人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集1(16、17)

2023年07月22日 12時44分47秒 | 学習
文鮮明先生の言葉選集 1 - 16. 「世界の罪を背負って行かれた神の小羊を見よ」(1956年11月25日)
1956年11月25日(日曜日)、前本部教会。
聖書拝読 マタイによる福音書5:43-48、ヨハネによる福音書1:19-34


<祈祷(Ⅰ)>
 生命の復活を約束されたお父様、愛の恵みを許されたお父様、永遠の命を与えられたお父様! この日、遠くにおいでにならず、私達の心においでになり、私達の身体においでになり、私達の周りにおいでになるお父様! 私達はお父様の愛を崇拝する心を持っており、お父様の愛に浸りたい心を持っており、お父様の栄光を歌いたい心を持っております。

この時間、私達を訪ねてくださったお父様、喜ばしい栄光を示してください。そして私達も喜べるように、自己を輝かせて本心本性で動くことができ、万物とも調和できる栄光の雰囲気によって、この時間において各自の身体と心を正すようお願いいたします。

約束のお父様! この時間に臨ませてください。能力のお父様! この時間に現れてください。取るに足らない私達ですが、お父様の命令に従って進む時には、永遠の生命の領域を開拓できる力が湧き上がることを知っております。愛のお父様! この時間にためらわず、まず私達の心を通じて命じてください。私達の身体も通じてお命じください。

創られた本来の姿を再び見つけ出してください。そうしてその美をご覧に入れてお父様が楽しむことができ、天地万物の前に堂々と立ち向かうことができ、誇りに思える息子娘としてこの時間を守ってください、愛するお父様、切望しております。

    1

本日は聖なる日です。万民の生命を責任持たねばならない日ですし、死の権限にある敵の手に捕らわれているすべての生命の心と身体をお父様の前に導かなければならない日です。

この業務を責任持って遂行される方々は、イエス様と聖霊であり、この業務に協力する者達は天にいる無数の聖徒です。ですから、今日、地上にいる私達も団結してその一つの意思のために協力しなければならない残された使命があることを知り、お許し頂きますようお願い申し上げます。

お父様! 残された使命を果たせる力のない立場にいると言うならば、永遠に約束された祝福の意志を私達の心に持つことができるようにお許しください。また、私達を天の裁きの前に立たせてください。

悲しみを引き起こす哀れな子どもにならないように許可してください。お父様の心に幼く、お父様の徳性に幼いので、お父様が築かれた全体の意志を身体と心を通じてお父様がお話しになる前に成し遂げることができ、お父様が要求される前に行動することができ、お父様が望まれる前に実践できるお父様の子ども達となるようにお許しください。

お父様! まずはこの民族を祝福してください。民族を代表する団体を祝福してください。そしてここに集まっているあなたの子ども達を祝福してください。

    2

この御旨を万国の生命ある者達に告げ知らせてください。新たな生命の祝福をお許しください。すべての民にお父様の御意を悟らせ、民の生命の基盤を高めてください。その上で平和を齎すことができるようにお許しください、お父様! 切にお願い申し上げます。

ここにひれ伏した子ども達が、新しい心でお父様の愛と祝福を受けることができるようにお許しください。彼らの身体がお父様の祝福された栄光の美しさと、愛の美しさを備えることができるようにお許しください。

お父様の前にふさわしくないために悲しみを引き起こすことのある罪の苦い根を持つ子ども達がいるでしょうか? お父様、この時間に臨み、現れてください。そして直接的な御手で再創造の歴史を成し遂げてください。お父様、切にお願い申しあげます。

この一時、集まった子ども達の上に、お父様の豊かな恵みを示してください。地方に散らばって孤独な祭壇を築いている子ども達に、あなたの言葉を証明する同じ恵みとして、この時間において働いてください。私のお父様、切に願い、お望み致します。

個々の心の主となってください。個々の身体の真の主となってください。私達の身体を聖別し整えてください。許された恵みをこの時間に私達の身体と心に十分に満たしてくださり、全体の上に臨んでください。切に願い、お望み致します。
すべての御言葉を愛する主の御名においてお祈り致します。アーメン。

    3


<祈り(Ⅱ)>
  私達を集めて纏めるために努力されたお父様、私達は今日、この一つの聖殿を中心に集まりました。恵まれた私達の心と身体が一つになり、お父様の命令を代わりに果たせるようにお許しください。ひれ伏した私達の身体が神聖な聖殿とならなければなりません。

長い間ため息をつきながら探し求めてきた希望の姿が私達であることを悟ると、お父様は本当に哀れな立場におられることを知るようになります。これまでの摂理の歴史を通じて様ざまな試練を受けられたお父様の事情も理解する事ができます。

様々な試練を受けられたお父様であり、様々な苦難を経験されながらも希望の子ども達をお望みになり、真実に現われたお父様であることを思うと、私達は非常に微々たる存在であることを悟るのです。しかし、その御心に向かって謙虚な心を持って出てきました。お父様の意志を果たすために忠実な節操を持って出てきました。

そのような経緯から、昨日も今日も明日も戦いの任務を持って歩んでいかなければならない立場にある私達です。私達が進む道はただお父様の栄光のためだけの道であることを、お父様がご存知であることを信じておりますので、この時間においでいただきますようお願い致します。天を中心にして私達を導いてください。

信じがたいこの地上で、お父様だけを信じ、頼る場所のないこの地上で、お父様の命令を頼りここまで来ました。お父様、今日の摂理を心配せずにはいられませんし、明日の摂理を心配せずにはいられません。今日の感謝が永遠の感謝となり、今日お父様を呼ぶ声が永遠にお父様を呼ぶ声となるようにお許しください。また、万物と共に栄光の歌を歌うことができるまで、お父様ご自身が直接的に保護し、見守ってください。愛するお父様、切に願い、お望み致します。

    4

お父様、時期が遠くない中で、天からの促(うなが)しを受けているお父様の子ども達、時期が切迫し、急がれるあなたの心情も悲しいですが、闇と不信の世界で立ち上がり、新しい使命を開拓しなければならない新しい時代のお父様の子ども達も哀れでございます。

お父様! この時間、ご心配の心を解かれてください。天のご心配が非常に大きいことを知り、私達がそのご心配を代わりに背負い、残された復帰の意志のために戦い力を尽くすことを願っています。お父様! 私達をご覧いただき、慰められる様にしてください。民族の悲しみや団体の悲しみを私達を通じて癒される様にしてください。

お父様、喜びを感じる一筋の生命の光に向かって進むことができるように、あちこちに散らばっているあなたの子ども達を早く一つの場所に集めてください。勝利の祭壇と栄光の祭壇、そして正義の祭壇を築くことをお許しください。民族を通じて、この世界の人類を通じて、お父様の一つの意志を成し遂げることをお許しください。愛するお父様、切に願いお望み致します。

この場に出てきた子ども達の中に、まだまさに悪魔の中傷条件に引っかかったり、恨みの心を抱いている子ども達がいるでしょうか? お父様、そのような子ども達がいないようにお許しください。もしその様な彼らがいるのであれば、この時間、力の歴史として、彼らの心に悔い改めの感動的な恵み、復活の恵みをこの時間にお許しください。お父様! 切に願い、望んでおります。

残された時間をお託し致しますので、悲しみを除いて栄光の中で私達を導いてください。あなたが直接主導できるし、誇れる喜びの恵みだけが私達の頭上と心と身体に満たされるようにお許しください。切に願い、お望み致します。すべてを託しまして、主の御名において祈りました。アーメン。

    5

<祈り(Ⅲ)>
 お父様、御言葉によって、まだ万民の前に頭を垂れるべき姿勢が残っていることを知るようになりました。今日の私達は、お父様の完全性の前に私達自身の不完全さを克服するための闘いをしなければならない立場にあり、不変の真理の原則を超えなければならない運命が残っています。

今こそ、万宇宙の前で私達自身を示す時です。完全なるお父様の御姿に似て、万物を主管しなければならない歴史的な運命が、私達一人ひとりに残っていることを思い知るとき、今の私は、永遠なるお父様の嘆きを代わり持つべき私であり、永遠なるお父様の愛を証明しなければならない私です。更に今の私はお父様の御言葉をこの暗い世界に伝えて復帰の使命を果たさなければならない私です。

しかし、今日まで信じて歩んできた私達の信仰生活は、お父様の前に示すことのできない生活でしたので、この時間、自ら悔い改めることができ、自ら目覚めることができるようにお許しください。

今、私達が持っているすべての概念や主張や自己の意志を、尊厳なるお父様の御心の前に捧げ、自己存在を完全になくし、永遠なる存在である本性の私を取り戻し、完全なるお父様の御姿に似て、お父様の栄光に浸ることができる私を取り戻すための闘いが残っておりますので、今日この闘いの場で退く者にならないようにお許しください。

日々の生活を通じて、そして生涯を通じてお父様の喜びの栄光となりうるし、お父様の御心にふさわしい美しい子ども達となれるようにお許しください。お父様、切に願いお望み致しております。

    6

今は復帰の時期を反映する時であり、昔のイエス・キリストの時と同じく、歴史的な審判の基準を超えなければならない時です。ユダヤ教の前に新たな意味を示しながら、ヨルダン川での証しの歴史、バプテスマを与えたバプテスマのヨハネの歴史が世界的に起こっている時、バプテスマのヨハネの使命が後の私達の使命として残っていることを知りました。

今私達が持っている一人ひとりが天倫の安息の場を備え、バプテスマのヨハネの証しの中でイエス・キリストが罪と悪魔の侵略を受けずにお父様の前で栄光を讃えることができるべきその一つの善なる地、私達が手を取り合い、心を合わせて歌うことができる安息の地を築かなければなりません。

このような責任のために、今日私達を召されましたし、このような仕事のために今日私達を選んでいただいたので、選ばれた意志の前に悲しみと憂いを残す子ども達にならないようにお許しください。

バプテスマのヨハネの失敗によって天宙の怨恨が歴史に横たわっていることを知りながら、私達は今、天の召しを受け、天の選びを受けました。今日私達がお父様の御座の前に立って万宇宙の全体的な摂理の意志を完成させるための摂理の足場を築くことができるようにお許しください。

従って、喜びの園で栄光の楽しみを歌い、宇宙全体に向かってホザナの勝利の栄光を歌い、おいでになる主の前で栄光を讃えることができる御子となるようにお許しください。切に願い、望んでおります。

    7

歴史の悲しみを解消するためにおいでになったイエス・キリストを、この日、許された日を記念して思い起こすことができるようにお許しください。イエス・キリストの進まれた道がイエス様だけの道でなく、終わりの時に私達が進むべき見本の場所であることに気づくとき、私達の心が重くなり、身体が心に従属することを感じずにはいられませんので、皇公(こうこう)なる尊い御心の前に、自ら身を捧げ、この御心を受け入れるためのお父様の忠臣となれるようにお許しください。お父様に対する誠実な忠臣となれるようにお許しください。
お父様、切に願いお望み致します。

すべてを委ねますので、伝える者の心や受ける者の心が一つになるように許してください。この時も、疑いを抱く者の心を通じて悪魔が働くことを恐れるので、まずはその疑いを拭い去るようにお許しください。

自分自身も知らないうちに、もしかすると悪魔の力が作用して、御父様のご指図に心が動かず、聖霊の恩寵に満たされず、自ら闇の中に引きずり込まれる者がいるとすれば、慈悲の恩寵として悔い改めることができるようにお許しください。

そうして、お父様の愛に触れ、永遠のいのちの理想に浸るようにお許しください。この一時、御言葉と共にお父様のいのちの歴史、御言葉と共にお父様の愛の歴史、御言葉と共にお父様の権能の歴史が現れるようにお許しください。切にお願いいたします。
すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。

    8


<御言葉>
 堕落以降、イエス・キリストがおいでになるまでの4千年の歴史は、善の歴史ではなく、罪悪の歴史でした。数多くの預言者がこの地上に現れ、4千年間にわたって摂理の意志に従い罪と戦ってきましたが、残った罪を完全に清算することはできませんでした。それゆえに罪と戦いながら失敗し、また失敗して4千年まで摂理は延長されてきたのです。

神の摂理の目的は、この罪を完全に清算することです。従って、この罪が完全に清算される日まで戦いの歴史は止めることができず、帰還の歴史も止めることができません。そして神は愛する子ども達を摂理の使者として送り出すことができないのです。

それゆえに神は、御心を成し遂げるために堕落したアダムの家族の代わりにノアの家族を立てられました。しかしノアの家族も再び失敗したために、アブラハム、イサク、ヤコブを立てられ、そして民族の代わりとなるモーセを立てられました。その後、サウル王、ダビデ王、ソロモン王を経て、4代預言者と12使徒を経由してバプテスマのヨハネまで至りました。

今、天の前に人間として果たすべき使命が残っていますが、その使命は何でしょうか? 人間は堕落の原因となった罪の根を植え付けてきたので、人間によって罪の根となる悪魔を従わせ、神様の前に立って栄光を帰すことです。このような人々を見つけて立てるために、神様は4千年間の歴史を経て現れました。

では、洗礼ヨハネがこの地上に現れて果たすべき使命は何だったのでしょうか? イエス・キリストを証しし人々を導くことでした。

    9

イエス・キリストは堕落していない完成されたアダムの立場に立たされていたため、生まれながらにして天の前に栄光を帰すことのできる方でした。そして彼自身によって神が喜ぶことのできる方でした。神は全人類の前で自慢し、悪魔の前で自慢するためにイエス・キリストを送られたのです。

ですから、イエス・キリストは生まれながらにして苦難の道を歩むべきではありませんでした。生まれながらにして人間を代表して神に喜びを帰し、栄光の仲介者となるべき方であり、愛の仲介者となるべき方であり、善の仲介者となるべき方でした。しかし、このようなイエス・キリストをこの地上の人々が受け入れる事はありませんでした。

そのため、罪とは無関係で、ただ善と喜びだけが彼の生活に満ちるべきであるにもかかわらず、洗礼ヨハネがイエス様の前に責任を果たせなかったため、悪魔がイエス様に侵入したということを皆さんは原理を通じてよく知っています。

では、終末に立たされた今日、私達にはどんな使命が残っているのでしょうか? 洗礼ヨハネの使命を果たすべき使命が残っているということです。つまり、4千年の歴史に代わって来られたイエス・キリストの前に勝利の栄光の子として、イエス様と共に喜びを分かち合える善の人とならなければなりません。これが私達の使命であり、皆さんはこれを忘れてはなりません。

神様の憂いは、イエス・キリストを悪魔が引き連れて試みたことにありました。そしてイエス様が来られた後の2千年間、悪魔と闘うことになったのは、当時のユダヤ人が不信心だったからであり、また新たな証しの使命を持って来られた洗礼ヨハネがミスを犯したからであったことを皆さんは知っているでしょう。

    10

今、終末の時期が再び目前に迫っている中で、皆さんは罪と闘わなければなりません。そして皆さんは、4千年にわたり神様と対立して戦ってきた悪魔に立ち向かって戦わなければなりません。私達は6千年の間、洗礼ヨハネの使命を代わりに果たし、悪魔を従わせなければなりません。そして、我々自身から悪魔の痕跡を無くさなければなりません。そのような責任が皆さんに残されているのです。その責任を果たさない限り、再臨する主は皆さんに接することはできません。

もともと神様の創造理念の園は、悪魔の痕跡のない園でした。ですから、神様の創造理念をこの地上で実現するためには、私達は悪魔を従わせ、堕落しない完全なアダムのレベルに上らなければなりません。ですから、神様の栄光に代わり、悪魔の前で誇ることのできる姿にならない限り、イエス・キリストが悪魔の前で試されたその恨みを解放することはできません。

人間が堕落したため、悪魔は人間を虐待し、全地を支配しています。これを変えるためには、復帰の原則に従う必要があります。人間が悪魔に虐待されたため、イエス様が助けてくださらなくても、聖霊が助けてくださらなくても、神様が助けてくださらなくても、人間自身の力で悪魔を従わせることができなければなりません。人間が悪魔が提示する罪の条件を克服できるようにならなければなりません。そうすれば、勝利の子となることができます。

宇宙的な悪魔と一人で闘って勝利できる子とならない限り、皆さんとイエス様との関係はなくなってしまいます。

このような道は本来私達には辿るべき道ではありませんが、生きて行けないと言われても、死んででも進まなければならない運命の道です。

    11

イエス・キリストは、自分自身が達成すべき意志で生きて達成できなくなったため、死んでもその意志を達成するために2千年の歴史が経過した今日まで、自らの実体を代わることのできる栄光の息子娘を待ち望んでおられます。

これを考えると、6千年の歴史は栄光の歴史ではなかったことがわかります。神様の前での栄光の歴史ではなかったのです。また、今もなおイエス様と聖霊が悪魔と戦っている限り、イエス様と聖霊の意志に従う息子娘達が悪魔の試練にさらされている限り、神様の創造本来の理念がこの地上で実現したとは言えません。

そのため、地上で起こった怨みは神様の怨みとして残り、地上の怨みを解消するための新たな歴史は、神様の十字架、イエス・キリストの十字架、聖霊の十字架、そして今日信じる人々の十字架として残されました。

これまで私達は聖霊の保護と命令を受け、イエス様の保護と命令を受け、神様の保護と命令を受けて生きてきました。しかし、今後の私達はむしろ聖霊を慰めるための存在であり、イエス様を慰めるための存在であり、神様を慰めるための存在とならなければなりません。

聖霊の意志、イエス様の意志、そして神様の意志は、個人に対する意志ではありません。この意志は個人を通じて、世界を通じて、天地まで広がる意志です。このような意志を代わりにして宇宙的な天の心情を慰めることのできる宇宙的な息子娘には誰がなるのでしょうか? 天はこのような息子娘を見つけるために、秩序を整えて現れたのです。皆さんはそれを知る必要があります。

    12

私達はこのように歴史に結びついた罪の負債を清算するために、今日も戦い続けなければなりません。生涯を捧げてでも超えなければならない、つまり全力を尽くし、命を捧げてでも超えなければならないその罪の頂上へ向かって、皆さんは新たな覚悟を持って立たなければなりません。

イエス様はユダヤ教の律法主義者や多くのユダヤ人達が反対しても、その中心は変わらずに天を証しし、新たな洗礼を与えられたのと同様に、今日の私達もそうでなければなりません。ここで私達は最終段階で教派を超えなければなりません。そして教派を超えると同時に、世界人類のあらゆる思想を超越し、孤独でも悪魔と戦える存在とならなければなりません。

そうして皆さんがすべての悪魔達との戦いで勝利するならば、天の栄光は皆さんとともにあり、また天の喜びも皆さんと共有できるでしょう。

今日のこの時点でも、皆さんの前には罪の重荷があります。その重荷はどのような罪の重荷でしょうか? 4千年の間に神様を愛し、予言者達が犠牲になった罪、イエス・キリストを十字架に掛けた罪の重荷です。したがって、皆さんがその罪を清算できないならば、皆さんは罪のない善の天国とは関係がなくなります。その罪の重荷を取り除けなければ、天国に入ることはできません。これを皆さんは知らなければなりません。

今日、皆さんが神様の意志に従って宇宙的なセヨンの立場を代わりにして立つのであれば、宇宙的な罪を知ることができるようにならなければなりません。そして、神様の怒り、イエス・キリストの怒り、そして聖霊の怒りを一人で背負い、罪によって苦労されてきたイエス・キリストと聖霊、そして神様を皆さんが慰めなければなりません。そして、安息の日まで導くことができるその姿が皆さんの中に現れなければ、この地上に主が再び来られても何の意味もありません。

    13

私達は終わりの時代に、セヨンの立場を代わりにして罪と戦わなければなりません。6千年の歴史を代わりにして、宇宙的なセヨンの使命を果たさなければなりません。さらに、それに加えてイエス・キリストの戦いの苦労を体験しなければなりません。

イエス・キリストが来られた後に残ったものは、十字架の道です。バプテスマの道を通して、十字架の死の道を経て、永遠の勝利の基準を築こうとしましたが、霊的な面でしか築けませんでした。

今日、私達には肉体と霊を結びつけて、洗礼の道理を代わりにし、天宙的な、天倫的な使命を果たさなければなりません。皆さんはこの地上においてイエス・キリストが人間から受け得なかった栄光を思いやり、その栄光を解放しなければなりません。このような使命が人間にあったため、イエスと聖霊は2千年にわたって人間に対して歴史を作りました。しかし、今日の信徒達はこの事実を知らず、イエスと聖霊をただ人間のための僕として信じてきました。

では、悪魔の正体は誰でしょうか? 天使長です。エデンの園で万物を支配するはずの人間の支配権が天使長に奪われ、行使できなくなったことが堕落です。そのため、私達が復帰の過程において、悪魔まで主管するという立場を経験しなければなりません。

では、そのような道を進むために私達はどうすればいいのでしょうか? セヨンが示した生涯、イエス・キリストの生涯を見習い、彼らと同じ道を歩むことを学ばなければなりません。

    14

それでは、イエス・キリストがこの罪の壁を崩すためにどのような道を進まれたのでしょうか? 終わりの時代にある今日、皆さんは自分達の人生の道程でイエス・キリストが進まれたその道を再び辿らなければなりません。

イエス・キリストが悪魔と戦ったとき、天宙的な罪を引き抜くためにその罪を攻撃する立場に立ちませんでした。イエス・キリストは罪を消し去るために、罪に対して攻撃する立場に立たなかったのです。罪を無くすために、罪を屈服させるために、その罪を自ら背負う立場に立ったのです。これがイエス・キリストの精神であることを皆さんは知るべきです。

罪は悪であり、悪いものです。私達が持っている創造の本性に反対する作用をするものが罪です。イエス様はこの罪を清算するためにその罪を背負ったのです。そして、イエス様が罪を背負ったということは、個人から家庭、社会、国家、世界、人類、天界にいる霊的存在の罪まで背負ったということです。創世以降の4千年の歴史において、数多くの霊的存在の罪を背負ったイエス・キリストであったことを皆さんは知るべきです。

さらには地獄にいる霊的存在の罪まで背負わなければなりませんでした。なぜなら、イエス様は完全なアダムの立場でおいでになったからです。アダムの堕落によってその怨恨は天界まで巻き込まれたため、イエス様は堕落によって生じたすべてのものを引き出し、埋める必要があったのです。

したがって、イエス・キリストの生活は、悪魔の世界の生活とは正反対でした。悪魔の世界の要素と本質には希望がないことを知っていましたが、それに対抗して柔和さと謙遜の道理を教えました。したがって、キリスト教の真理は世界から離れる真理でした。キリスト教の真理は、世界に対して抵抗することで特徴付けられています。

    15

イエス・キリストは未来の罪と直面せずに後ろを振り返り、それを引き受けるべき理の事情があったため、困難な人生を送られました。イエス・キリストは天宙的なすべての罪を引き受け、勝利の時まで十字架の苦しみを受けたかわいそうな存在でした。今でも彼は霊界におられますが、休むことができません。地上の誰かがそのすべての罪を引き受けることを望んでおられるのです。

私達が人間の罪を引き受けるためにおいでになったイエス・キリストの一生を考えると、この地上においでになって帰られるまでの30年以上の生涯で、人々が経験するすべての困難な状況をお受けになったことがわかります。かわいそうな人々の罪を背負うためにかわいそうな立場に身を置かれ、飢えた人々の罪を背負うために飢える立場に身を置かれ、孤独な人々の罪を背負うために孤独な立場に身を置かれたのです。

そのため、イエス様は個人の罪を引き受けられる立場に立った後、家庭的な罪を背負おうとしました。そのために家庭の前に現れましたが、その家庭はイエス様に反対しました。自分の愛する両親さえも反対し、兄弟達まで反対しました。

さらにイエス様はユダヤ教の指導者達からも疎外されました。それは家庭的な罪を背負うと同時に、教派的な罪を背負わなければならなかったからです。また、ピラトやヘロデ王さえもイエス様を拒絶しました。彼らはイエス様の意志が彼らの望みと異なるためにイエス様を十字架につけました。しかし、イエス様は帰られるその日まで、そのような敵対者達を恨まず、むしろ彼らのために祝福を願いました。このようなイエス様の姿を今日の皆さんは心に深く刻まなければなりません。

イエス様は馬小屋で生まれました。イエス様は最も卑しい状態から始まり、神の子としての最高の地位に至るまで進みました。イエス様はこの地上の人々のために来られ、この地上で神を信じる人々のために来られたのです。

    16

しかし、イエス様の友人といえる人は誰でしょうか? ゲツセマネの園で祈る時、愛する三人の弟子さえも眠ってしまいました。十字架の山上に向かって進む時、心と心を合わせなければならない立場にありながら、三人の弟子はそのような事情とは無関係な立場を取っていました。

イエス様は天宙のすべての罪を負担する使命を自覚し、鞭打たれても感謝し、非難や嘲笑を受けても感謝したのです。

皆さんは、イエス様が罪を清算するためにその罪を打ち砕いて排除しようとはせず、悪魔に関連するすべての天宙的な罪を自分が引き受けようとされたことを知らなければなりません。しかし、まだ罪が完全に清算されていないため、イエス・キリストはその罪を清算する歴史を進めているということです。

このようなイエス様を救い主として崇拝している皆さんに言えることは、皆さんは自分達が救い主の前でどの程度罪を背負ってきたのか、どの程度罪を負うことを試みたのかを考えなければなりません。そして、イエス様が生きた環境と同じような状況に身を置くことができるようにならなければなりません。

皆さんが今、個人的な罪と家族の罪を背負わなければならない世紀末的な運命にあると言うならば、いつかは個人的に迫害される時が来るでしょう。また、家族的に迫害される時が来るでしょう。イエス様が個人的な反対や家庭的な反対、教団的な反対を受けたように、終わりの時にある今日のキリスト教徒達も同様の反対を受けることになるでしょう。社会的に反対され、国家的に反対され、世界的に反対されるひとつの宗教が現れるでしょう。

    17

そして、人間の罪を清算するためのイエス・キリストの戦いがまだ完全に終わっていないのに、イエス・キリストに代わって地上で天宙的なすべての罪悪を背負うため、個人から家族、社会、国家、世界、さらには霊界の霊的な存在からも非難を受ける信仰者が現れるでしょう。また、彼は父なる神、聖なる者、聖霊からも非難を受けることになるでしょう。これは一つの難局に向かって歴史が進んでいるということです。これを皆さんが理解しなければなりません。

旧約を信じて出てきた人々がイエス様の前で敵となったように、同様に今日、イエス様を信じて出てきた人々が新しい神様の摂理の前で敵の立場に立つことは容易ではないということです。

イエス・キリストが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」(マタイ27:46)と言われたのは、最後の審判の場で神様がイエス・キリストを知らないと宣言されたからです。

同様に、今日の皆さんがこれまでのすべての罪の歴史を負う覚悟をし、自分の体をささげようとしても、神様は皆さんを知らないと言うでしょう。しかし、イエス様が十字架上でも変わらなかったように、変わらない信仰を持たなければなりません。皆さんが一つの身体を目的のためにささげたと考えるなら、既に皆さんは死んだ人と思わなければなりません。このような革命的な信仰を示すことが、キリスト教徒の使命であると言えます。

では、今日の皆さんを反対する人はいますか? 彼らに感謝する必要があります。また、皆さんを反対する家庭はありますか? その家庭に感謝しなければなりません。そして、皆さんを反対する教団はありますか? その教団に感謝しなければなりません。国家や世界が反対しても感謝しなければなりません。さらに、霊界や肉体界が反対し、天が皆さんを知らないとしても、永遠に変わらぬ心を持つべきです。不動の信仰を持つべきです。

    18

アダムが堕落させた悪魔が反対し、イエス様や聖霊、神さえも知らないとしても、変わらぬ信仰を持つ信徒が現れなければならないということです。これが最後に残された使命ですが、現在、24億人の人々、イエス・キリストを信じるクリスチャン達はこれを明確に知らないでいるということです。そして、そのような信仰を持つ個人になったからと言って終わりではないということです。そのような家庭や社会、国家、世界を創り出さなければなりません。皆さんがこのような信仰を持つ聖徒にならなければ、皆さんは神様の意思とは無関係になります。イエス様が皆さんの前に花婿として現れるその道が閉ざされてしまうでしょう。

イエス・キリストの愛は神様の愛を代表したものです。そして神様の愛は天宙のどんな存在に対しても抗(あらが)えない愛です。皆さんはこの神様の愛を受け入れる必要があります。そのためには、この世界のあらゆる罪を自己に帰する覚悟を持ち、悪魔が皆さんを試みようとも、堂々と受け入れ、それを乗り越える勝利の子とならなければなりません。そうしなければ、宇宙の力の中心、存在の中心として歴史の中で活動している神様の愛とは関係がなくなってしまいます。

そのため、イエス・キリストはこの地上の人々のために冤罪を受けながらも、彼らを憂い、涙を流されたように、終わりの時には信じる聖徒の中から多くの人々がそのような境遇に立たなければなりません。そうした聖徒達が増えれば、教派の分裂はあり得なくなるでしょう。そして、殉教しなくても、良心の働き、真理の働き、天の力の働きが大きいため、全天宙がそのような聖徒達に従わずにはいられなくなるということです。

そうした立場に立てば、はじめて勝利の道標を立てることができ、勝利の家族、勝利の祭壇、勝利の世界を築くことができ、勝利を天にまでつなげることができます。そのような責任が皆さんにあることを忘れてはいけません。

そして、今日の皆さん個人を中心に起こる戦い、皆さん個人を中心に行われるすべての出来事は、皆さん個人に限定されたものではありません。したがって、皆さんは注意が必要です。もし皆さん個人が間違えると、それは全体に影響を与えることになります。

    19

今、皆さんは神様の御心に邪魔になる人となってはなりません。全体のために犠牲を払う道を歩まなければなりません。

そして善良な人がいれば、彼らを大切にしなければなりません。悪意のある人がいても、その人以上に心配し、同情することができなければなりません。そのような個人となり、そのような家族や社会、世界を築くために、十字架の苦難さえも背負って前に進まなければなりません。イエス・キリストの心を代わりにし、神様の御心を達成するために真の勝利者とならなければなりません。







『文鮮明先生御言葉選集 1 - 17. 神の摂理と超現実的な冒険性 (1956年 12月 2日)』
1956年12月2日(日曜日)、全本部教会。
聖書拝読 ルカによる福音書22:24-46


<祈祷Ⅰ>
天上に怨恨を抱いた壁を崩すべき使命を負った全人類のために、この日まで努力の歴史を展開してこられたお父様! 今、私達は心から天上の怨恨を崩すべきであることを知りました。そして、その怨恨を地上で解き放つことによって天上との縁が結ばれることを私たちは言葉を通じてよく知っております。

本日、私達をお父様がお呼びになっていることを心に留めさせてください。

今日、生きている私達自身を、お父様の代わりとして立てられ、全人類の前にお父様の子として立てられました。ですから、今、私達の一身からお父様の栄光だけが現れるようにお許しください。私達の行動からお父様の善と義だけが現れるようにお許しください。

    20

こうして私達が集まる場所ごとにお父様の愛を中心にして活動することができ、お父様の前に栄光を捧げる勝利の歌が天地に満ちるようにお許しください。愛するお父様、切望いたします。

天はこの時も私達を忘れず、私達を呼び、私達に対して願われる意志を命じておられますが、本日、私たちはその呼びかけに応えることができる存在となり、お父様の前に活動の供物となる存在となっているか考えると、そのような存在となっていないこと、まだまだ未熟で不完全であり、足りない立場にあることをお許しください。

これから私達は心の扉を開き、改心して聖別の供物となることによって天上に存在する怨恨が私達を通じて解消されることを許してください。また、そのような喜びに満ちた日を迎えることができるあなたの子供達となることをお許しください、お父様、切望いたします。

終わりの最後の困難な壁が私たちの前に立ちはだかっており、生死をかけて戦わなければならない試練が立ちはだかっておりますが、この戦いの試練の中で天上の怨恨を抱いて倒れる愚かで卑しい者とならないようにお許しください。お父様、切望いたします。

私の心はすでに覚悟しており、供物として捧げさせていただこうと思っておりますので、不足なく受け取ってください。捧げられた供物として、すべてをお父様に委ね、お父様の命令を求めることができる子供となることを許してください、愛するお父様、切望いたします。

    21

お父様、この時間は神聖な時間です。お父様、この日は神聖な日です。お父様、この年全体が神聖な年となるようにお許しください。この民族を代表して集まるあなたの子供たち、どこに集まっても祝福してください。天に隠れていた聖霊の炎を燃やし、終わりの時に約束された聖霊の働きを注いでください。水のように注いでください。

お父様、怨恨の壁を崩すことができる子供達が多くなるようにお許しください。そして、集まる場所ごとに隠れた祭壇と同時に現れる祭壇となり、天宙的な闘いで勝利することができるように、お父様、お許しください。また、天からの直接的な命令に応じて天宙的な闘いで勝利し、勝利の烽火をお父様の前に上げることができる私たちとなるようにお許しください、お父様、切望いたします。

お父様、ここに集まったあなたの子供たち、今私達は集まりましたので、それぞれの体と心を主管してください。まだ自己中心的な妄想から抜け出せない子供がいるのであれば、それをすべて捧げさせてください。お父様の前に立つ供物となるように許し、穏やかで謙虚に供物として差し出されるこの時間をお許しください。喜びの賜物を分かち合えるように許し、調和の賜物を分かち合うこの時間をお許しください。私のお父様、切望いたします。


戦いに疲れ傷ついた子供達がいます。お父様、慈悲をもって彼らに勧め、この一時の恩寵が彼らの生涯を導くようにお許しください。生命の試練の基準を失わないように許し、生命を刺激する力と衝動が起こるように許し、深く隠されていたお父様の愛を感じ、お父様の愛に浸ることができるようにお許しください。そして、私達全員が感謝し、地上の数え切れない聖徒達を調和させ、彼らが天の御座の前で感謝を捧げる勝利の祭壇を築くことができるようにお許しください。お父様、切望いたします。

示された御意志、望まれる御意志が取るに足らない私達を通じてでも成し遂げられるようにお許しください。私達はすべてをあなたに委ねましたので、お父様、主管してください。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。

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<祈祷 Ⅱ>
 天の代わりに立ち上がりましたが、お父様、私達は非常に不足な者達です。何も持っていない私達がお父様の前に残ることを望むならば、この民族のために躊躇わずに立ち上がり、叫ぶことができるようにお許しください。この日、この時まで他人が知らない神様の心に似せるために、自らこの道を辿るために、様々な傷を受けた私達の体と心を、お父様、慈悲深くご覧ください。

我々は知らず知らずのうちに涙を流し、天に怨みを抱いたこともありました。遠くない未来のある日を私たちの前に約束してくださり、摂理の最後の実りを求め導いてくださったのですが、今日、私たちがこれを背負っていくことができるのか心配しています。お父様の前に進んでいく心構えを持つことができないのです。お父様、この日、ここに集まったあなたの息子娘たち全員を導いてくださいますようにお願い致します。

私たちの心と身体に、お父様の喜びの御意が現れるように許してください。お父様の威光と御旨によって、私たちの誤った考えや悪しき心、誤った概念を取り除いてください。こうして私たちによって天命に煩わされてきた恨みが、この時点ですべて解決される感動的な歴史が全体に起こるように、お父様、お許しください。

悔い改めの歴史が私たちの心に起こるようにお許しください。能力の歴史として、私たちの体を治め、悪しき要素は除かれ、善い要素だけが永遠に存在するお父様の前に正しく現れるようにお許しください。こうして私たちは本質と本性によってお父様の徳と導きに応えることができ、お父様の愛の前に順応することができます。こうした美徳そのものをご覧いただき、お父様が楽しまれると同時に、天上の聖徒たちまでがこの時、私たちによって喜び、栄光の賛歌をお父様の前に捧げられるように祝福してください。お父様、切に願い求めます。

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お父様の前に進んでいく心構えを持つことができないのです。お父様、この日、ここに集まったあなたの息子娘達全員を導いてくださいませ。

この時間も罪悪の暗い波がそれぞれの心と身体に侵入しようとしていますので、力と能力を許してください。集まった息子と娘達が多いほど、その中にカインとアベル的存在があることを知るようにお許しください。私達がカイン的な立場に立たないようにお許しください。

アベル的な犠牲となり、自ら実体の犠牲としての責任を果たせるようにお許しください。アベルを代わりにしてカイン的な存在達を父の前に服従させることができるようにお許しください。父の能力と権能の歴史がこの時間全体の前に現れるようにお許しください。お父様、切に願い求めます。

お父様! 今日のこの時間、私達に託された使命が、私の一個人の救済と解放のために託されたものではないことをこの時間に心に留めるようにお許しください。今日の私達にこの民族の運命がかかっていることを知るようにお許しください。今日の私達を通じて全世界24億の人々が天地に呼びかけの条件を築くことができるようにお許しください。

お父様、厳かで重大な生死の道に立つ私達が、右手には天を掴み、左手で悪魔を打ち破り、勝利を収め、両手を掲げてホサナの栄光をお父様の前に捧げることができるように、お父様、お力添えをお許しください。この時、集まったすべての息子と娘達をお父様が導いてください。参加した息子と娘達の中で、まだ悪の苦い根を心に抱き、悔い改めたくない者がいないようにお許しください。能力をもって現れ、心に抱えたすべての罪の苦い根を取り除き、爆破させてください。

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この時、悪魔のものは悪魔のものとして、天のものは天のものとして区別され、喜びの犠牲としてお父様の前に捧げられるこのひと時をお許しください。お父様、切に願い求めます。

この時、孤独なあなたの息子と娘達、新しい福音の言葉を持ち、各地に散らばっているあなたの息子と娘達、一人でひざまずき、天の前に犠牲の道を代わりに進むのが難しいと知っているので、お父様、共になしてくださいませ。

時ならぬ時の意を受けるあなたの孤独な息子娘達、悪魔との戦いで疲れ果てないようにお許しください。これまで守ってくださったお父様、この時以降も守ってくださる恵みを願っていることを知っていますので、どこにいてもあなたの御意を代わりに遂行し、あなたの天命に従いつつも自由でいられるようにお許しください。

私達がみな、生命を犠牲にしてでもお父様の恨みの心情を抱き、天の前で感謝と敬意を捧げることができるようにお許しください。私達を父が喜ばれるような、ホサナの栄光を捧げる美しい存在として立たせ、迅速に天の御意を成し遂げられるようにお許しください。愛のお父様、切に願い求めます。

この日、民族を代表してお父様のひざの前に集まった祭壇が多く存在しますので、彼らが意志を誤解して悪の祭壇を築くことがないように、お父様、共になしてくださいませ。一人一人の心を結び合わせ、教派を結び合わせて、世界的な勝利の祭壇として父の前に捧げられるように、天のお父様の感動的な歴史がこの時、この民族を代表して集まった教派に起こるようにお許しください。お父様、切に願い求めます。

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この一時、すべてをお任せして、ご主管いただけますように。この一時に喜びの心情だけが運行するようにしてください。喜びの心情だけを示してください。心よりお願いし、主の御名によってお祈り致します。アーメン。


<祈り(Ⅲ)>
 お父様、この御言葉は再創造の御言葉です。お父様がエデンの園で「善」と仰った善の御言葉の実体が地上にないことを嘆かれているのが分かります。

失われた善の御言葉をもう一度見つけなければならない条件が残っている限り、私達は善の実体を見つけることができないことを知っています。

お父様、この聴衆の中に善の御言葉を示してください。見つかった善の御言葉で再命令して、善の実在を成し遂げられるお父様の特別な再創造の歴史が体と心を通じて聴衆の中で起こるようにしてください。お父様、切に願い求めます。

あなたが今、御言葉を語って下さっているので、伝える者も受け取る者も、その心が一つになるようにお許しください。相対的な基準に立って誇ることができる姿になったとき、全体はその中を通して築かれることができる原則を知っています。だからこそ、ここに立っているあなたの息子娘を導いてきて、御言葉の中心を築き、条件の歴史を創り出して、悪魔の力に打ち勝つことができるようにお許しください。私の体と心が悪魔の支配下に捉えられている場合は、御言葉によって分別し、断ち切って、あなたの聖別の息を受け入れることができるようにお許しください。お父様、切に願い求めます。

その時、多くの御言葉は必要ありません。これまで私達は多くの御言葉を聞いて、知ってきましたが、お父様、私の心が重生することができる力が必要だと知っています。力をもって歴史を創り出してください。能力をもって歴史を創り出してください。

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悪のすべての概念を除去し、復活できる命の御言葉を示してください。再創造の復活の歴史を創り出してください。お父様、切に願い求めます。

何よりも、思いやりのある心、思いやりのある感覚、思いやりのある概念、思いやりのある悔い改めを通じて、この時、一つの美の完成を望まれるお父様の心を理解できる人となれるようにしてください。一つの犠牲として捧げることができる時間になるようにお許しください。心よりお願いし、すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。


<御言葉>
今日の説教の中には、イエス様が最後の十字架を前にして大胆な覚悟を示された御言葉があります。そのため、本日のメッセージのタイトルは「神の計画と超現実的な冒険」となります。神の計画と超現実的な冒険という題目でしばらくお話しいたします。

現代の私達は天宙的な審判の日を前にして絶え間ない闘争の戦場に立ち向かっています。この戦場は平坦な道ではありません。ですから、皆さんが大胆な中心心情を定めて残された天宙の憎しみの審判を退ける勝利の中心心情を持たない限り、皆さんは歴史の戦場において敗者となり、人生の闘いにおいて敗者となるでしょう。

最後の天宙的な審判は、終末の時代の到来を意味します。多くの宗教や神話で、個人と全世界の存在が自らの行いと選択に対して評価を受ける瞬間が描かれています。この審判は宗教的な観点では霊的に浄化され、救われる時期であり、道徳的な側面では自分の行動と責任を背負う時です。

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自己認識は個人が自分自身を理解し把握する能力を意味します。個人の性格、感情、行動、能力などを認識し理解することを含みます。自己認識は成長と変化に貢献し、自己の成長と発展、達成のための出発点となります。また、自己認識は他者との関係においても重要な役割を果たします。健全で肯定的な自己認識があれば、自分と周囲の人々との関係がより健康的に形成されることができるでしょう。

最後の天宙的な審判と自己認識は相互に関連していることがあります。宗教的な審判の観点では、個人の行動と選択が自己認識と結びついて決定される場合があります。また、自己認識が個人の道徳的な選択と行動に影響を与えることもあります。これらの理由から、多くの宗教や哲学は自己認識を向上させ、自己の人生と省察を追求することの重要性を強調しています。最後の審判に備えて自己認識を通じてより良い生活を追求することが重要と言えるでしょう。

ですから、神様の計画の歴史は冒険的なスタートを切り、冒険的な終わりを予告する計画の歴史であることを皆さんは心に留めておかなければなりません。

現代において、私達が信仰生活を自由に送ることができる環境と様々な条件が整っているのは、皆さん自身が築き上げたものではありません。私達が自由な立場から神様を呼び、自由な立場から信仰生活を送ることができるようになったのは、私達の先祖達が数多くの冒険を乗り越えてきたからです。皆さんはこれを知らなければなりません。そして、皆さんが生活や信仰の中でこれを骨身にしみて感じないのであれば、最後の天宙的な審判の過程を超えることも理解できないでしょう。

その前に、皆さんはなぜ天が今日の自分自身を呼び立てたのかを知る必要がありますし、6千年の歴史的な因縁を乗り越えている自分自身がどのような存在なのか、自己の説明ができるようにする必要があります。

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また、今日の自分自身は天との因縁や悪魔によって妨げられた天宙的な因縁の過程を超えることができる自由の中心を築いているのか、そして未来に残る因縁の審判台を自信を持って超えることができる勝利の中心心情を持っているのか、といった問題を考える必要があります。現代の皆さんの信仰はどの段階にとどまっていますか?

皆さんは歴史的な過程を経て、現実的な過程を経て、未来的な過程を通して全体的な天の計画が完成するまで、天と関係を持ち続ける自己としての過去、現在、未来のさまざまな問題を考える必要があります。

そして、今や天が私を立てて終わりの全体的な使命を委託し、私を立てて勝利の栄光を示そうとしている意図があるとするならば、その意図は6千年の計画の意図を代替した意図であるでしょう。そして天が私を探し求めて立てようとしている目的は、最後の審判の過程を超えることです。つまり、新天新地の新しい基準であるということです。

従って、もしも皆さんが永遠に存続する新天新地の基準と勝利的な自由の環境を備えていなければ、歴史の進行に従って来られた神様の計画の前には勝利者として立つことはできないということです。

今、過去を振り返ってみると、天が現代の私を立てたのは私一人を救うためだけに立てたのではなく、歴史的な因縁を解明するための結実としての存在として立てたのです。皆さんはこれを心に留めて、アダムから結ばれた堕落の因縁を解いていかなければなりません。またノアの冒険的な因縁の心情を解いていかなければなりませんし、ノアの冒険的な生涯を解いていかなければなりません。

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その後、アブラハムからイサク、ヤコブ、そしてモーセなど、歴代の先知先哲が歩んできた冒険的な生涯、彼らが残した遺産を皆さんが受け継ぎ、それを一つの足掛かりとして未来に残る審判台を自信を持って超える堂々たる中心心情を持たねばなりません。そうしなければ、悪魔との歴史的な闘いで敗者となることを皆さんは心に留めておかなければなりません。

ノアは聖書に登場する人物で、彼の物語は創世記に記されています。彼は神様の命に従って大きな箱舟(方舟)を建造し、家族や動物達と共にその中に避難させました。その後、大洪水が起こり、地上の全てが水に覆われたとされています。しかし、ノアと彼の家族、そして箱舟の中の動物達は生き延び、洪水の後に新たな始まりを迎えました。

ノアの物語は、信仰と従順さによって困難を乗り越え、神様の指示に従いながら冒険的な旅をした姿が描かれています。ノアは神様の意思を理解し、周囲から異なる存在として取り囲まれながらも、その信念を貫いていきました。彼の忠実さと決意は、神様が地上を再び新しい始まりへ導くことに貢献しました。

ノアの物語は、信仰、勇気、そして困難を乗り越える力に対する称賛と尊敬を表しています。彼の例は、人々にとって勇気づけられる教訓となっており、冒険と信念の旅路において希望と力を見出すことができるかもしれません。

今、過去の私達の先祖を振り返ってみましょう。まず、ノアの生涯を見ると、平坦な生活ではありませんでした。神様から120年後に世界を水で審判するという命令を受け、アララト山の頂上に箱舟を建てるように言われた時、ノアの心情はいかばかりだったでしょうか? わずか12日でもなく、12年でもなく、120年もの間……アララト山の頂上に箱舟を建てるという御言葉は、その当時の現実とは合致しない御言葉でした。

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神様のそのような命令を受けて実行に移すノアの当時の状況を見ると、まさに狂った人であり、その時代には到底合致し得ない人物でした。神様から莫大な命令を受けたノアは内面的に固い覚悟と決心を持ち、そして1日でもない120年という期間を着実に一日を見据えて生活しました。そのようなノアこそが、1600年の歴史の過程には存在しなかった、1600年の歴史を代わって天の前に立った冒険的な先駆者だったことを皆さんは理解すべきです。

そのようにして決めた心を抱き、神様に従っていただろうか、世の人々に罵られようがどうだろうが、一度下された命令を変えない約束の意志を信じて進んでいくノアにとっては、それらのすべての条件は問題ではありませんでした。既に意志のために出発した基準、生命を覚悟し、生涯を捨てて進んだ彼の足取りの前では、それらのすべては問題ではなかったということです。だから、ノアは120年という長い期間を通じて、繰り返される努力の労苦を無言で歩んだのです。

そのようなノアには家庭的な非難があったことでしょう。社会的な非難も大きかったことでしょう。しかし、人々が知らない道、誰もが行ったことのない道、1600年の歴史過程で誰もが見たことのない道、ただ天の道をたどるために立ち上がったノアの足取りは誰にも阻(はば)まれることはありませんでした。ノアは当時の社会的な状況が邪魔をして、世界中の人々が彼を拒絶しても、それを堂々と打破することができる冒険的な人物であったことを皆さんは心に留めておくべきです。

そうしてノアは自分の前にどんな試練や困難が迫ってきたとしても、それを必ず乗り越えてきました。120年が経った後、アダム家族が失った還(かえ)された一つの家族を見つけ立てたのです。このようなノアの歴史的な立場を皆さんは理解すべきです。

アブラハムも同様でした。神様からカルデアのウルを去れという命令を受けたアブラハムはそれが簡単な問題ではありませんでした。神様が定めた故郷を後にし、家族や近所とすべてを捨ててカルデアのウルを去れと言われた時、アブラハムの心情は非常に迷い混んでいました。人間的に考えるとあり得ないことでした。

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しかし、神様の命令を受けたアブラハムは、これまでのすべての環境を超越しました。家族を超越し、これまで節約してきた生計をすべて捨てて荷物を持って旅立ちました。アブラハムの足取りは当時の現実では考えられないことでした。神様の意志を持って感じる人、神様の意志を持って考える人がいたとしても、誰もがアブラハムの側に立ち、「あなたの行く道は正しいので、どうか私を導いてください。」と言うことはできたでしょうか?

アブラハムは世界が認めようが認めまいが、意志を持った一心の心で永遠にカルデアのウルを去る決心で出発したのです。そして、天が導くままに足を進める際に、どんな冒険が続こうとも、大山を越えるような高峰が立ちふさがろうとも、死の山が立ちはだかろうとも、辛抱してそれらを乗り越えていったのです。

アブラハムの信仰は、非常に特異であると言えます。彼は神様からの命令に従って、自分の生活や環境を超越することを選びました。家族や財産を捨てて旅立ち、神様の導きに従って進んでいったのです。これは現実的な思考では理解し難い行動であり、アブラハム自身も多くの困難に直面したことでしょう。

アブラハムは神様の声に従って絶対的な信仰を持ち、天命に従うことを選びました。彼は自分がどれほど大きな試練に直面しても、神様の約束を信じて進み続けました。神様の意思に従い、約束された地へと向かう旅路は、人間の理性では計り知れない選択でありました。

このようなアブラハムの信仰は、彼の非凡な精神力と決断力、そして神への深い信頼によって支えられていました。彼の信仰は後世にも多くの人々に感銘を与え、模範となる姿として讃えられています。アブラハムのように、我々も時には非現実的に思える選択をすることがあるかもしれませんが、信念と決意を持ち、困難に立ち向かうことで新たな成長と発見が得られるかもしれません。

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神様はアブラハムを偶像崇拝者の父であるテラから選び出し、その地位に立たせられました。このように立てられたアブラハムは、「どんなに愛する両親や友人、兄弟が引き止めても、私の中心心情は変わらない」という固い決意をしました。それだけではありません。アブラハムは神様の祝福を実現するために、百歳で初子のイサクを犠牲として捧げるように命令を受けた時も、その命令に従いました。この命令は歴史上に存在しなかった冒険的な条件となるものでした。それは天国を代表し、天上の出来事や地上の出来事を左右する条件でありましたが、それを知らないままアブラハムはイサクを犠牲として捧げることを試みたのです。

愛する息子を犠牲にしようとするアブラハムの姿を想像してみてください。それは確かに非現実的な意識でした。その当時、誰がアブラハムの信仰を認めることができたでしょうか? アブラハムが示したこの冒険的な行動は、アブラハムとその家族が天国に属する者であり、アブラハム自身も家族も全ての財産も神の命令に従わなければならないことを表していたのです。アブラハムはこの事実を、ただ一人の息子を犠牲にする過程で理解したのです。

だからアブラハムは「この子は私が生んだものですが、あなたのものですから差し出します」という心でイサクを犠牲としようとしたのです。そして現実的な状況を乗り越えたのです。このような歴代の先祖達の信仰の中心を、皆さんは理解しなければなりません。

ヤコブも同じようであり、モーセも同じようでした。神様は彼らを立てる際に平坦な道を歩ませることはありませんでした。ヤコブは生まれた後、エサウから長子の権利を奪う闘いをしなければならず、モーセも幼い頃から戦いの環境にありました。

モーセはイスラエル民族が懐かしい土地の敵国で4百年にわたる苦難を経験していたときに、神様によって選ばれました。彼はファラオの恐ろしい迫害の下で3ヶ月間母親に守られ、その後はファラオの娘に引き取られて宮廷で40年間過ごしました。皆さんはモーセの宮廷での生活が豪華で快適な環境だったと思われるかもしれません。

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しかし、モーセは宮廷にいる間もイスラエルの民を代表する特別な存在であり続けました。それは彼の心に刻みつけられたものでした。そして40年間孤独にイスラエルの未来を胸に抱きながら生きる中で、宮廷を去った時にイスラエル人が宮廷の人々の前で不当な扱いを受けるのを見て、彼の憤りと正義感が爆発し、宮廷の人を殺してしまったのです。

その後、モーセは宮廷を去り、残されたイスラエルの祝福の意志を心に抱いてミディアンの羊飼いとして生活を始めました。彼の生活は快適なものではありませんでした。その時代の誰もが、豪華な宮廷を捨てて羊飼いになるモーセを理解してくれませんでした。しかし、モーセは失望することなく、神様のために知られざる祭壇、イスラエルのための隠れた祭壇を築いていきました。こうしたモーセが80歳になる頃、神様は彼を選び、民族の悔い改めを成し遂げる主役として立てたのです。

その後、モーセの歩んだ足跡はすべて冒険的なものでした。彼は現実を超越した神様の計画の中心的心情を持っていたため、彼の生涯全体が超現実的で、見据えることも、戦いに臨むことも超現実的なものでした。

神様からの命令を受けてモーセがファラオの宮廷に行く時、神様はむしろモーセの進む道を遮り、彼を殺そうとしました。神様はなぜ自分の命令を受けて進むモーセを遮り、殺そうとしたのでしょうか? 現実的には到底あり得ないことでした。ここには私達人間には理解できない内容があるのです。

現実的に考えると、到底越えることができない難関でした。しかし、モーセは既に覚悟を決めていた身だったので、生きようが死のうが、ただ一つの意志が成就することを心から願う気持ちで、神様が遮り、悪魔が遮る試練の条件を乗り越えたのです。そしてファラオの宮廷で超現実的な神の存在を確信し、10回以上の奇跡を起こしたモーセは、4千年の歴史の中で見られなかった天宙的な冒険の革命者でした。こうしてモーセはどんな反対にも屈せず、超現実的な信念で60万のイスラエル人を導きました。これを見ると、モーセの生涯全体が超現実的な冒険の道であったことを皆さんは理解する必要があります。

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モーセの後、民族の回復を代表する者としてイエス様が世界の回復の使命者として現れました。イエス様は、過去の4千年の歴史的な過程において、神様の御心を達成するために多くの先祖達が非現実的な生活を送ってきたことを理解されていました。そして、自らが先祖達が神の計画を達成するために来られたが、達成されなかった使命を完成させる責任を負う一人の存在であることを痛感されたのです。

歴史を振り返る中で、イエス様は多くの先祖達の未解決の問題が残っており、復帰の使命がまだ終わっていないことを理解し、それを終わらせねばならないと決意されました。

まさに4千年の開拓を成し遂げるための非現実的な冒険の使命を歩む覚悟をお持ちになりました。多くの先祖達の冒険的な歴史の使命を総合した使命を果たす覚悟をお持ちになったイエス様であったことを、皆さんは理解しておかなければなりません。

イエス様は、天宙的な冒険の歴史を清算しなければならない使命を負っていたため、彼は生まれながらにして冒険の道を歩まれました。彼の生涯もまた、非現実的な冒険の生活でした。そして最後には、十字架にかかる死の道まで非現実的な冒険の道であったことを理解しなければなりません。

それでは、イエス様の生涯は何を基にした生涯だったのでしょうか? 4千年の歴史を総括する生涯であり、それまで天の怨念に対峙していた冒険的な使命を終える生涯であり、新しい勝利の場を成し遂げるための地上に存在しない非現実的な勝利の生涯でした。


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