それでは、このイエス様、今日私達が信じているイエス様を祀るためには、どうすればよいでしょうか。いつもイエス様の責任を消す者になってはいけません。
それでは、私達はどんな人になるべきですか? イエス様は4千年の歴史を担当し、当代の人類を担当し、亡くなってから2千年の間人類を担当してきました。私達は今イエス様の責任を消す様な生活をしてはいけません 。
そして私達は自らのお父様に、「2千年間責任を持ってきたイエス・キリストの難しさを知っています。」と言いながら、今日も私達のために、世界のために責任を負っておられるイエス様を第一に考える事と知っておくべきです。
これらの事が誰のためだったのでしょうか!
間違いなく私達のためです。ですから、私達はこれを踏まえてイエス様の前に頭を垂れることを知っている人にならなければなりません 。主よ!と呼びながらも骨が溶けるような心情、肉が溶けるような心情を感じてみなければなりません。
神様は初めて4千年のみ旨に責任を負うイエス・キリストを抱いて、「あなただけが私がしなければならない責任を負っているのです」と言えたということです。それで、全てを信じて全てを任せることができました。全ての責任の内容を覆すことができる場で、神様はイエス様を扱われたのです。
1
それと同じ様に、神様の前に立てられたイエス様と同様に、私達も全体の責任を余儀なくされると知っておくべきです。責任あるそのことが難しいなら「難しいそのことを私に任せてください。」と言える心情で、神様とイエス様の前に現れ、「念願されるその心情を私を通して示してください。私をご覧下さい。」というべきことを知らなければなりません。
こういう人達が終わりに残る群れだということです。このような群れが出ていないとしたら、神の一人子イエス・キリストが2千年にわたって人類のために責任を負ってきたその目的をどこで成し遂げるのでしょうか。神様の一人子として命をかけて責任の路程を歩んだイエス様が責任を負うことを知っている人々を見つけられないならば…。
ですから、私達は『イエス・キリストが「十字架上の歴史に対する責任と現実に対する責任と未来に対する責任を負う」と神の前に誓った責任を私達に任せてください。』と祈るべき時が来たということです。
私達はこの日まで生きて、天の前に責任を返すことが多かったのです。しかし、今は4千年にわたって残念な思いを持って来られた神様の心情に代わって、地上で責任の王として歴史的なすべての責任を果たしてきたイエス・キリストの代わりにその責任を負って戦う時です。
「サタンと数千万人の人間が歓迎しなくても、私が代わりに責任を持って戦うだろう。」と祈る人が出なければならないということです。こういう人々が出てこそ、イエス様が安息の園で休むことができるのです。
2
今日の終わり、この時に聞こえてくるのは、私の命のアピールを聞く者が誰だと? という言葉です。神の命を受け継いだイエス・キリストの命の懇願を聞く人は誰ですか。天はそんな人を探しているということです。
これまでイエス様は万民のために神様の前で祈ってきました。ところが、イエス様が休んでおらず、まだ祈っておられるのは、イエス様に対する何かが間違っているからです。また、イエス様が父の前に立てない場でおられるからではありません。これら全ては私達の故です。ですから、2千年間活動されたイエス様のために、皆さんは何よりも生命を断っても命の責任を果たそうとしなければなりません。
イエス様が十字架上から帰ることによって、命の責任がこの地上に残っているというのです。この残された命の責任を果たさなければならない時が再臨時代だということです。この生命の責任を持てる人が現れることで再臨時代は始まるのです。彼は歴史的な生命の責任と未来の命の責任を持てる人なので、皆さんは最後の戦いで彼と共に戦わなければなりません。
神様は愛されるイエス様を立てて、信仰のイエス様を通して、あるいは真理のイエス様を通して人間達を愛することを願っておられます。私達を愛することを願っています。
今日、私達は心で信仰のイエスを模倣しようとするとき、「はい。そうだ」と言えるはずです。勝利されたイエス様を模倣しようとする時、「そうだ。」責任を持っているイエス様を模倣しようとするとき、「はい。そうだ。」と言えるはずです。皆さんがこんな人になれないとしたら、これまでどれだけの時を、どんな時間も休めなかったイエス・キリストがどうして休むことができますか。
3
ですから、神様が自慢され立てられたこの条件を皆さんが代わりに引き受けなければなりません。そして霊界に行ったイエス様の誇りの条件をこの地上で成し遂げる皆さんにならなければなりません。神様が自慢できる皆様にならなければなりません。
まずは信じられない世界で信じることを誇らなければなりません。そしてサタンとの戦いで勝利したことを誇らなければなりません。責任のないこのような世界で責任を負うことを誇らなければなりません。
ですから、神様の誇りが霊界のイエス・キリストを通して地上の私達に現わされ、地上の私達を通して万物にもその誇りが及ばなければなりません。そうしてこそ、神様が創造の理念、人間を万物の主人公として立て、万物の前に誇ろうとしたという意味がなされるのです。そうすれば、初めて人間と万物が誇る神様に感謝の礼拝をささげることができるのです。このような全体的な責任が私達にあるということです。
今日、私達はあまりにも不便です。私達が持っている信仰も見えません。ですから私達は今後、人間がサタンと戦わなければならない時、「お父様、この世界の万人がサタンと戦って勝てる様に力を与えてください。全人類が責任を負うことができる様にしてください。」と祈らなければなりません。そして全ての敵を迎えて一人で戦って勝利して、「お父様、喜んでください。」と言える様になるはずです。
世界の全ての責任を負っていく姿を神様にお見せするのです。億千万人、あるいは千千万聖徒達と被造世界の前に責任を持っていく中心を誇ることができる人を通して、地に対する神様の恨みを解怨することができ、そのような人を通して神様の御心を広げることができるということです。これを皆さんは確かに知る必要があります。
祈りましょう。
4
<祈祷>
お父様! これは私の責任であり、私を見ても私の責任であり、世界の邪悪なことを見るとき、涙が止まっていないのがイエス・キリストの生涯だったことを知っています。
今日、私達は邪悪なものを見ても感覚がなく、迷い悩み悲しみに苦しんでいる若い心情を抱いて責任を感じざるを得ません。敵を倒そうとする心とその思いと苦しみがなかった私、また戦おうとしなかった私、全能の神様を信じられなかった私でした。天に対するイエス・キリストの忠誠を知らなかったのです。
お父様、この夕方の一時、少数の群れを前に置いて勧告しました。イエス・キリストを立てて誇りに思っていたお父様の御心が使徒達を通して、歴史を経て今日の私達につながり、その意志が私達から伝播されることを望んでいることを知り、生命を得たという歓喜に加えて千千万聖徒達が歓迎できる中心的な責任が今日私達に任せられていることを知っております。
今、私達を、天地と万物、イエス・キリストの恨みを解くための供え物になる様に許してくださり、誠心誠意を尽くす慈しみのある子とになる様に許して下さる様に、お父様、切にお願い申し上げます。
十字架の道を通って新郎新婦の理念を立てられまし た。この内容をどの程度まで深く知る事ができるかということが問題であることを知りました。
5
お父様がこの時間を勧告してくださったので、今日私個人と、私達に天の解怨ための責任が任されており、天の恨みを解放するための戦いが私達に終結しなければならない事情があることを知って頂くようにお願いします。これを知り、誰よりも実践するという心、お父様に感謝できる心だけを持たせてください。
十字架を持っても感謝させてくださり、億千万サタン達と戦うとしても父の前に卑屈な者にならない様に許してください。十字架につく場所に立ってもお父様! 私がいるので、心配しないでくださいと言える子ども達になれる様に導いてください。難しい場所に置かれている子供達を見て、寂しいお父様を慰めることができる子供達になることを許してください。
御言葉が彼らの生命と道になる様に働いてくださり、彼らの生活中心に訴えて生きていく中心と標準を見つけることを許してくださり、不変の信仰と命の中心を持ってお父様の前に進むことができる様に導いてください。どうか、そうできる様に御言葉の創造の歴史をかけた心情を許して下さる様にお願い申し上げます。
この御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。
御言葉選集 1 - 3. イエス様は私達を探しています (1956年5月20日)
1956年5月20日(日)、前本部教会
聖書拝読 マタイによる福音書 18:1-14
この時間に話そうとする内容は、この様に「イエス様は私達を探している」と言うことです。 このようなタイトルで申し上げます。
神様が4千年間働いて準備された人として、地上に来られた方がイエス・キリストです。このイエス・キリストは神様の御心に代わって、神様の切ない心情に代わって地上に残された数多くの人類を生かすために来られました。
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堕落した後、私達人類は神様の前にいて、どのような場所に立ったのかというと、四十九頭の羊の中にはなく、迷子になった一匹の羊と同じ立場に置かれています 。
天にある千千万天軍天使も一匹の羊のようなアダムとエバを失ってしまい、神様の前にうれしい賛美をささげていません。この様に天軍天使達が喜びの賛美をささげることができなかった人間を再び探すために、神様はこれまでにご苦労を重ねておられます。
イエス・キリストは、神が4千年にわたって探して見つけられた存在として地上に送られました。そのようなイエス様は、万民の前に善の先祖として、死亡した中にある私達人類を生き返らせるために真の父母の立場に立って苦労の歴史を重ねています。
今日、私達がイエス・キリストを神の4千年の摂理歴史の過程で神の唯一の独り子として建てられた方です。
それでは、イエス・キリストを中心に立てるために、神はどの様にされましたか? 世界人類について摂理されたそのすべてをイエス様に任せられました。こうしてイエス・キリストは新たな中心に立てられて、万民を責任を持って救うべき立場に立つ様になりました。イエス様がこういう立場に立つ様になった時、彼の心と体は言えない寂しさに浸りました 。
7
それでは、イエス・キリストが今日私達を見つけてくださるのにどのような過程を経て、求めてこられたのでしょうか。神様は4千年の歴史を通して人間を救うための御言葉を立てられました。
そのため、ユダヤ教の信者達は、預言者達が訴えていた証の言葉を通して、メシアを迎える準備をしてきました。それが旧約聖書の歴史です。この様に準備された地上に来られたイエス・キリストは、神様の前に旧約聖書の4千年の歴史を善の歴史として終結させなければなりませんでした。ですから、彼が話される新しい御言葉は、神様の4千年復帰摂理路程に絡み合った苦しみが込められた御言葉であり、同時に、億祖創生達が信仰路程を行く上で知るべき千輪の法度を明らかにした御言葉でした。
しかし、イエス様が発表されたこの新しい御言葉を、多くのユダヤ教の信者達が耳を傾けて聞いて信じなければならないにもかかわらず、信じて貰えずに、この信じられない群れを眺めるイエス様の心情はどのようなものでしょうか。イエス様は悲痛な心で訴えられたことを皆さんが知らなければなりません。
今日まで、天は私一人を探し、罪の中に陥っている私達人類を再び探し立てるために長い間苦労してきました。旧約時代には,預言者達を通してイスラエル民族に旧約律法の言葉を与えました。そして 4千年の悲しい歴史を解怨するためにイエス・キリストを送って、新しい真理の言葉を発表しました。しかし、その御言葉をユダヤ民族が信じてくれ ないことで、神様の心情を慰めることができず、神様の穏やかであるべき心情を自分の心から慰めなければならない結果になったことを皆さんが知らなければなりません。
ですから、イエス様は、行くべき方向を知らずサタンの中にある群れの前に現れて行くべき方向を示し、生きる道を教えてくださいました。しかしイスラエルの民はその言葉を受け入れませんでした。そうして私達人類は人生の方向も失われ、神様が立てられた4千年の苦労の祭壇も崩壊してしまったということです。もし神様の御言葉の上でイスラエルの民族が一つになったならば、彼らは神がくださった御言葉によって結実され、神は彼らを再び子として抱かれたでしょう。
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イスラエル民族がイエス様がくださった新しい御言葉を信じずに一つにならなかった故に、イエス・キリストは悲しみの御言葉を残していきました 。ですから、百匹の羊のような立場に立つべきイスラエル民族がどのような立場に立ったのかというと、迷子の一匹の羊のような立場に立てられており、私達も同様の立場に置かれています。
私達は、一匹の迷子の羊と同じ立場にあるイスラエル民族を扱ったイエス様の心情を知る必要があります。失われたイスラエル民族を捜し立てるために、イエス様は悲しい心情をもって御苦労されました。
今日、私達が知る必要があるのは、天は一人の人を探したてるために4千年の間、儘ならぬ心情を抱いて摂理されてきました。
それでは、イエス様は30年以上の生涯にわたってどんな御苦労の道を経ましたか。イエス様は神様の御心が現れることを願いながら、30年間の私生涯期間に準備してくださったのです。その期間が過ぎた後、新しい御言葉を持って現れて伝える様になると、イエス様は喜びを感じる中で御言葉を伝えたのではなく、天の悲しみを抱いて御言葉を伝えました。
「私に従ってください。」という言葉、「私を信じなさい。」という御言葉など多くの御言葉をしましたが、その悲しい心で訴える声を聞いてくれる人々は極めて少なかったのです。
9
そのような環境で、イエス様は悲痛な心情を抱いて30年の生涯を過ごしました。神様の御言葉を求めている人を探して来たという事実を知る必要があります。
ですから、今、皆さんはイエス様が訴えていた御言葉の内容が何なのかを知って、自分が行かなければならない方向を見出さなければなりません。
皆さん自身が天の前に失われた一匹の羊のような立場にあるにもかかわらず、自分が行かなければならない方向も知らず、自分がどんな所にいるかも知れず、世界がただこのまま続くと分かっているなら、皆さんは大きな誤解をしているのです。
皆さん自身はよく分からないかも知れませんが、イエス様は生まれて以来、これまでの2千年の歴史過程を経て、悲しい声で叫んでおり、その召しの声の音は皆さんの願いになっているということです。
切実に訴えるイエス様のこの声を皆さんは無視しますか? 聞けない者がいるなら、同じ恨みの心でも持っていなければなりません。皆さんの中で呼ぶ声を懐かしく思わない者がありますか? この声を見分けるためには心を分別しなければなりません。あるいは呼ぶ声を皆さんが聞いたとしても、体が丈夫でなく動けない時は、そこに向かって心を集めることができる私にならなければなりません。
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神様は、失われた羊と同じ立場にある今日の私を探すために孤独であり、その歩みが一日でも、一年でも、百年でも、六千年をかけて訪ねて来られました。天地の上の失われた羊の群れを探すために努力してきた6千年の歴史は、天の大贖罪史でした。
私達人間への神様の召しは、声を聞くことができない場合は、実体の神様となったイエス・キリストを通して見せてくださり、実体となるイエス様に神様の無形の心情を示す様に宣言された御言葉が現わされた福音の御言葉でした。
人間が無形でおられる神様の心情を知らず、神様の声を聞くことができないので、これを解決するために神様の実体として現れたイエス様でした。また、彼が伝える御言葉を聞いてイスラエル民族がイエス様に来て、4千年間知らなかった神様の真の意志を知り、神様の心情を感じて悔い改めるべき立場であったにもかかわらず、イスラエル民族は悔い改めずにイエス様を遠ざけました。
ですから、今、皆さんはイエス様の悲しい声を聞くために準備しなければなりません。そのためにはどうすればいいですか? 皆さんが世の中のすべての言葉をよく聞く様に、本当に神様の心情を代わりにして、神様の御心の代わりに万民の前に現れたイエス様を信じる心を持たなければなりません。
イエス様は無形の神に代わって来られ、4千年の間、天の前に寂しさだけを与えて来た無知な人間に代わって贖罪の道を歩みました。この様に、イエス・キリストを悲しい場に立てて再決心させられた神様の心情を皆さんは計り知らなければなりません。
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イスラエル民族が心を広げて、切ない神様の内的心情に代わって訴えるイエス様を聞きき入れていたら、実体として現れたイエス・キリストの悲しみにさらされて叫んだ御言葉を問題なく聞いたことでしょう。しかし、イスラエル民族はどうでしたか? 旧約聖書に現れた言葉だけで満足しようとしました。神様の最後の御言葉が旧約聖書にすべて記されていると思いました 。
神様の悲しみはこれだけではありません。イエス・キリストを立てて神様の内的心情を実体に見せて証しする時にこれを悟れなければ、天の愛が地上の悲惨さにつながることをイスラエル民族は悟りませんでした。
無形の神様が4千年にわたって苦しんだその憐れみを地上で喜びとして解怨しなければならなかったイエス・キリストでした。それを皆さんは知らなければなりません。
神のご意志に代わって、4千年の働きに代わって地上に来たイエス・キリストは喜びの御言葉を発表できませんでした。ですから、イエス様以来2千年の歴史が経過しましたが、今日6千年の歴史を通して考えると、まだ神様の悲しみとイエス・キリストの苦しみは地上に満ちているのです。
今日、私達はこれらの神の悲しみとイエス・キリストの苦しみを知り、今、神の喜びの御言葉とイエス・キリストの御言葉を伝えることができる筈です。イエス様が私達を見つけた目的は御言葉を伝えようとする事だけではありせんでした。
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失われた羊の群れのような私達を見つけるために御苦労される過程では、悲哀の御言葉だけではありません。6千年にわたって悲哀の御言葉が溢れていた中で、失われた羊の群れを訪れるその瞬間には、6千年の悲しみを忘れることができる喜びの御言葉が現れなければならないのです。皆さんはその喜びの御言葉が天から現れると思いますが、それは大きな誤解です。
今、私達は2千年にわたって苦しんだイエス・キリストの心の前に、私達を訪ねて来て下さった主の前に愛されることができる羊の群れになるべきです。悲しみのイエス・キリスト、傷ついたイエス・キリストが叫ぶ声を聞いても、叱られ、方向も解らない者になってはいけません 。
イエス・キリストが悲惨な思いで訪ねて来られて悲しみの声で皆さんを呼ぶ時、皆さんは眠っていてはいけないということです。それではどうすればいいのでしょうか? イエス・キリストの悲しみの声が聞こえる前に、皆さんが最初に叫ばなければなりません。私が最初に、「あなたは私の羊飼いです! 主よ!」 という声が天地に木魂しなければならないということです。
そうすれば、皆さんを訪ねて下さるイエス様は、皆さんが叫んでいる声を聞き、再び叫ぼうとする時、悲しい声ではなく喜びの声で叫ぶでしょう。皆さんはそのような立場に立たなければなりません。
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今日、私達はイエス・キリストの悲哀の心情を証明しなければなりません。羊飼いを失ったことを悲しむだけではなく、失われた羊飼いを探すために叫ぶことを知らなければなりません。
この様に叫んで呼び集められたイエス様の前に一歩であっても責任を負うことができる存在となってこそ、このイエス様の前に喜んで頂けることができるでしょう。今日、イエス様は悲哀の声で私達を探しており、また私達を見つけるために苦しみの生活を重ねているという事実を皆さんは知る必要があります。
人類を救うために4千年の歴史に代わって歩まれたイエス様は、人類全体の救いの摂理によって良い生活もできませんでした。苦しみの生涯を経て今日私達を訪ねてきているのです。
皆さんが知っている様に、イエス様の30年以上の生涯は苦しみの生活でした。大工のヨセフの息子としての30年の準備期間における彼の生活は、外的にも内的にも苦痛の生活だったということです。
皆さんの様に快適にも自由にも生活できませんでした。万民の様に生きたと知っているのは大きな誤解です。義父のヨセフとマリア、そして弟達にまでも非難される位置で、イエス様は御言葉があってもやりきれない苦しみの生活を送ったというのです。イエス様の苦痛はイエス・キリストの神のための苦痛ではありませんでした。
4千年の間に苦労された神様の心情に代わって、私でなければ失われた家庭を再び探す者がいないことをご存知で、一片丹心の天に対する心だけで切実だったのです。そしてその様な環境のなかの自分として、凄惨な環境で闘争する群れを見て、イエス様は困難と悲痛の生活のなか、4千年間、神様に代わって御言葉を持って理想世界を成し遂げるために命を捧げて戦ったのです。
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生まれた時からきちんとした扱いを受けなかったイエス様は死ぬまで荒野の生活のような孤独で大変な生活をしました。こういうイエス様の外的な苦痛も苦しみですが、外的に現れなかった内的心情の中に隠れた苦痛というのは、神様のみが知っています。
イエス様を信じて従うべきイスラエル民族にみ旨を知るべき人はおらず、知らなくてもいい人が集まりました。このようなイスラエル民族の中で、イエス様は本郷の生活を見逃したのです。
彼が食べて着て飲んだ生活は自分のための生活でなく、一身の安息のための生活ではありませんでした。彼の食べて身に着けて飲むことのすべては、イエス様自身を越えて神様のために、世界の人類のため、民族のためのものでした 。
ところがそのようなメシアの事情を知った人は一人もいませんでした。孤独なイエス・キリストの心情を抱き、イエス様の心を私が知り、イエス様の心情を私が知り、あらゆる場所に従い、イエス様の心を慰める友達になろうとする人がいなかったということです。まさに慰めなければならない弟子達も、イエス様の隠れた内的心情を慰めてあげられなかったのです。
ですから、イエス・キリストの30年余りの生涯は、苦しみの生活で占められました。福音を宣べ伝えた3年の公的愛の路程が始まった日から、彼が伝えた御言葉は私的な御言葉ではありませんでした。自分の利益のための御言葉ではなく、自分のいかなる能力を示すための御言葉でもありませんでした。神様の御心を成し遂げる為の御言葉だったのです。
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ところが、これらの御言葉とみ旨を持って来られたイエス様を、民族全体に代わって知り、友達になる人がいなかったのです。ですから、イエス様は村で一人きりであり、民族全体でも一人きりだったのです。今日、皆さんは快適な場所で神様の御言葉を聞くことができる環境にいます。皆さんはこの様に自由な環境で神様と接することができるこの時を逃してはいけません。
イエス様の当時は御言葉を伝えるのにもこっそり伝えなければならず、御言葉を聞くのにも隠れて聞かなければなりませんでした。ですから、彼らが行くところが荒野だったのです。そんな中でもイエス様は数多くの群衆を荒野において神様の御言葉を伝えようとしました。それでも、神様の御言葉を宣べ伝え、神様の御心を成し遂げようとしたイエス・キリストの心情を皆さんは知らなければなりません。
この様に、イエス様は多くの人の群れに福音を広めましたが、それを歓迎する人は一人もいませんでした。福音を伝える心がいくら伝えても分からない人が多かったのです。イエスが与えられた使命と責任を果たすために苦労すればするほど、それを妨害する者が多かったということです。
その様な状態で、一日中この群れに荒野で叫ばれていた哀れなイエス・キリストは、再び天の前に訴えるためにオリーブ山の険しい道を訪ねていきました。従う弟子達はまばらであり、一人で神様の前に進み、自分の傷ついた心を癒しながら、再び第二次にサタンと戦う力を補うためのイエス様の苦労を皆さんは考えなければなりません。
イエス・キリストは30年余りの生涯を費やして苦痛な生活をしたことを知る必要があります。ただそれだけではありません。イエス様の苦しみが30年余りの生涯の苦しみだけで終わったと言う事は大きな誤解です。今日、霊界に行ってもイエス・キリストは苦しみの中にあるのです。
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2千年の歴史が延長され、神様の御心を成し遂げなければならない一つの目的を持ち、摂理の中で神様の御心を代行するイエス・キリストは、今日この時間までも苦しみの生活をしています。その苦しみの生活が繋がり、今日に繋がっています。
それでは、この一つの苦痛をどこに行って解決するのでしょうか。今日、この地上だけではありません。この地上だけが絶対ではありません。今日を責任を持つことができる皆さんを通して、その苦痛と苦労の中での恨を解かなければならないということです。
ですから、イエス様は永遠の摂理路程での苦しみを皆さんの前に歴史的な時間的距離を置いて示されたのです。皆さんがこの事実を知っているなら、皆さん自身はイエス様の苦しみの手を握って慰めることを知るべきです。そうして憎しみと悪口を言われていたイエス・キリストの心情の恨みを代わりに背負って慰めるべき責任が今の皆さんにあるというのです。
しかし、皆さんがそのような立場に立つことができなかったならばどうすればよいでしょうか。皆さんの環境でイエス様の苦しみを感じる事が出来る様にならなければなりません。皆さんの生活の中でイエス・キリストの苦難の生活を知らなければならないということです。
それではイエス様はどんな罪があったから、30年余りの生涯の苦難の生活、苦痛の生活をしなければならなかったのでしょうか。罪があるなら、神様の前に万民を救わなければならない救い主として立てられた罪しかありません。こういうイエス様が万民のために苦しんで。万民のために哀れでであった事を知らなければなりません。そのようなイエス様について今日、私達は悔い改めの心を持たなければならないということです。
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皆さんの生活の中でもイエス・キリストの30年余りの生涯の苦難の跡が残っています。皆さんがこれを収めなければなりません。馬小屋で生まれた時の苦難からゴルゴダ山上までの苦難、そして復活後の2千年の苦難の跡まで全部収拾しなければなりません。このような全体的な意味を皆さんは知らなければなりません。
イエス様の悲しみは激しく叫ぶことで終わりませんでした。苦難と苦労の生涯を経ても終わらなかったのです。今日、人々はイエス様が苦しみの生涯を経て、十字架にて終わったことを知って、皆さんは死を覚悟し、イエス様を悲しみから救うべきです。
この様に、イエス・キリストは私達を探し出すために6千年の歴史が過ぎた今日まで苦しみ、恨みに綴られた道を行きました。
イエス様は30年余りの生涯を終結する十字架の死の道に進み、死が迫ったとしても、「天のお父様、出来る事ならこの杯を過ぎ去らせて下さい。」と訴えました。4千年にわたって苦労した多数のクリスチャン達が叫んだ血の訴えは、イスラエル民族によって解怨されなければなりませんでしたが、それに応える道理すらなかったということです。
ところが、これを民族に代わって歴史的な血の訴えの代価を払って蕩減された方がイエス・キリストでした。アベルの血が流され、訴えたときに血を流された時と同じ様にそれまでの多くのクリスチャン達が、血にまみれてイスラエル民族に対して訴えた条件がイエス様によって解怨されたのです。4千年にわたって訴えていた声が、4千年にわたって数多くのクリスチャン達の訴えの目的がイエス様の死で終わり、死んだ後の復活によって完成されたということです。
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イエス・キリストの復活によって、この地上に血を流して行った先祖達の恨みの解怨が成し遂げられたのです。その様にして、初めてイエス様を前に立てて天の前に崇拝することができる様になりました。
イスラエル民族が天を信じて受け入れることができず、それまでに犠牲になった預言者達の血の訴えを完結したイエス様は、同時に後代に何を残したのでしょうか。イエス様は後代に十字架の死によっての「血の道」を残しました。それで今日、皆さんの心にイエス・キリストの死の血が残っているのです。
ですから、皆さんがイエス様の前に立つ様になったとき、また皆さんの一生を見ると、皆さんの一生にも血の跡があったことを感じるでしょう。これは、預言者達の血の懇願に対する答えであり、イエス・キリストの血の訴えに対する答えであることを知っておくべきです。ですから、十字架の死を通してもイエス様が私達に来る様に言われた時には、私達は逆に十字架の歩みを通してイエス様を探しに行かなければならないのです。
今、皆さんはイエス・キリストがゴルゴダ山の十字架で疲れて果てながら訴えた情熱が皆さんの体の中で脈打っていることに知らなければなりません。
イエス・キリストが十字架をかけて皆さんを探し出してくださったのですが、皆さんは今までその様にやって来たイエス・キリストの苦労を知らなかったし、十字架をかけてイエス様を呼んでもいませんでした。死の道を歩んだイエス・キリストは、十字架を通して私を訪ねて来られ、今もなお私の為に叫んでおられ、私の為に無限に訴えており、苦しみ、死の道を歩み、私の為に苦労しておられます。
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今、私達は十字架を通してのイエス様を知っています。今日、私達はイエス様の恨を解怨しなければなりません。この恨を解怨せずには、イエス・キリストを掴んで「私の新郎」とは言えません。
ですから復活直後にマグダラのマリアが「ああ、主よ!」と言った時にイエス様が否定した理由がここにあったということです。そのため、マグダラのマリアが復活の主に会ったその日から天国生活をしたかったのですが、天国生活が2千年間遮られていたということです。このような残された十字架の恨みを知り、残された十字架の恨みを私達が解怨しなければなりません。
この様に十字架を越えて私達を探してくださったイエス・キリストが残したものは何ですか。イエス様はこの地に新郎新婦という名詞を残されました。それで今、皆さんの祈りの中で、主は新郎として現れます。皆さんは花嫁で主は新郎として、そんな姿で皆さんに現れるのです。新郎として現われる主にお会いするとき、皆さんはいつも十字架の血の対価を考えなければならないということです。
今残ったことが何でしょうか? 私達に主がもう一つ探して下さるべきことは、十字架を廃して万代の後孫に祝福を与えることができる道、十字架を越える道を探さなければならないのです。十字架を越えてイエス様が自由に私達に現れることができなければ、十字架を切り離してしまい、この一つの恨みを解放しなければならないのです。「わたしの働きを通して、祭壇を通して、天地を通して十字架による恨を解怨する」と言う一つの不変の基準を立てる迄は再臨の歴史は完成しないのです。
この様にしてくださったイエス様は、今日私達に何を残しましたか。悲しい生活を通して、苦しみの生活を通して、十字架の死を通して私を探し出した後に私達に残したのは何ですか? イエス様は私達に命の光を残しました。イエス様が命をかけて私達を訪ねてくださったのですが、どんなプレゼントを持って来られたのかというと、暗い世界を照らす事のできる光を持って来られたというのです。それで、私達がイエス・キリストの死について感謝の涙を流してイエス・キリストの心情を知り、イエス・キリストの事情を知ったのです。
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次にイエス・キリストは私達に何を残しましたか。水と油を残しました。苦しめられ、傷つけられた私達を癒す為に、イエス様は私達に何を残して下さったかというと、水と油を残してくださったというのです。
私達はイエス様が残してくださった光をして、自分の傷を知って水と油でそれを洗わなければならず、自分が罪人であることと裸の体であることを知って礼服を備えて着なければならないのです。こういう時代になったということです。この様に、皆さんが自分の心情に、心に灯りをもって自分の罪をきれいに洗い、傷を治し、礼服を着た後で、2千年前に亡くなったイエス様の願いを、今日の皆さんが成し遂げることができるということです。
今、私達は心の灯りをもって水で体をきれいに洗い、傷に油を塗った後に許された礼服を着て、イエス様が十字架を越える事なく、私達自身が十字架を越えてイエス様に礼拝をささげなければなりません。これが地上で人類がしなければならないことです。
イエス様が十字架を越えて来られることを望まないでください。イエス様が来られるのではなく、皆さんが命の光を放つ存在となり、次にすべての力を備えて永遠に不変な価値の光に代わって、礼服を着て十字架を越えて、イエス様と一つとなって、神様が永遠に安息出来る様にしてあげてください。そして崇拝することができる愛する花嫁とならなければなりません。神様はこの様な花嫁が出て来てほしいと願っておられるのです。
皆さんは今イエス様が残した恨を解放しなければなりません。イエス様から心の光を継承し、イエス様から水と油の賜物を受け、その後はイエス様の服を着て…。この礼服は皆さん一人一人にとどまるのではありません。皆さんに留まるのではなく、皆さんをして生命の光を受け、水と油の賜物を受け、礼服を着ることで、神様の前に花嫁になることができる人が多くならなければならないということです。
21
<祈祷>
愛のお父様! 6千年の歴史がこの様に険しいと感じながら、お父様のその心情、お父様のその心の前に恐怖を感じる者になる事をお許しください。罪の中でどんな罪が一番大きいのかを知らなかったのですが、知ってみると、お父様がくださった光を私のものだけと見なすのが大きな罪でした。礼服を着れなかった事が大きな罪で有る事が解りました。
今日この場に集まったお父様の子ども達が自分が直接罪を犯すよりも一人の生命に犯罪させること、イエス・キリストの前に残された光と水と油と礼服を残せなかった、これがより大きな罪であることを悟る様にお許しください 。
お父様、伝えたばかりの御言葉を通して去っていった子供達にイエス・キリストの姿を見せてくださって、呼び集める声を聞かせてください。歴史的な御苦労と苦難、十字架の苦難まで責任を負わなければなりませんから、彼らが足りない座にあり、天の御意を知らず、父が望む御意を知らずにおりますので、お父様、励ましてくださって、まず彼らに御意を明らかにしてくださり、お父様の直接的な声を聞くことを許してください。善の生活をしようとするので、彼らが善なる様に生きていける様に導いて下さる様に、愛するお父様、切にお願い申し上げます。
主の花嫁となれるようにし、すべてを越えて天の栄光を表わすことができる子供達として導いてくださり、新しい歴史的なみ旨を担当させて下さる様に、愛するお父様、切にお願い申し上げます。
すべてをお任せしますので、思いのまま主管してくださり、集まった人々の心に現れてくださって、永遠の勝利の栄光に代わることができる子供達として立ててください。アーメン。
22
文鮮明先生御言葉選集 1 - 4. 天地の為に来られ、帰っていかれるイエス(1956年5月23日)
1956年5月23日(水) 前本部教会
聖書拝読 ヨハネによる福音書 14:2-12
<祈り(Ⅰ)>
幼い子供達が再び生きる道を訪ね、お父様の膝の前に出てきましたから、お父様、お受けください。私達は、宇宙よりも皆さんだと言ってくださったことを知っています。多くの群れがお父様を求めて御前に集まりましたから、お父様、集まったこれらの群れがお父様の栄光に代わることを許してくださり、喜びの祭壇に代わってお父様の御心を知ることができ、お父様の御心情を体恤できるこの一時として許して下さる様に、お父様、切にお願い申し上げます。
お父様は正しく信じなければならないことを知っておられ,必要な歴史を起こさなければならない立場におられることを知っておられます。今日まで天が私達を信じなければならない、信じて立てなければならない立場におられることを知りながら、お父様は私達を信じる事が出来なかった過去の事実をお許しください。
御意を知って差し上げなければならない責任も余裕がなかった私達でしたので、お父様、この時間許して下さる様にお願い致します。お父様を信じて頼り、私の命までも捨てることができ、私の生涯までもお父様に率直に置くことができ、お父様が受け取られるのにふさわしい供え物としてこの時間受けて下さることを、愛する私のお父様、切にお願い申し上げます。
お父様、多くの人の中から見知らぬ私達を呼んでくださったので、お受け下さりお父様の憐れみの愛で抱いてください。
お父様にこの時間、体と心をすべてお捧げし、お父様の心配される心情を持って振舞うことができる様にお許し下さる様に切にお願い申し上げます。
6千年間解かれずにきた哀しい天の事情が今日まで続いており、嘆息が今日まで続いている歴史を見ていく時、今日も私達自体がお父様の嘆息の源となっていることをお許しください。お父様の命と願いを理念の実体としてお与えになってくださり、お父様が喜べる命の根として立てる様にお願いします。
次にイエス・キリストは私達に何を残しましたか。水と油を残しました。苦しめられ、傷つけられた私達を癒す為に、イエス様は私達に何を残して下さったかというと、水と油を残してくださったというのです。
私達はイエス様が残してくださった光をして、自分の傷を知って水と油でそれを洗わなければならず、自分が罪人であることと裸の体であることを知って礼服を備えて着なければならないのです。こういう時代になったということです。この様に、皆さんが自分の心情に、心に灯りをもって自分の罪をきれいに洗い、傷を治し、礼服を着た後で、2千年前に亡くなったイエス様の願いを、今日の皆さんが成し遂げることができるということです。
今、私達は心の灯りをもって水で体をきれいに洗い、傷に油を塗った後に許された礼服を着て、イエス様が十字架を越える事なく、私達自身が十字架を越えてイエス様に礼拝をささげなければなりません。これが地上で人類がしなければならないことです。
イエス様が十字架を越えて来られることを望まないでください。イエス様が来られるのではなく、皆さんが命の光を放つ存在となり、次にすべての力を備えて永遠に不変な価値の光に代わって、礼服を着て十字架を越えて、イエス様と一つとなって、神様が永遠に安息出来る様にしてあげてください。そして崇拝することができる愛する花嫁とならなければなりません。神様はこの様な花嫁が出て来てほしいと願っておられるのです。
皆さんは今イエス様が残した恨を解放しなければなりません。イエス様から心の光を継承し、イエス様から水と油の賜物を受け、その後はイエス様の服を着て…。この礼服は皆さん一人一人にとどまるのではありません。皆さんに留まるのではなく、皆さんをして生命の光を受け、水と油の賜物を受け、礼服を着ることで、神様の前に花嫁になることができる人が多くならなければならないということです。
21
<祈祷>
愛のお父様! 6千年の歴史がこの様に険しいと感じながら、お父様のその心情、お父様のその心の前に恐怖を感じる者になる事をお許しください。罪の中でどんな罪が一番大きいのかを知らなかったのですが、知ってみると、お父様がくださった光を私のものだけと見なすのが大きな罪でした。礼服を着れなかった事が大きな罪で有る事が解りました。
今日この場に集まったお父様の子ども達が自分が直接罪を犯すよりも一人の生命に犯罪させること、イエス・キリストの前に残された光と水と油と礼服を残せなかった、これがより大きな罪であることを悟る様にお許しください 。
お父様、伝えたばかりの御言葉を通して去っていった子供達にイエス・キリストの姿を見せてくださって、呼び集める声を聞かせてください。歴史的な御苦労と苦難、十字架の苦難まで責任を負わなければなりませんから、彼らが足りない座にあり、天の御意を知らず、父が望む御意を知らずにおりますので、お父様、励ましてくださって、まず彼らに御意を明らかにしてくださり、お父様の直接的な声を聞くことを許してください。善の生活をしようとするので、彼らが善なる様に生きていける様に導いて下さる様に、愛するお父様、切にお願い申し上げます。
主の花嫁となれるようにし、すべてを越えて天の栄光を表わすことができる子供達として導いてくださり、新しい歴史的なみ旨を担当させて下さる様に、愛するお父様、切にお願い申し上げます。
すべてをお任せしますので、思いのまま主管してくださり、集まった人々の心に現れてくださって、永遠の勝利の栄光に代わることができる子供達として立ててください。アーメン。
22
文鮮明先生御言葉選集 1 - 4. 天地の為に来られ、帰っていかれるイエス(1956年5月23日)
1956年5月23日(水) 前本部教会
聖書拝読 ヨハネによる福音書 14:2-12
<祈り(Ⅰ)>
幼い子供達が再び生きる道を訪ね、お父様の膝の前に出てきましたから、お父様、お受けください。私達は、宇宙よりも皆さんだと言ってくださったことを知っています。多くの群れがお父様を求めて御前に集まりましたから、お父様、集まったこれらの群れがお父様の栄光に代わることを許してくださり、喜びの祭壇に代わってお父様の御心を知ることができ、お父様の御心情を体恤できるこの一時として許して下さる様に、お父様、切にお願い申し上げます。
お父様は正しく信じなければならないことを知っておられ,必要な歴史を起こさなければならない立場におられることを知っておられます。今日まで天が私達を信じなければならない、信じて立てなければならない立場におられることを知りながら、お父様は私達を信じる事が出来なかった過去の事実をお許しください。
御意を知って差し上げなければならない責任も余裕がなかった私達でしたので、お父様、この時間許して下さる様にお願い致します。お父様を信じて頼り、私の命までも捨てることができ、私の生涯までもお父様に率直に置くことができ、お父様が受け取られるのにふさわしい供え物としてこの時間受けて下さることを、愛する私のお父様、切にお願い申し上げます。
お父様、多くの人の中から見知らぬ私達を呼んでくださったので、お受け下さりお父様の憐れみの愛で抱いてください。
お父様にこの時間、体と心をすべてお捧げし、お父様の心配される心情を持って振舞うことができる様にお許し下さる様に切にお願い申し上げます。
6千年間解かれずにきた哀しい天の事情が今日まで続いており、嘆息が今日まで続いている歴史を見ていく時、今日も私達自体がお父様の嘆息の源となっていることをお許しください。お父様の命と願いを理念の実体としてお与えになってくださり、お父様が喜べる命の根として立てる様にお願いします。
23
今日ここに集まった子供達を誇りに思って頂き、この時間、今ある心情を全て捧げてお父様の愛を賛美し、千千万聖徒達の前に立った子供達として恥ずかしくないお祝いの供え物になることができるこの時間になる様にお許しください。お父様、切にお願い申し上げます。
すべてを委ねますので、主管してください。主の名前によってお祈り申し上げます。アーメン。
<祈り(Ⅱ)>
お父様! 孤独な環境の中でも、それぞれの十字架を背負って天に向かって険しい道を歩いていた子供達が、この時間もお父様の膝の前に集まり、お父様の大きくて高かった愛の賜物を望んでおりますので、お父様、親しく訪れて愛で包んで頂き、疲れた心を慰めてくださり、難しくも新たな心霊を起こして立ててください。
お父様が私達を親しく接してくださらなければ、私達が行く場所がどこにありますでしょうか? 貧しい子供達ですから、お父様、親しくしてくださり、私達の行く道を親しく導き、注視して下さり、お父様が願われる意志に向かって動いていける子供達になれる様に助けてくださるようにお願いします。
この時間集まった子ども達の心を、お父様、親しく主管してくださり、各者の心をお父様の前にお出ししますので、お父様、新しい歴史を起こしてくださり、思いやりの心を持って導いてください。
24
各自が過去に行動したすべてを父の前に立てて悔い改めることによって、この時、お父様の大いなる愛の歴史が起きる様に、神の賜物を施してください。
お父様! 私達の前にはまだまだ険しい道が残っておりますので、お父様が親しく主管してください 。
今見たばかりの幼な子のような子供達を抱きしめてくださる様にお願いいたします。 眠っているすべての子供達を起こし、お父様の前に導く責任を持つべき聖徒達が集まったので、彼らが背負った使命を果たすのに不足がない様に導いて、協助してください。過去のどんな聖徒よりも一層高く歩める子ども達になれるように助けてくださり、サタンまでも愛することができる子どもになる様に導きください。
お父様の抱きしめに応じてふさわしい歩みをなす子供達として、サタンの嘲笑になる子供達にならない様に助けて下さることを望んでおります。自分を中心に天倫を計る愚かな者にならない様にしてください。
この時間、父の名前で集まるすべての子供達の上に特別な賜物を施してください。子ども達を早く呼んで下さる道、切にお願い申し上げます。
この時間にも、お父様を呼び、隠れた祭壇を築き、お父様を求めて渇望する子供達がどれくらい暮らしていますでしょうか。彼らが求めなければならない使命も、この場に集まった子ども達が背負っているので、お父様、そのような使命を果たすに足りる様にしてください。その意を高めてあげられる日が早く早く臨む様にしてください。
25
眠っている24億人類をお父様の前に見つけて立てなければならない使命が私達にありますので、お父様、私達にくださった御言葉を持って自信を持って進んでいく際に、随所に生命の炎を起こしてくださり、復活の歴史を起こしてください。お父様の喜びと栄光をこの地上に高めることができる子供達として助けて下さることを切にお願い申し上げます。
今日まで、何千年もの間、この地の人類の為に苦労しておられるキリストの悔しい心情と、私達の為に父の前に訴えるキリストの嘆きを解怨する責任が私達にあることを強く信じさせてください。
人類がしなければならない責任を果たす前に、天の基準を捨ててはならない様にしてください。お父様、この時間この場に臨んでくださり、責任を尽くして天の賜物を受けることができる子ども達として下さる様に切にお願い申し上げます。
すでに背負った使命を再び地に捨てる子供達にならない様にしてくださり、お父様の栄光を最後まで表わすことができるお父様の愛する子ども、お父様の力を表せる子どもとして立てて、結果を表せる様にしてください。
難しい環境の中で孤独な祭壇を築き、お父様の前に叫び訴える子ども達を、お父様、親しく抱いていただき、記憶してください。そうして見事に御意を受け入れて現れる天の子ども達になる様に許して下さる様に請い願っております。
26
お父様、この時間親密に働き、見つめて下さり、永遠の命の歩みを歩いていける命の御言葉を受けてることができる賜物をお許しください。
この時間の終わりまで一緒にあってください。
すべての御言葉を愛する主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。
<祈り(Ⅲ)>
お父様! 愛する弟子達を残し、十字架の峠を越えて永遠の世界に行かなければならないイエス様の心情を知らせてください。その心情を理解することができるこの時間になることを許してください。
イエス様を心で知り、体で理解して、それに応じることができる私達の心が天にとどまり、地上の人間を動かし、彼の心が動けば一緒に動いて、一つの御意に対して謙遜な供え物で捧げられる愛する子供達になる様に許して見守って下さる様にと切に願っております。
苦しみの立場で従った多数の群れはすべて落ちて12使徒だけ残りましたが、その中でも近く、自分を裏切るユダがいることを感じたイエス・キリストの心情を私達が知る事ができる様にしてください。人を信じて過ごした3年間、過ごした愛の路程がこの様に寂しい環境に残った時のイエス・キリストの心情を、今日、私達が体と心で感じ取れる様に許して下さる様に願っております。
27
お父様! 十字架の死の道を前にして天と一問一答されたイエス・キリストの苦しみの心情を今日、私達が体験できる様にしてくださり、お父様の前に溢れる程の供え物として、彼の心の慰めの相手となれることができる子ども達として立ててください。切にお願い申し上げます。
今、私達だけを残さないで、お父様と一緒にして下さって、集まったこの一時に訪れてきた一歩が嘆息を醸し出す一歩にならない様にして下さい。そうして私達の命のすべてを、お父様、引き受けて主管して下さる様に切にお願い申し上げます。
サタンが周りに広がっていることを愛する子ども達が知ることが出来る様にしてくださり、サタンに譲る心の隙を持つ子ども達にならない様にしてください。お父様に向かう正しい身体と心を持たせてくださり、使命感を持って知性と精誠を尽くして勝利の祭壇を築くことができるこの時間になる様にお許しください。
人間的な認識と人間的な観念を私達の周りの環境の中から除いてくださり、伝える者の心と受け手の心がひとつになって、お父様に喜びと栄光になることを許して下さる様に切に願いながら、愛する主の御名によってお祈り致しました。アーメン。
<御言葉>
今日捧げようとする御言葉は「天地の為に来られ、帰っていかれるイエス」です。このようなタイトルでしばらくお話しします。
28
神様が天地万物を創造されたのは、神様が喜びたいと考えられた事は間違いありません。そのため、まず無形の天使世界を創造し、次に無形実体世界の象徴として有形実体世界を創造しました。そして霊界と実体世界の中心であり代表としてアダムとエバを創造されました。
このアダムとエバは天地が変わらない限り天地と運命を共にしなければなりませんでした。つまり、天地が動く通り一緒に動かなければならない運命を持ったアダムを創造されました。それでアダムとエバが変わると天地も変わるのです。そして全天地の中心が分裂すると、創造主の中心も分裂する必然的な条件を持って造られたアダムとエバでした。
このようなアダムとエバが堕落することで、天地の中心がずれ、其れに寄り、創造主の中心もずれたということです。ですから、神様は天地の中心を再び立てて、被造世界にその正しい中心を据えて、創造主の中心と創造された被造物の中心が二つではなく一つになる様にしなければならない立場におられます。そうなると、再び天が嬉しく、地も嬉しく、地が嬉しいなら天も嬉しくなるのです。
創造主の運命が間違っていない限り、被造世界の運命は変わらないのです。このような被造世界の中心であるアダム・エバが堕落することで、他の万物が乱れ、万物も各方向と中心がずれる様になりました。これを再び回復するための歴史が復帰摂理歴史であり、復帰摂理歴史を重ねて、長い6千年の歳月を経て今日に至りました。
今日まで、神様の愛の摂理は数多くの預言者を通して現れ、預言者を通して象徴的に愛を示したとともに、その全体的な愛の結晶体として現れたイエス・キリストを通しては実証的な摂理の愛を内外的に見せてくださったのです。
29
ですから、彼の心は無形世界の中心に代わり、彼の体は実体世界の中心を代表したのです。このようなイエス・キリストである事を知るべきイスラエル民族が知らなかったので、イエス・キリストを十字架に掛けてしまいました。それ故に、残された天地が暗闇に浸ったという事実を皆さんは知っておくべきです。
イエス・キリストが来られた唯一の目的が何でしたでしょうか。天地を創造されたお父様の心情を備え、天と地に変わらない永遠の中心を築くことでした。この中心を築く為に、イエス・キリストがこの地に来られたのです。
ですから、彼が伝えた御言葉は、自分を中心に立てることではありませんでした。エルサレムのどんな民族やイスラエルの一族の部分的な中心を立てようとしたのではありません。
彼の行動も彼一人だけの行動ではなく、彼の希望も彼一人だけの希望ではなかったのです。彼が望む事は、全天地万物全体を抱える不変の中心として立って、万物を越えて無形世界を経て創造主である神様の心情に代わる所まで進むことであったことを皆さんが知らなければなりません。
そのような希望を持ったイエス・キリストの御言葉、イエス・キリストの生涯、イエス・ キリストの実践的な行動であった事を皆さんは知っておくべきです。彼の行動は、天と地を新たに建設する出発としての行動であり、彼の御言葉は、その一つの意志を成し遂げるための再創造の歴史を起こす為の御言葉だったことを皆さんが知るべきです。
30
30年の準備期間を経て3年の実践生涯路程でアダムが失った天地の不変の中心を再建する為に語られましたが、語られたその御言葉をイスラエル民族が信じられず、霊界と肉界の中心として立たなければならなかったイエス・キリストは霊界の中心としてのみ立てられ、実体的な肉身世界の中心としては立てられずに亡くなったことを皆さんは知っておくべきでしょう。
イエス・キリストは十字架の峠を越えるまで何を行いましたか。この地に来て30余年の寿命を何の為に苦労したかというと、一次的には地の為に苦労したのです。
ところが、地の為に苦労した彼の功績で、地上に収めようとした目的が成し遂げられ、霊肉を合わせて地上で成し遂げなければならない一つの中心を一つの実体で完結しなければならないことでしたが、地上で実体の中心とならなければならなかったイエス・キリストの体は十字架に付けられてしまいました。そうして霊的な世界を代表してイエス様の霊だけが完成することによって、復活以来今日まで2千年の歴史は霊界を中心に復帰摂理をした期間になったことを皆さんは知らなければなりません。
イエス様は十字架で亡くなられた後に復活され、復活して40日間地上で活動された後、再び霊界に行かれました。この様にイエス様が亡くなられてから復活し、復活して再び昇天されたこの事実は、神様の創造の働きを象徴的に見せてくれたのです。
創世記では、夕方になり、朝になるので、これは最初の日です。(創 1:5)には御言葉があります。そこには夜の時間があるのです。イエス様の墓の3日の期間は、まさに夜の時間と同じ期間です。30余年の寿命は昼間でしたが、イエス様は弟子達を立てる為に30余年の寿命を働かせました。この苦労の過程を経た後に復活されたのは、夜を過ぎて新しい朝を迎えたのと同じことです。
31
復活したイエス様は地上に灯りを立てる為に苦労しましたが、地上に灯りを立てられませんでした。ところが地上に灯りを立てる為に復活されたようですが、実像は霊界の中心として復活されたので、イエス・キリストは地上におられず、再び霊界に行かれたということです。これは何を意味するのかというと、夜の期間を過ぎて昼の期間を迎えたイエス・キリストは、再び夕方を迎えて永遠の世界に行ってしまったことを意味するのです。
それでは、イエス様が人類の為に神様に祈ると言ったのですが、どんな祈りをしていますか。血の汗をかいた祈りをするということです。人類が地上でイエス様を知っていると言いますが、イエス様が霊界に行っても彼らを知らないと言われるのです。
この様にイエス様が神様の前で知っていると言える立場を作っておかなければ、人類が行ける霊界が父なる前で認められないので、イエス様は今日まで霊界に行って神様の前に私達を知らずに祈りをしておられるということです。これを皆さんはよく知らなければなりません。
このことを経た後、イエス様が再び来るとき、どうやって来るのでしょうか。来る時には地の仕事と天の仕事を合わせて持って来られます。地の仕事と 天の仕事に神様に代わって責任をもって来られます。ですから、今日、私達も十字架の死から復活し、昇天して天上におられるイエス・キリストが再び来られるまで、そのイエス様が越えられた峠に沿って越えなければならないというのです。
また、2千年の夜の期間を経て復活の朝にあたるこの時において、イエス様が天が歓迎する一つの中心を立てて再び来られるとき、皆さんはそのイエス様が地に向かって来られることを心で感じなければなりません。
32
これまで、私達の信仰の形は、天を眺めながらイエス様を捧げてきました。これが今日までの私達の信仰の基準でした。
今私達が私なすべきことが残っていますか? 私達は、地の為に代わりに働いている聖霊を慕わなければなりません。皆さんはこれを知る必要があります。これまで数多くの人々がイエス様を2千年間霊的に捧げてきたが、今は聖霊も拝慕しなければならないということです。そうするべき聖徒達であり、私達人類であることを皆さんは知らなければなりません。この様に聖霊を拝慕しなければならない時代があり、花嫁の実体を完成しなければならない時が来ました。
聖霊は花嫁の神なので、花嫁の形を取り、花嫁の形を成し、私達は敬拝することを知らなければなりません。そうすれば、イエス・キリストは霊界に行って休むことができるということです。そして天地に一つの中心を立てて、再び私達がこの地を中心に探して行くのです。
心で礼拝を捧げていた私達は、これからは私達自身に働かれる聖霊を拝慕しなければなりません。ですから、私達は霊的な象徴であるイエス様を慕い、肉的な象徴である聖霊を慕って、私達一人の個体から霊的なイエス様をささげる心と肉的な聖霊をささげる体をひとつにする事です。地の中心が私の心と体から合わせられるということです。そうすることで、イエス様も私の代わりに立つことができ、聖霊も私の代わりに立つことができます。これを皆さんは知る必要があります。
それでは、今この地上に来なければならない主はどんな意味を持って来るのでしょうか。皆さんはイエス様と聖霊の中心を皆さん自身にしておかなければなりません。肉体を持っている皆さんが霊界を象徴し、肉界を象徴したイエス様と聖霊をして霊肉を合わせた一つの実体の中心体として完成しなければなりません。そうでなければ、神の全体の創造の理念が皆さん一つで完結することはできません。このような一つの中心の使命がイエスと聖霊の使命であるということです。この中心を成し遂げる為に、イエス・キリストは再臨されるのです。
33
では,今日,私達が今この一つの意志を受け取るにはどうすればよいでしょうか。イエス・キリストがガリラヤの浜辺に愛する弟子達を訪ねて行ったことを考えてはいけません。イエス・キリストは皆さんをいつも見つけて下さるものではありません。皆さん自身が一人の花嫁になり、イエス・キリストを祀られなければなりません。
イエス様と聖霊は天の中心なので、皆さんの心がイエス様と聖霊と一つになることができる中心を備えることで、地の中心となり、一体として扱えるこの一つの基準を立てなければならないというのです。この時はいつもイエス様を思慕する時ではないということです。今は聖霊の分別された心情を備えており、私達一人一人がイエス様を地上で代わりに探し求めることができなければならないということです。こういう一つの中心を皆さんが見つけて決意して立たなければならないということです。
この一つの中心を願うイエス・キリストは皆さんの為に聖霊を立てて今日まで2千年間働いてきました。今、皆さんはこの苦労に答えなければなりません。天が霊と肉を代表する中心として、イエス・キリストをこの地に送られ、霊的にのみ完成したという基準を立てましたが、皆さん自身がイエス・キリストを求めて祀って、この残された地の未完成部分を完結させなければなりません。皆さん一人がそれを完結すれば、今日まで苦しんできたイエス・キリスを皆さんの心に祀ることができるということです。
今日、人類は今イエス様の前に訪れ、イエス・キリストの心に似て、イエス・キリストの体に似て、聖霊の心に似て、聖霊の体に似てきた天地万物の前に自信を持って現れなければなりません。そうならなければなりません。
そしてイエス様と聖霊の前に誇れる私にならなければなりません。また、次は使徒達の前に自慢できる私にならなければなりません。そうしてお父様の前に出て、これまで6千年間お疲れ様でした、お父様! 6千年の間に敵であったサタンを私の一身から屈服させますので、お父様、今日この時からは私からサタンに対する心配を除いてください、と自信を持って叫ぶことができなければなりません。
34
また、この全ての被造の園を覆っている罪悪の嘆息が私には終わりましたので、お父様! 天地に被した嘆息を取り去ってやって下さい。と言える心を持たなければなりません。
また、堕落以降は神様が6千年間愛する息子・娘を立てても、 一度も愛されませんでした。今日でも、神様は私達自身を愛したい心があっても、心から私達自身を見つけても愛することができないというのです。イエス様と聖霊は私達を訪ねて愛することができますが、神様は私達がその言葉を信じる前に愛することはできません。
ですから、今日、私達がイエス・キリストの代わりに一つの中心を備えて、「お父様! 今日、この地の人間のすべての罪の嘆きを私が責任を負うので、6千年間人間を愛してあげたかったお父様! 今初めて創造本然の愛で私を愛してください。」と言える存在にならなければなりません。皆さん、自分がお父様の前に進んで「お父様!私を愛してください。お父様!私を愛してください。」と堂々と言える人にならなければなりません。そうしてこそ、天地を創造された神様の御心がイエス・キリストを経て皆さん自らで成し遂げられると言う事です。
ですから、今日私達、信仰者の責任というのは…。イエス様はこの地の為に来て、天の為にご苦労されて行かれました。この様に天の為に苦しんだイエス様、天地の中心として現れたイエス・キリストの前にある被造世界に代わって、無限の霊界に代わる中心存在で堂々と立つ事ができる存在でなければ、イエス・ キリストが天地の喜びを持って現れる時は栄光の世界に出席し、神様とイエス様と聖霊と皆さんが合わせて喜びの世界で生きる事ができないと言う事です。これを皆さんは心に留めておくべきです。
<祈祷>
愛のお父様! 6千年の歴史を見ると、大きく見ると今までは夜の期間でした。 大きく見ると、夜の期間を超えて今朝が堂々と明ける時期にとどまっており、全体的に朝の時期を迎えるべき今日、私達にとっては暗い夜の期間を過ぎて復活の賜物を備えなければならず、天に行かれたイエス様の前に心を置いて再び来られる心に沿って、地を考えるイエス様を、私達が代わりに心情を備えて、訪ねて下さる聖霊と一体を成し遂げ、外的な中心を成し、そうしてその中心にイエス・キリストを祀って霊的な中心を成して、天地を創造されたお父様の本然の心情を備えたひとつの中心存在として立てられる事を、この時間知る事ができる事を語って下さいました。
35
今、私達が地の為に生きていますか? これは半分しかできない人生である事がわかります。それとも、永遠の為に私達が生きていますか? 半分しかできない事がわかります。
これまでは、私達がイエス様に沿って上がる生活をしてきましたが、今は従って下ってきて聖霊を慕い、一体の花嫁に仕える事を望むイエス様の願いを成し遂げてください。この地で聖霊の花嫁の品性を慕い、彼の心情が、彼の徳性を心と体に満たしてくださり、イエス・キリストが地上で外的に完成できなかった事を聖霊の働きに、聖霊の協力で、完成した存在で立って創造の理念全体に代わる一つの中心存在として立ててください。
そうして天の本然の中心として天地に通じ、創造主の中心を通じた心の中心として来られた事を被造万物の前に自慢できる様にしてくださり、全被造物の中心に立てていただき、父の前に堂々と出て行き、「失っていた6千年の愛の心情を自分一人で回せる自分がいるのですから、お父様!愛してください。」と言える息子の位置まで導いてください。
今日までこれを成し遂げる為に苦労の歴史を経てこられたので、苦労の歴史を経て出てきたお父様のご苦労の前に呼びかけを信じ、立てた心を信じ、探した心を信じて愛する事ができる存在として立ち、今お父様が眺めておられる場所に立って万物を眺める事ができる子供の立場に立ててください 。
この時間に集った皆さん、愛する子供達、しばらく聞いた御言葉が心の力になり、命の中心に立つ事ができる様にしてください。どこに行ってもこの中心を失わない様に導いてください。夜になっても心だけは昼間に居られる様にしてくださり、いつの時かある時に主が臨み、聖神が訪れ、お父様が顕れても、足りない姿であっても導いてくださり、どんな時に臨んでも準備を完結した子供として立ててください。
御言葉を終わりますので、彼らの生涯の路程の道を一緒にしてください。主の名を通してお祈り致します。アーメン。
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復活したイエス様は地上に灯りを立てる為に苦労しましたが、地上に灯りを立てられませんでした。ところが地上に灯りを立てる為に復活されたようですが、実像は霊界の中心として復活されたので、イエス・キリストは地上におられず、再び霊界に行かれたということです。これは何を意味するのかというと、夜の期間を過ぎて昼の期間を迎えたイエス・キリストは、再び夕方を迎えて永遠の世界に行ってしまったことを意味するのです。
それでは、イエス様が人類の為に神様に祈ると言ったのですが、どんな祈りをしていますか。血の汗をかいた祈りをするということです。人類が地上でイエス様を知っていると言いますが、イエス様が霊界に行っても彼らを知らないと言われるのです。
この様にイエス様が神様の前で知っていると言える立場を作っておかなければ、人類が行ける霊界が父なる前で認められないので、イエス様は今日まで霊界に行って神様の前に私達を知らずに祈りをしておられるということです。これを皆さんはよく知らなければなりません。
このことを経た後、イエス様が再び来るとき、どうやって来るのでしょうか。来る時には地の仕事と天の仕事を合わせて持って来られます。地の仕事と 天の仕事に神様に代わって責任をもって来られます。ですから、今日、私達も十字架の死から復活し、昇天して天上におられるイエス・キリストが再び来られるまで、そのイエス様が越えられた峠に沿って越えなければならないというのです。
また、2千年の夜の期間を経て復活の朝にあたるこの時において、イエス様が天が歓迎する一つの中心を立てて再び来られるとき、皆さんはそのイエス様が地に向かって来られることを心で感じなければなりません。
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これまで、私達の信仰の形は、天を眺めながらイエス様を捧げてきました。これが今日までの私達の信仰の基準でした。
今私達が私なすべきことが残っていますか? 私達は、地の為に代わりに働いている聖霊を慕わなければなりません。皆さんはこれを知る必要があります。これまで数多くの人々がイエス様を2千年間霊的に捧げてきたが、今は聖霊も拝慕しなければならないということです。そうするべき聖徒達であり、私達人類であることを皆さんは知らなければなりません。この様に聖霊を拝慕しなければならない時代があり、花嫁の実体を完成しなければならない時が来ました。
聖霊は花嫁の神なので、花嫁の形を取り、花嫁の形を成し、私達は敬拝することを知らなければなりません。そうすれば、イエス・キリストは霊界に行って休むことができるということです。そして天地に一つの中心を立てて、再び私達がこの地を中心に探して行くのです。
心で礼拝を捧げていた私達は、これからは私達自身に働かれる聖霊を拝慕しなければなりません。ですから、私達は霊的な象徴であるイエス様を慕い、肉的な象徴である聖霊を慕って、私達一人の個体から霊的なイエス様をささげる心と肉的な聖霊をささげる体をひとつにする事です。地の中心が私の心と体から合わせられるということです。そうすることで、イエス様も私の代わりに立つことができ、聖霊も私の代わりに立つことができます。これを皆さんは知る必要があります。
それでは、今この地上に来なければならない主はどんな意味を持って来るのでしょうか。皆さんはイエス様と聖霊の中心を皆さん自身にしておかなければなりません。肉体を持っている皆さんが霊界を象徴し、肉界を象徴したイエス様と聖霊をして霊肉を合わせた一つの実体の中心体として完成しなければなりません。そうでなければ、神の全体の創造の理念が皆さん一つで完結することはできません。このような一つの中心の使命がイエスと聖霊の使命であるということです。この中心を成し遂げる為に、イエス・キリストは再臨されるのです。
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では,今日,私達が今この一つの意志を受け取るにはどうすればよいでしょうか。イエス・キリストがガリラヤの浜辺に愛する弟子達を訪ねて行ったことを考えてはいけません。イエス・キリストは皆さんをいつも見つけて下さるものではありません。皆さん自身が一人の花嫁になり、イエス・キリストを祀られなければなりません。
イエス様と聖霊は天の中心なので、皆さんの心がイエス様と聖霊と一つになることができる中心を備えることで、地の中心となり、一体として扱えるこの一つの基準を立てなければならないというのです。この時はいつもイエス様を思慕する時ではないということです。今は聖霊の分別された心情を備えており、私達一人一人がイエス様を地上で代わりに探し求めることができなければならないということです。こういう一つの中心を皆さんが見つけて決意して立たなければならないということです。
この一つの中心を願うイエス・キリストは皆さんの為に聖霊を立てて今日まで2千年間働いてきました。今、皆さんはこの苦労に答えなければなりません。天が霊と肉を代表する中心として、イエス・キリストをこの地に送られ、霊的にのみ完成したという基準を立てましたが、皆さん自身がイエス・キリストを求めて祀って、この残された地の未完成部分を完結させなければなりません。皆さん一人がそれを完結すれば、今日まで苦しんできたイエス・キリスを皆さんの心に祀ることができるということです。
今日、人類は今イエス様の前に訪れ、イエス・キリストの心に似て、イエス・キリストの体に似て、聖霊の心に似て、聖霊の体に似てきた天地万物の前に自信を持って現れなければなりません。そうならなければなりません。
そしてイエス様と聖霊の前に誇れる私にならなければなりません。また、次は使徒達の前に自慢できる私にならなければなりません。そうしてお父様の前に出て、これまで6千年間お疲れ様でした、お父様! 6千年の間に敵であったサタンを私の一身から屈服させますので、お父様、今日この時からは私からサタンに対する心配を除いてください、と自信を持って叫ぶことができなければなりません。
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また、この全ての被造の園を覆っている罪悪の嘆息が私には終わりましたので、お父様! 天地に被した嘆息を取り去ってやって下さい。と言える心を持たなければなりません。
また、堕落以降は神様が6千年間愛する息子・娘を立てても、 一度も愛されませんでした。今日でも、神様は私達自身を愛したい心があっても、心から私達自身を見つけても愛することができないというのです。イエス様と聖霊は私達を訪ねて愛することができますが、神様は私達がその言葉を信じる前に愛することはできません。
ですから、今日、私達がイエス・キリストの代わりに一つの中心を備えて、「お父様! 今日、この地の人間のすべての罪の嘆きを私が責任を負うので、6千年間人間を愛してあげたかったお父様! 今初めて創造本然の愛で私を愛してください。」と言える存在にならなければなりません。皆さん、自分がお父様の前に進んで「お父様!私を愛してください。お父様!私を愛してください。」と堂々と言える人にならなければなりません。そうしてこそ、天地を創造された神様の御心がイエス・キリストを経て皆さん自らで成し遂げられると言う事です。
ですから、今日私達、信仰者の責任というのは…。イエス様はこの地の為に来て、天の為にご苦労されて行かれました。この様に天の為に苦しんだイエス様、天地の中心として現れたイエス・キリストの前にある被造世界に代わって、無限の霊界に代わる中心存在で堂々と立つ事ができる存在でなければ、イエス・ キリストが天地の喜びを持って現れる時は栄光の世界に出席し、神様とイエス様と聖霊と皆さんが合わせて喜びの世界で生きる事ができないと言う事です。これを皆さんは心に留めておくべきです。
<祈祷>
愛のお父様! 6千年の歴史を見ると、大きく見ると今までは夜の期間でした。 大きく見ると、夜の期間を超えて今朝が堂々と明ける時期にとどまっており、全体的に朝の時期を迎えるべき今日、私達にとっては暗い夜の期間を過ぎて復活の賜物を備えなければならず、天に行かれたイエス様の前に心を置いて再び来られる心に沿って、地を考えるイエス様を、私達が代わりに心情を備えて、訪ねて下さる聖霊と一体を成し遂げ、外的な中心を成し、そうしてその中心にイエス・キリストを祀って霊的な中心を成して、天地を創造されたお父様の本然の心情を備えたひとつの中心存在として立てられる事を、この時間知る事ができる事を語って下さいました。
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今、私達が地の為に生きていますか? これは半分しかできない人生である事がわかります。それとも、永遠の為に私達が生きていますか? 半分しかできない事がわかります。
これまでは、私達がイエス様に沿って上がる生活をしてきましたが、今は従って下ってきて聖霊を慕い、一体の花嫁に仕える事を望むイエス様の願いを成し遂げてください。この地で聖霊の花嫁の品性を慕い、彼の心情が、彼の徳性を心と体に満たしてくださり、イエス・キリストが地上で外的に完成できなかった事を聖霊の働きに、聖霊の協力で、完成した存在で立って創造の理念全体に代わる一つの中心存在として立ててください。
そうして天の本然の中心として天地に通じ、創造主の中心を通じた心の中心として来られた事を被造万物の前に自慢できる様にしてくださり、全被造物の中心に立てていただき、父の前に堂々と出て行き、「失っていた6千年の愛の心情を自分一人で回せる自分がいるのですから、お父様!愛してください。」と言える息子の位置まで導いてください。
今日までこれを成し遂げる為に苦労の歴史を経てこられたので、苦労の歴史を経て出てきたお父様のご苦労の前に呼びかけを信じ、立てた心を信じ、探した心を信じて愛する事ができる存在として立ち、今お父様が眺めておられる場所に立って万物を眺める事ができる子供の立場に立ててください 。
この時間に集った皆さん、愛する子供達、しばらく聞いた御言葉が心の力になり、命の中心に立つ事ができる様にしてください。どこに行ってもこの中心を失わない様に導いてください。夜になっても心だけは昼間に居られる様にしてくださり、いつの時かある時に主が臨み、聖神が訪れ、お父様が顕れても、足りない姿であっても導いてくださり、どんな時に臨んでも準備を完結した子供として立ててください。
御言葉を終わりますので、彼らの生涯の路程の道を一緒にしてください。主の名を通してお祈り致します。アーメン。
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