人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集2(19)

2023年12月17日 15時37分04秒 | 学習

文鮮明先生の御言葉集 2 - 19. 
強く大胆に、失われた福祉を回復しよう(1957年6月23日)

1957年6月23日(日曜日)、前本部教会
ヨシュア記1:1-9


<祈祷>
 イスラエルの民を選んで立てられたお父様よ、彼らを立てられて御心を成就させてくださいと命じていたお父様の切望の心を思い出しながら、今日私たちはイスラエルの民に代わってお父様の御心を遂行しなければならないキリスト教徒の責任を果たさなければならないことを感じるようになりました。


長い歴史を経てお疲れになったお父様を私たちが受け入れさせてください。長い年月、私たちを心配し、サタンに対抗して戦ってこられたお父様の状況を知らせてください。未来の希望を抱いて選ばれた息子娘たちを抱え、栄光の座に導くために心配されているお父様の心情を私たちが理解できるようにしてください。


今日の私たちが存在するのは私たち自身の意志ではなく、私たちが楽しんでいる生の栄光も私たちによってもたらされたものではありません。今日の喜びはすべて何千年もの歴史を経てお疲れになったお父様の恵みに由来していることを私たちが理解できるようにしてください。


今日、私たちに自慢できる何かがあるでしょうか?私たちの中に宇宙に対して命じることができる真理を持っていると感じる者がいますか?そうしたことは今日私たちに委ねられた責任ではないことを知らせてください。


私たちがお父様の恵みの力を代わりにし、世界の人類に代わって天倫の総合的な御心を表現できる息子娘になるように許してください、お父様、切に願い求めます。


栄光を受けるために人間を立てられるお父様のお心を知り、その御心を達成しようとしている一団がこの地に存在しますか?そのような一団はあなたが万民を祝福できる足場となり、全宇宙を祝福できる栄光の基地になることを私たちが皆悟るように導いてください、お父様、切に願い求めます。


今日の私を自分単独の中で見つけさせないように許してください。歴史を代わりにし、全宇宙を代わりにし、未来の世界を代わりにして天倫の御心の前に恥じることのないお父様の息子娘となるように許してください。そして、そのような息子娘になったことを自慢できる喜びの栄光を私たちに許してください、お父様、切に願い求めます。


お父様、今日ここに集まったあなたの息子娘たちは、自分を正直にお父様の前に現したでしょうか?自分でお父様の許可された祭壇の前に伏せられましたでしょうか?また、自分たちを犠牲にして歴史的な罪を贖うことのできる生け贄の供物となっていますでしょうか?現実の罪を負う新しい供物となり、十字架を背負ってゴルゴダを越えたキリストの人格を見習う子どもたちとなっていますでしょうか?未来の栄光のためにお父様の代わりにサタンと戦い、栄光の功績を持っているでしょうか?


お父様!このような息子娘たちとなり、あなたの栄光を讃え歌うことができるように許してください。そして、この一つの御心に従うことができる忠実な子供たちとなるように許してください。切に願い求めます。


今、この日を許していただいた以上、私たちを憐れんで見てください。私たちが集まる前に許してくださった御心を捨てないでください。お父様、かわいそうなこの国を代わって無数の教派を祝福してください。迷子になっている国と祭壇にお父様の祝福を与えてください。


生命の炎がどこで燃え盛っているのか分からないかわいそうな国と教派に、お父様の慈悲の賜物を許してください。そして、この人類に祝福を授けてください。新しい祝福が早くこの土地と国に現れ、新しい炎が教派を通じて現れるように許してください、お父様、切に願い求めます。


お父様、人間の理性だけを重視する傾向を除去してください。人本主義だけを強調するあらゆる思想を正してください。私たちは天倫を立てる神本主義を受け入れる人格者となり、天の御心を敬虔に受け入れ、お父様の愛を受けることができ、祭司の職務を果たす息子娘となって、この国を代わって立ち上がることを許してください。また、私たちが無数の教会を代わって現れることができるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。


過ごした一週間で犯したすべての過ちを清算できるように許してください。そして、おっしゃる新しいことばと許される新しい恵みに浸り、お父様の御心と降り注ぐ深い愛に浸り、宇宙の前でお父様を誇りに思うことができ、お父様に栄光の崇拝を捧げることができるこの時を許してください、心よりお願い申し上げます。


最初から最後まで全体を統べてください、あなたの御名で祈ります。アーメン。






<御言葉>


みなさんと同じく思いを共有しようとする言葉の題目は「強く大胆に、失われた福祉を回復しよう」です。


本来の人間には福地を懐かしむ必要はなかったでしょう。神が創造された楽園自体が福地であり、人間が永遠に楽しむことができる美の楽園であり、同時に永遠に享楽を楽しむことができる楽園でした。しかし、人間が神が築かれた天倫の法を犯したため、人間たちには恨みが残り、彼らが本来享けるべき福地は望みの福地にならなかったことを皆さんもよくご存じのことでしょう。


もし神が非劣世界を創造されたならば、創造の理想があったはずであり、その理想が現実的に実現されていたならば、創造主はもちろん、すべての被造物も喜びの楽園で楽しむことができたでしょうし、また人間は自分たちの喜びに感謝できたでしょう。しかし、人間が堕落したため、これらすべてのことが人間とは無縁になったのです。さらに、神と人間の前に美の象徴である万物も今日までにわたりにわたり仇になり、感謝と栄光を神に返さずにいます。


神には万物を創造された目的があり、その目的を達成しなければならない責任がある以上、神はその御心を必ず達成されなければならないのです。そうでなければ神の創造の理想や帰還史の目的も喜びの世界を紹介できる御心として現れることはありません。また、この地に住む万民も生の価値を感じることができず、全宇宙も存在の価値を感じることができないのです。


それゆえに神は創造目的を必ず達成するために長い歴史を経て、人間にその目的が達成されるようにするために行動されたのです。これが6千年にわたる長い神聖の歴史であることを皆さんはよくご存じのことでしょう。


アダムとイブが堕落すると、神はアダムとイブを造られたことを後悔し、嘆息されました。このように神の嘆息は皆さんの祖先によってもたらされたものであるという事実を皆さんは痛感しなければなりません。


神が嘆息されているため、神によって造られた全ての被造物も神によって嘆息されているわけです。中心の創造主が悲しんでおられるため、すべての被造物も悲しむことなくはいられないのです。


では御心を設定し、万民を通じてその御心が達成されることを望まれる神様が主理される目的は何でしょうか。その御心を達成させるための目的がないかぎり、創造主が悲しんでおられ、祝福されていないことがありません。それではその御心を設定し、祈りによってその御心が成就されるようになることが求められているのが帰還主理の目的です。


神の嘆息を解消できる一人、言い換えれば6千年にわたる歴史を通じて神を嘆息させた人間の祖先から生じた人類の罪の歴史を阻止し、この罪の歴史を清算して神の嘆息を解消できる一人、すなわち歴史を代表する本来の一人を探しているのが帰還主理の目的であることを皆さんは確実に知っておかなければなりません。


みなさんが神の前に立つとき、贖罪の恩寵を求める心も大切です。また、家族、国家、そして世界のために贖罪の恩寵を懇願することも必要でしょう。しかし、私たちは自分の悲しみと嘆きを解消するためだけでなく、神の心の奥深くにある、創造以降に人間が誤って抱えてしまった憎しみを解消するための訴えが必要だと理解する必要があります。


今、私たちが希望の楽園、福地の楽園を称賛し、その楽園に入ってすべての被造物を代わりに父に栄光を帰し、神に感謝をささげることができる人は誰でしょうか? 彼は人間が神に対して犯したすべての罪を贖うべく懺悔の供えとなりうる人でしょう。


さらに、そのような人はこれまでに人間が犯してきたすべての歴史的な罪を清算し、神が6千年にわたり苦労されてきた歴史的な先祖たちの罪まで負担し、「父よ、あなたの望みと嘆きをすべて私に任せてください。私はあなたの望みを実現し、あなたの嘆きを解消いたします」と言える人でしょう。


神が本来あなたの喜び、理想、栄光の実在であった人類の先祖アダムを代わりにできる存在が地上に現れることを期待していることを理解しなければなりません。私たちは罪の歴史から解放される運命にあります。


したがって、すべての罪と嘆きの要素を清算し、神に向かって「これによってあなたが抱えていたすべての憎しみを解消してください。今日以降、お喜びください!」と言える、歴史上になかった生け贄の供えとなるような息子や娘が現れることを期待しながら、神が今までに行ってきた帰還主理の歴史を理解する必要があります。


さて、神の帰還主理の歴史を振り返ると、神はアダムが堕落した後、長い1,600年の歳月を経てノアという一人を立てられました。


神はノアを立てることでノアとその家族を救おうとされ、さらにはノアを通じて人類を代表する祭司の立場に置こうとされたのでした。これが神の御心でした。


しかし、それよりもノアが1,600年間にわたって自分を立てるために苦労された神の苦労を知り、神の悲しみを感じていたとしたら、そしてノアの家族の8人がこのような神の心を感じていたとしたら、彼らには隠れた誤りによる憎しみはなかったでしょう。


個人の嘆きと苦しみから解放されるだけで救いが完了すると考える人々もいますが、そうではありません。私たちは個人の罪を懺悔すると同時に宇宙的な罪悪史を清算しなければならず、サタンによって神の胸に深く刺さった嘆きの釘を抜いた後に、「お父様、安心してください。今日までに帰還主理をしてこられた神様、憎しみを解いてください。ハレルヤ!アーメン!」と言えるようになるべきです。神はこのような勝利者が地上に現れることを、モーセ以降から今日までずっと願っておられます。


ノアの家族は審判から救済されたので、感謝の生活を送るべきでしたが、習慣的な生活を繰り返してしまいました。主導者たちが前進し、チェオンルンに立ち向かった私たちも同じく、このような失敗に陥りやすいです。したがって、習慣的な生活を繰り返す人になってはいけません。


神によって自分と家族を救っていただいたノアのように常に新しく立つ者となり、全人類がその心を持つ日を望みつつ、父の心に直面し、ノアのように立ち上がった者たち、また神の前に絶対の信仰を築いたノアの家族たちは第二の堕落を成立させる失敗を犯さなかったでしょう。


神はノアの家族の失敗の後、400年後にアブラハムを選ばれましたが、アブラハムもまた失敗しました。その後、イサクを通じた犠牲の条件を経て、ヤコブの21年の奴隷生活を経てようやく祝福が成就しました。


皆さん!21年間にわたる知られざる苦悶を抱え、ハランの地で羊を飼いながら使用人として生活したヤコブの状況を考えてみてください。神はヤコブを呼ばれた目的は、ヤコブを通じてアブラハムに祝福をもたらす御心を達成することだけでなく、さらにはアブラハムが犯した条件によってヤコブの子孫たちが400年間辛酸を舐めることになったという事実でした。


私たちは神が御心を立て、2000年間にわたり多くの苦労をなさった結果、見つかった一人がヤコブであることを理解しなければなりません。ヤコブの後400年の歴史的な奴隷生活を経て、神はヤコブが立てた一代復帰の基準で、ミョーセを立てました。こうして、長い歳月にわたる神の全体的な奴隷の結果として、モーセが見つかったのです。ですから、モーセが責任を果たすと、人間だけでなく、神と結びついた憎しみまで解消されるのです。モーセはこの条件的な立場から国家を代表して立てられたのでした。


モーセは神が全歴史を組織されて得た成果体として、国を支配し変えることのできない存在でした。このように選ばれたモーセは、歴史的な悔いを取り除く責任が自分にあることを感じ、神の全ての悲しみを解消し、また、民族的な悲しみも負う立場にありました。


そのため、彼は40年間の宮廷生活、40年間のミディアンの荒野で、合わせて80年間、先祖たちから引き継いだイスラエルの選民権を失わずに立ち上がりました。


モーセは、時のファラオと対峙しているときにも、天が望む意志だけを追い求める気概を持っていました。また、モーセは国を支配し変えることのできない資格を持ち、サタンと対決する資格も持っていましたが、彼を代わりにできるイスラエル民族が存在しなかったため、神はファラオを多く強制するようになったことを、あなたがたはよく知っているでしょう。


では、イスラエル民族はモーセに対してどのような心構えを持つべきでしょうか? 彼らはモーセが神が何千年もの間苦労して、そして先祖たちが何千年もの間努力して、すべてを与え、すべてを犠牲にして築かれた唯一の中心人物であることを理解すべきでした。イスラエル民族はモーセの個人的な価値だけでなく、国家全体の価値として、または人類全体と同等の価値として感じ、彼と一体化していれば、イスラエルの多くの人々は荒野で倒れることはなかったでしょう。


モーセ以降、何千年もの歴史を経て預言者たちがこの地に来る目的、また国を代表してイエス・キリストがこの地に来る目的は何だったのでしょうか。神の労苦と嘆きを代わりにするためであり、人間と万物のために嘆きを代わりにするためでした。しかし、だれがイエスが国を代表して現れる条件的な存在であることを知っていましたか? イエスが4,000年間にわたって嘆いていた神を代わりにしてサタンに打ち勝つ条件を築く人物であることを、だれが知っていましたか? 誰も知りませんでした。


それでは、今日のあなたが見つけるべきは何でしょうか? 神の嘆きと人間の嘆き、そして万物の嘆きを代わりに取り除いてくれるその一人を見つけなければなりません。そして、あなたがその人と一体となるべきです。もしもそのようなあなたになれないならば、あなたは希望も神の栄光も見つけることができません。


この使命を持って来られたのがイエスであり、神が4,000年間苦労して選ばれたイスラエル民族、ユダヤ教会はどうでしたか? 彼らはメシアが来て、天地に結びついた嘆きを代わりにしてくれる一つの中心を疑い、彼の前に罪の旗を掲げたことを、あなたは知っておく必要があります。


この使命を帯びておられた方がイエス・キリストでしたが、神は4,000年にわたり苦労して選ばれたイスラエルの民やユダヤの宗派はどうでしたか? 彼らは神の名を呼びながら、神のために来られたメシア、天地に結びついているため息を解決する中心的存在を信じず、イエス・キリストの前で罪悪の波に立っていた事実を皆さんは知っておかなければなりません。


イエスが来るまでの悲しい歴史とこの悲しい歴史を解消するための天運の内容を知っていた人々がいれば、イエスを十字架に磔にしなかったでしょう。また、イエスが十字架にかかった時、右側の強盗がイエスを神の子と証言するのではなく、見守っていた聖徒がイエスを証言して生かさなければなりませんでした。しかし、当時そのような責任を担った弟子がいなかったため、今日私たちがそのような責任を担わなければならないのです。


今日まで神は人間のためにため息を解消できる存在をこの地に送り続け、人間はそのような方が現れることを願ってきました。これが神の摂理の歴史であり、同時に人類の歴史です。


今日私たちがこのような使命的な摂理観で見ると、モーセはアエギプトからイスラエルの民を導き、カナンの地に入ってカナンの7つの民を滅ぼす運命にあった一方で、イエス・キリストはモーセが築いた民族の帰還の期待の上に、世界の回帰の目的を達成するためにこられたと言えます。


今日、砂漠や荒野などのこの地、バロの宮殿などのこのサタンの世界でも、そのようなイエス・キリストの意志が現れています。しかし、イスラエルの民がモーセを指導者として立てなかったため、モーセと一緒に神の権能を持ってヨルダン川を渡り、カナンの7つの民を滅ぼして天国を建設するべきだったが、それを成し遂げられずに荒野にとどまることになったように、今日でも天国を建設できる直接的な使命を担えない人はカナンの地に入れずに荒野にとどまることになるという事実を、キリスト教徒たちは知らないままです。


では、荒野の定められたイスラエル60万人がモーセと離れたときの仇敵の条件は何だったのでしょうか? 今日の皆さんがこれを知らないといけないのは、イスラエルの中で敵意を抱いていた者たちがアエギプトでの生活を懐かしみ、モーセの道を妨げ、摂理の道を妨げる一団が現れたことです。


最初、モーセを先導してイスラエル60万人がアマレクと戦うときには、モーセが手を上げればイスラエルの民が勝ち、モーセが手を下げればイスラエルの民が負けるという一体の関係が築かれていましたが、後に変わってしまったのです。


歴史的に見て、神の御心を受けて進む人は、まず見えないサタンとの戦いがあり、次に目に見えるサタンとの戦いが生じます。その後、物質的な苦境を通した戦いが続くことになります。


したがって、イエス様にも個人的な試練がありました。聖殿を中心とした環境的な試練があり、また山の頂上で立って世界を歩んだ象徴的な試練もありました。これらの出来事は、戦いが必要な原則のもとに現れました。


それでは、神の御心を受けて進んでいたモーセはどのような心を抱いていたのでしょうか? 彼もまた神の御心を受けるために敵と戦える心を持っていました。そして、荒野に出てアマレク族と戦える心、飢えと戦える心、死を覚悟して堂々と立ち向かえる勇気がありました。


モーセはエジプトの宮殿で40年間、ミディアンの荒野で40年間、合計80年間、サタンと戦い、自分自身と戦い、飢えと戦いました。そのような戦いで勝利すると、神はモーセを呼ばれました。このような道を歩んだのはモーセだけではありませんでした。イエス様も同様でした。


したがって、イエス様自身にとっても、サタンとの対決を象徴するサタンの試練がありました。最初には自分を克服するために、自分を一つの生贄として飢えと戦った40日の断食期間がありました。その後、物質の条件を超えるために「石をパンに変えてみよ。」という試練がありました。


なぜイエス様がこのようなプロセスを経なければならなかったのでしょうか? それは人間が堕落によって神を失い、子女の尊厳を失い、万物を失ったために、これらを再び見つけるための条件が必要だったからです。


したがって、今日の聖徒たちが進む荒野にも、個人でも国家でも世界でも関係なく、悪の世界を代表するサタンの試練があります。そして、神の子女の栄光の代わりに、十字架の試練が残っています。その次には万物を失ったため、受ける飢えの苦しみを経なければならないということです。


宮殿にいたイスラエルの民はモーセと同じ心を持っていたため、団結してサタン的な試練を撃退しましたが、イスラエルの民を代表する立場として、荒野に出てアマレク族と戦う場に飢えが一緒にぶつかってくると、モーセを責めるようになりました。


では、彼らがモーセを責める原因はどこにあったのでしょうか? 何が原因で責めるようになったのでしょうか? 彼らが荒野で生まれ、そこにとどまりながら神の御心に立ちはだかっていれば、モーセを責めることはありませんでした。しかし、400年間にわたるアエギプトでの生活が彼らの習慣、彼らの生活環境が荒野で問題となったことです。今日の皆さんはこれを心に留めておかなければなりません。


もう一度言いますと、モーセを信じて出発したイスラエルの民でしたが、彼らは出発前の生活環境に対する思いを捨てきれず、結局は滅びることとなりました。また、それがモーセの進むべき道を壊し、モーセとイスラエルの民を分離させる原因となりました。


では、今日の世界的なイスラエルを代表し、世界中のクリスチャンたちが受け入れなければならないのは、第一のイスラエル民族が経験した苦難の時代と同じ時代に置かれながらも、神の選民らしい姿勢を持つことです。同時に、単独で国を代表し現れた指導者の立場を把握せず、40年間の荒野時代で飢えに苦しむとすぐに皆が不信と不満を抱き、滅びたイスラエルの民の歴史を踏まないようにすべきです。


イエス様の前途を破壊したのは誰でしょうか? 神の御心を代わりにし、歴史性を代わりにし、全体の価値を代わりにし、選ばれた民族であった彼らでした。彼らは神の御心を達成するための生活をし、そこに信仰の基準を立てる必要がありました。つまり、モーセの御心を受け入れなければならなかったイスラエルの民が、モーセを信じず十字架に磔にされるように、イエス様の御心を受け入れなかったイスラエルの民が彼を信じず十字架に磔にする原因となりました。


したがって、モーセの御心をヨシュアとカレブが引き継いで2世代を連れてカナンに入ったように、今度は第2のヨシュアとカレブがイエス様の御心を引き継いで、第2の使徒たちを連れて世界的なカナンの福音に入り、地上天国を建設しなければなりません。これがイエス様の望みであり、再臨以上のものです。


したがって、今日の意志に呼ばれ、選ばれた私たちは、このような歴史的な事実に対する神聖な意志を理解し、民族的な罪を再び犯さないよう心がけなければなりません。イスラエルの民が歩んでいた罪の道を再び歩むあなたがたにはなってはならないということです。


では、私たちはどうすればよいのでしょうか? 終わりに来る主は、6千年にわたり神を嘆かせてきた条件を取り除き、多くの聖徒たちの信仰の目的を達成するために来られることを知っている私たちになる必要があります。そして、イスラエルの民が初めてモーセに会ったとき、自分たちの所有をすべて捨てなければモーセに従えると知り、彼らが荒野に出ても自分たちのすべてを捨て、モーセだけを信じて従ったように、彼らとモーセとは分かたれなかったことも理解する必要があります。


今日の理想の園を眺めながら再臨の日を迎える準備を進めている私たちにとって最初に備えなければならないものは何でしょうか? それは再び来られる主は6千年間、神が労働し、先祖たちが労働した成果で見つかる方であるということを心に留めることです。


もし彼がこの地に来られるなら、私たちはどうすべきでしょうか?私たちは喜びの心をもって、世界のすべてを彼にささげ、彼だけを歴史の代理者として、罪悪の歴史を終結させる存在として、彼だけを神の代理者として、そして彼だけを人類を代表する存在として迎え入れる心を持つべきです。


もし世界のキリスト教徒たちがそうした心を持たないなら、神が何千年も苦労して築かれたモーセが荒野で倒れ、その結果、怨みが残ることと同様の結果になるでしょう。ですから、私たちは再び来られる主のために労力を惜しまない者にならなければなりません。


今日の私たちは、カナンの福音を見据えていたモーセが亡くなった後、その後継者であるヨシュアとカレブの使命を歴史的な観点から引き継いでいることを、それぞれが意識していなければなりません。


つまり、イスラエル60万人を導いてカナンの地に入ることで、何千年もの間に結びついた神の怨みを解消できる献身的な条件を備え、ヨシュアのような人々にならなければなりません。


今日の私たちがヨシュアやカレブと同じ決意や覚悟を持たないなら、荒野で有利な状況にあるこの国を再建し、カナンの福音に入ることはできず、聖殿理想を完成させることもできません。


皆さんは今や神の愛と怒りを理解しているので、祈りの目的が変わらなければなりません。また、神がモーセと不信仰なイスラエル60万人を荒野で払いのけて、ヨシュアとカレブを立てて2世代を連れて再びカナンに向かわせたその心情を知る者とならなければなりません。


皆さんは現在どの段階に到達していますか? 先祖たちが苦難に耐えながら歩んできた6000年の歴史を基に、審判の旗を高く掲げる立場に到達し、イスラエルの民に向けてヨルダン川を渡ろうと呼びかけていたヨシュアとカレブの使命を引き受けるべき位置にいます。


それでは、私たちがそのような責任と使命を引き受けるとき、神は何を強調されるでしょうか? 神が荒野でモーセの使命を引き継いだヨシュアに「強く勇んでください」と言われたように、私たちにも「強く勇んでください」と強調されることでしょう。


今、私たちは世界的なカナンの福音を見据え、そこに進むことを望みながら、自分たちが荒野にいるという事実を知り、ヨシュアとカレブのような皆さんの心とならなければなりません。


そして今日、世界中のクリスチャンはどのように生きるべきですか? ヨシュアとカレブのような存在が現れ、この地上のキリスト教を導いていくように天に呼びかけなければなりません。中心を失い混乱と混乱を引き起こしているこの荒野時代において、それを立て直し、前進する方向を示すことができるヨシュアとカレブのような存在が現れるべき時が来ていると、今日のクリスチャンたちは確実に気づかなければなりません。ここで問題になっているのは教派ではないのです。私たちはこれを理解する必要があります。


ヨハネの黙示録11章では、2本のオリーブの木について預言されています。これは何を示しているのでしょうか? それは世界的なカナン復帰の計画の出発の前に、ヨシュアとカレブのような存在が現れることを予告しています。


モーセの代わりに現れたヨシュアとカレブがユダヤ人を導いてカナンの地に入ったように、今日もイエス・キリストの福音を持ってヨシュアとカレブのような人々が現れ、神の民を導き、世界的なカナンの福音、新しい希望のカナンの福音に向かうことになるでしょう。


ヨシュアとカレブに従ってカナンに入った一団が、カナンの7つの部族を滅ぼしたように、皆さんにもサタンを滅ぼさなければならない責任があります。天の戦士となり、そのような使命を果たす責任があることを心に留めなければなりません。


そして、新しい言葉を語るヨシュアやカレブがこの地のどこかに現れても、人々が心の扉を開き、その言葉を聞いて天に向かえるようにするのは私たちです。


ヨシュアとカレブが歩んだ道は冒険の道でした。彼らが歩んだのは難しい開拓の道であり、戦いの道でした。行く先々で開拓者の使命を果たさなければならない困難な道でした。時には個人的に、または環境的に突き当たる試練と戦わなければならなかった戦いの使命が彼らにはありました。


モーセがイスラエル民族を導いてカナンの福音に向かって旅立とうとしたとき、ファラオはモーセを殺そうとし、イスラエル民族の中にもモーセを信じず反対する者が多かったように、ヨシュアとカレブにも同様の出来事がありました。これを知っている神はヨシュアとカレブに対して「強く勇んでください」と言われました。しかし、「強く勇んでください」とはどういう意味でしょうか? それは人間的なすべての条件を超えるという意味です。


従って、イエスも3度の試練を通して人間的なすべての条件を超える勝利を収めました。ですから、2000年が経過した今日の皆さんも人間的なすべての条件を超える道で強く、勇敢でなければなりません。


ヨシュアは個人的な戦いの使命から最後の瞬間まで勝利の使命を歩むために、モーセの代わりに立たされた立場であったため、神は彼に対して「強く勇んでください」という言葉と共に、「相手の個人を敵とし、相手の民を敵とし、相手の土地を敵の土地と見よ」という忠告の言葉を述べました。今日の私たちはこれを確実に知らなければなりません。


今日、ヨシュアと同じ立場に立っている私たちならば、行く先々で個人的な敵がいるでしょう。環境も私たちに打撃を与えるでしょう。国と国家も私たちを打つでしょう。しかし、選ばれた私たちが結束し、死を覚悟し、最後まで戦う第二のヨシュアたちになれば、死を覚悟し、イエス・キリストに従い、世界のキリスト教を担当できる聖徒たちになれば、私たちは目の前に広がるどんな戦いの道も乗り越えることができます。だからこそ神は私たちが強く、勇敢であることを望んでいます。


それでは私たちは自分をどう見つめるべきでしょうか?まず第一に、強く、勇敢でなければならない立場にいる私たちは、自分を正しく見ることができなければなりません。自分を見つめて、間違いがあれば自己批判できるようにならなければなりません。また、30年または40年の人生を経た自分だとだけ思わないでください。生きている現在の自分としてだけ知るべきです。


それでは、私たちはどのような存在でしょうか? 私たちは今日の私が存在するまで、神が6,000年間にわたり世界的な戦いを通して苦労されたことを知らなければなりません。これは神の苦労によって見出された存在です。ですから、皆さんは自分を育ててくださった神の恵みを忘れてはいけません。また、神の苦労を代わりにした犠牲であることを自覚することも大切です。


そして、皆さんが存在するまでには、皆さんを見つけ立てるために苦難の道、険しく困難な戦いの道を歩んで出てきたこと、そして語られなかった神の怒りと嘆きがあったこと、何千万もの先祖の血の犠牲があったことを知らなければなりません。そして私たちを救うために苦労してくださった神の愛の気持ちを感じることができる息子娘にならなければなりません。


今こそ神に私たちが祈るとき、「6,000年前の父の心と、6,000年後の今日の父の心を知ることのできる私たちになりたまえ。そして父の姿を代わりにできる私たちになりたまえ」と祈るべきです。また、死んでも生きていても犠牲になる決意があり、「すでに犠牲としてささげた私たちですから、父よ、み旨を行なってください」と祈ることができるべきです。


何千年もの歴史を経て、私たちの先祖たちは血の祭壇を積み上げてきました。イエスも十字架の犠牲として帰っていきましたし、イエスの後、2,000年の間、キリスト教の聖徒たちも血の祭壇を築いてきました。したがって、今私たちはそのような祭壇の上に立てられた存在であることに気づかなければなりません。


そんな立場から父を呼び、父の声を聞くことができ、神を代わりにして人類を救うために父の前に訴えることができなければなりません。また、6,000年の歴史を篭絡してこられた神の悲しい心と怨みを知り、神を慰める子供たちにならなければなりません。これらのすべては皆さん自身が判断し、実践すべき問題であると言えます。


このような立場にいる私たちは、今後どのようにすればよいでしょうか? 神の救済範疇の歴史を終結させるために多くの先祖たちが立ててきた伝統を受け入れ、神が運行されるであろう条件を破滅させようとする敵サタンがいることを感じ、彼を撃退するために埃のような細胞の一分子でも動員する責任感を感じる息子娘にならなければなりません。


このような立場から私たちは神を呼ぶならば、神は昔のモーセだけを相手にされた神ではなく、イスラエルだけを相手にされた神でもなく、今日の私たちとも共にいる神であることを悟ることになります。その神は天地万物を創造された神であり、歴史の中で先祖たちに対応された神であり、今日の私に対応してくださる神であるということです。


特に神は、イエス・キリストがゲツセマネの園で最後の試練を受け、一つの犠牲として差し出そうとしたとき、共におられなかったことはありませんでした。そして、すべての民を愛されたイエス様の犠牲の精神が後代の人々に一つの伝統として引き継がれ、キリスト教の復興が起こったのです。


では、今日、4,000年の歴史を代わったイエス様が残された真理の言葉を信じている聖徒たちは、将来どのように行動すべきでしょうか? サタンの網に囚われた人類を救える天の戦士の姿を持つ息子娘になるべきです。また、神の意志を正しく理解し、昔のイスラエル民族が神の意志を理解できなかったために荒野でサタンの餌食となった経緯を踏まえて、同じ過ちを繰り返さないようにする必要があります。


そして、皆さんはモーセが再び神の前に立つまでに荒野で40年間尽力したその構築を信仰の根本として採用し、イスラエルを代表して80日間にわたり神を引き留め、堅固で強靭なモーセの性格を手本にする必要があります。また、皆さんは第2のイスラエルの選民権を代表して、世界的なカナンの回復の理想を達成する再臨の種族であることを認識する必要があります。


したがって、皆さんはこれらのことを考え、「父よ! 6,000年の過程で現れた全体の戦いが私の使命に現れるであろうとしても、私は乗り越えるであろう」と宣誓し、さらには6,000年にわたる天の意志を確立するために死の危機を乗り越え、この地球を支配しているサタンの家族に向かって、「私は爆弾だ。あなたたちの胸を爆発させるであろう!」と叫ぶことができるような人々にならなければなりません。


この視点から、私たちは神がヨシュアに「強く、勇んで行動せよ」と言われた言葉を私たちの教訓として採用する必要があります。イスラエル民族がその言葉の意味を理解できなかったため、カナンの地に入っても12人の使徒を中心に再洗礼の歴史を経験したことを、皆さんは原理を通してよく知っています。ですから、今日、私たちがそのようなヨシュア的な責任を果たせないならば、天国理念を築くためにこの地を訪れる主も皆さんとともに苦難の道を行かれざるを得ないのです。


皆さんが強くて勇敢な心で6,000年の歴史を代わって死を覚悟し、敵との一大決戦を戦って勝利すれば、それによってどうなるでしょうか? その時になって初めて天地が揺れる日が訪れ、何千年もの先祖たちが天に向かって血の訴えをしたあの怨みが解かれることになります。


また、創造主の喜びが現れ、永遠に変わらない神の愛の下で、何千万もの聖徒が楽しみ、地上のすべての人々が楽しむようになります。そして神はあなたたちをサタンの前に立たせ、あなたたちの先祖たちもあなたたちを立て、あなたたちも兄弟として互いに誇り合えるようになります。


ですから、神に対して「彼はあなたの子です、彼を愛してください」と言える存在があなたたちの中で現れなければなりません。真実の中によって、そのような一つの存在がこの地球上に現れなければ、人間の喜びも、霊的な喜びも、神の喜びも、天と地の喜びも成り立つことはありません。これをあなたたちは心に留めておかなければなりません。


では、今日、私たちがその日のために6,000年の恨みの罪悪史を清算し、「天よ、私を見て喜んでください。私を見て怨みを解いてください。私を見て6,000年の嘆きを忘れて、創世以来初めて笑える日を迎えさせてください。」、また「霊界にいる先祖たちよ、天が喜ぶので私たちと一緒に答えてください。」と言えるそのような存在にならなければなりません。それによって堕落による6,000年の恨みをサタンの支配下に投げ越え、人類に神の愛を紹介できる私たちにならなければなりません。


必ずそうなる者がなければ、世界的なカナンの復興でイエス・キリストを代わりに立て、70文の代わりになり、神が求めるような子供たちになり、神が喜ぶであろう家族になり、神が信頼できる国民になり、永遠の幸福の楽園、理想の福音が築かれることになります。これをあなたたちは確実に知っておかなければなりません。


今日、この時代は6,000年の歴史を終結させるべき時であり、最後の審判を下して意志に向けて前進しなければなりません。後ろを振り返る人になってはいけません。ソドムとゴモラが滅びるとき、ロトの妻は昔の故郷での家庭生活が恋しく、そこで暮らしていた友人たちが恋しく、その場所の環境と習慣が懐かしく、後ろを振り返ってしまい、塩の柱になってしまいました。


悔悟によらずにモーセに従っていたイスラエル民族も、荒野に出て苦労がかさんできたとき、昔の悔悟を恋しがってカナンの復興に入らず、途中で倒れてしまいました。彼らが荒野に出て滞在する場所も、食べるものもなくなると、「昔はここでパンも食べ、時折肉も食べたはずだ……」とモーセを恨み、彼に不満と愚痴を訴えたのです。その時、イスラエル民族の中でそうした過去を回顧しながら不平を言った者たちは誰でしょうか。それは悔悟にあったときに豊かだった者であり、他人を支配していた人々でした。


したがって、今日、あなたたちはそのようなイスラエル民族の前例を踏むべきではありません。これを教訓とし、あなたたちはこの瞬間に何を見つめるべきか? あなたがたが住んでいる家ですか、あなたがたが友達付き合いしている友人たちですか? あなたたちの家と友人はあなたがたが見つめるべきものではありません。あなたたちがとどまるべき家があるなら、それは荒野のような荒野であり、あなたたちの友人がいるなら、それは荒野で有利に立っている兄弟たちです。


ですから、あなたたちが天の道を行くために、個人から家庭、社会、民族、国家まですべてを捨て、天のものとすべきです。つまり、世界の私を捨て、天の私を見つけなければならず、世界の家庭を捨て、天の家庭を見つけなければならず、世界の種族を捨て、天の種族を見つけなければなりません。世界の民族を捨て、天の民族を見つけ、世界の国家を捨て、天の国家を見つけて立てるべきです。それらを見つけて立てるためには、あなたたちは強く、勇敢な心をもって、全力を尽くして前進しなければなりません。


そのような者であれば、個人を見る場合に個人が倒れても感謝し、国々と国々が倒れても感謝できる態度を持つ天の子供になるでしょう。


今日、私たちはこのような覚悟で個人に対して戦うことができ、家族、国家、世界に対しても戦うことができ、この地上のサタンに「去れ」と言える勇気を持って進んでいかなければなりません。


天に向かっての態度を持って、生涯の終わりまで進む者がいれば、彼は死んでも復活してその恵みに現れ、もし死ななければ、第2のイスラエルとして許された恵みの園で生きることができるでしょう。これを今日、あなたたちは心に留めておいてください。




<祈祷>
 愛するお父様! 今日集まったこの姿、アベルが呼びかけた懇願の叫びを聞く心情的な子供たちになるように許してください。またアベルの血を代わりにし、キリストがゴルゴタの丘で血の供物としてささげられたとき、全人類に言いたかった言葉を、私たちの血を通して、私たちの心を通して、私たちの認識を通して、話すことができるように許してください。


歴史の過程で行ったり来たりした数多くの先進的な足跡が彼らだけの足跡だと思っていましたが、今やその足跡は今日私たちも歩むべき足跡であることを悟りました。地上には多くの人がいますが、見劣りする私たちに6,000年の恨みを解放してくれるあなたの事情を知るあなたの悲しい事情を理解できる子供になるように導いてください。


この地上には優れた人も多く、立派な人も多く、能力のある人も多くいますが、不足している私たちを見つけに来て、天の事情を知ってほしいと言っている父の悲しい事情を共感できる子供に導いてください、おお父様、切に願います。


今日、私たちはヨシュアが強くて勇ましいだったことと同じように、国を代表して強く、勇ましくなければならない。世界を代表して強く、勇ましくなければならない。そして地を代表して強く、勇ましくなければならない。お父様、私たちの不足を共にしてください。


歴史的なすべての試練を私たちの信仰で克服し、超越できるように導いてください。お父様、熱心に願っています。


ヨシュアやカレブのように、たとえ死んでもカナンの福を見つけて入ると言っていた強くて勇ましい群れが、キリスト教徒の中で早くも多く現れるように許してください。ここに参加した息子たち、娘たちが、復活の命のエネルギー、神の命のエネルギーを感じ、父と共に栄光の一日を早くも迎えることができるように導いてください。


お父様の許可を得た言葉を私たちの生命の種とし、私たちの生命の中心として感じることができるようにしてください。父の祭壇と聖所の前に進み、大祭司としての責任を果たすことができるように導いてください。愛するお父様、心から願っています。このすべての言葉を主の御名によって祈ります。アーメン。


   <TOP>   <前ページ>   <次ページ>

コメント