたします。アーメン。


<御言葉>
 今日、皆さんと一緒に考えたい御言葉のタイトルは「そのどこかを探し求める私たち」です。


 今日、皆さんは個人を基盤として社会や世界とつながりを持って生活しています。しかし、自己を振り返ってみると、心があり、体があることがわかります。さらに、心があり体があると同時に、私たちが生きている地面があることもわかります。


 では、これだけで私たちが行くべき道と私たちが探すべき環境が整っているかというと、そうではありません。心はより高い理念を目指して探し求めています。そのような分野が他にもあるのです。そして、体を中心に見ると、心と対立しながらも体もまた何らかの理念を目指して動いていることを皆さんはよく体験していることでしょう。また、自己を超えて見てみると、この地球もまた何か大きな理念を目指して動いていることを皆さんは既によく知っています。

     23

 では、これですべてが終わりかというと、そうではありません。天があり、地があり、人がいるとすれば、天と地と人は三つのように見えても、一つの理念の範囲内で一つの目標に向かって動いています。この宇宙万象を創造した神様が確かに存在するならば、それらはすべて神様のものです。しかし現在、神様は私とは無関係な位置にあり、自己もまた一体的な理念に対して関連性のある位置にありません。さらには、この地もまた神様の全体的な理念を成し遂げる地にはなっていません。この事実は、今日の社会の現状や世界の動向を見るとよくわかります。

 これらすべては元々一つの目的に向かって一つの統一された行動と方向を取って動かなければならない創造主の理念でした。しかし、そのような目的が成し遂げられなかったために、これが今日の人間が解決すべき問題となっていることを多くの人は考えていません。そのため、今日私たちが日々を生きる中で、自分自身を探す中で、心と体はそれぞれ何かを探し求めていることを感じるでしょう。


 また、今日自分の命を中心に世界を見つめると、この世界もまた何かを探して苦しんでいることを皆さんは自分の生活圏内でよく体験している事実です。では、目に見えるこの地上の人間だけで、すべてが解決できるかというと、そうではありません。人間を創造した神様が存在し、万物を創造した主がいる以上、その主は人間に対しても、あるいは被造物に対しても、何らかの大きな理念を持って動いていることを皆さんは既に知っています。


 では、今日皆さん自身を見るとき、皆さんの前にはどのような条件が残されているでしょうか。神様が探し求めるべき理念の世界、すなわち皆さんの心と体を中心とした理念の世界です。その世界に向かって進まなければならないことを皆さんは認めざるを得ないでしょう。


 今日の自己を振り返ると、私は天を前にし、地を前にしています。しかし、今日皆さんは天の理念によってこの地を対する全体的な摂理に照らして、自分の心が堂々と天に対することができ、統一的な一つの理念に対することができるかどうかを反省しなければなりません。そのような自分だと皆さんは自信を持って答えられないでしょう。


     24


 神様が存在するならば、神様が望む全体的な理念の統一世界がなければならず、また神様がこれまで摂理してこられたとすれば、この地上に統一的な理念を成し遂げる時がなければならないでしょう。これは必然的な事実です。


 そうだとすれば、天の理念と地の理念が一つになるその目標に対して、皆さん自身はどのような位置にいるのか、皆さん自身はどのような環境に置かれているのか、皆さんが今日対面している命はどこに位置しているのかというのが重要な問題でしょう。しかし、人間の心は自分でも知らないうちに天を頼ろうとし、体は自分でも知らないうちに地を頼ろうとします。そのため、私は一つのように見えても二つの道で苦しんでおり、これは人間の堕落によるものです。


 したがって、今皆さんは心を通して天の望む理念と一つにならなければならず、体を通しては世界が目指す一つの統一の理念と一つになれる資格を持たなければなりません。そこで歴史の過程でそのような事実を紹介してくれる何らかの理念が現れているのです。従って、今の世界の状況を見ると、何かしら統一的な形態に向かって動いており、そのような傾向に従って私の心もまた何かしら世界的な志を抱いて一人の個人として、一人の兄弟として、一人の家族として共に暮らそうとする大きな理念が私の心を通して常に感じられていることを私たちはよく体験しています。


 では、これは現代の私たちが成し遂げられない妄想からくる何らかの観念的な認識に過ぎないのでしょうか? そうではありません。今日の心の傾向は、必ずしも私一人の力では生じ得ないものです。しかし、その何かがわからないうちに、天倫の大きな摂理の意図が私の心と縁を結ぶために動いているのです。それが現代のこの地上の人々の前に及んでいるため、人々は誰しも天倫に引かれて進まざるを得ないのです。


 しかし、人間の良心には個人差があり、その感じる感情も異なります。また、体が望む世界があり、心が望む世界が別にあります。ではこれをどのようにして天の前に近づけることができるのでしょうか?また、何を中心に主従の関係を結ぶべきでしょうか?これが現代の人間として解決すべき重大な問題です。個々の人間がこの問題を解決しない限り、世界にどのような理念が成し遂げられても、どれほどこの地上に天倫の意図が成し遂げられても、その人とは何の関係もありません。


     25


 この隔たりの戦いは、体が心を中心に、つまり体が心に従う立場で順応しなければ解決できません。また、心と体が一つになることもできません。しかし、一つになったその状態が心だけを中心にするのではなく、心と体が一つになった後には体も中心とすることができるようでなければなりません。このような価値ある心と体を自分の生活圏内に築かなければなりません。もしそうでなければ、今日この地上に摂理の意図と理念が成し遂げられても、皆さんはその摂理の意図と理念とは何の関係もありません。


 今、私たちの前には審判の時が迫っています。この審判の時代を越えるために私たちはどうすべきでしょうか?この理念的な権内において神がいて、この地上に最高の理念があるならば、その神とこの地上の最高の理念と統一された一つの形を私の体と心が体験しなければなりません。そして、私自身が天と地に対して恥ずかしくないように立てる一つの中心を持たなければなりません。もしそうでなければ、皆さんは審判の日を逃れることができません。


 神は今日まで多くの人類の良心を動かしてこられました。しかし、神が目指す方向と良心が目指す方向には明確な違いがありました。神が100の力で動いても、良心がその100の相対的な立場に立つかというとそうではありませんでした。これは人間が生きている時代や習慣、歴史観、あるいは文化的なすべての条件によって、人間の良心が左右され、影響を受けていたことを示しています。


 そのため、程度によって多くの差があります。したがって、私たちが持つ良心も天倫が目指すその理念的な世界と必ずしも一致するわけではありません。良心が目指すその理念的な世界が天倫と同じ方向を取っているように見えても、ここには明確な違いがあります。したがって、皆さんが道の道を求めるときには、自分の良心までも打ち砕いて神の意図の前に屈服させる戦いをしなければならない立場に置かれていることを知るべきです。


 では、神も理念に向かって動いており、今日私たち人間の良心もその理念を求めて進もうとしているのに、この二つが一致して進めない理由があるということです。神が来なさいと言われる通りに私の良心が行きたいと思いながらも行けないのは、人間が越えなければならない恐れの一つの峠が残っているからだということを皆さんは知るべきです。したがって、皆さんがこの恐れの峠を突破し越えることができなければ、皆さんは永遠の理念の天国と縁を結ぶことはできないでしょう。


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 したがって、神と私の心の関係が神の意図の中に立つためには、私の心と体がそのような関係を結ばなければならず、さらに私の心と体が意図の中に立たなければならず、私の心と体を中心にこれからの意図の理念とそのような関係を結ばなければなりません。


 そうして天と皆さんの良心が一つになり、良心と体が一つになり、体と環境が一つになってすべてを一つに統合し、さらにその中心を代表して立たなければなりません。そして天の世界においても、良心の世界においても、体の立場においても、どの面に立っても皆さんが自信を持って立つことができるようにしなければなりません。そうできる皆さんを探さなければならない運命が残っているのです。


 したがって、今日の人間はどこかはわからないが行かなければならない運命に置かれており、何かはわからないがそれを探さなければならない運命に置かれているのです。だから人間の心は天倫に向かって進もうとし、体は自分を中心にして地に向かって進もうとしています。したがって、天は長い歴史過程を経て、多くの人間を犠牲にして地を目指すこの体の志向性を変えて天倫を志向させ、全世界の人類の体を一つの統一世界に導いています。さらに、良心もさまざまな方向に進もうとするのを押し戻して一つの方向、一つの理念世界に向かわせたのです。しかし、これを今日の地上の人々は知りません。


 そこで心を中心にして神の意図とその方向を正しく立てるための戦いが繰り広げられます。それは見えない世界で良心を中心とした一つの理念を探すためのサタンと神との戦いであり、見える実体世界ではカイン派とアベル派の争いです。このような内外の戦いを経て歴史は進んできました。


 では、神が知・情・意を持つ人格的な方であり、またすべての感覚を持つ方であることは間違いありません。神は必ず統一された何らかの創造理念を持っていることでしょう。そしてその理念は天のためであり、今日の地上のすべての人類と万物のためでもあるのです。


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 これは必然的な事実となることができないならば、神の創造理念は私たちとは無関係だということです。神はこの全体的な理念に対して、神ご自身が喜ぶことができると同時に、すべての被造物も喜ばざるを得ないように創られたのです。


 しかし、堕落した人間となったために、今日の人類にはそのような理念の世界がまだ確立されておらず、体が志向するその根本的な理念の世界もまだ確立されていません。だからこそ神は、今日の人類を内的には良心に近い道へ、外的には別の主義を見つけて立て、世界的な終末時代へと追い込んでいます。つまり、今日の皆さんは自分の心が志向する何か、すなわち心を通じて追い出されているそれが、どこかに向かっていると考えるとき、私を通じてこの世界の人類がある理念的な世界に進まざるを得ないようになっているのです。


 では、今日そのような立場にある皆さん自身は、非常に小さな存在であるように見えますが、決して小さな存在ではありません。新しい宇宙史を創造するのに欠かせない貴重な存在であるということです。まずは私の心がそうであり、私の体がそうであり、私が住んでいる周囲の環境がそうであるということです。


 だからこそ神は、人間の内的な良心を通じて神の意図を実現するために、今まで孤独な道を切り開いてこられました。つまり、人間の良心のある一つの基点を通じて摂理の意図を成し遂げようとしてきたのです。しかし、人間はその良心の基点を失ってしまいました。


 しかし、神には良心の基点を失った人間のために道を定め、その基点を取り戻すための意図があったため、今まで多くの先知先烈を通じて自身が苦痛を感じながらも、人間をその良心の基点に結びつけようと努力してこられました。その努力は見えない無限の世界で行われているため、人間の本性の心情は無意識のうちにそれに向かって動いています。


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 終わりの日が近づくにつれて、心の基準を完全に確立していない人は、どんなに良い条件を多く備えていても心が安らかではありません。方向を変えなければならない立場に置かれている今日の現実世界であることを皆さんは知るべきです。だからこそ神は、自分を中心としたすべての権限と志向する理念を断ち切るように言われました。


 では、なぜ神はこのような矛盾した条件を人間に提示されたのでしょうか?その原因は、まず一つの基準を見つけて確立しなければならないのが人間の心だったため、心と体が一度に位置を確立することができなかったからです。だからこそ神は、これまでそのような方向を取ってきたことを皆さんは知るべきです。そして、これを通じて歴史を経て心を頼りにした理念の世界が現れなければならないのですが、その心を頼りにした理念は、全世界全人類が動かなければならない理念です。したがって、その理念の中心が確立されるまでには捨てるという歴史過程を経ることになりますが、これがある過程を経ると捨ててきたその歴史を再び取り戻す歴史として変わっていくのです。


 だからこそ、キリスト教は初めに苦難の道を歩み始めました。すべてから嘲笑され追い詰められるところから始まりましたが、あるものをすべて捨てて出ていくうちに民族を形成し、それが今日の国家を形成し、さらには世界的な形態を持つ時が来ました。つまり、今日神はある一つの中心を通じてその意図を立てることができる時が来たということです。したがって、今日私たちは世界に散らばった物質を再び取り戻す基準を確立しなければならないでしょう。だからこそ、今日すべての国家は世界的な理念を通じた同盟国の時代を経て、連合国の形態を経た後、これが3つのブロックを経て一つの統一的な理念の世界に入らなければならないということです。


 しかし、神は終わりの日において自分の心は頼るが、世のすべての外的条件は捨てるように言われました。なぜ捨てるように言われたのかというと、それを完全に私たちのもの、私たちの所有にするためでした。いつまでも捨てるのではありません。過去に私たちの先祖が捨てたものを、終わりの日にあるこの地の人間たちが復帰しなければならないからです。先祖たちが捨てたこの地とこの地の万物までも見つけて立てなければならない摂理の意図がまだ残っているため、神は今まで苦労してこられたことを皆さんは知るべきです。


 だからこそ、今この時は一つの主義を中心に民主主義国家の形態を構成しており、さらにこの主義が世界的な潮流として現れる時が来ています。したがって、この主義を中心に世界的規模の物質文明と制度が結びつき、一つの統一的な形態を持ち始めています。このように外的なすべての条件が統一的な形態を持ち始めているのと同じように、この世界を探し求めなければならない私たち自身もこの摂理の流れに合わせて心と体の統一を自分自身の中で成し遂げていく必要があるのです。


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 そのような時が必ず来るため、皆さんの心と体の中で戦いが起こるのです。心は天に向かって進みたいと思っているのに、体は世の中に向かって逸脱した方向に進んでいるのです。心は理念を楽しみながら進もうとしているのに、体はそれから逃れようとしています。


 この戦いにおいて、皆さんは永遠を基準にして勝利していかなければなりません。そうなって初めて失われた神が皆さんの神となり、失われた皆さんの心と体を勝利の一身として、または神が望む心と体として見つけることができるのです。それだけでなく、皆さん自身の立場から一つの創造の世界を建設できることを理解しなければなりません。


 では、天が望む理念と、私たちの良心と体が望む理念と、霊界が望む理念がそれぞれの方向を取らず、一つの目標と一つの方向、一つの結果に向かって進む時がいつ来るのか?これが私たちが探し求める最終目標なのです。


 今日、この目標に向かうために私たち自身を再び考えてみると、私はどこから来て、どこから出発し、どこに向かい、どこまで行かなければならないのか?これが私たちが必ず解決しなければならない問題です。


 神の理念はどこから出発し、どこに向かい、どこまで行くのか?また、今日の私の心もどこからどこまで行くのか?私の体も同様で、この地も同様です。では、このように原因と結果がわからない立場で、その歴史的な問題を何をもって原因であり結果とするのか?原因と結果は一つなのです。私の体と心が帰結する一つの基準を確立するその一日を持たなければ、私の体と心を通じて世界に通じる時が来なければなりません。天は人間を通じてこの世界とすべての天地運勢が和動し、回転するその一日が来ることを望んでいます。

     30

 では、今日そのような意図に皆さん自身を立ててみると、皆さんの心と体は神の意図と世界の理念の前に批判されざるを得ない立場にあります。しかし、天はその理念から結果に連なるすべての歴史的条件を解決しなければならない責任があり、人間はその意図を成し遂げなければならない責任があるので、宗教を立ててきたのです。


 したがって今日の皆さんは、自分が生活するすべての形態が真理から外れることがない状態でなければ、世界の理念と自分の理念が一つになれないことを理解しなければなりません。では、天が私が存在する前から存在し、地も私が存在する前から存在していたことをどうやって知ることができるのか?また、私が存在する前の歴史的なすべての事実をどうやって知るのか?今日の人間はこれを知らないことにしてしまっています。


 では、これを知らない立場でどうやって私たちは完全に天と地を代替し、神の本質的な理念の前に立つことができるのか? 立つことはできません。今日の私の位置を明らかにするためには、宇宙的な原因と歴史的な原因を知らなければならないのです。これは必然的な事実です。これを考えるとき、それを探して自我回復運動を提唱する世界的な運動の時が来なければならないのです。つまり、何らかの主義や理念を中心に始まるのではなく、自分の位置を提案し、自我回復運動を引き起こすことができる一つの主義が現れなければなりません。しかし、その原因を知らない立場に立つと、その原因の結果が成し遂げられても、皆さんはそれを扱うことができないでしょう。


 では、今日そのような生涯を歩まなければならない私たちは何をすべきでしょうか?私たちは自分を回復する運動に参加できる自分であるか?今日の私の命は偶然の存在として、突発的な存在として生まれたのではありません。私の一個体は宇宙的な必然性、あるいは世界的な必然性、未来的な必然性を紹介するために生まれたことを理解しなければなりません。


 一つの国の民もその国の歴史を代替できる伝統の前に立たなければならず、その時代の前に一つの法的条件に従わなければなりません。今や世界的な未来の全体理念の前に新しい何かを残さなければなりません。これが私たちが生きている現実です。そうであるならば、今日宇宙的な世界理念を探していくことも同じです。したがって、私たちは自分を回復するための非常に小さなことから取り組む必要があります。


     31


 それだけでなく、今日私たちの前には、先に述べた世界的な問題が置かれているので、まず自分の問題を解決することが重要です。また、自分を解決すると同時に、今や結果的な世界が目の前にあるので、それと自分自身が関係を結ばなければなりません。したがって、どのようにしても解決できる一つの基点、つまり天と地と人間の心と通じる理念を見つけて確立しなければなりません。そして、それが一つの目的を指し示す刺激的な衝撃として残るとき、人間は過去の歴史的な悲しみと時代的な悲しみを忘れ、環境的な恐怖を乗り越えて、手を上げて天と地とすべての万象の前で誇ることができる人になるということを理解しなければなりません。


 宇宙を創造した神の理念の根本を解決するために努力している人々を導こうとした世界が、道の世界でした。しかし、これまで多くの道人がその原因を追及しましたが、まだ解明された中心をこの地上の人間の前に示すことができずに歴史は流れてきました。


 このように、これまでその根本問題を解決できずに流れてきた歴史、人類の先祖たちが持っていたその歴史が、今日皆さんが受け継いだ歴史です。したがって、今日この問題を解決しないと、これまでの人間の怨念の歴史が後代まで悲しみの歴史として残ることになります。それだけでなく、今後神がこの問題を解決することもできないのです。


 では、今日の私という存在は何なのでしょうか?私一個人は、世界理念と神が望む理念の世界を阻む存在なのです。だからこそ、私たちは未来に向かう歩みを進める前に、過去に戻り、過去のどのような条件が天倫の前に衝突を引き起こし、天の理念と矛盾したどのような歴史過程を経てきたのかを考えなければなりません。


 過去の歴史過程の悲しい条件を前にして、天の前に償いの条件を立てるために苦しみながら戦っている信者は、この地上に何人いるでしょうか? 自分の過去を忘れて未来の理念を求める人は多くいます。積み重なったすべての悪の根源を探し、それを解決するために今まで真の道を求めてさまよう人が多いのです。しかし、真理の頂点に立ち、それ以上の原因的条件を追求する歴史的な人物はまだ出てきていません。


     32


 未来の世界を紹介する理念が変わらない限り、未来の世界に対する人々の考えも変わることはありません。今流れている世界の終末に対する恐怖を逃れることはできず、混乱した世界の潮流を避けることはできないことを皆さんは知っておかなければなりません。


 未来の新しい理念にのみ耽る人々は、完全な理想主義者にはなれません。なぜなら、この世界の終末の一段階を越えなければ理想世界は成し遂げられないからです。審判の日とは、すべてが停止する日です。しかし、これまで人間は自分が持ってきた主義や思想や理念をもってすべてを通過させてきました。


 では、その通過の条件を解決するための最良の方法は何でしょうか?人間と神と天倫がこの地上の被造物とその原因的な衝突を解消する条件がなければ、倒れるしかありません。どんな主義、どんな思想もすべて消え去り、未来を語る潮流も一時的に消え去ってしまうのです。だから、それらがすべて消え去らないようにするためには、原因と結果を統一できる条件を見つけて確立しなければなりません。そうして、私一個体からその根本原因と結果を統一できなければなりません。そのときに初めて、私自身が6000年の歴史を代表する証拠としての実体的な供え物となるのです。


 では、今日私たちはどうすべきでしょうか?今日の現実世界を一掃できるように、つまりすべてを否定できるようにならなければなりません。言い換えれば、これまで欲しかったすべての欲望までもすべて一掃できる自分、すべてを統合して行動できる自分自身になっているかどうかが問題です。したがって、私たちの起源は未来にあるのではありません。未来には審判の門を通過しなければなりません。私たちが自分自身を復帰させることができるのは、神と人間、被造物に絡むすべての曲折の原因を解決することにあります。


 だからこそ、皆さんは心の声を聞くことができる耳を持つ人間にならなければなりません。皆さんが祈るときに「神様、この地上に慈悲の意を成し遂げてください。神様、世界の人々が平和を享受できるようにしてください」と祈っても、皆さんに平和な心がなければ、どんなに祈ってもその祈りは成就しません。


     33


 さらに、皆さんは聖書を深く掘り下げ、アダムとエバの堕落の原因を解明するだけでなく、万物を創造した神の内的な心情まで解明できる境地に達しなければなりません。2千年前のイエス様、6千年前の神の心情と同伴できる立体的な関係を持つことができるとき、皆さん自身は今日の現実にいながら、2千年前のイエスの心情と6千年前の神の心情を体感できるのです。


 歴史は6千年を経てきましたが、今日の皆さんはそのような心情を持たなければなりません。そのとき、神とアダムとエバの曲折の心情を探り、その心情を知った後に神を「父」と呼べるその権内に入ることができるでしょう。そのとき、その6千年の歴史は今日の私の歴史になるのです。そのような境地は、自分が引き込まれたのか6千年の歴史が引き下ろされたのか分からないほどの一体感のある場所です。この境地から今日の現実的な問題を解決する手がかりを見つけることができるのです。これがまさに霊的な体験を通じて知ることができる世界なのです。


 霊的な世界を体験するということは、4次元の世界を通るということです。また、そのような時に、何千年も前に来て去った先知先烈たちとも今日の私と縁を結び、対話もでき、相談もできるということです。つまり、今日の実際の生活の時間範囲内で私が経験でき、また肌で感じることができるのです。


 今日の世界の人々は仏教や儒教、あるいはキリスト教などの各宗教を信じています。しかし、信じている各宗教に満足してはなりません。宗教を信じさせた動機の主人公、またはその動機の主人公として現れた真理の言葉だけを信じてはならないのです。その言葉を踏み台にしてその内的な心情を知るべきです。つまり、現象の中に隠されている内的な心情が何であるかを解剖しなければならないのです。聖書の言葉をただ絶対的な救いの基準として立ててはいけません。今日これが問題です。それだけでは神の根本的な問題が解決されないのです。したがって、神はこれを突き破って進むことができる勇士を探しているのです。


 したがって、今日私たちはどんな保守的な思想に支配されるべきでもなく、どんな道主に支配されるべきでもありません。それを突き破り、どのような道主を立てた神と直接的に対話をしなければなりません。そうして自身の矛盾した問題を解決し、神の内的な心情の基準を確立しなければなりません。そのような基準を確立して進むことができる群れはないかと、神は今も探しているのです。もしそのような群れがあるならば、神は彼らを無視することはないでしょう。


     34


 世界のすべてをすべてさらけ出し再評価する時が来ました。どんな神学書、仏教経典、どんな経典もすべて列挙し再分析し、そこに実際の体験を通じて解決できる一つの基準、つまりイエス様の内的な心情や神の内的な心情が何であるかを見つけなければなりません。摂理がこうなった曲折の原因を解明できる信仰の勇者が出てくることを神は望んでいたことを皆さんは知っておかなければなりません。


 そしてこれが解決されて初めて、この原理を中心にして全体的な原理の解決点を見つけることができるのであり、終わりの日にこれが再び第二の原理として立てられ、第二の理念として認められるのです。これを実証するために、今皆さんはどうしても行かねばならない死線を越えなければなりません。この道を進むためには、世の中のどんなに親しい友人もどんなに親しい親もすべて後ろに置いて進まなければなりません。したがって、皆さんは誰とも一緒に進むことができない孤独な場所に立ち、無限の恐怖が迫る場所に向かって絶えず走らなければならない過程にいることを知っておかなければなりません。


 皆さんが無限に走るこの歴史の過程において、一つの中心を掴むことができなければ、ある時期にこの宇宙の見えない世界に追放されてしまうでしょう。そのような時期が必ず来るのです。それを指して宗教で使われる用語を借りて言うならば「地獄に行く」と言うのです。では、2千年前に来られたイエス様が、あれほど自信に満ちて勇ましかったイエス様がなぜ未来と現実を誇ることができなかったのでしょうか? 完全な原理的な解決点、歴史的な解決点を見つけられなかったため、現実と未来を誇ることができませんでした。


 しかし、今や私たちキリスト教徒は、悲痛な心情を持って現実を誇ることができるイエス様を現さなければなりません。そして未来を誇ることができるイエス様を現さなければなりません。しかし、未来を誇ることができるイエス様を迎える時が来るべきですが、なぜ来ないのでしょうか?歴史的な曲折の条件がイエス様をそのようにしたのです。イエス様が戦った目標は、歴史の過程を清算するための戦いであり、この現実だけを解決するための戦いではありませんでした。そして現在のキリスト教の戦いは、未来だけのための戦いではなく、歴史的な条件を解決するための戦いの中に留まっています。これが今日の現実のキリスト教の立場です。


 イエス様は30余年の生涯の苦労の道を通して、先知先烈たちが壊したすべての歴史的な条件を別の道として開拓しなければならない方向を取りました。しかし、その別の道を取ろうとしたときに誤解が生じました。その別の道をこの地上に作り出すことができなかったため、霊界で再びその別の道を探し、現実的な形の世界に繋げようとしているのです。


     35


 したがって、イエス様は霊界に行かれ、現実と未来の理念を探し、今日の地のための曲折の内容を再び第二次の道を通じて摂理してきた歴史が2千年続いてきました。イエス様はこの地上では拒絶されましたが、霊界では歓迎されました。しかし、イエス様がそのように霊界で歓迎される、つまりただ歴史的なイエス様として歓迎されるだけのイエス様ではなりません。


 では、時代的で未来的なイエス様はいつこの地上に来るのでしょうか?その方が今日私たちが探している再臨主であることを皆さんは知らなければなりません。未来のイエス様を探すためには必ず歴史的な過程をまず探さなければなりません。また、歴史的な原因を通してイエス様が霊界で歓迎された第二の環境時代を通じて現実的な過程まで体感しなければなりません。そうして今日イエス様が望んだ希望の一日を迎えて、その時に誇りたい現実と誇りたい未来の心情を代わりにすることができる自分にならなければならず、そうするためには今日自分の位置を見つけることができる自分にならなければなりません。








文鮮明先生御言葉選集 4 - 14. 野外礼拝で (1958年5月11日)
1958年5月11日(日)昼、三清公園。
マタイの福音書17:1-18


 イエス様はこの地上に来られ、人々には分からない天の心情を抱きしめ、イスラエル民族と霊界の霊人たちを代表して悲しみに満ちていました。当時、メシアを迎える準備をした人は多かったものの、来られたメシアを受け入れる人はいませんでした。

 また、その時のユダヤ教団とユダヤ民族が望んでいた希望は大きかったものの、その希望を成就するために来られたイエス様とは遠く離れており、神とも遠く離れていたため、イエス様はこれを解消するために非常に悲しい生活を送らざるを得ませんでした。それだけでなく、自分の心を開いて相談できる同志や弟子たちを一人も見つけることができませんでした。

    36

 そのため、誰にも知られずにゲッセマネの園やオリーブ山や変貌山のようなひと気のない場所を探し回られたのです。これを考えると、私たちは悲しまずにはいられません。また、イエス様がそのような山に登り、イスラエルの国とイスラエル民族を見つめて感じた悲しみと心配を共感する人にならなければなりません。

 イエス様が弟子たちと共に変貌山に登られたのは栄光を見るためではなく、十字架を前にして最後の話し合いをするためでした。そこで近々十字架にかかることについてモーセとエリヤと相談されたのです。この時、愛する弟子たちは、選ばれたイスラエル民族がイエスの心情を理解していないのを見て、神が限りなく悲しい場にいらっしゃることを知るべきでした。

 皆さんは、煌びやかな栄光に浸るよりも、切ないイエス様の心情を感じ取ることができる人にならなければなりません。今日、私たちが享受しているこの環境も、天がこの環境を作るために数千年の間、苦労してきたからです。この事実を忘れてはいけません。

 今日、この時代的な環境の中で喜び、満足する人は、天と遠く離れた人です。皆さんは、与えられた良い環境を楽しむよりも、その喜ばしい環境が現れるまでには神の心配と苦労の心情が計り知れないほど大きかったことをまず知らなければなりません。使徒として真に注目すべきことは、変貌山で起こった事実そのものではなく、宇宙的な決定の岐路に立たざるを得なかったイエス様の切ない心情です。私たちは外的な環境で喜んでいた弟子たちのようにならず、イエス様の心情と神の心情を慰めることができる真の息子娘にならなければなりません。

 私たちは民族的な範囲で天の先鋒としてサタンと戦わなければならない天の精鋭です。したがって、イエス様がゲッセマネの園で持っていたその決意と覚悟を私たちも持たなければなりません。

    37

 イエス様の内的心情を三人の弟子は知らなかったが、エリヤとモーセは知っていました。イエス様が十字架にかかることを決意された時、天から「これは私の息子。」(ルカ9:35)という声が聞こえ、天がイエス様に十字架の道を示した時、イエス様は恐れ多い心情で頭を下げられました。

 変貌山で三人の弟子がイエスの心情と天の内的心情を感じていたならば、ゴルゴダの道を一人で行かせることはなかったでしょう。私たちは変貌山のペテロやヨハネ、ヤコブのような後継者になってはいけません。私たちはイエス様の心情と事情と生活を継承する後継者にならなければなりません。今日、私たちは変貌山でイエス様が持っていた決意を再び持つべき時が来ました。

 私たちは生活の中で喜びや困難に直面する時に自分を表しやすいですが、イエス様は喜びや悲しみを自分中心に表しませんでした。イエス様は困難がある時、その困難を天に転じることなく、自分で責任を持って生きられ、歴代の先祖たちもまた同様でした。また、イエスは天の前で恥じ入る心を感じ、自分は神の息子でありながら自分自身が死の道を行くことよりも天をより心配されました。このようなイエス様とは正反対に、自分中心に栄光を求める人は困難に直面する時、天と分離されることを知っておかなければなりません。

 変貌山でのイエスは喜んでいませんでした。この変貌山での出来事と場面は、神や人間の誰もが知ることのない厳粛な場面でした。今日、皆さんはこの事実を自分を中心にして考えてはいけません。

 変貌山での三人の弟子たちは、輝くイエスの姿を見て「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしいことです。私たちは仮小屋を三つ建てましょう。一つは主のために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」(ルカ9:33)と言って、そこで永遠に留まろうとしました。このように三人の弟子たちは目に見える環境を楽しもうとしましたが、イエスの心情はそうではありませんでした。

    38

 その時に現れた変貌山の環境は良い環境でしたが、その環境に対するイエスの心情は歴史的な内なる悲しみと未来の悲しみに満ちた心情でした。しかし、三人の弟子たちはイエスがこのような悲しみの心情に浸っていたことに気づきませんでした。

 皆さんは過去の歴史的な悲しみに浸る背後関係を越え、最終的にはイエスを橋渡しとして神をつかみ、決着をつける位置まで進まなければなりません。また、悲しむこの民族の背後には、民族を代表して隠れた祭壇を築き、誠を尽くしている者たちがいることを知るべきです。

 教団を代表して涙を流す人は、祭司のような職分を持っているのです。ヤコブが21年間、誰にも知られず祈ったのも、神の摂理がアブラハムから三代にわたってつながっていることを知っていたからでした。彼はそのために民族のための蕩減の道を黙々と歩みました。モーセもまた、民族のためにファラオの宮殿での40年の生活とミディアンの荒野での40年間の祈りの生活を送りました。

 今日、民族のために悲しみの祈りを捧げる教団と涙を流す人がいるならば、彼らにはすでに祭司の職分が与えられているのです。しかし、天が皆さんに切迫した心情で天の前に決着をつける祈りをしたことがあるかと問う時、皆さんはどのような答えをすることができるでしょうか。今からでもそのような決意を持ち、終わりの時代を責任持って果たす力強い人材となるべきです。

 皆さんがいる場所がそのような環境でないとしても、その環境の中で実践しなければなりません。地域地域を責任持った変貌山のイエスのような聖徒たちが多く出てくる時、キリストの恨みが晴らされるでしょう。今日、私たちは昔の三人の弟子たちよりも多くのことを知り、イエスの心情と神の悲しい心情を晴らして差し上げることができる真の子供となるべきです。

    39

 その時代と今は時代的には遠く離れていますが、イエスの心情と直接的なつながりを持ち、慰めて差し上げることのできる後継者となることで、悲しみのイエスの心情を晴らして差し上げることができます。そのような人がいれば、変貌山の栄光をその人に引き継がれるでしょう。

 サタンに対する天の精鋭として立ち、民族と教団と種族を代表するペテロとヤコブとヨハネのような人々で構成された民族国家となる時、神の一つの意志が実現されるのです。

 今日、私たちのこの集まりは偶然の集まりではありません。イエス様と預言者たちが歴史の過程で努力してきた功労の祭壇の上に現れた私たちであることを知り、心を持つならば、イエス様以上の心と三人の弟子たち以上の心を持つべきです。そのような人々を天は求めています。

 私たちは追い詰められ追われることがあっても、自分個人の救いよりも民族と世界を目指す戦士となるべきです。今日、私たちが集まったこの場所を三人の弟子たちと霊界の霊人たちが見ているかもしれません。神を中心として歴史的で宇宙的な決意を持つ人がいるならば、その人に天と地の意志が引き継がれ、その人を通してその意志が実現されるでしょう。イエス様は天の前に変わることのない中心基準を立てたので、天もイエスを見捨てることができませんでした。

 今日、私たちは計り知れないほど貴重な存在です。そのため、私たち一人一人が誤ると、後世に永遠に恨みの痕跡が残ることになります。だからこそ、歴史と未来の永遠の時間にわたって変わらない中心基準を持つ資格者でなければなりません。イエス様が抱いた志を受け継ぎ、歴史、時代、そして未来の証人となるべきです。

    40

 また、イエス様が勝利の縁を結び出たことを、どの時代、どの環境でも証明する皆さんでなければなりません。

 皆さんの手と体と足は、民族と世界を代表して動いたことがありますか? 荒野をさまようイスラエル民族のような世界のキリスト教徒を見つめながら、私たちは2千年前のイエス様の心情を再び感じなければなりません。そして、天が内外の両面を見ているため、より悲しんでいることを理解すべきです。悲しみや逆境が問題ではなく、現実と未来を結びつけることのできる人間でなければなりません。生死の決断を下さなければならない時に逃げてしまうような弟子になってはいけません。もし皆さんに変貌山での勧告があるなら、それを命の導火線として無限の世界の意志を生活の中で実現しなければなりません。今日、私たちは命を責任を負う歴史的な先駆者でなければならないのです。

 変貌山でのイエス様の心情がここに現れたなら、革命の炎が起こっていたでしょう。つまり、天の心情を生活の中で確立したかどうかが問題なのです。今、私たちは具体的な内容を持って祈るべきです。天の無限の心情、悲しみ、無限の苦しみ、そしてその希望を感じる時、皆さんは歴史、時代、未来の計画と縁を結ぶことができるでしょう。

 イエス様が十字架を勇敢に越えることができたのは、神の悲しみと痛みの心を理解していたからであり、それゆえに民族と全人類、さらにはサタンのためにも祝福を祈ることができたのです。数千年もの間、無数の人々が神の心情を求めてさまよいましたが、それを理解したのはイエス様一人だけでした。神は歴史、時代、未来の理念を放棄することができないのです。それゆえに、私たちは今日、歴史的なすべての罪を蕩減しなければなりません。

 今日、私たちがこのような神の隠された内的心情を知るならば、一ヶ月、あるいは一年中泣き続けても涙は止まらないでしょう。私たちはそのように天の心情を体感しなければなりません。

    41

 私たちが民族の前で決戦をしなければならない時が来ました。実際にそうする人は民族を代表して祝福を受けるでしょう。皆さんはこのように使命が大きいことを理解すべきです。

 皆さんが無限の世界と縁を結ぶ時、イエス様と神様は皆さんに働いてくださるでしょう。この被造物も私たちの手を経なければならないのです。ですから、万物を創造し喜ばれた神がアダムとエバに与えた祝福を皆さんが実現しなければなりません。このような心を持ち、変貌山で苦悩されたイエスの友、ゴルゴタで苦難を受けられたイエスの友となるべきです。








文鮮明先生御言葉選集 4 - 15. 変貌山のイエスと三人の弟子たち (1958年5月11日)
変貌山のイエスと三人の弟子たち
1958年5月11日(日)三清公園


マタイの福音書17:1-18


 イエス様はこの地上に来られ、人々には分からない天の心情を抱きしめ、イスラエル民族と霊界の霊人たちを代表して悲しみに満ちていました。当時、メシアを迎える準備をした人は多かったものの、来られたメシアを受け入れる人はいませんでした。

 また、その時のユダヤ教団とユダヤ民族が望んでいた希望は大きかったものの、その希望を成就するために来られたイエス様とは遠く離れており、神とも遠く離れていたため、イエス様はこれを解消するために非常に悲しい生活を送らざるを得ませんでした。それだけでなく、自分の心を開いて相談できる同志や弟子たちを一人も見つけることができませんでした。

    42


 そのため、誰にも知られずにゲッセマネの園やオリーブ山や変貌山のようなひと気のない場所を探し回られたのです。これを考えると、私たちは悲しまずにはいられません。また、イエス様がそのような山に登り、イスラエルの国とイスラエル民族を見つめて感じた悲しみと心配を共感する人にならなければなりません。


 イエス様が弟子たちと共に変貌山に登られたのは、栄光を見るためではなく、十字架を前にして最後の話し合いをするためでした。そこで近々十字架にかかることについてモーセとエリヤと相談されたのです。この時、愛する弟子たちは、選ばれたイスラエル民族がイエスの心情を理解していないことを見て、神が限りなく悲しい場にいらっしゃることを知るべきでした。


 皆さんは、煌びやかな栄光に浸るよりも、切ないイエス様の心情を感じ取ることができる人にならなければなりません。今日、私たちが享受しているこの環境も、天がこの環境を作るために数千年の間、苦労してきたからです。この事実を忘れてはいけません。


 今日、この時代的な環境の中で喜び、満足する人は、天と遠く離れた人です。皆さんは、与えられた良い環境を楽しむよりも、その喜ばしい環境が現れるまでには神の心配と苦労の心情が計り知れないほど大きかったことをまず知らなければなりません。使徒として真に注目すべきことは、変貌山で起こった事実そのものではなく、宇宙的な決定の岐路に立たざるを得なかったイエス様の切ない心情です。私たちは外的な環境で喜んでいた弟子たちのようにならず、イエス様の心情と神の心情を慰めることができる真の息子娘にならなければなりません。

 私たちは民族的な範囲で天の先鋒としてサタンと戦わなければならない天の精鋭です。したがって、イエス様がゲッセマネの園で持っていたその決意と覚悟を私たちも持たなければなりません。

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 イエス様の内的心情を三人の弟子は知らなかったが、エリヤとモーセは知っていました。イエス様が十字架にかかることを決意された時、天から「これは私の息子。」(ルカ9:35)という声が聞こえ、天がイエス様に十字架の道を示した時、イエス様は恐れ多い心情で頭を下げられました。

 変貌山で三人の弟子がイエスの心情と天の内的心情を感じていたならば、ゴルゴタの道を一人で行かせることはなかったでしょう。私たちは変貌山のペテロやヨハネ、ヤコブのような後継者になってはいけません。私たちはイエス様の心情と事情と生活を継承する後継者にならなければなりません。今日、私たちは変貌山でイエス様が持っていた決意を再び持つべき時が来ました。

 私たちは生活の中で喜びや困難に直面する時に自分を表しやすいですが、イエス様は喜びや悲しみを自分中心に表しませんでした。イエス様は困難がある時、その困難を天に転じることなく、自分で責任を持って生きられ、歴代の先祖たちもまた同様でした。また、イエス様は天の前で恥じ入る心を感じ、自分は神の息子でありながら自分自身が死の道を行くことよりも天をより心配されました。このようなイエス様とは正反対に、自分中心に栄光を求める人は困難に直面する時、天と分離されることを知っておかなければなりません。

 イエス様は変貌山で喜んでいませんでした。この変貌山での出来事と場面は、神または人間の誰もが知らない厳粛な場面でした。今日、皆さんはこの事実を自分を中心にして考えてはいけません。

 変貌山の三人の弟子たちは、輝くイエス様の姿を見て、「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしいことです。私たちは仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」(ルカ9:33)と言って、そこに永遠に留まろうとしました。このように三人の弟子たちは、見える環境を楽しもうとしましたが、イエス様の心情はそうではありませんでした。

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 その時の変貌山の環境は良い環境でしたが、その環境に対するイエス様の心情は、歴史的な内なる悲しみと未来の悲しみに満ちた心情でした。しかし、三人の弟子たちはイエス様がこのような悲しみの心情に浸っていたことに気づきませんでした。

 皆さんは、過去の歴史的な悲しみに浸る背後関係を越えて、最終的にはイエス様を橋渡しとして神をつかみ、決着をつける位置まで進まなければなりません。また、悲しむこの民族の背後には、民族を代表して隠れた祭壇を築き、誠を尽くしている者たちがいることを知るべきです。

 教団を代表して涙を流す人は、祭司のような職分を持っているのです。ヤコブが21年間、誰にも知られず祈ったのも、神の摂理がアブラハムから三代にわたってつながっていることを知っていたからでした。彼はそのために民族のための蕩減の道を黙々と歩みました。モーセもまた、民族のためにファラオの宮殿での40年の生活とミディアンの荒野での40年間の祈りの生活を送りました。

 今日、民族のために悲しみの祈りを捧げる教団と涙を流す人がいるならば、彼らにはすでに祭司の職分が与えられているのです。しかし、天が皆さんに切迫した心情で天の前に決着をつける祈りをしたことがあるかと問う時、皆さんはどのような答えをすることができるでしょうか。今からでもそのような決意を持ち、終わりの時代を責任を持って果たす力強い人材となるべきです。

 皆さんがいる場所がそのような環境でないとしても、その環境の中で実践しなければなりません。地域地域を責任持った変貌山のイエス様のような聖徒たちが多く出てくる時、キリストの恨みが晴らされるでしょう。今日、私たちは昔の三人の弟子たちよりも多くのことを知り、イエス様の心情と神の悲しい心情を晴らして差し上げることができる真の子供となるべきです。

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 その時代と今は時代的には遠く離れていますが、イエス様の心情と直接的なつながりを持ち、慰めて差し上げることができる皆さんが、悲しみのイエス様の心情を晴らして差し上げることができます。そのような人がいれば、変貌山の栄光をその人に引き継がれるでしょう。

 サタンに対する天の精鋭として立ち、民族と教団と種族を代表するペテロとヤコブとヨハネのような人々で構成された民族国家となる時、神の一つの意志が実現されるのです。

 今日、私たちのこの集まりは偶然の集まりではありません。イエス様と預言者たちが歴史の過程で努力してきた功労の祭壇の上に現れた私たちであることを知り、心を持つならば、イエス様以上の心と三人の弟子たち以上の心を持つべきです。そのような人々を天は求めています。

 私たちは追い詰められ追われることがあっても、自分個人の救いよりも民族と世界を目指す戦士となるべきです。今日、私たちが集まったこの場所を三人の弟子たちと霊界の霊人たちが見ているかもしれません。神を中心として歴史的で宇宙的な決意を持つ人がいるならば、その人に天と地の意志が引き継がれ、その人を通してその意志が実現されるでしょう。イエス様は天の前に変わることのない中心基準を立てたので、天もイエス様を見捨てることができませんでした。


 今日、私たち一人一人は計り知れないほど貴重な存在です。そのため、私たち一人が誤ると、後世に永遠に恨みの痕跡が残ることになります。だからこそ、歴史と未来の永遠の時間にわたって変わらない中心基準を持つ資格者でなければなりません。イエス様が抱いた志を受け継ぎ、歴史、時代、そして未来の証人となるべきです。また、イエス様が勝利の縁を結んで出てきたことを、どの時代、どの環境でも証明する皆さんでなければなりません。

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 皆さんの手と体と足は、民族と世界を代表して動いたことがありますか?荒野をさまようイスラエル民族のような世界のキリスト教徒を見つめながら、私たちは2千年前のイエス様の心情を再び感じなければなりません。そして、天は内外の両面を見ているため、より悲しんでいることを理解すべきです。悲しみや逆境が問題ではなく、現実と未来を結びつけることのできる人間でなければなりません。生死の決断を下さなければならない時に逃げてしまうような弟子になってはいけません。もし皆さんに変貌山での勧告があるなら、それを命の導火線として無限の世界の意志を生活の中で実現しなければなりません。今日、私たちは命を責任を負う歴史的な先駆者でなければならないのです。

 変貌山でのイエス様の心情がここに現れたなら、革命の炎が起こっていたでしょう。つまり、天の心情を生活の中で確立したかどうかが問題なのです。今、私たちは具体的な内容を持って祈るべきです。天の無限の心情、悲しみ、無限の苦しみ、そしてその希望を感じる時、皆さんは歴史、時代、未来の計画と縁を結ぶことができるでしょう。

 イエス様が十字架を勇敢に越えることができたのは、神の悲しみと痛みの心を理解していたからであり、それゆえに民族と全人類、さらにはサタンのためにも祝福を祈ることができたのです。数千年もの間、無数の人々が神の心情を求めてさまよいましたが、それを理解したのはイエス様一人だけでした。神は歴史、時代、未来の理念を放棄することができないのです。それゆえに、私たちは今日、歴史的なすべての罪を蕩減しなければなりません。

 今日、私たちがこのような神の隠された内的心情を知るならば、一ヶ月、あるいは一年中泣き続けても涙は止まらないでしょう。私たちはそのように天の心情を体感しなければなりません。

 私たちが民族の前で決戦をしなければならない時が来ました。実際にそうする人は民族を代表して祝福を受けるでしょう。皆さんはこのように使命が大きいことを理解すべきです。

 皆さんが無限の世界と縁を結ぶ時、イエス様と神は皆さんに働いてくださるでしょう。この被造物も私たちの手を経なければなりません。ですから、万物を創造し喜ばれた神がアダムとエバに与えた祝福を皆さんが実現しなければなりません。このような心を持ち、変貌山で苦悩されたイエス様の友、ゴルゴタで苦難を受けられたイエス様の友となるべきです。


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御言葉選集4(11,12)

2024年07月13日 17時15分50秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 4 - 11. 神様が望む真の息子になろう (1958年4月20日)
神様が望む真の息子になろう
1958年4月20日(日)、前本部教会


聖書拝読:ローマ書 5:12-21


     1


 今日、この時間に『神様が望む真の息子になろう』という題で、皆さんに少しお話ししたいと思います。


 皆さんが真を求めようとする時には、真を求める心が必要であることを感じなければならず、天と地が喜ぶことのできる真理を求めたいならば、皆さんの体が自ら真の体になるための真の相対基準を備えなければならないことを理解しなければなりません。


 このようなことを考えると、真なる神様、真なる真理、真なる人間はそれぞれ存在方式が異なりますが、内的基準においては同じ方向に動いているのです。つまり、神様と真理は同じ方向に永遠に存在するということです。


 今日、私たちが生きているこの地を見て、誰もがこの世界が真の世界ではないことを嘆いています。また、自分自身を振り返り、真の自分ではないことを嘆き、信仰の道を歩みながらも真の神様を求めても見つけられないことを嘆いています。これが信仰者の苦痛であることを皆さんはよく知っているでしょう。


 では、神様はどのようなお方であり、真の真理はどのようなものであり、真の人間になるためにはどうすればよいのか、それを示す思想、皆さんが求める思想はいつ現れるのでしょうか?それを確実に知ることができないまま、迷宮に陥っている皆さんは何を求めるべきでしょうか?皆さんはまず、自分を中心に何を主張する前に、それが自分の真の個体を代替できるかどうかを見極めるべきです。そして、自分自身が真の立場に立っているかどうかを確認しなければなりません。さらに、天地万物を創造された神様の前で真の姿で立てるかどうかを見極めなければならないのです。


     2


 このようなことを考えると、今日、私たちは真の世界に住みたいと願っても真の世界に入ることができず、真の人間になりたいと願っても真の人間になれず、真の神様を求めたいと願っても真の神様を見つけることができないという状態にあります。これが今日の人間の悲しみであり、何よりも大きな人間の悲哀であることを皆さんは感じなければなりません。もしこのような重要な事実を感じることができないならば、皆さんは真の人間、真の真理、真の神様と結びつくことができません。


 今日、この世が堕落した世界であることは誰もがよく知っています。俗な世界であり、罪悪の世界であることをよく知っています。だからこそ、人間はこの罪悪の世界を切り裂き、永遠に楽しめる善の世界、永遠に和合できる一つの真の人間、永遠に信じることができる一つの主人公を求めて今日まで苦しんでいます。この世の終わりが近づくほど、新しい世界を探しに行かなければならない時が近づいていることを忘れてはなりません。


 では、このような立場にある自分自身を考えると、一方では悪が支配しようとし、他方では善が支配しようとしていることを感じます。しかし、私たちはまだ悪の支配権から抜け出せていないと感じる一方で、善が私たちを導こうとしていることを、良心が清くなるほど鋭敏に感じるようになります。


 そのため、悪の支配下にある自分を蹴り出し、善の理念で自分を支配しようとする世界を求める時には、誰もがこの苦難の過程を通過しなければならないのです。聖書の本文を見ても、堕落したアダムによって今日の全人類は罪の血統を受け継いだ堕落の子孫となりました。2000年前もそうであり、4000年前もそうであり、6000年前もそうであったのです。創世記以降、アダムとエバが堕落した以降、今日、この地上に生きているすべての人間はサタンが主権を持っている環境下に生きています。自分自身だけでなく、家庭も同様であり、社会も国家も世界もすべてその状態にあることを理解しなければなりません。


 では、今日、このような悪の主導的な権限がどこまで及んでいるかと言うと、創造の神がいらっしゃるなら、その創造の神の膝元まで、また天の御座があるなら、その天の御座までサタンは自分の権限を表そうとしていることを皆さんは悟らなければなりません。


     3


 罪悪の事件が起こったその日から今日に至るまで、神も悪に対する苦痛を感じていると同時に、人間も悪に対する苦痛を感じています。もし我々人間に対する神の真の摂理の意図があるならば、その摂理の意図は何を目指して進んでいるのでしょうか?神が悪を裁くことのできる一日、人間自身も悪を裁くことのできる一日に向かって進んでいることを皆さんは悟らなければなりません。


 では、今日、数十億の人類がこのように罪悪の主権下で苦しむことになった原因はどこにあるのでしょうか?それは、神の愛の権限から神の永遠の理念を受け継ぎ、全ての子孫にこれを遺産として残さなければならなかったアダムが失敗したことにあります。そのため、元々の神の意図とは反対の世界となり、今日まで人類は死の歴史を紡ぎ出してきたことを皆さんは忘れてはなりません。


 死の歴史がこの地上に始まったその日から、この地は平和の地ではなく、苦痛の地となり、死がこの地上に腐敗し始めたその日から、人々が置かれる場所はどこも平和ではなく、争いの歴史を歩んできたのです。個人においては個人的な争いがあり、家庭においては家庭的な争いがあり、そしてこの争いが民族的な争い、さらには世界的な争いへと広がり、世界のどこにも争いのない場所がない歴史を紡いできたことを皆さんは知るべきです。


 このような争いの歴史の過程で、最初に追いやられ、裂かれ、犠牲となったのは誰だったのでしょうか?地上に生きる人々の中で、悪を追う者たちではなく、真を求める者たちだったのです。


 これを皆さんは原理を通じてよく知っています。では、私たちが生きているこの地の歴史を考える時、この地に満ちている悪に対する憤りと敵意が皆さんの体に感じられる時があるでしょうか?しかし、この地を踏む時、この地が悪の血で染まった地ではなく、善の血で染まった地だと考える時がありますか?そのような時はあまりないのです。


     4


 天を中心に戦う歴史の過程で捧げられるべき犠牲者は、本来悪に属する人々であるべきですが、最初に犠牲となったのは、善を求める苦しい集団だったことを歴史を通じて皆さんはよく知っているでしょう。


 一人のアダムの罪により人間はどうなったのでしょうか?人間は1600年後のノアの時代に下された天の洪水審判を免れることができず、神は洪水審判を行いましたが、ノアの家族が完全に罪の根を絶つことができなかったため、神の悲しみは完全に断ち切られることができなかったのです。


 そのため、神は洪水審判の後にアブラハムを召し、またヤコブを召しました。これらの人々もまた、この地上で不幸な犠牲者の道を歩ませたのです。さらに、モーセもまた犠牲の生涯を歩み、イエスもまたこの地上で犠牲の生涯を歩んだのです。


 そのため、善の世界を憧れ、善の世界を実現しようとした人々、つまり個人であれば個人、家庭であれば家庭、または社会であれば社会、国家であれば国家が、まず犠牲の道を歩んだのです。今、アベルとカインを中心としたアダム家庭の争いが今日、世界的な規模で現れる時が来ました。それゆえ、これから起こる世界的な善と悪の争いにおいて、善のための犠牲者となる人々は誰かと言うと、真を求める人々なのです。


 今日、このような世界に身を置きながら、世の中のことをすべて忘れ、人間たちのために誰よりも涙の祭壇を多く築き、天の心情を見習って生きようとした人々が歴史の過程でこのように虐待され、戦ってきたことを、今日心の深くで考える時がないならば、皆さんは摂理の意図を持ち続けてきた神の善なる意図と結びつくことはできません。


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 これまで悪は外的に現れる権限を持って世界を支配してきました。しかし、人に心があるように、世界の歴史にも心があります。歴史の方向が悪に向かって進んでいるように見えるかもしれませんが、そうではありません。人間が自分の心を中心に体を抑制し、新たな覚悟と決意を持って進む方向を選ぶように、歴史も歴史そのものが志向するのではなく、ある時期、ある世紀に歴史の背後にいる神が関与し、支配してきた過程を経ていることを知るべきです。


 では、これを一つの時代を中心に考えると、ある時代に神の意図が現れ、天の意図と地の意図が出会う時には、天と地を代表する一人の主人公が現れました。そして、どの歴史の過程においても、神の摂理の意図と結びつけることができる時が来ると、その主人公によって時代的な革命が起こり、それが世界的な革命段階を経て宇宙的な革命段階へと歴史が発展していくのです。


 今日、堕落したこの人類の歴史を振り返ると、悪が地を支配してきたことがわかります。創世記の言葉のように、天地万物を六日間で創造しましたが、未だにその創造された万物は安息の日を見つけていません。したがって、その安息の日は今もなおすべての人々の前に願望として残されています。神の安息の日として残されるべき安息の日、この安息の日を人間が持つことができなかったため、今までこの被造世界、すなわち全実体世界は安息の日を見つけるための戦いの歴史の過程を経てきたのです。


 そのため、六日間の創造の理念を破壊した人間が、6000年の歴史の中で苦しみに耐え、天の実体的な善の歴史を憧れるこの歴史が神の摂理の歴史なのです。この六の数はサタンに奪われましたが、ある部分は神が関与できる条件が残っているため、たとえある時代が腐敗し、すべてが腐っていったとしても、時代を経ながらそれをある時に打ち破り、新たな摂理の歴史を提起する革命を起こしてきたのです。では、このような摂理の意図を受けて善を志向してきた人々はどうなったのでしょうか?彼らは必ず犠牲となってきたことを皆さんは知るべきです。


 神はアダムとエバを創造した後、「天地万物の主人公となり、神に代わって万物を支配せよ」と祝福されました。今日の人間世界にはそのような天的な祝福の理念が付与されていますが、この理念を実体として成し遂げた人はまだ一人もいません。それで今までの歴史の過程は、この宇宙を支配できる支配的で主体的な理念を求めてきたのです。このような歴史を、天は古代から中世を経て現代に至るまで、時代ごとに摂理してきたのです。


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 天が人間にこのような摂理の意図を責任として担わせる時には、中心人物を立てます。その人がその時代全体を支配し、天の理念の中に結びつけるためにある人を立ててきたのです。言い換えれば、神はこの地を対象として、時代と世紀、または歴史の過程を通じて何を求めているのでしょうか?時代を代表する人、全世界を代表する一人の人、世紀を代表する一人の人を神は求めてきたのです。さらに、天と地に代わって主張できる一人の天の人を探しているのです。


 今日、全人類が終わりの日に直面しているとすれば、その終わりの日とはどのような時でしょうか?歴史的な神の摂理から見ると、時代性を代弁し、世界と宇宙の摂理を代弁し、未来の世界と天宙的な摂理を目指して人間の理念が動き出す時なのです。


 では、今日、悪の支配の影に置かれている私たちに対して天が要求することがあるとすれば、それは何でしょうか?それは皆さん一人一人に尋ねることです。終わりの日に直面する皆さん一人一人が、歴史の過程やある時代の代表者の立場を取ることができるか、または世界的な何かの使命を代行して天の前に現れることができるか、さらには今日、この世界を代表する真の一人の人として現れることができるか、さらに霊界と肉界を合わせた天と地の前で贖罪者としての資格を持つことができるかということです。そのような人がいるなら、神はその人を探し出すでしょう。


 今日、私たちがこの時代を終わりの日だと言っています。キリスト教の理念を通じて見ると、審判の日、すなわち終末が私たちの目の前に迫っています。では、その終末とは何でしょうか?それは、世界的な終末期において、そのすべての使命を背負い、天に向かって叫び進んでいく一人の人が、個人から世界の人類、さらには天と地までを一つにするその日が審判の日であることを皆さんは知るべきです。


 今日、私たちが生きている罪悪の世界で、すべての人々が楽しむことのできる理念を切り開いていく時、神は働きます。では、神に創造された私たちがどのようにして神の心に残ることができるのでしょうか?私の心と体が一つとなり、神の前に自分を主張でき、アダムに与えられた祝福を完成した人、すなわち第二のアダムとして神の前に調和することができる人として現れなければなりません。もし、そのような皆さんになれないならば、皆さんは神と心情的な関係を結ぶことはできません。


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 神様はこの終わりの日に世界を代表し、神の法を持ち、堕落の侵略を受けず、罪悪の歴史と無関係な真の一人の人を探しています。最終的にこの世界が求めているものは何でしょうか?人間が期待するものは何でしょうか?それは神の真の子供になることです。つまり、私たちが天の愛を持つ真の人間になることが私たちの願いですが、真の人間になるためにはどうすれば良いのかという問題を私たちは考えなければならないのです。


 では、人間がこの地に生まれる時の目的、生きる目的、成し遂げるべき目的は何だったのでしょうか。しかし、人間は何をすべきであり、何のために生きるべきなのかを知らずにいるので、もし神がいるなら、その神は憤慨しているでしょう。神はどの時代、どの瞬間も休むことなく、天と地を代表できる一人の人を探し、待ち望んでいます。しかし、それを知らない人間たちは、自分たちの罪の大きさを感じることもなく、それさえも忘れています。


 それでもなお、厚かましく天に向き合っている人間たちを見て、一度に裁きたいと思う神に代わり、一つの種となるその一人が現れなかったため、神の摂理の歴史はこのように遅延してきたことを皆さんは知るべきです。


 神は歴史の過程で多くの人を犠牲にしてきましたが、それを条件として真の一人の人を探し出そうとしてきたのです。それにもかかわらず、人間は厚かましく天に向き合っているのです。神は自ら創造した人間を愛することができませんでした。そこで復帰の摂理を進める中で、神は自らの計画を必ず成し遂げようとされました。神は、一つの善から繁殖すべきものが悪から繁殖したため、それを逆に戻す歴史を進め、一つの善の起点を作り、一つの結実点に結びつける摂理を進めてきたのです。


 では、神の悲しみは何でしょうか?全ての天地万物を創造したその創造の理念を代わり、その理念を所有するだけでなく、その理念の主導的な権限を持って神の前に立つことのできる真の人間がいないことが悲しみなのです。霊的な祈りをする人は、終わりの日に神が失われた善の主人公を立てることを望んでいるという声を聞くでしょう。


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 これまでの歴史の過程には完全な善はありませんでした。道徳的な生活や信仰生活において善を自称して行動した人はいましたが、完全な善とは関係がありませんでした。ただ今日までの歴史の過程では、悪が悪と戦っているように見えましたが、そこには見えない内的な戦いもありました。今日の道徳的な生活や信仰生活は、永遠の勝利を保証する善を紹介する生活ではなく、悪に対して善を犠牲にした、つまり償いの生活です。


 イエス様は地上で30余年の苦難の道を通して、その内的な理念を確立しましたが、生活の側面においては完全な善を成し遂げることはできませんでした。サタンの世界にあって、悪と対立し、償いの犠牲として善を紹介したのです。それにもかかわらず、今日まで真の人間が現れていないため、イエス様は悪と対立して戦うために今も楽園で祈っておられます。ですから、皆さんは自分が何をしたかを誇らないでください。皆さんが行った善は、悪を償うための条件にはなりますが、永遠の善の世界の基盤にはなり得ないのです。世界でどんな権限や地位を持っていても、それを誇ることはできません。


 イエス様も天の皇太子であり、万宇宙の主人公であり、万王の王として来られましたが、自分を誇りませんでした。悪との戦いが終わるまでは、自分を誇ることはできませんでした。イエス様が自分を誇らずに耐えたのは、ある日、天の法度を完全に確立するためであったことを皆さんは理解すべきです。


 イエス様は悪が支配する世界に置かれていましたが、善を中心とした理念の世界が将来現れることを知っていました。だからこそ、イエス様は善の世界がこの悪の世界の深い場所にある捨てられた群れの中にあることを知り、「貧しい者に福音が伝えられる」(マタイ11:5)と語られました。貧しい者は良心的な立場にあるため、天が悲しんでいることを誰よりも感じやすいのです。したがって、キリスト教が血の祭壇を経て、捨てられた歴史の過程を歩んできたのは、終わりの日のためであったことを皆さんは知るべきです。


 神やイエスが人間や教団に命令したことはないため、自分の主義や主張を誇る人、または教団を支えて自分のもののように誇る人は必ず打ち破られます。今まで十字架を通じて築かれたキリスト教を神やイエスが完全に支配したことはありません。だからこそ、神は多くの苦難の道を切り開きながら、全ての人間を完全に支配できるその一日を待ち望んで努力してきました。


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 そのため、その過程で自分を主張する人は必ず打ち破られます。天倫とは順序の原理原則を指します。神が天地万物を創造したなら、まず神が天地万物を支配し、その後に人間が支配するのです。その順序を無視して人間が先に支配することはできないのです。


 では、打ち破られる運命にあるならば、戦いの過程を経て目的地を見つけた後に私たちはどうすべきでしょうか?第2の善の理念を創造しなければなりません。このようなことが今日再び必要とされています。今日の人間はこれを理解する必要があります。しかし、それを知らずに、それを暗黙のうちに期待しながら信仰しているのです。その意図が成就する日がまさに信仰的な復活の日であり、あるいは世界的な再臨の日であるのです。


 今日まで神が失われたものを探し求めてきたのは、人間を支配する能力がないからではありません。今日までサタンの訴えを受けながら戦ってきたのも、神が力を持たないからではありません。原理原則を確立するためでした。神はサタンを前に立て、サタンが成し遂げたことを整理する歴史を進めてきました。サタンが最初に支配したものを整理することは、サタンが訴えることができないということです。したがって、最も賢明な人はサタンさえも立てて使い走りにできる人です。今日、そのような人がいれば、その人は最終的な勝利者となるでしょう。


 イエス様は世界を支配する指導者として来られましたが、一番下の立場に立ち、全ての人を前に立たせようとされました。一見すると落伍者のようでしたが、実際には無限の知恵を持つ方でした。サタンが最初に行ったことを修正してきたのです。サタンを前に立て、最前線で戦わせ、神は後方で戦いを整理してきたのです。これが神の作戦です。サタンは先頭の一面しか持てず、両面を持つことはできません。


 したがって、死なずに復活したイエスの前に拒否されたマグダラのマリアのような信者ではなく、復活したイエスを迎え、道を案内できる人がその時代に一人でもいたなら、今日私たちは未知の聖書だけを頼りにしていなかったでしょう。未知の信仰世界で苦しむこともなかったでしょう。


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 皆さんが今まで苦労してきたのは、自分自身が救われるための苦労であり、人類の全ての罪を完全に償い、神が喜べるような苦労ではありませんでした。そのような苦労をした人は、これまでサタン世界の歴史的人物の中に一人もいませんでした。


 では、歴史的な全ての債務を償い、神の恨みを晴らし、慰めることができる人とはどのような人でしょうか?それは、自分の罪の因縁を父の前に心配の対象として残さず、自分の全ての行動が天の意志のために尽くしたといえる新しい歴史の先駆者たちです。そのような人々が多い民族は、神の全権的な理念を占有し、世界を支配することができるでしょう。


 イエス様も人類を救うために十字架の道を歩みましたが、その救いの意志を成し遂げても神を慰め、喜ばせることはできませんでした。終わりの日の私たちは、そのような生活をこの体を使って成し遂げなければならないのです。


 では、イエス様が終わりの日の聖徒たちに対して待ち望んでいるものは何でしょうか?それは、天の内的基準まで見つけ出し、6000年間私たちを慰めてくださった神をむしろ慰める人、2000年間人類のために尽くされたイエスに代わって尽くすことができる人々になることを望んでいます。そのような人になって初めて、天の全ての債務を償った資格者として天の前に堂々と立つことができるのです。イエス様はこの地に来て、言いたいことをすべて言えずに去りました。イエス様は「まだあなたたちに言いたいことがたくさんあるが、今はそれを受け入れることができない」(ヨハネ16:12)と言われました。


 ですから神は、この歴史的な転換期において、その大きな全体的な債務を償い、歓喜と栄光の中で世界の人々を祝福し、この民族を祝福し、この教団を祝福し、一人一人を祝福し、さらに霊界にいる多くの霊人を祝福することができる真の人々が現れることを望んでいます。


 したがって、皆さんはその大きな因縁を今日の自分が持っていることを認識し、天と地の前に一つの犠牲として立つことができる人になるべきです。そうして初めて、歴史的な全ての債務を償ったという条件を備えた人になれることを心に留めておくべきです。
















文鮮明先生御言葉選集 4 - 12. 6千年の間に残された負債を誰が担当するのか (1958年4月27日)
1958年4月27日(日)、前本部教会


聖書拝読:マタイによる福音書 18:15-35




 皆さんは、自分が歴史的な借金を背負っていることを感じる時が必要だと思います。私たちはこの地に生まれる時にまず親の血と肉を受け、その後に地の恩恵を受けて生きています。さらに、心を中心に見れば、永遠の天が私と関わりを持ち、私の命を守ってくれていることがわかります。しかし、表面的には多くの人が幸せな場所に立っているように見えますが、実際には幸せを感じていないのはなぜでしょうか?その原因はその人自身にあるのではなく、相対的な何かと関わっているからです。しかし、人々はこれに気づいていません。


 では、人間の不幸の原因は何でしょうか?人間はこれまでこの不幸の原因を解明し、完全に喜び、幸せになる時を迎える前に「幸福」という名詞を使ってきました。しかし、「幸福」という名詞を使うことはできても、実際に幸福な生活をしたことがないのは、歴史的な過程を通じてよく経験してきたことです。


 では、なぜ人間は幸福と満足を得られなかったのでしょうか?それは、私たちが言葉にできない借金を背負っているからです。これが核心的な問題です。私たちに負わされた借金を清算しない限り、個人、教団、国家、世界に幸福は訪れないということを皆さんは理解しなければなりません。


 皆さんが生まれる前から想像もできない悲しみの歴史、闘争の歴史が展開されてきたことを皆さんはよく知っているでしょう。また、自分の人生を中心に見たとき、その心と体を中心に無限の闘争の交差点を通り過ぎながら生きていることもよく知っています。さらに、自分の前後、左右、上下を考えるとき、天と地の前に言い表せない借金を背負っているのに、それに気づいていません。私たちの祖先が天と地の前に残した重荷を償わず、罪悪の血統を受け継いで生きている悲しみの存在であることを考えずに生きている人が多いのです。


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 天は私たちを理想的な世界に導くために努力していますが、私たちは何をどうすべきでしょうか?私たちは手を挙げて天と全ての万象の前に借金を負っていることを認めなければなりません。また、全ての万象の前に負った借金を返す手立てがないことを認めなければなりません。自分自身を分析してみると、私の体と心、そして私の家族も私のものでないことがわかります。


 では、三千世界の前に不変の姿でこれらが私のものであると誇れるその日はいつ来るのでしょうか?これは全人類が共通の理念の下で解決すべき歴史的な問題です。私たちは借金を負っており、3つの親の借金を負っています。つまり、血と肉の親と、私たちの体を構成してくれた地と、天から受けた命の因縁に対する借金を負っているのです。したがって、人は3つの親の因縁を離れて生きることはできません。私たちの生涯を分析すると、私たちは物質的な面で地の前に借金を負っており、血と肉の親の前に、そして天の前に言い表せない多くの借金を負っているのです。


 では、今日、皆さんは自分自身を中心にして、果たして天の前に、地の前に、そして親の前に借金を負っていることを痛感したことがありますか?これを考えるとき、皆さんは地に対して頭を下げなければならない自分であることを認識する時が必要です。また、親が負わせた借金を考えると、その前にも頭を下げるべきです。そのような心情を中心に永遠の理念を探すための天の努力の借金が私の心と接しているのです。


 したがって、天は皆さんに、天の努力に対して頭を下げ、感謝の心を持ったことがあるかと尋ねるでしょう。また、私たちを育ててくれた親たちも尋ねるでしょう。皆さんがそのような立場に立つとき、「私と私の子孫に及んだ借金をすべて返しました」と自信を持って言える自分になっているでしょうか。


 今日、私たちは自分でも知らないうちにこのような環境的な借金を背負っていることを知らなければなりません。それだけでなく、神はそのような人々を目覚めさせるため、または人間が背負った歴史的なすべての借金を清算するために努力していることを知らなければなりません。


     12


 今日、皆さんが背負っているその借金は清算しなければならない借金であることを、皆さんは知ってもいないし、理解もしていません。しかし、人間を創造した神は、人間が背負ったその借金を清算し、ひとつの方向へ進むことができるようにするために、人間は考えもせず夢にも見ないが、そのような心配を持って長い歴史の過程を摂理してきました。もしこのような神の摂理を理解するなら、皆さんはどのような心を持って感謝すべきかを見直すべきです。


 私が考えていない時間にも、天は私たちのために心配してくださっていました。私が自分自身を愛し、自分の快楽のために奮闘している時にも、天はそうではありませんでした。エデンの園でアダムとエバが堕落して以来、神は6000年の長い年月の中で、人間に血統的に背負わせた罪悪の歴史と社会的に伸びてきた罪悪の歴史、そして天上において結ばれた罪悪の歴史を断ち切るために、今まで休まず努力してこられたことを皆さんは知るべきです。歴史の過程で多くの先祖が天を裏切り、反抗したため、本来ならば神は人間を罰して裁かなければならない立場にありました。しかし、神はむしろ人間に拒絶される悲しみを経験してこられました。そしてその人間を一度も手放すことなく、その人間のために尽力してこられました。


 では、天はなぜ人間に対して、私たちの先祖に対して努力してこられたのでしょうか?人間が背負ったその荷物と借金を人間自身で償還し復帰させることができなければ、6000年の間努力してこられた神の尽力は無駄になってしまい、人間が探し求めてきた道の理念もすべて無駄になってしまうからです。手を出さなかったなら別ですが、一度手を出した以上、神は6000年の間人間がこの地上で負ってきた歴史的な借金を償還し清算できる人を探し出さなければなりません。


 今日、私たち人間に歴史的な借金を償還し清算できるようにするために、神は今日も明日も努力されるでしょう。そして今まで数千年の歴史を耐えながら選ばれた民族を立て、ある橋を架けて歴史的な罪と借金を清算しようとしてこられました。ですから、神はそのような民族を探し求めています。さらに、ある教会を探し求めると同時に、ある個人を探し求めているのです。このような神の存在を皆さんは心で感じるべきです。


 では、喜びと栄光に満ちて万宇宙を支配すべき神の立場がこのような困難な立場に変わったのは誰のせいでしょうか?言うまでもなく、今日の人類のせいだと考えれば、皆さんはその神を抱きしめて慰めなければなりません。しかし、個人のレベルの慰めでは天の心を慰めることはできません。歴史的な悲しみの心情を理解し、全人類的なレベルで共感できる心と体を持たなければ、神の中に染み付いている歴史的な悲しみと現実的な悲しみを清算することはできません。


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 天には、このような使命を持った一人を教会や民族を代表して立てる歴史的な基準があります。そのため、そのような個人を見つけ出し立てるために尽力してこられました。そして、4000年の尽力を経て立てられたのが、まさにイエス・キリストでした。


 ですから、イエス・キリストは一個人でありましたが、その背後には歴史的な縁があり、その当時の時代的な縁があり、未来的な縁がありました。しかし、その事実を知っている人は誰もいませんでした。


 イエスは自分の幸福や自分の快楽のために生きたのではありません。また、自分一個人の栄光のための希望も持っていませんでした。そのようなことから離れ、4000年間人類が背負ってきた歴史的な全体の借金をどう清算するかという心配をしていたのです。


 イエス様は天の悲しみを引き起こしているサタンと、そのサタンが人間に対して持つ訴えの条件を妨げて、人間を天の前に勝利的な姿で立たせようとしました。自らのすべての生涯をかけて歴史的なすべての借金を清算するために立ち上がったのです。


 ですから、彼の言葉はその当時の言葉でありながら、4000年の歴史を経てきたすべての人々、すなわち霊界にいる数千万の霊人たちまでも聞かなければならない言葉でした。さらに、イエス様の言葉はその時だけでなく、その後の永遠の時間をかけて、千秋万代の後の子孫たちまでも聞かなければならない言葉でした。イエス様はそのような信念を持って語っておられました。


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 しかし、そのような言葉を語っているイエスの前で、彼の心情を通して友になろうとする人は一人もいませんでした。ですから、イエスは進むべき道を見つけるべきイスラエル民族が進むべき道を見つけられず、天の懐に抱かれるべき選ばれた民が天の懐を拒絶したため、言い表せない悲しみの心情にぶつかったのです。


 イエス様が涙を流されたのは、4000年間苦労してきた神の心情を代弁する悲しみの涙でした。イエス様は4000年の歴史を経て来られた多くの預言者たちが待ち望んでいた希望の実体だったので、彼が涙を流せば霊界にいる多くの預言者たちも涙を流さざるを得ない、そういった立場に立っていたのです。これを考えると、地上に来て公生活の道を歩まれたイエスの前で、私たちの先祖たちが責任を果たせなかったことがわかります。そして今日、その子孫である私たちにその責任を果たす歴史的な使命が残されていることを理解しなければなりません。


 イエスの宇宙観は4000年の歴史を貫くだけでなく、その当時の世界観や未来にまで繋がっていました。しかし、イエスを従っていたその当時の人々は、自分を中心とした生活観を持ち、自分を中心とした世界観を持って生きていました。この事実を比較すると、イエス様とその当時の人々との間には生活や生涯、考え方において著しい違いがあったことを理解するべきです。


 このような立場にあったため、イエス様は全人類の罪と借金を償還するために努力されましたが、そのすべての罪悪の借金を償還すべき人々と密接な関係を結ぶことはできませんでした。それにより、イエス様はイスラエル民族に対して4000年間努力してきた神のその苦痛の心情を感じざるを得ない悲惨な立場に立たされました。


 では、このような苦痛が私たちとイエス様の間で解決されたのでしょうか?まだ解決されずに残されたままです。真にイエスの心情であり、私たちの心情であることが結実する時間を探しているのが、今日まで努力してこられた神の願いであり、イエス様の願いであり、今日の私たちの願いなのです。ですから、今日皆さんは自分の細胞一つ一つにまで歴史的な悲しみが染み込んでいることを感じるべきです。また、皆さんは時代性を無視できない存在であるため、皆さん自身には時代的な悲しみが潜在しており、さらに未来に対する責任も皆さん自身にあることを感じるべきです。


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 イエス様が地上に来られ涙を流されたのも、人間が背負った借金を償還するためでした。ですから、イエス様は涙の道、裏切りの道を死を覚悟して切り開いていかねばならなかったのです。そして、死んで復活された後も地上の人間のために働かねばなりませんでした。イエス様は自分がこの地上に生まれた以上、人間の歴史的な悲しみの心情までも解放しようとされたのです。


 では、イエス様は地上に何を残そうとされたのでしょうか?サタンに蹂躙されていた善良な人々の涙の跡を自分自身に体験し、この怨念の心情を胸に刻み、さらに天と地とサタンの前でそのすべての歴史的な悲しみを清算する責任を負う覚悟を持った神の子供たちを残そうとされたのです。そのような神の真の子供たちが現れなければ、神は永遠に不憫な立場に置かれることを知っておられました。さらに、彼を従っていた弟子や、今日まで2000年間殉教の道、血のゴルゴタの道を歩む人々もまた不憫な立場に置かれることを知っておられました。


 では、未来を責任を持つ人は誰でしょうか?今日の皆さん一人ひとりです。神は責任を負うことができないのです。もし神が責任を負えるのであれば、6000年という長い年月は必要なかったのです。その責任と使命は神がすべて担うのではありません。今日の私たちがしなければならないのです。


 だからこそ、イエス様は人間を代表して地上に来られ、霊と肉を中心にして4000年の歴史の借金をすべて清算しなければなりませんでした。そして、イエス以降すべての人類はサタンの前で訴えられるような借金を持つことがあってはならなかったのですが、イエス様がその使命を果たし切れずに亡くなったため、多くの人類は再びそのすべての借金を引き継ぐことになりました。これを振り返ると、イエス様は今も神の前で頭を上げることができず、贖罪の祭壇を築いて祈っておられるという事実を皆さんは知るべきです。


 このような立場では、どれだけ自分のために富と栄光を求めようとしても幸福を感じることはできません。どれだけ満足しようとしても満足することはできません。しかし、天にいる多くの聖徒たちと地上のすべての人々は、共に喜ぶことのできるその一日を待ち望んでいることを皆さんは知るべきです。


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 したがって、私の手は疲れることのない手であることを知るべきであり、私の手の後ろには歴史的に血を流した過程があることを知るべきです。また、私の体は生き生きとした体に見えますが、この体は裂かれ、傷だらけであることを知るべきです。そして、私にどんな喜びがあってもただ喜ぶのではなく、その喜びは歴史的な犠牲の代価として生まれたものであるという事実を皆さんは知るべきです。また、天が流した涙がこの地を満たし、天が流した血の犠牲がこの地の谷を満たすほどの犠牲の過程が私によって存在したという事実を実感するべきです。


 イエス様の一生に染みついている悲しみを解き放つことができなければ、歴史的な神の心に深く刻まれた悲しみを将来誰が責任を負うのでしょうか?道の探求をすればするほど、人間は天に対して恐れ多い気持ちを抱かざるを得ません。私たちはそれぞれが負った借金を返さなければならない立場にあるため、与えることにおいては個人のために、さらに天のために与えることができるようになるべきです。この道が皆さんに残されています。


 したがって、皆さんはさらに遠くに向かって進みたいという心の方向性を感じるでしょう。しかし、そのような心を抑えて自分自身のために動こうとする人、家族を中心にして進もうとする人は受け入れられません。自分の民族を中心にする主義を持つ人も同じです。国家も同様です。だから、今日私たちが進むべき方向は、天の理念を中心にした個人として、家族、国家、世界へと進むことです。したがって、皆さんは今や個人を超えて、種族や民族、国家、世界のために生きるべきです。さらに6000年の歴史に結びつくもののために生きるべきです。天はこのような個人、家族、民族、国家を探しているのです。


 なぜなら、神は天地万物を創造された方として、天と地全体を統治すべき存在であり、特定の地域を支配する存在ではないからです。したがって、皆さんが神に対して「父」と呼べる神の子供たちになるためには、神が指向する世界について少しでも考えなければなりません。そのときに神と縁を結ぶことができるのです。


 これまで多くの主義や思想は変遷してきました。しかし、それが地上で一つの理念形態を経た後には、宇宙の根源である神と一体化できる天主主義的な形態を成すべきです。これが必然的な歴史的統一の地点として残るべきです。


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 イエス様はゲッセマネの園で「私の望むようにではなく、あなたの御心のままになさってください」(マタイ26:39)と祈られました。しかし、ここで言う「父の御心」とは、過去、現在、未来の理念だけでなく、創造以前の理念も含まれています。


 イエス様は個人のために与えようとしたときに、ある個人がそれを妨げれば、その個人を断ち切りました。家族のために与えようとしたときに、ある家族がそれを妨げれば、その家族を断ち切りました。社会のために与えようとしたときに、社会がそれを妨げれば、その社会を断ち切りました。国家のために与えようとしたときに、国家がそれを妨げれば、その国家を断ち切りました。したがって、天と地のために与えようとする時代が来たときに、それを妨げるものがあれば、それを断ち切るのです。


 今日、私たちがそのような天の全体の意志を償還し、天の理念世界を望んで進むと言うならば、天が私たちを6000年間育て、愛を与えてきたように、私たちもそのような心の持ち主になるべきです。天はまさにそのような人になることを望んでいることを私たちは考えなければなりません。


 世界の原則は「与え、受ける」理です。したがって、世界のために与える民族は世界を支配するでしょう。皆さんが人生の終わりを迎える時、つまり運命の時に、皆さんはどのような言葉を残すでしょうか?イエス様は異端の頭とされて十字架にかけられ、死に際しても「成し遂げられました」(ヨハネ19:30)と言われました。つまり、イエス様は世界のためにどれほど心配されたかというと、死を覚悟し、サタンと戦いながら世界の人類を心配されたのです。したがって、皆さん自身もこの地上で命を終える日に「父よ、成し遂げました」と祈れる者になるべきです。


 では、イエス様は地上でどのような人を探されるのでしょうか?自分の使命を引き継いで「父よ!イエスよ!」と呼び、「成し遂げました」と言える一人の主人公を探されているのです。したがって、私たちは心を開いて今日のこの民族のために心配するのではなく、明日のこの民族のために心配して進み出る人々になるべきです。今日のこの世界のために心配するのではなく、明日のこの世界のために心配できる人々になるべきです。私たちは一歩先を行くべきです。


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 なぜなら、私たちはまず天の意志を知ったからです。地の人々が知らない一つの世界的な理念を探すべきです。したがって、そのような心を持ち、現実を乗り越えて進み出る一つの姿が必要です。そして、現実的な天の悲しみを償還し、歴史的に矛盾したすべてを踏み越えていくことで、歴史的に絡まったすべてに対する償還的な条件を立て、清算することができるのです。


 だからこそ、皆さんが神秘的な境地に入ってみると、終わりの日の聖徒に対して、天にいるイエスが羨ましく思い、無数の聖徒や神までもが羨ましく思っていることがわかるでしょう。それだけでなく、この地も、歴史の過程でのすべての人間も、時代と場所を超えてそのような人を探しているのです。


 したがって、皆さんは今が世界に対する摂理の時であるのか、個人に対する摂理の時であるのか、民族に対する摂理の時であるのかを見極めなければなりません。また、自分自身のために生きるべき時なのか、それとも他の何かのために生きるべき時なのかを見極めなければなりません。そうして、皆さんが世界を超えて未来の天主的な天国理念を目指して生きることができるその時において、神を呼べば、神は全世界の祝福を皆さんに与えるでしょう。しかし今日の人間は、新しい世界を創建すべき飛躍的なこの峠を残しておきながら、歴史と今までの習慣的な環境に支配されています。


 では、それを超える勇気を持つ人は誰でしょうか?私たちが歩む道には、十字架の道も良いし、苦難の道も良いし、どんな道でも乗り越えなければなりません。イエス・キリストが残された道、最終のゴルゴタの道を死なずに乗り越えなければならないのです。復活したイエスを捕まえようとしたが拒まれたマグダラのマリアのような人になってはいけません。当時、イエスを捕まえ導ける一人の人、または彼の弟子が地上にいたなら、今日私たちはよくわからないこの聖書を信じてはいなかったでしょう。未知の信仰世界で苦しむこともなかったでしょう。


 皆さんがこれまでに努力してきたのは、自分自身が救われるためであって、神のためではありませんでした。自分の罪を完全に償還して神が喜べる人は、歴史的な人物の中に一人もいませんでした。では、神の歴史的なすべての借金を償還して神を慰めることができる人とはどのような人でしょうか?それは、自分の罪を抱えて父を心配させることなく、自ら天の善の意志に属して努力する人でしょう。そして、天の善の意志のために尽力するそのような新しい時代の先駆者がある民族の中に多く現れるほど、その民族は天の全権的な理念を占有し、世界を導くことができる民族になるでしょう。


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 イエス様も救いの意志を成し遂げるために十字架の道を歩みましたが、救いの意志を完全に成し遂げて神を慰め、喜ばせることはできませんでした。ですから、終わりの日にいる今日の私たちが、この肉体を持っている間にそのようなことを成し遂げなければなりません。


 イエス様は終わりの日の聖徒たちがそのような心の基準を見つけて立てることを望んでいます。そして、今日まで努力してきたイエス様に代わって努力できる人になることを望んでいます。そのような人々になって初めて、歴史的に借りたすべてのものを償還した資格者として天の前に立つことができるのです。イエス様はこの地に来て、言いたいことをすべて言わずに去りました。イエス様が「まだあなたたちに言いたいことがたくさんあるが、今はあなたたちがそれを受け入れることができない」(ヨハネ16:12)と言われたことを知るべきです。


 歴史的な転換期において、この大きな借金を償還し、神と共に歓喜と喜びに満ちて手を取り合い、個人を祝福し、教団や民族、世界の人類を祝福し、さらに霊界にいる多くの霊人を祝福できる人々が現れることを天は望んでいます。これを確実に理解しなければなりません。


 したがって、皆さんはこのように大きな天の因縁を、今日の小さな自分自身が持っていることを認識し、天と地の前に残された借金を清算する一つの犠牲として立つことができる自分自身を持つ人になるべきです。そうして初めて、歴史的なすべての借金を償還した条件を備えた人になれるのです。


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御言葉選集4(8,9,10)

2024年06月29日 18時46分26秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 4 - 8 「真の牧者と真の羊の群、偽の牧者と偽の羊の群」(1958年4月6日)

1958年4月6日(日曜日)、前本部教会。

聖書拝読:ヨハネによる福音書10章1-21節


祈り

 お父様! 二千年前、あなたはイスラエル民族を選び、彼らに心と身体の両面であなたの心情を共感させることを望まれましたが、私たちはあなたの御心がまだ成就されていないことをよく知っています。

 イスラエル民族が正しいことと間違ったことを見分けられないことを感じざるを得ませんので、あなたの許された言葉を中心にして、正しいと誤りを明確に見分けさせ、生きていけるように導いてください。私たちはあなたの心に従うことができる者となることを熱望し、願っています。

 あなたの心を通して私たちが言葉に従おうと努力していますが、私たちはいつも神の御心に従って生きていないことを認めています。あなたが私たちを選ばれた時、それは私たちだけのためではなく、国民のため、世界のためにもであり、私たちはそれを知っていますので、あなたの御心に従って私たちを導いてください。

 お父様、この堕落した不信心の社会環境を耐え忍び、今まで私たちが選ばれたことに感謝します。この世界がどんなに悪くなろうとも、私たちが天の前に堅く立つことができるように導いてくださり、感謝します。イスラエルの不信心のために苦しみを受けることになったイエス・キリストの立場を思わずにはいられません。彼は天の悲しみを代わりに語られ、信仰に基づく行動であり、あなたを中心としたものであったことを私たちは知っています。

 今、最後に、私たちが人類の罪を贖うために、あなたの心と結びついて私たちの心と身体に導いてください。この地上には多くの信者がいますが、イスラエル民族の中で本当にあなたに従った人はいなかったように、今日、新しいイスラエルとしてのキリスト教はあなたの御心を知らないため、計画の全体の意志を受け継ぐことができませんでした。お父様、あなたの御心を通して私たちを満たし、私たちを導き、永遠にあなたの使命を受け継ぐことができるように導いてください。
    1
 たとえ多くの打撃や迫害、引き裂かれることがあっても、あなたが望む一つの生命を持つことができる場合には、私たちがいつまでもあなたに勝利をもたらすことができるように、私たちを導いてください、愛するお父様、熱心に願い、望みます。

 多くの不信心者がいたと知っていますが、天の御心に対応する天の命を持っている人はいなかったと知っています。イエス様はこの地上に来られて天の命を示そうとされましたが、彼を追う者がいなかったために一人で行かれました。今日、私たちが全人類の光となり、イエス様の使命とその意志を受け継ぐグループとなるように導いてください、愛するお父様、熱心に願い、望みます。

 今日、ここに集まったあなたの息子たち、娘たち、どうか天の御情を知り、御心を心に留め、天の意志のために立ち上がったか、教会のためにどれだけ努力したかを反省できるように導いてください。ただ正義のために、私の心と身体を捧げることによって、歴史的な意義を達成し、主の御事を心に刻み、生命の主人となれるように導いてください、愛するお父様、熱心に願い、望みます。

 天の意向と私たちの心を結びつけ、父の意志を成就させようと誓う貴重な時間をお与えください。神の計らいにより、愛を持ち、お父様の意志を責任持って遂行できるように許してください。天の意向に共感し、ただお父様の道を歩むことを許してください、お父様、熱望し、願います。 お父様の意志ならば、生涯をかけても、お父様に従い、私たちの心はあなたの命を求め、私たちの体はあなたの命の道を探し、ただお父様の意志を中心にして生きることを許してください。切に願い求めます。

 ここに集まったあなたの息子娘たちが、お父様の言葉と意向を受け入れ、全人類を復活させることができ、お父様の前で忠孝の心を捧げることができるように許してください。私たちの心を導き、父の意志のために逡巡なく従える者となるように許してください、切にお願い申し上げます。
    2
 この説教の時間に、語る者と聞く者の心に隙間がないように許してください。サタンが一切介入できないようにしてください。お父様の本来の領域に帰還しようとする真の命が湧き出るように許してください。お父様、私たちに対して恵みと愛を与え、お父様の意志を中心に生きることができるように許してください、切にお願い申し上げます。すべての言葉を主の名によって述べさせていただきます。アーメン。


<説教>

 今日は皆さんに「真の羊飼いと偽の羊飼い」と題して少し話をさせていただきます。
 ここに座っている皆さんは、多くの人々がどのように生きるべきか迷っているのを見て、彼らの心と体を一つにして一つの方向に導くことが難しいことを感じているでしょう。個々の視点から見ても、心が向いている方向と体を一致させるには大きな決意と努力が必要だと理解しているでしょう。

 ですから心を意志で動かし、体を意志で応じさせることが、歴史的にも大きな仕事であり、私たち人間にとって極めて重要な課題であることを皆さんはよく理解している必要があります。
    3
 地上に住むどの人も、自分の希望を実現するために生活面でまたは他のどの面で行動したいと願う人は誰もいません。人間が心を中心にして体と一体化して動きたいとするのは、歴史的な状況から人間の切実な願いとして成り立っており、天からの刺激を受けているからです。これは人類のために幸せなことですが、その事実自体は悲しいことではないと言えるでしょう。

 社会的には権力と名誉を享受しているとしても、心を中心にして自分の体を一つにできない人は、それが彼にとって不幸なことであることを自覚しなければなりません。

 私たちの心は無形の天と関係を持ち、私たちの体は有形の地と密接な関係を持っていることを否定することはできません。私たちは小さな存在かもしれませんが、私たちの心と体は非常に大きく広い世界と繋がっていることを自分自身で感じることができるはずです。このように私たちの心と体は小さいかもしれませんが、非常に大きなものと繋がっているため、心は天の世界と、体は終末時代に訪れる歴史的な理想的な世界との関係を築くように、皆さんの周囲の環境は皆さんを促していることを理解する必要があります。

 皆さんがそれぞれそのような立場にあることを理解し、特に考えなければならないことは、「私は天の前にどのような存在なのか?」ということです。皆さんはこれを考える必要があります。今日、皆さんの心に平安と喜びがあるとしても、それが永遠に続くためには、皆さん個々が天の上に永遠の喜びと幸せな環境を創り上げなければならないということですが、皆さんはそれを達成していないということです。
    4
 これから私たちはこのような難関を乗り越えて、私の身体と心が一つになれるようにして、私の心が望む善の理念に依存して、私の身体が望む理念と関係を築く喜びを見つけなければなりません。そうすることで、皆さんは天国に行っても永遠の幸福を楽しむことができるのです。

 天が要求する心の中心が天に応じるようにするためにはどうすればよいか、ということが問題です。この問題を皆さんが解決しなければなりません。神様はこの問題を常に心配しておられます。

 今、皆さんの心がどこに向かうべきか?まず、皆さん自身から始めて、身体と心が一つになり、天を代わりにし、地を代わりにすることができなければなりません。そして、たとえそのような能力を持っていたとしても、自分の幸福だけを求めてはいけず、全体の幸福を求めなければなりません。そうしなかった場合は、過去を反省し、批判しなければなりません。また、将来についても自己を分析していかなければなりません。

 宇宙的な成功者とは、私の個人を中心にして心と身体が一つとなり、世界の終わりに訪れる歴史的な理想世界と関連づけられる一つの基準に達することができなければなりません。このような道を知って、天巡の意志に従って生きていくというのならば、皆さんは幸福感を感じるでしょう。私の身体を心に反映させ、身体の動きが心に従うことで、天巡を代わりにすることができると自称できるということです。そうした皆さんに認められる場合は、天巡を中心にして皆さんの身体と心が世界を代表することができ、喜びを感じさせ、神様と愛の関係を築くことができるのです。

 ですから、皆さんは心を重視して心と身体が一つになり、地上のどんな要素と衝突しようともそれを超える力を持たなければなりません。そのため、どんな状況でも安全な位置にいられる人間にならなければなりません。このような人々を結集して家庭を形成し、教会を形成し、国家を形成し、さらには神様自身と関係を築くことが神様の意志であることを皆さんは知らなければなりません。
    5
 ですから、今はお金がないから泣く時ではありませんし、名誉や権力がないから泣く時でもありません。そのような外的条件がどれだけ整っていても、それが皆さんを永遠に幸せにする条件にはなりません。しかし、歴史的な試練を振り返ってみると、そのような外的条件を整えるために涙を流し、命を賭けて戦った人は多くいましたが、内的な条件を整えるために涙を流し、命を賭けて戦った人は少なかったです。

 では、イエス様はどのような方でしょうか? イエス様はそのような外的条件を遮り、停止させ、内的な条件を立てるために涙を流し、命を賭けて戦った方でした。皆さんが宗教を信じるようになったときに最初に感じるのは何でしょうか? それは心の中で戦いが行われていることです。しかし、その戦いで何が敵でしょうか? それは身体です。このような実体を中心にした闘いで勝利して、天巡と一体化したように、天巡と一体化した心を重視して、その心と一体化した身体を所有したというのであれば、その人は宇宙的な成功者であるでしょう。

 神様の天理法度が不変の法度であるのに、この天巡の法度と調和できる心を持ち、その心の基準の前に身体が調和して一つになったというのであれば、このようになった化身を変更しようとする存在は地上に何もないということです。

 それでは、今日の私たちが生きている地上では、外的条件を立てるためにも言えないほど激しい闘争を展開してきましたが、この外的条件の中心となる内的条件を立てるための闘争がないとしてはならないでしょう。このような抵抗のない歴史的な変革がなくては、内的な革命を引き起こして外的なすべての事実を是正する方法はないということを知らなければなりません。今、私たちが心配しなければならないことは外的な世界に対する心配ではなく、内的な世界に対する心配ということです。

 しかし、私たちはこれまで私自身の生涯の過程でどのような外的条件を見つけるために指導者を求め、外的な領域で友達を求め、外的な環境で自分の理念を立てようとしましたが、これらは永遠のものではありません。
    6
 私の存在は一つであっても、外的な条件を追求する世界と内的な条件を追求する世界、この二つの世界の間で葛藤を経験する立場にあることを知るべきです。天はこのことを知っているため、あなたが悲しい立場で万民のために他人が好む道を避け、他人が嫌う道を歩むこの歴史的な過程を開拓しながら進んで来たことを理解すべきです。あなた自身は個人ですが、個人ではありません。あなた自身にこのような形の事実が含まれていることを知るべきです。では、あなたは心と体が一つになり、天に対して要求できるその日を持っていますか? 天はあなたの前にこれを問い詰めるでしょう。

 外的な条件を立てる世界で内的な条件を立てようとすると、世間から疎外される歴史的な過程を避けることはできません。したがって、終末には自分でも知らない世紀末的な恐怖の時代に巻き込まれるでしょう。

 このような現象がなぜ起こるのかと言えば、外的な中心を打破して内的な中心と一体化させるためには、社会的な条件、習慣的な条件、認識的な条件、観念的な条件が内的な条件の前で脅かされ、無慈悲に捨て去らなければならないからです。そのため、自分でも知らない恐怖に包まれることになるのです。

 では、このような時にイエスは終末の聖徒に何を求めているのでしょうか?外的な条件を遮断し、内的な条件を立てることを強調しているのです。今日、あなたに世の中の友人や師がいるならば、外的な理念を中心にしている友人や師であるのか、内的な理念を中心にしている友人や師であるのかを分析すべきです。また、教団や国家、世界も外的に関係を結ぶ方向に流れているのか、内的に関係を結ぶ方向に流れているのかを注視すべきです。

 今、あなたはこの終末を迎え、この地でどのような道主を見つける前に、まず本来の心を見つけるべきです。これを見つけるために、キリスト教では祈りを通じて外的なすべてを断ち切り、神の心情を求め、仏教では禅定を通じて6000年前の人間本来の心を求めています。このようにしなければならないことが人間にとって歴史的な悲哀であることを知るべきです。
    7
 ここにいる皆さん! もしかして体を中心にして主張する人がいますか?それは天倫の前に反逆者です。なぜなら人間はまだ体と心が合わさって全宇宙の前に誇ったことが一度もないからです。つまり、心と体が一つになり、人と創造主が一つになったことが今まで一度もないということです。心と体が一つになり、創造主と私が一つになるこの時間を持てなかった存在として、体を中心にして生きる自分をどうして天の前に誇ることができるでしょうか?天は到底許容することはできません。天倫が誇らないものを誇る人も裁きにかかります。本来、天がまず誇る真心と体でなければならず、その後に万物が誇るのが原則であるからです。

 今日、あなたは天を探し、真理の道を探し求めたと言います。しかし、天と地を代表する真理があるとしても、あなたがその真理と関係を結ぶためには、まずあなたの心と体が一つになり、心が悲しむときに体が悲しみ、体が悲しむときに心が共に泣くその一日を持たなければなりません。あなたがこのようなことを信仰生活の過程で体験できなければ、決して天倫の前に立つことはできないということを知るべきです。

 今、天倫の意志を成し遂げる時が近づいてくるに従い、人間の心は天倫の意志と関係を持っているため、自分でも知らずに焦燥感と渇望感が生じるのです。だから、アメリカのような国がいくら経済的に社会的に豊かな生活をしていても、心の虚しさと焦燥感によって自殺する人が急増しているのです。

 では、私は心を中心にして何を見つけるべきでしょうか?あなたの心の中に何の理由もない悲しみが湧き上がるとき、それがあなたの師であることを知るべきです。終末の裁きが近づくにつれ、心がそれを感知できるため、自分でも知らずに悲しくなるのです。したがって、あなたは心で自分でも知らずに孤独と焦燥感を感じるとき、その心の友となることができる体を持つために努力すべきです。個人を中心にしてもそうですが、民族を中心にしても同様です。

 この地上に天倫の意志を代行することができる民族がいるとすれば、その民族は他のどの民族よりも悲惨な環境に置かれる現象があり、また個人においても、そのような人が現れなければならないのです。あなたは今、そのような立場に置かれていることを知るべきです。そしてこの現象が世界的に起こると同時に、あなた自身を見たときにも、心を中心にして体を必ず三度は打たなければならない時が来るのです。しかし、堕落した人間は霊的な五感が鈍く、それを知らないのです。しかし、天は人間に必ず天倫の時を知らせる使命があります。どの人の心を通じてでも、啓示を通じてでも三度は知らせなければならない責任があります。
    8
 しかし、人の体は心と反対の立場にあります。心は内的であり、体は外的であるので、心が偽りであり体が真実であると言う人は一人もいません。したがって、私の心を中心にして私の体を打ち負かして従わせた人だけが新しい理念の世界を体験できるのです。これは私個人だけで起こるのではなく、教団を中心にしても起こります。

 世の中には多くの宗教や教団がありますが、神の意志に完全に合致する教会は一つもありません。天が存在するならば、必ず真理の中心を立てて、その場所を中心にして内的な分野と外的な分野との関係を築くことが起こるでしょう。また、世紀末の現象として教派と教派の間の闘争が起こるでしょう。どの宗教であれ、他の何であれ、これが個人から始まり、家庭・教団・国家・世界の順に起こります。国も内と外の両面性を持ち、世界も左と右に分かれています。本来はこれが一つにならなければならないのです。

 本来の世界を望み、天の理念を望む皆さんは、他の人々がどのような環境で迫害しても、その困難に打ち勝てずに歴史を壊してしまうことがあってはなりません。皆さんは心を中心に団結し、まず内的な基盤を築き、次に外的な基盤を探し求めなければなりません。そして、神を中心とした私個人を超え、家庭・社会・国家・世界を探し求め、さらに天と地まで探し求めることができるようにしなければなりません。

 では、一つの世界、一つの理念を探し求める人間にとって最も重要な問題は何でしょうか? 一時的に存在して消えてしまう国家や世界の理念が問題ではありません。権力が多く地位がどれほど高くてもそれが重要なことではありません。二つの世界を一つにできる理念とその主人公が問題です。

 人間を見たとき、心を中心とする内的な世界と体を中心とする外的な世界があります。世界がこのように二つの世界に分かれているのと同様に、霊界も天が支配する善の領域の霊界があり、サタンが支配する悪の領域の霊界があります。
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 皆さんは、神の6000年の摂理の終結点が私一人の体にあることを知っていますか?体と心を統一できる一つの原則を持たない人は、世界の人類を導くことも支配することもできません。これが問題の中の問題なのです。神がいないから問題なのではなく、イエス様がいないから問題なのではありません。最初に私が一つになれないことが問題なのです。

 人には誰しも二つの道があります。一つは世の中に出て行く道であり、一つは世を捨てて天倫に向かう道です。これが反映されて、外的な理念を標榜する唯物史観があり、内的な理念を標榜する唯心史観があります。では、この二つの史観がいつ一つになるのでしょうか?これを一つにする調整をどこから始めるのでしょうか?これが大きな課題です。

 神がこの被造世界に対して摂理を行うときも二つの世界に対峙することになります。神が対する心の世界と体の世界があります。このように、私たちは神が二つの方向から摂理を行っていることを一つに結びつけることができる一人の人がこの地上に現れることを望んでいることを知るべきです。

 神も内的な分野を通じて求めるものがあり、外的な分野を通じて求めるものがありますが、内的な分野の世界が外的な分野の世界を吸収する日を迎え、この二つの世界を統一しようとするのが神の摂理の目的であることを知るべきです。

 したがって、今日、摂理の意志を受け継いで進んでいく宗教において、革命があればあるほど発展しています。打たれれば打たれるほど、ぶつかればぶつかるほど、むしろ繁栄しています。これが天の蕩減復帰の歴史というものです。まず打つ者が負けるのが天理法度です。第一次世界大戦においても、最初に打った方が負け、第二次世界大戦においても最初に打った方が負けました。したがって、第三次世界大戦においても最初に打つ方が負けるでしょう。
    10
 世の人々はしばしば他人を先に攻撃することを好みます。しかし、先に攻撃する者は天が許さないのです。今日の教会でも互いに他人を非難し、批判することを好む者が多いですが、先に攻撃する者を天は決して許さないでしょう。
 今日、世の中に対して心配している人は多くいますが、自分の心を中心にして体が一つになっていないことを心配する人は少ないです。

 ここに集まった統一教会の家族の皆さん! あなたたちは国と世界を心配しなければなりませんが、まずは自分自身が心を中心にして体が一つになっていないことを心配してください。心を中心にして体が一つになった人々が集まり、国を作り、世界を作ることが神が私たちに本当に望んでいることです。神の望みがこれであるならば、世界を心配する際にもこのような人々が集まって心配することを望み、国について心配する際にもこのような人々が集まって心配することを望むでしょう。このようにすることが信仰者の真の態度です。このためにイエス様が来られましたが、その意志を成し遂げることなく帰られましたので、再び来られてその意志を成し遂げようとするのです。

 では、主が再び来られて成し遂げる意志とは何でしょうか? 再び来られてこの世を火で裁こうとしているのでしょうか? そうではありません。火で裁くことはイエス様が来なくても神ができることです。それではなぜ来られるのでしょうか? イエス様は神の内的な摂理と外的な摂理を代行できる中心として来られ、統一の帰一(きいつ)点を整えて平面的な関係を築くために再び来られるのです。

 では、世紀末的な終末期にあたる今日において、あなたたちがこの神の意志を代わって責任を負うとき、人間の心が体によって無情に蹂躙されてきたように、また過去に内的な面を開拓してきたすべての人物が外的なものによって蹂躙され、反対されてきたように、あなたたちが主張する主義が世界のために進むならば世界から攻撃され、国家民族のために進むならば国家民族から攻撃され、教団のために進むならば教団から攻撃されるでしょう。
    11
 堕落した世の中では、世界のために涙を流す人を追い出すのが簡単であり、国家民族のために涙を流すと国家民族はそのような人を追い出しやすく、教団のために涙を流す人を教団から追い出しやすいのがその性質です。

 このような内的な分野の世界と外的な分野の世界を統一し、本来の世界の形を持って来られる方をキリスト教では再臨主と呼び、仏教では弥勒仏と呼び、儒教では真人と呼ぶなど、それぞれの宗教で異なる名前を付けて呼んでいます。しかし、実際にはこれはすべての宗教が来られる再臨主一人を指して言っているに過ぎません。

 では、過去のイエス様はどのような方であったのでしょうか? 個人を中心に見るとアダムを代行し、民族を中心に見るとヤコブを代行し、民族を中心に見るとモーセを代行し、さらに世界を中心に見ると全人類を代行する責任を負って来られました。さらに、世界だけでなく、天の悲しみまでもその心に抱いてこの地に来られたのです。では、そのように悲しみの中で来られて帰られたイエス様を抱きしめて個人的に涙を流しながら一生を過ごす人は誰でしょうか? イエス様はそのような人を探されるでしょう。神もそのような人を探されるでしょう。

 堕落した人間は生まれるときは喜びの中で生まれたように見えますが、去るときは涙を流しながら去ります。しかし、今や哀れな民族を抱きしめて泣く人は民族の福を受け、哀れな教団を抱きしめて泣く人は教団の福を受けるでしょう。そして、哀れな世界を抱きしめて泣く人は世界の福を受けるでしょう。

 では、大韓民国! この哀れな民族、解放後に分裂し、今まで統一を望んできましたが、まだ統一を成し遂げていません。むしろ同じ民族同士で信じられない関係になっています。それでも秋の落葉のように落ちる審判の時を知らない哀れな民族です。では、そのようなときに私たちはどうすべきでしょうか? 秋になっても変わらない根を見つけるべきです。そこにはこれまで見てきた世界とは違った姿、色、すべてが違うものがあるでしょう。
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 では、皆さんは何になるべきでしょうか?皆さんは神の羊の群れになるべきです。神は過去6千年間、天と地が喜び合うことができる真の羊の群れを呼び求めてきました。また、今日もその羊の群れを探しており、明日もその羊の群れを探すでしょう。

 では、神とイエス様が来て喜ぶことができる羊の群れはどこにいるのでしょうか? もし皆さんが真の羊の群れになりたいなら、真の牧者の声を聞くことができなければなりません。神の内的な理念と外的な理念を代行する二つの世界があるように、ここにも内的な世界を代表する真理の訴えと、外的な世界を代表する真理の訴えがあります。

 では、私自身が真の牧者に対応できる羊になったことを何で知るのでしょうか? 皆さん自身が心の中に聞こえる牧者の声を聞いたかどうかです。心の中に聞こえる羊の群れの声を聞いたかどうかです。

 涙のない指導者に会う教団、民族、世界は滅びるでしょう。それが原則です。イエスは教団を抱きしめて泣きましたが、教団から追い出されました。民族を抱きしめて泣きましたが、民族から裏切られました。世界を背負って血と汗を流しながら泣きましたが、世界は彼を理解しませんでした。真の牧者とはまさにそのような人です。そして、真の友、真の師とはまさにそのような人です。皆さんが真の牧者を見つけたなら、彼の言葉に心と体を尽くして耳を傾けるべきです。

 神は人間を代行して内的な理念と外的な理念を統一的な形にして掲げるべき時があります。したがって、皆さんはそのような時が来れば内的な声を外的な形で表さなければなりません。また、皆さんは心と体がすべてを忘れて全体を一つにまとめて捧げることができる心を持つべきです。自分自身を無条件に捧げ、頼ることができ、心と永遠に離れることなく頼ることができ、自分をすべて任せても安心できる一人の牧者を地上で迎えなければなりません。そうでない人は天の心情を知ることができません。これを人間の前に直接的な関係で結んだのが父子の関係です。
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 人には内的には親があり、外的には師がありますが、堕落によって真の親と真の師を持つことができなかったため、親と師を代行して心と体を頼ることができ、誠意を尽くして仕えることができる真の牧者を見つけなければなりません。イエス様は亡くなる際にも敵のために祝福を祈りました。皆さんはイエス様と同じ心を持つ牧者を地上で迎えなければ初めて地上で神を迎えることができるのです。これを皆さんは知るべきです。

 これまで神の内的な心情と外的な心情の基準を一つに統合して表すことができる人間が地上に現れなかったため、皆さんの心がどこに頼ろうとしても頼ることができず、皆さんの体が頼ろうとしても頼ることができませんでした。だからこそ、終末期にあたって神の心と通じ、神の内的な心情と外的な心情の基準を代行する一人の人が現れなければなりません。この時が再臨の日であり、来られるその方が真の牧者であり、再臨される主であることを皆さんは明確に知るべきです。







文鮮明先生御言葉選集 4 - 9 イエス様の体を抱きしめて泣ける者になろう 1958年4月13日(日)、旧本部教会


聖書拝読:マタイによる福音書 27:1-56


 今日は「イエス様の体を抱きしめて泣ける者になろう」という題目でお話しします。


 皆さんが信じているイエス様、そして天がすべてを回復しなければならない使命を任せたイエス様は、万物と人間と天が共に来ることを望んでいた希望の中心であることをもう一度感じてください。


 2千年前に来られたイエス様は、当時のユダヤの人々だけでなく、2千年の歴史を経てきた全人類に必要な存在でした。今日生きている皆さん一人一人にとっても必要な方です。そして神が地上に望む平和の楽園を成し遂げるためにも必要な方です。だからこそ、全ての民が再び来られるイエス様を中心に一つになり、勝利の歓声と共に父の御座の前に現れて栄光の賛美を捧げることを、今もなお望んでいます。つまり、イエス様は天にとっても地上の人間にとっても、創られた全ての被造物にとっても必要な存在なのです。


 したがって、今日の皆さんは、神の意志または歴史的な理念を自分自身を中心に勝利の象徴としてイエス様の前に示せるようにならなければなりません。しかし、もしそうでなければ、6千年の闘争の歴史の中で全人類に与えられた嘆きと悲しみのすべてを取り除くことはできません。


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 これまで多くの人々が長い歴史を経てイエス様を信じてきました。一方、イエス様は天の意志を代行して地上を守り、全ての民と万物のためにサタンと戦って来られました。つまり、イエス様はこの地に来られて、天と地を対して望んでいた目的を完全に達成できなかったため、今も霊界で切なる心を持って戦い続けておられることを知ってください。


 その戦いが終わらない限り、天の戦いも終わらないし、地上の戦いも終わりません。我々の希望が達成されない限り、全ての被造物も希望の日を持つことはできません。


 今日皆さんが信じている主、全ての信者が新郎として迎えなければならない主、皆さんの真の父として迎えなければならないその主を考えたとき、そのイエス様と皆さんの生活を比較してみる必要があります。そして、皆さんの生活が過去の歴史と全ての宗教の意志を代行する立場でどれだけイエス様と一つになっているかが問題となるでしょう。


 また、イエス様はこの地上の人間のために来られ、人間のために去られましたが、そうしたイエス様と地上の誰が一つになっていたのでしょうか?天におられる神様とイエス様と永遠に楽しむことができる一つの理念圏内に皆さんはいるでしょうか?これを問うとき、まだイエス様は天の人を見つけられておらず、イエス様が永遠に主導し信頼できる人も持っていません。したがって、神様もイエス様を中心に永遠に安息できる基準を達成していないことを、皆さんは原理を通してよく知っているはずです。


 イエス様がこの地に来られたとき、選ばれたイスラエルに対して望まれた希望は何だったでしょうか?4000年間の摂理を通して神の意志が彼らを通じて成就されることを望んでいました。イエス様は当時の人々と未来の世代が楽しむことができる幸せな安息の場を築くために、新しい福音を宣べ伝えました。

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イエス様は天の新しい理念を実現するために、4千年の歴史を代表して現れた方です。神様はイエス様が大工の息子であり、学んだことのない若者であったにもかかわらず、彼を通じて天のすべての理念と希望の意志が成し遂げられることを望んでいましたが、当時の人々はそれを知っていたでしょうか? 誰も知りませんでした。しかし、イエス様は歴史的な結晶として、天の摂理的な中心として人間の前に現れるとき、心と体で感じる感覚が何であることを望んでいたでしょうか? まずは天に対して天と通じる感覚を、人間に対して人間と通じる感覚を持って現れることを望んでいました。

 それでイエス様は、天地万物が堕落の恨みに満ちていることを感じれば感じるほど、これを見つめる神様の悲しみが被造物に染み渡っていることを知れば知るほど、深刻な心を抱くようになったのです。皆さんはこれを理解する必要があります。イエス様は30年余りの生涯を貧しい大工の息子として過ごし、万人のメシアとしての姿を示すことなく、黙々と生活しながら天の意志を宣べる準備をされました。それでも、彼は天に対する一途な心と万人類への愛を持っていました。天と人類を愛する心が切実になればなるほど、彼の心には誰にも表現できない苦悩が募っていったのです。しかし、その時代の人々は、その苦悩と心配がどれほど大きかったかを誰も知りませんでした。

 さらに、ヨセフ家の家族たちもイエス様のその覚悟と心情を、天の切実な願いとして、人類を救うための天の心情として感じることはできませんでした。しかし、イエス様にはそのような生活環境の中でも、イスラエルの民の前に福音を伝えて新たな革命の烽火を掲げる使命があったため、自分の心と一つになれる人が必要でした。イエス様は神が選ばれたイスラエルの民を代表するユダヤ教を中心に、天の方向を示し、人の道を再び立てなければなりませんでした。

 しかし、イエス様の前には、天の心情を代行し、人類の歴史的な心情を代行できる心を持つ人がいなかったことが、彼が神の救いの摂理を完成できなかった重要な要因の一つでした。

 さらに、神が4千年の苦労を経て築いたユダヤ教団は、イエス様の前になくてはならない祭壇であり、イエス様はこの祭壇の前になくてはならない大祭司の立場でなければならなかったのに、イエス様とユダヤ教団は分かれてしまいました。


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 イエス様は旧約摂理の結実であるユダヤ教を中心に、新しい新約摂理の烽火を掲げようとしました。しかし、神の意志を受け入れるように準備されていたユダヤ教がイエス様と一つになることができなかったとき、イエス様の悲しみは言葉にできないほど大きかったのです。


 また、どこを見回しても、自分の事情を分かち合う真の友がいなかったイエス様のことを、今日この時間に新たに感じなければなりませんでした。そのような孤独な状況にあったため、他の人と同じように安楽な場所に立つことができなかったのです。イエス様自身が悲しむと、その悲しみのために後の人類が断罪されることを知っていたイエス様は、選ばれたユダヤ教団が自分に反対するのを見るたびに、さらに深刻な立場に置かれていたことを知るべきです。


 しかし、このようなイエス様でも、他の人と同じように悲しむことができなかったのです。自分が悲しむと、それが天の前にさらに大きな悲しみをもたらすことを知っていたからです。つまり、自分の悲しみが歴史上の悲しみとして残ることを知っていた当時のイエス様の心情を知る人は誰もいませんでした。だからこそ、歴史の過程を経てきた人々の中で、今まで誰も知らなかったこのイエス様の悲しみを、皆さんが理解しなければなりません。イスラエルの民が追放したこの孤独なイエス様を、皆さんが代わりに慰めてあげなければ、イエス様に対する天の悲しみを解消することもできず、歴史の歩みに染み込んだイエス様の悲しみを解消することもできないのです。


 それでは、皆さん、この目は何を見ていますか?この耳は何を聞いていますか?この心は何に向かっていて、この体はどこに向かって動いていますか?自分自身を冷静に反省しなければならない時が近づいています。


 それゆえ、我々はイエス様を過去の人物としてだけでなく、現実のイエス様として迎えなければなりません。イエス様がこの村、あの村で迫害を受けながら歩き回るとき、行く先々で敵に遭遇し、歩けば歩くほど険しい道が待っていました。神が4千年の間に育てた民族の中で、喜んで迎えてくれる友一人も持てなかったイエス様の事情を、今の皆さんは感じるべきです。

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 多くの教団が待ち望み、多くの人々や多くの祭司たちがメシアを待ち望んでいましたが、いざ彼が現れたとき、迎える人は誰一人いませんでした。そのことを見ていた神の心情はいかばかりであったか?今日、皆さん自身が2000年前のイエス様の時代にいたならば、果たしてあなたはパリサイ人やサドカイ人のような人にならなかったのか、自問してみなければなりません。

 また、イエス様が過去の歴史に現れたイエス様であり、現実のイエス様であり、未来のイエス様であるとするならば、過去の在世時のイエス様の心情を知り、その心情を通して現在のイエス様、未来のイエス様を迎えることができるということを知るべきです。

 それで今日、私たちはイエス様がこの地上に来て、ただ30余年の悲しい道を歩み、十字架で亡くなったと信じています。しかし実際はそうではありません。したがって、皆さんはイエス様がこの地上に来てただ死ぬためだけだったと思っている無知な人々を悟らせなければなりません。今、私たちは2千年前のイエス様が再び来られることを望んでいますが、その2千年前のイエス様が私を訪ねてくるのではなく、私が2千年前のイエス様を訪ねていかなければなりません。つまり、皆さんは2千年前のイエス様の悲しい事情と孤独な事情を知り、その2千年前のイエス様と現実の私に隔たりがない状態になる必要があります。そうしてイエス様を抱きしめて泣ける私になるならば、再び来られる主は決して私を見捨てることはありません。


 2千年前に来られたイエス様を殺してしまい、その死んだイエス様が2千年後の私を訪ねてくれることを望む信仰の態度を持つ人は、決して再び来られる主に会うことはできません。では今から10年、100年、2千年をさかのぼって、悲しいイエス様を抱きしめて泣けるクリスチャンがこの地上に何人いるでしょうか。したがって、今や死んだイエス様を抱きしめて天を向いて涙を流す時代は過ぎ去り、生きているイエス様を喜びの涙で慰めることができる時代が来ています。しかし、そのような生きているイエス様はどこにおられるのでしょうか。そのイエス様を探し立てることが、今日のキリスト教徒の重大な使命です。


 では、皆さんは口を開けて天におられるイエス様を呼んでみたことがありますか? どれだけ呼んでも、皆さんはその方と簡単に関係を結ぶことはできません。しかし、イエス様は万人の救主であり、私のために死んでくださった救主であるため、私はその方と永遠の縁を結ばなければなりません。しかし、私の目が本当にイエス様を見たのか、私の耳がイエス様の言葉を聞いたのか、私の口がイエス様に代わって言葉を語ったのかを考えるとき、イエス様と私との距離はまだ遠いことを皆さんは感じるでしょう。

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 では、そのようなイエス様を抱きしめなければならない運命の歴史、不運の峠を越えなければならない今、この時に皆さんはどうすべきでしょうか? 歴史的なイエス様を現実のイエス様として自分の生活圏内で実証できる縁を結び生きなければなりません。もしそうでなければ、6千年間歴史を作ってこられた神の労苦の意志も皆さんと縁を結び、安息の日を迎えることができないことを知ってください。


 今、皆さんはイエス様を回想しなければなりません。2000年の歴史の過程のすべての人類に対する摂理の意志を開拓するために福音を持って立ち上がったイエス様、2千年間その福音の言葉がどの国、どの民族に入ろうと、その言いようのない迫害の道を通ったことを見て耐えてきたこの歴史的なイエス様を知る必要があります。さらに、当時選ばれたイスラエルの民の前に排斥されたイエス様の悲しい事情を知る皆さんでなければなりません。


 そのようなイエスを過去の既成事実としてのイエスとしてではなく、今日この時代に生きているイエスとして対する必要があります。そして、自分の生活圏内でイエス様の悲しみを体験し感じることができて初めて、彼を抱きしめることができることを皆さんは肝に銘じてください。


 それでは、そのようなイエス様はどのような方なのでしょうか? 彼を見るとき、彼の目は創世以来4千年の歴史を経てきた神の聖像を見る目であり、人間の誤りによって霊界の地獄にいる多くの霊人たちを見つめる目であり、楽園にいる霊人たちの恨みを晴らす責任感を感じながら見る目でした。また、神の悲しみを代わりに地上を見るとき、選ばれたイスラエルの民と全世界の人類が彼と一つになれずに反対するのを見るとき、イエス様の視線はアダムとエバの堕落以後4000年間悲しまれてきた神の悲しみを代わりにした視線でした。


 選ばれたイスラエルは天の祝福を受けるべき選民として、イエス様と永遠に共に住む家族として、または家庭としての立場を取るべきでしたが、反対しました。今日、皆さんは反対するイスラエルを抱きしめて語ることができなかったイエス様、聖殿を抱きしめて彼らの無知に悲しんでいたイエス様の友になるべきです。皆さんの目がイエス様が望む目になっていますか? イエス様の目は神の悲しみの聖像を代わりに見る目であり、楽園と地上の復帰の恨みを解決しなければならない状況にあることを見る目であり、地獄も自分によって救われなければならないことを見つめる目でした。

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 そして、皆さんの耳は開いていますか? イエスの耳は天から聞こえる神の声を聞き、多くの霊人たちの悲しみの泣き声を聞きました。その悲嘆の声と悲鳴の声がイエス様一人を囲んで泣き叫ぶのを聞いたとき、イエス様は安らかな一日を持とうとしても持てない立場に置かれるしかなかったことを皆さんは知るべきです。また、この地上を見るとき、悪が進行し善を踏みにじるだけでなく、さらに天を裏切って立ち上がる民族の叫び声を聞いたイエス様でした。イエス様は天の恨みを解消しなければならない使命感を感じただけでなく、反対している群れまで悔い改めさせなければならない使命感を感じていました。


 さらに、彼は自分の口で何を語ったのでしょうか? 楽園と地獄の中間で新しい言葉を語りました。それで楽園の霊人たちを導いて天国に入れようとし、また地獄にいる霊人たちまで弁護しました。見えない世界、楽園にいる霊人たちを天国に入れるための言葉、つまり楽園レベルの霊人たちを復活させるための言葉を叫びました。また地獄の霊人たち、つまりサタンまで弁護する言葉を語ったのです。だからこそ彼の語る言葉は、霊界の恨みを解消するための条件としての言葉であり、また地上にいる人類、サタンの死の権力に縛られている人類を解放するための言葉だったのです。


 このような解放の言葉は地上で当然歓迎されるべきだったのに、歓迎されるどころか反対されてしまいました。これは一体どういうことだったのでしょうか。結果として彼らは天と縁を結ぶことができなかったのです。


 また、彼の手と足はどうだったでしょうか? 病人に手を置き癒したその手、死者を蘇らせたその手、飢えた人々にパンを分け与えたその手でした。そして彼の足は、反対するイスラエルの民やサタンに追われ、この村からあの村、この谷からあの谷へと駆け回りながらも、敵のために祈り続けた足でした。さらに、敵に対して祝福を祈った手、手足を釘付けにされて十字架にかけられたその足とその手でした。


 また、イエス様の体はどうだったでしょうか?  彼の体はどこに行っても安息の日を持つことができませんでした。目に見えるすべてのものが天の理に反し、耳に聞こえるすべてのものが天の理に反する環境で、どこに行っても追われました。そのため、頭を休める場所も見つけられず、安心して過ごせる安息の日も持てなかったイエス様の体、どこに行っても歓迎されなかったイエス様の体であったことを、皆さんは知っておくべきです。だからこそ、彼は話したいことがたくさんあっても話すことができませんでした。地上の言葉を話しても理解されない人々の前で、天の言葉を話すことはできなかったのです。その結果、イエス様は民の前で反逆者の烙印を押されました。当時の教団全体も政権も、彼を喜んで迎えませんでした。

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 しかし、彼はすべての大衆と一つになれる戦略を展開しました。天はこのように二重の戦略を展開してきました。だからこそ、表面的には譲歩するように見えても、最終的にはサタンさえも自分のために働かせる結果をもたらしたのです。


 そのために、世の中の歴史では先に攻撃した者が8割以上敗北しました。第一次世界大戦、第二次世界大戦でも、先に攻撃した側が敗北しました。この原則を知るとき、今日の2つの陣営のうち、どちらがサタンの側かすぐにわかります。何のために行っているかを見るとすぐにわかります。全体のために行っていない、自分のために行い、全体を犠牲にしようとするのがサタンの側です。


 では、神はどのような方でしょうか? 神は一見、私が犠牲になっているように見えますが、実際には私のために犠牲になってくださる方です。人間が天のために尽くすとき、天は全宇宙の理念を人間にすべて渡してくださるのです。サタンの世界では、一見、私のために尽くしているように見えますが、最終的には私の命までも奪い、その後には与えた理念までも奪い、永遠の地獄に引きずり込むのです。しかし、サタンの非難を受けながら戦い続ければ、天の側の利益になります。だからこそ、天国に行く者が現れるのです。サタンは前進すればするほど後戻りできない立場に立たされるため、サタンはここで譲歩しなければならない立場に置かれます。


 イエス様は全面的に戦わなければなりませんでした。しかし、第一次の摂理に失敗したため、第二次の意志を立てて、犠牲と奉仕の祭壇を中心に摂理を進めてきました。それで今日まで追われながらも、楽園を築き上げてこられました。終わりの時には、それらがサタンの第一線であり神の第一線であるため、混乱した世界になります。したがって、皆さんはここで第一線の神の立場を見つけることができる人になるべきです。そして、天の権威を持ってサタンを打ち倒すことができれば、そこで新たな第一線として出発することができるのです。


 神はイエスが地上に来て責任を果たせずに去ったため、聖霊を送られました。聖霊とは何でしょうか? 第二線を担当して来られた方です。十字架の真理を担当して来られたのが聖霊です。では、第一線は誰が担当しているのでしょうか? サタンと対決してイエスが担当しています。したがって、今日私たちがイエス様と聖霊に従って行動し、これが一つに結びつくとき、イエス様と聖霊も新たな第一線を形成します。したがって、今日私たち人間は聖霊に代わって新たな第二線を形成し、サタンを防ぐ権限を持たなければ、神の真の正兵の資格者となることができます。そして、サタンに勝利し、その正体を明らかにすることができるのです。これは神もイエス様も聖霊もできないことです。

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 そのようになれば、その資格者は神の心の友となり、堕落前のアダムの友となり、天使長と万物を主管する資格者となるのです。神はそのような一人の人を探していることを、皆さんは知っておくべきです。各自が立っている位置で、自分の使命を果たすべきです。宗教であれば宗教、科学であれば科学、その立場で真の神の子として立つことができる人を天は呼んでいます。


 終わりの時には、他人に対してあれこれ言うことはできません。私が死ぬか生きるかの生死の岐路に立っているため、どこへ行けば天の認めを受けることができるかが問題です。だからこそ、良心的な人々が集まって城壁を築き、「天に代わって戦う」と言える民族を作るならば、その民族は神の全体的な主権を代行できる民族となるでしょう。


 今日、アメリカのような国を羨ましがらないでください。どんな大きな文明国家があっても羨ましがらないでください。私たちは天の理の原則を知り、その原則的な権内でどれだけ天上と地上の前に縁を結んでいる民族になるかが問題です。どれだけ外的な条件が良くても、それを一度清算する時が来ます。神は非常に公平な心情を持っていますが、その公平な心情だけではありません。公平な心情の奥には、サタンが計り知れない義の基盤があります。サタンが屈服することができるのも、公平な心情と義の基盤の基準があるため、最終的には屈服するのです。


 人間の心もまた同じです。今日、人間は俗世の罪悪の中で無限に翻弄され、無限に混乱しています。しかし今日、皆さんは心の奥深くに歴史の基盤と一つになり、未来の基盤と一つになって、変えようとしても変えられない一つの原則を立てていかなければなりません。また、自分の内的な基準と生活の基準が何らかの悲哀の事実に直面したとき、それを克服して前に進むことができなければなりません。そうして皆さんが天の歴史と一つになり、今日の現実的な摂理の意志と未来的な摂理の計画と一つになり、それを中心にすべてを操る資格を持つ人になることで、初めて神の心情を知ることができるのです。


 ペテロが亡くなった主に会いたいと切望し、ついに会えたとき、すべてを忘れてその心に引き込まれたのと同じように、皆さんも今日までの歴史的な悲哀のすべてを忘れて、神が今日まで悲痛に満ちた摂理を進めてこられた悲しみの心情を体感しなければなりません。そこから初めて新しい天の歴史が展開されるのです。

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 神は無限の心情を持って人間に接しておられますが、人間は一面的、つまり自分を中心とした角度からしか計り知ることができず、それを天の全体、つまり360度であるかのように錯覚しています。この差が明らかになる時が審判の日です。また、イエス様がメシアとなったのも、歴史の過程でのすべての苦難を通過しながらも、天との一直線上で不変の忠誠をもって天に対したからです。


 では、天の愛はどのようにしてこの地上に現れるのでしょうか? 一つの静的な理念と私たちの心が永遠に一つとなって逸脱しないようにすることです。そうして360度を永遠に回り続けることができ、二つでない一つの理念圏内で一つとなることができれば、神が安心して安息できるのです。また、その時にそこから第二次的な摂理の意志がこの地上に現れることができるのです。したがって、今日私たちはこの罪の世界を踏み越えて、神の心情と通じ合う、つまり静的な第二創造の世界を建設する責任を負わなければなりません。


 今、皆さんは外的な世界の欲望を捨てて、内的な神の心情を代行できる人になるべきです。千人、万人を相手にしても、彼らを通して神の心情を感じ取ることができなければなりません。つまり、どのような人からも彼を通して神の心情を見つめることができる人になるべきです。


 本当にそのような人になるためには、悲しみがあっても最も大きな悲しみを乗り越えることができ、怒りがあっても天地以上の大きな怒りを克服できなければなりません。また、サタンに対する公憤の心情が爆発する時には、いつかそのサタンを崩壊させるという心を持ち、一人でも多くの仲間や同志を確保するために耐えなければなりません。また、そのような心を持って天の前に祈るとき、天は罪の歴史を超えて新しい理念的な立場で私と縁を結ぶことができることを、皆さんは確実に知らなければなりません。









文鮮明先生御言葉選集 4 - 10 復活したイエスの心情を知ろう (1958年4月17日)
1958年4月17日(木、復活祭)、三清公園


聖書拝読:マルコによる福音書 16:1-20


 今日のこの日は、2千年前に来られたイエス様が復活された復活の日です。今日までこの世界には多くのキリスト教徒がいましたが、イエス様が復活されたその一日を知ることなく過ごしてきたことを考えると、皆さんはこの復活の一日を知らない人間に対する天の心情がどれほどもどかしく、どれほど悲しいものかを考えなければなりません。

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 ここにいる皆さんだけは天と全人類を代表して、誰も知らないこの一日を祝わなければならず、この時間にイエス・キリストの心情を感じる彼の内的・外的な友となるべきです。その意味で、今日皆さんが座っているこの場所は、天と地と全ての万物が注視する貴重な場所であることを感じなければなりません。23年前の今日、イエス様が現れて今日があなたの復活の日であることを明かしてくださったことを覚えています。


 イエス様は果たして全人類に対してどのような人になってほしいと望まれたのでしょうか? そして天はどのような人になることを望んでいるのでしょうか?イエス様はこの地に新郎として来られましたが、地上の全人類が新婦の立場で受け入れなかったため、新郎と新婦は分かれざるを得ませんでした。この事実を知っているならば、皆さんがキリストの言葉にならない心情を全人類に代わって感じる新婦になることを天は望んでいることを理解するでしょう。


 イエス様は自分に神の4000年の摂理の目的を成し遂げる責任があることを知っていました。そして、誠心誠意を尽くして4000年間積み重ねられてきた人類の罪悪を清算する大きな責任があることを知っていたため、歴史上の誰よりも内外的な悲しみと苦難の生涯を送られました。


 イエス様が望まれたのは被造世界の復帰であり、語りかけようとされた対象はその仕事を共に成し遂げなければならない世の人々でした。そのため、イエス様は人々に神の切実な心情を吐露し、その意志を成し遂げることを訴えられましたが、当時の人々は受け入れず、理解しませんでした。そのため、イエス様の言葉を受け入れた対象は限られた範囲を超えることができませんでした。その限られた範囲においてさえも、安心して言葉を語ることができなかったのです。このような環境で努力されたイエス様の心情を私たちは理解し、同情し、悲しむ人になるべきです。


 このような苦難の3年間を経て、全人類の前で歓迎されるべき時が来たにもかかわらず、誰一人として彼を神の意志を代行する神の子として受け入れませんでした。さらには、当然知っているべきだったヨセフの家族や親戚たちも知りませんでしたし、知っているべきだったユダヤ教団やイスラエルの民、さらには世界も知りませんでしたし、反対しました。


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 イエス様はこのように全ての人から反対される立場にあっても、不信の地を見つめながら悲しむ天を慰めなければならない立場にありました。また、地に対しても心配しなければならない立場にありました。不信の人々に対しても、十字架で死んでいく瞬間まで祝福を祈られたイエス様でした。このようなイエスの心情を皆さんは理解しなければなりません。


 皆さんが本当にイエスの新婦になりたいと願うならば、このように来られて去られたイエス様の心情を理解し、これまでの先祖たちの罪を一人で清算し、主の心情を胸に抱いて生活で実践する人になるべきです。


 そして、天の悲しみとイエス様の悲しみを理解し、そのような理念と心情を持つ人がこの地にいないならば、ここにいる皆さんがその理念と心情を持つように努めなければなりません。今日この地にイエス様が抱かれた心情を持つ人がいるならば、その人は身の置きどころがわからず、涙にむせび泣くことでしょう。そのような人とイエス様とは、たとえ2000年という時間的な隔たりがあっても、2000年前のイエス様の心情を慰めることができる新婦となるでしょう。


 このような内容を知っているならば、皆さんはイエス様の生涯と自分の生涯を比較してみるべきです。もし皆さんの生涯とイエス様の生涯に大きな違いがあるならば、皆さんはイエス様の友にはなれず、彼の新婦にもなれないでしょう。


 では、皆さんはどうすべきでしょうか?イエス様の復活後にペテロが持っていたその欠けた謙虚な心を持ち、迷い彷徨っていたマグダラのマリアのような心を目指すべきです。しかし、イエス様は十字架を背負うまで、そのような友や同志を一人も得ることができませんでした。

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 それでは、復活直後のイエス様の心情はどうだったでしょうか? 三日で復活された彼の心情は、天の前に顔向けできない祈りを捧げるしかない悲しい心情でした。4000年間尽力された父と多くの労苦をした先知先烈たちに対面する時、一方では喜びつつも一方では無限に悲しく、涙が止まりませんでした。このようなイエス様の心情を皆さんは理解すべきです。


 天の聖徒たちは喜びましたが、イエス様は悲しみ、神様も喜びつつも悲しい心を持たれました。今日、この地上に住む人々の中で、このようなイエス様の心情を知る人は一人もいません。しかし、皆さんはこれを知り、新たに心に決意を持つべきです。


 何を決意するべきでしょうか?イエス様がこのようになった原因は、民族のせいでも天のせいでもありません。すべてはサタンのせいでした。イエス様はこのサタンを踏みつけ、失われた使徒たちを見つけるために立ち上がりました。一度は命を懸けて誓った使徒たちが、イエス様の遺体と墓を悪者たちに守らせたことを思うと、イエス様が普通の人であったならば、彼らを再び探しに行かなかったでしょう。


 しかし、イエス様はただひたすら敵であるサタンに対する憤りと、サタンの手中にある弟子と民族と人類を見つけ出さなければならないという一途な心を持っていたので、彼らを探しに行ったのです。また、4000年間人間の裏切りに耐えて摂理を進めてこられた父を見つめると、哀れな人々を見つけ出さなければならないという悲壮な決意を抱き、イエス様は彼らを探しに行きました。このようなイエス様の悲壮な決意を、今日皆さんが持つべきです。


 また、残っていた使徒たちに再びサタンと戦う心の決意を喚起させたイエス様は、いつまでも彼らと共にいることはできませんでした。意志を引き継ぎ、長い歴史の道のりを歩まなければならない使徒たち、言葉にできない血の道とゴルゴダの十字架の苦しみを乗り越えなければならない使徒たちを見つめるイエス様の悲しい心情と苦しみは、十字架を越える時と同じものでした。また、イエス様は40日が過ぎると、愛する弟子たちを敵の地に残して去らなければならない悲しい心情を抱かれました。


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 では、地上にいた聖徒たちはどのような心を持っていたでしょうか?来られたイエス様の悲しみと去らなければならないイエス様の悲しみを知るべきでしたが、彼らはただ愛する先生と別れることだけを悲しんだのです。これを見つめるイエス様の心情は言葉にできないほど悲痛でした。


 では、皆さんはどのような心を持つべきでしょうか? イエス様が去った後のことを自分自身で引き継ぎ、サタンと生死を懸けて戦うことになっても、一寸の譲歩もしないという決意を持ち、鉄のように変わらない心を持つ者でなければなりません。そして、イエス様が亡くなられるまで心を休めることができずに心配されていたその心情を皆さんが直接体験し、代わりに解消しなければなりません。


 もし当時の使徒たちが一つの心を持ち、イエス様と共に十字架にかかっていたならば、神はイエス様一人だけを復活させることはできなかったでしょう。そのようになれば、全ての使徒が復活し、今日のようなキリスト教にはならなかったでしょう。


 では、今、皆さんはこの使徒たちが残した使命を自分自身が引き継ぎ、サタン様に対して憤慨していたイエス様の心を自分の心とし、十字架を越えたイエスの決意を自分の決意としなければなりません。そして、十字架を死なずに越え、復活の姿で現れる第二の使徒となるべきです。そして、6000年間神を悩ませたサタンを一気に打ち破ることのできる使徒となるべきです。また、悲壮な決意を持ち、死の道を歩むことになってもサタンと戦って勝利し、その痕跡を残さなければなりません。


 ここに集まった皆さん! その心、その細胞一つ一つが神と和合できる状態になっていますか? 皆さんのその心、その細胞が神と和合できるとき、イエスが復活後に使徒たちを探しに行かれたように、神が皆さんを探しに来られるでしょう。このような使徒たちが集まり、イエスに代わって世界の人類を探しに行かなければなりません。これまでの使徒たちはイエスが死ぬために来られたと信じつつも、そのような悲壮な決意を持っていましたが、イエスが死ぬために来られたのではないことを知っている皆さんは、さらに悲壮な決意を持たなければなりません。

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 過去、ペテロがイエスの前で死を覚悟して従うと誓ったものの、その誓いを守れず、イエス様が復活された後に二度目の誓いをすることでそれを償い、その条件をもとに天は今日まで歴史を進めてきたと言えるでしょう。したがって、今、皆さんはイエス様一人の前だけで誓うのではなく、ペテロのように死後のイエス様の前だけで誓うのでもなく、一歩進んで天と地と主の前で誓わなければなりません。そして、ペテロが果たせなかった生前の誓いを皆さんが果たすべきです。そうすることで、その条件により主の恨みが解かれるのです。


 そうして皆さんは、神の前で子としての立場とイエス様の前で弟としての立場から、その願いを叶えて差し上げなければなりません。過去の使徒たちはイエス様と師弟関係にありましたが、今日の皆さんはイエス様と兄弟関係にあります。したがって、兄弟の立場から神とイエス様をしっかりと見つめ、彼の無念を償う責任があることを感じなければなりません。


 イエス様が苦しみを耐えながら進まれたように、皆さんもそのような苦しみを耐えながら逆境と戦わなければならない大きな使命があることを知るべきです。だからこそ、皆さんは終わりの日にどのような声が聞こえるか常に耳を傾けなければならず、天と地の願いを知り、その願いを叶えて差し上げなければなりません。そのとき、皆さんは神の息子・娘として立つことができることを確信すべきです。


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御言葉選集4(2)

2024年06月01日 15時24分30秒 | 学習
文鮮明先生御言選集 4 - 2. 天を迎える決心を失わない (1958年2月23日)

1958年2月23日(日)、前本部教会

聖書拝読:創世記 19:18-29 コリントの信徒への手紙一 9:23-27



<祈り>

 お父様が望まれる勝利の日がまだ現れていないことを私たちは知っています。最終の勝利のために、今日この時までお父様が血を流しながら戦いの道を歩んでこられたことを思うと、私たちは身の置き所がありません。
 私たちは真理で武装し、お父様の御心を支えなければならないことを知っており、お父様が望まれる善の意志を広げるためには、自分のすべてを捧げて戦わなければならないことを知っています。どうか私たちの心と体が動員されるよう許してください。そして、この地に広がっている信徒たちと天の天軍天使たちが動員されるよう許してください。そうして、お父様に栄光を捧げることができる日が早く訪れるよう許してください。お父様、切に願い求めます。
 この一日を求めるために、私たちの先祖たちは歴史の過程を経て、疲れ果て、苦しみながらも、主の時を切に待ち望んできました。しかし、私たち人間のためにいまだ成し遂げられていない悲しみが地と天に染みついていることを知っています。
 不足な私たち、取るに足らない私たち、無能力な私たちをお父様が呼んでくださり、希望されたその栄光の日を求めるために血を流す苦難があったことを私たちに悟らせてくださり、御心のために心と体をすべて捧げて戦う覚悟と決心を与えてくださったお父様の恩寵に感謝いたします。
 お父様、この時間、私たちの心を再び聖別し、私たちを供え物として受け入れてください。サタンの讒訴の条件を完全に分離し、お父様だけが取り、お父様だけが誇ることのできる息子娘となるよう許してください。切に願い求めます。
 今、望む御心に対して私たちが心と体で忠誠を尽くし、この時間、新たな恩寵を感じることができるよう許してください。そして、心と体に溢れ流れるお父様の栄光の恩寵を体験できるように導いてください。お父様、歴史を動かしてください。
 今、お父様の御言を伝えようとしていますので、共にいてくださり、伝える者の心も受け取る者の心も二つにならないように許してください。そして、天の心情と通じ合うこの一時間となるよう、切に願い求めます。
 今まで私たちが生活してきた内容と責任を果たせなかったことをお父様の前に差し出し、伏して許してください。矛盾した人間の矛盾した知識が、お父様の真理に代わることができないことを認めるならば、自分のすべてをお父様の前に差し出し、自らお父様の恩寵に浸ることを許してください。切に願い求めます。
 サタンが一切隙間に入らないこの時間となるようにしてください。そして、許された恩寵に接することができる貴い時間となるよう許してください。切に願い求め、主の名前でお祈りいたします。アーメン。


<御言>


 『天を迎える決心を失わない』という題でお話しします。
 今日集まっている皆さんの中には、心の中に何らかの決心を持っている方もいるでしょう。また、人前で自信を持って「私の決心は正しい」と主張できる人もいるかもしれません。
 しかし今、皆さんは自分の決心が誰のための決心であるかを考えなければなりません。つまり、皆さんが持っている決心が自分だけのための決心なのか、皆さんと民族、あるいは世界、さらには神様のための決心なのかを考えなければならないのです。
 何よりも、自分が抱く決心が天のためのものであるかどうかを考えるべき時期が皆さんの前に来ているという事実を忘れてはなりません。
 今日の人々が持っている決心は千差万別です。甲が持つ決心と乙が持つ決心は違い、男性が持つ決心と女性が持つ決心も異なります。また、この民族とあの民族が違うように、それぞれが異なる決心を持っています。
 それでは、各々が主張し、各々が持っている決心が最終的にどのような目的を達成するためのものなのか。自分を立てて冷静に問い直すと、自暴自棄にならざるを得ない立場にあることを認識するでしょう。
 終末に直面している今日の私たち、あるいは地上に生きる人類は、自分が持っている決心が民族を動かす決心なのか、世界を動かす決心なのか、さらには天上にいる千千万の聖徒たちを動かす決心なのか、さらには神様をも動かす決心なのかと問うとき、そうではないと告白するしかないでしょう。
 そのような私、そのような私たちに天の望みがあるならば、私たちが心の中に何を抱き、何を望み進んでいくべきかという問題を何よりも重要視することを望みます。
 これまでの歴史の過程で多くの人々がある主義を持ち、それを主張してきましたが、その主張が今日の私たちの心を動かす要素を持っていないとすれば、その主張、つまり歴史の過程で多くの聖賢たちが主張してきた主義は私たちとは何の関係もないものとなるのです。
 それでは、これまでの人類の歴史は何を立てるために発展してきたのでしょうか。それは人類の幸福のため、あるいは人類の永遠の理念を立てるために発展してきたと、天があることを知っているならば否定できません。天がある限り、人間に幸福の園がどのようなものであるかを紹介し、人間が永遠の喜びの園を建設するようにさせるべきです。その責任を果たすために今日まで歴史の過程を摂理してきた神であるならば、歴史の終末段階にいる私たちとは切っても切れない関係を持っているのです。
 したがって、天が動けば自分も動き、天が止まれば自分も止まるという基準を心の根底に持たない人は、歴史を蹂躙する者であり、神の希望を裏切る者となるのです。
 全宇宙の運行の法度は天倫の原則に従うようになっており、その運行の中に全体の目的を成し遂げるための摂理があるならば、神もその摂理の運行の法度を通らなければならず、人類もその運行の法度を通らなければなりません。それならば、今や私自身を民族の前に立てて考えてみなければなりません。
 この民族に対して運行される神の意志は何であり、この民族を覚醒させるための神の決心は何かを考えたことがありますか?もしないとすれば、皆さんは民族を天倫の前に導くことを阻む立場に立つことになります。
 そして今日、私たちの心に痛切なものがあるとすれば、この民族がどうしても進むべき道を進むために、一つの理念を中心に団結した心で闘えないことです。また、天倫に対して全世界の人類が団結した立場に立てていないことが天の悲しみであり、人類の悲しみであることを皆さんは悟らなければなりません。
 そして今日、皆さんは自分がどのような立場に立っているかを冷静に分析し、批判しなければなりません。天は皆さんに対して、民族の前で自信を持って立ち、天倫に対して自信を持って向き合える心の基盤があるかどうかを問いかけています。
 神が人間に対して最大の希望を持つとしたら、それは何でしょうか?まずは、この地上で創造の意志を成し遂げるという神の決心を人間が実現することです。神は天地万物を創造する前に決心され、その決心によって万物を創造されましたが、その決心はまだこの被造世界で実現されていないため、神は悲しみの歴史を歩んでこられたことを私たちは知っています。
 今、この事実を知っている私たちが、宇宙の隅々まで探し求めても見つけなければならないものがあります。それはまさに神の決心です。私たちはそれを見つけて実現しなければなりません。そして、神が抱いている悲しみと苦しみを解消しなければならないのです。
 したがって、今日私たちはこの意志を中心に一大革命の過程に立つ決心と主張、覚悟を持たなければなりません。そうすることで、神の悲しみを解消できるのです。
 神は私たちが知らない間に、御自身が決心された意志をこの地上の人間に知らせるために努力されてきた歴史の過程を歩んでこられました。それが今までの摂理の歴史であることを皆さんは知るべきです。
 神のこの決心を人間を代行する救世主が地上に現して、すべての悪の勢力と対抗し、彼らを撃退しなければなりません。そのような使命を遂行する代表的な人物がこの地上に現れなければ、神の意志は成就されないのです。そして、神の決心と人間の希望の基準がある一日につながらなければなりません。
 神が目指すその意志を人間に代わってこの地上で成し遂げるための中心存在として送られたのがイエス・キリストです。神は4000年間苦労され、あらゆる困難な環境で戦いの道を歩まれました。そのような道を歩まれた方が、私たちが救世主と信じているイエス様なのです。人間の祖先アダムとエバの堕落によって成し遂げられなかった神の創造の決心を復帰するために、イエス様は来られました。言い換えれば、神がこの俗世の人間世界に第二のアダムとして立て、神の決心を全宇宙の前に示すために、イエス様をこの地上に送られたのです。
 そのために、イエス様は「私は神と一体である」と主張されました。神とイエス様は二つではなく一つだということです。ここに、神が喜ばれる条件が整えられたことを皆さんは知るべきです。また、イエス様は「神は私の父である。これを反対し妨げたとしても、私が感じ決心しているこの内容は誰にも奪うことはできない」とおっしゃるほどの自負心を持っておられました。つまり、イエスは命の損失を覚悟してこれを果敢に公表されたのです。
 神の決心を今日信じている多くの信者に示すことが、イエス様が2000年間苦労された目的でした。神はイエス様を送るために6000年間の長い年月を休むことなく努力してこられたことを、今日この地上にいる私たちは知らなければなりません。
 今、皆さんが天に向かって立ち上がったというならば、神の御心を代行して決心して立ち上がったキリストの姿を自分自身の姿として感じたことがあるかどうかを天は問いかけるでしょう。
 イエス様はこの地に来られ、30余年の間、言葉では言い尽くせない苦難の人生を送り、最後には十字架の道を行くという悲運の生涯を送りました。しかし、その中でも自身が持っていた中心だけは、何者にも決して壊されることのない確固たるものでした。そのためにイエス様は天に対する決心を、今日私たちの心の中にまで植え付けているのです。たとえ死が訪れようとも、従っていた弟子たちが裏切ろうとも、選ばれた民族が裏切り、教会が裏切ろうとも、イエス様は創世前から父が持っていた決心の内容を知っていたため、変わらない立場を守り続けたのです。 そのような決心の主人公が地上の人間の前に何を成し遂げるために来たのでしょうか?それは、自分が抱いている神の創世前の決心を愛する弟子たちに引き継ぐためでした。しかし、歴史の過程に現れた多くの聖徒の中で、イエスが持っていた決心を抱き、神の御心を成し遂げるために戦った人は何人いたでしょうか?これを考えるとき、神の悲しみは不信者にあるのではありません。イエスの名を頼って信じるという聖徒たちにあるのです。天に代わる確固たる決心のない聖徒たちを見て、神は悲しまれていることを私たちは悟らなければなりません。
 イエス様はこの地上で自分の決心を理解してくれる一人の相手を見つけることができなかったため、御心を完全に成し遂げることなく帰られました。この世にイエス様を代行し、神を代行する決心を持つ人がいたならば、神はその心情を通して直接的な権限を行使し、統一の炎を灯すことができたはずでした。しかし、そのような決心の所有者がいなかったため、神の御心は成し遂げられませんでした。
 そのため、イエス様には復活後にこの地に再び来られた目的を代行できる決心の主人公を地上に再び立てる責任が残されていました。そこで、自分の使命を引き継がせた一人を送りました。その方が誰かというと、人間の前に現れた聖霊であることを皆さんは知るべきです。
 それでは、天の決心とイエスの決心は誰によって実を結ぶのでしょうか?神は聖霊を通じて、ご自身の決心を人間の前に再び示します。これを意志の主人公に伝え、その主人公は花嫁に伝えることで、その基盤の上にその意志の主人公がこの地に現れ、一つの家庭として移し、家庭を中心とした親族、親族を中心とした民族、民族を中心とした国家、国家を中心とした世界にまで広げなければならないのが神の意志です。これを今日の人類は知らないのです。今日の信者たちでさえもこれを知らないのです。
 皆さんはイエスを信じ、聖霊に頼って神の前に行けると自信を持って言えますか?どんな苦難や犠牲があっても、またどんな誘惑があっても、それを打ち破り、押しのけることができる神の心情を代行する決心と、イエスと聖霊を代行できる決心を持っていますか?この質問に「私はイエスを代行する心情と決心を持っている」と自信を持って答えられないなら、イエスを裏切り、イエスを売ったイスラエル民族よりもさらに厳しい裁きを免れないでしょう。
 なぜなら、イエスの意志を支えられなかった民族がいたために聖霊を苦労させ、その聖霊の意志を支えられなかった第二のイスラエル型の今日のキリスト教信者たちは、多くの使徒たちを苦労させたからです。そして、使徒だけでなく、私たちの多くの先祖たちをも苦労させたのです。このように苦労をかけている今日の私たちが、イエスが持っていた心情と決心を持たなければ、神の前に顔向けできず、イエスと聖霊の前にも顔向けできません。それだけでなく、これまで多くの犠牲の祭壇を築いてきた聖徒たちの前にも顔向けできないのです。今後、責任を果たせなかった人々が自らを嘆く時が来ることを知らなければなりません。
 天は今日の終末において私たちに要求しています。イエスと聖霊も私たちに訴えています。父の実体となり、父の決心を持った者となってこれを蹂躙するサタンを打ち倒す勝利の主人公となることを、神はこの時間も切に望んでいることを、皆さんの骨と肉にしみるほどに体感しなければなりません。そして、「天が持つ決心を私に継承してください、血の祭壇の過程を経ても耐えてきた使徒の決心を私にください」と言える資格を持たなければなりません。そうでなくして天国に行こうとすることは間違いであることを再認識しなければならない時が来ました。
 現在のキリスト教を覚醒させる責任は私たちにあります。神の決心とイエスと聖霊の決心と私が一つの実体となって現れるならば、歴史を支配する権限を行使できるようになるのです。
 先ほど読んだ聖書の言葉には、ソドムとゴモラに対する神の悲痛な心情が表れています。神がその都市を裁こうとされたとき、愛するアブラハムの甥であるロトがいました。神はロトに裁きを免れさせてくださいました。ロトが優れていたためにソドムとゴモラの裁きを逃れたのではありません。神はアブラハムを愛していたので、何の功績もない甥にまで裁きを免れることを許されたのです。しかし、ロトの家族全体が神の心情を理解していたかというと、そうではありませんでした。
 ロトとその二人の娘は神が逃れなさいと言った場所に逃れましたが、ロトの妻は神の意志が何かを理解していませんでした。彼女は天の意志に対する決心や意志に対する心配、天に対する恐れよりも、自分たちが住んでいた家やその環境を恋しがって振り返ったため、ソドムとゴモラよりも先に神の罰を受けざるを得なくなったのです。
 人間には必ず歩まなければならない道があります。それは、天倫の意志に従って、どんな困難にも立ち向かって歩まなければならない道です。これが堕落した人間が歩むべき運命の道なのです。ロトの妻も自分に属するすべてを顧みずに進む決心を持っていなかったために死んでしまったのです。神の命令に従って進んだ夫を神の代理者として信じ、夫が言う通りにしていたならば、彼女は決して死ぬことはなかったでしょう。
 神が摂理の歴史を経てこられる過程においても、神は御自身の心情を代行する人を立て、その人を信じられないならば、その人の言葉を聞いてでも決心できるようにされています。しかし、それさえもできない人は裁きを免れることはできないでしょう。
 私たち自身を振り返ると、堕落した種族であるために経験する悲しみがあります。大きな神の意志に対して最善を尽くしたいという気持ちや、自分の心と体を捧げて新たな決心をし、行動に移したいという思いは密かに感じているものの、その決心を実行できない理由は、私たちが堕落の種族であるためです。
 アダムとエバは、彼らを創造してくださった神の「食べてはならない」という言葉を心の奥深くに抱き、その言葉と自分たちは切っても切れない一つの結合体であると考え、変わらない決心を持ってすべての万物を主観しなければならないという責任を実感していたならば、堕落しなかったでしょう。
 アダムとエバが堕落したのは、エバがアダムと一つになれなかったからであり、またアダムが神と一つになれなかったからです。そのため、各々は分裂し、自分勝手な環境で好き勝手に行動するようになり、創造の理想の園を台無しにしてしまったのです。終末においても、神を中心とした決心を立てずに自由主義を叫び続けると、自由陣営も崩壊してしまいます。天地の理がそうなっているのです。
 神に代わらなければならなかったアダムが、誰が意志を裏切るように誘惑したとしても、自分は絶対にその意志を裏切らないという決心を持ち、エバを主観し、天使を主観できていたならば、堕落することはなかったでしょう。まず堕落したエバがどんなにアダムを欺こうとしても、アダムがその誘惑の言葉を聞かなければ、アダムは堕落しなかったでしょう。もしアダムが堕落しなかったならば、エバはいくらでも再創造することができたのです。
 神を裏切ったために天倫から遠ざかり、許された言葉と意志を自分の心の中心に据えることができなかったため、アダムはアダムのまま、エバはエバのまま、天使長は天使長のまま分かれてしまいました。このような種族となった私たちは、今日信じたことを明日には信じられず、この時代に信じたことを次の世代では信じられず、次の世代に信じられることは、その次の終末には信じられない環境に置かれています。
 それでは、神の心配とは何でしょうか?天の悲しみとは何でしょうか?「私が6000年間の厳しい逆境と苦難の過程を経て、苦労してようやくあなた一人を見つけて会えたのだから、安息できるだろう」とエデンの園で天使長に語りかけることができなかったその内容を、信じて安心できる場所で語りかけ、御心を打ち明けることができる一人の人がいないことが、神の悲しみであることを知るべきです。
 私たちは父を探し、信仰生活をしていますが、神が安息できる環境を提供できていません。このような立場にある私たちは、進むにつれて心の焦りを避けることができず、どれほど優れていると誇っていても、終末が近づくにつれて心の不安を免れることはできません。結果として、個人的にも社会的にも国家的にも、そして世界的にも困難な立場に置かれるのです。
 それでは、終末の時代に迫り来るこの恐怖と不安を打ち破ることができる人はどこにいるのでしょうか。人間に代わって断言せず、天倫に代わって断言できる決心の主人公はどこにいるのでしょうか。天はそのような人を探していることを知るべきです。
 神がアダムの家庭を失ったことで、アダムと通じることができる創造本来の家庭を失い、同時にアダムと通じることができる親族とアダムの血族を代行することができる民族と、アダムを中心とした国民と、アダムを中心とした天国の民をすべて失いました。しかし、神はこの失ったすべてを再び取り戻そうとしておられるのです。
 神はこの民族全体を探し、世界までも探すために、まず一個人から始めて家庭や社会を探し立てようとしておられます。それを基盤にして、民族型から世界型へと進み、この世界全体を取り戻すために神は摂理を進めておられます。
 神は一方では戦い、他方では犠牲を払いながら、歴史の過程を通じてこれを探し求めてこられました。その裏では、個人的な形態を備え、アダムに代わる家庭・親戚・民族・国家・世界をこの地上に建設しようとしておられます。
 したがって、アダムの家庭を失ったこの一つの事実が、アダム一身だけの悲しみではなく、アダムの血統を通じて千秋万代の全人類にまで及ぶ悲しみであることを、皆さんは生活の中で痛感しているでしょう。この状態で安逸を求め、安楽を享受しようとする人々もいますが、この安逸と安楽な生活が続くことはないことを知っておくべきです。私たちは恐怖の関門を前にして、これを乗り越えなければならない立場にいることを認識すべきです。このような時期をいわゆる「審判の日」と呼ぶのです。
 神はこの恐怖を取り除くために選ばれた一人を立て、その人を中心とした民族を築き、その民族を再び世界の先頭に立てるために、今日まで苦しみながら摂理を行っておられることを知っておくべきです。
 これから天国を建設できる民族は大きな民族ではありません。今日、世界を支配している民族でもありません。天国の主権を回復し、第二の天国を建設するべき民族は大きな民族ではありません。神は何の前触れもなく、ひそかに天国を建設する作業を進めておられます。
 そのため、神の意志に背く人々は豊かに生活し、神の意志に従う人々は貧しく暮らすという逆の現象が起こり、人類の闘争の歴史は今日まで続いているのです。なぜなら、人間が神に対する心情を失ったため、再び神が信じることのできる立場に戻るためには、そのような過程を経なければならないからです。そうであれば、神が6000年の間に苦労されたその苦難が一度に私に降りかかってきたとしても、それを乗り越えられる自分でなければなりません。命を失うとしても、それに屈しない決心の主人公となり、天が代表として立てることができる一存在とならなければならないのです。
 神はそのような世界的な代表としてイエスを送り、そのような人を立てるために多くの先祖たちは苦難の道を歩みました。アダムが失った家庭を取り戻すために、アダムに代わって不信の心を持っていたその種族と民族を突き放し、天に対して信仰の決心を持った一人の人が選ばれました。その人がノアです。
 ノアは120年間、天が引き続けても変わらない決心を持っていました。これがアダムよりも優れているということです。アダムは未成年のときに堕落しました。アダムが神を裏切ったために、神が再び信じることができるようにするためには、アダム以上の苦労をしなければならず、何百倍の苦労をしても、それを突き抜けて進むことができなければなりません。
 アは自分自身、自分の家族、自分の親族、自分の民族、さらには自分と関わるいかなる世界のすべてが反対しても気にせず、一瞬の決心を最後まで守り続けて、父を支えながら120年の生涯期間を戦い抜いたことが、神に代わってその当時の人類の前に立つことができる条件となったのです。
 洪水の裁きを免れて神の恩恵のもとにあったノアにとって何よりも重要だったのは、神の心を持っていたそのノアの心を引き継ぐことができる人がいることでした。しかし、ノア自身もこの事実を知っていなかったのです。
 ノアが120年間苦労し、その悲しくも無念な道を歩みながら天倫を心配していたその心を代わって、ノアの手を取り「父よ、何でも私に命じてください」と言える一人の息子がいなかったのです。そのため、120年の苦労で築いた祭壇は崩れ去ってしまいました。
 神に対して誠心を尽くそうと決心したノアであることを、ノアの八人の家族が知っていたならば、生死を共にする覚悟で絶対服従し、父が死ぬなら自分も死に、父が喜ぶなら自分も喜ぶという立場に立たなければなりませんでした。そうであれば、他の些細な内的条件が崩れたとしても、神を中心に心情を結束すれば何の問題もなかったのです。ハムは父であるノアの言葉を聞くべきでした。兄弟が何を言おうと、父の意志に合わないならば聞くべきではありませんでした。彼が聞くべき言葉を聞かず、聞くべきではない言葉を聞いたために、ノアの120年の苦労は無駄になってしまったのです。
 アブラハムも同様でした。アブラハムが故郷と自分の所有物をすべて捨てて、カルデアのウルの荒れた荒野に向かって旅立つことも簡単なことではありませんでした。神の意志を知った後、アブラハムは誰にも知られずに決心を抱き、慣れ親しんだ故郷と親族をすべて捨ててカナンの地を目指しました。
 その後、アブラハムが故郷を捨てて神の意志だけを心配していたその心を最後まで捨てず、全力を尽くして祭壇を守っていたならば、失敗はなかったでしょう。供物を捧げながら、自分が大変な立場にあることを知り、持っている信仰のすべてと全ての力を注いで神と一体となる決心を持って進まなければなりませんでした。そして、自分は小さな供物であるが、自分の理念を立て、全体の天倫の意志を代行する立場で神に対して誠実な心で供物を捧げていたならば、失敗はなかったでしょう。
 供物で失敗したアブラハムが再び神の意志を引き継ぐためには、供物の代わりにイサクを捧げる必要がありました。つまり、アブラハムの心と一体となることができる息子の姿を見つけなければならなかったのです。同様に、ノアの心と一体となることができる息子の姿を見つけなければなりませんでした。そこで、アブラハムは自分の心と息子の心が一つに結実する立場を探し始めました。
 こうしてイサクをモリヤ山の祭壇に捧げようとし、刀で刺そうとする場面で、天から死に代わる供え物とすることが認められました。イサクも父に従い、アブラハムも神に従うことで、彼らは天倫の目指す方向へ進むことができました。その後、イサクを経てヤコブの時代に至り、ヤコブを中心にアダムの家庭とノアの家庭に代わる基準を見つけて確立することができました。こうして、三世代の親族形態を持つ70人がカナンの地を離れ、エジプトに入ることができたのです。
 つまり、息子を経て孫までの三世代の親族的形態を地上に築くことで、彼らはサタンの世界に送り込まれ、エジプトに入ることができたのです。しかし、このように個人から家庭、そして親族的な環境を整えた後でも、彼らは平坦な道を歩んだわけではありません。親族的な70門徒を代表する彼らは、さらに民族を形成するための民族的な戦いを展開し、神を中心とした民族を形成するための試練の舞台に立たされました。これがまさに宮中での400年間の苦役期間であることは皆さんもご存知でしょう。
 この苦役期間に選ばれたイスラエル民族は、昔の祖先たちが神を恨み、神の意志を裏切ったことを悔い、再び神を慕う心を取り戻さなければなりませんでした。その心が強ければ強いほど、イスラエルの民は過酷なエジプトの苦役に打ち勝ち、団結して60万人全員を率いてカナンの福地に入る道が容易に開けたのです。
 そのため、エジプトで苦難に直面しているイスラエル民族を導くために、モーセもまた、エジプトの宮中で40年間、誰にも知られることのない心の悩みを抱えながら、民族を愛する精神に燃えていました。しかし、エジプト人を打ち殺したことが、彼が荒野で孤独な羊飼いの生活を送るきっかけとなりました。そのような立場に置かれたモーセは、エジプトの宮中での豪華なすべての栄光を捨て、むしろミディアンの地での苦役生活が待ち受けていたとしても、変わらぬ心を抱き、自分自身を愛するよりも神の意志を心配する決心を持つようになりました。
 荒野の激しい風雨にさらされる悲しみを味わったとしても、それをすべて乗り越え、民族から追われることがあっても神を信じ続けたモーセの変わらぬ決心があったからこそ、民族が困難な状況に置かれ、モーセがそのような苦難の環境に入っても、民族が団結することができたのです。そして、神はモーセを立てて摂理を進めることができたのです。
 ある民族を再び選ばれた国家として立てるためには、世界的な試練の前にその民族を追い込み、攻撃戦を展開させることが神の摂理の一つの方法です。したがって、神を中心とした一つの国家建設のために来られるメシアは、選ばれたイスラエル民族の前で反対されるのです。これは復帰の過程であるからです。
 アダムの家庭において、エバはアダムに従うべきだったのにアダムを打ち、ノアの家庭においてはノアの息子がノアを打ち、イスラエル民族の60万人がモーセに従うべきだったのに、モーセをミディアンの荒野に追い出しました。このような歴史の過程を経てきたために、イエスが主人公として来られるとき、選ばれた民はイエスの前で花嫁のような存在でしたが、むしろ彼らがイエスを反論しました。
 天倫の法則を知っているイエスは、イスラエル民族に追われ、ユダヤ教団からも追われました。自分の種族の前でも追われ、天に選ばれた洗礼者ヨハネ一派にも追われ、従っていた使徒たちからも追われました。天と地を差し出しても代えられない三人の弟子たちからも追われました。しかし、彼らを捕らえて天の前に引き寄せなければならなかったイエスの事情を誰が理解したでしょうか。アダムがイエスと同じ立場に置かれ、エバの様々な邪悪な策略や誘惑があったとしても、それを打ち破らなければならない立場にあったのと同様に、イエスも民族を取り戻すべき立場にありました。モーセがイスラエル民族の前で追われ、荒野で悲惨な生活を送ったのと同様に、イエスが民族の前で追われれば、世界の前でも追われる立場に置かれることを知っておかなければなりません。
 もしこのように「民族が裏切り、教団が裏切っても、私が持っている父に対する一途な心を誰が奪えるだろうか。私の決心の前には、天が立てた洗礼者ヨハネが裏切っても問題ではないし、私に従っている弟子が裏切っても問題ではない。さらに、自分の体が問題ではない」という決心があったために、悲しいことがあっても悲しむことはできず、悲しみの場にあっても悲しみの表情を見せることができなかった復帰の運命を背負ったイエスの心情を、今日の私たちは理解しなければなりません。
 天に対する一つの決心を持ち、供え物として全宇宙の前に立って人間が反論しても崩れず、霊界にいる千万の聖徒と今日の空中の権力を持つサタンが総動員されても奪い取ることができないこのような決心があったために、ここから歴史的な転換点が生じました。
 このようにして、霊と肉を合わせた実体的な勝利の基盤が世界的に広がる必要があるのです。復活したイエスを中心に第二の決心を弟子たちに授け、霊的なカナン復帰の理念を築き上げてきたことを皆さんは知っておくべきです。
 イエスは世界の人類のためにこの地に来られました。世界の人々はイエスの前では子供の立場、つまり相対的な立場にあります。エバがアダムを支配し、イスラエル民族がモーセを追放し、供え物がアブラハムを非難し、ノアの息子がノアを追い出したのと同様に、世界のキリスト教は行く先々で世界中で迫害される悲惨な道を免れることはできません。
 今日、世界中に散らばっている第二イスラエルの祝福がイスラエルを中心に成就しなかったため、第二イスラエルとして選ばれたキリスト教徒を立てて、その恨みを晴らし、天と地を復帰させようとしているのです。神は宇宙復帰の意志を成し遂げるために、一つの中心人物、一つの中心民族、一つの中心国家を探していることを皆さんは知るべきです。
 なぜなら、6000年間の苦労の末、神の意志に従ってきたものの、イエスが死んだために、ノアもアブラハムもヤコブもモーセも失敗したことになるからです。イエスが亡くなったことにより、救済の摂理は完成しませんでした。そのため、今日パラダイスにいる霊人たちは、失われた第一イスラエルを回復しようとしたイエスの意志のための基盤を築き、さらに回復の意志を霊的に成し遂げた霊人たちなのです。本来、選ばれたイスラエル民族は第一イスラエルであるべきでしたが、第一イスラエルが崩壊したために、第二イスラエルは霊的復帰の過程にとどまっています。
 イエスを失ったことで生じた神の恨みは、今日の第二イスラエルに属する霊界の霊人たちによって晴らされるのです。神が選ばれた第一イスラエルをイエスが成し遂げることで、神に抱かれた恨みの心情を解消することができるのです。したがって、今や第二イスラエルと霊界の霊人たちを動員し、第二イスラエル回復運動を加速させる時が終末であることを知るべきです。
 それでは、今日世界中に散らばっているキリスト教徒たちはどのような時代に置かれているのでしょうか?彼らはモーセの荒野での40年の道のりに匹敵する時代に置かれています。モーセがシナイ山に上り、石版を受け取るために祈っていた期間に相当し、イエスが昇天した後の2000年の歴史過程は、モーセの40日間の断食期間および40年の荒野期間に匹敵します。また、モーセが消えたことを見てイスラエル民族が不安を感じていた状況に匹敵します。
 このキリスト教は再び現れるモーセを迎えて何をすべきでしょうか?荒野のイスラエル民族は旧約の言葉、モーセの十戒を受け入れるべきでしたが、受け入れられず、歓喜の心情を持つことができませんでした。モーセにとっては、民族がモーセの裏切り者になりましたが、私たちは天が望む道を見つけなければなりません。そうして第三イスラエルの立場を見つけ、勝利して世界カナン復帰の理念を成し遂げなければなりません。そのためには、新しい言葉を受け入れる覚悟を持たなければなりません。
 モーセの決心が60万人の民の決心となるべきです。今日、世界に散らばる第二イスラエルの祝福を受けるべきこの民族や世界の人々、クリスチャンたちは、イエスの決心を引き継ぐことができていないため、モーセの時代に荒野でサタンがイスラエルの60万人の民を翻弄したのと同じように、今この時代も同じような状況にあるのです。
 この状況を見てみると、今日、私たちの身体に血が巡り、心に何かを感じている皆さんは、全力を尽くして進まなければなりません。イスラエルの民がモーセに会う前には、食べることも、着ることも、眠ることも忘れるべきでしたが、それができなかったためにイスラエルはモーセを失い、すべての意志が崩れ去ったことを忘れてはなりません。
 同様に、イエス以降の2000年間は荒野の時代です。イエスを失ったキリスト教信者たちは、食べることも、着ることも、苦しみも怒りも耐え忍び、歯を食いしばってイエスに会うまで、かつてのモーセの足跡を守り抜けなかったことを逆に償い、イエスの足跡を守り抜くイスラエルにならなければなりません。しかし、今日のキリスト教信者たちは、自分たちにこのような使命が課せられていることを知りません。
 今や時が近づいているので、この時を準備する過程において、選ばれた民族が異邦の国々に渡されることになります。皆さんが学んで知っているように、イスラエルの民がメシアの降臨準備時代に備えるために、イエスが来る6世紀前にバビロン捕囚時代があったのです。イエスの再臨の6世紀前から、文芸復興運動を中心にキリスト教を破壊する世界的な攻勢が始まっています。この戦いの道を今日の世界のキリスト教信者たちはどう対処すべきでしょうか?これを阻止する責任を全うするために、まず私たちが目覚める必要があります。
 14世紀から16世紀にかけて文芸復興運動が起こったのは、人々が古代ギリシャの文明を研究し、新たな復帰の理念を持とうとしたからです。このように革新的な文化が一面に現れたように、今日の終末を迎えた信徒たちも歴史を回顧し、2000年前のイエスの心情を感じ取ることができなければなりません。また、堕落前のアダムとエバ、そして神の心情を感じ取り、心を革新しなければならない時が来たのです。
 天の意志に向かおうとする直前のアダムとエバに天使長の攻撃があったように、ノアにも、モーセにも、イエスにも、意志が現れる終末の信徒たちにもこのような攻撃が現れます。これはサタンの攻撃です。まず物質的な攻撃があり、その次に情的な攻撃の時代が来るのです。このような時代の兆候が今日、私たちの前に展開しています。このようなキリスト教の歴史がどの国、どの民族を通じて進展するとき、その道は公式な原理原則として成り立つのです。
 世界がキリスト教を外面的に反発する時代になりました。この時代には、昔イスラエル民族に反対したエジプト民族のような形が現れ、第二イスラエル民族の前にモーセのような人物が現れると、民族が団結して彼を追い出す現象が起こるのです。
 では、終末時代の信仰者たちはどうなるのでしょうか?私たちの周囲ではエジプトの地で起こったようなことが起こるでしょう。今日私たちが生きている現実は、エジプトでの苦役時代を彷彿とさせる状態です。それだけでなく、思想的にも実際的にも、あるいは信仰的にも、あらゆる面で侵害を受けざるを得ない状態になりつつあります。
 かつて選ばれた選民の自尊心を持って、自分たちだけで結束し、外部からの悲しみを追い払うためのイスラエルの団結運動があったように、今日のキリスト教徒にもこのような運動が必要です。教派に依存する者や自分の教会の伝統を誇る者は、イスカリオテのユダの一派になるでしょう。モーセの命に従ってカナンの地を偵察し帰ってきた12部族の中で、ヨシュアとカレブに反対した10部族が現れたように、今日同じようなことが起こらないとは誰が保証できるでしょうか。このような時が私たちの目の前に迫っていることを知るべきです。
 私たちは今、自分のすべてを忘れて進まなければなりません。また、ソドムとゴモラが受けたような裁きを逃れるためには、ロトの家族が歩んだ足跡を手本にしなければなりません。ヤコブがハランの地からカナンの地に戻るときにすべてを捨てて進んだように、私たちの足跡もヤコブのようでなければなりません。また、イスラエル民族がエジプトの地を去るときにすべての未練を振り払ったように、私たちもそうしなければならず、イエスがすべてを捨てて十字架の道を一人で越えたように、私たちもそのような決意を持って進まなければなりません。
 このような覚悟と決意をすべての万物万象の前に立てる資格を持つ者がいるでしょうか。天はそのような資格を持つ者を探していることを知るべきです。今日世界に広がる新教が旧教に迫害を受ける過程は、悲しいモーセの過程を繰り返すような現象です。
 今、この荒野のような世界を開拓する新しい使命者が現れる必要があります。今日のキリスト教に満足していてはなりません。イスラエル民族が荒野の生活でモーセを守ることができなかったように、新教の出現時にも同じことが起こりました。新教が出てきましたが、荒野の生活の中で認められなかったのはモーセの事情と同じでした。終末でもそのような形で神の意志が進展することを知るべきです。
 モーセとイエスは人間的に見ると哀れな人々です。モーセとイエスのことを考えるとき、皆さんは彼らの血と肉が通じ合うような感覚がありますか?もし皆さんの心にモーセとイエスが行き場を失い、困難の中を歩んでいたことを考えることさえないとすれば、モーセの40日間のシナイ山での断食祈祷の際に流した悲しみの涙を無駄にした天倫の裏切り者と同じであり、荒野で倒れたイスラエル民族と同じであることを知るべきです。
 イエスの悲しみの心情を私たちが感じ取り、第一イスラエルと第二イスラエルが成し遂げられなかったことを完成しなければなりません。このようなことを成し遂げるために来られたイエスの悲しみの心情と足跡を、皆さんは知っていますか?今日、神が私たちを立てて望んでおられることは何ですか?
 宇宙的な理念の目的を達成するために、「霊界の霊人たちよ!私はあなたたちの願いを叶える。地上にいる全ての人間たちよ!私はあなたたちの犠牲となる。空中の権威を持つサタンたちよ!私はあなたたちを捕らえて天の裁きの場に連れて行き、告発する。」という決意を持ち、時代が変わろうと、世界が変わろうと、人の主張が全て変わろうと、私は変わらないというイエスの節操と忠誠を、今日の皆さんが持たなければならないのです。このように時間を超え、生涯の理念を超えて天倫の理念に通じる心の覚悟と決意の基盤がなければ、神の前で無条件に服従しなければなりません。そうでなければ、審判を免れることはできません。
 シナイ山に登るモーセの前でイスラエル民族が無条件に服従していたならば、彼らは乳と蜜が流れるカナンの地に入ることができたでしょう。また、イエスの時代にも同じであり、今日の終末でも同じです。皆さんの前には、生涯全体の価値を決定するべき時が訪れているのです。私たちが死んでからも神の目的だけを責任を持って果たす心で、神を代わって立ち上がることを、父なる神も、イエスと聖霊も、そして私たちの先祖たちも望んでいることを、皆さんは骨身にしみて感じなければなりません。
 このような事実を前にして自分自身を振り返ると、私を中心とした自分の身体が敵であり、私を中心とした自分の家族が敵です。ノアにとっては家族が敵であり、ヤコブの家族にとっては氏族が敵であり、その次に国家形態においては世界が敵でした。神はこのような歴史の道を歩んできましたし、今でも数多くの困難を乗り越え、ある中心人物が倒れたら他の人を立てて再び挑戦しなければならない状況にあります。皆さんはこのような神の名誉と威信を立てられる人にならなければなりません。
 どんな個人の力だけでは神の目的を成し遂げることはできません。神は世界に分散して一つの民族形態を見つけ出す包囲作戦を進めています。それゆえ、個人から家族、そして氏族、民族を見つけ出し、神を中心とした国家形態を整える時が来たのです。
 したがって、今日の全世界のキリスト教が12部族を再建すべき時期が到来しています。荒野に散らばっていたイスラエルの民に隊列があったのと同様に、世界のキリスト教徒たちも隊列を編成し、サタンに対する攻撃を展開する時代が来ています。このことを知らないキリスト教徒たちは、荒野のイスラエル民族がモーセの導く方向を知らなかったのと同じ立場にあることを理解すべきです。
 今や私たちは手を取り合って進む共同運命にあります。12使徒の中でイエスを裏切ったイスカリオテのユダ一人のために、12使徒は崩壊し、イエスを殺すという運命に陥りました。それゆえ、私たちの教会の仲間たちは、「あなたの決意が私の決意であり、あなたの心が私の心である」と言いながら、意志のために一つとなる隊列を整える必要があります。そして、紅海を渡り、荒野を通り、ヨルダン川を渡り、カナンの七部族を打ち破るための戦いの場が私たちに残っていることを知らねばなりません。
 したがって、今や私たちは歴史的な使命を帯び、それを償い復帰していかなければなりません。これまでの祭壇では神が「捧げよ」と言いましたが、これからは神に「受け入れてください」と言える供え物が必要です。
 天倫の決意が内的および外的な決意の実体として現れ、この決意を中心に家庭と戦い、家庭を復帰し、教会を覚醒させ、国家と民族を覚醒させて復帰しなければなりません。この状況において、私たちが住んでいる家庭、社会、国家、教会が、そして私たちが望みを抱いている世界が私たちを敵視することは避けられません。
 今日、皆さん自身が家庭や社会で迫害を受けています。しかし、その迫害に勝ったからといって喜ばないでください。その後、荒野の時代にさまざまな困難に巻き込まれ、攻撃が始まる時、その戦いの場で皆さんが倒れてはならないのです。天倫の運命は一度受けて乗り越えなければならない時期にあり、世界的な復帰過程でキリスト教を攻撃することになるのです。外的にも内的にも攻撃する時が来るのです。第二イスラエルを動員する時代が来るので、霊界が動員されています。天にある霊界が動員され、世界的な第二イスラエルを世界中に広げ、第三イスラエル民族を建設しているのです。
 では、イスラエル民族が荒野でさまよい、他人が知らず、他国の者が知り得ず、誰も想像しなかった生命の糧を食べたように、今日の皆さんもこの時代に天から降るマナとウズラの糧を食べることができる人になるべきです。これからは乾燥の時が訪れるので、マナとウズラを求めてさまよう時が来るのです。
 今や復帰の園を建設しなければならない時が来ています。どんなに苦しみ、自分の体が裂かれ、骨が粉々になろうとも、天倫のこの一つの目的のために、「父よ!霊界にいる数え切れない聖徒たちよ!歴史を作り上げてください。」と言えるようでなければなりません。イスラエル民族は霊界を動員することができませんでしたが、私たちは霊界を動員しなければならない時が来ました。ですから、皆さんには霊界の協力があります。私たちの仲間が霊界の霊人を呼ぶと、霊人たちはやって来ます。だから今日、霊的な奇跡が多く起こっているのです。
 私たちは、自分自身を立て、自分の家族や民族、世界を動員しなければならない使命を持っています。また、サタンを父の前に屈服させなければならない最後の使命を担っていることを知るべきです。私たちは、自分自身に対する試練、家庭に対する試練、教会に対する試練、社会に対する試練をいつ乗り越えるのでしょうか。このような試練を乗り越える決意を持つことが、天の使命を完遂するために必要なのです。
 神がヨシュアとカレブに「強くあれ、勇敢であれ」と言ったように、今や私たちにも「強くあれ、勇敢であれ」と言われる時が来ました。皆さんは手に手を取り合い、心に心を合わせてサタンと戦い、勝利をつかみ取るべき時が来ていることを心に留め、強くあれ、勇敢であれということを忘れてはなりません。


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御言葉選集4(1)

2024年05月25日 17時08分49秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 4 - 1. 天地万物は愛の一日を求めて彷徨う (1958年2月16日)

天地万物は愛の一日を求めて彷徨う

1958年2月16日(日)、前本部教会(青坡洞1街)。

コリント人への第一の手紙 13:1-13


<祈祷>

 お父様! 私たちは人類を創造された父の本来の心情を知らず、私たちの悲しみを取り除くことのできる父の愛を感じることができないことを知っています。
 今、私たちのすべてを犠牲にしてでも父の愛を見つけなければならず、お父様と私たちの本来の因縁を回復しなければなりません。
 お父様! ここに集まったあなたの息子娘たち、今心の扉を開けて、あなたの心情が何であるか、あなたの愛が何であるかを自ら見つけることができるように許してください。そして耳を開いて、父の声を聞くことができるようにしてください。また、天が許される恩賜を受けることができる息子娘を探しておられる父の姿を見ることができるように目を開かせてください。
 そうして見て、聞き、私たちのために尽力されたお父様の御手を知ることができるように許してください。そして、その忍耐の心情を体感することができるように許してください。苦労して忍耐されてきた父の心情を私たちも少しは知っているので、今日この時間、私たちの心と体を完全にお父様のものとして支配してください。
 無知のために死の圏内に囚われている息子娘がいるならば、お父様、自ら恵みの御手を再び広げて全体の創造の歴史を起こし、本来の訴えの心情に向き合い、お父様の心の前に和動できるこの時間を許してください。お父様、切に願い求めます。
 心を尽くして摂理された父の御心があることを知り、天定の路程を歩んでこられた歴史の道があることを知りました。これはただ天と通じ、天に対する価値観を見つけてきた人々を通して成し遂げられたことを知っています。
 歴史的なすべての罪悪、時代的なすべての罪悪、未来的なすべての罪悪の源を根絶しなければならない使命が私たちにあるならば、罪悪に引かれて責めを受けず、父の愛の中で感謝したいという心の衝動が起こるように、父の直接的な愛の歴史が現れることを許してください、父よ、切に願い求めます。
 今日の私たちの心は私を中心に動いておらず、私たちの体も私を離れて動いていることを知っています。私の心も私を離れ、体も私を離れたとき、そんな私たちを摂理しなければならない父の心情がどのようなものであるかを感じるようになりました。
 天倫の真理を通さなければならない時が来ており、天倫の人格を通さなければならない時が来ており、父の愛を通さなければならない時が来ていることを知りました。
 お父様、すべての人類にお父様の愛を紹介できる御言葉が現れることを許し、お父様の愛を証することができる人格者が今日の終わりの日に多くの人々の前に現れることを許してください、切に願い求めます。
 その真理を従うことができる私たちの心的な準備と土台を備えさせてくださり、お父様の御心の前で全てが明らかにされるその日が歴史の前に早く現れるように歴史(役事)してくださることを、お父様、切に願い求めます。
 お父様、今パウロが語った、哀しみのお父様の心情を体感する私たちとならせてくださり、彼が心で感じることのできなかったお父様の愛の心情を体感することができるように許してください。イエス・キリストが十字架にかけられたように、この民の前に犠牲となり全体の祭壇を築くことができる子供となり、お父様の愛の心情を共に持つことができるように許してください。
 お父様、天倫に向かう道もこの一つの道であり、イエス・キリストのすべての労苦を解放する道もこの一つの道であり、先知先烈たちの死の恨みを晴らす道もこの一つの道であるという一つの心を持ち、天と地を代表して父の前に贖いの捧げ物を捧げるこの一時間となることを許してください、お父様、切に願い求めます。
 今、すべてをあなたに委ねましたので、再びご支配ください。伝えたい父の御言葉を伝えることができるようにしてください。与える者の心と受け取る者の心が一つとなることを許し、天が動くとき、私たちの心と体も共に動くことができるこの一時間としてください。サタンを取り除き、すべてを親しくご支配いただくことをお願いいたします。
このすべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。



<御言葉>

 皆さんは原理の中に「天地宇宙(天宙)」という言葉があることをご存知でしょう。そしてこれは無形世界と有形世界を総合した言葉であることもご存知でしょう。しかし、被造世界を創造された創造主も、その創造主によって創られた被造物も、皆愛の一日を求めているのです。
 私たち人間にとって最も必要であり、何よりも緊急かつ重大なことは、神を所有することです。その次に必要なのは、真心と真の体を持った真の人間になることです。その次に必要なのは、真実の物質を持つことです。その次に何があるでしょうか?それは、私たち人間にとって欠かせない愛を持つことです。これらのことが、今日の堕落した人間が生きていく上で欠かせない重要なことなのです。
 今日、私自身を見つめるとき、私には自分を中心とした神、自分を中心とした真の人間、自分を中心とした真の善の物質が必要であり、さらに自分を中心としすべてを団結させることができる一つの愛の縁が必要であることを否定できないでしょう。
 では、今日の皆さん自身を見つめたとき、皆さんが必要とする神がどこにいるのかを知っていますか?皆さんが必要とする真の人間、真の物質がどこにあるのかを知っていますか?これらの質問を受けたとき、それはこれこれこうだと自信と実力を持って答える人は一人もいないのです。
 ですから、今日ここに集まった皆さん自身の中に誇れるものがあるならば、新しい心、新しい意識を持って立ち上がらなければならないのです。そうしなければならない時が来ています。今日、私たちは自分に必要なすべての要素を持たないために、生涯の道を歩む中で平安と安逸の生活を送ることができず、永遠の創造理念に向き合うことができる神の愛を体得して自分の生涯を歌いながら生きることができないということを、皆さんはこれまでの人生を通じてよく感じているでしょう。
 したがって、天地万物の前で自分を誇ることができるものを何も持っていないことを嘆く時が来たことは、皆さんも否定できないでしょう。だからこそ、この事実が天の悲しみであり、人間の悲しみであり、万物の悲しみであることをパウロは明確に訴えていたのです。皆さんはこの悲しみを解消する責任が与えられており、この責任を負って生きることが、復帰の運命の中で生きている皆さんの歩むべき人生の道であることを忘れてはなりません。
 したがって、今、自らを奮い立たせなければならない立場にいる自分自身を嘆く心があるならば、皆さんを取り巻く歴史を憂慮しなければなりません。また、皆さんの現実生活に関連する時代を憂慮し、この時間以降の未来を憂慮しなければなりません。
 しかし、憂慮すべきことを考えずにさまよう人がいるなら、それ以上に哀れな人はいないでしょう。堕落によって天地の前に残された嘆きの条件を解消すべき使命を負った人間たちが、自分の位置を認識せずに天地万物の前に恥ずかしい姿で現れるとき、それを見なければならない神の心情はいかばかりでしょうか。ここで、皆さんは神にさらなる嘆きを与える恥ずかしい姿であることを悟らなければなりません。
 では、このような相反する環境を乗り越え、天地の嘆きを代わりに引き受けることができるその一人の忠臣の姿はどこにあるのでしょうか。人類に希望があるとすれば、そのような忠臣になることです。
 では、私たちがそのような忠臣になるためにはどうすればよいのでしょうか。今日、私たちに必要なのは、神と真の人間と真の万物を代表してこれらを一つに統合し、神の前で愛を語り合うことができる存在になることです。
 これまで私たち人間が摂理の歴史を経て、神に様々な祈りを捧げ、御心を受け入れてきましたが、神の心の奥深くにある恨みの心情を解消し、愛を語り合う場に至った人はまだ一人もいないことを皆さんは知るべきです。イエスがこの地に来たにもかかわらず、人間が彼を通じて実際に神と愛の関係を築けなかったため、彼は再び来なければならないのです。
 イエス・キリストが4000年の復帰の歴史を完成させる使命を持って来られましたが、「人間が神の愛と因縁を結ぶことができたか?」と問われたとき、誰も「そうだ」と答える立場に立てていないのです。このような私たちであるため、哀れであればこれ以上哀れなことはなく、嘆くことがあればこれ以上嘆くことはありません。
 では、今日、皆さんは自分自身を誇る何かを持っていますか?知識を持っていますか?皆さんが持っている知識は天地万物の原理原則に比べれば極めて微々たるものです。今日の20世紀文明がどれほど発達していようとも、絶対的な原理原則を確立することができない範囲に留まっているのです。したがって、私たちに誇るべきものがあるとしても、それを再分析しなければならない新しい時代が近づいていることを感じなければなりません。
 そこで、天が歴史的な運命を見据え、時代的な運命を見据え、未来的な運命を憂慮しながら私たちを見つけてくださったのです。こうした天の前で自分を立て、自分を誇ろうとするならば、まず天を所有することができる人間にならなければなりません。真の人間にならなければなりません。また、真の万物を対することができる人間にならなければなりません。これが重大な問題です。
 そして、皆さんは神が天地万物を創造し、アダムとエバにそれらを管理するように言われた、その管理の資格を持って「父が望まれたもの、父が祝福してくださったものはこれであると知っているので、私にあなたの天的な愛の縁を結ばせてください」と言えるその一つの姿が、今まで摂理してこられた神の最高の目的であり、摂理の意味を立て、今まで苦労してこられたイエス・キリストの最高の基準であることを確実に知るべきです。
 しかし、なぜ人間は現在のような状況に至ったのか?それは人間の堕落によるものです。今日の人間は堕落した人間の子孫であるため、堕落した姿と形を脱ぎ捨てて生活している人は一人もいません。個人の堕落した生活が集まって世界的な堕落性を形成していますが、これを贖い取り除くためには、世界的な堕落性を打ち破ることができる一つの原則が出なければなりません。
 堕落とは反対の方向に人間を導くことができる原則が出る前に、人間がどのような善の理念、どのような真理を主張しても、それは私たち人間の希望や根本的な喜びと関係を持つことはできないということを皆さんは銘記すべきです。
 では、堕落の歴史の枷から逃れられない堕落した子孫である私たちが追求しなければならないものは何でしょうか?それは、天地の理念を代替することができる人格と、万物を管理することができる価値を持った真の人間になることです。また、私たちが神の愛を待ち望むならば、忘れてはならないことがあります。それは私たちが堕落の血統を受け継いだ種族であるという事実です。
 そして、皆さんが自分の心の中に堕落の性質が潜んでいることを感じるなら、今まで考えもしなかった新しい何かが現れていることを知るでしょう。今や皆さんは被造物として、あるいは全宇宙を代表する人格者として、神の前に出て『私は堕落した種族です』と訴えなければなりません。このような祈りの一時間がなければ、皆さんはまだ天の前に残されている嘆きの領域から抜け出すことはできません。
 では、アダムとエバの堕落は何を意味するのでしょうか?それは神を捨てたことであり、本来の理想的な人間性を失ったことであり、善主権の環境を失ったことを意味します。つまり、神を失い、真の人を失い、真の物質を失ったのです。その次に、神の言葉を失い、神の愛を失いました。これが堕落だったのです。しかし、人間はこの結果を超えることができていません。
 今、私たちはこれらを反対の方向から整理し、開拓するための戦いをしなければなりません。皆さんがこのような戦士にならなければ、歴史的な罪悪権と天の摂理に反対してきたサタン権から脱出することはできないことを知っておくべきです。
 人間は堕落によって神の懐から離れ、本来の真の人間性から離れ、真の宇宙権から離れました。これを再び回復するための歴史が神の再創造の歴史であり、今まで努力してこられた神の摂理なのです。
 第1のアダムが堕落したことで恨みが生じましたが、第2のアダム、すなわち復帰されたアダムとして来られたイエスはどのようなことをしなければならなかったのでしょうか?まず、イエス自身の心に神が宿るようにし、自身の体に真の人間の意志を持ち、真の主人となることでした。イエスはこのような実体として来られ、天的な愛を証し、人間的な愛を証し、万物の情までをも証し、すべてを一つに統合する一つの主体としてこの地に来られました。
 だからこそ、イエスはこの地に来て心の天国を主張しました。そして神が自分の心の中にいると言い、神と一体となった自分を主張しました。また、全宇宙が自分の支配を受け入れるべきだと言いました。そして、全人類に対しては愛の標語を掲げて「私は神の子であり、あなたたちは私の友であり、兄弟である」と言いました。皆さんはこの言葉にメシアとしてのイエスの価値が込められていることを知るべきです。
 イエスには自分自身を中心に家庭を動かし、社会を動かし、民族、国家、世界、さらに天地宇宙までも動かさなければならない使命がありましたが、イスラエルの民が反逆し、教会が反逆し、選ばれた洗礼者ヨハネが反逆し、家庭が反逆しました。
 そのため、イエスは自ら使徒たちを立て、彼らを土台にして世界的な第二イスラエルを形成し、世界的なカナン復帰の理念を実現しようとしました。この事実は原理を通してよく知られていることでしょう。当時、イエスは十二部族で形成されたイスラエルの民が反対したため、十二部族の形が崩れ、モーセが築いた土台を失い、ヤコブが築いた十二兄弟を中心とする土台も失い、十二弟子だけを連れて歩かざるを得なかったのです。
 第二イスラエルの創設者として先頭に立たなければならなかったイエスでしたが、ヤコブの十二人の息子のような十二使徒が崩れてしまい、再び遡ってノアの家庭の形を取らなければならず、ノアの三人の息子に相当する三人の弟子を連れてゲッセマネの園を彷徨うことになりました。しかし、この三人の弟子さえもイエスと一つになれなかったため、イエスは堕落当時のアダムの立場に陥ってしまいました。これがイエスの置かれた状況であったことを知っておくべきです。今日のキリスト教徒はこれをよく知りません。また、イエスが無知な人類のために祈ったことや、イエスの悲しい心情を知らないのです。
 世界を主宰する主として全世界の人類に神の心情を紹介しなければならないイエス、万物を主宰しなければならないイエスが、洗礼者ヨハネから拒絶され、自分の家庭からも拒絶されました。
 その結果、イエスは世界的な土台を失い、民族的な土台も失うという哀れな姿になったのです。こうしてイエスは堕落したエバのために花嫁を失ったアダムのような立場に置かれました。
 堕落していない真の父母を失った人類の前に真の父母として来られたイエスは家庭を失い、子として立てた三人の弟子まで失ったため、イエスはエバを失ったアダムの立場に置かれました。そのため、イエスはこの地に「新郎新婦」という名を残されることになったのです。このような悲しい事情に置かれていたイエスであったことを知っておくべきです。
 また、イエスは世界を統合することができる言葉と、イスラエル十二部族に代わる世界的な第二イスラエルであるキリスト教信者を統合することができる言葉と、天倫の前に立つことができる個人的な法や社会倫理、家庭の制度に関する言葉を全て伝えることができずに去ってしまいました。これがイエスの最も大きな悲しみでした。
 しかし、今日の人間はこれらの歴史的な事実を知りません。さらに、神を信じるというキリスト教徒でさえも知りません。こうした人間たちを見ておられる神が、どうして嘆かずにいられましょうか?イエスの時代にユダヤの民を第二のイスラエルとして祝福し、第二のカナンを建設しようとした神の計画が破れたため、神の悲しみはさらに増したのです。
 では、イエスがこの地上に再び来られるなら、どこに、誰のもとに来られるのでしょうか?イエスは堕落した人間世界に直接来られることはできません。復帰の道を経て来られなければならないイエスは、ノアの家庭とアダムの家庭の段階を超えて来られなければなりません。このようなイエスの事情を背負い、世界まで進まなければならない歴史的な運命の過程が、今日の信仰者たちの背後にあるのです。しかし、今日の信仰者たちはこれを知りません。これを知らなければ、イエスを熱心に信じていても、彼を迎えることはできないのです。
 再臨の主は世界の主人公として来られます。しかし、再臨の主にはまず、天を中心とした家庭が必要であり、民族が必要であり、国家が必要です。そうしてこそ世界の主人公になれるのです。これが原則です。
 今日、キリスト教が世界を復帰しようとする主の理念に代わろうとするならば、まず、世界的な基盤となるイエスを中心とした天の家庭があるかどうかを考えなければなりません。イエスを中心とした天の民族、天の教団を備え、民族的な観念を超越する基盤を築き、世界的な基盤を成し遂げなければ、イエスがこの地に再び来ても、誰が悲しみのイエスにはならないと言えるでしょうか?歴史的な事実がこれを証明していることを忘れてはなりません。
 天地の運勢は皆さん自身を通過しています。皆さんが知っていようが知っていまいが、民族が知っていようが知っていまいが、国が滅ぼうが栄えようが、あらゆる困難の道が皆さんを通り過ぎていきます。
 イエス以降2000年の歴史の過程を摂理された神の御心は何だったのでしょうか。イエスを通して全体の天的理念を代行できる中心を立て、この地上に真の愛を実現することが神の御心でした。しかし、イエスが十字架にかけられたことによってその御心が成し遂げられなかったため、その御心を完結させる使命がこの地の人間に残されているのです。
 では、今、皆さんはどうすべきでしょうか。イエスを失ったために、天に属する真の人間、真の万物を所有できる真の指導者を再び送ってくださるよう、天に訴えなければなりません。
 第二のアダムとして来られたイエスを殺したために、人間は再び神の心に隠されている御言葉を持って来られる主、天国の人格を代表し天国を建設しようと来られる主、万物を主宰する資格を持って来られる主が必要なのです。これが人類の希望なのです。
 今、私たちは私たち人間を立てて摂理される神の前で面目を保つことを知っておかなければなりません。そうでなければ、イエスがこの地に再び来られても、私たちは彼に会うことができません。そして皆さんは、イエスがこの地に来られたとき、彼を支えなければならない人間がイエスを死なせたために、第二の堕落の立場に陥り、再び神を捨て、天国を捨て、真の愛を捨て、万宇宙を捨てたことを心に留めて、常に主を信じ支えなければなりません。
 では、今日の信徒たちは何をすべきでしょうか。最も重要なのは、イエスの愛を通して天国を建設することです。では、天国はどこから始まるのでしょうか。それはイエスの愛と人格を知り、イエスが主宰できる万物の主宰権を知ることから始まります。イエスの愛と人格、万物の主宰権を知らない人は神を見つけることができません。
 私たちがイエス以後の2000年の歴史を振り返ると、多くのキリスト教信徒が神を再び見つけるための運動をしてきたことがわかります。その結果、激しく迫害していたローマがキリスト教を公認するに至り、ついにはローマに教皇庁を設立し、教皇権を中心とした政治が行われ、封建社会が形成されました。
 しかし、中世に入ると再び教皇庁が腐敗し、人本主義思想がキリスト教に入り込むことで、中世以降のキリスト教徒は神を失うことになりました。つまり、多くの人々が人本主義思想に流れてしまったのです。こうして啓蒙思想を経て、最終的には唯物史観が現れました。
 これは人間の理性を重視する合理主義と経験主義哲学思想に基づいています。したがって、世界は現在、唯物史観と資本主義思想により物質の価値を重視する物質万能主義が横行する世界に堕落してしまったのです。
 イエスは天の御心を代行し、全体の摂理を統合する使命を担い、第二のアダムとしてこの地に来られましたが、私たちの先祖たちがイエスを拒絶したため、罪悪の歴史の道を逃れることができませんでした。これにより、神を見つけることも、真の人間を見つけることも、真の物質を見つけることもできなかったのです。そのため、どれほど真の人を探そうとしても、見つける方法がない状況に陥ってしまったのです。
 では、中世の封建社会形態を誰が崩壊させたのでしょうか?天が崩壊させたのです。神はローマ教皇庁を中心に御心を成し遂げようとされましたが、その教皇庁が腐敗していったため、神はそれを打ち砕かれました。天を信じる人々がむしろ天倫の御心を裏切ったので、人本主義思想を立てて彼らを打つことになったのです。
 そのような中でも、神は摂理の基点を失わないために天を憂う一人の人物、ルターを中心に宗教改革を起こされました。このようにして、神は一方で打ち砕き、一方で立てる摂理を進めてこられたのです。そして、キリスト教を通じて第二のイスラエルの形を経て文芸復興を経た後、大混乱を経験させ、人本主義的な理性哲学を中心とする啓蒙思想に対抗する摂理を進めてこられたのです。
 啓蒙主義者のヴォルテールやルソー、モンテスキューのような人々は、キリスト教が滅びると思いました。しかし、ドイツでは清廉な人物たちが現れ、神の実際的な内的体験を主張しながら神秘性を高めました。それがイギリスを経てジョン・ウェスレー兄弟の復興運動を引き起こしました。さらに、クエーカー派を起こし、神秘的な内的体験をさせることになりました。
 一方、人間は神を愛することを忘れ、人を愛する理性も忘れ、物質を愛することしか知らない唯物論的な主義にまで到達しました。堕落した人間であっても必ず本来の立場に戻らなければならないため、いずれにせよ物質中心の思想を打ち砕く時が来るのです。
 今日では、神を中心とした中世も過ぎ去り、理性哲学を中心に支配された時代も終わり、18世紀に成立した唯物論的な思想も輝きを失いつつあります。これからの世界は、人が物質を愛しても満足を得られず、過去の歴史的な人物の教えに従っても現実の問題を解決できない、そんな悲惨な世界です。したがって、物質的な生産力を通じて社会の繁栄を目指す共産主義の理念では、到底世界を支配することはできません。
 そのため、21世紀を迎えるにあたって、私たちの前には原子力時代を迎え、物質文明の世界的な支配を破壊する時代がやってくるのです。その次にはどのような時代が来るのでしょうか?愛を探し求め、楽しむ時代がやってきます。互いに尽くし合う時代が私たちの前に訪れるのです。
 したがって、皆さんは来るべき愛の時代に宇宙万物の前で堂々と胸を張って進むために、歴史的なすべての価値を総合し、統合できる中心的な存在としての使命を果たす賢明な人々でなければなりません。
 そして、皆さんは堕落したアダムとエバの道を辿らなければならない立場にあるため、一人一人が第二のアダムの時代的使命を継承しなければなりませんが、そのような資格を持っていないことを知るべきです。さらに、今日の歴史は人間の堕落によって失われた神、真の人間、真の物質を取り戻すための歴史であることを理解しなければなりません。
 では、アダムの堕落はどのようにして起こったのでしょうか?神が許されていない、不義の愛の誘惑に引き込まれて天倫を破壊したことに始まるのです。私たちが生きる中で、エデンの園で起こった天使長的な形態が多く現れています。正しい道でないものが正しい道として振る舞う時代を経ているため、愛の混乱時代を免れることはできません。
 神の摂理は反対の経路を辿って逆に進んできています。6000年の歴史を今日の私たちが振り返ると、旧約時代は物質を求める時代、つまり物質を犠牲にして神の前に出ることができる時代であり、新約時代は真のアダム格であるイエスを犠牲に捧げる時代であったことが分かります。
 そして、これからの成約時代は、すべての人間が神の前に実体の犠牲となり、全ての万物を統合する基準を越え、愛を支配する時代になるでしょう。
 しかし、世界の外面的な側面を打ち壊し、内面的な側面を探して築く形で神の摂理が現れることを、今日のキリスト教信者は知りません。言い換えれば、歴史の外面的な側面を打ち、内面的な側面を取り込むという神の内的摂理の内容を知らないのです。
 では、神が6000年間摂理してこられたのは何を探すためでしょうか?それは神と人間と結ばれた永遠の約束の言葉を見つけるためです。その言葉は、真の父子関係を結んで一つになるということです。
 皆さんは原理を通して人間の堕落が不法な不倫の関係が原因であったことを知っているでしょう。ですから、終末にある皆さんは注意しなければなりません。どの男性も少しの過ちで二人の女性を相手にする立場に立ってしまい、女性はこれに巻き込まれやすいということです。
 では、これをどのように整理し、防ぐことができるでしょうか。このハンドルをどのように動かすかが問題です。
 無限動力を中心とした物質文明の時代が到来しています。初めに人間には生食時代がありました。その後、火食時代を経て、次には水食時代、つまり水の栄養を摂る時代が来るのです。これからは科学的な食糧で私たちの健康を十分に維持できる時代が訪れるでしょう。私たち人間の努力が必要な時代は過ぎ去ろうとしています。
 そのとき、私たちは何をするのでしょうか?そのときに残るのは芸術文化であり、私たちは美と愛の道を探し求めるでしょう。それは良いことです。しかし、人類が天理法道を逸脱してその道を探し求めるならば、結局どこへ行き着くのでしょうか?どうなるのでしょうか?これは今日、宗教を尊重する人々が心配しなければならないことです。
 現代の文明は、世界の真実を知らずにさまよっているため、宗教を必要としない段階にまで来ています。ですから、今日の宗教は人々が進まなければならない道を人類に示す使命を負っているのです。2000年の歴史を振り返ると、数多くの革命がありました。人類はその革命の過程を経て、一つの統一世界を目指してきたことを知るべきです。
 人間に知・情・意があることを考えると、人間を創り、天地万物の主導的主人公である創造主は、さらに高次の原理法道を通すことができる知・情・意の主体であることがわかります。そして歴史を見てみると、個人から家庭、家庭から種族、種族から民族、国家、世界へと拡大してきました。また、そのような外的な形を経て、内的な思想や観念を優先する時代に入ってきています。
 人間個体においても、外面的な側面を経て内面的な精神面に向かっています。精神が主導的であるため、この精神を統一することで一つの価値を見出し、そうなれば統一的な目的に向かって正しい道を歩むことができるのです。
 世界も同様です。世界にも世界認識があるため、一つの帰一(きいつ)点である精神統一のために世界を一つに結びつける世界構造が現れるのです。これが今日、民主主義と共産主義が対立して戦っている姿です。この時、霊界と宇宙を創造された神が宇宙の統一理念を実現しようとされるため、霊界の理念と地上の理念が衝突することを理解しなければなりません。
 地上でも、これまで優勢な民族と劣勢な民族が戦いの歴史を経て一つの世界観を中心に一つの世界に向かっています。やがて霊界のすべての霊が地上に再臨する時が訪れます。そうなると、地上では大きな混乱とあらゆる対立や戦いが起こるでしょう。その時、皆さんはこれらが天の望む方向に収束するように主導的な役割を果たさなければなりません。そのためには、神の心情と天倫の理念を代行できる資格者でなければなりません。これが神が歴史の終局に望まれる希望ですが、今日のキリスト教ではその希望を果たすことはできません。
 これまでの歴史の過程で多くの革命がありましたが、人間の情的な問題を革命したことはありません。社会や国家のすべての構成体系は時代を経る中で革命の要素が芽生えた時、それを排除できず、むしろそれによって革命されて崩壊してきました。
 しかし、人間の親子間の情、夫婦間の情、兄弟間の情だけはまだ革命を受けたことがありません。いかなる倫理や道徳、どんな哲学や理念も革命の過程を経てきましたが、情的な愛の問題については革命を起こせなかったのです。
 では、今日の皆さんはその情的な問題を持って天の前に立てる真の親となったでしょうか?真の夫婦となったでしょうか?真の子供を持っているでしょうか?そうでなければ天倫にかかることになります。
 だからこそ、イエスはこの地上に神の愛を持ってきて、その愛を紹介し、自分を神の子であると言いました。イエスが神と結んだその愛の縁は、今日まで誰も破ることができませんでした。地上にサタンの勢力がどれほど強くても、それを破ることはできなかったのです。また、イエスが「あなたたちは私の花嫁であり、私の兄弟である」と言ったことも破ることができなかったのです。
 このような基盤があったため、キリスト教は歴史の過程を通して発展してきました。こうしてキリスト教は天国の中枢となり、一つの人格を通じて天を代行できる家庭形態を築くために、歴史の過程を通じて発展してきたのです。
 いくら強大な権力を持ち、博士の地位を持っていても、天との情的な縁を持たない人は哀れです。ですから、この原則を知っている人々はイエスに感謝するのです。もしイエスがそれを主張しなかったならば、人間世界はどうなっていたでしょうか。暗黒の世界に変わっていたでしょう。不信と闘争、反目と不和の世界に変わっていたでしょう。
 したがって、この地上に神の愛を中心として人間の情的な分野が一つになり、新しい実証的な愛の世界が築かれてこそ、平和の時代が到来するのです。ですから、宇宙の終末時代にある皆さんは、理性的な問題において自分を中心にしてはいけません。そして、自己よりも家庭を愛し、家庭よりも民族・国家・世界を愛し、世界よりも宇宙を愛する心を持たなければなりません。これまで歴史の過程で見出されたすべての人間的な経綸と天的な経綸がこの終末時代に100パーセント結びつかなければならないのです。したがって、今こそこれまで持っていたすべての情的な問題を捨て、新たに出発できる喜ばしい知らせを待つ時です。
 2000年前、イエスが「誰よりも私を愛せ」と言ったその言葉が、この終末時代に再び現れなければなりません。人間の理性を尊重する時代を経て、物質の時代も経たのですから、今こそ愛の時代が到来するのです。したがって、今は人間の情的な問題、愛の問題を解決できる天の言葉が必要なのです。その時が来たのです。
 これまで人間は歴史の過程を通じてプラスの理念だけを追求してきましたが、それではいけません。天はプラスであり、人間はマイナスのようなものです。ですから、宗教では人間が傲慢であってはいけないと言います。また、自分を愛してはいけないと言います。自分のすべてを否定し、さらに自分の体も打てと言います。これは天がプラスであるため、人間はマイナスでなければ互いに交わることができないからです。
 プラスとプラスは相反します。互いに反発し、押し出すのです。サタンとは何かというと、神がプラスの立場にあるのに、マイナスの立場に立たず、プラスの立場に立とうとすること、これがサタンなのです。前述したように、道の生活では禁欲主義を叫びます。それは、サタン側、つまり悪に属するプラスの面を打ち、マイナスの立場に転換させるためです。
 身体を打つというのは、身体がマイナスの立場に立つべきなのにプラスの立場に立とうとするため、これを打ってマイナスの立場に戻し、天(プラス)と完全に交わることができるようにするためです。したがって、皆さんも自分の身体を中心としたすべての条件を取り除かなければ、完全なプラスである天の前に完全なマイナスとして立つことはできません。
 全宇宙はそのような存在がこの地に早く現れ、神と永遠の愛を交わすことができる愛の日が来ることを待ち望んでいるということを、皆さんは心に留めておいてください。

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御言葉選集3(21)

2024年05月18日 15時50分03秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 3-21 神の選民である選ばれたイスラエルになろう 1958年2月9日(日)

1958年2月9日(日)、前本部教会。

聖書拝読 : 創世記 32:1-28、使徒行伝 1:6-11


<祈祷>

この時間、この場所に伏しているこの息子娘たちが、自分の心が暗闇にあるのか、自分の体が暗闇にあるのか、自ら調べることができるように許してくださり、自分を中心とする心や疑う心を持たないように導いてください。


ただ私たちを探しに来られたお父様の心情と、私たちの哀れな体を抱こうとする内なるお父様の心を慰めることができる真の息子娘となれるように許してください。


私たちが悲しみを感じるならば、6000年の歴史の悲しみを感じさせてください。私たちが苦しみを受けなければならないならば、6000年の苦しみを代わりにさせてください。お父様! 私たちがこの地上に住む間、あなたを裏切ることがないように許し、私たちの体がサタンの鎖に縛られて悲しみの条件を作ることがないように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。


今、あなたの息子娘たちが集まりました。そして、ここの主人はあなたです。この時間、彼らの心が勝手な心にならないように許し、彼らの体が勝手な体にならないように許してください。ただ父を頼り、お父様の憐れみの心に満たされ、お父様の愛の懐に抱かれることができるこの時間を許してください、切に願い求めます。


今、朗読された言葉を通してヤコブが私たちの信仰の標準となることを知りました。一つの意志のために生涯を捧げて努力してきたヤコブの信仰心を私たちが見習うことができるようにし、その心情を体感できるように許してください。私たちの足跡、私たちの心がお父様の意志を代行し、お父様の道を守ってお父様に栄光を捧げることができるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。


お父様が命じた言葉に従うことでお父様の力を現すことができるようにし、不足な私たちをお父様の前にさらけ出します。どうか目のような光で見守ってください。足りないところがあっても、お父様、許してください、切に願い求めます。


暗闇の中に捕らえられているこの民族の中には、行く道を知らず、命の道を知らずにさまよう息子娘たちが多くいることを知っています。どうか彼らを導いてください。最後に許される恵みを許し、命の言葉を民族の前に証しすることができる私たちを許してください、愛するお父様、切に願い求めます。


そして、哀れなこの民族を通して世界のすべての人々がお父様の前にひざまずくことができるようにし、サタンをこの地上で頭を下げさせ、サタンに対して勝利した感動と喜びで満たされるように許してください、お父様、切に願い求めます。


ただお父様が主観してくださり、お父様の貴い言葉であらゆる罪悪を清算し、命の道を見つけるこの時間を許してください。そして、心と体を完全にお父様が直接主観してくださるように切に願いながら、主の名によってお祈り致しました。アーメン。


<説教>


皆さんとしばらく考えてみようと思う説教のタイトルは「神の選民である選ばれたイスラエルになろう」です。「神の選民である選ばれたイスラエルになろう」というタイトルでしばらくお話しします。


創世記にはヤコブが厳しい努力の道を歩んだ後にも天を代わって試みを受けた内容が記録されています。


ヤコブはその試みの過程で自分がイサクから祝福を受けた選民であることを心に抱いており、その意志を阻もうとする天使と最後まで戦いました。それで勝利し、神が許された選民の権利に入ったことを私たちは知っています。ヤコブが神の意志を中心にあらゆる逆境と戦って勝利したことから神が許したのがイスラエルという名前です。今日私たちはイスラエルという言葉を多く使っています。


しかし、これは単なる名前に留まるものではありません。この言葉は歴史的な命を代弁する名前であり、天と地を復帰するために、アダムからヤコブまでの2000年の歴史を終結させることができる勝利の名前であることを忘れてはなりません。また、神がヤコブを立ててイスラエルという祝福を与えたとき、神に喜びがあっただけでなく、反対に悲しみもあったという事実を私たちは悟らなければなりません。


ヤコブを苦しめた神の意志


神がヤコブを探し出し数千年の間努力し摂理したのはヤコブの祖先であるアダムが堕落したからです。アダムが堕落したことで神が与えた祝福を失いました。その祝福を取り戻すためには言い難い悲しみがありました。ヤコブにイスラエルという名前を祝福する神にはこのような悲しみの心があったことを知るべきです。


神がイスラエルという祝福の言葉を与えたのは、ヤコブの一代にだけ許された言葉ではなく、創造の理念と理想を代弁する言葉であり、神の全体の心情がこの一言に込められていることを知るべきです。


それゆえにラバンの家で数十年間苦労して疲れ果てたヤコブ、神が許したカナンの地を築くために困難な生涯を歩んだヤコブはイサクの手を上げて祝福した天の意志を実践する中で財産を含む自分が持っているすべてを失いながらエドムの地のエサウを訪ねました。


しかし訪ねた故郷は自分の一代に幸福をもたらす故郷ではなく、喜びの場ではありませんでした。慣れ親しんだ故郷と兄を訪ねながらも心配しなければならない状況に置かれていました。これはヤコブ一人だけが経験した状況ではなく、すべての人類が歩まなければならない道であることを忘れてはなりません。


故郷に向かうその前にはヨルダン川が横たわっておりヤボク川が横たわっていて、許された祝福の地を前にして一晩中眠れず涙を流して祈らなければならなかった状況は、先祖が残した状況であり、天倫の摂理を運営するお父様の状況であったことを、ヤコブは誰よりも痛感していたことを知るべきです。


このような状況はヤコブの一代だけが経験したものではありません。選民イスラエル民族が歩んできた歴史の道のりでも、神の意志に従って現れたすべての先知先烈たちは、すべてこのような心情を抱いてお父様の懐に帰るために暗闇の壁を前にして戦いの峠を越えなければならない状況に置かれていたことを心に留めておくべきです。


ヤコブがハランで家族を築き成功を収めたが、次に越えなければならない峠、すなわちヤボク川での天使との戦いがありました。これをヤコブの子孫たちは知りませんでした。つまりヤコブの子孫たちはエジプトに入って400年間、ファラオの手の中で民族的な試練を経験しなければならなかったのです。
この時、モーセが現れ、イスラエル民族を再び集め、昔ヤコブから約束されたカナンの地を回復しなければならない責任を負いました。


ヤコブの一代で築かれた勝利の基盤と同じような民族的勝利の基盤を、イスラエル民族はエジプトで築かなければなりませんでした。つまり、イスラエル民族はエジプトで疲れ果てた状態で、ヤコブがヤボク川で天使と戦い勝利した基盤を敵の国で築かなければならなかったにもかかわらず、これを築くことができませんでした。言い換えれば、イスラエル民族は団結して民族的な天の試練を通過しなければならない立場にあったことを忘れていたのです。


このような立場にあった民族を再び集めるために、天はモーセを立て、民族を代表してファラオの宮殿で40年間準備させ、ミディアンでの40年間の牧羊生活の道を歩ませたのです。選民イスラエルの祖先であるヤコブがかつてヤボク川で成し遂げたその祝福を、エジプトにいるイスラエル民族が成し遂げていなかったため、これらを再び集めるためにモーセはヤコブのような民族的な道を歩むために荒野に向かうことになりました。


ヤコブがエサウの祝福を代わりに受けてハランの荒野に向かったのと同じように、モーセもイスラエル民族を代表して神から再び祝福を立てなければならない責任を負いました。このようなモーセは同胞が団結せずに争うのを見て憤り、また民族が異邦人の前で不当な扱いを受けるのを見て、その異邦民族に対抗して命を賭けて戦いました。


このようなモーセの後を追ってエジプト民族に対抗して戦わなければならないイスラエル民族が、むしろモーセを追い出す立場に立ちました。これはちょうどヤコブが神の祝福を受けて故郷を離れたのと同じ立場でした。また、ヤコブが祝福を受けるべき家庭を離れ、サタンの家庭に行ったのと同じように、モーセも祝福を受けるべきイスラエル民族をエジプトに残し、ミディアンの荒野生活40年の道を歩むことになりました。このようにモーセが荒野に向かった事実は、モーセ自身にのみ該当する問題ではありませんでした。


ではなぜモーセはこのような道を歩まなければならなかったのでしょうか。それはヤコブが神の心情を代行して築いた勝利の基盤が失われたからです。そしてこの基盤を民族的に再び築かなければならない責任を、誰よりも痛感したのがモーセでした。敵の手で苦役を経験しているイスラエル民族のために、誰よりも切に祈ったモーセ、1日1時間でも苦役の道を歩んでいるイスラエル民族を忘れたことのないモーセの心情を、皆さんは骨身に染みて感じるべきです。


牧羊者として荒野で孤独な生活を送る自分の事情が悲惨であっても、自分の悲惨さを忘れ、エジプトの地で敵に苦しめられながら苦労しているイスラエル民族を見て同情の涙を流したモーセであったことを皆さんは知るべきです。このようなモーセの孤独な事情と心情が天に通じ、モーセが天のために心配し、選民のために代表的な姿で現れたため、神はモーセを再び呼び、ファラオの宮殿に派遣したのです。


これはちょうどヤコブがエサウを恐れて21年間ラバンの家で苦労し、その後すべての財産を持ってエサウのいる場所に向かう道と同じです。このようにモーセもヤコブと同じ困難な道を歩んだことを皆さんは知るべきです。こうして3つの奇跡を示し、言葉を代行するアロンとミリアムを立て、天が命じたファラオの宮殿に向かうことになりました。


しかし、ここで何が起こったのでしょうか。モーセの道は神が後援する立場ではなく、寝ているモーセを殺そうとする事態が発生しました。これもまたヤコブが歩んだ道と同じです。ヤコブがヤボク川で天使と格闘しているとき、腰の骨が折れるのも気づかずに戦ったその事情を通らなければならないモーセの立場だったため、モーセもまた神の前で同じ立場に立たされました。モーセはこの試練を無事に越えた後、選ばれたイスラエル民族に再び会い、神と民族を代行して民族的なイスラエルの祭壇を築くことができたのです。


モーセに対するイスラエル民族の責任
さて、ここで私たちが知っておくべきことは何でしょうか。私たちの祖先であるヤコブとモーセだけがこのような道を歩まなければならず、このような責任を負ったのかと言えば、そうではありません。ヤコブだけがこの責任を果たすのではなく、ヤコブの家族全員もヤコブ以上に切実な心情を持って天の前に訴え、責任を果たさなければならない立場にあったのです。しかし、ヤコブに従っていたその家族はこの事実を知りませんでした。これが天の悲しみだったのです。実際にはヤコブよりも家族がもっと切実に感じるべきでした。


イスラエル民族を探しに出たモーセ、神がミディアンの荒野で天地は変わってもあなたの約束は変わらないと仰せられた言葉を信じて進んだモーセは、固い覚悟と決意を持ってイスラエル民族の前に再び現れました。このような立場にあったモーセには神の試練だけでなく、ヤコブがエサウから受けた反対と同じファラオの宮殿の反対がありました。皆さんが原理を学んでよく知っているように、ヤコブが十回騙されたことを蕩減する10の災いをエジプトに下してファラオを屈服させることで、イスラエル民族は二度目の民族的な祭壇を築いたのです。


では、神に悲しみがあったとしたら、それは何だったのでしょうか。それは敵による悲しみではありません。また、神に悲しみがあったとしたら、それは敵が悪かったからではなく、神の苦労の道を追っていたイスラエル民族の祭壇が崩れたことが神の悲しみであり、人類の悲しみであることを知るべきです。
60万の民を率いてカナンの地に入らなければならなかったモーセには、また別の試練が立ちはだかっていました。それが紅海の道と荒野の道です。これは何を意味するのでしょうか。それは、モーセが個人的に歩んでいた試練の荒野の道を、民族としても経験しなければならないことを意味します。このような運命にイスラエル民族を追いやったことを皆さんは知るべきです。


荒野でイスラエル民族はモーセが手を挙げれば自分たちも手を挙げ、モーセが座れば自分たちも座り、モーセが行けば自分たちも行かなければなりませんでした。つまり、60万の民が全員第2のモーセとなって、モーセと神を代行しなければならなかったのですが、彼らはそれを忘れていたのです。言い換えれば、神がファラオの宮殿から彼らを引き出したときには感謝し、自分たちを愛する神だと認識し、固い約束が残っているのでカナンの地まで導いてくれると思っていたイスラエル民族だったのです。


では、なぜこの民族は荒野で倒れてしまったのでしょうか。それは、40年間の荒野での放浪生活と牧羊者の生活を送りながらも、神が愛する選民のために節操心を持って戦い続けていたモーセの心を持たなかったからです。イスラエル民族がその心を少しでも持っていたならば、荒野で倒れることはなかったでしょう。


民族を代表して民族的なイスラエルの祝福を築こうとする神の願いは、民族を代表するモーセとその民族が一つになることでした。しかし、二つに分かれたために民族を代表するモーセも崩れ、民族を導くモーセが崩れるとイスラエル民族も崩れたのです。これを皆さんは知るべきです。
それでは、荒野に出て空腹を覚えたときにうずらを与え、マナを降らせて食べさせた神が、なぜアマレク族を通してイスラエル民族を攻撃することを許されたのでしょうか?これは、人間が天倫の意志に反逆したために、人間が天倫の意志を追い求めようとするときに、神も反対の立場から試練を与える摂理的な条件が残っているため、アマレク族を通してイスラエル民族を攻撃せざるを得なかったのです。このような天の切ない心情があったことを皆さんは理解しなければなりません。


この試練に通過できなかったために、死ぬはずのなかったモーセが死に、死ぬはずのなかった民族も滅んでしまったことを知っておくべきです。このとき、モーセには民族の指導者としての責任があったため、モーセ自身の過ちはなかったものの、不信の民族を代表してシナイ山に上り、食べ物もなく、衣服も着ずに倒れそうになるイスラエルを見つけるために、40日間の贖罪の祭壇を築きました。


もしイスラエル民族に選民の資格があったならば、モーセがシナイ山に上り、切に祈っているときに、その山を囲んで60万人が眠らず、食べずに天に向かって「神よ、私たちの指導者モーセを下してくださいますように」と祈ったはずです。しかし、そのような人は一人もいませんでした。


モーセが飢え、祈らなければならなかったのは自分自身のためではなく、民族のためだったのに、民族はそれを夢にも思わなかったため、滅びるしかなかったのです。モーセはヤコブがヤボク川で祈ったのと同じような難しい局面に立たされましたが、モーセに代わってイスラエルの60万人を導く人がいなかったのです。もしそのような人が一人でも現れ、民族を導いていたならば、彼らは困難な立場に置かれることなく、安らかな場所にいたでしょう。しかしそうならなかったため、サタンが民族を弄ぶことになったのです。このような歴史の道を私たちの祖先が歩んできたのです。


試練と試練の意味
このようにして再びモーセに代わる指導者としてヨシュアとカレブを立て、2世たちを引き連れてカナンの地に入ることになりました。イスラエル民族はカナンの地に入ってからは聖殿の理念を実現し、聖殿と一体となるべきでした。しかし、この立場に立つことができなかったために、イスラエル民族は倒れてしまいました。このように、言葉を中心に一つになれない民族は、時が来る前に必ず神から見放されるのです。


アダムとエバが全被造物の主人公になることができなかったのですが、この被造物は言葉を中心に6期間を経て作られたため、万物復帰の民族的な峠を越え、世界的な峠を越えるときには、必ず6数の過程を経て神の言葉を立てるか立てないかの試験、つまり天使長がアダムを攻撃するということが起こるのです。


そのため、イエスが来る6世紀前にイスラエル民族は旧約の言葉を守るか守らないかの試験を受けました。つまり、天がイスラエル民族に使命を世界に広めるべき時が来たときに、民族が試練を受けるのです。これがイスラエル民族がバビロンに捕らえられた期間なのです。過去に神を裏切ったこの民族が再び言葉を裏切るか、裏切らないかの重要な岐路に立たされました。


天を裏切った民族だったため、天に代わってこの民族が新しい6数の出発点を越えるときには、サタンの攻撃と打撃を許さざるを得なかったのです。そこでバビロンにイスラエル民族を占領させる時があったのです。


そのとき、イスラエル民族はどうするべきだったのでしょうか?神が与えた言葉を握りしめ、モーセが荒野をさまよいながらも神を敬い民族を愛したその心情を持ち、敵国であるバビロンに行き、最後まで戦ってこの言葉を守らなければなりませんでした。そのような民族でなければならなかったのに、そうならなかったため、イスラエル民族は崩れ去ったのです。


旧約聖書を中心に二度目の民族的な言葉の基準を復帰しなければならなかった歴史的な道のりに立ったイスラエル民族が、神の選民としての節操を持っていたならば、たとえバビロンに捕らえられたとしても、モーセのような新しい指導者が現れ、彼らを導いたことでしょう。


しかし、6世紀が過ぎた後にどのような形が現れたでしょうか?使命があってヤコブがエサウの直系を無視し、モーセが選んだイスラエル民族を無視したのと同じように、イエスが地上に来られて使命があってエサウの立場にいたイスラエル民族がエサウ的な言葉である旧約を無視して進み出たとき、歓迎されるべきエサウの立場にいたイスラエル民族がイエスを歓迎しなかったため、世界的な死の権を形成したのです。


それでは、このイスラエル民族はどのような形でしょうか?エデンの園でアダムとエバを試した天使長の形に似ているのです。そして、今から500年前には新約聖書を攻撃することがありました。つまり、人本主義思想を中心とした文芸復興によって、今日のキリスト教を中心とした封建社会が根本的に崩壊したのです。


教皇庁の主権が崩れ、フランスの攻撃によってアヴィニョンの捕囚期間を経る運命にありましたが、これは何を意味するのでしょうか?復帰の道においてこのようなイスラエル民族を代わる第二イスラエル民族がイエスの時代に形成されるべきでしたが、第二イスラエル民族を代わる新しい使命を担ったキリスト教が使命を果たさなかったため、キリスト教を世界的に攻撃することになったのです。これを皆さんは原理を通してよく知っています。


そこで教皇は天の前に悔い改めるべきであり、神が立てた節操を持つべきであり、最後までこの意志を継承して今日に至るべきでした。それでは最後の時にどうするべきでしょうか?そのときに残された既成の言葉と既成の教団はエサウの立場にあり、イスラエル民族の立場に立っていることを彼らは知るべきです。


キリスト教信者に対する神の願い
それゆえに、神に願いがあるとしたら、その願いは何でしょうか?堕落によって失われたこの世界の人類を代わって見つけられた選民イスラエルを復帰することが神の願いであることを皆さんは知るべきです。イスラエル民族を復帰しようとする天の摂理の意志を皆さんが理解すべきです。
ヤコブを通して、モーセを通して築かれたイスラエル民族は、2000年前にどこへ行ったのでしょうか?彼らはイエスの前に敵となりました。イスラエル民族とユダヤ国家を世界復帰の足場として立て、この足場を中心に世界的なカナン復帰の電撃戦を展開しなければならなかったイエス・キリストの道のりでしたが、イエスが亡くなられたことで、イエス様はモーセと同じ状況に置かれました。それで今日までキリスト教は荒野時代にあるのです。主人を失ったイスラエル民族と同じく、荒野の道に留まっていることを皆さんは知るべきです。


それでは、イエス様はこの地に来られて選ばれた第2イスラエルを回復し、ユダヤ民族はイエスを中心に世界的なカナンの地を復帰しなければならなかったのですが、この責任を負ってイエスの前に立った選ばれたイスラエル民族はどこに行ったのでしょうか?また、ユダヤ教はどこに行ったのでしょうか?イスラエル民族が消え、ユダヤ教団が消え、イスラエルの家庭が消え、ヤコブやモーセのような個人的なイスラエルも消えたため、哀れなイエスが死んでいったのです。


イエスは死にたくて死んだのではありません。今日の既成の神学者たちは、イエスが死ななければならなかったと誤解しています。民族と教団の前に追い詰められ、家庭から追い出され、12弟子に裏切られ、最後には3弟子にまで裏切られ、行く先は死ぬ場所しかなかったのです。


イエスが30余年の生涯を哀れに過ごすことが、神がイエスを送った目的ではありませんでした。イエス様は天の皇太子であり、一人で創造の理念を代行できる天下の主人公として送られたのです。神が愛する独り子イエスが地上に来て苦難を受けたのは、イエスが間違ったからではありません。民族と教団が理解せず、社会と家庭が理解せず、イエスは苦難の道を歩んだのです。
このようにイエスを殺した歴史的な罪を犯した我々にとって、イエスが探し求めたイスラエルはどこにあるのでしょうか。心から訴えなければなりません。また、イエスが探し求めたイスラエルの教団はどこにあるのでしょうか。心から祈らなければなりません。イエス様が2000年前にこの地に来られてイスラエル民族と教団を探されたことを、皆さんは知るべきです。


イエスはこの地に来られ、選ばれた第一イスラエルが反対したために亡くなられました。そのため、イエスを信じるキリスト教徒たちを失った第一イスラエルに代わる第二イスラエルとして立て、世界に広め、再び再編成しておられるのです。今がまさにその時です。


そこで今日、世界中に広がってイエスを信じるキリスト教信者にはどのような使命があるのでしょうか。イエスを裏切って十字架にかけることで、最初に選ばれて立てられたイスラエルを失ったので、これに代わる第二イスラエルを建設しなければならない道が、今日のキリスト教信者に残されているのです。


今日、世界中に広がっているキリスト教信者は、どのような立場にあるのでしょうか。それは、イエスの12使徒のような人物を中心に、またはイエスの3弟子のような人物を中心にして一つの教派として団結しなければならない時なのです。しかし、そのような組織を失っているキリスト教は危機に瀕しています。モーセの前にいた60万人の民は、12部族の長と70人の長老を中心とした組織の中でそれぞれの位置が定められていたため、荒野の道を進むことができました。しかし、今日の第二イスラエルとしての使命を負った世界のキリスト教徒たちには、そのような組織がありません。


イエスの前に12使徒と3弟子が責任を果たさなかったため、イエスが亡くなったのです。したがって、世界中のキリスト教は、世界を代表する教派を中心に12教派の形を整えて結束しなければならない時期が迫っていることを知るべきです。


イエスは今、何をしているのでしょうか。イエス様は天の意志をこの地で成し遂げられなかったため、ヤコブやモーセが牧羊生活をしていたのと同じように、今もイエスはあの世で牧羊生活をしています。霊界に行って休むことなく、皆さんのために祈っているのです。これが牧羊生活です。


それと同時に何をしているのでしょうか。イエス様は今までの2000年の歴史の中でイエスを信じて進んできた人々、すなわちイスラエルとなるべき人々を集め、霊界で失われた第二イスラエルの形を作り上げたのが楽園です。イエスを殺そうとした第一イスラエルを失ったため、蕩減復帰の原則によってイエスの前に現れた聖徒たちを集め、イエスが復活した後に霊的に第一イスラエルを復帰した形が今日の楽園の世界です。


地上天国の主人公の資格
楽園の世界はどのようになっているのでしょうか。楽園の世界に行った霊人たちも、第一イスラエルの祝福を受けてイエスを迎える足場を地上に築かなければならない条件が残されているため、天上にいるすべての霊人たちは地上に再臨し、現在生きているクリスチャンを第二イスラエルの祝福を代行できる立場に立たせ、彼らと一体となって第一イスラエルがイエスを反対したことを蕩減復帰するために活動しなければならない運命にあるのです。これを皆さんは知るべきです。しかし、今日のキリスト教徒はこれを知りません。


今日の終わりの日はどのような時でしょうか。旧約の言葉を信じていたユダヤ民族が異邦人に攻撃されたのと同じように、新約の言葉を信じているキリスト教徒が攻撃される時があるのです。それで、人本主義思想を中心とした唯物論がキリスト教を攻撃しているのです。このように新約の言葉を信じるキリスト教が攻撃されている中で、言葉を守って進むことができる一つの教派が現れなければなりません。その教派は改革派でなければなりません。


モーセの時代において、幕屋を奉じていた時代が過ぎ、神殿を奉じる時代が来たときに、民族が結束して戦わなければならない試練が残されていたことをユダヤ民族は知りませんでした。そして、神殿を奉じていた時代から実体神殿を完成させる時代に移行するときにも、宇宙的な戦いが必要です。この戦いを防げなかったため、今日のこの戦いが世界的に広がったのです。


終わりの日においても同じように、皆さんは実体神殿を整えなければなりません。そして実体神殿を成した後には何をするべきでしょうか。地上天国を建設しなければなりません。


人間は堕落によって言葉を失いました。それで旧約・新約の言葉が出てきて人間を善の方向に導き、今や新しい言葉が出てきて、その言葉と一体となった人々を実体的に復帰させるのです。封建主義時代は神だけを中心とする時代でした。しかし、宗教改革が起こり、その宗教改革によって神だけを中心とするのではなく、人間と結びつくことのできる神として考えるようになりました。人間たちはこのような過程を経てきましたが、今や実体神殿を復帰する時代に入ったのです。
それではここで、皆さんはどうすべきでしょうか。新約を中心とするこの時代において、将来世界的な聖約の理念が現れるとき、皆さんが世界を抱くことのできる主人公となり、イエスに代わる存在となる必要があります。地上天国の主人公になるためには、実体神殿を成した後、環境的な主人公にならなければなりません。このような存在になるためには、理念的な革命の過程を経なければなりません。


それでは、その過程はどのような形になるでしょうか。歴史は蒔いた種を刈り取るように、今日の世界的な終末時代においても、既成概念に属する信仰者たちや既成主義の言葉を持つ者たちは、すべて天を裏切る立場に立っています。彼らは誰かというと、天使長のような立場にいる者たちです。エデンの園で天使長がアダムとエバを誘惑したのと同じように、終末のこの時代にも天使長のような霊的な教団が現れ、神の意志に対して反対する時が避けられなくなるのです。


神がこのような原則を通じて復帰摂理を進めることを感じるとき、終末にいる私たちはどうすれば選ばれたイスラエル民族になれるでしょうか。皆さんは決意しなければなりません。覚悟しなければなりません。皆さんはどのような人にならなければならないのでしょうか。皆さんはヤコブの後継者になるべきです。20年余りの生涯を経てヤボク川で信じて戦い続けたヤコブの代わりになるべきであり、荒野の道でイスラエル民族を支えながら祈り歩んだモーセ、あるいは世界人類を代表してイスラエルのためにゲッセマネの園で祈ったイエスに代わる人になるべきです。


終末にあるキリスト教徒の立場
それでは、今、世界中に広がっている第二イスラエルよ、あなたの行くべき場所はどこか?世界中に広がっているキリスト教徒は天に向かって訴えなければならない時が来ました。イスラエル民族が苦難の中でエジプトのファラオの宮廷を憎み、「誰が我々を約束の地カナンに導くのか」と指導者を求めてさまよったのと同じように、今日のキリスト教徒も自分の属すべき部族と位置を探さなければなりません。


そのために、既成教会は崩壊します。12の団列に分けることができるからです。どんなに取り締まっても、団列を編成して世界的な復帰の運命を超えなければならない立場にあるため、国家の運勢を動かすキリスト教であっても、社会や家庭、個人においてその威信を失う時が来るのです。


イスラエル民族がエジプトにいるときには団列の編成をしませんでしたが、荒野を出発する時になって初めて団列の編成をしました。同じように、世界的なキリスト教も世界的なカナン復帰のための再臨の理想が近づいてきたため、団列の編成を開始すべき時が来たのです。


もし過去にイエスが地上でペテロ、ヨハネ、ヤコブを中心とした12使徒を通して団列を編成し、信者がその部族に属するようにしてから帰天されたならば、今日の世界のキリスト教は混乱を起こさなかったでしょう。これを再び整える時が来ています。しかし、最も底辺で拒絶された一つの集まりを立てて証言する時が来るかもしれません。統一教会がそのような教会かもしれません。


それでは今日の韓国キリスト教において霊的な働きをする者、新しい教派が出てきました。それらの派が今、教会を分裂させています。団列を編成しなければならないので、このような働きが起こっているのです。ここで問題となるのは何でしょうか。既成主義的な観念です。これは神の前に敵です。既成主義的な観念、つまり自分はエサウのような長子だから神の祝福を受けるべきだという浅はかな思想を捨てなければなりません。少しでも間違うとエサウの観念に立ち、イエスを殺したユダヤの民になる危険があります。


これを乗り越えなければならない歴史の終末に来ていますが、この関門をどう乗り越えるかが課題です。この時、誰が敵でしょうか。エデンの園でアダムに最も近かった天使長が敵になったのと同じように、アダムを復帰するために第二のアダムとして来られたイエスの前では、霊界の天使長の形に該当した当時のユダヤ教の祭司長が最大の敵だったのです。彼らは天使長の形を第二に受け継ぎ、イエスを攻撃したため、地獄に行かなければなりません。


今日の終わりの日にも、同様に世界中に広がる教職者たちが再臨の主の前に天使長となって天を利用して天を打つこのような形が現れるでしょう。しかし、たとえそのような立場に立っても、環境に影響されることなく、歴史の運命は越えていきます。この道を誰が歩むでしょうか。このような祭壇の前に新しい言葉を語り、新しい終末を告げることのできる一つの預言者的な使命者が現れなければなりません。しかし、彼らは既成教団の前に拒絶され、新しい段階に進むことになります。


すると同時に、どのような時代が来るでしょうか。霊的な世界の攻撃の時代が来ます。天使長がヤボク川でヤコブを苦しめ、モーセやイエスを攻撃したのと同じように、世界的な終末時代においても、地上のすべての人々が反対し、同時に天も攻撃する時代が来ます。


サタンの訴えを免れる信仰
イエス様が運命を迎えたとき、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」(マタイ27:46)と言われたのは、万宇宙の復帰の主人公を代行して現れたイエスが、宇宙を代表してアダムが天を裏切ったことを蕩減しなければならなかったからです。このようなイエス様は、あなたを知らないと言われても「知っている」と言ったため、その「知っている」という条件が霊的な復活を引き起こすことができたのです。皆さん自身にもこのような歴史的な岐路が残っていることを知るべきです。


今日の世界的な終末の運命が皆さんの生活圏に浸透していることを感じるならば、それは皆さんにとってモーセと民族が結束しなければならなかった時期を予告しており、モーセがファラオと戦った時代を予告していることを知るべきです。


それでは神の悲しみはどこから生じたのでしょうか。その指導者たちが間違ったからではなく、後に従った人々が間違って神を悲しませたことを知るべきです。
今日、皆さんは他の人が知らない道、他の人が歩かない道を進む目的は何でしょうか?皆さんは力を合わせて団結し、神が運行できる一つの団列となり、食べる時も飢える時も個体を忘れても天倫の意志に従って苦しんだモーセの足跡を守る後継者にならなければなりません。ヤコブの足跡の後継者となり、イエスが歩んだ道の後継者として使命を果たすべきです。これが終末の聖徒たちが選ばれたイスラエルの地に入るための条件です。


天に代わるイエスはこの原則を知っていたため、「生きようとする者は死に、死のうとする者は生きる」と言いました。つまり、サタンを屈服させるためには、神を中心とした死の場を越えなければなりません。天が人間を拒絶しても揺るがずに信仰を持ち続けなければ、サタンが退き、サタンのすべての訴えの条件を取り除くことができるのです。


それでは、天は失われた第一イスラエルの形を霊的に立て、世界中の信者を第二イスラエルとして立て、彼らを一つにして第三イスラエルの建設を進めるのです。


したがって、今日の皆さんはアブラハムのような第三イスラエルの祖先にならなければならず、ヤコブに代わる第三イスラエルの祖先となり、民族の代表者であったモーセのような第三イスラエルの代表者となり、世界の代表者であるイエスのような第三イスラエルの代表者となるべきです。そして、皆さん自身が神の復帰摂理の歴史を振り返り、かつてお父様なる神を訴えたサタンを踏み越えて神を慰めることができる個人、民族、国家、世界にならなければなりません。


サタンとは何でしょうか。神に反対する逆賊です。しかし、サタンも神を嫌っているわけではありません。だからこそ、神はサタンを無視することができないのです。サタンも神を好んでいます。この条件があるために6000年もの長い年月を経なければならなかったのです。サタンも神を好む立場から、「アダムを通して万物を支配すべきこの意志を私に託して宇宙を支配させてください。そうすれば神の前に絶対服従します。」と申し出るのです。


サタンは神に対抗し、神の前で承認を得るための働きをしているのです。摂理の意志に最後まで反対して承認を得ようとする立場に立っています。忠臣を装う奸臣も王を嫌うことはありません。しかし、忠臣を排除して自分の言葉を聞いてもらおうとします。


このような立場に立つサタンの権内に全世界があるため、これを認めれば世界は神の前に戻ることができるのです。しかし、それができないのは天理の法度を破ることができないからです。神は法度の神であり、秩序を乱すことはできません。だからこそ、あらゆる苦労をしながらも、世界を支配するサタンを承認せず、世界を支配するサタンの前に人を立て、サタンの訴えを防ぐことが神の切実な心情でした。


もしサタンの訴えを防ぐ人が現れれば、神に対して何も言うことはできません。天理の原則が回復されるため、エデンの園で天使長がアダムとエバに支配されるべきという原則を掲げる主人が現れれば、すべてのサタンは根本的に屈服しなければなりません。それもイエス様のように霊界で神の座に行くのではなく、地上でその日を迎えなければならないのです。その日を迎える時が再臨の時代です。


皆さんはもう反対するサタンの立場に立ってはいけません。6000年の間、苦労された神の足跡を追わなければなりません。今日の終末の皆さんは、神の無限の世界の最初の出発点であるアダムの時代から今日までの復帰過程で苦労された神の心情を体感し、神の後を追わなければなりません。このような運命に置かれているにもかかわらず、夢を見ていないのは大問題です。


サタンの試練に勝つ道


「神よ、私を通して栄光を受け、安息を得てください」と言える天国の選ばれたイスラエルが必要です。この使命を代行したのがヤコブであり、モーセであり、イエスです。神がサタンと戦った戦いを引き継ぎ、サタンに対抗して戦う姿となってこそ、ここから決定的なイスラエルの主権が天の前に立てられます。これにより、これまで神を訴えてきた戦争の目的が終わりを迎えます。どんな抗議も立てられないため、戦争は終わるのです。そのような人々を中心に第三イスラエル建設のための出発が始まります。


モーセの時代、エジプトの地にいたイスラエル民族には、自分たちの故郷であるカナンの地を攻撃する戦いが残っていました。イエスの時代には、イスラエル民族を中心に世界的なカナンの地を建設する戦いが残っていました。今日、第三イスラエルを建設すべき私たちには、団結して第三イスラエルを成し遂げるための激戦が残っています。


それでは、今日の皆さんはどのような人になるべきでしょうか。イスラエル民族を再編成する際、天に対して神の前に立つイスラエルの選民として、自ら3人組の一員となり、小隊長、中隊長、大隊長、連隊長、師団長になるべきです。このような天の精兵の指揮官になるのは誰かが問題です。これを行う時が必ず来ます。歴史的な終末にはすべてが一つの世界に統一されます。多くの人々が思想の統一を求め、地上世界が統一理念を求めているため、必ず天の理念を通じた統一の時が来ます。


これまでの歴史の過程ではどうだったでしょうか。二つが戦えば、その中で少しでも善なるものが勝ちました。これが原則です。地上世界が一つの理念圏内に入るとどうなるでしょうか。地上よりも少し善なるものが勝ちます。これが霊界の地上攻撃時代です。そのため、今日では原因不明の神経症が多く発生しています。薬では治りません。これは天地双和湯を飲まなければなりません。


天を和合させ、地を和合させるこの理念のために、霊界が地上を襲撃する時が来ました。地上人が地上で神の意志を代行する時なので、一つになるためには必ず戦いがあるでしょう。二つが戦った後に一つになるその世界が、天を中心として合一する審判の時です。このように霊界が地上を襲撃する場で、地上を代表する総指揮官としての使命を持って来る方が再臨主です。
第三イスラエル建設の道の出発に立つ皆さん、どうすべきでしょうか?霊界の法度を知ることで初めて解放されるのです。その命令系統がどのようになっているかを知る必要があります。その国の軍隊は自分たちの軍隊で使われている暗号を知らなければ、戦争の際に自軍から攻撃されることがあります。


今は天国の暗号が聞こえる時代です。今は暗号通信時代です。摂理的な暗号、歴史的な暗号、時代的な暗号、人間的な暗号、使命的な暗号の通信時代であり、これらの暗号を通じて連絡が取れ、作戦計画を実行でき、地上の統一理念を代行できる時代です。


今日、既成教会から反対される朴長老、私長老、統一教会、あるいは所謂異端派と呼ばれるもの、それで良いのです。現代は科学も宇宙時代を論じる時代です。人工太陽を作る時代です。このような時代に達しているのに、まだ古い宗教観念を持っていてはいけません。これを踏み越えて進む包括的な統一主義が現れなければなりません。


今日、暗号を通じて連絡が取れる短波装置があるのと同じように、神の秘密を通じて連絡が取れる短波装置を持っている者がいれば、その者は勝利するでしょう。だからこそ、霊界が地上を襲撃するときには戦争の方法が変わります。戦いは始まりますが、その限界はわかりません。このような形の戦いが地上で起こりますが、その時、良心を持つ人々はそこに動員されるでしょう。
今日、皆さんはこの終わりの日を迎えるために、良心的で善良な人々を犠牲にしてここまで歴史が進んできたことを知らなければなりません。私たちが堕落の運命に置かれている今日、最終的な一致の理念世界を探し求め、すべてを忘れて犠牲する覚悟を持つべきです。そして、イエスの肩に乗り、「神よ、私をお任せください」と自信を持って言える天の真の子供たちにならなければなりません。神もそのような子供たちが現れることを望んでおられます。


皆さんは、楽園世界にあるすべてを解放し、天国生活を紹介する使命がイエスや神にあるのではなく、今日の終わりの日にいる皆さんにあることを心に留めてください。イエスに代わりすべての作戦計画を担当し、神に代わって戦う代表者が現れ、責任を果たすことで、神とイエスを解放することができるのです。このような宇宙的な使命を前にして、皆さんは勝利のイスラエルの道を探し求めるべきです。


そのためには、まず自分が所属すべき団列を探し、自分の指導者を見つけなければなりません。また、自分が天の前にどのような位置にいるのかを知り、揺るぎないモーセ、アブラハム、ヤコブ、イエスの代わりになる存在となるべきです。そして、サタンに対しても、「あなたは万宇宙の創造理念を代行し、神に栄光を捧げる資格を持つ神の子供です」と称賛され、サタンから崇敬される存在となるべきです。そのようにして初めて、地上天国の園で世界的な聖殿理念を代行し、神の前に立つことができるのです。


しかし、それに至る前に皆さんは大きな戦いに直面します。各教派が皆さんを攻撃します。霊的な試練もあります。モーセを神が試されたように、皆さん自身にもその道があり、モーセが民族に裏切られたように、皆さんにもその道があります。イエスが十字架上で天に見捨てられたように、皆さんにもそのような試練があり、イエスが民族に裏切られたように、皆さんにもその道があることを知り、それに失望してはなりません。


神の意志というものは簡単なものではなく、極めて難しいものです。ですから、皆さんは世界的な苦難を背負い、極めて苛烈な反対を受けながらも、戦いの道で倒れてはならないのです。世界と天地が一つの一致点を見つけるまで、皆さんは戦い続けなければなりません。


この過程で、皆さんはイスラエル民族がエジプトを出て荒野に出て、食べ物がない、水がないと嘆いたように嘆いてはいけません。誰も認めてくれないと責めてはいけません。自分を理解してくれるモーセのような指導者を一人だけでも見つければ、それが一番だと思ってください。自分を理解してくれる神だけを頼りにし、自分を理解してくれるイエス様だけを頼りにし、それが一番だと信じ、すべての人から拒絶されても、その方だけを頼りに進めば、その方が成し遂げることを自分が引き継ぐことができるという心を持たなければなりません。そうして初めて、皆さんは第三イスラエルの選民としての資格を持ち、神の栄光に参加することができるのです。


そして、神の栄光の姿になると同時に、歴史的な栄光の姿、全宇宙の理念を代行できる栄光の姿となるのです。つまり、私たちが栄光の子供として世界を代表して天の前に現れることで、神が初めて安息できるのです。


ヤコブに天使が祝福したような祝福ではなく、神が直接イエスに手を挙げて祝福しようとしたその祝福を皆さんに授けるでしょう。つまり、終わりの日に見つけられた皆さんに、神は手を挙げて「イエスに代わる私の子供たち、永遠の第三イスラエルの主人公としての私の子供たち」として祝福し、永遠に天が喜ぶことのできる実体的な喜びと栄光と美の存在となるよう祝福するでしょう。


このようにして、イエスの愛を通じて神の愛の領域に入り、神の愛を成し遂げることで、第三イスラエルの先祖となることができるのです。




<祈祷>
天のお父様、霊界では第二イスラエルの名のもとに団列が編成されていますが、今日の世界に広がるキリスト教が第二イスラエルの団列を成し遂げていません。お父様、眠っている民族を目覚めさせ、眠っている世界のキリスト教徒を目覚めさせ、地上で第二イスラエルの祝福を代行できる団列を組織し、霊界と一つになり、今日第三イスラエルを世界的に建設できる選民権を私たちにお許しください。


そして、団列で組織された種族を通じて、民族を通じて、国家を通じて世界に至る天的な使命を私たちが引き継ぎ、モーセが戦った道を引き継がせてください。イエスが戦った道を引き継ぎ、サタンの非難と訴えを退け、お父様を迎えることができるようにし、お父様の栄光を私たちにお許しください。お父様、心から願い求めます。


今日伝えられた言葉を受けて、神が選ばれた選民イスラエルの苦難を乗り越える喜びの子供として私たちを立ててくださいますように、そして、彼らが世界カナン復帰の道を成し遂げることを許してください。今、サタンとの戦いの道で私たちが一つに結束し、勝利するように、そして、中心的なイエスの意志に反逆する者とならないようにしてください。中心を苦しめる者とならないようにしてください。


モーセを非難した民族でしたが、イスラエルの建設のために天が必要とされました。今、私たちが天を心配させることなく、第三イスラエルを成し遂げることができる子供たちとしてください。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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御言葉選集3(20)

2024年05月18日 15時07分33秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 3 - 20. 神様を迎える者になろう (1958年2月2日)

1958年2月2日(日)、前本部教会。

ヨハネによる福音書 14:1-17



<祈祷>

 愛のお父様! お父様の御前に伏しているこの子供たちが、お父様が望む清らかな心と体を持てるこの時間をお許しください。
 お父様が行われる時、お父様のご臨在を感じられない心と体を持つ者がいないようお許しください。同時に、心をもって体をもって自分自身をお父様に捧げることができるように、そしてお父様の切なる心情が私たちの心を通じて私たちの体にまで伝わるようお許しください。
 天が今切実に求めているように、私たちも切実にしてください。お父様が宿ることができる聖殿を築けるようお許しください。
 何もない者たちを探すために6千年という長い年月を歩んで来られたお父様を抱きしめて泣くことができる者にしてください。すべての虚しい罪を脱ぎ捨てさせ、お父様の胸に抱かれる心、切なる心情に満ちる心を持てるように、私たちの心と体に満ちる愛をお許しください。
 この地には多くの人がいますが、お父様の心情を知る者はおりません。自分の子供を愛する人は多いですが、お父様の心情を知る者はこの地にはおりません。お父様、あなたを知らないこの地の全ての人々を哀れんでください。
 特にこの韓民族、三千万の民を哀れんでください。お父様、あなたの憐れみの手がこの民族にあれば、この民族には何もなく、誇るものもなく、お父様に捧げるものもありませんが、困難な道を歩んで来られたお父様の事情を心配して身を置く場所がありません。お父様、この国に訪れてこの民族を導いてください。
 世界の人々の心を一つにし、お父様の御旨を受け、お父様の祭壇を築くことができる誇り高きお父様の息子娘がこの民族から多く出ることを、お父様よ、切に望み願います。
 お父様は無限に私たちを心配しておられ、お父様のために切に願う子供、そのような教団、そのような民族があれば、お父様が訪れて安息したい切なる心情があることを知っています。どうか今日、私たち一人ひとりがお父様に身を捧げ、私たちの心がお父様を慰めることができる子供たちとなることをお許しください。
 そして、お父様ご自身が私たちに臨在し、私たちの進むべき道や、私たちがお父様のために戦い進むべき道を親しく示してくださる憐れみのひとときをお許しください。お父様、切に望み願います。
 今日、私たちはお父様の言葉に接しようとしております。お父様、私たち自身のいかなる主張や観念も残らないようにお許しください。ただお父様の言葉に浸り、その言葉が再創造の歴史を起こす土と水となるようにしてください。そして、お父様の御姿に造られるひとときをお許しください。お父様、切に望み願います。
 柔和謙遜の捧げ物としてお父様が命じられた言葉を切に待ち望む心情を持つことをお許しください。そして、その言葉によってお父様の御姿とお父様の聖像に似ることができる再創造の歴史がこの時間に現れることをお許しください。私のお父様、切に望み願います。
 伝える者の心も受ける者の心も一つにならせてください。死んでも同じ意志のために共に死ぬことができ、生きても同じ意志のために生きることができ、言葉を聞いても同じ意志のために喜んで聞くことができるこの時間をお許しください。サタンが喜ぶ隙間を作らないようにお許しください。お父様、切に望み願います。
 イエスが愛する弟子たちと人類を残して十字架の道を行かなければならなかった切ないその心情を共感しながら、歴史は過ぎましたが、今、私たちの心と体で先祖たちの心情を共感し、その心情の対象者として責任を果たすことができるように、お父様、この時間に再創造の歴史を起こしてくださることを切に望み願います。
 この時間も多くの聖徒たちが時と機会を知らずに自分を主張しながらあなたの前にひれ伏していることでしょう。お父様、集まる場所ごとに愛の手を差し伸べ、摂理の賜物を共に分かち合えるよう導いてください。そして、勝利できるようお許しください。切に望み願います。
 孤独に地方に散らばっている家族が、このひとときひざまずいてお父様の前に訴えていることを知っておりますので、一律の賜物と一律の愛の手を彼らの体と心に下してくださるよう、切にお願い申し上げます。この時間、ただ生ける捧げ物としてお父様の胸に抱かれる憐れみの賜物だけを許し下さるよう切にお願いし、すべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。




<御言葉>


 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も天のもとに行くことができない」という言葉を中心に、皆さんに少しお話しさせていただきます。お話ししようとしているタイトルは「神を迎える者になろう」です。
 今日、この地には多くの人々が住んでいます。彼らはそれぞれのビジョンや意見を持ち、また何らかの主義主張を持って生活しています。しかし、心から体から神を礼拝し、神を主張しながら神から遣わされたと天と地の前で自信を持って立ち上がる人はいません。
 今日、この地の多くの人々が自分のビジョンや主張を掲げて生きています。しかし、彼らの主張や行動が天倫の意志や天倫の摂理と一致していなければ、いずれは必ず転覆してしまうことを私たちは歴史の過程を通じて何度も見てきました。
 では、今私たち人間が最終的に求めるべきものは何か?それは、自分の主義主張や自分の何らかの主観的な行動をすべて放棄し、自分の心と体を神に代わり、自分が神に代わって行動していると主張し立ち上がることのできる人がこの地に現れることを、今日まで歴史を経て去っていった多くの人々が望んできたということです。また、天はこのような代理者が現れることを望み、無限の労苦と忍耐をもって長い間摂理してこられたのです。皆さんはこれをよく知っておかなければなりません。
 ですから、この地上の悲しみとは、何かの主義がないから悲しいのではなく、行動する人がいないから悲しいのではありません。神の心情を代弁し、神の意志を代わって主張できる主義がなく、神に代わって行動する人がいないことが悲しみであり、悲しみなのです。
 今日、この地と人間社会に広がっている嘆きと苦痛、そして根深い怨恨を取り除くためには、神を代弁し得る主義の主張と、神を代行する一人の人物が現れる必要があります。ですから、摂理の目的もこの一人の人物であり、歴史の目的もこの一人の人物であるということを、皆さんは改めて認識する時が来たのです。
 神が人間を中心にして、天地万物と共に享受しようとした創造理念は、私たちの祖先であるアダムとエバの堕落によってこの地上で実現しませんでした。神が言葉を通じて6日間で創造したすべての存在は、その言葉を成就するための対象だったのです。つまり、すべての万物は神の言葉の実体対象なのです。
 では、万物が言葉を通して実体対象として現れた後、何を望んだのでしょうか?神の愛を中心にして、神が動けば万物も動き、神が止まれば万物も止まることができる一つの仲介者、一つの中心を望んだのです。もし人間がそのような中心であったならば、今日この地上で起こっている混沌とした歴史はなかったでしょう。
 神の希望も、神を代弁し、神に代わって行動できる一つの存在が現れることです。これは単に人間の堕落後の摂理歴史の過程で望まれたことではなく、創造当初から現在に至るまで望まれた希望の中心であるということです。皆さんはこれを理解しなければなりません。
 では、この希望の中心とはどのような存在でしょうか?それは、言葉を代弁する存在であり、言葉の実体です。同時に、神の愛を中心にして生命の実体とならなければならないのです。これが問題なのです。このように生命の実体となる時に初めて、神の姿を代弁する実体を成すことができ、神の言葉を代弁する一つの主義の主張を持って現れることができるのです。
 聖書の言葉の中に「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)という言葉があります。つまり、イエス様は道であり、真理であり、命であるということです。これは全人類の前に何を示唆しているのでしょうか?それは、アダムとエバの堕落によって神の言葉が成就されず、その言葉がそのまま神の心情に戻ってしまったが、言葉を失った人々も依然としてこの地に生きているため、神は再びこの言葉を人間に与えるということを示唆しているのです。
 創造当時に神様が言われたその言葉と人間が関係を結んでいることから、その言葉を変わらぬ一つの目標、一つの希望として今まで求めてきたのです。したがって、この言葉を成就するために言葉の実体が来なければならないのです。
 神の言葉を代弁するこの地上の実体はどこにあるのでしょうか?その実体を探し求める過程が、神が6000年間苦労された摂理の過程であることを皆さんは理解しなければなりません。五日間で創造されたすべての万物は言葉の実体を持っていますが、六日目に創造された人間は神の言葉の前に立ちながらも言葉の実体を備えることができず、今日に至っています。このように言葉の実体を見つけ立てることが、神の運命の過程であり、復帰の過程であり、歴史的な過程であることを理解しなければなりません。
 それゆえ、イエス様が「わたしは道であり、真理(すなわち言葉)であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われたのは、神が希望された神の言葉の実体がイエス様であることを示す言葉です。
 イエス様の言葉とは何だったのでしょうか?それは、4000年間の歴史の過程で神が人間に対して語りたかった切なる心情を代弁する一つの結実存在として現れ、神の切なる心情を神に代わって人間と万物の前に発表した言葉です。このような使命を担って言葉の主人公として来られた方がイエス様であることを皆さんは理解しなければなりません。
 このように神が4000年間探し求めてこられた言葉の実体として現れた方がイエス様でした。神の心の中にあった言葉が被造世界を通じて現れるべきでしたが、それが叶いませんでした。しかし、イエス様が現れたことで神の心の中にあった言葉がイエス様の心情に再び移されたのです。この事実が人類にとって何よりも喜ばしい知らせであることを理解しなければなりません。
 では、イエス様がこの歴史的な言葉の実体として現れ、口を開いて言葉を発表された時、何を感じたのでしょうか?すなわちどのような心情だったのでしょうか?イエス様はご自身の言葉が歴史的な摂理の意志を代弁する言葉であると感じました。また、ご自身の言葉が神の心の中にあった言葉を代弁するという心情を感じ、永遠をかけて神の意志と言葉の実体がこの地上に成就するまで、神に代わって再創造の歴史を繰り返すことができる言葉であると感じたのです。
 ですから、私たちが今日イエス様の言葉を受けるためには、イエス様が単に30年の生涯を過ごされた方ではないことを理解しなければなりません。イエス様の言葉がその時代の生涯過程を弁明するための言葉ではなく、イエス様の言葉が4000年の歴史を代表することができ、その当時の世界を代弁することができ、今までの人類歴史を代弁することができる言葉であることを理解しなければなりません。しかし、その当時にはこのイエス様の言葉の価値を理解する人はいなかったのです。
 神の嘆きとは何だったのでしょうか?言葉で創造された万物が言葉の実体として現れなかったことが嘆きだったのです。イエス様もまた、神の心情を代表する再創造の言葉の実体として来られ、再創造の歴史を起こすために言葉を伝えられましたが、その言葉の前に立つ人がいなかったことが、イエス様の悲しみだったことを理解しなければなりません。
 皆さんは今も個々に神の言葉が伝えられていることを知るべきです。神は切なる心情で訴えているのです。したがって、皆さんの心に知らず知らずのうちに天倫が通じ、皆さんの心がキリストに向かうようになるのです。
 今まで多くの人々が長い歴史を経て、「真の真理とは何か、真の言葉とは何か?」と絶えず問いかけながら真理を探し求めてきました。このように、人類の歴史がまさに真理の探求の道だったと言っても過言ではないことを理解しなければなりません。
 したがって、神の心情を代弁し、イエスの心情、すなわち悲しみを代弁する言葉がこの地に現れた時には、人々はどうすべきかというと、再創造の力を表すその言葉を地上のすべての人々が受け入れなければならないのです。そうでなければ、イエス・キリストがこの地に来てからの30余年、そして亡くなった後の2000年間の苦労が実現されないということです。
 では、神の悲しみとは何か?第一の言葉である神の言葉を代弁する第二の言葉の実体であるイエスを通じて、第三の言葉の実体、言葉の聖殿を見つけることが摂理の目的ですが、この第三の言葉の実体がないことが神の悲しみであることを理解しなければなりません。
 真理の実体であるイエスが「わたしは道であり、真理である」と言われましたが、イエスが言われたこの道の目的は何でしょうか?4000年の歴史の道の目的はイエスの実体であり、イエスが言われた道の目的は、人間がイエスのように言葉の実体となることでした。そして、これは人間がイエスの言葉を信じることで成し遂げられるものでした。しかし、人間がイエスを信じなかったため、ゴルゴダでイエスの実体は終わりを迎えました。
 神が望み、神が探し求めていたのは、神の言葉を所有し、神から意志を引き継ぎ、神が意志を託すことのできる一つの実体でした。イエスはまさに神の言葉と一体となった実体でした。したがって、イエスの実体は神が摂理し探し求めてきた全歴史の目的体であるのです。神は歩みを止め、イエスを聖殿として初めて意志を地上に引き継ぐことができたのです。
 では、イエス様はご自身をどのように理解していたのでしょうか?イエス様はご自身を神が運行できる聖殿であると理解していました。神が何かを運行される時には、ご自身以外では運行できないことを感じていたのです。このように感じていたイエス様だからこそ、イエス様ご自身は、自分が神が4000年間探し求めてこられた神の聖殿であり、神が運行できる足場であり、この一つの意志を成就するために苦労してきた多くの預言者や先祖たちの代わりの実体であると感じていたのです。
 このような実体であったために、イエス様は神が変わらない限りご自身も変わらず、神が動かない限りご自身も動かないと感じていました。ですから、どんなに多くの人がイエス様を押しのけようとしても、イエス様は押しのけられない方であることを理解しなければなりません。つまり、アダムが神が運行できる道とならなかったことを復帰するために命をかけてアダムの代わりに現れたイエス様であることを理解しなければなりません。このような土台の上で、イエス様の弟子たちもイエス様の言葉が神の再創造の言葉であると感じていたのです。
 このようなイエス様を通じて神が運行されるのと同じように、イエス様に似て、イエス様が歩まれた道を代わりに歩む人にイエス様が運行されるのです。
 神はある一時代の神ではなく、歴史的な神であり、時代的な神であり、未来的な神でもあります。そして、イエス様は神が運行できる実体の聖殿であるため、人類がイエス様と一体となる時に、神の全体の摂理が成就し、人類が神と一体となることができたのです。
 今日の歴史の道筋では何が先行するのでしょうか?エデンの園でアダムが堕落したことにより、言葉を失ったため、言葉が先行します。まず言葉を取り戻してから実体を備えなければなりません。そして、実体を備えた神の生命が動くのです。神の生命はどこに動くのでしょうか?まず言葉を取り戻し、その言葉に基づいて一体となったその中に神の生命が動くのです。そして、神の生命は神と愛の関係を結んだ後に芽生えるのです。またそうして初めて神の生命の実体となることができるのです。
 イエス様が「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたのは、今日の私たちに神の言葉を直接示されたことであり、神の実体を示されたことであり、神の生命を直接示されたことを意味しています。イエス・キリストは単に30余年の生涯を過ごされた方ではなく、神が4000年間苦労され、人間を愛されたその愛の心情を表した生命の実体であったのです。
 このような言葉の中心的存在であるイエスがこの地上で果たすべき役割は何だったのでしょうか?神が4000年間苦労されたのは、エデンの園で失われた言葉を再び立てるためであり、言葉の実体である第二のアダム、イエスを立てるために苦労されたのです。そして、言葉と実体を備えた後、神の永遠の愛を中心にして人間と愛の絆を結ぼうとされました。しかし、永遠で真実な愛の絆を中心にして、神とイエスは一体となることができましたが、人間は神と永遠の愛の絆を結ぶことができませんでした。
 神の愛は必ず言葉を中心にして現れます。しかし、神の言葉であり、神の実体であるイエスは現れましたが、言葉だけが残り、実体であるイエスは去ってしまいました。ですから、私たちは言葉だけを中心にして生きなければならない悲しい世界に住んでいるのです。
 それでは、言葉を通じて人間が最終的に望むことは何でしょうか?再びイエスを求めることです。言葉だけを所有していてはなりません。実体を迎え入れなければなりません。しかし、言葉に代わる実体がないため、人間は実体を切望しているのです。神の言葉と一体となる人を見つけ、その人を通じてこの地を動かさなければならないので、神の言葉の実体を見つけるために歴史は流れてきたのです。
 言葉を発表された目的は何でしょうか?それは、神の言葉とイエスの言葉を代わりに語ることができる存在が現れることです。神とイエスが語られた言葉は終わりの日に実を結ぶでしょう。これまでの歴史は再創造の過程の歴史です。それでイエスが最後に語られた言葉の中心は、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」という言葉でした。しかし、新郎であるイエスの言葉を代わりに語ることができる不変の言葉の所有者は、まだ現れていないのです。これを理解しなければなりません。
 神の願いは、イエスがただこの地に来て去ることではなく、イエスがこの地上で言葉を伝えることでもありませんでした。神の願いは、イエスの言葉を通じて新婦の資格を備え、神の言葉とイエスの言葉を代わりに語ることができる一つの実体でした。
 イエスは神の身体としてこの地上に来られ、また神の生命を中心にして神の愛の園を成就しなければなりませんでした。これがイエスの来られた目的でした。イエスの身体は神が安息されることのできる実体でした。だからこそ、神がイエスを愛し、イエスが人間を愛されるように、イエスを中心にして愛することができる存在が必要だったのです。
 この思いを抱いて来られたイエスは、後の信徒たちのためにご自身の新婦となる道を開いておかれました。イエスは人間の新郎であり、人間はイエスの新婦となるのです。だからこそ、イエスが神に対して切実であったように、人間もイエスに対して切実でなければならないのです。このような存在を見つける必要があったイエスであったことを理解しなければなりません。
 人間が堕落したことにより、エデンの園で言葉を失い、実体も失いました。そして、来られたイエスによって失われた言葉と実体を取り戻さなければならなかった人間が、イエスを殺すことによって言葉だけを受け取る恩恵を受けたのです。
 今日、皆さんが言葉に依拠して堕落しなかったアダムの姿を再び形作ることができる権利の中にいることは、幸せなことです。
 言葉の実体として来られる方が再臨の主です。これが創造の原則であるため、再臨の主は雲に乗って来ることはできないのです。天理の原則は覆ることができません。ですから、イエスが来られて以来今日まで、人間は言葉の実体を希望してきました。これが再臨の理想であり、2000年のキリスト教歴史の希望なのです。
 マグダラのマリアが復活したイエスを抱きしめようとした時、イエスは彼女に抱きしめないように言いました。人間は抱きしめることができません。言葉だけを残すことしかできなかったイエスだったからこそ、そのように言ったのです。
 したがって、今皆さんはこの言葉を代わりにする第二のキリストの化身となり、イエスの心とイエスが感じた責任感と神の心情を代弁しなければなりません。しかし、今日この地上に住んでいる多くの人々やキリスト教徒たちは、その心情を代弁して言葉を求め、その言葉によって実体を見つけることができるにもかかわらず、喜んでいません。
 今、私たちは神の言葉を握りしめて、死ぬか生きるかを問わず進まなければなりません。エデンの園で規律を破り、堕落の血統を受けた後、今日まで罪の中で生きてきましたが、今、新しい言葉によって喜びに満ちて生きることができるようになりました。全人類が永遠の生命の価値を感じて生きることができるその世界に向かって、今この言葉を握りしめて主張しながら進まなければなりません。そのような時に皆さんは生きているのです。皆さんはこの道を後回しにしますか?それはできません。皆さんはこの歴史的な運命の瞬間に生きていることを知るべきです。
 イエスは神の言葉を代弁し、神の4000年の摂理歴史の全体的な心情を代弁し、神の意志を代わりにして愛の心情を持ち、神の意志を生活の中心に据えて生き、神と愛の絆を結んだがゆえに、十字架で死んでも復活することができたのです。
 神の愛は永遠であり、神の生命も永遠です。イエス様は言葉と実体が一つとなった方であり、神の永遠の愛と生命を代弁する方だったので、この世のどんな死や苦難もイエス様を永遠に殺すことはできませんでした。すなわち、イエス様は復活の権限をすでに持っていたのです。
 では、私たちはこれからどうすべきでしょうか?私たちが主張できる主義があり、従うべき行動があるとすれば、それは何でしょうか?それは他でもなく、イエス・キリストが語られた言葉であり、キリストが示された証拠的な行動です。これを確実に理解しなければなりません。
 皆さんはご自身が神を代弁し、イエスを代弁できる言葉の所有者となっているかを自問しなければなりません。地上と天上で認められる言葉の所有者となっているかどうか、自問する必要があります。
 人間が堕落したために「約束の言葉」が「成就された言葉」として現れませんでした。だからこそ旧約、新約というのです。約束の言葉が成就された言葉として現れなければなりません。今日これが世界人類の重大な問題であるにもかかわらず、人間はそれを理解していません。これは天を求める聖徒たちが総力を結集して解決すべき問題、すなわちキリスト教の問題であり、汎宗教の問題なのです。
 今日の世界は分裂と争いが生じている世界です。なぜこのような現象が起こるのでしょうか?イエス様がこの地に来られた時も、世界は分裂の状態でした。イエス様はこの分裂と争いを解決するために言葉を語られました。しかし当時の人々がイエス様の言葉を信じなかったために、この争いと分裂は完全に解決されませんでした。ですから、今日の世界においても争いと分裂が続いているのです。今、この分裂と争いによって混沌としている世界を収拾し、すべての主義や思想を統合できる完成の言葉が必要なのです。
 したがって、皆さんは真の真理が何であるかを見つける必要があります。今日の世界の歴史の過程を見れば、多くの民族と多くの宗教が存在しましたが、統一の目標に向かって進んでいるのです。この統一の目標はどのような言葉によって達成されるのでしょうか?それは神の約束の言葉によって統一されるのです。人類の歴史は神の約束の言葉によって築かれたその土台から逃れることはできません。ですから、キリスト教を中心として世界の歴史が展開されてきたのです。今や一つに統一すべき時が来ました。すべてを統一できる新しい言葉が、あらゆる知恵を持って現れるでしょう。
 イエス様がどれほど孤独であったか知っていますか?「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には頭を横たえるところがない」(マタイ8:20)という言葉から、イエス様がどれほど孤独であったかが分かります。これはイエス様の悲壮な心情を比喩と象徴で表現したものであり、この言葉の意味を理解しなければならない時が来ました。イエス様が安息する時が来たのです。神はイエス様の中で安息し、イエス様は私たちの中で安息されます。ですから、今や皆さんが天地万物を担う時が来たのです。
 約束の言葉に依り頼んでどこへでも行くことができ、約束の言葉に依り頼んで一つになり、約束された主に会うことができます。また、愛を中心とした神の言葉の中で喜びに満ちて生きることができるのです。
 ですから聖書には「信仰と希望と愛はいつまでも残る。その中で一番大いなるものは愛である」とあります。今、神とイエスが私たちを抱きしめて愛するその言葉を見つける時が来たのです。
 その言葉が実際に現れたら、その言葉をすべて受け入れなければなりません。その言葉に背けば、神の愛を感じることはできません。しかし、イエス様が真に語られた神の言葉が終わりの日に現れるならば、その言葉を聞いた人は神の愛を感じることができ、神の愛を感じることができる人は神の愛の所有者となることができるのです。神の言葉は単なる原則を立てるものではなく、その生命と理念を作るためのものであることを理解しなければなりません。
 今日この地上には真理を掲げる多くの宗教の教義や主義がありますが、それらを実践しても心と体が安らぎ、永遠にその言葉に浸ることができるものはありません。宇宙の生命の源である神の愛が私たちの心と体を動かしてきたのであれば、神の真実の言葉が出れば、すべての主義主張を根本的に解決することができるでしょう。
 イエス様の言葉はどういうものでしょうか?それまでの言葉は約束の言葉であり、約束の実体を探し、約束の愛を探し、約束の生命を探すものでした。しかし、イエス様の言葉はその約束の言葉に事実の言葉を加えて、事実の実体を探し、事実の愛を探し、事実の生命を探すものでした。
 ですから、イエス様は天国ではなく楽園において祈り続けておられます。なぜなら、この地上で果たすべき使命を完全に遂行できなかったからです。もともとイエス様が行かれるべき場所は楽園ではありません。この地上において神の理念を代行できる言葉の主人公、創造の理念を代行する生命の実体が現れ、神の愛を中心にして永遠に安息できる世界を作るまでは、イエス様も安息することはできず、神も安息することができないのです。
 では、私たちは何を嘆くべきでしょうか?私たちは、自分の心と体からイエスの言葉が出てこないことを嘆くべきです。また、自分自身の行動がイエスがご自身の体を動かして行った行動と一致していないことを嘆くべきです。そして、自分自身の心が哀れみの心で涙を流すことができなかったことを嘆くべきです。
 皆さんはイエス様を安息させることができる者になるべきです。イエス様と一つの体を成す一つの細胞となるべきです。本来、ユダヤ教団やイスラエル民族、そして当時の世界の人々がイエス様の体の一部となるべきでした。天地まで一体となるべきだったことを理解しなければなりません。
 イエス様は哀れな方でした。今日のキリスト教徒たちはイエス様が神の右手の座に座っていると信じていますが、実際にはイエス様は哀れな方でした。イエス様は理想世界を築くための天的使命を持って来られましたが、世界を導いて地の果てまで、そして天上まで通じる希望の言葉を持って来られましたが、地上の人々が信じなかったために、地上で話したい言葉をすべて話すことができず、行いたい行動をすべて行うことができなかったのです。このようなイエス様の悲痛な心情を理解しなければなりません。
 この意志を実現するために、村から村へと巡りながら言葉を伝えたイエス様でしたが、人々はイエス様を信じませんでした。そこで神はイエス一人を前にして悲しみ、天使たちも悲しみ、宇宙全体が悲しみました。しかし、今日の人間たちは、イエス様を信じなかった歴史的な罪を犯した先祖たちの子孫であるにもかかわらず、自分がどこに立っているのか、この民族、この世界がどこに向かっているのかを理解していません。このことを見つめる今日の私たちは、2000年前にイエス様が来られて滅びつつあるイスラエル民族を見て悲しまれたように、悲しむべきです。
 また、皆さんは神の最後の願いである言葉の実体となり、天倫の心情を通じて歴史の全体的な実体を代弁できる実体となるべきです。そして、「6000年間摂理してこられた神よ!私を見て、この場所に主を送りください!」と言えるようになるべきです。また、皆さんはイエス様が再臨される時にどこに再臨されるかが、神が地上に対する憂慮の条件であることを理解しなければなりません。
 今日の韓民族は悟らなければなりません。私たちは持つものがなく、他人から非難され、困難な環境の中で生きていますが、私たちの心はイエスの心情と神の愛を代弁し、私たちの体は天の実体となるべきです。そのような人がどこにいるでしょうか?神が6000年の長い歴史を経て探し求めてきたのは、皆さん一人一人の個体ではありません。韓民族全体、人類全体を探し求めてこられたことを理解しなければなりません。さらに、皆さんは人間の堕落によって悲しまれた父の心情を代弁し、イエスの悲しみと先祖たちの心情を代弁できる実体となるべきです。
 イスラエルの民がイエスを支えるべきだったのに、イスラエルの民はイエスを支えませんでした。そこで、イエスは教会に向かいました。つまり、教会を足場にして神の言葉を伝えようとしたのです。しかし、教会も反対しました。そこでイエスは家庭を求めましたが、家庭でも反対されました。仕方なく弟子たちを探し求めたことを、皆さんは理解しなければなりません。
 神の希望の基盤、世界の進むべき道が民族によって支えられずに断たれ、民族の進むべき道が教団によって支えられずに断たれ、教団の進むべき道が家庭によって支えられずに断たれました。このようにすべてが断たれたイエスの悲しみを誰が理解するのでしょうか。神が4000年間苦労して築かれたアブラハムの直系血統であるヨセフの家庭はどこに行ったのでしょうか?ヨセフとマリアはどこに行ったのでしょうか?
 イスラエルの民を基盤とする安息の期待が崩れ、ユダヤ教を基盤とする安息の期待が崩れ、家庭を基盤とする安息の期待が崩れると、イエスは行くところがなくなりました。最終的には12弟子さえもイエスを拒絶し、さらにはその12弟子の中から選ばれた3人の弟子さえも裏切ったため、イエスは十字架にかからざるを得なかったのです。
 今日、皆さんもイエスと同じように追い詰められ、追い立てられ、見捨てられ、拒絶される経験をする必要があります。そうすることで、神の悲しみとイエスの悲しみを理解することができるのです。民族に拒まれ、教団に追い出され、家庭に追い出され、親に見捨てられ、弟子たちに拒絶される中で、皆さんは神の心を理解し、先祖たちの心を理解することができるのです。
 今日、私たちは民族の前に哀れな群れであり、孤独な群れですが、民族が知らない神の言葉が私たちと共にあることを感じなければなりません。そうすれば、世界のために戦ったイエスの姿を代表し、その意志を実践することができるでしょう。ですから、困難に直面しても失望せず、聞いているこの言葉が神の言葉であると信じるならば、その言葉が共にある場所に神の愛が動き、生命が芽生えるでしょう。そして、皆さんはその言葉の証人となるべきです。
 今、皆さんはその愛を持って人間の世界を愛し、十字架にかかったイエスを慰め、第二イスラエルの使命を果たさなければなりません。
 私たちが第三イスラエルの先祖として残るためには、第二イスラエルの道を外れることはできません。イエスが世界を救うために第二イスラエルを召し出して進ませた道、イエスの弟子たちが越えた十字架の道、聖徒たちが歩んだ言葉の峠を越えないわけにはいかないのです。
 では、このような立場にある私たちはどうすべきでしょうか?イエス様はこの地上に来られ、神の内なる心情をすべて発表することなく帰天されました。したがって、私たちはこの一つの心情を土台として、どんな困難が伴おうとも、どんな険しい道が私たちの前に横たわっていようとも、感謝しながら進んでいかなければなりません。すなわち、私たちは天の戦士にならなければならないのです。
 第三イスラエルの先祖となるべき終末の時にある皆さんは、最後の言葉が天の愛の言葉であることを理解しなければなりません。天の愛に基づいた言葉です。したがって、皆さんは神の言葉がそのままあり、皆さんが別にいるということがあってはならないのです。神の言葉の見える実体となるべきです。神の内なる心情が皆さんの内なる心情とならなければなりません。つまり、本心の実体となるべきです。
 皆さんは神の言葉を広めることができる第二の創造主の使命を果たさなければなりません。すなわち、言葉の広める体となり、生命の広める体となり、実体の広める体とならなければなりません。そうしてこそ、愛を中心に一つになり、神を永遠に迎えることができるのです。
 この基準が第三イスラエルの基準です。こうして初めて、言葉を植えることができ、実体を植えることができ、生命を植えることができるのです。
 神を迎え入れることができ、言葉を見て感じることができる言葉の実体、生命の実体、6000年の心情を代弁する実体となり、第二イスラエルを再創造する使命を果たさなければなりません。そうしてこそ、神の内なる心情を完全に理解する息子娘となることができ、そのような神の真の子供となり、神の愛を中心に永遠の栄光の中で生きることができるのです。このことを心に留めておかなければなりません。

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御言葉選集3(18,19)

2024年05月11日 12時12分06秒 | 学習


文鮮明先生御言葉選集 3-18 歴史的な苦難の頂点を超えよう 1958年1月19日


1958年1月19日(日曜日)、前本部教会


聖書拝読:マタイによる福音書23:27-39


<祈祷>
お父様、私達はお父様の栄光の前に現れる際に愛を感じ得なかったことを許しください。そしてこの世のために労苦しなかったことをお許しください。
お父様の御労苦、お父様の悲しみ、お父様の苦悩を考えたときに、私達の心が悲しみを感じることをお許しください。そして、私達の心が苦悶を感じることを許してください。そして、苦しみを知る子ども達にならせてください。
これらの子ども達にならなければならないことを知っていますので、愛するお父様、この時天国の命を持つことを許してください。そして、天国を求めて集まった子ども達ですので、自分達のすべての罪を持ってお父様の前に立つことができなくても、父が6千年間戦いながら築いてこられた復帰の恵みを見つめ、感謝する姿をお許しください。
そして、私達の心が父を喜ばせることができるようにお許しください。そして、私達の身体が父を喜ばせることができるようにお許しください。父のものとしてこの時間をすべて捧げることができるように、私の愛するお父様、切に願います。
今、一人ひとりの心を見透かして、自分の心の中心にある要求と希望の中心が何であるかを探り、見つけられるようにお許しください。自分を中心に据える何かがある場合、神の意志の前に天国の中心を見つけられないことに気づかせてください。自分自身で天の意志に逆らうことがないように導いてください。
ただし、罪人であることを認めながら、自ら父の前にひれ伏し、すべてを告白し、父の前で涙を流すことができる切実な尊敬の心情だけが、今ここに集まったあなた方の子供たちの心と体に溢れるように許してください。
そして、その心を中心にして復活の歴史を起こしてください、私の父よ、切に願います。今日、私たちは一人ひとりがそろって父の膝の前にひれ伏しましたが、これらがすべて忠誠の条件ではないことを知っていますので、父よ、心を開いて天の意志に没頭できるよう許してください。そして、父の愛の膝の中に入れてください。
そして、父の心情を理解できるように許してください。そして、父が望まれる栄光の姿で現れることを許してください、切に願います。
この時間、私たちが個々の姿で集まったとしても、集まった全体が父の膝の前に一つの生け贄とならなければなりません。私たちが敵であり、歴史的な敵であるサタンが私たちを妬んで妨げようとしても、父の子供になるという切実な心情だけを持つことができるように保護してください、愛する父よ、切に願います。
この日は聖なる日であるべきですので、この国に父の祝福を許してください。知らず知らずのうちに道に迷っているこの国を救うために立ち上がる私たちに鞭を与えてください。最後の勝利の戦いで天の意志を達成する中心的な国民になるように許してください、愛する父よ、切に願います。
お父様、この時間すべてを託してください。私たちにできることは何でしょうか?この時間にすべてを捨て、父のものとして捧げることができるように許してください、愛する父よ、切に願います。
この日、地方にも孤独に父に訴える子供たちがいることを知っていますので、いたるところで一律の恩寵を与え、大きな祝福を授けてください。切に頼み、願いながら、すべての言葉を主の名によってお祈りいたします。アーメン。




<説教>


 みなさん、しばらくの間、考えてみようとする説教のタイトルは、「歴史的な不運の山を超えよう」というものです。このようなタイトルで、しばらく話させていただきます。
 今日、この世には多くの人々が生きていますが、彼らの前には越えなければならない不運の運命の道が残っていることを、みなさんはよく知っています。
 キリスト教の信条として、最後には審判があるというものがあります。ですから、多くのキリスト教徒は、どうやってこの死の難所を越えるかという心配の念を抱きながら、これまで生きてきたことをよく知っています。
 現在生きている自分自身を考えると、自分でも知らない悲しみの運命に直面していることを認めるほど、自らに深刻な問題が待ち受けていることを感じるでしょう。その問題は、自分の前途に、周囲に、心と体に関わっていると感じるでしょう。
 このような不運の環境を乗り越えていく使命が、現代の私たちにはあり、これが残りの人生の使命であると言えます。このような悲しみの環境を踏み越えて立ち上がるその日が、あなたの前にある限り、あなたは過去の不運な歴史を乗り越えて立ち上がることができ、これを踏み越えて立ち上がることで新しい希望の世界を迎えることができるのです。
 この時点で、私たちは過去の歴史を振り返るとき、あなたが今直面しているこの不運な難所や環境が、あなただけが経験する不運の環境ではないことを理解する必要があります。6000年という長い年月を経て、私たちの先祖たちもまた不運な運命を経験してきたことを理解しなければなりません。
 したがって、歴史を振り返ってみると、あなたが祖先が不運な立場にあったばかりでなく、人間と創造主の関係においても不運な立場にあったことを感じるはずです。あなたは自分自身を中心に据え、歴史的な役割を果たすことで、または創造主の理念を代表して、この切実な感情を感じると同時に、ある日歴史を代表して勝利した喜びの日を持たなければなりません。そうでなければ、今日の人間社会において幸福や希望、理念が全て崩壊してしまうでしょう。
 このような歴史的な過程を経てきた人間であるがゆえに、神は人間の精神と生活に宿っている不運の幕、そして歴史を通じて流れてきた不運の幕をどのように乗り越えるかという責任を感じていたのです。正道を求める者たちもまた、人間のためにこの問題を解決しようとする責任感を持って出てきたのです。これまで存在してきた多くの宗教が未解決の課題を残したと言われるならば、この問題を解決しなければならない使命を残してくれたのです。
 人間に残されたこのような不運の壁を乗り越えるために、天が動員されていることをあなたは知っています。この不運な運命を補うために天が動員されている一方で、その王国の霊的な力も動員されていることを知らなければなりません。さらに、地上の人間も動員されているのです。
 不幸の壁を乗り越えるための歴史的な一時を探さねばならなかった人々が、その時を見つけられなかったために、今日私たちは再びその不幸の歴史を引き継いだのです。ですから、私たちは今、結束してこのすべての不幸の壁を乗り越えなければなりません。これを乗り越えられなければ、あなたの子孫たちも同じく不幸の壁を乗り越えなければならず、先祖たちが歩んできた死の道や悲しみの道、涙の道を避けることはできないことをあなたは知るべきです。
 これを考えると、今日のあなた自身が単なる存在ではないことがわかります。あなた自身には天国の嘆願がかけられ、人類の嘆願が重ねられているのです。さらに、あなたは過去と現在と未来のすべての嘆願を解決しなければならない主人公の立場にあるのです。
 あなたが一日の生活で、または一代の人生で、このすべての不幸の壁を切り開いて乗り越えられない場合、あなたを見守っていた歴史的な希望、または神の計画に基づく希望、または天の希望が崩れることを意味します。これを考えると、今日のあなたは個人ではないことに気づかなければなりません。
 今日、多くの人々がいますが、果たして神の不幸や天使の不幸、そして未来の人類の不幸までを代わって私たちに阻む見えないサタンや悪の集団に立ち向かって戦える責任者はどれくらいいるのかを考えなければなりません。
 これを考えると、今日の私たちがこのような立場に陥ったのは、神の計画に従って来た多くの先覚者たちも同じような状況と同じような環境で自らの生活を犠牲にしながらもこの一つの問題を解決するために戦ってきたということを知るべきです。あなたはこれを骨身に染みて感じなければなりません。
 あなたは旧約時代を振り返り、ノアを見てください。ノアは神が人類の祖先に残した悲惨な運命の後、1600年間も苦労して、数多くの人々の中からようやく見出された一人でした。ノアはどのような存在だったのでしょうか?彼は当時の多くの人々を代表して天の不幸の気持ちを感じ取れる存在であり、当時の人々が感じる不幸の気持ちを代わりに神に慰めてもらう立場に立っていたのです。
 このような立場にあったノアは、1600年の歴史的な使命を負った人間は、人間のためにでも天のためにでもこの不幸の壁を乗り越えようと、歴史上誰もが感じたことのない不幸な場所で、踏みつけられ、嘲笑され、追われる不当な場所から戦ってきたのです。このようなノアの生涯を忘れてはならないでしょう。
 その時、ノアの前に現れたのは何だったのでしょうか?それは、神の復帰摂理を確立するための神の復帰摂理であり、ノアの前に1600年間の悲しみと不幸を代表する方舟が現れたのです。ノアが扱わなければならなかった方舟は、歴史的な不幸を代表する一つの存在だったのです。
 1600年の不幸の山を越えなければならない使命を感じたため、神が与えた責任とその責任を背負ったノアが一つの心情になったのです。ノアは、歴史的な復帰条件として与えられた方舟を知っていたため、120年間、苦難の生活と努力の道を歩んだことを皆さんは知るべきです。
 120年後、この地を審判すると告げられたノアは、その日から誠実に方舟を建て始めました。しかし、1年ではなく、120年もの長い期間を耐えて船を建てたにもかかわらず、ノアの心情は自分の家のために建てるわけではありませんでした。また、子孫のために建てるわけでもありませんでした。そして、その時の悪い世界のために建てるわけでもありませんでした。ただし、この方舟を建てることはただ一つの神の意志を達成するために建てることだったのです。こうして、神の悲しみや1600年にわたって経験された多くの先人たちの悲しみを胸に抱え、黙々と戦ってきたノアの姿を回顧しなければなりません。
 これを考えると、私たちは過去に神の意志に従ってきた先祖たちが悲しい道を歩んできたが、このような環境にあったノアは悲しい難局が押し寄せるにつれ、この困難な環境を押しのけ、乗り越えるために内面的に体と心の無限の戦いを経験したことを知るべきです。
 彼は120年間、このような戦いを続けました。誰も同情してくれない中、ノアは神の意志を達成するために忠実に悔い改めを守りながら戦ってきたのです。これを考えると、このノアの心情は確かに1600年後の誰もが感じなかった悲しみの心情だったことがわかります。
 このような過程を経て、やっと天が認める時が来たため、神の約束が成就するその日、不幸の怨恨を解消できる審判の歴史が生まれたのです。
 ノアがこのように大きな復帰の使命を背負うほど、彼は安逸な生活を送れませんでした。喜びや平和な生活を送れなかったのです。身体的な苦痛と心の苦しみ、そして悪の環境からの迫害を受けたのです。こうして誰も同情してくれない困難な山を越えた後に、天が援助してくれたのです。そして、120年間の迫害や悲しみ、言葉にできない不幸な運命を耐え抜いた後に、ようやく神が友として、ノアの慰め手として、ノアの不幸を解消してくれる責任者として現れることを皆さんは知るべきです。
 しかし、その時点で残っていた外的な不幸の山を越えることで全てが解決されると思っていたが、当時の不幸はもちろん、未来の不幸まで解決しなければならないことを、未だ気づいていなかったのです。永遠の人類史に一つの復帰の基点を築かなければならなかったアブラハムでしたが、それを果たすことができなかったのです。ですから、アブラハムは内的な不幸の生活を踏み越え、イサクを犠牲にする場にまで進んだが、それだけでは解決されず、内的な不幸が今日の私たちにまで続いていることを示しています。
 しかし、皆さんは歴史的な不幸を担ったアブラハムが哀れな状況に置かれていたことを知らなければなりません。
 では、アブラハムはいったい、その時までの人々が感じなかった不幸の心情を持ち、神の前で責任を負うと決意し、誓ったでしょうか?彼はいつでも、目が覚めた瞬間にでも神の意志を中心に据え、自分が犠牲になっていることを忘れる日には、神の意志が果たされないことを懸念しました。そして、天国を悲しんで、天国のために自分を捧げるべきだと考えました。アブラハムのこのような不幸の心情を皆さんは知るべきです。
 ヤコブを見ると、アブラハムの土地を継承して天国の祝福を実現させる使命を受けたその日から、ヤコブも不幸な生活を送りました。ハランのラバンの家で21年という長い年月、不幸な生活を送るだけでなく、内的にはエソの従属を受け入れる生活を送りました。ここでヤコブが行く道にはいつも悲しい条件があったということを皆さんは知るべきです。
 モーセも同様でした。アブラハム以後の400年を民族的に踏み過ごすための使命を負ったモーセにとっても、神の意志に従うための準備期間である宮廷生活40年、意志を実行する段階にあるミディアンの荒野生活40年、悲しみを超えて約束の地カナンに向かう途中での荒野の彷徨40年は、言い表せないほどの不幸な期間でした。
 また、民族が知らない不幸の心情を抱き、民族を代表して責任を果たすためにシナイ山に登り、天国の前で論じることもありました。60万人の大衆を荒野に置いてひとりで神の意志のために、自分の80年の生涯すべてを忘れ、その時の悲しい状況も忘れてシナイ山に向かったモーセの悲しい心情を皆さんは思いやるべきです。
 シナイ山に登り、犠牲の時刻として食べるものや着るものをすべて忘れながら、体も心もすべて捧げ、懇願し、祈ったモーセの偉大な心情を理解した人は、イスラエルの民の中には誰もいませんでした。
 これを考えると、ノアから今まで、復帰の使命を負ってきた私たちの信仰を持った先祖たちが、悲しみの生活や苦難の経験を訴えるその心情を誰も理解せず、誰も彼らに従わなかったことがわかります。ですから天国にいる先達たちは、天国を代表して戦って残した不幸や怨念を誰が責任を負うのかと嘆息しています。もしあなたがその不幸の運命を負わなければ、彼らはあなたを非難するでしょう。
 民族全体が神が許されたカナンの恵みに入る使命を負っていたにもかかわらず、彼らは不満を言い、荒野で座り込もうとしました。このとき、モーセが一つの生命をかけて全民族の命を救う山の犠牲にしようと躍起になったことを、その民族は知りませんでした。ただ神だけが知っていたのです。神だけが友達となってくださり、神だけが父として彼を扱ってくださったのです。
 モーセはそれがわかっていたからこそ、40日間食べるものを忘れながらも、二度と父が悲しみや不幸の心情を持たないようにしてくださる責任を感じ、全力で懇願することでイスラエルの民を復活させることができる言葉を受け取ったのです。
 これは喜ばしいことでした。しかし、喜びを紹介するためには、他人が知らない中で、背後で悲しみの犠牲となった者がいたことをイスラエルの民は知りませんでした。もしそれを知っていたなら、荒野で60万人の民衆が倒れることはありませんでした。その後でも、彼らがモーセの十戒を受け入れ、天国の悲しい心情を和らげるために自分たちの身を犠牲にすることさえ信じていたら、彼らは荒野で倒れなかったでしょう。
 モーセも外的な石板は受け取ったが、自分の行為を通して後継者たちの内的な不幸まで和らげなければならないとは知らなかったのです。ノアもそうであり、アブラハムもそうであり、ヤコブもそうでした。自分の行為に現れる生活的な環境は不幸的なものだったが、自分を通して後継者たちの内的な不幸まで引き受けなければならない責任は、モーセも知らなかったのです。
 そのため、モーセの岩2タップを通じてバローの宮廷から神の援助によって導かれたイスラエル60万人の大衆が、荒野で倒れることになったのです。
 彼らが倒れたもう一つの原因は何か?それはモーセの心情を理解しなかったことです。モーセの悔い改めを彼らが受け入れなかったために、彼らは荒野で倒れたのです。
 これを考えると、今、あなたが立っている場所が、古代のノアが方舟を建てていた場所であり、アブラハムが犠牲を捧げていた場所であり、ヤコブが21年間羊を飼っていた場所であり、モーセが120年間労働していた場所であり、40日間断食していた場所であることを、あなたは知らなければなりません。
 神から希望の楽園を約束され、喜びの栄光を称えながら、宮殿に向かって出発していたイスラエルの民が神の心情を忘れ、結果としてその喜びは失われ、敵対心が生まれ、民からの敵意に変わったことです。これが起きると、天国は彼らを罰するしかなかったということを、あなたは知らなければなりません。
 今日の私たちキリスト教徒が持つべきものは何でしょうか?私たちの歴史を台無しにし、私たちの道を台無しにするサタンの勢力に対抗して戦わなければならない心、サタンに対する敵意を持たなければなりません。そういう人は滅びません。しかし、サタンの勢力に対する敵意ではなく、仲間同士の恨みや敵意を抱いてはいけません。そういう人や教団があれば、間違いなく壊れるでしょう。
 これを考えると、神の意志を知る人々は、民がこのような状況にあることを心配しながら祈り続けていたことがわかります。そして、神の意志を代わりに民族や世界を導く使命を負った人がいれば、その人は時が来れば、環境が許す限り、民族の多くの敵を一度に滅ぼすでしょう。
 自分を中心に考え、自分を中心に動いている人々の多くの民族は滅びますが、民族の敵に立ち向かって戦わなければならない使命感を持ち、自分の体と心を犠牲にする人々の多くの民族は滅びません。
 それでは、終末に立っているあなた自身はどのような立場にいるのでしょうか?あなたがすべての先祖を代表して立ったとするならば、ノアからアブラハム、ヤコブ、モーセ、イエス様など、すべての先祖が敵と戦い、歩んできたその道を歩まなければならず、苦労し、使命を果たしてきたことをあなたが見習わなければなりません。あなたがこの時期にそのような心を持たなければ、誰があなたを先導するかわかりません。あなたはこれを心に留めなければなりません。
 モーセも「私だけ残ったか?」と天国に懇願するエリヤの孤独を感じながら戦ってきましたが、イスラエルの民を守る心、そして民族の敵を討つ日を待ち望む切望の心が彼の心と体から消えなかったため、彼は倒れ、そして再び倒れるかもしれませんが、イスラエルを導く使命を続けられたのです。彼がこうしたのは自分のためではなく、彼の生涯は意志のための生涯であり、民族のための生涯だったからです。
 イエス様がこの地に降臨される6か月前に、意志を持って戦い出していた洗礼者ヨハネも、彼が現れる時の生活環境は悲惨でした。彼も不運な環境から逃れることはできませんでした。神は4000年もの間、待ち望まれたメシアのために、ヨハネは荒野で30年以上も準備してきた生涯は、誰も理解できないほど困難なものでした。それを知る者は彼だけでした。
 しかし、彼も30年以上にわたって悲しい生活を送りながら、イエス様が自分よりも内面的な不幸に苦しんでいる師であることを知らなかったのです。
 マタイやヨハネも同様に、不幸な道を歩みました。しかし、4000年の歴史を代表し、天国の不幸や地上の不幸、そして全人類の不幸を代わりに背負い、史上誰も感じたことのない最高の悲しい気持ちを感じながら、この不幸の歴史を生み出したサタンに立ち向かうことができる存在がこの地に現れなければならなかったのです。このような存在を天が示さなければならなかったのです。
 この責任を背負って来られた方が誰かというと、皆さんがよくご存じのようにイエス様です。イエス様は4000年の帰還の歴史の中で、誰も感じたことのない最高の悲しい気持ちを感じながら、この不幸の歴史を生み出したサタンと対決し、勝利することができる方でした。
 聖書には書かれていませんが、イエス様自身もヨセフの家庭で30年間もの間、語り尽くせないほどの不運の道を歩まれました。これは民族を包むためであり、神の心を代わりに表現するためであり、神を代表して教団や部族を包むためでした。
 しかし、自分の家族や部族、教団や民族を包みたいと願われたイエス様でしたが、彼は民族から迫害を受け、教団から嘲笑され、部族から追い立てられ、最終的には十二弟子たちから裏切りを受けたのです。
 これを考えると、大声で泣き叫びたい悲しい出来事であり、人々に呪いを返すべき出来事でしたが、イエス様は敵意を克服しました。むしろ、道が塞がれたことを知ったイエス様は、誰が歴史的な不幸の気持ちを引き継ぎ、天国の代わりに父の内面的な気持ちを慰めるかを心配していたのです。
 自分の周りの多くの人々は、イスラエルの幸福を引き継ぐことができると考え、ユダヤ教の教団の祝福を達成することができると思い、自分たちを中心に歴史的な王国を築くことができると考えていましたが、イエス様は十字架に架けられました。
 先祖たちが歩んできた公式の道を進む立場に立ったイエス様は、この地上で果たすべき使命が大きければ大きいほど、または思想が高ければ高いほど、責任感を感じるとともに、当時の自分の民族があなたを裏切るかもしれないが、将来は自分の福音が世界的に広まり、世界的な敵が降伏することを知って、十字架の道を選ばれたのです。民族的な敵の立場に立つのではなく、それを踏み越えて世界的な敵を降伏させることを考え、十字架の道を選ばれたのです。
 そのため、聖書に記録されたイエス様のヨセフの家庭での30年間の生涯や3年間の公生涯に関する言葉を見ると、イエス様は歴史的な不幸を代わりに受けた方であり、天敵的な不幸を代わりに受けた方であることがわかります。
 しかし、イエス様を信じていた多くの群衆は、彼らのメシアであり、民族を救う救世主であると信じていましたが、結局はイエス様が去られると、すべてを捨ててしまいました。
 もし、イエス様を信じていた群衆が、天に向かってのイエス様の内面的な気持ち、つまり神に対する心情を知っていたならば、イエス様の状況を理解し、イエス様の後についていたでしょう。そして最初についていた群衆がついていたイエス様の後を全体の民族がついていたでしょう。
 しかし、4000年の帰還の歴史を栄光の1ページとするべきであったイエス様の福音の歴史は、血の祭壇を通じた涙の歴史として記録されています。これが一度で終わることではなく、終わりまで続くことは避けられない事実であると知っていたイエス様だからこそ、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と祈られたのです(マタイ27:46)。これは自分のために祈った祈りではありませんでした。民族を心配し、後の多くの人々を心配して祈られた祈りであったことを理解する必要があります。
 さん、持っているものがないからと落胆しないでください。知っていることがないからと落胆しないでください。皆さんが落胆するべきことは、歴史的な過程を経て戦って来られた神の心情を感じていない事実です。また、先祖が血の祭壇を積み重ねて来られたその心情を感じていないことを懸念すべきです。さらには、私たちが神の真の子となり、キリストの真の友となることを求める中で、誘惑されるサタンに対する強い決意と心を打ち負かすことができないことを残念に思わなければなりません。
 今日、私たちが歴史の過程を振り返るとき、数多くの先祖たちが家庭的あるいは民族的な不遇の状況を乗り越えるためにその心情を持っていたことを認識する必要があります。世界的な不遇の壁を乗り越えなければならない私たちは、ノアの時代の誤りを忘れてはなりません。アブラハムやモーセ、洗礼者ヨハネの誤りを繰り返してはいけません。
 人類の堕落から6000年が経過した今日でも、神の全体的な悲しい心情を感じる人がいないとしたら、あなた方は「父よ!私を立て、ノアやアブラハム、ヤコブ、イエス様の心情を代わりに持ち、全体的な父の心情、つまり堕落する前のアダムを愛された心情、また堕落後の人間たちを扱い表さなかった怒りの心情まで、私の心で感じ、歴史的かつ宇宙的な犠牲となることができますように。」と祈ることができなければなりません。
 神が創世以来今まで鞭を持ち上げられない悲しい立場にいたことを、だれが知らせたのでしょうか?神のことを愛の神とだけ知っていた人々は、公平な怒りの神であることを知りませんでした。神は過程で愛で接してくださいますが、最後には裁き、打たなければならない立場にある神です。あなた方は、神がこのように愛の神であると同時に、公平な怒りの神であることをしっかりと理解する必要があります。
 このようなことを知る人でなければ、カナンの7つの民を追い出し、イスラエルの福祉を築くことはできません。今日「終末の聖徒」と呼ばれるあなたたち、他と異なる志で歩んだあなたたち、愛の神でありながら公正で裁くという命題を掲げて、あなたたちに接しておられることを知る必要があります。そして、それにふさわしい神の立場を理解しなければなりません。
 終末にある私たちは、歴史的な父の心情を知ると同時に、その心情を代わりに持ってこの地上で意味が果たされないことに対する怒りを抱く父を慰めるために戦うことができなければなりません。神の真の子らの立場からこの使命を成し遂げるために来られる方が再臨することです。
 見てください。ノアの時代には箱舟を中心に戦い、アブラハムの時代には祭壇を中心に戦い、モーセの時代にはイスラエルの民を中心に正義を行い、イエス様を中心にしてサタンの世界を打ち負かそうとされましたが、それは果たされませんでした。ですから、イエス様は裁きという名詞を掲げて戻られたのです。
 今日、皆さんが直面している歴史的な困難をどのように乗り越えるか?それは皆さん一人ひとりにかかっています。天国の門は無理やり入ることはできません。ですから、皆さん自身がこの困難を乗り越え、その障壁を崩す必要があります。そして、父の憤りを解き放ち、カナンを目指したイスラエルの希望を抱き、この困難を乗り越えるための戦士になるべきです。
 これまでの歴史の過程を振り返ると、将来の終末時代には、乗り越えなければならない困難が非常に多いことがわかります。その時、皆さんは個人的な扉を通らなければなりません。個人的な扉を通った後には、家庭的な扉、そして国や世界的な扉を通らなければなりません。
 皆さんは今日、どのような使命を担っていますか?皆さんは昔の先祖の困難を負う立場にないなら、時代的な使命を担う立場にあります。また、世界的な使命を担う立場にないなら、永遠の神の計画を負う立場にあるのです。これを心に留めておく必要があります。
 これまでの歴史は何を目指してきたのか?世界史は敵対するメシアに向かって進んできました。ですから、困難の歴史は今や過去のものとなります。信仰の時代も過ぎ去ります。新たな使命を持ち、世界的な困難を解決しに来るメシアが現れるまで、皆さんは勇敢に前進しなければなりません。
 今日、終末の時代に直面している皆さんの中には、歴史的に伝わるすべての条件を一時に克服し、帰還復旧しなければならない時期があるということです。時代の運を担った人もいますし、世界の運を担った使命者や天運を担った使命者もいます。
 これらをどのように結びつけて統合することができるでしょうか?これが道徳家や宗教家の使命なのです。そして、実際にその使命を遂行するのが宗教の使命なのです。
 宇宙が誕生してから今まで、人々は何を中心にしてきたのでしょうか?人々はこれまで、親や夫婦、子供たちの愛を目指してきました。つまり、歴史と時代は変化してきましたが、親や夫婦、子供たちの道や規律は一度も無視されたことがありません。
 終末に直面する人々は、どのようにすればよいのでしょうか?個人的な正を超える必要があります。そのため、道に進んだこれまでの道人たちは、最初から個人的な正を断ち切り出発したのです。これが道の世界での戦いです。
 人間の個人的な問題は歴史的な信仰の目標であったが、それだけでは天倫の精神とは一致しないということです。6000年の人類史が一つの目標を立てるためにあったが、これだけでは宇宙的な問題が完全に解決されないので、天的な生の法則を確立できる一つのイデオロギーを持つ宗教が登場しなければなりません。
 では、将来的に天運の時代に入るその時に立ち現れる真の両親、真の子供、真の夫婦はどのような人々でしょうか? そのような人々は人間の情に従い、神の心情に従う人々であり、宇宙的な苦難を感じる人々であり、神の愛を中心にし、神は私の父であると感じる人々でしょう。
 6千年の歴史の中で、人類は人間の終的な問題も解決できず、横的な問題も解決できませんでした。それで、人々はこのような問題を解決してくれる宗教を求めていたのです。私たちは終末時代に直面するこのような高みとすべての壁を超えなければなりません。
 神は長い歴史を通じて人間に対してすべてを忍耐してこられた真の両親であることを理解しなければなりません。さらに、その次に、イエス様はどのような方でしょうか? イエス様は「私は花婿であり、あなたたちは花嫁である」と言われましたが、このような花婿と花嫁、つまり天的な愛の問題を解決する宗教が最後の高みに立つことができるのです。この意味で、キリスト教が中心的な宗教であるのです。
 そして、イエス様は「私は神と一体を成した、私は神の唯一の子」と言われました。さらに、イエス様は人類に向かって「私は花婿であり、あなたたちは花嫁である」と言われました。天は長い年月にわたりこのような基準を中心に置き、世界的な苦難の壁を超えることを望まれましたが、このような立場にあった方がイエス様だったのです。
 では、皆さんはどうすべきでしょうか? 皆さんは2000年の間に花婿の苦悩の心と共に来られたイエス様の心情や、多くの聖人たちが抱いた苦悩の心情を受け入れることができる人々にならなければなりません。そのような人にならなければ、神の子と呼ぶことも、イエス様の前に立つ一人の兄弟姉妹と呼ぶこともできないでしょう。
 もしそのような人になろうとするなら、サタンはあなたを攻撃するでしょう。これがサタンの攻撃目標です。しかし、新しい信仰や思想、新しい宗教、新しい指導者が現れてそれを乗り越えれば、サタンの攻撃さえも跳ね返すことができます。そうすれば、サタンが追い払われることはありません。この時、再び革命や変革はありません。そのときに初めて永遠の思想が展開されるのです。
 皆さんは天国に行こうと思ってはいけません。地上で天国を建設しようと思わなければなりません。そして、天国を建設する前に、まず自分自身が天国の人でなければなりません。そのような天国の人になるには、父の心が私の心であり、私の心が父の心であると自信を持って言える程度に、父と心が一体とならなければなりません。そのためには、地上に父の心を代表し、主と先祖の心を代表しなければなりません。そうすれば、歴史上のすべての問題を解決できるということです。
 天界が動員され、歴史的な不運の壁を乗り越えようとしているとき、地上に住む私たちにも使命があることを知るべきです。今、私たちはこのような使命感を持って歴史上の最後の不運の壁を乗り越えようとするために、私たちは自分を阻む真の親の敵、真の子の敵、真の花婿花嫁の敵に対する敵意を持たなければなりません。そのような敵意に燃える息子娘でなければ、最後の審判の壁を越えることはできません。
 歴史的使命、時代的使命、未来の意志を前に置いている皆さんは、現在どのような時代に立っているかを知る必要があります。私たちは今後、天主教の時代が来るということです。望まない者はだれも持てない天国に対する心情や、サタンに対する敵意を持つ方が現れて、この世界を回復するでしょう。そのとき、その方を礼拝し、協力しなければならない使命がキリスト教にあるということです。
 一日を生きることも、生涯を歩むことも、父の意志のために行うべきです。
 そして皆さんは先祖たちが歩んだ辛い道を辿らなければなりません。私たちは今、荒野に出たイスラエルの民と同じです。モーセとイスラエルの民が荒野で追いやられ、苦難を受け、イエスが民や教会から拒絶され、家庭から信用されなかったのと同じように、皆さんもこのような悲しい、不公平な立場を経験しなければなりません。しかし、落胆しないでください。皆さんがこうした不公平な立場で果たすべき役割があるなら、歴史的に苦難を受けた父の心情を共感し、主の苦しみが私の苦しみであり、先祖の苦悩が私の苦悩であると考え、千年にも渡ってその意志を変えずに団結し、サタンに対する敵意を持たなければなりません。そのような敵意に燃える息子娘でなければ、最後の審判の壁を越えることはできません。
 歴史的な使命、時代的な使命、未来の意志を立てる使命を持つ皆さんは、今、どのような時代に立っているかを知るべきです。今、天主教の時代がやってくるということです。誰も持てない天国への心情や、サタンへの敵意を持つ方が現れ、この世界を回復するでしょう。そのとき、その方を礼拝し、協力しなければならない使命がキリスト教にあるということです。
 一日を生きることも、生涯を歩むことも、父の意志のために行うべきです。
 民族を代表して私たちにこのような使命を任せたなら、私たちは父の怒りの心情を感じ、父の悲しみを身に受け、敵に向かって進撃できる勇士にならなければなりません。そのためには、皆さんは自分の生活と信念を統一しなければなりません。天国の悲しみとイエスの悲しみと先祖の悲しみと後続の悲しみを解消するために戦わなければなりません。
 今、不運の歴史が皆さんに迫っています。ですから、皆さんは心を込め、意志を込め、自分のすべてを捧げ、自分が天罰を受け、不当な扱いを受けても、イエス・キリストを代表して民族と世界の前に犠牲となる覚悟を持ちながら自ら手を上げて、天の前で誓うことができなければなりません。





「文鮮明先生の著作選集3 - 19章、『イエス・キリストの心を持つ者になろう』(1958年1月26日)」


1958年1月26日(日)、本部教会での説教。


ピリポの信徒への手紙1:1-11


<祈祷>


愛するお父様、私たちが集まったのは、あなたの意志を知るためです。この子供たちの心と体を受け入れてください。まだ戻るべき戦いが残されているにもかかわらず、天の道を見落とさず、あなたからの命令を深く心に留め、その通りに行動するよう導いてください。
この時、私たちの心の深い部分にあなたの本性を満たしてくれることを許してください。また、あなたの本性を慕いたくなるこの時間を与えてください。6000年に渡るあなたの苦悩をこの時理解できるようにしてください。あなたが私たちのために努力し、私たちのために十字架の苦しみを耐え、戦ってきたことを理解できるようにしてください。
地上には多くの人々がいますが、宇宙的な心情を代表できる者はいません。あなたの子として、あなたの栄光を歌うことができる者もいません。私たちを呼んであなたの愛を感じさせ、預言者たちの心情と万物の心情を通じることができる恵みを与えたあなたの前に、謙虚な心を持ってひれ伏すことができるこの時間を許してください。
与えられた恵みが鞭であることを知り、あなたを慕う心も大きくなければならないことを知っています。しかし、私たちの切実な心が十分ではないことをお許しください。あなたの悲しみを恐れることができる子供になれるようにこの時間を許してください。
それにより、自らのすべての過ちを認め、自らのすべての罪を悔い改め、自らのすべてを公にして、あなただけを所有し、あなただけを愛し、あなただけに頼ることができる一つの誠実さを備えることを祝福してください。愛する父よ、心から願います。
お父様、この時間、直接管理してくださり、サタンが介入することのないように導いてくださいますよう切に願います。私たちの体と心がお父様と一つになるこの時を許してください。また、私たちが築く祭壇が天地の生命を代表する聖別された祭壇となるように許してください。愛する父よ、心から願います。
地と天の恨みが満ちていることを感じますので、私たちの心と体が特に父の前に捧げられる供物となるように許してください。愛するお父様、心から願います。
今、私たちの前に御言葉を示してください。この時、与える者の心も受ける者の心も二つに分かれず、一つになるように許してください。お父様の実体を感じ、不信の群れに対抗するために父の前に実体として捧げられた供物であることを感じるこの時間を許してください。愛するお父様、心から願います。
この時、集まった子供たちの悲しい心を慰めてくださり、意のままに管理してくださいますよう切にお願いします。
すべての言葉を主の御名でお祈り申し上げます。アーメン。


<説教>
今、皆さんと少し考えたい言葉の題は「イエス・キリストの心を持つ者になろう」です。本文中「私がイエス・キリストの心であなたたちをどれほど慕っているか、神が私の証人である」という言葉を中心に、「イエス・キリストの心を持つ者になろう」と題して説教いたします。
アダムとイヴが堕落したその日から、神の希望は何かと言えば、神の心情を代表できる人、神が住むことができる聖堂として完成された人、神と一致する心情と心を持つ人を探すことでした。
この地上に神の意志を代表する神の実体聖堂として来たイエス・キリストは、4000年にわたる神の苦労した歴史的な摂理の道を代わりに表現した神の聖堂であり、4000年にわたる摂理で神が持っていた内的な心情を代表した方で、実際的な温かい心を持って現れた方です。今日、私たちはこれを感じざるを得ません。
神の心情を理解できるイエス・キリストの体であり、神の事情を感じることができるイエスの心でした。ですから、イエスの鼓動する心は天を動脈とし、人間を静脈として、天が動けばイエスが動き、人間が静まればイエスが静まる一体の関係を結ぶべきでした。それがこの地に来たイエス・キリストの使命であり、神の心情を感じるイエス・キリストの内的な心情を知る人、神の体を代表したイエスの外的な心を知る人がいなかったのです。
イエス・キリストの心情がどのようであったかと言えば、30年の準備期間中に他人が知らない孤独を感じた心情であったことです。
イエスはなぜそのような孤独を感じたのでしょうか?それは、人類の祖アダムとイブが堕落したことにより、創造の理念を達成し栄光を享受しようとした神の意志が成就されず、被造物は主を失った立場になったため、これを見る神は言葉にできない孤独を感じられたからです。イエスはこのような神の心情を知っていたため、同じ孤独を感じたのです。ですから、皆さんもイエスと同じように、被造世界が言葉にできないほど孤独な世界になってしまったことを感じる人になるべきです。
30年の準備期間を経たイエスはその後どのような生活をされたのでしょうか?4000年間神が努力して選び立てたイスラエルの民の前に現れ、新しい福音を伝えるために神の意志を代行する時、その心臓は言葉では表せない使命感に満ちていたはずです。30年間の悲しみの生涯を清算し、天の悲しみと苦しみを乗り越え、失われたエデンの主人公を再び回復させる使命を負ったイエスは、誰にも言えないほどの熱い心臓を持って現れたことを皆さんは忘れてはなりません。
選ばれた選民の前に現れ、新しい言葉を伝えるべく現れた時、イスラエルは、理念全体を代表するイエスを自らの希望の実体として、自らの栄光そのものとして迎え入れる環境を用意せず、むしろ彼らは意気込んで現れたイエスに反旗を翻しました。神がアダムとイブを失い悲しまれたのと同じように、神に代わって立てられたイスラエルがイエスの前で意志を示すことができなかった時、イエスは神がアダムとイブを失い悲しまれた心情を改めて感じざるを得なかったのです。
不信のイスラエルの民を見るイエスの心情は無限に悲しかったでしょう。憤りも強かったはずです。天に訴え、呪いをかけ、彼らを打つよう命じたいという切ない気持ちもあったでしょう。しかし、イエスはそのような心情を振り払い、エデンでアダムとイブが堕落した後に神が耐えられたその心情を思いながら耐え、悲しい心情を抱いたのです。そして反対するイスラエルの民に対して希望を持っていたイエス・キリストであったことを皆さんは知るべきです。
イスラエル民族を代表して贖罪の祭壇を築くべきであった洗礼者ヨハネや、アブラハム以降40余代にわたり選民の血統として神の手により導かれてきたヨセフの家族も消え去り、神の意志を受けて自らを宿し、出産後30年間育ててきたマリアやその兄弟、一族もすべて失われました。
「キツネにも巣があり、空の鳥にも住むところがあるが、ただ人の子には頭を置く場所がない」と言われたイエスの心情を、皆さんはこの時感じ取るべきです。その疾走する心臓の中には、神の労苦が大きかったことを理解すればするほど、イエスの苦悩とその怒りは大きかったでしょうし、選ばれたイスラエルに対する希望と期待が大きければ大きいほど、イエス・キリストの心臓は引き裂かれるような恨みに満ちていたでしょう。しかし、これを耐えながら静かに家を出たイエスの心臓がどのようであったか、皆さんは感じ取らなければなりません。そして、今日、皆さんの心臓がどのような状態にあるのかを見極める時が、まさに今であることを理解すべきです。
時は過ぎ去りましたが、イエス・キリストの疾走する心臓の脈動が今日、皆さんの心臓と血管、動脈と静脈を通じて動いていることです。そのため、皆さんは天に選ばれた心臓の脈動を代行できる人になるべきです。このような責任を代行できる人が現れることを、イエスは2000年もの間待ち望んでいたのです。また、神も6000年も待ち続けていたことを、皆さんは理解すべきです。
このようなことを考えるとき、住む場所がなく孤立した状況にあったイエス・キリストが、選ばれたイスラエルの民を背にし、信仰を頼りにしてユダヤ教を後にし、約30年の生涯をかけて荒野でバッタと野草を食べながら苦労し、メシアとしての道を準備していた洗礼者ヨハンも後にし、選ばれたアブラハムの血統であるヨセフ家族も後にして、天を背にし、家族を背にし、教団を背にして荒野へと出て行ったイエスの疾走する心臓がどのようであったかを、皆さんは理解すべきです。
振り返ってその一歩に恨みがあれば、天を代わってその恨みに満ちた心情を持ち、民族を責め、その責めに満ちた心情が爆発すれば、呪いの炎を下すように裁判の訴えをするべき立場であったにもかかわらず、イエスは民族の行く道を心配し、裏切り、拒絶する人々を心配し、彼らを再び抱きしめるために荒野へ歩いて行かれたのです。このようなイエスの孤独な心情を、皆さんは感じるべきです。
イエスは民族を後にして荒野に出て40日間断食しました。このように荒野に出て食べ物を口にすることができずに40日間孤独にさまようことを考えると、怒りが込み上げてくるかもしれませんが、4000年間耐えてこられた神の心情を思い、それでもこの民族に対する未練が残っていることを感じたイエスは、彼らに第二の生の期待を抱かせるために、荒野で何も食べずに40日間、神の前に民族的な捧げ物をしたことを、皆さんは知るべきです。
皆さんも経験があるかと思いますが、イエスは40日間の断食中に食べ物を摂取できなかったため、体が枯れるほど痩せていたということです。40日間の断食の過程で、イエスの心情は言葉にできないほど締め付けられ、心臓は衰えていきましたが、40日間の断食を乗り越えたのは、神の心情を切実に感じたからです。
それでは、今日の私たちはどうすべきでしょうか?私たちは、イエス・キリストの事情を理解できる友となり、食べられなかったイエス・キリストに固執し、死に向かうイエスの心臓の音を心配して泣くことができる友となるべきです。
そして、力ない体であったが、天命の新しい理念が塞がれてしまったことを打開しようとする戦いの中で、燃え上がる心を持っていたイエス、神の孤独な心情を思い、苦悩する心を持っていたイエスのもとに友は現れず、サタンが現れて試練を与えました。このような状況にあっても、自らの使命を果たさねばならなかったイエス・キリストの心臓を感じる皆さんであるべきです。
サタンが現れてイエスの心と体を破壊しようと3つの大きな試練を行ったとき、私たちは神の意志を代表し、民族を代表し、先祖を代表して新たに決意し立ち上がったイエスの疾走する心臓を感じるべきです。
最終的にサタンの試練を退けたイエスは、自分を拒絶したイスラエルの民が再び見つかるのが難しいこと、自分を反対し排斥したユダヤ教が再び見つかるのが難しいことを知りつつも、荒野に出て神との対決後、この罪の都を回復するための戦いに燃える忠誠心を持って決然と立ち上がったことを皆さんは知るべきです。
その日以降、イエスは死を覚悟して出発しました。イスラエルの民を代表して死ぬかもしれないが、自分自身を自分のものでないと自覚し、自分を試みたサタンに対して、自分を拒絶したイスラエルの民に向かって第二の攻勢を展開し出発したイエス・キリストの疾走する心臓を、皆さんはこの時再び感じるべきです。
よく人々は、イエス・キリストだからそのような事情に耐えることができたし、そのような苦難や非難にも耐えられたと言います。しかし、イエス・キリストだからこそ、より耐え難いということを皆さんは知るべきです。イエスは他の人よりも敏感で、他の人よりも極限の心情に苦しんでいたため、誰にも持たない重大な心情を持っていました。
そのような立場に立っていたイエス・キリストが、失われた都を再び探しに出たとき、人々は信じませんでした。イエスがそのような悲しみの生活、衣服を乏しく、飢える生活を経て立っていたとしても、地上にはイエスの事情に同調する仲間が一人もいなかったのです。そのため、イエスは「神だけが私の友であり、神だけが私の父だ」という心情を持つに至りました。このように、当時の人々はイエスを信じてはくれませんでした。
民族が裏切り、教団が非難し、親族と血族が見放し、自身の全てが失われるかもしれない中で、ただ一つ、イエスの安寧と、彼の希望、彼の心情を満たすものは何だったのかと言えば、それは「神は私と共におられる」という事実、そして「神は私のものである」という一つの事実でした。この一つの事実が4000年の歴史を代表して再び天を憂い、神の意志を再び掲げ、イスラエル民族に伝え、全人類に神の心情を植え付けるという考えを持たせたのです。
イエスは荒野に出る前までは、神を愛の神として知っていました。自分を育て、無限の希望の神として喜びをもって来られる方だと思っていましたが、このような盛り上がった心情を持って出たとき、常に相対的な関係であり、常に私を育て、私を抱きしめ、私を慰めてくれた神の困難な事情に直面し、神の困難な事情と悲しい心情を感じるようになりました。そして意志を「私が担います」と訴え、そのような心情を持って出たとき、その日から相対的な神ではなく、直接的な神、自分と共にいる神として、神と共に新たな決意を持って敵の前に立つことができたのです。
そこで40日間の断食期間が終わり、新たな戦いの道を始めたイエスは、民族を代表して4000年の神の恨みを解放するため、神の敵であるサタンを打ち倒すために死を覚悟して立ち上がりました。イエスはただ一人で立ち上がったのではなく、4000年間描かれてきた姿、神の心情を代表する者の姿で現れたのです。
その後イエスが語った言葉はイエス自身の言葉ではなく、イエスの行動もイエス自身の行動ではありませんでした。イエスが語った言葉は神の言葉を代表したものであり、イエスが行った行動も神の行動を代表したものでした。イエスは明確に神が自分の心の中に生きており、自分の心臓を動かしていることを感じたのです。
こうしてイエスは再びイスラエルの町に戻りました。しかし最初に民族が反対したときは孤独な心情を持って荒野に出ることができたものの、今回は押し寄せる試練と迫害がどれほど強かろうとも、それに立ち向かい勝負を決めようとする決意と覚悟を持って立ち上がったイエス・キリストの心情を、皆さんはもう一度考えてみるべきです。
失われたイスラエルを再び見つけるために立ち上がったイエス、体が崩れることがあっても決して後退することができないという固い信念に燃えるほど、ますます疾走する心臓を抑えることができなかったイエスを、誰が理解してくれたでしょうか?この世には、イエスの疾走する心情を理解する人は誰もいませんでした。ただ一人、神だけがイエスの事情を理解してくださいました。
そのような中で、イエスは3年間の公生活の道を歩み始めました。最初には、弟子たちを選び、使徒として立てました。しかし、イエスが弟子たちと接するときも、4000年にわたりアダムを失い悲しんでいた神の心情を代わりに表して弟子たちに接したのです。これらの弟子たちは誰であったか?神の実体聖堂となるべき使命を持った弟子たちでした。そしてイエスは、彼らを神の実体聖堂となるよう導くという強い意志が骨に染みていたのです。
反対するイスラエルの民も、サタンの一族ではなく、現れるべき神の実体としての神の子女であるにもかかわらず、神の意志を知らずに反対する彼らを見て、悲しむ神の心情を感じたイエス・キリストの心はどのようであったかを、皆さんは理解する必要があります。
そうしてイエスの3年間の公生活を振り返るとき、イエスは自分のために生きたのではなく、まず神のために、次に弟子たちと人類のために生きました。イエスは自分のためではなく、神の心情を代わりに表して生きたのです。
そして、イエスの疾走する心は神を代表し、イスラエルの民を代表したものでした。そのため、神の悲しみがイエスの悲しみとなり、イスラエルの民の悲しみがイエスの悲しみとなったのです。ここで、神とイエス、そしてイスラエルの民を代表する使徒たちは三つではなく一つとなることができました。神と民と自分が一つとなるべきという心情に苦しんだイエスでした。そして、皆さんはイエスが自分を追いかける弟子たちを自分の実子以上に大切にし、愛したことを知る必要があります。
イエスの3年間の公生活は、子供たちのために犠牲を払う親の心情を持ち、真の愛の生活を送った道でした。罪に苦しむ人類を哀れむ神の心情を代表し、民族と使徒たちの心情を代表したイエスでしたが、イエスの事情を理解する人は地上に一人もいませんでした。
誰にも理解されない中で苦しむ天の心情を抱えて戦いを挑もうとしたイエス、再び民族が反対し、追随する人々が離れ、最後にはゲッセマネの園で一人で祈らねばならなかったイエスの心情はどのようであったでしょうか?皆さんはこれを考えてみるべきです。
ゲッセマネの園で一晩中祈り続けたイエスの心情は、言葉にできないほど苦痛に満ちたものでした。それにもかかわらず、ついていた三人の弟子たちは、イエスとの行動を一致させることができず、それぞれバラバラに行動してしまったのです。イエスを通じて進むべきであり、イエスと同じ心情で訴えるべきであったにも関わらず、また、イエスが愛する弟子たちのために心を痛め、弟子たちを気遣いながら訴えたにもかかわらず、彼らはイエスの心情がどのようであったのかを理解せず、疲れ果てて眠ってしまったのです。
生死の決断の場面に立たされたイエスの心情は、天と地が溶け出すかのような言葉にできないほどの切ない心情でした。神はこのようなイエスの心情をご存知でした。しかし、3年間かけて自分の子のように育てた愛する3人の弟子たちは、イエスの心情を理解せず眠ってしまったのです。そのため、焦燥感に満ちた心情で3回も起き上がり、弟子たちを起こそうとしたイエスの切ない心情を皆さんも感じ取るべきです。
このとき、イエスはどのような心情を感じたでしょうか?それは、神がエデンの園でアダムとイブを失い、感じた悲しみと同じものでした。また、イエスは自らの前に現れた第二の民族である選ばれたイスラエルの民が反対し、ユダヤ教が反対する中で、再び3年の公生活を経ても自分を真に信じる人を一人も見つけられないと感じたでしょう。
アダムが堕落した後に神が感じた悲しみ、イエスが30年の私生活期間と3年の公生活期間に感じた悲しみ、さらにゲッセマネの園で祈っていたときの苦しい心情を理解する人がおらず、神の心情を感じ取る人もいなかったということです。3年間の公生活を共にした弟子たちもそれを知らなかったということです。
神を代表して歩んだ一生であったにも関わらず、イエスが歩んだ目的が民族のため、世界のため、人類のためであったにも関わらず、33年の生涯を歩んだ結果、残ったのは孤独でした。そして40日間の断食を終える時も、苦悩と悲しみに満ちた心情でいるイエスの前に敵であるサタンが現れたのです。
そのときのイエスの心情はどうだったのでしょうか?疾走する心臓はどうだったのでしょうか?何も信じることができず、どこにも頼ることができず、住む場所を決めることもできない切ない状況にあったにも関わらず、敵であるサタンが現れて試練を与えたため、イエスの心情は言葉にできないほど切なかったのです。それでもなお、ユダヤ民族と人類を心配していたイエスの心情を皆さんは理解すべきです。
私たちには、歴史的な使命を代わりに担い、贖罪の道を再び歩む責任があるとすれば、神の心情を代表したイエスの苦しい心情を代わりに担い、代わりに戦い、イエスの疾走する心臓の心配を代わりにすることができなければなりません。天はこのような真の子供たちが現れることを期待しています。
希望の条件をすべて断ち切り、荒野に出たイエスはサタンと戦い勝利しましたが、イエスには実体の供物を捧げるべき状況があったということです。これを皆さんは理解すべきです。
このようにして、イエスは愛する弟子たちと共にエルサレムに入りましたが、選ばれたイスラエル民族と教団を失い、孤独で哀れな状態でゴルゴタの道を歩まれました。この事情を皆さんも知るべきです。また、この事情の中で、非難すべきイスラエル民族であり、呪うべき12使徒であったが、鞭で追い出し、叫び、喚き散らす選ばれたイスラエル民族を見ながら、無言で十字架を背負い、必死でゴルゴタの道を歩かれたイエスの心情を、皆さんが理解すべきです。
イエスも人間であるため、人間的な感情があれば、不当に感じたでしょう。呪いと恨みが心を苦しめ、心が痛んでいたはずですが、神がこの民族、この世界を再び救おうとする意志が残っていることを知り、イエスは呪いの言葉を封じ、悲しい心情を転じさせました。
イエスは、自分が天を代表してこの民族を呪い、神を代表して審判すると、後代の人々を救う救済の計画が全て破壊されると感じたため、救済の基準を設けることができました。もしイエスが自らの不当さを不当として表し、神を代表する立場で呪いと恨みの立場に立っていたら、この世は希望が完全に途絶え、その時が世の終わりになっていただろうと感じます。
そのようなことを知っていたイエスは、「私が死の谷を越えても、なすべき神の意志がある」と感じていました。その心情から、呪うべき民族や復讐すべき敵に対して、「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分のしていることを知らないのです。」(ルカ23:32)と言われました。このようにして第二の救済の意志を受け継ぎ、始まった悲痛で重大な瞬間を、皆さんも理解すべきです。そして、神はイエスを第二の救済の実行者として立てることができ、人々に復活の恵みを与えることができたのです。
このような状況にあったイエスは、敵によって十字架に釘付けにされることをすべて忘れ、過去の歴史を振り返りながら神の心情を案じ、未来の子孫を心配し、自らの血と肉が引き裂かれることを忘れ、天の歴史的な悲しみの心情を代わりに背負い、歴史的な神の恨みと歴史的な救済の責任を代わりに背負い、「天よ、赦してください」と訴えました。
それゆえに、万民のために、残念ながら人間としてこの世に生まれ、慰めの場所を一つも見つけることができず、あちこちに追いやられながら、孤独な孤児のように、放浪者のように孤独な道を歩んだ生涯が、結局はゴルゴダの丘での十字架の死に至ったこの一事を考える時、それを見る神の心情はどうだったでしょうか。神の悲しみは、天地をひっくり返すかのようであったでしょう。聖書にはイエスが亡くなる際に3時間天地が暗くなったと記されていますが、これは4000年もの間信じ続けた息子イエス、失われたアダムを見つけ出すために後アダムとして立てられたイエスが、死のゴルゴダの道で犠牲とされていく様子を見て、神が驚くほどの心情を抱いていたことを示しています。このような神の悲しくて切ない心情を理解する必要があります。
4000年の歴史を代表して現れるべきイスラエルが破壊されたことを、今日の私たちは復帰したイスラエルとして、イエスに反対していたイスラエルをイエスを歓迎するイスラエルに復帰させるべきです。そして、神の心情を代表して来たイエスを拒絶したイスラエルは壊れましたが、今日の第二のイスラエルである私たちが神を代表して不公平を解消できるようでなければ、再び来る主を迎えることはできません。天もこれを要求しています。
では、終末の聖者たちに対して求められる最大の要求は何でしょうか。再び来るメシアを迎え入れることができる人は誰でしょうか。それは、イエスが抱いていた苦しい心情とその疾走する心臓の内情を理解できる子供たちです。そのような子供たちがこの地上に現れなければ、死んだイエス・キリストの恨みを解くことができず、神の恨みまで解くことができます。それによって人々は喜びの日を迎えることができると理解しなければなりません。
イエスは復活の日を見つけましたが、復活後もイエスは自らを拒絶した弟子たちと会いましたが、喜びませんでした。復活後、マグダラのマリアがイエスに会って抱きしめようとしたときも、「抱きしめるな」と言いました。
喜びの日であり、喜びの瞬間でしたが、彼らはその歴史的な悲しみを知らず、イエスの代わりにイエスの前に喜びの条件を設けることができませんでした。このことを理解し、復活後にイエスを抱きしめようとしたマリアの心情を超えて、イエスの内的な心情を洞察し、彼の心臓まで理解し、天と地を背負った勝者としての資格を備える必要があります。どんな人間界のサタンであっても踏み越えて、神の前に立つことができる神の心情とイエス・キリストの心情を持つ人々でなければなりません。
アベルの血が歴史を代表して訴えたために、その贖いを果たすべきイエスが血の訴えの供物を捧げましたが、その後私たちはどうすべきでしょうか。イエスの流した血で終わらせるのではなく、その血を収集して、再び神の生きている人の血として私たちの体と心に保持し、その血を動かすことができる天的な心情と心臓を持った資格者でなければなりません。
皆さんは、自分を拒絶していた人々に対して、もう一度赦しの心を持ったイエスの心情を理解しなければなりません。互いに信じ合って、生きるか死ぬか一緒になる覚悟を持って出発した弟子たちが拒絶するとき、イエスは再び寛容で彼らを受け入れ、自らが死の危機を迎えるかもしれないが、彼らを呪わずに許したその心情を理解しなければなりません。
また、拒絶された弟子たちを後にして、復活して喜びの心を持ちながらも独り昇天しなければならないイエス・キリストが、自らに反対した使徒たちを探したイエスの心情を、あなた方が感じ取るべきです。
歴史的な和解の始まりについて、今日どこから始めるべきか考える必要があります。イエスの悲しい心情を慰め、喜びに満ちた心情に変えることから始めるべきです。今日、地上に悲しむ人がいれば、その人を抱きしめて共に悲しむことができるあなた方である必要があります。
選ばれたイスラエルの地位にある全世界に広がるキリスト教徒たちを見る時、選ばれたイスラエルを再び整え、神の祭壇を築き、生贄を捧げるべきイエス・キリストの苦しい状況が、歴史的な恨みとして結ばれていることを理解する必要があります。そして今日、世界に広がる第二イスラエルを動員し、彼らの保護者となり、彼らの戦いの代表者となり、彼らを代わってサタンと戦ったイエス・キリストの状況を共感する人になるべきです。このような心情を共感する聖者たちでなければ、イエス・キリストの使命を受け継ぐことはできません。
また、皆さんは全てを諦め、イエス・キリストの足跡を守り、イエスが荒野で受けたサタンの試練やカエサルの裁判、ローマ兵の槍突きを打ち負かし、勝利することができる人々でなければなりません。このような責任を果たす仲間が必要であり、同時にイエスを迎え入れることができる家族、族、社会、国家、世界が必要ですが、それらは一体どこにあるのでしょうか。
今日、私たちは団結する必要があります。教派を踏み越えて、神の心情を代表して団結する時が来ました。言葉を通してイエス・キリストの実体を所有する時が来たのです。旧約の言葉を基にしてイエス・キリストの実体を所有すべきでしたが、イエスが実体を通過する扉であったにもかかわらず、この扉を知らなかったためにイスラエル民族は砕かれました。そして、旧約・新約の言葉を通過する時代が過ぎ、イエス・キリストを通じた実体通過の時代が来ていることを理解すべきです。
エデンの恨みとは何でしょうか!言葉を失ったことが確かに恨みの条件となりましたが、実体を失ったことがより大きな恨みでした。では、誰が言葉を踏み越えて実体通過の扉を開くでしょうか?これが問題です。このような扉がないために、今日私たちはこの扉の石となり、この扉を作る使命を背負っていることを理解する必要があります。
神は言葉だけを重要視しているわけではありません。新旧約聖書、つまり何億もの人々が読んでいる聖書の言葉よりも、その言葉を通過した一人の息子をより重要視しています。その息子とはどのような人でしょうか?頭で知る人ではなく、心と体で知る人です。頭で知る時代は過ぎ去りました。心で言葉を理解し、体で感じ、自らが神に代わってサタンと戦える実体の生け贄が求められる時が来ています。
イエスが30年以上の生涯を通じて行ったことは、神の悲痛な心情を解放するために、旧約の言葉を蹴飛ばしてでも、人間自体が言葉を代表し、神の心情と一体となり、誰にも分けることのできないこの一つの門を地上に作り出すための努力でした。そして、この資格を持った一人を見つけるための戦いの過程でした。
この一人がいなかったため、イエスは運命によりこの世を去る際、「私は花婿であり、あなたたちは花嫁です」という恨みの言葉を残しました。
今、この恨を解決する者は誰でしょうか?神の恨を解放するためにイエスが苦しんだものの、成し遂げることなく世を去りました。今、6000年の歴史の終わりにあたり、その計画を継承し、この使命を担うために苦闘する地上の花嫁は誰でしょうか?その花嫁は、旧約・新約を知るだけの人ではありません。現代のどんな神学者でもありません。
イエス・キリストは30年以上にわたり神のために隠された悲しみを抱え、知られずに拒絶を受けました。40日間何も食べずにサタンと戦ったイエスは、死んでも生きても共にいると誓いながらも、裏切った弟子たちを再び受け入れるために立ち上がりました。普通の人間なら夢にも見たくないような存在でしょうが、イエスは復活後、弟子たちを再び探し出しました。このように、神の心情を代行するイエス・キリストであるあなたたちは、イエスを売り飛ばそうとしてはなりません。
彼の代わりになるべき世界中に散らばる第二イスラエルのキリスト教徒たちはどこに行くのでしょうか?サドカイ派やファリサイ派のような宗派を形成してきた人々が全てイエス
を受け入れることができずに終わりましたが、今日、皆さんはそうした宗派を踏み越えて立ち上がるべきです。
皆さんは父の言葉に代わって、そのような宗派を踏み越えて立ち上がる実体の供え物となるべきです。イエスの心と心が一つになり、神とイエスの心情と一つになった生きた供え物の実体が、この民族を代表する宗派の上に現れるべき時が来ていますが、今日のこの民族と人類はまだ眠っています。
世界は一つの心臓の動きによって一つの形を成し、天の心情とイエスの血肉を通じて歴史が流れてきましたが、今日、ついに実を結ぶべき一つの実体があなた自身です。
皆さんはイエス・キリストの切ない心情と動く心臓を所有する相手となり、第三イスラエルに残るべきです。イエスがそのような心情を持って供え物となり、第二イスラエルを作ったため、今日、私たちはその覚悟を持つべきであり、それによって第三イスラエルの祖となることができます。また、地上のエデン、つまりエデンの園の本来の子供となるでしょう。
皆さんは復活の恵みの実体を持って、歴史的なすべての苦しみを乗り越え、時代的な恨みを脱し、天を求めて出発できるようにならなければ、神の子供として立てられるでしょう。
イエスの30年の生涯が神の4000年の歴史の心情を代わりにして犠牲の実体として現れたように、今日、私たちも6000年にわたる神の回復の計画の心情とイエス・キリストの心情を代わりにして、天が動けば動き、定まれば定まる神の子女となるべきです。
このように過去6000年の歴史を振り返り、疑っていたイスラエルを見て悲しみ、未来の第三イスラエルの安息の園を築く使命を抱きながら、誰が行こうとも「私一人この責任を負います」と天に誓える子女となるべきです。そして、イエスの足跡を守り、後継者の責任を果たすべきです。
皆さん自身が、今、旧約・新約の言葉が何であるかを理解しなければなりません。旧約・新約の言葉よりも、イエスの心情が何であり、イエスの心臓がどのようであるかを知り、つまりイエスの内的な心情を理解し、外的な心臓の動きを知ることで、天が動けば皆さんも動くことができるようにならなければなりません。
また、天の動きと停止に同調し、天の意志を代表して、父の前で勝利の供え物として自分を捧げることにより、イエスはこの地上で恨みを解き、神もこの地上で恨みを解くことができ、すべての人々が神に従って勝利の栄光を享受できるでしょう。
皆さんが偶然にこの立場に立ったと思わないでください。歴史的な運命を代わりに引き受けた必然的な道程として祭壇を受け継いだと考えてください。皆さん自身が今、イエスがゴルゴダの山で乗り越えた悲しみの壁を踏み越え、ゲッセマネの園からゴルゴダの山まで上がり、12使徒を一つに束ねた生ける供え物として勝利の祭壇を築き、サタンを征服して「父よ、ただひとり栄光を受けられますように」とできる勝利の子女となり、主の前で花嫁の資格を持つ勝者となるべきです。

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天聖経  全16編  メニュー

2024年04月14日 16時19分20秒 | 学習

天聖経  全16編  メニュー(編集中)

第 1編 真の神様
 第一章 神様の本体
 第二章 神様と創造の役事
 第三章 復帰摂理歴史と神観の変化
 第四章 真のお父様の見た神様

第 2編 真の父母
 第一章 真の父母とは
 第二章 メシアと真の父母
 第三章 真の父母の必要性
 第四章 真の父母の使命
 第五章天国と真の父母
 第六章 真の父母と我々
 第七章 真の父母を中心とした生活
 第八章 三大主体思想と真の父母宣布
 第九章 真の父母に関係した指示のみ言

第 3編 真の愛
 第一章 真の愛というものは
 第二章 愛の実際
 第三章 愛と結婚
 第四章 愛と家庭
 第五章 愛と霊界

第 4編 真の家庭
 第一章 創造本然の真の家庭
 第二章 家庭を中心とした愛の法度
 第三章 家庭は天国の中心模型
 第四章 愛を中心とした人生行路
 第五章 創造本然の男女の愛
 第六章 思春期の変化と真なる結婚
 第七章 真なる夫婦の愛
 第八章 真なる父母の愛
 第九章 真なる子女教育
 第十章 復帰すべき人類の真の家庭
 第十一章 家庭は永遠の幸福の土台
 第十二章 真の家庭を求めて

第 5編 地上生活と霊界
 第一章 有形、無形世界での人間の存在
 第二章 死と霊界
 第三章 霊 界
 第四章 天 国
 第五章 メシヤと霊界
 第六章 我々と霊界入籍
 第七章 我々と霊人との関係 

第 6編 人間の生と霊魂の世界
 第一章 人生の行くべき道
 第二章 霊界はどの様な所か
 第三章 真の御父母様と霊界

第 7編 礼節と儀式
 第一章 神様に対して侍る礼法
 第二章 真の御父母様に対して侍る礼法
 第三章 礼拝と教会生活礼節
 第四章 祝福家庭の伝統と生活礼節

第 8編 罪と蕩減復帰
 第一章 蕩減・復帰原理の根拠
 第二章 罪、人間堕落の内的意味
 第三章 蕩減と復帰の公式
 第四章 蕩減路程と私たちの生活


第 9編 祝福家庭
 第一章 真の父母と祝福
 第二章 真の父母と祝福の歴史
 第三章 祝福家庭の摂理的意義
 第四章 祝福家庭と入籍

第10編 成約人への道
 第一章 人生観
 第二章 家庭観
 ...
 第四章 成約人への道

第11編 宇宙の根本
 第一章 宇宙の根本秩序
 第二章 人間創造と愛の理想の完成
 第三章 人間堕落と復帰

第12編 環太平洋摂理
 第一章 二十一世紀は海洋の時代
 第二章 海洋レジャー産業と趣味産業
 第三章 環太平洋時代と「島嶼国家連合」創設
 第四章 神様の摂理から見た海洋文明
 第五章 すべての文明の結実は半島で
 
第13編 真の神様の祖国光復
 第一章 真の神様が願う祖国
 第二章 家庭教会は摂理的な内的基盤
 第三章 統班撃破運動をなぜしなければならないのか
 第四章 宗族的メシヤ活動をせよ
 第五章 再出発の為の私達の決意
 第六章 真の父母が伝授する世界と南北統一教本
 
第14編 真の孝の生活
 第一章 忠孝の意義
 第二章 真の忠孝
 第三章 忠孝の道理
 第四章 神様に対する忠孝
 第五章 孝行と忠誠と宗教は不可分の関係
 第六章 忠孝と真の愛の有無が天国行きと地獄行きの尺度
 第七章 神様と真の御父母様

第15編 天一国主人の生活
 第一章 創造の原動力は神様の真の愛
 第二章 天国と真の家庭
 第三章 神様と真の父母
 第四章 天一国の民になる道

第16編 真の家庭と家庭盟誓
 第一章 家庭盟誓宣布と前提条件
 第二章 家庭盟誓の各節の解説
 

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御言葉選集3(16,17)

2024年04月06日 16時15分41秒 | 学習

文鮮明先生の言葉集 3 - 16. 天は私たちを呼んでおられます。 (1958年1月5日)

1958年1月5日(日), 前本部教会.
聖書拝読:創世記 3:1-14


 この聖書の一節を通して、人類の悲劇が始まった理由を知ることができ、人間の祖先が神のもとから追放された事実もこの聖書の一節からよく知ることができます。
 神は創造の理念に基づいて万物を創造され、その後、人間を模して、万物と共に楽しむことのできる天宙の中心存在としてアダムとイブを創造されました。しかし、人間の堕落によって神の創造目的は達成されずに残り、神は人間を創造されたことを後悔されました。これが神の悲しみであり、万物のため息でした。
 神は永遠の善の理念を中心に人間が楽しむべき幸福と希望がここから中断されてしまいました。永遠の理念を中心に、永遠の幸福と平和を享受すべき神と人間、創造主と万物の希望がここで根本的に破壊された事実を考えるとき、人間と神の悲しみが共にあることを私たちは気づかなければなりません。
 神は万物を創造された際に心を込めて創造されました。アダムとイブを創造された際にも、最大限の努力を尽くし、神が喜ばれ、人間も喜び、喜びました。
 永遠の善の理念を中心に、人間の幸福と希望がここから中断されました。永遠の理念を中心に、永遠の幸福と平和を楽しむべき神と人間、創造主と万物の希望がここで根本的に破壊された事実を考えるとき、私たちは人間の悲しみと神の悲しみが潜んでいることを認識しなければなりません。
 神は万物を創造される際に心を込めて創造されました。また、アダムとイヴを創造する際にも最大限の努力を尽くされ、神が喜ばれ、人間も喜び、喜びました。
 神は万物を創造されたのも、彼らを人間と永遠に共存させ、その姿を見てあなたが喜ぶと同時に、人間も喜び、神が喜ばれると同時に人間も喜ぶことができるようにするためでした。このような創造の目的を立てられましたが、アダムの堕落によって神は一度もそのような時を迎えることができませんでした。そのため、神はそのような時を再び求めるという事実を私たちが心に留めておかなければなりません。
 アダムとイヴが堕落した後、神はアダムを呼んで「アダムよ、アダムよ!」と呼ばれた悲しい心情を理解しなければなりません。神、つまり創造主を拒絶するアダムとイヴに対して、神も彼らを拒絶すべき立場にありましたが、神は再びアダムを求めて「アダムよ、アダムよ!」と呼ばれました。これはアダムとイヴだけを対象とした呼びかけではなく、歴史的な呼びかけであることを私たちは理解しなければなりません。
 創造後、アダムを呼ばれた神の内面的な心情は、今日までこの地の人々が知らなかったことでした。当時、アダムを呼ばれたその声は、今日、6000年という長い歴史を代わって悲しみの言葉となっています。神は、創造以後の堕落の支配下にある全ての人間の悲しみを代弁する悲しい心情でアダムを呼ばれたことを、私たちは知るべきです。
 アダムから6000年という長い歴史を経ても、神は当時の出来事を現世に結びつけ、今日の第二のアダム、第二のイヴである私たちに対しても同様に呼びかけておられることを、私たちは知るべきです。
 堕落後、従順の意志を受け入れた信者たちは、このような神の心情を感じ、アダムとイヴを呼ばれたその声を聞かないこの地に対して悲しみ、神に代わって悲しみました。
 私たちは堕落後、アダムとイヴを呼ばれた神のその悲しい心情、つまり許されない場所に行って堕落したアダムの姿に対する父親の心情を理解しなければなりません。私たちがその心情を共有し、同じ心で悲しむとき、神はこの地上の人間に対して再び救済の計画を進めることができるのです。皆さんは、神がこれまでの歴史の中で多くの先駆者を立て、皆さんを呼びかけておられることを忘れてはいけません。
 エデンの園で堕落したアダムとイヴを呼ばれたその声は、今も聞こえています。神は堕落後、長い1600年の歳月にわたって変わらずアダムを呼びかけ、そして忠実なノアを抱きしめ、ついに「ノアよ、ノアよ!」と呼ばれることができたのです。私たちはそのような歴史的な声を聞くことができるべきです。
 神はアダムを呼ばれたその悲しい心情を癒すために、ノアを呼ばれました。しかし、ノアを呼び続けて120年間憂いられた父の心情を理解する人はいましたか?神は苦しみの日を迎えるために120年間悲しみ、ノアを呼び続けられたという事実を理解する人はいませんでした。皆さんの中に、アダムとイヴを失い悲しむ神の心情を共有する人がいるならば、神は涙なしではその人を見ることができないでしょう。神の腕の中で留まるべきアダムが追放されると感じた神の悲しい心情を共有する人がこの地上にいるならば、その人はアダムを代表して神の前で悔い改めないことはできません。
 天の悲しみはアダムの堕落から始まりました。このため、神の慈悲により、神は皆さん自身を代表してこの時期に懇願し、悲しい嘆願をしておられるのです。
 もし私たちがこのような事実を理解しているなら、骨と肉、身体と心が打ちのめされても、悲しみや苦しみを感じることはないでしょう。歴史の中でさまざまな試練に立ち向かった祖先たち、神の代わりに立ち上がった先人たちの中には、涙を流さなかった者は一人もいませんでした。神の代わりに立った人々は苦難の道を避けることなく進みました。ノアもそうであり、アブラハムもそうであり、イサクやヤコブもそうでした。個人だけでなく、国民を代表したモーセもそうであり、世界を代表したイエス、すなわち万民の救い主であるイエス・キリストもそうでした。
 今日、私たちは神が悲しまれるように悲しみ、神が慰めてくださる時に共に慰めるべきです。アダムとイヴが神を忘れ、神を拒絶し、自己中心的な喜びを求めたことが、歴史的な悲しみの原因として残っています。
 このような悲しみの土地がどこから生まれたのかというと、アダムとイヴが神の意志を背いて天倫を忘れ、自己中心的な行動をしたことによるものです。そして、神の悲しみがどこから始まったのかというと、人間が天の悲しみを忘れ、天の慰めを忘れ、自己満足と無関心の中で生きるようになったことからです。ですから、私たちは歴史の中で涙の決定的な存在にならなければなりません。
 私たちは苦しみや絶望の中にある天の代理人となり、天の悲しみや怒り、不公正に立ち向かって闘わなければなりません。そのようにして父なる神を擁護し、イエス様を擁護し、歴史的な先聖たちを擁護しながら、天を慰める使命を果たさなければなりません。父なる神はそのような人を探し求めておられるでしょう。
 イエスや聖霊、そしてこの地にやってきた私たちのすべての祖先もこのような存在を探し求めてきたことをあなたは知るべきです。皆さん、今までの生活を振り返り、新しい人生を歩んでいる間に、天の代理人として苦しい立場で人々に拒絶され、嘲笑された経験が数時間だったと思いますか?
 堕落した人類は悲しい運命の歴史的な結末にあるため、天を求める者はこのような道を避けることはできません。これが堕落した世界の鉄則であるためです。したがって、神は歴史の中で悲しむ者でした。彼は御旨を行われる間、子供たちが悪しき力に虐げられる様子を見て、慰めてくださった神です。しかし、神はいつまでも悲しみの中にとどまりたいとは望まれません。早く悲しみや絶望、怒りから解放されて喜びの日を迎えたいと願っておられることを知るべきです。
 人類の堕落の後、6000年の歴史が経過しましたが、喜びの日を迎え、天の栄光を共に讃え歌うことができる子供たちは、今までに一人もいませんでした。そのため、天が建てたキリスト教は涙の宗教です。キリスト教は十字架の宗教です。
 イスラエル民族から追放されていたイエス・キリストの足跡の前には、涙の谷間、十字架の道が広がっていました。家庭で拒絶されていたイエス・キリストの苦境や、ユダヤ教徒から追放されていたイエス・キリストの心情を想像すると、イスラエル民族やユダヤ国から異端者として扱われ、追放されたイエス・キリストの姿を垣間見ることができます。彼の歩んだ道は何よりもイスラエル民族のための道であり、その種族のための道でしたが、当時のイスラエル民族の進む道とイエス様の進む道は対立していたことがわかります。
 この対立が広がるにつれて、神の悲しみはより大きく、怒りも増していきました。この対立した道を再び相対的な道に変えるために、戦いの歴史を展開してきたのが、イエス・キリストの後2000年の信仰の歴史であることを理解する必要があります。
 そして、自分自身を万物の中心に置き、心と体を別々にして彼らと比べてみて、批判してみてください。神の前で批判されてみてください。歴史的な先聖たちの前で、また今日、涙を流し、悲しみと苦しみの道を耐え忍ぶ真の牧者たちの前で批判されてみてください。
 あなた自身に誇ることも何もありません。考えれば考えるほど、罪の報いを受けるにふさわしい存在であることを否定することはできません。私たちの多くの先祖が歴史的な血の涙の祭壇を通り過ぎてきました。今日、神はその祭壇の上にあなた自身を立て、勝利の成果としていることを望んでいます。これを理解せずにその意図を拒否すれば、その民族はどこに行くでしょうか?選ばれたアブラハムを反対したその種族はどこに行ったでしょうか?イサクとヤコブを通じて悲しい心情を感じなかったイスラエルの民はどこに行ったでしょうか?彼らは荒野で苦闘しなければならず、悲しみと嘆きの中に沈むべきでした。
 さらに、モーセの時代にはどうでしたか?シナイ山に登って40日間食べ物を取らずに民を神の前に訴えるモーセの悲しい心情や苦しい心を、無知な民は理解しませんでした。もしもその民がそのような悲しい心情を理解して共に悲しんだなら、イスラエルの民は荒野で倒れることはなく、イエス様が十字架にかけられるユダヤの歴史を残さなかったでしょう。また、今日まで罪の歴史は続いていませんでした。それができなかったために、神の苦しみは言い表せないほど大きく、今日まで神は歴史を通じて十字架の道を歩みながら宗教を確立し続けています。
 もし歴史の中で誇りを持ちたいと思うのなら、悲しむ神の心情を代わりに感じ取り、「ああ、父よ!その悲しみを私に託してください。」と言える人にならなければなりません。 「神が負っている荷を私が代わりに負いましょう。」と祈り、立ち上がる国民は滅びません。しかし、個人や社会、国が神の悲しみや懺悔、苦悩を知らなければ、滅びるでしょう。すべて同じです。
 今、歴史的な伝統を守るべき終末の聖者がこのような責任を感じるならば、彼は神の悲しみに共感し、知られざる涙をたくさん流すべきです。迫害を受け、時には知られざる苦しみに耐えることを知らない人にならなければなりません。イエス・キリストこそがそのような人でした。そのような方の後を追うことができる人は、この世にどれくらいいるでしょうか?
 神の祝福を受ける民族の道を歩みながら、全人類を代表し、世界を代表して罪を裁くことができる神の子らがこの民族の中にいるなら、彼らに向かって神の経綸が転がり、宇宙的な使命も彼らを通じて達成されるでしょう。
 したがって、私たちは神の悲しみを代わりに感じるために涙を流さなければならず、父が愛する人類のために涙を流さなければなりません。ノアの悲しみを代わりに感じ、アダムからアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、そしてイエス・キリストに至るまでの4000年に及ぶ悲しみを代わりに感じるために涙を流す人にならなければなりません。
 地上で神の子女を探し求める神の声に「父よ、私はここにいます」と答えることができる人がいるならば、たとえその手が卑しいものであり、その心が傷ついていたとしても、その姿が粗末であったとしても、彼は滅びることはありません。彼は神の悲しみを代わりに感じることができ、彼の心が天と共鳴し、通じるからです。
 そのような人の進む道は、世界が総動員されても止めることのできないものです。このような原則を知っているイエス・キリストだったからこそ、彼は背信するイスラエル民族のために悲しみ、迫害する教会のために涙を流し、十字架に釘付けにされる敵に祝福を贈ることができました。
 今日信じる者たちが天の前に立ち、また新郎となられたイエス・キリストの前に花嫁として立とうとするとき、イエス様が感じていたその悲しい心情や昔の先聖たちが感じていた心情を思いやることができないならば、悔い改めなければなりません。天を歩み、国を歩み、世界を歩み、悲しむべき事を知る神の子らが現れるべき時なのに、しかし、神が悲しむのに自分は喜ぼうとする人は滅びます。そのような国があれば、その国も滅びるでしょう。
 それでは、数千年にわたる歴史の中で、多くの聖人たちを通じて神から受け取ってきた恵みを持つ皆さんへ。今日は、それぞれが置かれている立場から、自分が持つ心がどのようなものかを振り返り、冷静な批判を行う時です。
 そうすると、天は今日の私を立てて、この世界に何を予告しているのか?今自分自身のために涙を流す時はもう過ぎ去っています。今は世界の支配者の時なので、家族のために涙を流す時も過ぎ去っています。神の悲しみは、個人や家族、社会や民族を通り、国家的なプロセスまで経てきました。今は世界に対して悲しんでいます。
 歴史的な帰還の運命の前に、自分の歴史観と生活領域が一致している必要があります。そのためには、皆さんがエデンの園で暮らしていたアダムと同じ立場であり、父が歓迎することができる子供の姿を備えなければ、皆さんはようやく父の前で苦しむ心情で呼ばれることができます。
 そのようになるためには、悲しみの山を超え、十字架の道を歩み、自由な解放の体で永遠の父に「私の父よ。」と賛美し、差し上げることができるようになる必要があります。そのような子供が現れると、神の喜びが始まります。これが歴史的な希望であり、その希望が成就する日がまさに「再臨の日」なのです。そして、それを実現するための中心的な役割を果たすべきものがキリスト教です。
 皆さんは歴史的な召しに反してはいけません。神は人を歴史の終わりにのみ召しません。今日のこの時も私たちを召し続けていることを知るべきです。これまで善を中心にして来た道の世界には、多くの教派がありました。今、私たちはその中から天の意志を通じる真の牧者を見つけなければなりません。そのような牧者に出会ったとき、彼を追うためには、死の道、つまりどんな困難な道でも進まなければなりません。それが最初に天の悲しみと共にあることなしには成されないことです。
 今日の教会の指導者たちは、このような天の事情を知る必要があります。しかし、それでも自分の主張だけを唱えて争い合うなら、その教団は滅びるでしょう。そうなった場合、他とは異なる道を進んだ皆さんは、民族を代表して、先祖から受け継がれる堕落の遺産を清算し、神の前に進むことができるその一人の存在が現れることを望む必要があります。その願いが実現される日が再臨の日であることを知るべきです。
 神には祝福と喜びを与えることができる子供がいないことが望まれ、悲しみであり、神を中心とする家庭がないことが悲しみであり、神を中心とする民族がないことが悲しみであり、神を中心とする国と神を中心とする世界がないことが悲しみであることです。
 皆さんは、神が皆さんを置かれた目的を知る必要があります。そして、神は過去の悲しみ、現在の悲しみ、未来の悲しみを感じながら皆さんを見つめ続けていることを理解する必要があります。
 神は今、だれを選んでアブラハムの後継者とし、だれを選んでイスラエルとヤコブの祝福を引き継がせることができるのか、そして、だれを通してイエス・キリストの遺産を受け継がせるのか?そのような人を見つけて立てることが神の希望です。そして、それは今日この時代にも残された条件です。
 人類の歴史を振り返ると、神が6000年にわたって言葉では語り尽くせないほど悲しまれていたことがわかります。イエスや聖霊がそうであり、私たちの先祖もそうだったように、私たちも彼らを代わって責任を持ち、このような神を和解させなければならない時が来ています。
 この時代の腐敗した姿を見ると、私たちの前には涙につけるべき民族的な難問の歴史的な運命の道があることを知る必要があります。このような道を歩むことは避けられない宿命であり、私たちはここで勝利の業績を残さなければならない宿命の意志があります。
 宿命を中心にして見ると、神は過去に人類を見捨てずに悲しまれ、今も悲しまれ、将来も悲しまれるべきであるということがわかります。民族を責任を持って立ち上がったモーセを拒絶したその民族は目覚め、また世界を責任を持って来られたイエスを拒絶すると、そのイスラエルは世界的に不利な民族になってしまいました。これが歴史的な証明です。
 私たちの民族には自慢するものはありませんが、私たちは天を中心にし、世界の前で最も哀れな民族になると、つまりこの国が世界を代表してどの国よりも哀れな立場に立つならば、ここに希望があることになります。そのような立場から飢え、ため息をつきながら悲しい涙を流したことがこの民族の業績となるなら、この民族は死の中から再び生き返ることができるでしょう。
 そのようになると、この民族は将来世界を導くことになるでしょう。私たちは天の前に謙虚な姿勢で、イエスが歩まれた道を守り、モーセが行った道を守りながら、歴史的な頭角を越えて最初のアダムとの立場を代わって彼らの未熟な過去を清算し、本来の創造意識を再び見出さなければなりません。そして、神が喜びで接してくださる子供となり、父の祝福と栄光を受けることで、すべてのものと共に動くその日を迎えることができるのです。
 ですので、今日の皆さんは歴史的なすべての悲しみを乗り越え、悲しみの山を越えてやっと神の喜びの一行に参加できることを知る必要があります。






文鮮明先生御言葉選集 3-17 天が静寂を保つ場所はどこか(1958年1月12日)

1958年1月12日(日曜日)、前本部教会

聖書拝読:マタイによる福音書8:18-22


<祈祷>
 愛するお父様、今この時、み言葉を語って参りますので、お父様と受ける者とが別れることのないように許し、お父様が定められるならば、我々も定め、お父様が行われるならば、我々も行い、ただ一つの心、一つの意志となるように許してください、父よ、切に願い求めます。
 イエス様当時、不信の地を心配しながら神の思いやりを慰め、その悲しまれるイエス様の気持ちを感じさせてください。そうして、我々の心がただこの時にとどまらず、父の心と連ね、歴史的なイエス様の心と連ねて動くことができるように許してください、切に願い求めます。
 悲しまれる父の気持ちを我々の心に感じさせてください、人類を救うために思いやりを持たれたイエス・キリストの気持ちを我々が理解できるようにしてください、この一時間、ここに集まった愛する兄弟姉妹が自分の心に残る闇のすべての罪を清算できるように許してください、愛する父よ、切に願い求めます。
 常に我々の前には、お父様の恵みを阻もうとするサタンの試みがあることを知っていますので、いつどんな立場からお父様の恵みが臨むのかを悟り、サタンの侵入を離れ、お父様の永遠の愛の中に受け入れられるように、父よ、許してください。6000年にわたり摂理を歩まれながら愚かで不足な我々を捨てずに探してくださった父の慈悲の手をこの時でも感じることができるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
 今この時、すべてをお父様に託しましたので、初めから終わりまで、お父様ご自身が主導してくださるよう、切にお願い申し上げます。主の名によって祈り致しました。アーメン。




<御言葉>
 神が天地万物を創造される際、その創造された世界で永遠に安息されたいという御心を持ち、万物を創造し始めたことは皆さんがよくご存じです。しかし、同様に神が永遠に安息されるために創造された土台が人間の堕落によってサタンに渡ることになったこともまた、皆さんがよくご存じのことです。
 だからこそ皆さんは、今まで6000年という長い歳月が経過しましたが、この地のどこにも安息できる一つの隠れ家を残せなかったことを確実に知るべきです。そして、それによって経験する神の慈しみを感じることができる人になるべきです。
 それでは神がこの創造された世界を何に基づいて創造されたかを考えます。永遠で唯一無二の言葉を通じて万物を造り始められました。そして、神はアダムとイブがその言葉の目的を完成させ、神が実質的に永遠に安息できる体になることを望まれたのがアダムとイブを創造された目的でした。さらに、神はアダムとイブに命を吹き込み、彼らの心の中に永遠の命の主体として宿り、安息の隠れ家を形成しようとされたのです。これこそが天然の大きな目的を設定してアダムとイブを創造されたことです。
 言い換えれば、神がアダムとイブを創造し、言葉で天国生活の法則を立てようとされ、彼らの体を通じて神ご自身が宿る聖堂を築こうとされ、彼らの心には神が直接座することのできる聖域を築こうとされたのです。
 しかし、アダムが堕落したため、言葉を代わる法則が人間の前から消え、神の体として築かれたアダムが堕落し、神が宿ることができる聖堂も人間の世界で消えてしまいました。そして、無形の神がこの地の実体の主人として永遠の玉座に宿ることができる心の土台も失われてしまったのです。
 このように、神が人間の堕落によって創造の理念である言葉を代わる法則と、万物の聖堂を代わる体、無形の世界の聖所を代わる心が本来の目的と逆行し、ここから神の悲しみが始まったということです。そして、天のために創られた人間の心が悲しくなり、その心を取り扱う体も悲しくなり、その心と体が動いて行くことができる言葉を代わる法則も人間から消え去ってしまったということです。
 では、この天の原則的な基準と内容を考察するとき、堕落によって罪の血統を受け継ぎ、この地上に生まれた数多くの人類の中で天が求めている言葉の法則はどこに現れるでしょうか?神が実体を持って降臨できる聖地はどこに現れるでしょうか?無限の無形世界を代わって神が降臨できる聖所は、この地上のどこに現れるでしょうか?これらのことを、歴史の進行に多くの人々が解決しようとしたのです。私たちの多くの先祖が、この目的を達成するために多くの犠牲を払い、涙を流しながら進んできたことを、今日、皆さんは認識しなければなりません。
 そのため、今、天でも地でも最も重要な存在であり、この地上に現れるべき一つの言葉を持つ存在が必要です。見えない神の実体を持ち、神が喜び、支持することのできる存在、天地を代わる天上的な価値を持つ存在が必要です。
 ですから、天国を代表し、父の玉座を代表するだけでなく、実体のイデアを持ち、この世界を動かす力の基盤となるのは、神の希望であり、人類の希望であり、今日、救われるべきすべての信者の希望であることを、今日、皆さんは確実に理解しなければなりません。
 そして、人間は何を失ったのでしょうか?自分を中心に置いたとき、天の前に立つことができる言葉の法則を失い、神が宿ることができる自分の体を失い、永遠の生命的な玉座の中心を代表する心の聖堂を失ってしまったのです。このように、人間は天上的なすべての所有権を失ったため、人間は今も無限に苦しんで何を探しているのかということです。ですから、今日の皆さんは、天ルールを代わる神の言葉を見つけることを一つの希望とし、今日も明日も走り続ける必要があるということです。
 では、言葉の時代を通過した後、どのような時代が訪れるでしょうか?実体を通過しなければならない時代がやってきます。ですから、今日、20世紀の運命も、原則的な言葉を通じた実体化が最大の目的であることを認識しなければなりません。ですから、神がもともと人間に宣言された天然と人権の法則を実現する実体が、歴史の終末期に現れることを、今日の人々は望んでいます。
 そして、言葉と実体が一体となったとき、人間は物質的な動物の次元に留まらず、内的な意識を持つ存在として天のルールを実行する立場に置かれます。そして、自身の生活環境を超えて永遠のイデアに向かう何らかの作用がその心を促進することを理解しなければなりません。
 これらを考えると、自分の心と体が向かうその力に相応する基準を持たなければ、信仰を通じて求める神の実在もどこまでも概念的な神としてしか認められず、実証的な神としては感じることができないことです。
 ですから、今、あなたが言葉を通じて実体を通して、私が求めていたその無形の神の意志を自己を中心にして歴史の終末期に達成しなければなりません。もし、そうできないのであれば、あなたは天ルールの目的と一致せず、または創造のイデア権と呼べるこの実存世界で存在することができない不幸な状況に陥ることになります。
 まさにこのような歴史的な運命の道程があなたの前に提示されていることをあなたは知るべきです。ですから、今、あなたは天ルールを代わる言葉を通じて、そしてその言葉を実証する一つの実体を通じて、生命的なすべての問題を解決できるその場所がどこかを求めてさまよわなければなりません。
 それでは、今、神がこの天地万物の中にいる私たち人間を訪れるとき、何を持って訪れるでしょうか?神が話されたその言葉の法則を持って訪れます。それは、この地上のどの個人の思想よりも、どの言葉よりも偉大であり、全人類が望む神の言葉なのです。ですから、あなたにとっては、創造時に立てられたその言葉を、あなたの人生を支配することができる言葉として、さらには人生を救うことができる言葉として、その言葉を取り戻さなければならない運命が提示されています。
 その先に、神を中心にした個人を基盤として、一つの家族、社会、種族を形成し、この地上に天国を建設することができるのです。ですから、あなたは与えられたその言葉を完全に所有するまで、どんな困難や悲しみの場面も乗り越えなければなりません。あなたにはまだ、闘争の過程が残っていることを感じなければなりません。
 それでは、今日の現実を見ると、形而上学的な真理の領域を代わる宗教があり、形而下学的な真理を代わる自然科学がありますが、これらはどこに向かっていくのでしょうか?アダムとイブが堕落したことで、言葉を失い、言葉を失ったことで実体を失い、実体を失ったことでイデアを失ってしまったので、終わりには一人を中心とした復帰が必要です。そのため、科学文明の先端に立つ存在が形而上学的なすべてのイデアを代わる実体として、今日の人類史の終末期に現れなければならないのです。
 それでは、今日、私自身を見つめると、私たち人間はどこに向かうべきでしょうか?私の体は自然科学的なイデアを通じて、私の心は形而上学的で超自然的な世界を通じて進むべき立場にあるのです。
 しかし、私たちの心は善を行おうとし、天に向かおうとしますが、一方で私たちの体は悪を行い、世俗に向かおうとする、この二つの枝分かれした状況にあるのが今日の人間の姿です。ですから、人間は今までそれを統一できる天の言葉を持った主人公はどこにいるのか、天の真理の法則はどこにあるのかと、絶えず求めてきました。真に私たちの心の世界を超えて無限の霊的世界まで通じることができるだけでなく、自然科学の分野まで通じる新しい言葉が現れることを、今まで人類は切望してきました。
 ですから、もし今日あなたがそのような言葉を持っているなら、あなたは世界のどの人よりも自己を持ち、歓びに満ちた最高のイデアを持つでしょう。ですから、今日あなたはエデンの園で失った神の言葉の法則を必ず取り戻さなければなりません。
 これまでのキリスト教の歴史は、言葉を立てる歴史でした。これまで天の心を代わる一つの実体的な存在を通して天の法則の言葉を見つけ、立てようとしましたが、まだ完全に見つけ、立てられていないのです。ですから、あなたには今日この歴史の終末期に、無限の霊的世界を通じ、自然科学を通じて新しい言葉を見つけ、立てて神の国を建設する使命が残っているのです。
 そして、神は人間にそのような使命を担わせるため、神としての勝利の意志をこの地上に立てることができるようになります。ですから、神はエデンの園でアダムに対して、「知善悪の木の実を食べてはならない。食べる日には必ず死ぬであろう。」(創世記 2:17)とお告げになったその言葉を再び見つけることができる一つの主体を送られたのです。天ルールを代わり、万有の意志を代わり、全人類の希望を代わり、また神の内的な心情と外的な実体を代わりとする一存在をこの地上に送られたのですが、それが今日あなたが信じているイエス・キリストなのです。
 では、そのような意志を持って来られたイエス・キリストの心と体は何だったのでしょうか?そのイエス・キリストの心は自らの心ではありませんでした。誰の心だったかと言うと、父の心でした。イエス・キリストの体は自らの体ではなく、父の体でした。また、イエス・キリストが述べられた言葉は自らの言葉ではなく、神の意志を代わった天理法度であり、万人が持ちたい希望の言葉でした。イエス・キリストはその言葉を通した実体的な天の聖殿としてまたは実体的な神の座を代わる存在としてこの地上に現れたのです。
 したがって、イエス・キリストは天徳と人徳を備えた言葉として、すべての民を回復させ、言葉の価値を持つ実体的な存在として神に認められるように求められる使命を持つことになりました。イエス・キリストは、この4000年間にわたり天の内的な摂理の意志を持ち、この世の堕落した人々を見るとき、悲しみを禁じる方法がありませんでした。堕落した体が楽しむことのできる堕落の法則に従って行動している人々、サタンが支配する堕落した心と体を持つ人々を見るイエス・キリストの心情は言い表せないほど悲しいものでした。
 イエス・キリストは天徳の法則を中心にし、秩序的な目的を達成すべき使命があったため、自らの一言一行一行動が天徳を実証するために血汗をかけました。一方でサタンの支配下にある人々は天徳に逆らった法則を中心にして行動していたため、何もかもが適当に生きているそのような環境に置かれていたのです。
 したがって、イエス・キリストは何もかもが適当に生きている人々に、天の条件的な言葉の法則に従って生きるようにし、その個人から社会、民族、国家、世界に拡大させなければならない使命を負い、またその使命を達成しなければなりませんでしたが、それでも犠牲になられたのです。もし当時の人々がイエス・キリストの言葉を4000年間の間、全宇宙が求めた神の言葉として立てられる唯一の言葉として受け入れ、その言葉の実体的な存在になっていたならば、イエス・キリストは自らが神の代わりに立てる安息の場を作り上げることができたでしょう。しかし彼らが無知であり、イエス・キリストの言葉を信じなかったために、イエス・キリストはそのような環境を作り上げることができませんでした。
 聖書の文章の中でも、ある書記官がイエス・キリストに近づいて「先生、どこへ行かれるのですか、どんなところでもついて行きます」と言った時、イエス・キリストは「狐には穴があり、空の鳥には巣がありますが、人の子には休むところがありません」と言われました。これはイエス・キリストの言葉を希望の言葉として受け入れる者がいないため、どこにも安息の場を見つけることができないという意味でした。
 さらに、言葉を中心にして、その言葉を神の言葉として受け取り、神の心情を代わる存在として持って来られる者が出てこなければ、イエス・キリストはそのような環境を作り上げることができませんでした。だからこそ、この世界を見るイエス・キリストの心情は言い表せないほど悲しく、悲しい立場に置かれていたのです。天の尊い言葉を持ちながら、その言葉がとどまる場所がないため、嘆きの気持ちを持たれたイエス・キリストの心情を感じられることが重要です。
 では、現代の終末に立つ皆さんはどのような使命を担うべきでしょうか?神の言葉を自分の体と心に所有する者となるべきです。つまり、これまで誰も持っていなかった神の言葉を自分の体と心に完全に所有する人になるべきだということです。
 また、この立場から考えると、エデンの園での堕落は何だったのでしょうか?神様がお話しになったその言葉を受け入れることができる安息の場にならなかったことです。ですから、今、皆さんの体と心がまさに神様が安息できる場所になるべきです。今、そういう状況に立っています。
 したがって、終末に立つ今日の皆さんは、イエス・キリストがこの地上に来られて自分の言葉を引き継ぐことのできる存在を見つけられずにお帰りになったことを確実に理解しなければなりません。
 それでは、イエス・キリストがこの地上に残していかれたものは何でしょうか?イエス・キリストが残していかれたものとは、言葉です。イエス・キリストは、自分の心と体を通して発せられた言葉を残してお帰りになったのです。ですから、今日の皆さんには、エデンの堕落によって生じた神の悲しみと、2000年前、無知な人々を目覚めさせるために哀れみを示されたイエス・キリストの悲しみを解消してあげる使命が、第一に残っていることを理解する必要があります。
 もし創造の歴史を起こしたその言葉がこの地上に再び現れれば、堕落した人間ではありますが、まだその本質が残っているため、人間の心はその言葉に従って動くしかないのです。ですから、今、皆さんは自分の本質が動き、自分の体が動かされるそのような言葉を、この歴史の終末期を生きる皆さんの人生の中で必ず見つけなければなりません。もし皆さんがそのような言葉を見つけられないなら、ため息と嘆きに囚われ、神との永遠の結びつきを結べないことを確実に理解しなければなりません。
 それでは、今、皆さんは天に向かって何をすべきでしょうか?「狐には穴があり、空の鳥には巣がありますが、人の子には休むところがありません」とイエス・キリストがおっしゃった悲しみを解消してあげる必要があります。今日の皆さんは、イエス・キリストのその悲しみを解消してあげる使命を担っています。
 そして、イエス・キリストがおっしゃったこの言葉は、その当時の若い書記官にだけではなく、何千年もの歴史の中のどの時代の人間にも当てはまる言葉であることを理解しなければなりません。ですから、哀れみを呼びかけたイエス・キリストのこの声が今、この時間にも皆さんに届いていることを、皆さんは確実に知るべきです。
 では、神様は第1のイスラエルの誤りを許し、第2のイスラエルのキリスト教徒を立てて新しい運動を提案される中心の意志は何でしょうか?イエス様が成し遂げようとされた言葉の聖域を見つけて築こうとすることです。ですから、今、皆さんは神様が皆さんに伝える言葉について、「永遠の法の言葉として与えられた言葉」と認識し、「これこそが私の命の言葉です」と言って、その言葉を受け入れるだけでなく、創造の時に人間を創造される時に語られた言葉として見るべきです。もし皆さんがそのような言葉を持たず、神様のその言葉を肌で感じる体験の一瞬も持たないなら、皆さんは神の子にはなれません。
 ですから、神様は人間に自分の体を犠牲にして心を洗い、善を目指すように導いてこられたのです。また、人間の心が真に近づいたとき、その真の目的を達成する言葉が現れると、その言葉に簡単に惹かれるようにされたのです。そして自然に人間の体もその心に共鳴して真を目指すように、神様は望まれたのです。そうして神様が心と体で理解できる言葉を人々に示そうとされた切実な心情があったことを、皆さんは知るべきです。
 今までの信仰生活を通じて、天を求めてきた過程で、言葉によって心と体が完全に支配される一瞬も持っていなければ、永遠に悲しみと嘆きの中に留まり、その段階に陥るしかない自分自身であることを自覚しなければなりません。
 一方、皆さんが自分の体と生涯を代わって天の法の言葉と、その法の言葉を代わって自分の実体と、またその実体を代わって自分の心が一つになった立場から、霊的な世界に入り、何かを体験し、感じたことがあるならば、皆さんは永遠にこの地上から消えないでしょう。ですから、皆さんは自分の体と心に永遠に離れない核を持たなければならない。皆さんの体と心に神様が直接お留めになれる安息の場を築かなければなりません。
 ですから、今、皆さんは自分がそのような天の法の言葉を受け入れることができる自分であるか反省しなければなりません。今や終わりの時が来たので、すべてが終了されるでしょう。哲学も終了し、科学も終了し、物質を中心に据えた世界的な経済システムも一つに終了し、将来のある時点で、科学の無限な発展によって科学的な研究の努力によって開発された食糧が出てくるかもしれません。
 さらに、終末の時代に直面している今日の皆さんは、これまでの自分の信仰を悔い改め、イエス様が私たちに与えられた言葉どおりに生きようと努めなければなりません。ですから、皆さんは天の言葉を探さなければなりません。しかし、そのような言葉を求めず、むしろそれを拒絶しようとする者がいるなら、必ず裁きを受けるでしょう。天の聖所を構築しようとするその言葉に来る者を避ける者、邪魔する者は滅びるということです。これを知っていたからこそ、イエス様は言いたいことがあっても、すべてを言い切れなかったのです。
 ですから、今、皆さんは天の法の言葉を樹立すべき使命を感じるほど、最善を尽くさなければなりません。イエス様が「地のことを語ったのに、あなたがたは信じないのなら、天のことを語った場合、どうして信じようか?」(ヨハネ 3:12)と語られたその悲しい心情を和らげる皆さんにならなければなりません。人類の歴史の終末の時代である今日、歴史的な悲しみが天と地に渦巻いていることを皆さんは認識しなければなりません。ですから、神様はこの時にもこの地上の人々がどのように生きているか、信仰する者たちはどのように信仰を続けているかを心配し、すべての人々を見守っておられるのです。
 ですから、皆さんは無限の天主を代わるその言葉、永遠の法を代わるその言葉を受け入れられる心のゆとりを持たなければなりません。これまでのように、地上で育ててきたその邪悪な心、またはその邪悪な感情に基づく言葉を持つべきではありません。新しい言葉を受け入れる新しい心を持つべきです。ですから、言葉の聖所に来るこの終末の時代において、私自身が一体どこで天の法の言葉を背くアダムの後継者にならないかと恐れるのです。
 では、罪はどこから始まったのでしょうか?神様の言葉を受け入れなかったことから始まりました。神様の無限の言葉を受け入れることが人間の責任でありながら、その責任を果たせなかったのです。ですから、今、言葉を歓迎しなければならない安息の場は、まさに皆さんの心でなければなりません。そして、言葉を中心にした実体を構築しなければなりません。
 その言葉は、皆さんの個性的な領域に関連する言葉です。つまり、皆さんの言葉は、神の天の法の代わりになるべきであり、皆さんの行動はその法の言葉と一体となった行動にならなければなりません。皆さんが原理を通じて知ることと同じく、言葉を代わるその実体が現れると、そこには神の心が宿るのです。そして、神の心が宿るその個体は、永遠のイデオロギーに沿って動くことができるため、その身と心が実際の生活の中で父のイデオロギーを代わって生きることになるのです。
 そのような生活を楽しみたいというのが私たちの希望であり、そのような意志が実現される場所がカナンの理想の地であり、失われた本来の地であることを皆さんは確実に知るべきです。
 では、イエス様の悲しみは何だったのでしょうか?言葉の安息所がなかったことが悲しみでした。また、自分の身心の意志を引き継ぐ聖徒が一人もいなかったことが悲しみでした。自分の言葉を引き継ぐことができる人がいなかっただけでなく、自分の身を神の身として捧げる人が一人もいなかったことがイエス様の悲しみであり、神の悲しみであり、全人類の悲しみでした。
 ですから、神とイエス様は2000年の歴史の中で「私は花婿であり、あなたたちは花嫁です」と言い、イエス様ご自身の身を花嫁のような皆さんに委ね、安息の日を迎えることを望んでいます。まさにその日を見つけて建てるために、神とイエス様は今もその背後で心配し、戦っていることを皆さんは知るべきです。
 それでは、今や神の言葉を持って生きるとしたら、どうすればよいでしょうか?まず、神の言葉に満ちた環境を整えなければなりませんし、花婿であるイエス様に対する花嫁としての資格を備えなければなりません。神は今この時でもイエス様の相手となる存在が現れることを待ち望んでいるのです。
 神は天の皇子であり、万物の主であり、人類の救い主であるイエス様を皆さんに委ねようとしています。その時、皆さんはイエス様を花婿として迎え入れられる花嫁の立場に立たなければなりません。そのようにして、イエス様のイデオロギーを通じて、イエス様の生涯を通じて、イエス様の歴史的な意志を通じて価値ある存在になり、イエス様と完全に一体となることができるのです。
 また、皆さんが今や言葉を通じて実体を構築しなければならない歴史的な使命を負ったとするならば、皆さんはイエス様の言葉を自分の言葉として所有し、イエス様の身を自分の身として捧げることができなければなりません。そして、イエス様が世界の全人類のために望まれたその心情が、皆さん自身の心と身体からも生じなければなりません。
 ですから、イエス様は今まで2000年間、自分のイデオロギーを代わりにして、花婿の自分を迎え入れ、安息の一日を迎えることを望んでいます。イエス様ご自身のすべての意志を代わりにした実体として、自分が心配しているすべてを踏み越え、むしろイエス様ご自身を慰めることができる真の花嫁はどこにいるでしょうか、と今も探しているのです。
 それでは、自分のすべてを与えるために30余年の生涯を経たイエス様が、国と民族に反対され、部族と家族に拒絶され、愛していた弟子たちさえも不信する立場で十字架を負い、ゴルゴダの道を歩んだことを知っていますか?イエス様の心を知っていますか?その状況を知っていますか?また、イエス様の望みを知っていますか?誰が知りましょうか?
 もし、あなた方がイエス様が死に至る苦難の旅で何を成し遂げたのか知らなかったなら、あなた方は再び世界の救済の理念を持って現れるイエス様に出会うことができないことです。
 イエス様は民族のためにゴルゴダの道を歩みました。彼は民族の環境で休息すべきイエス様でありながら、かえって彼らの不信仰のために彼らのために十字架の道を歩んだのです。天の勝利を約束すべきイエス様でありながら、民族は不信し、教会から追放され、社会から追い出され、家庭から拒絶されたため、行く場所がありませんでした。天国の希望を持ってこの地に来られたイエス様ですが、それは全て消え去り、悲しい状況に直面し、一人で民族を代表して十字架の道を歩まれました。
 ですから、今、あなた方はイエス様の歴史の2000年の道が世界的なゴルゴダの道を切り開く運命であることを知るべきです。そして、民族的なゴルゴダの道を越えて、世界的な第二のイスラエルを通じて世界的なゴルゴダの道を越えようと苦闘されている方が誰なのかを知るべきです。それは、あなた方が望む花婿であるイエス様そのものであることも、あなた方は知るべきです。
 今日、あなた方の心はどこにありますか?あなた方の身体はどこにありますか?あなた方が置かれているのは、イエス・キリストの代わりに世界的なゴルゴダの十字路に立たされた状況です。世界的なゴルゴダの道を引き継いだ私たちだからこそ、今日、キリスト教がイエス様の福音を持って出るとき、どの民族、どの環境でもゴルゴダの道を通らざるを得ないことです。そして、キリスト教国家を中心にした世界的なゴルゴダの闘いがある時であり、それが終末であることをあなた方は知るべきです。
 今、6000年の歴史の終末時代に立つあなた方は、イエス様が今までに世界的なゴルゴダの道を歩まれたその心情を考えることができる人でなければなりません。イエス様が自分の身心を犠牲にして敵を愛し、許すことができたその心情を共感しなければなりません。そうして、敵を愛する唯一の標準を設け、イエス様を真に受け入れる真の使徒がこの地上に多く現れなければならないということです。
 その時に初めて、イエス様が安息することができる具体的な土台がこの地上に作られるのです。しかし、あなた方は今どこにいますか?個人的な迫害があったからといってかばんをまとめて家庭の迫害があったからといってかばんをまとめようとはしませんでしたか?または、民族や国家の迫害があったからといってかばんをまとめませんでしたか?そのような人がいるなら、そのような人を見るイエス様の心情はどのようなものでしょうか?「全世界が、天地が反対しても私は天に向かって進みます」と言えるでしょうか。そのような覚悟を持つ人が、イエス様の花嫁の資格を持つ人が、この地上にどれだけいるかわかりませんが、天国はまさにそのような人を探していますということを、あなた方は確かに知るべきです。
 イエス様は、神のそのような心情をご存じだったからこそ、自らの全てを捨てることができ、犠牲にすることができたのです。ですから、今はあなた方がたどっている足跡がどこにあるのかを振り返ってみる必要があります。自分の足跡がどこにあるかを振り返ってみる必要があるのです。そうして、世界的なゴルゴダの道を歩んでいるイエス様の安息所が、まさにあなた自身でなければならないことを理解しなければなりません。
 しかし、イエス様がこの地上に来られて自らの安息所を見つける必要があったと同時に、またどのような使命があったのでしょうか?それは、イエス様が神の前に花嫁として立つべき使命があったのです。イエス様は、自分を受け入れる弟子と同じような人がこの地上にいたら、そのような人と一体となって、神のための花嫁となるべき使命がイエス様にあったのです。しかし、これを今日のキリスト教徒たちはよく知らないのです。
 世界のキリスト教徒たちは、今日、花婿となったイエス様を求めています。花婿となったイエス様を求めることは、その花婿の主人である父を求めることです。ヨハネの黙示録14章1節には、「小羊がシオンの山に立ち、彼と共に十四万四千人が立っていた。彼らの額には小羊の名と、その父の名が書いてある。」と記されています。つまり、父の選ばれし子となるためには、小羊の名だけではだめで、父の名まで結ばなければならないということです。
 では、十四万四千人に入る者は誰でしょうか?イエス様の名だけではいけません。あなた方はイエス様を花婿と呼んでも、父が祝福しない限りいけません。ですから、あなた方は、父が手を差し伸べてエデンの園で堕落しない永遠の人類の主人公として祝福される人となるべく、十四万四千の群れに入ることができる人とならなければなりません。その時に、あなた方自身が神の永遠の理念を中心におき、神の無限の愛を感じ、幸せの中で暮らすことができるその一日を迎えることになるのです。
 また、あなた方は神の聖所となり、安息所となる立場であるため、イエス様の体を受け入れると同時に、イエス様の心を引き継ぐ花嫁とならなければなりません。そうして、神の心を預けられる最後の段階にまで進まなければ、やっと神があなた方を通して安息されることになります。それだけでなく、イエス様と聖霊も安息し、私たち人間も安息することになりますが、今日の人々はこれをよく知らないのです。
 今日の信者の中には、天の恵みを受けて楽しいと言って、自らの安息所を求める人がいますが、そうしてはいけません。彼らにはまだゴルゴダの道が残されています。ですから、今こそあなた方は常にゴルゴダの道を越えたイエス様の生涯を見習って努力しなければなりません。イエス様が望まれる意志を成し遂げる相対的な立場から、イエス様を安息させなければならない天啓の意志が、あなた方に残っていることをしっかりと理解しなければなりません。
 さらに進んで、天の言葉が私の体に宿ると同時に、その言葉の実体であるイエス様と聖霊が宿り、言葉の主体である神が宿れるとき、ようやく目的が達成されるのです。あなたがたが創造の価値を代替する存在として天の前に立たなければ、ようやく神は自らのすべての業務を託し、安息できるようになるのです。
 このように、膨大な宇宙的使命を負っていくことがキリスト教徒の足取りであることを考えると、今日の信者はただ座っているだけではいけません。この地上に新しい命の運動を起こさなければならないのです。しかし、あなたがたがそのような道を進む中で、言葉の聖所である言葉の安息所を軽んじる者がいるならば、その人こそがあなたの敵であることを知らなければなりません。
 今度は、あなたがた若者たちが、キリスト教会の牧師たちができなかったことを代わりに立って行わなければなりません。今日、多くの牧師たちが群れを誤って導いています。これはただ単に既存のキリスト教会の牧師長老を批判するための言葉ではなく、事実がそうであることを示しています。ですから、彼らがこれまでに神の意志を誤解し、羊の群れを散らしてきたので、もはや彼らに従うのではなく、群れが群れを求めて集結しなければならないのです。この使命を理解し、今日の集まりや運動が統一思想であることをあなたは知るべきです。
 あなた方の中には、生命が躍動している若者男女がいますか? そのような人がいるなら、今日の教会の牧師長老の前で天啓を立証し、彼らの人格を批判し、敵対的な価値の前で裁定できる資格を持たなければなりません。その時に今日のキリスト教は再び生まれるでしょう。神の心情に反することは、天界のどの存在であれ、地上のどの存在であれ、容認しないと決心することです。
 あなたがたが今、統一教会に参加したら、既成の宗教概念を超えなければなりません。既成的で懐疑的な信仰概念を踏み越えなければなりません。これまでの信仰概念の立場では、神が安息できる聖所になれず、イエス様の実体を受け入れることができる安息所になれないので、それを無情に踏み越える覚悟を持たなければなりません。
 自分の野心を追求し、世俗的な条件を持って立ち上がろうとする欲望を持っていた本文のあの若者書記と同じような姿になってはなりません。 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には、頭を置く場所がない」(マタイ8:20) とイエス様はおっしゃいます。天の道であり、天啓が動く道であると言われるその立場に立つには、自分のすべてを捨ててその道を歩む必要があります。そのような足跡を歩む人であり、天啓の意志を受け継ぐべき一人の後継者となる人であることです。
 歴史の過程におけるすべての先祖を振り返ると、ノアは120年間苦労し、ヤコブは21年間苦労し、モーセも120年間苦労したことを知ることになります。また、イエス様も33年間の前世で苦労しました。しかし、もし早くも安息し、楽しもうとするのであれば、あなたたちは天の強盗であり、盗人です。天が先に休む前に私たちが先に休むことは、盗むことであり、強奪することです。
 そのため、今あなたたちはイエス様が「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には、頭を置く場所がない」と述べられたその心情を同情しなければなりません。そうしたとき、天もまたあなたたちを同情するでしょう。
 また、あなたたちはイエス様がイスラエル民族のために夜を徹して祈り、神だけが私の安息所だと叫んだその心情を感じなければなりません。血が枯れ、肉と骨が溶けるかのような、言い表せないほどの天の悲しみを抱え、民族や世界を抱きしめ、黙って涙を流されたその心情を胸の奥深く感じなければなりません。
 あなたたちの中に、このような心情を抱き、異端者の怪物と呼ばれ、滅ぼされると嘲笑される人がいたとしても、彼は決して滅びません。イエス様は今までそうした人を探しに来られました。イエス様はそうした人を直接自分の安息所として見つけました。だからこそ、今、堕落した人類の前には、言葉の主体を探し、実体の花嫁を探して、永遠の神を代わりにする実体として立たなければならない、このような運命の任務が残っていることをあなたは知らなければなりません。
 すると、その言葉の法を探し、立てる際に、その言葉を中心に、自分の体をどうすべきかを? 無限の神の光を反映させなければならないのです。これを創造理念に基づいて見ると、私たちの心が太陽を象徴しているのであれば、私たちの体は地球を象徴し、すべてのものは神の言葉の法を象徴しているということです。つまり、すべてのものは神の言葉を象徴し、地球は人間の体を象徴し、太陽は人間の心を象徴しているのです。
 そのため、永遠の神の創造の力が太陽を形成し、その太陽を中心に地球が回り、そして地球の動きに従ってすべてのものが成長し、一つの秩序だけで摩擦がないようなそのような過程を経ています。同様に、あなたたちも神の愛を中心にし、神が動けばあなたたちも動き、神が定めばあなたたちも定めなければなりません。神がどこに行かれようとも、あなたたちを切り離して動くことのできない感情的な関係を維持しなければなりません。
 そのような立場から、あなたがたが永遠の神とイエス・キリスト、聖霊、そしてイデオロギーを求め、その言葉の法を通過できる安息の地に立つとき、やっと創造主である神の代理的存在として、または万物の執事として現れることができるということです。
 しかし、今日、あなたたちは神に対して顔を持たず、地に対して顔を持たず、万物に対して顔を持ちません。このような歴史的な使命をまだ支えきれていないあなたたちが、大声で何かを言うことはできないということです。それゆえ、あなたたちはそのような宇宙的な使命が自分に残っていることを心に留めておかなければなりません。
 イエス様は自分の進む道に誰かが妨害しても、それが単なる妨害ではないことを知っていました。自分の道を阻む敵がいても、結局は自分のために立っていることを知っていました。ですから、イエス様は彼らを許し、愛することができ、最終的にはその敵にさえも祝福を与えることができたのです。
 そのため、今、あなたたちは自分の進む道の前に敵が現れることは、あなたたちが正しい道に進むべき場所であるがゆえに、それを前面に出して自分を目覚めさせようとしていることを知らなければなりません。ですから、あなたたちはそのような敵にも祝福を与える心を持ち、世界的なゴルゴダの道を開拓していかなければなりません。そのようにして、あなたたちはその世界的なゴルゴダの道を越えて、あなたの身体と心に神とイエス・キリストと聖霊が備わる安息の楽園を持たなければなりません。サタンとのすべての戦いに勝利して、サタンまでもあなたは神の子であると祝福し、神の前に讃える存在とならなければならないということです。
 さらに、そのサタンを神の前に引きずり出し、このサタンが6000年間にわたって人間を支配してきた敵であるとして、神の前で裁判を求める人にならなければ、宇宙を支配する支配者として立つことはできないということです。今まで6000年間、人間がサタンの前に引きずり出され、訴えられたので、今度はあなたたちがサタンを神の前に引きずり出して訴えることができなければなりません。
 そのため、今あなたたちは神の心情に触れ、神の言葉の法を通じて身を持たなければなりません。そうすることで、ここには何の誤りも摩擦も生じません。ここにはただ、神中心のイデオロギー統一、行動統一、生活統一だけがあるでしょう。そして、そのようになると、神はこの地上において永遠の安息所を見つけ、人間とともに永遠に楽しまれることになります。これを心に留めてください。


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御言葉選集3(14,15)

2024年03月30日 17時33分32秒 | 学習

文鮮明先生御言葉選集3-14 クリスマスを天に代って祝おう
1957年12月25日(水)、韓国総本部教会

ルカによる福音書 2:1-

 イエス・キリストの誕生によって、神はアダム以降4千年間、定められた計画を遂行されたと言えます。また、アダムの堕落以降、回帰・遂行の歴史の中に生きてきた我々の先祖たちの望みも、イエス・キリストの誕生によって達成されたと言えます。神の意志が遂行される同時に、人間の意志が遂行される時がキリストが生まれたその一時であったことを、皆さんは再び考えてみるべきです。
 キリストの誕生から今日までの2千年という長い歴史を経てきましたが、私たちは今、2千年前のイエスが誕生した当時と同じように、神の意志が遂行され、人間の意志が遂行される、歴史的かつ宇宙的な緊張のある時間に立っていることを感じます。
 イエス・キリストは小さな幼子として生まれましたが、神の意志を代わり得る実体であり、彼の泣き声、彼の動きは、神の4千年の悲しみを代わり得るだけでなく、神がこの地上に新たな歴史を築き進められるすべてのことを典型的に表現し、また、人間の罪を贖う4千年の歴史の悲しみを表現した姿でした。ですから、彼の誕生によって新たな善の歴史が始まる喜びの場面を迎えることができたのです。
 このように、イエス様一人のために神の懸念と、歴史を経てきた人間の歴史的な懸念と当時の時代的な懸念が取り除かれ得たことを考えると、イエス様は本当に偉大な方であり、大いなる方でした。しかし当時、心を込めて父の心情を代わり、万民の心情を代わり、多くの預言者たちの心情を代わった者はありません。皆さんはこれを深く考えるべきです。
 それでは、イエス様の誕生日を祝うために集まった私たちはどのような心構えを持つべきでしょうか。私たちは神の心情を代わり、歴史の中に行ったり来たりした多くの預言者たちの心情を代わり得るべきです。また、当時のイスラエルの選民が約束の日を待ち望み、メシアを待ち望んで祈った心情を代わり、赤ん坊イエスの前に贈り物を捧げる心を持たなければなりません。そうすれば歴史は進んでいきますが、その当時の神の心情を慰め、当時天にいた聖徒たちの心情を慰め、イスラエルの民を代わって選民の資格で父の栄光に参加できる価値を皆さんは持つことができることを知らなければなりません。
 そして、イエス・キリスト一人の誕生日は、天地万物が喜びを示すことのできる日であり、神の計画の一日でありながら、同時に万民の願いが達成される日であることを感じ、感謝を捧げなければなりません。そして、緊張した心で、これまで信仰生活を通して準備してきた贈り物を捧げ、父の心と歴史的な心情、時代的な心情を代わって持ち、イエス・キリストに礼拝し、祝福を捧げるべきだと思います。
 そして、今、イエス・キリストの誕生のために誰がどれほど労力を費やしたかを見てみましょう。まず第一に、神様が4千年間労力されました。神だけでなく、数千年にわたって神に従ってきた私たちの先祖たちである多くの預言者、聖賢、先祖たちも同様に労力されました。そして、選ばれたイスラエル民族を代表するユダヤ教徒たちも生涯をささげて労力されました。こうして、イエス様が誕生するまでには直接的な関係がないように見える歴史的な労力が潜んでいるのです。
 ただそれだけではありません。イエス様がこの地においでになって30年余りの生涯を過ごされ、その後現在まで2千年の間に天倫の意志を為すための計画的な歴史が過ぎ去ったことを考えると、ここには過去のイエス様以前の歴史的な悲しみと、イエス様以後の2千年の歴史が重なっていることが分かります。
 歴史的な解援、または時代的な解援、または未来的な解援のために生まれられたイエスの願いは、その当時の人々の誤りのために2千年が経過した今日この時代にもまだ成就されていません。ですから、イエス様がおいでになるまでの4千年の歴史の悲しみに加えて、イエス様がおいでになって労力された後の2千年の歴史の悲しみが加わっているのです。
 今日、私たちはどのような使命を背負っているでしょうか。私たちはイエス様がおいでになった後も希望として残っている神の怨を解決していく使命を背負っています。このようにして、私たちは創世以来最後の神の救済計画の意志を迎える緊張した時間を迎えています。
 そして、クリスマスを迎えるこの時、私たちが祝福の意志を持たなければならず、祝福の贈り物を天に差し出さなければならない責任を持っているとすれば、私たちはイエス様がこの世のために心配された心情と、6千年間労力しながら心配された神の心情を代わって抱き、救世の意志のために現実の栄光の誕生を祝福の祭壇に供えることができる一つの姿にならなければなりません。そうでなければ、天が今までイエス・キリストの誕生日を祝福してきたその栄光の意志を地上に成就させた人間としての価値を実現することができないのです。
 また、父の祭壇の前に伏している私たち自身は、2千年前、マリアが天にイエスの誕生を祝福していた心情を代わることのできる存在でありながら、さらには神がイエス様を誕生させて喜ばれた心情を代わることのできる存在であり、イエス様が誕生されるまで数千年間労力された預言者たちの願いの心情を代わって、彼らが願っていたことを成就させてくれる存在にならなければなりません。
 こうして、歴史的な全体の意向を実現しようとする心を持った一存在として、イエス・キリストがこの地に誕生される時、この一瞬を通じて神が悲しまれた心情、マリアとヨセフが悲しんだ心情、また路傍の羊飼いたちが悲しんだ心情を感じ、イエス・キリストが飼い葉桶に横たわられたことを心痛く思いながら、新たな決意で再び来られるイエス様を迎える準備を整え、天が喜ぶ栄光の先駆者として立たねばなりません。そうしなければ、天が我々にクリスマスを祝わせる意図を完成させることはできないことを皆さんは理解すべきです。
これまでこの地には数多くの人々がいましたが、神が遂行される全体的な意図を達成するために使命を帯びておられたイエス・キリストの誕生を真に祝った人は一人もいなかったと断言しても過言ではないでしょう。
 それでは、今、私たちはどのような心を持たなければならないでしょうか。私たちは神の心情を代わり得るべきです。そして天上にいる無数の聖徒や天使たちの心情を代わり得るべきです。さらには、来られたイエス様の心情を代わり、神のすべての憎しみを私たちを通じて解消していく覚悟と責任感を持たねばなりません。このようにして将来に現れる希望の日に向けて準備する心を持ち、祝福の礼拝を捧げない限り、神の希望は我々にやって来て終わってしまい、我々の子孫に伝わらなくなることになります。皆さんはこれを確実に理解すべきです。
 イエス様の時代でも、すべての人々がキリストを見つめましたが、キリストの後に現れる遂行の意志については考えませんでした。彼らがイエス様の誕生を見守りましたが、誕生後になされる神の意志については考えませんでした。
したがって、皆さんはイスラエルの立場からイエス様の誕生を祝うこともよいですが、イエス様が来られた後の遂行の意志を含め、言い換えればイエス様を全体的な価値の実体として知り、彼の誕生を祝わなければなりません。
 2千年前に来られたイエス・キリストの誕生がユダヤ民族の不信によって悲しみと憎しみを加える結果となったのに、終わりの時である今日、私たちが6千年の歴史を代わってこれを解消しようとすれば、どのようにすべきでしょうか。私たちは歴史的なすべての悲しみを解消する準備が整った実体とならねばなりません。さらには再び来られるキリストの心情まで通じなければなりません。そうすれば、私たちがイエス様の誕生を祝うこの意義が、私たちを超えて私たちの子孫の永遠の歴史的な理念に結びつけられることができるのです。
こうして、神はキリストの誕生を祝福されるだけでなく、現在の一瞬だけで祝福されることを望まれるのではなく、過去と現在と未来を通じた理念を持つ人が神の心情を代わり得る心を持って祝福してくれることを望んでおられるのです。
 では、皆さんはどのような人間になるべきでしょうか?キリストの誕生を実現するために労苦された神の心情を代わり得る人々となるべきです。また、イエスの前に来た先知先駆たちが天国で働き、その心情を代わり得るべきです。
では、イエス様の誕生を見守った神の心情はどのようなものだったでしょうか。天使たちは羊飼いたちにキリストの誕生を告げましたが、地上でもキリストの誕生を告げる人はいませんでした。これが天国の悲しみでした。こうしたことを考えると、当時、イエスの誕生を見て天使の代わりにメシアの到来を宣言した存在があったとしても、天がイエスの誕生を祝福したように地上でも同じように祝福できたはずですが、イスラエル民族を代表したユダヤ教徒がこの使命を果たせず、イエス・キリストが十字架に掛かられたことを我々は知ることができます。
 ですから、皆さんはこうした先祖たちの不信の条件を反省し、皆さん自身がこの意志を負担し、実践できる人々になったかを反省しなければなりません。また、私たちはこのような行動を実践してもなお、その意志を後世にまで引き継げる自分がなったかを考えると、今日この一瞬がどれほど緊張した時であるかを知り、自分を反省し、新たな決意をしなければなりません。
 当時のイスラエル民族が天使の心情や天が喜ばれた心情を代わり、天使たちを送り、死が来ることにもそれ以上のことが来ることにも、聖徒として果たすべき責任を果たし、イエス様の十字架を代わりに担おうとしましたが、イエス様は決して十字架に掛かることはありませんでした。当時の聖徒たちは羊飼いたちの告げられた言葉を聞き、東方の賢者たちの証言の言葉を聞き、他の人々からの証言も聞いたため、人類が古くから望んでいた歴史的なメシアが誕生したその日から喜びと栄光の心情を持ち、不信する民族を代わり戦わなければなりませんでした。そうした聖徒たちがいれば、イエス様を失った悲しみは私たちにまで伝わらなかったでしょう。
 天は2千年前、その一日その一瞬にそのように働いてくださいましたが、地上の人々は2千年が経過してもなお、そのような心情を持ち、天の前に出ることができていません。これが、天が我々にクリスマスを祝福して欲しいという意味を持つことを集まった皆さんは確実に知らなければなりません。
クリスマスを祝福するこの時、神はただ一つの望みであるキリストの誕生を喜んでいる一方で、今日の一瞬でキリストの誕生を喜ぶことを抑えられず、天使や羊飼いを通じて告げたような熱心な心が皆さん一人一人にもあるかどうかを見極められるでしょう。
 もし私たちがこのような心を持ってこの日を迎えることができれば、たとえ私たちが直接イエスの誕生を見ていないし、2千年という長い歴史を経ても、そのような私たちの心情は歴史的な障壁を超えて神の心情、そして天使たちの心情と結びつくものです。皆さんは今、この瞬間が歴史的な瞬間であることを理解する必要があります。本当にそのような心情に至った場合、悲しみが幸福に変わることを感じるでしょう。
 私たちは喜びに溢れ、栄光のメシアを証言する者になれず、十字架にかけられたその方の悲しい物語を証言しなければならない悲しい者たちです。皆さんは今、それを感じるでしょう。
 こうしたことを考えると、今日、皆さんはこれまでの2千年の歴史を経て多くの聖徒たちがこの日を祝ったが、本当に天の心情を代わって祝福した者は極めて少ないことを知るべきです。また、2千年の歴史を代わりにこの日を迎えるために、2千年前の聖徒たちが天使や東方の賢者、または牧者の声を聞いてキリストの死と悲しみを証言しなければなりません。これらのことをしなければ、歴史的な誕生をされたイエス様の前に立つことができる資格がないことを皆さんは理解しなければなりません。
 今日、新たな意志を持って集まった皆さん!皆さんはイエス様の立場を考え、イエス様の心の中にあなたが誕生するまでの4千年の歴史の悲しみが満ちていたことを知る必要があります。また、誕生された後の30年以上の生涯の悲しみがこの日にあることを知る必要がありますし、再び来られると約束された後の2000年の悲しみがこの日にあることを知る必要があります。
 それでは、今日、私たちはどのような使命を果たすべきでしょうか。皆さんはまず、イエス様の悲しい事情を代わり得る立場に立って、神がイエス様をどのように悲しまれていたかについて思いやるべきです。その後、皆さんは自分たちを通じて歴史上行き来したすべての聖人たちから慰めを受ける存在にならなければならず、天使の加護と証言を受ける存在にならなければなりません。
 そして、イエス様が再び来られる時、天が一瞬にして全ての天使を動員されたその価値を代わってやるべきであり、イエス様の誕生時に数多くの聖人たちが心配したことを代わって癒やし、慰める心を持つ存在にならなければなりません。このような準備と決意がなければ、イエス様の誕生の日を中心に過去と現在と未来の神の計画と思想を引き継ぐことができず、継承することができないことを皆さんは理解しなければなりません。
 また、イエス・キリストが去られることによって、4千年間にわたって備えて来られた神の計画の目的を完了しようとされたイエス・キリストの御心が2千年延長され、6千年の復帰の歴史となったこと、また、イエス・キリストによって成し遂げられるべき先祖たちの希望が2千年延長されて降りてきたこと、そして、神の憂いによって無数の使徒や聖人、あるいは何千万もの天使たちの憂いが込められ、2千年間延長されて降りてきたことを考えると、私たちはイエス・キリストを十字架に掲げられた神の悲しみ以上の悲しみを感じなければならず、イエス・キリストが十字架に行かれた時のイエス・キリスト以上の悲しみを感じなければならず、イエス・キリストが十字架に戻られた時、天上で何千万もの聖人や天使たちが悲しんでいたこと以上の悲しみを感じなければなりません。
 したがって、歴史を振り返りながら、天地が悲しんでいた怨念の気持ちを解消するために、一人で全てを代わりに準備できる人間となるべきです。このようにして再臨の日を待ちながら、準備が整った資格者となり、おいでになるメシアの理念が何であるかを知り尽くし、その御心が現れる時に証する天使たちの使命まで負う覚悟を持つ皆さんが、天が望まれるようにクリスマスを祝うことができることを、皆さんは知っておかなければなりません。
 今日、キリストの誕生を祝う礼拝に集まった皆さん、皆さんは神とイエス・キリスト、そして何千万もの天使の悲しみを清算し、天の御心を引き継いでその御心をこの地に実現させる資格者とならなければならず、神がようやく永遠の祝福の日を見つめ、安息されることができると気づかなければなりません。
このようにして、今日、皆さんは重要な歴史的な焦点に立っているということです。ですから、キリストが再臨される希望の日のために準備しなければならないこの時に置かれた皆さんは、歴史的な証人としてまたは神の計画を引き継ぐ者として、キリストの誕生を振り返りながら祝福する人々とならなければなりません。そうすれば神が皆さんを見て、今までに構築された全ての怨念を解消されることができます。また、キリストの御心を代わりに達成する喜びを感じると同時に、イエス・キリストも皆さんを通じて自身の栄光を神に還元することができるということです。





文鮮明先生御言葉選集 3-15 三位基台の意義

1958年1月3日(金)夜、前本部教会

 三位基台を組織しましたが、皆さんはその天的な価値をよく知らないでしょう。皆さんは原理を通じて帰還という言葉の意味を知っています。では、何を帰還するのでしょうか?イエス・キリストはこの地上で何を帰還すべきでしたか?帰還の任務において、イエス・キリストの中心的な責任は何でしたか?それはアダム家庭で失われたその数を見つけることです。これを帰還すべき使命を持ってイエス・キリストはこの地に来られたのです。
 そのため、アダム家族にはアダムを中心にし、三人の息子と彼らの妻を合わせた八人の家族がいましたが、この八人の家族を帰還するために神は1600年間の間、計画されました。また、120年間、計画の意味を理解するためにノアを選ばれ、ノアの八人の家族を立てられたのです。
 アダムから10代を経てノアを立て、ハムの過ちにより継続して計画を理解できなくなり、さらに10代を延長してアブラハムまで降りてきました。しかし、アブラハムが犠牲を捧げる際にもまた過ちにより2代をもっと延長することとなりました。そしてヤコブの時にようやく2千年の計画の段階を完了したのです。これを皆さんはご存知のはずです。
 では、ヤコブの十二人の息子は何を象徴するでしょうか?それはアダムからノアまでを象徴し、これを帰還する数を象徴し、縦の歴史を横に帰還する数を象徴するのです。ヤコブはこのような意味を持つ十二人の息子を立てなければならなかったのです。
 如何にも、皆さんが知っているように、6千年の計画の終わりには6千年間神が計画された内容が横に現れることになります。聖書66巻が6千年の帰還計画の記録であるならば、聖書66巻の事実が横にこの地上に一斉に展開されるのです。そのため、ある場所では創世記1章を担当する人がいて、また別の場所では2章を担当する人もいるのです。そしてこのように、多くの人々が聖書66巻の部分部分を担当しています。
 では、終わりはいつですか?終末の歴史過程に現れた全体の計画を一時に地上で完成させなければならない時です。なぜなら神の帰還の計画は地上で完結されなければならないからです。それゆえ、終末の計画は横に世界中で現れなければならないということです。
 それでは、これは何を表しているのでしょうか? 全体的に見れば、アダム家族のカインとアベルの争いを表しており、また歴史的に見れば、全体の争いの歴史を表しています。この中で計画の意味を終結させ、勝利者となった自己を見つけるためには、どのような存在になる必要がありますか?イエスはこの地に来て望んでいたその中心基準を、あなた自身が見つけて確立しなければなりません。そうでなければ、終わりには勝利の花婿としてイエスの前に立つことができないでしょう。
 イエスは33年の生涯を過ごされましたが、イエスは30年の準備期間、3年の実践期間、3日の完成期間を経て、3つの段階の歴史過程を解決しておられます。また、3年の共生命の期間を置いて、意志を受け入れて出発される際に3つの試練を経験し、最後の十字架が目前に迫ったゲツセマネの園で3度の祈りをされました。3度の祈りを捧げられる際には、一人ではなくペテロ、ヤコブ、ヨハネ、すなわち3人の弟子を連れて行かれたのです。
 イエスが最後に命を賭けて懇願の祈りを捧げる場面で、三人の弟子もイエスと同じ心で夜を明け方まで祈り続けなければならなかったにもかかわらず、三人の弟子は眠ってしまいました。それゆえにイエスとの関係が断たれることとなり、そこに敵意が残ることとなりました。これを理解する必要があるでしょう。それでは、今日の帰還の運命を挽回するためには、私たち一人ひとりの使命は何であり、私たちはどのようにすればよいでしょうか? 私たちはゲツセマネの園のペテロ、ヤコブ、ヨハネとなり、一人の責任を担わなければなりません。この責任を果たさないといけない立場に置かれていることを覚えておかなければなりません。
 イエスの悲しみは十二人の弟子がイエスの意志を受け入れなかったことであり、十二人の弟子を代わって三人の弟子がイエスの心情を理解してくれなかったことです。死の直前にイエスの悲しい心情が今日までの一つの恨みとして残っていることを理解する必要があります。
 では、今日のあなたたちはどのようになるべきでしょうか? あなたたち自身がペテロ、ヤコブ、ヨハネとなり、三人が一つとなって主の前に誰も引き離すことのできない一つの模範を備えておかなければなりません。そうすることで、ゲツセマネの園で祈っていたイエス・キリストの悲しみの心情の前にやっと立つ資格者となるのです。
 この意志を帰還するために探しに出た私たちだからこそ、このような三位基台の組織をしなければならないのです。それでは、イエスはどうして三人の弟子を連れて行ったのでしょうか? アダム家族においてアダムを代表した方がイエスであり、アダムの三人の息子を代表したのがイエスの三人の弟子でした。このように、イエスはアダムとして来られたのです。
 ペテロ、ヤコブ、ヨハネはカイン、アベル、セトを代表する弟子たちです。イエスはこの地において三人の弟子を立て、相手を見つけて八つの家族を形成し、アダムとノアの八つの家族形を回復する使命をなさったが、その意志を果たせずに独身のまま去られました。
 それゆえ、花婿と花嫁の名を残して2千年間労苦されました。その後今日までこの原則的な基準、すなわちアダム家族でアダムを中心とした三人の息子の基準をこの地に見つけて立てることが最後の計画の意志としてこの地に残されていることです。
 今日の私たちの教会において、男性三人、女性三人、このように三位基台を創りました。なぜこのようにしたかというと、今後主を奉仕する私たちにとっては、アダム家族のアダム夫妻とその三人の息子と三人の婿を代表できる模範を持たなければならないからです。
 そのため、これらの三人が一つにならないと再び破壊される恐れがあります。特に三人の男性が一つにならなければなりません。肉体的にも、精神的にも一つになり、一つの体となることができなければなりません。それゆえに、時間的な限界ではなく、時間を超越した一つの形を持たなければなりません。そうしなければ、再び来られる主の前に立つ資格がないことをあなたがたは理解しなければなりません。
 もし三人が一つになり意志を代表できる原則的な足場を築くならば、もう一度言いますが、天が変わるかもしれませんが、私たちは変わらない三位基台であり、天はこのような期待の上に意志を達成されるでしょう。
 このような内容を持つために、あなた方を中心にして三位基台を組織しました。そして三位基台を構成するにあたり、あなた方は三位基台を中心にし、十人が団結しなければなりません。なぜなら、三位基台は主を中心にし、ゲツセマネの園で祈っていた三人の弟子を代表すると同時に、アダムを中心とした三人の息子の形を探して立てる形態でもあるからです。
 また、三位基台を中心にし、班を作る意味があるとして、結局はアダムからノアまで十代を代表するものであり、班長は二人の責任があるため、十二人の形を持ったものと見ることができます。
 これはまたノアからヤコブまで十二代を代表するものであり、歴史的な側面、すなわち終末の側面においては、十代と十二代を代表するものです。そして終末の2千年の歴史を代表できる横の十二の形を持っているため、ヤコブの十二の子供を代表した数の人が一つになれば、2千年の神の計画の目的であったノアの家族を回復すると同時に、ヤコブ家の形を回復することになります。こうして三組が一つになり、一組は36数36人を代表することになります。これはヤコブにおいては十二の子、モーセにおいては十二の部族、イエスの十二使徒を示すものであり、6千年の歴史的代表を合わせたものを象徴する数が36数であるということです。
 したがって、男性36人(36数)が一つになると、6千年の神の計画の過程で求めていた中心メンバーを終末の形でも持つことができ、横の面でも持つことができます。このような重大な責任と使命が36人にあるのですが、ここには重大な意味があります。男性36人と女性36人が合わせると72人になります。
 ですから、イエスを中心にして70人の長老がいましたし、モーセを中心にして70人の長老、ヤコブの70家族がいました。そのため、イエス様と70人の長老、そしてイエス様の花嫁と合わせると72人になるのです。今日、天地の度数を合わせなければならない使命が私たちにありますので、私たちはこの山を越えなければなりません。
 あなた方が三位基台に所属する三人が互いに心を合わせるべきではありません。そのような人は天国に行けません。統一の理念はここから始まります。三人の心を合わせなければ、天国に入ることはできません。入門もできません。天国の景色も見られません。また、三人が一つになってこれを単位として十二人の心を合わせて一つになれなければなりません。逆に、三組が合わさって一つのチームになり、この一チームの36人が団結すれば、サタンは何もできません。誰も壊すことはできません。世界でも3人が合わされば何もできないのです。
 私たちの教会は八つの家族が動かなければなりません。どんなに大きな迫害を受ける教会であっても、指導者とその妻、そしてそこに三人の男性と三人の女性が結ばれた八つの家族が一つになれば、誰も壊せません。これが原則です。このような回復形を各自が持たなければならない使命があるという理由で、三位基台を組織しました。
 天国の歴史もこのようになります。一人を立てて歴史をするのではなく、三人以上を立てて二人を打つのです。終末の時代に恩寵の歴史が始まる時にも、この原則で行われます。
 天国は必ず三人を立てて一人を選びます。韓国の現実もこのようになっていますよね? 終末には必ず天が立ててくださるペテロ的存在、ヤコブ的存在、ヨハネ的存在、このように三人の使命をする人が現れます。その中で一人でもない二人は壊れやすいのです。しかし、三人が一つになれば壊れません。今日の霊的な人々が進む途中で壊れる大部分の原因がここにあります。
 私たちがサタンを打ち負かし、神の怒りを解放するためには、末端の家族まで一つにならなければなりません。そうすればサタンは耐えられません。これが歴史的な形においても天地の運行度数にも当てはまるのです。一点を中心にして四方性があるように、東西南北があり、春夏秋冬の四季があります。四方を再び12方に分けると、東にも三人、南にも三人、北にも三人、西にも三人になります。このようにイエスを中心にして12数が立てられると、東西南北と春夏秋冬の完全な四方形を持つことができるのです。
 イエスを中心に考えると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは春の季節の形、つまり正月、2月、3月を象徴しています。彼らが12か月を通してイエスを中心にし、同じ距離で円を描いていれば、イエス様は帰られなかったでしょう。春の季節の形である三人の弟子の後ろには10月、11月、12月がありますが、これはサタンが侵入できるスペースがあることを意味しています。三大試練の根拠もここにあります。
 10人が一つになろうとすると、そこには必ず三人の邪魔者がいます。理由もなく嫌い、攻撃する群れがいるということです。ですから、あなた方は三回以上試練を受けなければならないのです。この現象は終末に起こるため、個人の信仰にもそのような試練と苦難があり、個人から家庭単位へと発展していく際にもそのような試練があり、社会から国家、国家から世界へと移行する際にもそのような三大試練が生じることになります。
 ですから、今日の世界的な終末時代において、世界人類は三度の天の試練とサタンの試練を超えなければなりません。これが第一次、第二次、第三次世界大戦なのです。個々の存在においても同じです。
 今日の私たちにはこのような中心的な形に合わせて、それぞれの基準を持つ責任があるのです。霊界を見ると、12使徒を中心とした24長老があり、四元素があり、多くの霊がいるということです。地上の季節の運行を見ると、一年には四季があり、十二か月があり、また24節気があります。
 そして、一つの季節には三か月があります。このように天と地は、その運行法に従って順理的に回る中で、人間だけがこれとは反対に回っているのです。これが堕落であるということです。これを正す責任があるため、イエス様はその使命を果たすためにこの地に降臨されたのです。そして今日の信者たちもこのような使命を果たさなければなりません。
 信者たちにこのような使命があるために、全体のキリスト教の歴史を見ると、三段階の形を経なければならなかったということです。例えば、古教会にも新教会が生まれましたが、新教会からまた新しい宗教が生まれなければなりません。
 そして、教派の分裂を見ると、新しい教派が12教派に分かれ、再び36教派や360教派になることを意味します。そうなると終末が来ることを知らなければなりません。また、国家的に見ると、三大国家を中心に世界は三つのブロックに分かれており、これが歴史の終わりを経て超えていくということです。そして、民主陣営だけでなく共産陣営でも三つのブロックに分かれているのです。
 したがって、今年の天の命令は、皆さんを死に至らしめるために訓練することだということです。今年は修練の年、試練の年として、どんな苦痛も堂々と乗り越えることのできる年にしなければならず、12人以上の心を合わせる人を早急に作り上げなければなりません。
 それでは、これからは天敵的なイデオロギーを代わって天の家族として立つことができる数が相当数いるでしょう。霊界には数億の霊が住んでいます。その霊たち全員が手を挙げて歓迎できるそのイデオロギーが、私たちが守るべき本来のイデオロギーであり、今日の地上で10人が一つになれなければ天国に行けないということなのです。
 それでは、私たちは今度は他人の心を合わせる歴史的な代表者となりましょう。これまで神様は皆さんの心を合わせてくださる神様であり、神様には皆さんの市場を聞かねばならない責任があったということです。
 このような原則があることを知り、特に今日は1月3日ですが、皆さんはしっかりと決心しなければなりません。3か月ごとに三位一体を変更するときには、皆さんが誰と会うことになろうとも一つにならなければなりません。皆さんは三位一体で結ばれた相手に「あなたは長い6千年の世界の歴史を辿って、なぜ私と出会ったのか?」と尋ねながら、歴史的な運命の出会いを感じなければなりません。そして、三人が一つになり、十人が一つになり、36、70人が一つにならなければならないのです。
 したがって、このような組織は原理原則を離れてはならず、原則は組織を離れてはあり得ません。これが組織の生命です。このような形で天地の度数に合わせて、天地の中心と私の心の中心が一つになって回らなければならず、自分が万物の世界の運行法もに従って回らなければならないということです。
 一日一日、私の心は天輪を中心にして回り、一年中、一生中も天倫を中心にして回らなければなりません。そうしなければ永遠に生きることはできないのです。
 それでは、朝起きて、今日は誰のために回るのか、天倫のために回るのか?また、行く時には、今日は誰のために回ったのか、天倫のために回ったのかを自問自答しなければなりません。
 その道は三位一体であり、班(バン)というものです。これを離れては生命の足場が存在しないのです。したがって、今回新たに三位一体を組織しました。ここで問題になるのは、どの程度まで天の意志を考え、それを生命にして動くかです。私たちの教会信者は皆平等で一つの家族です。
 したがって、原則的な条件を設けて、法度に従って一つになればよいということです。今年からは、新たな覚悟のもとに新たな動きを展開しなければなりません。攻撃を開始しなければなりません。その意味で、天倫の前に実生活を通じてこのような原則的な足場を整え、宇宙的な一つの単位形態が自らを中心に据えて始まる驚くべき事実を、皆さんの喜びとして知り、進んでいかなければなりません。
 6千年の歴史の中で意志の道を歩んでいる私は、最大の悲劇役者だと思ってください。これは他の人ができないことをしようということです。他人が辿れない一歩を踏み出そうということです。ここで、サタンは耐えられないということです。



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御言葉選集3(12,13)

2024年03月10日 15時21分07秒 | 学習
『文鮮明先生御言葉選集 3 - 12.  真の道を知り、偽ものを見極めよう 』(1957年11月1日)

1957年11月1日(金曜日)、全本部教会

聖書拝読:
創世記4:1-8、マタイによる福音書13:24-31、ヨハネによる福音書10:1-6

<祈祷>
 危うい地上で不足する私たちを見つけ出し、心配や悩みから守ってくださったお父様! 私たちは自ら父の前に正しく立ち、お父様の涙を受け止め、お父様の優しい心情を心と身体で感じられるように許してください。
 また、そのような心があるならば、この時を見つけてください。そして、お父様が成そうとされる御業の意志を彼らと共に協議し、終わりの暗闇と死の波がこの時代を襲うであろうとしても、それを見分け越える能力を持つあなたの知恵と力を持たせてください、愛するお父様、切に願います。
 罪に埋もれて生きる人間であるが故に、すべてを自己中心に考えることが容易であり、意図しない意図を立て、それが意図であるかのように動き出すことが容易な私たちであると知っています。お父様、そうした私たちを完全に目覚めさせてください。
 こうして完全な自己の中心を立て、お父様の永遠の命の道に進むことができるように許してください。唯一、お父様の望まれる御心のためにすべてを排除し、サタンと闘い抜くことができる子どもたちとなるように許してください、愛するお父様、切に願います。
 私たちはまだ無知な人々を導くことができる命の基準がどこにあるかを知らずにおり、ただ自分自身のために心配し、祈ったことが多いと思っています。お父様、こうした私たちを目覚めさせてください。私たちの正しい心と身体が原理法度に従って、最後の勝利の地点まで進むことができるように導いてください、お父様、切に願います。
 この時もサタンはお父様が私たちに与えようとしている恵みを阻むためにあらゆる策略と陥穽(かんせい)で混乱させていると知っています。お父様、そうしたすべてを打ち破り、サタンと闘い抜くことができる私たちを導いてください。そして、勝利の狭い門の内側で父と緊密なつながりを持ちながら進んでいけるお父様の子として許してください、愛するお父様、切に願います。
 また、今日終わりを迎えるべき私たちに、すべてを見極める新たな眼差しを与えてください。また、私たち自身を中心に据えた周囲のすべてが、自らの試練の対象であることを知らせてください。
 さらに、それらがサタン的な要素にならないように許してください。私たち自身がそれらを踏み越え、お父様の栄光を示すに足ることができるように、お父様、私たちを導き、保護してください、切にお願いいたします。
 この時、地方に広がり、お父様の前で祈っている家族が多いことを知っています。彼らがどのような状況や環境に置かれているかに関わらず、お父様が直接保護してくださいますように。
 こうして、終わりに委ねられた神聖な使命を果たし、他者に残ることができる姿となれるように許してください、愛するお父様、切に願います。
 お父様の栄光を示す勝利の日を築くために、新たな覚悟と決意を持ち、サタンに立ち向かう力と能力を心と身体に備えることができるように、この時を許してください。また、お父様の無限の愛の手がこの地上の万民、この国の三千万人の民族に現れることを切に望みながら、すべての言葉を主の名によってお祈り致します。アーメン。


<御言葉>
 今日皆さんに贈る言葉のタイトルは『真の道を知り、偽ものを見極めよう』です。
 現代の多くの人々は、真偽を見分けられずに混沌の中で生きています。この時間を通じて、この聖書の文章を通して真実とは何か、偽りとは何かを見極めたいと思います。
 人類の堕落によって、天の嘆きは何千年もの歴史の中で人々に向けられてきました。また、現世の人類にも天の嘆きが向けられていると同時に、私たちの子孫についても天が嘆きをもっています。
 また、人間に授けられた万物にも天の嘆きがあることを知っています。人間が天の摂理を背いて進んだ道が、現代の終末時代のすべての事態の悲しみと嘆きとなったことをよく知っています。では、そのような嘆きを取り除くために人間はどうすればよいのでしょうか?また、どのような姿勢を持たなければならないのでしょうか?これが今日の皆さんが知るべき重大な問題です。
 では、今、皆さんはどのような頂を越えなければならないでしょうか?皆さんは万物の嘆きの頂を越えなければなりませんし、残された人類の嘆きの頂を越えなければなりません。そして、残された天の嘆きの頂を越えなければなりません。言い換えれば、今日の皆さんは、これまでの6000年の歴史を通じて、数多くの人類に向けられた天の嘆きを解消し、また、その人類の嘆きを癒し、創世以来持ち出された万物の嘆きを解消しなければならないということです。
 皆さんは救済還元原理を学んでいるため、救済条件というものを知っているでしょう。個人が一つの救済条件を設けることは、その一因に留まるだけでなく、創世以来現在まで内的に存在する神の嘆き、イエスと聖霊の嘆き、霊界にいる千万の聖人と天使の嘆き、または地獄にいる諸霊の嘆きまでも解消する救済条件とならなければなりません。それだけでなく、その救済条件は現在この地上に生きている全人類の嘆きまでも解消する救済条件とならなければなりません。これを皆さんは確実に知っておかなければなりません。
 また、今日の皆さんは、自らを超えて創世以来の無数の嘆きの頂を越え、終末の最後の審判台に向かって歩まなければならない立場にあることを忘れてはなりません。
 では、今皆さんは宇宙的な嘆きの頂を越えて命の道に向かうか、それともその頂を越えられずに死の道に向かうか、このような岐路に立たされています。そのため、今日皆さんはその生死の岐路に立ち、どのようにしてその頂を越えるか、どのようにしてサタンと戦い、どのようにしてその頂を越えて天の栄光を示すかを考えなければなりません。
 もしもそのような考えを持って生きる人がいるなら、彼の生活は重大なものになるでしょう。彼の視線は自己を超えて天の摂理を見つめる必要があり、彼の感情は罪悪の現実ではなく、この世界を憂いながらも神の真実な愛を感じる必要があります。そして彼の行動は自己のための行動ではなく、万物の嘆きを癒す行動とならなければなりません。
 誰でも、そのような重大な立場から天と地と人間の代わりに歴史的なため息の崖を超えるための生活を送れば、その生活は語り尽くせない驚異的な生活となり、語り尽くせない生命力を発揮する生活となるでしょう。他人がどうであれ、自分の心を守りながら、厳しい困難や逆境、ため息の崖を乗り越え、サタンと戦わなければなりません。
 ですから、今日の皆さんも、それぞれに与えられたため息の崖を越える責任が自分にあることを認識し、立っている足場、持っている精神、見つめる希望と向かう標準がそれぞれどこを向いているかを常に忘れず、反省する人になるべきです。もしそれを忘れてしまえば、忘れるその日がちょうど神の悲しみの日となり、忘れるその時がちょうど人間と万物が皆さん一人一人を通じて持っていた無限の希望と期待が一瞬にして消え去り、再びため息の崖に戻る悲しみの時間となるでしょう。この事実を今日の皆さんは自分の身体と心ではっきり感じなければなりません。
 では、今日の皆さんはどのような崖を超えるべきでしょうか?皆さんはまず、歴史的なため息の崖を超えなければなりません。その次に、皆さんの前後左右に見えない恐怖の力であるサタンたちを打ち負かさなければなりません。
 もし皆さんが歴史的なため息の崖を踏み越えようとすると、そこからはんぱないサタンの力から派生する恐怖の力にぶつかると、皆さん自身の進む道を向かうことができず、横道に向かわざるを得なくなります。
 ですから、今日の皆さんはその道を越えるために、皆さん一人一人の心が捧げられることさえあれば、全宇宙が皆さん一人一人をため息の条件とすることさえあれば、皆さんは命を捧げてその道を越えるためにサタンと戦わなければなりません。
 そのような皆さんがサタンと戦わなければ、皆さんは自らも知らずに堕落したアダムと共に行かざるを得なくなり、また神の意志に反して天倫を背くカインの後を追うしかないことを念頭に置かなければなりません。
 今の時は皆さん一人一人が立って全宇宙のため息をため息の帰還に戻さなければならない時ですから、今日の皆さんには友が一人もいません。また今の時はアダムが堕落する直前に神が直接介入できなかった立場と同じようなそのような時ですから、神が堕落した人間自ら新しい帰還の過程に入って、今までのすべてのため息の歴史を踏み越えさせるために皆さんの仕事に直接介入されないことです。
 ですから、今日の皆さんの周りで見られるさまざまな現象は、これまでのすべてのため息の条件を開拓するために現れるものであり、見える事実があるとすれば、それは皆さんにため息の崖を自ら超えさせるための、つまりため息の崖を帰還させる事実であるということです。
 では、今日の皆さんが天地のすべてに対して溢れるため息を取り除くために、どのようにすればよいでしょうか?皆さんが天地のため息を解放しようとすると、まずすべての存在が皆さんを攻撃しようとするでしょう。その時には、そこに受けて倒れることがあるとしても、死を覚悟して進んでいかなければなりません。今日の皆さんが進む道には、必ず物質的な苦痛が伴うでしょうし、またその物質が皆さんを攻撃し、万民が皆さんを攻撃するときがあるのです。
 イエス・キリストが人類のためにこの地上で帰還的な条件を設けるために現れたときも、万民や万物がイエス・キリストを攻撃しました。私たちがこれを振り返るとき、皆さんが進む道でも人間や万物が皆さんを攻撃するということがわかります。
 また、皆さんが進む道において、神が皆さんを攻撃する時、そのことに絶望して天を恨む人になるとすれば、終末の審判の関門を通過することはできません。
 ですからキリスト教では、すべてを捨てるように言いました。肉体的なすべてを犠牲にするように言いました。自分の内にある人間的なすべてを軽視するようにというのです。その時、人間はようやく良い存在となり、父の栄光を心行くまで享受することができ、父の愛の領域に無限に吸収されて入ることができるのです。そのような人になれない場合、彼は人間の骨の中にこれまでため息の要素が沈殿したままになってしまうのです。
 では、そのため息の要素はどのような歴史的な過程を経てきたのでしょうか?アダムとイヴの堕落以降、6000年の歴史的な過程を経て、そのため息の要素がサタンに導かれてきたのです。皆さんはこれを理解しなければならず、またそのため息の要素を皆さんの子孫に引き継ぐかもしれない危うい瞬間に直面していることを理解しなければなりません。
 ですから今、皆さんは自分のすべてを捨てることができる人にならなければなりません。自分自身を天の前に屈服させ、従わせ、誰よりも早く天を代表してサタンの矢を受ける覚悟ができる人にならなければなりません。サタンとの戦いにおいて誰よりも早く立ち上がる人にならなければなりません。また人間に対しても同様であり、神の意志に対してもそうであり、物質に対しても誰よりも早く自己を犠牲にすると公言する人にならなければなりません。このような人にならなければ、終末の最後の審判を免れることはできないことを皆さんは確実に理解しなければなりません。
 聖書の歴史を時代的に区別してみると、旧約時代は象徴の犠牲の時代であり、次に実際の犠牲の時代であり、その次には心の犠牲の時代であることがわかります。また、これを結論付けると、神・人間・万物が存在するが、これらを一度に帰還させることはできないため、これまでの6000年間のすべての内容が今日の終末の世界に現れていることがわかります。
 つまり、神が6000年間持っていたため息の内容が今日この地上の全ての人類の前に現れているということです。したがって、このような時代に生きる人々は、誰も安らぐことができず、誰もため息の波に巻き込まれないことはできないということです。
 では、このような時代に生きる今日の皆さんはどうすればよいのでしょうか?皆さんはすべてのことで失敗してはならず、時代や場所を超えてサタンの誹謗にかからないように努めなければなりません。そして、皆さんはこれまで自分自身をかけて6000年のため息の歴史が押し寄せてきたことから、その6000年の大洪水の波が皆さんの進む道に横たわっていることを理解しなければなりません。
 皆さんがその洪水の波に巻き込まれないためには、この地上のことに執着してもがき苦しむ人になってはいけません。言い換えれば、自分自身に縛られて神の計画に目がくらんだ人になってはいけないということです。
 では、皆さんがそのような歴史的なため息の崖を越えた後はどうすればよいのでしょうか?これまでガイン的な使命分野を担ってきた皆さんは、アベルとして現れる神の子女を奉仕し、彼を代わりに奉仕し、自分に残っている堕落的なすべてのため息の要素を排除して唯一神の御心に従う人にならなければなりません。
 そして、皆さんは周囲の10人と向き合うとき、その10人が自分を完全な人間にするために自分を性格づけし、自分のため息の条件を取り除く人々として感じ、そうして扱うことができる人にならなければなりません。つまり、皆さん一人を完成させるために周囲に数多くの人々が存在していることです。彼らは誰のために、またはどのような意図で動いているかと言えば、皆さん一人を完全な人間にするために動いているということです。
 また、皆さんはガインとアベルが共に神に犠牲をささげたとき、アベルの犠牲を受け入れた神の立場と、ガインの犠牲を受け入れなかった神の立場が相違しているように見えるかもしれませんが、そうではありません。ガインに天の立場を代弁していたアベルを通じて少しでも心があった場合、神はそのガインの犠牲を受け入れていただろうということです。神は時間的な差異はあったかもしれませんが、公正な立場から彼らを扱おうとしたということです。
 では、皆さんが今や神の前で宇宙的なため息の崖を超え、神が喜び、喜ぶことのできる唯一の犠牲として現れたいと思うならば、皆さんはどうすればよいでしょうか?宇宙万物を帰還させるためのアベル的な祭壇を築き、アベル的な犠牲として羊を捧げるのではなく、皆さん一人の生命の実体を捧げることができるべきです。
 昔のアベルが天の使命を受けて負担せず、血を流して神の計画を挫折させたことと同様に、今日の皆さんもそうではならないはずです。皆さんの周りに現れるすべての事実は、自分自身を完成させるために現れるという心を持ち、どのような人がどのような不正な環境に自分を追いやろうとも、天の道に背いてはならないという堅固な信念を持たなければなりません。そして、皆さんが周囲の環境のすべてを忘れ、ただ父の栄光を示すために死を覚悟して前進できる人になるべきです。
 ケインとアベルが犠牲を捧げた後、アベルの犠牲だけが神に受け入れられたことをアベルがケインを憎んで打ち殺したが、ケインがアベルを憎んでいたときから、皆さんは理解する必要があります。ケインは神が自分の犠牲を受け入れないので、一瞬のうちにアベルに対する憎しみが生まれ、彼を殴ったのではなく、その出来事にぶつかる前からアベルを憎み、殺したいと思っていたのです。
 そのような堕落的な血統を受け継いだ今日の皆さんが宇宙的なため息の崖を超えるためには、どうすればよいでしょうか?今、皆さんは神への不信と闘争の条件を確立する祭壇を築くべきではなく、父の栄光を紹介し、父に喜びと栄光をもたらす勝利的なアベルの祭壇を築くべきです。
 したがって、今日の皆さんの生活は単に個人に限定されるものではありません。全体を代表する生活なのです。皆さん一人一人が父の前に伏せるその時が、その時間、意志を中心に生きる生活が、その時間と生活で終わるものではありません。そこでケインの立場かアベルの立場か、という二つの分岐路が決定されるのです。つまり、今日の皆さんは過ちによってアベルとなり、また過ちによってケインとなるかもしれない、この莫大な歴史の崖に直面しています。
 私たちが帰還の原理を見ても、人間をよりアベル的な存在として見つけて、礼拝し、奉仕させることを目指していたのは、これまで神が6000年間労働された摂理の歴史であることがわかります。したがって、すべてを帰還させるために、神は世界的なアベルとして人類の前に一人を送ったが、その人はイエス・キリストであったのです。
 当時のユダヤ人やイスラエルの民が、昔のケインがアベルを妬んで憎んだことと同じ立場を取らず、ケインの立場ではなくアベルの立場にあるイエス様に絶対服従し、礼拝すれば、彼らは宇宙的なため息の崖を超えることができたでしょう。また、そこから、神が望まれた生命の祭壇、つまりアベル的な栄光の祭壇をこの地上に建設することができたでしょう。しかし、当時のユダヤ人やイスラエルの民がイエス様を妬み、憎んで十字架にかけたため、そのような意図が一時にして挫折したことを、今日の皆さんは確実に知っておかねばなりません。
 今、皆さんが無限の欲望を抱き、無限の永遠の世界を讃えるのであれば、ただ自分自身にとどまっていることはできません。皆さんに迫ってくるすべてのため息の崖を超えなければならず、無限の悲しみや苦難にもかかわらず、それを踏み越えてサタンと果敢に戦うことができる人にならなければなりません。
 また、皆さんは天に従って忍耐しなければなりませんが、ある時だけではありません。耐え続けるが、ある時だけ耐えることはできず、自分の命が消えるその時まで天に従い、苦難に耐えねばなりません。もしもそのような皆さんがなれない場合、皆さんは終末の最後の審判の崖を越えることができないことを心に留めておかねばなりません。
 では、今日の時代はどのような時でしょうか?神の意志がこの地上に現れる時です。今日のこの地上にはケインとアベルがいます。マタイ13章にある言葉のように、この地上には雑草と穀物があります。また、ヨハネ10章の言葉のように、門を通り抜ける真の牧者がいる一方で、門を通らずに他へ行く偽りの牧者もいます。ですから、誤解すれば、私たちの教会でも同様の状況が起こり得ることを皆さんは直視しなければなりません。
 そんなことを知り、今や皆さんは教会を中心にして誰がアベルであり、誰がケインであるかを見分けなければなりません。二人がいれば必ず一人はアベルであり、一人はケインであること、三人がいれば二人はアベルにもケインにもなり得るが、最も中心的なアベルとケインがいること、これを皆さんが確実に見分けなければならないことです。そして、そのケインとアベルが一つにならずに分かれてはなりません。
 一方は正しい手であり、一方は悪い手であることです。ですから、誰もが私の神でありながら、あなたの神であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神であるという信仰の立場から、お互いにアベル的な存在を見つけ、ケイン的な立場を避けるための最大の努力をしなければなりません。もしもそのような人になれない場合、皆さんはいつでも天の審判にかかり、ただちに見破られることを確実に知らねばなりません。
 今日、私たちの教会を中心に見ると、必ずしもケインとアベルが存在します。したがって、神はアベルを通して言葉を示し、すべての人がアベルと一体になることを望まれています。しかし、アベルと一体にならないようにする者がいます。それが誰かと言えば、まさにサタンです。したがって、正しい信仰を持つためには、あなた自身よりもアベル的な存在と一体になるために、根本と自分のすべてを検討することができる必要があります。
 かつてエデンの園で、太陽は天使から誘惑の言葉を聞いてアダムと相談し、「天使がこう言っているのですが、どうすればよいですか?」と相談しましたが、太陽は堕落しなかったのです。また、太陽が神と相談したが、堕落しなかったのです。しかし、太陽はその誘惑の言葉を聞いてアダムと相談せず、神と相談しないことで、堕落する過ちを犯してしまいました。
 神は「食べてはいけない」という掟を定めましたが、それを否定する天使が太陽に対し、「その日にそれを食べると、あなたの目が開き、神のように善悪を知るようになる。」(創世記3:5)と誘惑したように、今日でも、このようなサタンの巧妙な動きが、あなたが気づかないうちに起こっています。
 したがって、今日のあなたは、あなたの周りで起こっているすべての事実を識別することが必要です。農夫が収穫の時を迎え、穀物とからくり、血と穀物を識別できるように、あなたも神とサタンの行為を識別し、その結果を判断できるようになる必要があります。
 今、あなたはどのような人になる必要がありますか?収穫の喜びを味わう人になる必要があります。あなた自身が父の前に誇らしく立つことができる人になる必要があります。からくりの実を結ぶのではなく、真の穀物の実を結ばなければなりません。したがって、今日のあなたは、天からの恵みを正しく受け入れることができるよう、真の穀物として成長しなければなりません。そして、あなたは天が恵みを与えるその時を知る必要があります。
 神は堕落した人間を救うための新しい摂理の時がいつなのかを知る必要があります。あなたが神の新しい摂理の時を迎えて、からくりの立場にならず、真の穀物の実として結ばれるために、すべてを正しく識別することができなければなりません。
 しかし、人間は6000年の歴史の中でまだ真実と偽りを正しく識別していませんでした。人類史を代表して真の穀物として実を結んだ者は、まだ一人もいませんでした。歴史以来、多くの人々が一貫して望んでいた実を結んだ人はいなかったのです。ただし、それを収穫するための使者がいるなら、その方がまさにイエス・キリストであったことをあなたは知る必要があります。
 今日、皆さんは人間が最終的に結ぶべき実がどのような形で結ばれるかを心配し、切望する心で生命の道を向かわなければなりません。それによって、自らが生命の道に入り、新たな第二の生命を生み出す姿にならなければなりません。
 あなたの心には常に真実だけが存在するわけではありません。あなたの心という畑には、真の穀物が植えられることもあれば、からくりが植えられることもあります。単にあなたが滞在する環境にだけからくりが植えられているのではなく、あなたの心の奥に堕落の要素が残っていることを意味します。それを取り除き、自分の心を清めるために犠牲の道を歩まれた方は誰でしょうか。それは今日の皆さんが確実に知るべきことは、イエス・キリストであったということです。
 それでは、皆さんの生活はどうでしょうか?皆さんが日々の生活の中で一度動くたびに、その行動が真実か偽りか、どちらかになります。皆さんが見たり、聞いたり、話したり、感じたりするすべてが真実か偽りかです。このように、皆さんは自分自身を中心に立ち上がる一つ一つのすべての事実が真実と偽りの分岐点にあることを感じなければなりません。
 今日の皆さんの心にはケイン的な面とアベル的な面があります。また、皆さんの心にはからくりと真の穀物があるということです。したがって、皆さんがどのような行動をした後は常にそれがケイン的だったかアベル的だったかを反省することになります。
 このように、すべてはケインとアベルの立場、または全方位の存在として存在しています。ですから、今日の皆さんはどこに行くにしても、アベルのものはアベルのもので、ケインのものはケインのもので見分けて立てなければなりません。下等動物でさえ、自分が食べる草が毒かどうかを見分けるのに、万物の王である人間が自分にぶつかってくるすべての事実を正しく見分けなければならないことです。誰がケインであり、誰がアベルであるかをはっきりと見分けなければなりません。
 もし昔、太陽が自分にぶつかってきたその誘惑の手を正しく見分けていたなら、堕落しなかったでしょう。神の言葉に頼って生命を賭け、最後までサタンと戦っていたら、太陽は堕落しなかったでしょう。しかし、時には時としてのものを欲する不貞な欲望を見分けられずに堕落してしまったことを皆さんは確実に知るべきです。
 今日、皆さんの前にはからくりと真の穀物があるでしょう。真の牧者と偽の牧者もいるでしょう。ですから、今こそ皆さんはそれを正しく見分けなければなりません。真の牧者は自らが真の牧者であるとは言いません。いつでも黙々と神の御心と、すべての万物を自分の心に抱き進んで行くだけで、自らの立場を弁明しません。ですからイエス様も、ピラトの法廷に立った時、悪人たちは自らが正しいと主張しましたが、イエス様は自らを弁明しませんでしたことを振り返るべきです。
 しかし、終末のいつかは、何が真で何が偽かを見分けることができない時が来るでしょう。そのため、神はそのような時を迎える人に油を塗り、密室に入って祈れと言われました。互いに自分が正しいと主張した後では、激しい混乱と混乱が起こり、誰が真の牧者であるか偽の牧者であるかを区別することができなくなるため、静かに密室に入り、自分自身で祈って判断するように教えられたのです。
 真の子は、父が褒めることがない限り、自己を自慢せず、自分自身を弁明しません。父の栄光の座に立っても、それを自慢せず、むしろ自己を謙遜させようとするのです。ですから、今日の皆さんもそのような人になるために、不断の努力をしなければなりません。今日の私たちの教会を中心に見ると、自分自身は知らないが先生がそのような道を切り開くために、霊的または実質的な面で激しい闘いを繰り広げていることを認識しなければなりません。
 現在、皆さんは踏み外すと暗い死の権下に落ちる可能性があります。全体を助けようとするよりも、自己の利益を中心に置く、つまり欲望を満たそうとする要素が多くあります。そのため、今日の皆さんはそのように欠けた自己を否定し、すべてを父に委ねて、「父の御心が行われるように」と内面的な心情を持たなければなりません。もし皆さんがそのような心情を持たずに進むなら、皆さんは無駄な足掻きをするしかありませんし、サタンが支配する死の権力から逃れるすべがありません。
 今、皆さんが進む道にはサタンの試練が多いでしょう。また、霊的な経路を通じて行く人は多くの試練に直面するでしょう。そのため、サタンが自身の試練で人間が倒れると、「あなたがこれでどうなるのか?」と嘲笑しながら皆さんの道を遮るでしょう。
 ですから、今日の皆さんにはサタンのそのような嘲笑を避ける道がなければならず、皆さんはその道を原理を通じてよく知っています。それでは真の牧者はどのような牧者であり、真の子に従う真慵はどのようにすべきか、真の御言葉を通して播かれる種、つまり真の穀物を結ばせる種はどのようなものか、真のアベルの立場に立つためにはどのように生活すればよいかといったこれらの問題を解決して越えなければなりません。
 したがって、皆さんは天地の前や人間と万物の前に自分を立てるアベルの資格を備える必要があります。そのためには、誤った道を避け、真の道を進むことができるでしょう。これを心に留めておいてください。
 あなたが自分に微かに教えられるものがあるからといって、軽率に動いてはいけません。確かな真理による方向性がない場合、絶対に動いてはいけないということです。たとえ誰かが新しい事実をはっきりと教えてくれたとしても、それをそのまま信じてはならず、必ず自分よりもアベル的な人と相談しなければなりません。もしそれをあなたたち自身で考え混乱させると、天使界の霊的な堕落などの現象が起こることをあなたは確実に知るべきです。
 今日、終わりの日を迎えた皆さんは、アベルの立場から父の前に捧げられるべき一つの贈り物を持っている必要があります。もし皆さんが真のアベルとして立ち上がろうとするならば、唯一父だけが知り、自分だけが知ることができる贈り物、誰もが持つことのできない貴重な贈り物を持っていなければなりません。もし他の人に知られたら、その贈り物が真の穀物であっても、からくりになってしまうということです。
 ですから今日、皆さんは誰もが知りえない真の穀物の贈り物を準備し、父の前に心を込めて捧げなければなりません。そうすることで、皆さんは父の真の従順な子、またこの地のすべての民のアベルとして立ち上がることができ、新しい生命を再び実らせることができるでしょう。
 そして終わりの日を迎えた皆さんは、ただ父の従うだけで終わるのではなく、万民を導く指導者にならなければなりません。父の国が完成したとき、万民を導く指導者として喜び、真の牧者として喜ぶことができなければなりません。そのためには皆さんが誰の力も借りず、自分自身の隠れた真摯な贈り物を父の前に捧げる羊の群れにならなければなりません。
 盗みと強奪はどのような人ですか?自分のものではないものを自分のものとして利用する人です。今日でもそのような人々が多いようです。私たちの教えを利用して、自分たちのものでないものを自分たちのもののように使っているということです。天からもらったら天に返し、自分のものとしてもらったら自分のものとして使う人が正しい人です。天からもらったものを自分のものとして利用する強奪や盗みのような人になってはなりません。
 ですから、今皆さんはアベル的な存在として立つための条件を持たなければなりません。真の牧者の倉庫に入ることのできる真の実りを結ばなければなりません。真の牧者が喜び、楽しむことのできる真の実り、真の穀物にならなければならないということです。春の季節に咲く花はどのような花であっても、秋には実りを結ぶことです。しかし、その花が秋に豊かな実りを結ぶためには、成長する過程で適切な温度、湿度、栄養が必要です。
 今後も、皆さんが天の意志を受け継ぐアベル的存在として果実を結ぶためには、今日も明日も、10年後も20年後も30年後も、あるいは60年後も、死ぬその瞬間に至るまで、天に対する真心を尽くし、誠実に仕えることが求められます。また、死の床に就いたとしても、変わらぬ中で父に対する信仰の道理を尽くすべきです。
 しかしながら、信仰生活において信じられないことがあったり、あるいは無知で知らないことがあった場合、そのように不確かな事実に動揺して行動してしまうことは避けるべきです。もしも不確かな事実に動揺して行動してしまった場合、自然とサタンの立場に陥ります。そのようになると、最後の審判の座に立たざるを得なくなるでしょう。
 皆さんが進む道には必ず敵が現れます。信仰的な敵が現れ、経済的な敵が現れるでしょう。また、進んでいく中で、わたしたちの統一教会の家族同士が互いに敵として立ちはだかることもあるでしょう。そして、サタンは皆さんが一度でも誤りを犯すその瞬間を狙い、皆さんをカインの道へと追いやろうとします。そのような敵に立ち向かい、カインの立場に立たないためには、どのように生きるべきでしょうか?皆さんは、自分を犠牲にしてでも、全体のために生きなければなりません。
 皆さんの心は親の心として、体は主の体として、すべての人々のために生きるべきであり、だれよりも真心を尽くして父をたたえ、父の前に真っ直ぐな供物として立つべきです。こうして人間が堕落し失った「息子」「成長」「完成」の三冊の書を超えるために、天に対する忠誠の道理を尽くさなければなりません。皆さんがこれまで数十年間にわたって父の前に忠誠を尽くしたとしても、それだけではすべてが終わるわけではありません。
 今後、どのような忠誠を示そうとも、皆さんは自らの一代で三代以上の忠誠を尽くさなければなりません。そして、そのようになると、堕落した「息子」「成長」「完成」の三冊の書を一挙に還元できるでしょう。もしそのような皆さんになれないならば、最終的にはサタンの支配する領域にとどまることになり、父の前に真実なアベルとして立つことができません。
 したがって、今こそ皆さんは父に対して、サタンが知らないし、サタンが讒言することのできない忠誠と信仰の道理を尽くすべきです。皆さんの一途な忠誠が永遠の忠誠として残るために、皆さんはサタンの結果である邪道を見分け、天の真実な道に従い、最後の瞬間まで父の前に従順であり、真の供物として立つべきです。


<祈祷>
 愛するお父様、わたしたちはこれまで前しかあると思っていたが、後ろがあることを、今日をもって知りました。また、今日だけでなく明日もあり、上があると思っていたが、下もあることをこの時知りました。
 また、それが永遠の計画に基づいて結ばれているならば、右が左になり、左が右になる、つまり前後左右が入れ替わっても、父の前に立つことができることを知るようになりました。
 しかし、まだ人間の本質的な罪の根源を取り除くことができていないため、今日のこの時代は前後左右上下が混乱し、正しく交換されていないことも感じるようになりました。
 愛するお父様! 今や、父の永遠の計画を中心にして前後左右が完全に一つになる喜びの日が早くやってくるように許してください。
 今、私たちは自分自身を捨てようとする心はなく、自分を立てようとする心だけがあったので、いつかお父様の審判を免れることはできないことを悟らせてください。
 そうして私たちは、上が下を代わり、下が上を、右が左を、左が右を代わり、結局はすべてが不可分の関係を築き、お父様の前で誇れる姿として、お父様の栄光を歌う真の父の子どもになれるように、愛するお父様、切に求めます。
 お父様、今この時代は見えない邪道が私たちの前に横たわっていることを知っておりますので、今や私たちはその道を見極め、静かに天に向かって進みながら、勝利の日の意志を成し遂げ、お父様を喜ばせるお父様の子どもになれるように、許してください。
 これまで一つの目標を見据えてきたすべてが一つの目標で終わり、一つの目標で実を結ぶその日の父の喜びが早くこの地上に現れるように、また、お父様が喜ぶその心に共感し、私たちも喜ぶことができるように、愛するお父様、切に求めます。
 残されたこの時間も全て、ただお父様がお預かりになり、お取り計らいください。すべての言葉を、主の名によってお祈り申し上げました。アーメン。






文鮮明先生の言葉選集 3 - 13. 「神の力は一つの心と一つの意志が結ばれた場所に現れる」(1957年11月10日)
1957年11月10日(日)前本部教会
使徒行伝4:27-5:11


<祈祷>
 愛お父様、最後の戦いが私たちの目の前に迫り、イスラエルの民に告げ示され、示された父の御心をこの地上に成就させねばならないこの場所で、再び聖霊が現れなければならない時が迫っていることを認めます。
 今は前例のない歴史的犠牲を全地球の前に示さねばならない新たな時であり、お父様の無限の努力の手を共にしなければならないと感じております。お父様、お任せください。立ててください。呼んで命じられるときには、天の力と能力を授けてください。お父様が望まれる御心をこの地上に成就させ、余剰があるように、歴史をなさってください。お父様、切望し、願っております。
主を失い、120人の弟子がマカの屋根裏部屋で一つになり、叫び声を上げたその叫び声が天地を通して新たな再創造の歴史を引き起こしたことと同様に、今日、私たちも心と体が一つとなり、お父様の御心を代わりにマカの屋根裏部屋に集まった120人の弟子と同じ歴史を私たちの心と体に示してください。
 そして、天が震動し、地が揺れ、勝利的な天の栄光がこの地上に現れることを許してください。お父様、熱望し、望んでおります。そして、これまで多くの先達がただお父様の御心のために自らのすべてを捧げたことと同様に、私たちもお父様の御心の前に純粋な心で従う生ける犠牲として捧げられることを許してください。愛するお父様、切望し、望んでおります。
 この時間、私たちのすべてを父に委ねました。喜びの御心を示してください。約束された時と場所を延期しないでください。急いで起こし、6000年間にわたって結びついた憎しみの感情を解消してください。お父様、切に頼み、望んでいます。
 この場に集まった私たち一人ひとりが、新たな決意と決心を持ち、新たな誓いとしてお父様の子女の資格を自ら持ち、進んで行けるように許してください。
 切に願い、望み、すべての言葉を主の名においてお祈り致しました。アーメン。


<御言葉>
 今日のこの時間は、「神の力は一つの心と一つの意志が結ばれた場所に現れる」と題して、お話ししたいと思います。
 イエス様が復活された後40日間、この地におられ、慰めの聖霊を送り、約束され、昇天されましたが、イエス様を追っていた弟子たちは、イエス様が復活された栄光の姿を見て、神の約束の意味が成就されると思い喜んでいましたが、イエス様は彼らにいつ「再び来る」と明確な言葉を述べないまま昇天してしまったのです。
 では、当時の弟子たちの心境はどうだったでしょうか?愛する主イエスを十字架に掛けた不信のイスラエルの民とユダヤ教の一派に対する言いようのない敵意が湧き上がったでしょう。復活した主の御心、神の御心であれば自分の身が粉々になり、骨が溶けることすらあるとしても、最後の勝利のために復活した主を追いかける覚悟を持っていたことでしょう。
 そのような覚悟、すなわち主が去られた後、天に慕い求めていたその心、死ぬことがあっても、または困難な十字架の道が遮られているかもしれないが、この道を放棄してはならないという覚悟を持っていた姿で、弟子たちはこの人あの人に対して励まし合ったでしょう。そうしてこのような心境にあった弟子たちに、イエス様は現れて聖霊を送り、約束されました。
 その後、マカの屋根裏部屋に集まった120人の弟子は、天が背後で起こすことも想像もつかない体験をしてから、歴史的なすべての理の意味を受け止めることができ、またイエス様の30年間の人生の経験と3年間の公生涯の中で感じた内的な心情を共感する段階に入ったのです。
 そして彼らは、自分たちがイエス様を裏切った罪悪感に押しつぶされずにはいられず、この地に来られたイエス様が自分たちにそうではない天の唯一の子であったことを悟るようになりました。
 さらに彼らは、イエス様がこの地に万民の救い主として来られたことを確実に悟れば悟るほど、心の中で鉄壁の覚悟と決意を持ち、兄弟と兄弟、使徒と使徒、信徒と信徒が励まし合い、一つの心を中心にして一つの目標に向かって動くようになりました。
 彼らが追求する一つの意志のために、お互いが心を交換し、お互いに一体となって、120人の弟子が一人ひとり異なっているが、父の御心に従って進む方向とその動きは一つの姿として現れることです。
 このような現象が使徒たちの間で起こり、彼らは燃え盛る心を持ち、その後彼らはどこを向いて叫ぶようになったのでしょうか?彼らはイエス様を反対したイスラエルの民を向いて叫び始めました。そして、イエス様を信じない多くの人々に対して、新たな決心と覚悟を持って新たな誓いとして、自分たちが一体となっているその心を曲げる者がないことを示しました。
 自分たちが最初に天の前に固く誓い、覚悟した姿で現れたことはもちろんですが、いかなる迫害が激しい環境であっても確固たる中心を持って現れる時に、天は彼ら一人ひとりをイエスの代わりの存在として立て、使命を委ねられたことを皆さんは知るべきです。
 このような心を持った人は一人だけではありませんでした。そして、主を失った悲しみが大きければ大きいほど、その心には悔しさが入り混じり、神の御心が強く動くほど、その心には天を裏切った群衆に対する敵意が強く高まりました。彼らを一挙に砕き、天の御心を即時に成就させる覚悟で天に対して現れた時、ここには人間ではなく、神の力が現れたのです。
 ここで人間としては想像できない神の直接的な権能の行使が無知な民、不信心の民、反逆的な民に示されたことを私たちは知らなければなりません。
 こうして120人の弟子がマカの屋根裏部屋に集まり、聖霊を送って下さるというお約束を心に信じ、一つになって祈ることがなければ、今日のキリスト教は世界的な宗教にはならなかったでしょう。
 その時、地に伏して祈っていた120人の弟子には恐れる心がありませんでした。自らの名誉や自らの体面、そして家庭さえもすべて忘れ、ただ主の約束がいつか、どこかで果たされると信じ、120人の弟子が一つになって祈るとき、4000年間、天と地の間に立ちふさがっていた死の支配を打ち破り、聖霊が地上に臨んだのです。
 この出来事は偶然ではありませんでした。この出来事によって人間を再び創造できる新しい道が切り開かれたのですが、これが誰によって成し遂げられたのか?これは120人の弟子が一つの心、一つの熱意、一つの犠牲の精神で父の御心を望み求めた切実なその心によって成し遂げられたのです。こうして地において行われなかった聖霊の歴史がようやく新たな歴史的な出発をすることができたということをあなた方は知らなければなりません。
 120人の弟子は天に向かって切望する心に感動し、どんな敵にも対処しながらも死を覚悟して進んでいく心を持つようになりました。ここに天の力が再び働いたので、この力は誰も断つことができなかったのです。このような力が踏み台となって彼らが言葉通り天を動かせる力を行使したことをあなた方は知らなければなりません。
 では今日の神の御心を成就するためにはどうすればよいでしょうか?まず第一に、私たちは神と一体となる心を持たなければなりません。神と一体となる心の持ち主になった後、私たちはまた兄弟と一体となる心を持たなければなりません。これが最後に神の御心を成就するための最も重要な礎になるということをあなたがたは忘れてはなりません。
 この地上には千人いれば千通りの考えがありますが、神の御心は一つです。そのため、私たちは自分の意見や提示する条件を踏みにじり、全てのものを取り除き、父の御心、父の条件に従うべきです。私たちの考えや心が異なり、それぞれの立場や環境が異なっていても、父の御心と一致しなければ神の御心は達成されないということです。
 では、当時の使徒たちはどの程度まで一致していたでしょうか? 有無相通する程度まで一致していました。彼らは自分のものと他人のものの区別がありませんでした。彼らは神の御心を中心に置き、私はあなたであり、あなたは私であるという統一の心で、一つになりました。したがって、彼らは誰がどのような困難に直面しようとも、それを個人の問題として放置せず、自らの問題として捉えました。
 兄弟の苦難を自らの骨と肉、髄として感じるようになったとき、天も動きました。つまり、あなたも互いに自分のすべてを忘れ、ただ父の御心だけを求めるためにどんな犠牲が伴っても自らのすべてを捧げる覚悟、兄弟の苦難を自らの苦難として感じる心を持つ者にならなければなりません。
 今、地上に生きるあなた方にとって、物質が敵です。あなたが自分の財布に入っているお金を自分のものと考え、また自分だけがそのお金を使えると考え、私の意志のためにそのお金が使われるべきだと考える自己中心的な考えに捕らわれているならば、あなたはまだ父の御心を中心に置き、一つになった立場にありません。
 これに対する天の憐れみと哀れみは、あなたが想像する程度の悲しみや哀れみではないことを理解しなければなりません。あなたが想像できないほどの悲しみ、あなたが想像できないほどの緊急事態に置かれていることを、あなたが思いやり、理解する必要があります。
 さて、あなたは使徒たちを見習い、全信徒が従っていた初代教会の動きを取り入れなければなりません。そうしないと、天の祝福を受けることができない最後の聖者たちであり、天国の審判の行使を代行しなければならない最後の聖者たちであるあなたは、天の御心を自分のものに利用する人となったのではないか、自らを考えなければならない時が来たということを心に留めなければなりません。
 このような使徒たちの動き、あなたにとっても私にとっても、全体が一つの心となることを阻むものが現れるのは、サタンの働きです。それは、信じるすべてのものを一つにし、神の審判を代行するように、全てを信じ、一致できる環境を崩すためのサタンの働きです。
 このように一つに結ばれた使徒たちの前に、誰が現れたかというと、アナニヤとサッピラが現れました。彼らは使徒たちが行動し、信者たちが動くのをうらやましく思っていたのです。しかし、それは世俗を中心にした、うらやむ気持ちだったのです。今日の私たちにとっては、これを忘れてはならないことです。
 天の驚くべき恵みは、だれにでも栄光ある恵みとして示され、だれもがそれが自分に現れることを望むでしょう。ペテロが一言言うだけで、数千人が悔い改め、あるいは異言を話し、病人が癒されるなど、想像を絶する驚くべき出来事が起こるのを見て、アナニヤとサッピラが同じ立場にあることをうらやみながら、自分も同じ立場に立とうとする人間的な考えを持ち、一つの聖徒の姿として現れるとき、天は許せなかったのです。今日のあなた方は、特にこれを忘れてはならないでしょう。
 自分が持っていたものを売って、いくらかを隠しておき、一部だけを差し出し、その後すべてを差し出したかのような振る舞いをすると、天の意志を破壊しようとする、巧妙なサタンの策略であることを、あなた方は知らなければならないでしょう。
 自分の真心をそのまま示して、天の意志に吸収される聖徒ならば、差し出すことは問題ではありません。『私の心を全部差し出します。死んでも生きても、あなたの喜ばれるとおりに主がお使いになり、支配してください』と祈りながら、切望する心を持ち、すべてを忘れて差し出し、動く使徒たちの前にアナニヤとサッピラが自分の欲望を中心にし、自分の問題を心配し、立ち去ったことは、イエスの昇天直後、初代教会が新たな基盤を築かなければならない場で、天の道を遮る最大の条件となったのです。
 アナニヤの心情が聖霊を通して露呈されると、ペテロは、「天には許されないサタンがあなたの心に入り込んでいる。あなたにサタンが侵入したことは許されない」と言い、聖霊の言葉を代弁し、アナニヤを裁いたことを、この時に悟らなければなりません。
 それでは、今度は私たちはどのような心構えを持つべきでしょうか? 自分を中心に置いた条件を立て、天の意志に立ち向かおうとする者は、アナニヤやサッピラと同じ立場に置かれることになります。これは何を予告しているのでしょうか?これは、一つにまとまる群れの前に一体になれない要素を持つ者は、終末の審判の時、死を免れないことを予告しているのです。
 マルコの屋根裏部屋に集まった120人の弟子は、昇天した主イエスのためにすべてを捨て、自分の名誉や面目やすべての社会的状況を忘れ、あなたも私も一つで、こちらもあちらも一つで、約束された言葉を崇拝しながら、一つに結びついたとき、ここで天の新たな計画が聞かれました。
 終末の使命を担う私たちには、マルコの屋根裏部屋に集まった120人の弟子に起きたような歴史が起こるべきです。そして今、この時こそ、聖霊と聖者と父の歴史が、あなた方一人ひとりの身体で繰り広げられる時なのです。
 それでは、終末に父の前に立つ者は誰でしょうか? 主の名と父の名がその額に刻まれた者が、終末の父の前に立てる14万4千人の群れに入ることができると仰せになりました。
 今日の私たちは、聖霊の歴史を通じてキリストの認めを受け、キリストと聖霊の認めを受けた後に、誰の認めを受けるべきかと言えば、父の認めを受けるべきです。そして聖霊は母なる神であり、イエス様は父なる神と言われていましたので、これまで聖霊を受け取ったならば、今度は父なる神を受け取る時が来たということです。
 したがって、私たちが父なる神を受けるためには、どうすればよいでしょうか? 父と私とが永遠に一つになる資格を得なければなりません。では、一つになるためにはどれほど切望すればよいのでしょうか? イエス様が復活して40日間を過ごされ、約束を残して昇天された後、120人の弟子が一つになり、切望の心で待ち望んでいたその以上の切望の心で、「父の神よ、早く臨まれますように!」と切望しなければなりません。その時が今私たちの前に来たのです。
 では、この時にあなた方はどうすればよいでしょうか? あなた方は自分のものがないという事実を知るべきです。私の体も私の心も私のものではないということです。自分のものだという人は、まだサタンの側にいるのです。あなた方の分け前とは、あなた方の心の中で感じる使命だと考えてください。私たちはこのような心を持たなければなりません。
 私が私のものでなければ、私は誰のものになるべきでしょうか? 私は父のものにならなければなりません。父のものになるためには、父の御心を中心にし、一つの心とならなければなりません。一つの心と一つの意志がなければ、神の御心は成就されません。
 120人の弟子がマルコの屋根裏部屋で一つになったように、終末において120人の弟子以上の人々が一つの心で結びつけることができるでしょうか? これが問題ですが、そのような道を行く私たちにとって、誰が敵でしょうか? 一つに結びつくことを断ち切り、破壊する条件を提示しようとする集団があるなら、そのような集団があなた方の敵です。
 今日、私たちが戦わなければならないのは、世界のサタンではなく、聖徒たちが動く様子や、天にいる使徒たちを中心にし、信徒たちが動く様子と同じ様相を持ち、自分の心に誤った心を抱いて動くこのような群れが、今日の私たちの敵であること、あなたたちの中にそのような心を持つ者がいるならば、聖徒たちの前に正直に打ち明けなければならないことです。打ち明けずに天の前にこれを隠していって、重苦しい条件に陥りながら、天の前に進もうとするならば、その人の終末の運命は審判台を免れることはできません。
 ですから、今日のあなたたちは心のかばんを解いて置かなければなりません。そうしないでアナニアやサッピラのようなそのような心に捕われて、心身で自分を囲み、自分のものを満たして置き、天の全体の価値を考えず、神と一つにならず、一つの意志を達成しようとするこのような心を忘れ置かれて、自分のものとして主張すれば、終末には天の審判を免れることはできません。
 では、今あなたたちは何を知らなければならないでしょうか? 自分が二つの心を持っている矛盾した存在であることを知らなければなりません。そしてあなたたちと異なる考えを持っている兄弟がいることを知らなければなりません。そうであっても、あなたたちはあなたたちと異なる考えを持つ兄弟を反対せず、その兄弟と一つになろうとしなければなりません。これが父の御心です。
 あなた自身が真実な命を持つ存在として、天の義の歴史を経験した十人と一つになれば、十人の物質を持つようになり、百人と一つになれば、百人の物質を持つようになるのです。
 堕落とは何か? 神と私たちの心が一つにならなかったことです。サタンは何か? 天と私たちとの心を引き裂いたものがサタンです。あなたがたが今日この教会を中心にして、父の御心を求め、原理の言葉を学びながらいます。この原理の言葉を中心にして生活することが神の御心であるため、あなたがたがその御心を中心にして生活しない限り、アナニアやサッピラのようなそのような立場を免れることはできません。
 今、そのように非常に恐れ多い時であるため、あなたがたが今条件に陥れば、脱出する術がないことを知らなければなりません。誰一人として自分を守るために弁明してくれる時が来ていることを知らなければなりません。昔も今も無知な人々は、天の方向と衝突した後に気付きます。しかし、その時はもう遅いのです。
 あなたがたに父の御心を案じる心がありますか? そうであれば、兄弟たちと一つになりなさい。父の御心を求めて努力する心がありますか? 自分が一つになれる生命の源となりなさい。一つになれないすべての条件を補うし、自分が居る所で一つになれる力を示す人が、お父様の子・娘であるのです。
 父の御心のために最後の戦い場に立ち、父の御心を達成しようとする責任感を感じる皆さんなら、自分のすべてを忘れて統一しなければなりません。一心一意になって、一つの姿を持たなければなりません。ここに裏切り者がいるとしても、ペテロがため息をついたように、皆さん自身がまずこの心を持ち、それぞれがサタンのすべての条件を排除しなければなりません。そうしないと、最初は神の御心を強く支持していても、知らぬ間にサタンの支配下に落ちてしまうことになります。これを忘れてはいけません。
 今、一心一意になれない場合、むしろ原理を知らずに神の御心を知らなかった方がましなことでしょう。もしアナニアやサッピラが使徒たちの集まりを知らなければ、裁きを受けなかったでしょう。こうして、壮大な歴史的瞬間に皆さんが立っているのです。
 今、全てを忘れ、一心一意になり、そのために熱中し、全力を注ぎ、忠誠を尽くし、最後の父の手にしっかりとしがみつかなければなりません。
 すると、皆さんは勝利の子となるでしょう。最後に聖霊の手を経て、イエスの手を経て、父の手を握った後、再びサタンは奪うことはできません。このような瞬間に直面している今日の皆さんは、「アーメン」とおっしゃられた主の約束を心に留め、今日も明日も、使徒たちが切望したように熱心な心で父の手を握り、父の命令に従って行動し、善と悪を見分ける資格者とならなければなりません。そうしなければ、聖霊の裁きもイエスの裁きもなく、父が行う裁きの大いなる山を越えることはできません。
 父の裁きの時がまだ来ていないため、イエスや聖霊の時には罪を犯しても許されましたが、父の裁きの時には許しがないということです。私たちはこの意味を理解し、私たちの心と意志が一致しない人がいれば、父も運行できないという原理の言葉を学びました。そして、どの程度統一されているかに応じて、神の御心がそこに比例して現れることを理解しなければなりません。
 今、皆さんが父の聖霊を受けて、父と同じ心で生活する人にならなければならない時です。そうなると、皆さん自身に父が直接教えてくださることがたくさんあるでしょう。父が自ら現れて介入し、皆さんの進む道を教え、サタンと戦う方法も教えてくれるでしょう。
 したがって、皆さんは互いに父なる神の聖性を受け取り、父なる神と同じ心を持ち、父なる神の御旨を受け入れ、父が私を代わりにし、私もまた父を代わりと感じると同時に、一体となることができなければなりません。このような形が広がるにつれて、次第に父なる神の御旨が達成されることになります。何度も祈るよりも、皆さんが一体となろうとする努力を、他の誰よりもたくさん行い、深くその価値を理解し、御旨のために闘う心を持つことが重要です。そうでなければ、裁判台に立たされることになるでしょう。
 ですから、この時点では、皆さん個々人が心と体を合わせて父なる神の聖性を受け入れ、父と一体となる生活をしなければ、父の御旨を知ることもなく、父の御旨を知らない限り、父の心も知らないということです。父の心を知らない限り、父の御旨を中心にして一体となることはできないのです。
 皆さん自身がこれまでこの教会に通ってきたからこそ、今知るべきことは、父の御旨の前に皆が一心一意になることと、父の御旨が私の御旨であり、父の心が私の心であるべきだということ、このようにならなければ神の権威の行使が起こらないことを知る必要があります。
 イエスと聖霊も父の御旨を中心にし、父の心を中心にし、一体となった時に勝利的な復活の歴史がありました。同様に、皆さんも父の熱望が皆さんの心と一体となり、神の御旨が皆さんの御旨と一致して、互いにそれを達成しようとする何かの力が一つの方向に向かうことを感じるようになった時、ここで皆さんが考えられない神の権威の行使が現れるのです。
 したがって、二人が一緒に祈る中で神が動きます。したがって、皆さんが意志を見据える中で、三位一体の期待を生み出してくれました。皆さんが三位一体の期待を中心に据え、どの程度まで一心一意になれるか、これが問題です。
 密議を中心にし、どの程度一心一意になったか、これが問題です。もし過去にこのように一心一意になる使命を持っていたのにもかかわらず、一心になれなかった立場に立っていた人は特に、自分がアナニヤやサッピラと同じ立場に立っていたということを忘れてはいけません。すべてを忘れて今、最後の戦いを展開するためには、結束した力と結束した心と一つの御旨を私たちは全体的に実現しなければなりません。今日、私たちが標語を立てるなら、『一心になろう、一つの御旨になろう』です。
 一心一意となるためには、皆さんは物質や社会的な名誉、社会的な地位や権力など、すべてを忘れることができる人間でなければなりません。これが阻まれているのであれば、これを堂々と打ち破ることができる人間でなければなりません。昔、使徒たちがマルコの屋根裏部屋に現れた聖霊の歴史と同じように、無知な敵を打ち破った英雄を生み出すことができるでしょう。皆さんもそのような心を持って、「一つの心とならせ、一つの意志とならせ、一つの行動が現れるようにしてください。」と祈るべきです。これが今私たちが叫ばなければならない標語です。これを阻止し、これを実現できないような人がいるのであれば、その人は直ちに天の敵であると言えます。
 皆さんは今日、大きな目標が達成されることを望みますか?それなら、一心にならなければなりません。大きな栄光が現れることを望みますか?皆さん一人一人が一体とならなければなりません。心が一致する場所にはすべてが通じます。無限に忍耐することもできます。
 ですから、今日は早急に一心にならなければなりません。私の心に一致しない要素がありますか?これが敵であり、これが大悪魔であることを知り、これがあなたを地獄に引きずり込むことを知らなければなりません。サタンがあなたを取り憑くことを知らなければなりません。それが条件となり、あなたが裁判台に立たされることになるのです。
 そのような条件をあなたの生活から取り除き、環境から整理していく覚悟を持ち、あなたの心が一つになり、意志が一つになり、父の心と父の御旨の代理としてサタンを従わせるまで、私たちは団結しなければなりません。今日この時だけではありません。10年後もサタンのものが残っていると言えば、父の御旨が達成されるまで10年間一人と団結し、10年間千人と団結しなければなりません。私たちは生涯をささげてサタンと戦い、結局サタンを従わせて、私たちが生きている間に父の栄光を示さなければなりません。これを皆さんは忘れてはなりません。


<祈祷>
 お父様の心とアダムの心が一つになり、お父様の御旨とアダムの御旨が一つになったならば、今日私たちが二つの世界が互いに戦う悲しい歴史がなかったと知っています。
 今日、私たちの心にはお父様の悲しい心と哀しい心があります。誠実な心はこれを認めていますが、自己中心的な堕落だけがこれを否定しています。常にこのような真心と私心の戦いに直面している私たちであることを知っていますから、今日私たちは自分の心を整え、お父様の心と一体になるように許してください。
 自分の意志を整え、神の意志と一体にならなければならない戦いの時期が近づいていますので、お父様、もし子供の中にお父様と一体になれない心があれば容赦してください。自分のすべてを忘れて、ただお父様の心とお父様の意志と一体になるために努力する私たちが、許されるようにしてください。
 お父様の心と一つになったその心は、何千万もの金を払っても変えることのできない心だと知っております。その一つを見つけるために、あらゆるものを犠牲にしてでも戦い抜くことができ、守り抜くことができるように、私たちを導いてください。愛するお父様、切望し、願っています。
 お父様、今こそ極めて困難な時であり、また、サタンが私たちの一つになろうとする心を阻止しているため、あなたの御心を遂げるために、他者のために自らを犠牲にする新たな組織を築くことができるように許してくださいと切望し、願っています。
 あなたの御心に従って戦うことができ、あなたの栄光を広げるための使命を果たすことができるように、許してくださいと切望し、願っています。
 この日に集まった私たちの心と意志が、お父様の前に一つの姿として、サタンを屈服させる条件となるように許してくださいと切望し、願っています。全てを主の御名によって、お祈りいたします。アーメン。


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人生訓16-真の愛-90

2024年03月03日 15時53分14秒 | 学習

 皆さんの血族を大切にしなければなりません。お父さん、お母さんを大切にしなければならなりません。おじいさん、おばあさんは天国の王権を代表した、うちの主人です。しかし今は、年を取ったと疎まれる者になったでしょう。そのようにしておいて、何が世代の差ですか。これは誰がつくりましたか。サタンがつくっておいたのです。世代差がどこにありますか。愛に世代差がありますか。千年前の愛する方法と、千年後の愛する方法と違いますか。方法も同じで、そのようにするのも同じです。内容が違ったのです。堕落しなければ、愛の内容は公式になるので、億万年が過ぎても変わらないのです。
            *
 千万回の天地開闢があったとしても、おじいさん、おばあさん、お母さん、お父さん、息子、娘の三代が一つになり、鉄城(注:堅固に取り囲んだもののたとえ)のようにくるくる巻き固め、そこに神様を核として迎えれば、どこでも天国を実現できる一つの種になるのです。これは神様の愛の種です。生命の種として血統の根本だと言えるのです。これを探し出さなければなりません。そうしなければ地上天国、平和の天国、幸福と自由の世界という、すべての願いは成り立ちません。
            *
 天国とは何でしょうか。極楽あるいは天国に行くと言っても、自分一人で行くところではありません。自分の父母と兄弟すべてが、共に行かなければならないところが天国です。
            *
 第五章 愛と霊界
 一 霊界の空気は愛、愛が生命要素である
 私たちは神様の愛によって生まれ、愛によって生きて、息子、娘を生んで、愛の目的地に到達し、永遠に神様と共に生きるために神様の元に帰っていくのです。すなわち私たちの一生は愛によって始まり、愛によって成熟し、愛の実として収穫されるのです。人が死ぬということは、愛の実を刈り入れることです。

            P91

 死とは、人間が肉身生活を終えたのちに第二の出生をすることです。第二の出生をするところ、死んでから行く世界がすなわち霊界です。その霊界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表する真の愛を供給してもらうのです。霊界は愛を呼吸して愛を中心として生きる世界です。それで完全な真の愛の人格を成すことができなければ、行ったり来たりする道が制限され、四方に通じることができません。ドアを通っても、一つのドアしか通れないのと同じです。春夏秋冬いつでもどこでも、合わせて生きることのできる資格をもつためには、地上生活において完全な愛の人格を具備しなければなりません。
            *
 神様の愛の中に生まれることは死ぬことですが、人間世界では「ああ、死んでしまう」と大騒ぎになります。そうすると神様はそれを見て大笑いされるでしょうか。人間の世界で泣きわめく姿を見て神様は悲しまれるでしょうか、喜ばれるでしょうか。制限された愛の圏から無制限の愛の圏内に突入できる喜びを迎えることのできる瞬間が、第二の出生である死の道を通る、その瞬間ではないでしょうか。それでその道は、昇華の道です。
            *
 死を屈服させなければなりません。第二の生を促進させる変化の過程が死です。それゆえに、死は悲しいものではありません。新しい世界に飛躍するものであり、昇華なのです。
            *
 この世では死が生命の終わりを意味しますが、死は他の世界に新しく生まれることを意味します。それで死のゆえに憂欝になったり、悲しんだり挫折してはいけません。代わりに与えられた使命のために一生を生きて、霊的な勝利の中でもう一度生まれることを喜ばなければなりません。私たちが地上であまりにも悲しみに沈んだり悲痛に思うと、天上に上った人を地の下に引っ張るようになるのです。赤ん坊が第一の母の胎内から生まれ出たように、第二の宇宙的な母の胎内からまた別の世界に誕生する昇華式は、実際に男女が出会って結婚する、その式に比べることができます。悲しみの瞬間では絶対にありません。それは昆虫が堅い皮を破り繭から出て、新しい形態に、新しい存在として、新しい本質になるのと同じです。
            *
 人間が死ななければならない理由は肉身によって制限された愛しかすることができないからです。無限な神様の真の愛の対象的実権をもって現そうとする時には制限された肉身のみをもってしては駄目なのです。ですから無形の霊に和するほかありません。さらに真の愛の理想を全天地と共に同一化するためです。ですから死は苦痛の道ではなくて宇宙的真の愛を所有することのできる幸福の門を開門する時間だというのです。

            P92

 私たちが父母の愛を受けて、夫婦の愛を分かち合って子女を愛したので、私の一生にわたって蒔かれた神様のすべての愛を刈り入れて、自分の国に行くのです。そして私たちが完全に愛によって一つになれば、神様と似るようになります。夫婦が合わさって三段階の愛を完全に成して霊界に行くと、永遠の主体であられる神様の前に、永遠に相対的な神様になるのです。真の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになるのです。神様で始まり、神様で終わりを結ぶのです。
            *
 人間は母親のおなかの中にいてから生まれ、一定期間を地上で生きて、死を迎えるようになっています。そうして大部分の人間は、年を取れば取るほど死に対する恐れを感じるようになります。人間が年を取るほど死に対する恐怖や不安を感じるのは、死後の世界を信じないからです。
            *
 霊界は愛の成分によって覆われているところです。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で囲まれているところです。人間は地上で空気を吸いガスを吐き出しますが、霊界は愛を吸って生きているところです。霊界で授受する愛は、真の愛だというのです。
            *
 私たち人間の一生は腹中時代十カ月、肉身時代百年、そして霊魂時代千年、万年を永遠に生きるのです。赤ん坊は生まれてすぐに泣くと同時に、鼻の穴で息をする第二の世界、すなわち空気の世界につながるのです。腹中から空気の世界につながる時には、腹中の世界で生きていたへその緒と水袋をみんな破壊して出てこなければなりません。それら死(破壊)と同時に、地球星という母親から生まれたのです。生まれると口で食べ、鼻で息をします。ところで地上で食べる食べ物は肉身が生きるのに必要な栄養分であり本質的生命要素ではありません。本質的生命要素はすなわち愛です。それで、この世で愛という空気を吸わなければなりません。母親、父親から愛の空気を吸わなければならないのです。
            *
 霊界における愛の宮殿は真の父母から始まります。霊界に宮殿があるとしても、真の父母が行って、「ここを宮殿にする」と宣布して初めて、そこを中心として全霊界が位置を決めるのです。そのような責任が残っているので、霊界でも真の父母を絶対に必要としているのです。

            P93

 霊界の裏通りまでも通いながら調べてみると、天地の道理は簡単なものでした。二人が絶対的な力で合わさって真空状態になったところに神様が入ってきて、骨髄のような芯になるのです。
ここに男性の愛と女性の愛の二つのかけらがぴったりとくっつくのです。これが宇宙の核です。愛の理想的実体が合わさって愛の軸になるのです。
            *
 地上の生活と霊界の生活は別々ではありません。地上の生活も重要で霊界の生活も重要です。霊界の生活は地上生活から連結されているのです。両方とも重要ですが、今日この地で生きている人は地上生活が重要であると思っています。問題はこれです。現在の生活が永世を保障する基盤であることを知らない人が多いのですが、それは本当に不幸な人たちです。
            *
 もしアダムとエバが完成して霊界に行くとアダムとエバは神様の体になり、神様はアダムとエバの心になります。ですから霊界に行っても神様は見えません。完成した人を実体世界の体と心のような一つの結果として成して置こうというのが、神様がアダムとエバを創造した目的です。
            *
 地上世界と霊界は、互いに向かい合って動きます。地上世界が上がると霊界も上がり、地上世界が下がると霊界も下がります。一方が回ればもう一方も共に回ります。それで現世でそれを実感して、永世にプラスさせる生活をしなければなりません。永世と現世は分けられていないのです。
            *
 私たちは結局どこに行かなければならないのでしょうか。霊界とは何なのでしょうか。死後の世界だと大抵は言いますが、死後の世界ではありません。なぜ死後の世界ではないのでしょうか。
愛と関係のある世界だからです。愛と関係のある世界なので、死後の世界ではありません。真の愛を中心として出発したものなので、私が真の愛の真理に立つようになる時は今ここが霊界なのです。ですから愛が偉大だというのです。
            *
 神様は愛に酔って億千万世を生きるように人間を造りました。ですから人が年を取るのは怨讐ではありません。人は愛から始まって、愛をもって生活して、愛の実を刈り取ります。死ぬことは愛の実を刈り取ることです。私たちは父母の愛を受け、子女の愛を受け、夫婦の愛をもって父母として子女を愛して生き、神様の愛、すなわち内的な愛の世界に蒔いたすべてのものを一生を通して実を結ばせ、これを刈り取ってあの世に行くのです。

            P94

 この地上で肉身の皮はだんだんと年を取りますが、夫婦生活をして愛すれば愛するほど霊人体はもっと若くなります。それはどういうことでしょうか。人間が長生きすればするほど、内的な人間である霊人体は最高の厳粛な美男、美女になるというのです。
            *
 私の生涯に何をするのでしょうか。愛の墓を残していこうというのです。愛の墓の中で生きられれば恨みはないというのです。人生というものは永遠において成功するものです。そのように皆さんが生きて死ぬ時には神様が祝福して下さるでしょうし、霊界では神様が息子、娘を連れて歓迎するために出てこられるはずです。
            *
 霊界では、神様の愛がなければ食べられません。食べる権利がないというのです。地獄は、見ながらも食べられず、知っていながらも行うことのできないところです。ですから神様の愛を中心として地上で霊肉が一つになって天国生活をした人以外には、永遠の理想的世界をもつことはできないのであり、天国を所有できないということを知らなければなりません。
            *
 あの世で必要なことは、世界よりも、自分よりも、自分の妻や夫よりも、自分の息子や娘よりも、神様をもっと愛したということです。愛の圏内の最大の人格を構成した人は、その世界では神様のような能力行使が可能です。
            *
 あの世は愛の空気でできています。愛によってすべてのものが生まれ、愛によって生き、愛によって「ため」に生きることのできる愛の道理によって満たされてこそ、今まで歴史時代に願われた神様の希望の実体を完成したという立場に立つことができ、天国のどこに行っても歓迎されるのです。皆さんの家庭が、天国に向かう修練所です。家庭で修練を受けたものを四方に拡大させて、「ため」に生きることのできる愛の圏をもって生きる人は天国に直行するのです。
            *
 霊界という世界は無限に膨大な世界ですが、何百万里の距離も瞬時に愛を中心として行ったり来たりできる世界です。愛は最大の速さをもっています。

            P95

 霊界で神様が見る時、皆さんの心の中で愛の鐘の音が鳴るようになると明かりがだんだんと大きくなります。この光は神様の目にはダイヤモンドの光よりももっと美しく見えます。またその光は味のある、見れば見るほどいいものです。ですから神様は愛だというのです。
            *
 霊界の空気は愛です。愛が生命要素になっています。その世界は鼻で息をするだけでなく頭のてっぺんでも息をし、細胞全体が息をします。ですから完全な霊界生活をしようとするならば、地上生活で完全な愛の人格を具備しなければならないのです。
            *
 霊界に行ってみると父母、夫婦、兄弟姉妹、子女という、家庭生活で深い愛の経験をした人は多くの自由を得ることができ、その人はどこへでも、何の制限もなくどの方向にも行くことができます。その反対に愛の経験のない人は心が狭く、霊界でも自分一人で孤立していて自由がありません。
            *
 霊界では神様の愛がすなわち法です。
            *
 霊界とは、永遠の要素を望む永遠のところです。ですから愛を体験した霊人体は間違いなく、自動的に磁石に引っ張られてその世界に行くようになります。霊界はどのようなところでしょうか。すべてが愛で充満した、愛で詰まった調和の世界です。今日の人間は誰でも愛の関係を結ぼうとします。これは霊界の拍子に合わせるためです。

            *

 愛の力で動かない存在は無いし、愛の力の対象にならない存在も無いので、愛の言葉で聞いて答えないものもありません。愛はすべてのことを可能にすることができ、起こすこともできます。再現させることのできる能力があります。したがって霊界は、直感的な愛の心をもってすべてのことを可能にすることのできる自由自在の世界だというのです。
            *
 霊界を結束しなければならないのですが、霊界を収拾することのできない人は天下を統一できません。天運の根が天なのですが、天を収拾できない人がどのように世界を統一するのでしょうか。ですから地上を統一する前に、霊界を統一しなければなりません。

            P96

 皆さんは全部先祖の顔に代わって生まれた歴史的な復活体です。その歴史がどのくらいになるでしょうか。何十万年にもなるというのです。そのように長い歴史過程は、結局は私自分一人をつくるために苦労したというのです。金氏ならば金氏という自分一人を誕生させるために、数多くの先祖たちが来ては去っていきました。ですから私たちは歴史的な結実体です。
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 おじいさん、おばあさんが亡くなったなら、お墓参りをしなければなりません。神様がお墓に埋められたと言って、お墓参りをしなければなりません。
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 今まで霊界に行った霊人たちは全部別れています。霊界では横的には通じません。縦的にはこの程度に通じます。
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 あの世に行けば殺人を犯した人、殺された人、様々な人が一箇所に集まっているので、そこでは包丁ざたが起こり、復讐しようとする出来事も起こります。ですから数多くの塀に囲まれているところです。ですから悪なる霊が怨讐の子供を捜し回って事故を起こさせて連れていくような、そういうことが起こるのです。これを全部解かなければなりません。解くためにはまず地上世界で解かなければなりません。解くためにはもっといいものをあげなければなりません。死ぬよりももっといいもの、怨讐関係になったものよりももっといいものをあげなければ解けないのです。
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 人はどこに行くのでしょうか。霊界に向かって行くのです。霊界は海と同じです。どうせ行かなければなりません。海にも流れがあるように、そこにはこの上ない調和の取れた変化があるのです。海では主流の流れを中心として、淡水にはない調和の存在があります。海には数多くの魚族があるように、そこには数多くの新しい天地家庭があります。あの世に行っても同じなのです。
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 二 愛の人格体は地上生活で具備しなければならない
 地上にいる時の生活がどんなに重要でしょうか。地上生活は一度しかありません。瞬間ですが一度しかありません。地上生活を永生に比喩すると、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。この期間に肉身生活を越えて霊界のために準備しなければならないのです。常にそのような思想をもって、中心に立って一体をコントロールして征服できなければなりません。そうでなければ完成を成すことができません。それを知らなければなりません。

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 もし生涯の中で三分の二以上が罪の生活をしたならば、その三分の二の生活をすべて切り捨てることができるでしょうか。できません。切り捨てることができないのです。これは必ずついて回るのです。皆さんの心をフィルムに撮って、その写真を自分が見ると思ってください。
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完成は地上でするのであって、霊界でするのではありません。地上でこそ真の愛を中心として可能なのです。霊界ではありません。今日、信仰生活をしている人は蕩減法を知りません。無責任な立場で天国に行くと思っている人は多いけれど、責任をもって蕩減し歴史的な罪を清算してから天国に行こうとする人はいないというのです。ですから私たちは肉身をもっている地上生活で責任を果たし、歴史的なすべてのことを清算した条件を立ててから行かなければなりません。
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霊界に行った人は蕩減できないので、もう一度来て蕩減しなければなりません。今まで来て去っていった歴史時代のすべての霊人たちは蕩減復帰をすることができなかったので、全部この法に引っ掛かって、霊界に行ってからもう一度来て蕩減条件を立てなければならない運命にあります。地上に住んでいる人が霊界の人より一つ有利なこととは何でしょうか。直接蕩減条件を立てることができる肉身をもっているということです。
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 皆さんが天国に行く人か、地獄に行く人か、確実に知らなければなりません。レバレンド・ムーンは霊界をよく知っている人です。いろいろな人が生きては去っていきます。死を避けることのできる人は一人もいません。死は避けることができないというのです。ここで生きて去っていくのですが、自分のために生きた人は、この世界に行ってぐるっと回って地獄に行くのであり、他のために生きた人はぐるっと回って天国に行くのです。
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 なぜ結婚しなければならないのでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体験するために結婚するのです。それでは、それがなぜ必要でしょうか。愛の空気が充満するところが霊界です。霊界の拍子に合わせる訓練をするためには、家庭をもたなければならないことを知らなければなりません。これを感じられずに行く人は、あの世に行って拍子を合わせることができません。このような人は愛の空気をかぐことのできる鼻のない人と同じなのです。

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 父子間の愛は縦的な関係であり、夫婦間の愛は横的な関係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り囲む関係です。この三つの関係はすべて違います。それで地上でこの三つの違った方法によって深い愛の経験をもってこそ、霊界に行って制限なく縦的、横的、円として旋回できるのです。例を挙げると、父母が早く亡くなったことによって父母の愛を味わうことのできなかった人は、とても重要な愛の経験ができなかったので多少悲劇的な人であり、夫婦関係を経験できなかった人は、人生の重要な部分が不足しているので霊界ではとてもみすぼらしい人です。また兄弟姉妹がいない人はすべての分野が欠けているので、完全な人生を生きることができずに霊界で寂しい立場に立つのです。
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 地上で子女を立派に育てて残していかなければなりません。将来その子女すべてが霊界に行きます。霊界に行って天国の国民になるのです。自分が天国の国民として何人捧げたかという時、地上ではつらいことだったけれども、永遠の世界ではそれが高貴な光栄の道になるのです。あの世に行くと、霊界に行ったすべての次元の高い人たちのことが、地上のことと同じなのです。地上とはどのようなところでしょうか。天国の国民を生産する生産工場です。分かりますか。広大無変の天国です。無限大です。あまりにも広いのです。人は数億年の間来ては去っていきましたが、どこにいるのか分かりません。そのように広いのです。
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 一人が百人ずつ子供を生んでも天国は広いので、過人生産ということがありません。あの世は、いくらでも収容できる世界です。産児制限しなければならないでしょうか、してはいけないでしょうか。あの世に行く時、天国の民をどのくらい引き連れていくかということが問題になります。真の天国の息子、娘をたくさん引き連れてくる時、それが自分の権域になり、天上世界で表彰を受けることのできる等級の等差を設定できる資料になるということを知らなければなりません。
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 これから霊界に行って自分の所有権が何かというと、天国の民をどれくらい連れて入っていくかということです。それは自分の財産です。永遠の財産なのです。道端の乞食や体の不自由な人を悪く言ってはいけません。皆さんの霊人体がその姿ではないかと思いなさい。霊界には繁殖がありません。神様は縦的な父母の立場におられ、軸は一つなので一点しかないのです。

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