「文鮮明先生の言葉集 2 - 18.
主の栄光に参与する者となろう (1957年6月16日)」
1957年6月16日(日曜日)前本部教会
マタイによる福音書25:31-46
1957年6月16日(日曜日)前本部教会
マタイによる福音書25:31-46
<祈 祷>
愛するお父様
この村で糾弾され、他の村へ逃れていたキリストの3年間の苦難の時期を、私たちがこの瞬間に振り返り、理解できるように許してください。
愛を持ち、現れたイエス・キリストは、切実な思いで無限に悲しい涙を流されましたが、イスラエルの民は逆らう矢で彼を否定し、さまざまな陰謀を巡らせました。これを今一度感じるべきでしょう。
今日、私たちは昔のユダヤ人やファリサイ派、昔のユダヤの民を軽率に批判し、彼らが当時に誤ったことを咎めることがよくあります。しかし、私たちは2000年前にイエス・キリストが来られた当時に生まれていたとしても、イエス様に反対して彼をピラトに引き渡すことさえするかもしれません。それどころか、それらの人々よりも劣った存在であると感じさせてください。
歴史の車輪は回り、宇宙は変わり、運命の時は巡っていますが、帰還の新たな歴史はまだこの地にため息と不満と怨みが残っていることを、知らせてください。
人が不信の立場に立つと、天倫が破壊され、天の業が台無しになることを知らせてください。ここにいる子供たちの一生に一度の機会があれば、自分のすべてを捨てて神の意志を達成できるように導いてください。
お父様、私たちが天のものを天のものとして立てないと、お父様は悲しむことを知り、今、私たちが天のものを天のものとして奉納し、私たち自身のものまで天のものとして捧げられるように許してください。切に願い求めます。
ここにいる子供たちの心をお父様が一つに結びつけ、受ける者と与える者の心に差異がなくなるようにしてください。私たちの心がお父様の心と一体となり、お父様の望まれる意志の前に達し、和解の主体となるように許してください。お父様の恵みの前に調和できる存在となるように許してください。
私たちの本質と本性が永遠にお父様を尊敬すべきことをお願いします。私たちが持っているこの理知的な心と、お父様を尊敬しようとする心を妨げないでください。私たち自身が非常に小さな存在であることを感じさせてください。
厳粛なるお父様の前で、自らの不足を告白し、謙虚な心で貴方の愛の手を崇拝できるように、お許しいただけますよう、お父様、切に願い求め、望んでおります。
この一時間をただお父様に託しているので、導いてください。そして、各地で苦労している家族にも同じように恩寵を現していただけますよう、お父様、切に願いながら、すべての言葉を主の名において祈りました。アーメン。
<御言葉>
今日お話しするテーマは「私たちは主の栄光に参加する者となろう」です。
堕落した人類は、自分たちの希望であり、理想的な栄光の日が現れるのを切望しています。神様もこの一日を見つけるために6千年もの長い歳月を苦労して来られましたし、イエスと聖霊も2千年という長い歳月の中で戦いを繰り返しながら苦労して来られました。また、天を崇拝する多くの聖徒たちもこの一日を見つけるために無限の犠牲を乗り越えて来たことを知っておくべきです。
この犠牲は百度死ねど千度死ぬ一日がないと超えてはならない犠牲です。この一日を越えるためには、これまで人間だけが動員されたわけではなく、多くの宗派はもちろん、霊界の多くの導主たち、さらには三位一体まで動員されてきたことを、私たちは深く感じなければなりません。その一日を現すために神様は6千年も我慢され、人間たちは多くの苦痛と逆境を経て、新しい希望、新しい指針思想を求めて出てきているのです。
神様は目的をもってこの世界を創造されたため、創造された被造万物は神様の意志に従いたければならないものです。それゆえに神様の意志を成し遂げなければならない人間が天と地が喜べるその一日を立てないならば、これまでの神様の苦労と人間の苦労は無意味なものになってしまいます。
神様と人間に希望の一日を新たに紹介するためにこの地に来られた方がイエス・キリストです。私たち人間には神様が成し遂げようとしている意志を達成していただける力も素材もありません。それゆえに私たちはそのような力と素材を備えるために、仲介者として来られたイエス・キリストに従っているのです。
そのようなイエス様がこの地においでになり、望まれたことは何でしょうか?それは、彼の生涯を通じて人類が望む希望の一日を築き上げ、天倫と人倫をこの地に築き上げ、人類に神の福音を伝えることでした。しかし、イエス様はユダヤ民族の不信仰によって、この地で神の前に、また人間や万物の前にその意志を達成できる勝利的な基盤を築くことができないまま去られたことを皆さんは理解すべきです。
言い換えれば、イスラエル民族はイエス様を最高の栄光の支配者、全人類を代表する栄光の主役として崇め、誇示できる瞬間と状況にありながらも、そのような祝福を受け入れることができなかったため、神様が築こうとされた新しい勝利の土台はこの地上に築かれないこととなりました。
だからこそ、イエス様は十字架の苦しみを経て今日まで2千年の長い歳月をかけて歴史を切り開いて来られる中で、再びこの地に来て30年以上の生涯をささげて達成し得なかった意志を達成し、神の栄光、あなたと聖霊の栄光、全人類の栄光になる一日を築くことでした。
では、どのようにして歴史の終局を経て、この地に現れる宇宙的な栄光の日、神が望まれ、イエス様と聖霊が望まれ、人類が望む新しい栄光の日をどのように迎えるべきかが問題になります。
かつてイスラエル民族が神様から授かった使命を達成できなかったため、イエス様は悲しみの足跡を経て再び人類を訪れるとき、再び過去のイスラエル民族が歩んだ足跡を踏む者がいれば、それは天の栄光が訪れることを阻む者であり、イエス様が望む一日を阻む者であり、人類が望む一日を阻む者であるということを皆さんは理解すべきです。
では、なぜイエス様を迎えたイスラエル民族やユダヤ教徒たちは、4千年間も望んでいた栄光の一日を喜びとして迎えられなかったのでしょうか。なぜイエス様を国家の指導者として崇め、万民の前に栄光の一日を築くことができなかったのでしょうか。これはイスラエル民族が神様の前に犯した罪であることを皆さんは理解すべきです。
もしイエス様が生きていた時、ユダヤ民族がこの地に神を中心にした国土を求め、神を中心にした民を求めて天国以上を実現できる王国を築いていたならば、今日私たちは主様を待ち望んでいたイスラエル民族の希望を私たちの希望として受け継いでいなかったでしょう。
イスラエル民族がイエス・キリストを希望の実体として迎えず、また歴史的な主役として迎えなかったため、神の計画はすべて中断されてしまいました。イスラエル民族とユダヤ教が国家的にも宗教的にも天倫の意志に抵抗し、イエス様を十字架に戻らせたのです。
国家と宗教はもちろんのこと、個々の人々、つまりこの地のどんな誰もがイエス様を歓迎する者がなかったため、イエス様を送り出された神様は悲しみを感じられたのです。そのため、その悲しみが国家の悲しみ、教派の悲しみ、そして各個人の悲しみにとどまり、今もなお受け継がれていることを心に留めておかねばなりません。
では、今日、イエス様を信じる私たちの信仰はどのようにすればよいでしょうか?私たちはイスラエル民族やユダヤ教徒が犯した罪を個人的に、宗派的に、国家的に、そして世界的に償わなければなりません。私たちはこの運命に置かれているのです。私たちの先祖たちも歴史の過程を経てこの罪の清算をし、出てきたのです。
喜びの歴史となるべき人類の歴史は、イスラエル民族の不信仰によって悲しみの歴史となってしまったのです。イスラエル民族がそのような不信仰の道を歩んだために、今日、神を信じ、イエス様に従って進んできたクリスチャンたちもその道を歩んできたことを理解しなければなりません。
そして、世界人類を代表する霊的なイスラエルの責任がある皆さんも、この清算の道を歩むべきであり、また皆さんは孤独な道、十字架の道、死の道を避けて通ることはできないのです。だからこそ、キリスト教が他の宗教を信じる民族にその教義を伝え、キリスト教の信仰を築こうとする時、必ず血の祭壇を積む必要があったのです。要するに、キリスト教の歴史は苦難と迫害の中で進んできた殉教の歴史でした。そのような殉教の道が個人を通り、家庭、民族、そして世界にまで拡大し続けています。
キリスト教を中心に闘争の道を進みながらも、こうして倒れたりころがったりしながらも、歪んで乱れながらも希望を抱き、神の意志を捨てずに追い、神の意志と一致する道を歩んできた聖なる者たちが皆さんの先祖の中に多くいたことを忘れてはなりません。
元々、イスラエル民族がイエス・キリストを迎えるようになったのは、その民族が優れていたからでも、ユダヤ教団の努力の結果でもありません。それは4千年間の歴史の過程で、国を代表して天を畏れ、天の意志を受け入れてきた数多くの聖なる先達がいたからでした。しかし、イスラエル民族とユダヤ教はこの事実を忘れ、天の意志を立てることができなかったのです。そのためイエス・キリストの怨みがこの地に表れることとなりました。
したがって、主を信じている私たちが、逆境の道を経て世界的にこの怨みを清算し、栄光の日を迎えるためには、どのような立場に立っているのでしょうか?私たちは2,000年前に主を迎えるために選ばれたイスラエル民族とユダヤ教団、そして世界的な霊的なイスラエルを代表する立場にいます。これを皆さんは覚えておく必要があります。
今、私たちはイスラエル民族とユダヤ教団が責任を果たさなかった怨みを清算するために、対抗する民族と戦い、反対する教団と戦うイエス様の兵法となるべきです。
もしもイスラエル民族が神の意志を立てようとするイエス・キリストを知り、彼を十字架の死の道に送り出そうとするカイザール派と対抗し、国家的な闘争を経てこれを阻止できたなら、どうだったでしょうか?その時神の意志は実現していたでしょう。神はこのような国家的な勝利の期待をもたらし、今まで戦ってきた困難を我慢しながらいる世界を代表するどのような民族かを望まれています。
しかし、なぜ神とイエスと聖霊は戦わなければならなかったのでしょうか?平和のイエス様であり、平和の聖霊であり、平和の父でなかったのでしょうか!それは6,000年にわたりこの地で悪の支配を拡大してきた数え切れない悪魔たちから人間を守り、悪の歴史を終結させるためでした。皆さんは神とイエスと聖霊のこの苦悩を知らなければなりません。
それでは慈悲深い神、愛の神とは誰に該当する言葉でしょうか?それは悪魔たちではなく、天上の息子や娘に該当する言葉です。神は人を愛し、罪を愛するものではありません。これを皆さんは確実に知っておかねばなりません。また、悪魔が存在する場所では神の理想を崇拝することができず、そこには天国が存在することはないと知らなければなりません。
イスラエル民族の前に現れたイエス・キリスト様は、十字架に戻られる際も誰も責めませんでした。なぜならば、自分が死んでも世界を救える道が開かれることを知っていたからです。
イエス様は言い知れぬ苦痛を受けたため、その分だけイスラエル民族に対して恨むことができました。しかし、自分に逆らっている群衆からは、彼は何を感じたでしょうか?それは4,000年間にわたり天命を果たして来られた神の苦労を感じ、神の意志が実現するあの一日を迎えるために多くの聖なる先達が血の祭壇を掃除してきたことを感じたからであり、彼らを恨むことはありませんでした。
イエス様が十字架に戻られる際、ご自身を十字架に差し出したイスラエル民族に対して、天に裁きを訴えることもできましたが、神様はご自身が苦労なさった霊的な歴史を振り返り、つまり、人々が神が立てられた者に対抗しようとしても、サタンと分かれた場所にいる時は天がそれらを許し、ご自身もそれらを許す余地があったからです。
歴史的に見れば、神に対抗する者が裁きを免れて喜ぶ場面があったかもしれませんが、天が裁きをしなかったのは、彼らを許し、預言者が代わりに歴史を担い、神の計画を担い、天を代わりにして悲しむ心を持って彼らを許す人々がいたからです。
それでは、私たちが主の栄光を受けるためにはどのような立場に立っていなければならないでしょうか?イエス様の事情と通じることができ、イエス様を立てて6,000年間神が苦労なさった足跡をたどり、天の前に立てる余地を持っていなければなりません。そして、「この地が罪の地であるとしても、あなたが6,000年間苦労なさった血の足跡があることを見て、天よ、裁きの鞭を堪えてください」と言える立場にならなければなりません。そういった立場になるときに、民族的な思想、世界的な思想を継承できるでしょう。
皆さんは一人で存在できないことを知らなければなりません。どんな形や内容であれ、他の人々との関係を持ちながら生きています。したがって、どの社会や国であっても、その社会、国に属する各個人の行動が全体に影響を与えることになります。良い行動は良い影響を与え、悪い行動は悪い影響を与えるものです。ですから今日皆さんは自分を中心に考えることから脱却し、神の理想的な世界、霊的なイスラエルの理想を実現し、それを実際に生きることを考えなければなりません。
皆さんはこれまで希望の日を追い求めながら努力し、戦ってきた神様の伝統を忘れてはなりません。また、霊的な伝統、歴史的な伝統、種族的な伝統を築いていくことができるようになるべきです。
イスラエル民族がこれを達成していれば、その時「イエス」という名前一つで、一つの「メシア」という名前でイスラエル全体に変革が起こったでしょう。
イエス様がベツレヘムの小屋で生まれるとき、東方の三博士たちはユダヤ教を信じる人々ではなく、その時代の占い師たちでしたが、彼らがエルサレムに来て「新しく生まれたユダヤの王はどこにいるか」と尋ねると、エルサレムの人々は騒然となったことがありました。この事実を考えると、イスラエル民族は口ではメシアを期待していたが、どの時どこでメシアに出会えるのかという問題についてはあまり考えていなかったことが分かります。
今日、私たちもこのような過ちを簡単に犯してしまいます。天が送り出す者や天命がどんな時でどこに現れても、それを不信せずに受け入れることは簡単ではありません。
イスラエル民族は現実に起こる全ての事実や歴史的な出来事を外面的に見て批判することは知っていましたが、内容は知りませんでした。つまり、見ることは知っていたが、味は知らなかったということです。今日、皆さんも同じような信仰生活をしてはいけません。イエス様を信じることだけ知っていて、彼の心を知らないでいてはいけません。皆さんがイエス様を高く評価することは知っていても、イエス様が卑しい場所で神の意志を持ち続けた方であったことをよく知りません。
今度は私たちは過去にイスラエル民族が犯した歴史的な過ちを繰り返してはいけません。イエス様を失ったイスラエル民族を代わりにして再び栄光の日を迎えるとき、皆さんはイスラエル民族とどのような違いを持ってその日を迎えるべきか考えなければなりません。
神の意志を中心にしたイエス様の歩みを見ると、使徒に挙げられて多くの人々がイエス様に従いました。喜ぶ時に従っていた群衆もいれば、悲しい時に従っていた人もいれば、再出発する時にイエス様に従っていた人もいました。中でも特に喜ぶ時にイエス様を歓迎した人が多かったです。
五餠二魚で5千人を食べさせ、歴史的な新しい事実を提示して国民の心を動かす時、多くの群衆が彼に取り囲まれ、彼に従いました。しかし、長い間困難に耐えながらイエス様に従っていた群衆がどうして前進する歴史の過程で周囲の環境を乗り越えられずに途中で倒れるようになったのか?これはイスラエル民族がカナンの地に向けて進む際、モーセを不信仰だと感じたその歴史的な瞬間を繰り返した結果だということを皆さんは知るべきです。
モーセがイスラエル民族をカナンの地に導く際、彼が望んでいた目的地と、彼が立てた標準が国民の望みや国民の標準と異なっていたことでした。神の意志を確立しようとしたモーセは、彼が追求する目的地が明確で、方向が明確で、1年後または10年後のことを見越して生きる道を考え、その目的を達成するために実践していましたが、それに対抗してイスラエル民族はそうではありませんでした。その結果、モーセから離れてしまったのです。
イスラエル民族はもともとアブラハムから400年の歴史を経て栄光の一日を迎える許可を得た国民であったにも関わらず、栄光のその一日を迎えずに荒野で倒れたのです。同様にイエス様が来たときも、イエス様は進むべき目標と方向をはっきりさせ、10年または20年先を見据えて神の意志を人間の生活範囲内で実現するための環境を整えようと努力しましたが、イスラエル民族はそうではありませんでした。
彼らが指向し、目指していた方向や目的がイエス様と異なり、彼らの生活が永遠を目指す神聖な意志とも異なっていたため、彼らは良い時はイエス様を歓迎しましたが、自分たちにとって不利な状況になるとためらわずにイエス様を避けたのです。つまり、彼らは条件付きの目標を設定し、条件付きの方向を定めて生きていたということです。イエス様の前で反感を抱き、十字架に掛かるイエス様を嘲笑し、またイエス様の死を急がせたイスラエル民族は、モーセを裏切り、金の子牛を作ってそれを崇拝した不信心の行動を繰り返したのです。だからこそ、モーセがカナンの地で幸福を楽しむことができる目の前でさえ、荒野で40年間さまよわなければならなかったように、イエス様もまた2000年間、世界的なカナンの福祉の理想を見据えながらさまよわなければならなかったのです。これと同じような悔恨を抱いているイエス様であることを皆さんは知らなければなりません。
それではなぜイスラエル民族がイエス様を不信仰とみなしたのでしょうか?それは彼らがイエス様が神を代わっているということを知らなかったからです。また、神の計画を達成するために来られた方であること、天に至る道をまっすぐに導いてくれるイエス様であることを知らなかったし、個人だけでなく世界を代表し、国を代表し、そして自分たちの永遠の命まで責任を持つ方であることを彼らは知りませんでした。
もしイスラエル民族がイエス様が彼らの命を救ってくださるために来られたことを知っていたなら、自分の命を捨てる覚悟があったとしても彼に従わなければならず、国のために来られた方だと知っていたなら、国を捨ててでも彼に従わなければならず、教会や世界のために来られた方だと知っていたなら、教会や世界を捨ててでも彼に従わなければなりませんでした。しかし、イスラエル民族はこのようなイエス様の価値を知らずに不信仰となり、その後、長い間断絶の道をたどってきたのです。
蒔いたまま刈り取られるのが天理の原則です。そのため、キリスト教の歴史が始まった時から蒔かれたものもそのまま収穫の日が必ず来るでしょう。このようにキリスト教の歴史上に蒔かれたすべてがそのまま収穫される日が終わりであり、栄光の一日を迎える日が終わりであることを皆さんは覚えておかなければなりません。
これで皆さんはイスラエル民族がイエス様を裏切ったような立場に立ってはいけません。皆さんが望んでいる信仰の方向や目標、そして皆さんの生活環境は、6000年間神が計画された神聖な意志にふさわしくなければなりません。そして、イエスと聖霊が促しているその方向に合致しなければなりません。
皆さん自身がここで一致できるかどうか、そうでないかが問題です。イエス様が来られるか否かは問題ではありません。彼を迎える準備をしている皆さん自体が問題です。皆さんは信仰生活をして幸福になりたいですか?
しかし、皆さんは行くべき道を終え、戦わなければ幸福は訪れないことを知らなければなりません。ですから、イエス様が十字架の死の道を経て復活されたように、皆さんも困難で辛い道を経て初めて希望の日、復活の日、喜びの日を迎えることができることを知らなければなりません。イエス様も「自分の命を保全しようとする者はそれを失い、失う者はそれを保って生かされる。」(ルカ 17:33)と言われていました。
昔、イスラエルの民が神との約束を破り、バアルに仕えるようになったとき、エリヤが主の前に出て自分を殺してくれるよう懇願したところ、「ただ一人残らず私を拝まない7,000人の者が残っている」と主がおっしゃった出来事があります。
同様に今の教会も信仰の中心が揺れ動いており、混沌として進む方向が見いだせない中で、このような状況に置かれている皆さんは、エリヤが国を担ぎ、主に訴えた心情と通じなければなりません。また、荒野に出たイスラエル民が食べ物がなく、進む方向を見つけられずに40年間さまよった時、シナイ山に登って40日40夜を断食し、主に訴えたモーセの心情とも通じなければなりません。
モーセの祈りは彼自身の栄光のためではありませんでした。モーセは神が自分をこの地に送られたのが自分のためではなく、国と世界のために送られたことを誰よりもよく知っていたからです。今、世界的なカナンの福祉を見据えて進む私たちも、このようなモーセの心情を受け継がなければならない特異なイスラエルの民としての役割を自覚しながら前進する時が来ました。
今日、この言葉を聞いた皆さん、今度は第三者の立場から皆さんの信仰生活を一度批判してみてください。皆さんはいつかイエス様のように国のために悲しんだことがありますか?一度でもイエス様のように祈ったことがありますか?また、ユダミン族が思う存分寝て遊んでいる時でさえも、国のために40日40夜祈りながら知らぬ間に涙で膝を打ったモーセのように国のために涙の祭壇を築いたことがありますか?
今日のキリスト教を中心にし、様々な形の文化を持つようになったのも、現在の人々が上手くやっているからではありません。多くの聖徒たちは死を覚悟して孤独で険しい坂道を歩んできたからです。そして、小屋や穴のような寂しい場所でも孤独を克服し、罪と戦ってきたからです。そして、絶え間なく神に涙で祈り続けたからです。
今、人類は新しい目標に向かって前進しなければならない時期にあります。ですから人々は新しい目標を見つける必要があります。昔のイスラエルの民や彼らの指導者であった祭司たちのように、安楽な場所で自分たちの利益だけを追求したり、信仰を利用しようとしてはいけません。
今がイエス様がゴルゴダの十字架を前にしてゲツセマネの園に独りで神と交渉の祈りをされていた難しい時期と同じ時期です。また、モーセがイスラエルの60万の大衆を代わりにシナイ山に登り、命を賭けて40日40夜熱心に祈った時と同じように、国と世界のために熱心に祈るべき時です。そして終わりには、このような使命を担う神の子女がたくさん現れなければなりません。もし本当にそうした人がいるなら、モーセの時の12部族や70長老、イエス様の時の12使徒が問題ではないということです。
実際には、自分たちの状況を全て捨て去り、シナイ山で40日40夜の断食祈りをしていたモーセを取り巻き、彼と共に神に嘆願したイスラエルの民がいたなら、彼らには40年の怨みに苦しむ荒野の時期はなかったでしょう。また、祈られるイエス様を見つめてイエス様と同じ気持ちで共に涙を流せる使徒がいたなら、苦難の2000年もなかったでしょう。
しかし、私たちの先祖たちはこれを成し遂げませんでした。しかし、先祖たちの歴史的な誤りを許せる私たちであり、神が望まれる幸福の楽園に戻らなければなりません。そのためには、皆さんは故郷の目的地に辿り着ける正しい道を見つけなければなりません。モーセがシナイ山に祈りに行く時、彼を追うイスラエルの民に「私があなたがたのために祈りに行く。」と教えませんでした。また、イエス・キリストが孤独な場所で深い祈りをする時、誰にも教えず、ペテロ、ヨハネ、ヤコブなどの弟子たちにも教えませんでした。今でもそのような時期なのです。
なぜなら人間の祖先が神を裏切り、神を裏切った条件があるからです。したがって、私たち後継者には神が認められない時、神が認められる唯一の条件を設けなければならないという神聖な宿命にあります。これは歴史的な進展を経てよくあることであり、終わりの時代にあたる幾度となくこれが起きることを皆さんは知っておかなければなりません。
イエス様は自らを超越した場所で民族や世界、神のために語ったにもかかわらず、使徒以下イエス様を追ったすべての聖徒たちはイエス様の言葉が彼らだけのための言葉だと思い、イエス様が良いことをしても自分だけのためにすると思い、イエス様が卑しい場所に入っても自分のためにそうすると思いました。そのような信仰を持つ群れだったため、神は彼らを根本的に許容できなかったのです。ここで彼らが神と分かれることを皆さんは知っておかなければなりません。
それでは、終わりの時代に直面する今、栄光の日を求めて前進しなければならない皆さんは、今後どのような立場に立つべきでしょうか? 皆さんは何よりもイエス様の心情と共感できる自分であるべきです。皆さん一人ひとりがこのような個人的な生活環境を築かなければならず、さらにはこれが世界と宇宙全体を代表できる基盤的な環境になるようにしなければなりません。皆さん一人ひとりがそのような環境を築くと、それがまとまり、世界的なイスラエルの生活環境が形成されていくでしょう。
今日ここに参加している皆さん!現在、皆さんは神を信じ、従っている目的をどこに置いていますか?今、この時間、これについて一度自分に問いかけてみてください。皆さんはもしかして神を利用して、自分だけを立て、自分だけの幸福を求める心を持っていませんか?それではいけません。皆さんは自分を超えて神に信仰の目的を持たなければなりません。
イエス様は喜ばれる時でさえも神のために心配の心を持たれましたが、彼を追う群衆はそのような喜びが拡大されるにつれて、この地上で彼らが望んだものを達成し、彼らの地上の命令が成就されることを望む心でイエス様を歓迎しました。真に神を心配した人はイエス様しかいなかったというのが事実です。今日のキリスト教徒もそのような立場に立つと、未来が閉ざされてしまいます。また、そのような方法で信仰生活をする宗教があれば、彼らも同様です。
それではイエス様が進んだ道はどのような道でしょうか? 先ほど述べたように、イエス様は自分を捨て、喜びの時でさえ自分の喜びと考えないで、全てを神のものに返す道を進まれました。
したがって、これから皆さんはイエス様が喜ばれる時でさえ、喜べる自分たちでなければなりません。自分を中心にし、喜ぶことではなく、神とイエス様を中心にし、喜ぶべきです。また、自分に都合の良い目的を立てるのではなく、ただ神に都合の良い目的を立てることを知る皆さんでなければなりません。そうでなければ、イエス様と私たちは別れることになります。モーセとイスラエルの民が別れ、ヨシュアとカレブからイスラエルの民が別れたのと同じく、また今日の聖書の言葉の通り、羊と山羊に分かれることになります。
しかし、最初にカインとアベルが分かれた場所は2人ではなく1つでした。それは世界から分かれたのではなく、一人の個人から分かれたものでした。最後の審判の時も天から審判の行為があるのではなく、地上から人間を中心にして善悪が分かれることです。皆さん自身も心が二分されることを感じるでしょう。つまり、天運を立てようとする心と、自分を中心にした人間的な目的を達成しようとする二つの心で分かれることを感じるでしょう。これを見ると私たちの心が善悪の分岐点であることがわかります。
それでは、今日この場に参加している皆さん!私たちはすでに一つの希望に向かってどんな逆境も貫き通す覚悟を持って立ち上がりました。ですから、これからは私たちは喜びが心に生まれたらその喜びを国家と神に結びつけ、また望ましい出来事が生まれたら私たちの個体だけで終わる希望にならず、その希望を国家と世界に結びつけなければなりません。
イエス様が喜ばれる時に私たちも一緒に喜び、イエス様が苦しまれる時にはイエス様を慰めて差し上げれば、イエス様も私たちと一緒におられるようになります。そしてその時、私たちは神と向き合えるようになるのです。そのような人でなければ、父と子と聖霊が慈悲深く見守ることができず、また父と子と聖霊が慈悲深く見守ることができなければ、復活の歴史は起こり得ないことを皆さんは知らなければなりません。
帰られたイエス様を神様が復活させることができたのは、イエス様が神の御心を立てるために自分の命すら捨てることができたからであり、天運のために自分の生を捨てたその事実が神の復活の手を受けるための基準に達したからです。皆さんも復活の栄光を望むならば、自ら復活の基準を立てなければなりません。
皆さんはこれまでどのような基準を立てて生きてきましたか?復活の基準を立ててきましたか?おそらくほとんどの人がそうでないかもしれません。ですから、これからは自分が進むべき目標と方向を明確に設定し、生きていかなければなりません。
もし歴史上のどんな人間が立てた基準よりも強く、皆さんを刺激する一つの基準を立てられないなら、最初から意志に従って進んだとしても、やがては振り落とされていくでしょう。それでは振り落とされたらどうなるでしょうか?イエス様の前で旗を掲げて彼を殺すのに先導した者たちと同じ人にならないと誰が断言できるでしょうか?
この場に集まった皆さん、今皆さん自身が進むべき目標が天運を立てることであり、天と地を愛することであり、人運を立てることだという事実を知ったなら、皆さんはこの地のどの不利な条件が妨げるだろうと言われようとも、どなたが「いいえ」と言おうともこれを撃退できる信念を持たなければなりません。最初からこの方向に進むことができなければ、統一教徒はイエス様の友達になることはできません。しかし、当時イエス様と同じ心情で、イエス様を代わってイエス様を追う群衆を導かなければならなかった使徒たちはどうでしたか?
彼らもイエス様と同じ心情を持っていませんでした。イエス様を追う群衆が多くなるほど、彼らは自分たちの栄光の範囲が広がるものと考え、彼らにはその分だけ自分たちが気に入られる範囲が広がるものと思い込み、ますます日が経つにつれて、彼らには話す相手がいなくなっていったのです。
彼らのそのような行動はイエス様にとっては計り知れないほどの悲しみとなりましたが、逆にサタンの側にとっては歓びの条件となりました。言い換えれば、彼らは根本的には善悪の判別の歴史、審判の歴史を起こすことができなかったということです。皆さんも同様にしてはいけません。信じる者の数が多いか少ないかが問題ではありません。
世界的な最後の審判を前にしている今、多くの人々と国々を代表して、どんなに困難な状況であっても、孤独な場面であっても、天の御心を持ち、「ハレルヤ、アーメン」と言える真の人が立つべきです。これが問題です。このような信仰を持つ人でなければ、神の栄光を示し、復活の実体となることはできません。
天の御心に進む道は、一人で天の栄光や生命の価値を楽しもうとしてはいけません。自分を中心にし、他人を非難し、他人に害を与えるような行動が堕落をもたらしたのです。
それでは、これからの栄光を望むこの時に、皆さんはどのような位置にいますか?神様は今言うことができないほど悲しい気持ちでため息と嘆きに包まれておられます。しかし、皆さんはもしかしたらそのような神様とは違い、快適な場所から自分だけを楽しもうとしていませんか?もし今日でもそのような人がいれば、彼らはモーセを失ったイスラエルの民やイエス様を裏切った群衆と同じように哀れな立場になるでしょう。この事実を確実に理解しなければなりません。
天の御心を達成するために進む人であっても、彼が自分の喜びのための行動をすると、山羊と羊に分かれる最後の分岐点で山羊の側に立つことになります。
それでは栄光の場に参加できる人はどのような人でしょうか?イエス様と心情一致を成し遂げた人でしょう。もしも2000年前にイエス様が悲しまれる時、同じように悲しんでイエス様が喜ばれる時、同じように喜べる聖徒たちがいたなら、イエス様はそれによってますます喜ばれ、天運のすべての御心を彼らの前に示され、永遠の勝利が彼らに授けられたでしょう。
しかし、イエス様を追う群衆が増えても、信じてあなたのすべてを預けられる人がいなくて言い表せないほど孤独で悲しい気持ちだったにもかかわらず、イエス様を追っていた群衆はそのようなイエス様の気持ちを知らなかったのです。終わりの日にもこのような信仰生活をする人々がいるでしょう。
神を信じ、従う人であっても、神の悩みを無視して自分の安楽だけを追求する人は、神が必要とする人ではありません。そのような6, 7千の群れよりも、真に神が必要とする一人がもっと必要です。
イエス様がゲツセマネの庭で悪と戦いながら、神の御心を達成するために神の優しい心情で訴えられる時、人々はイエス様よりも3倍以上優しい心情を持って訴えなければなりませんでした。しかし、ペテロ、ヨハネ、ヤコブはその3分の1も感じようとしませんでした。ここにいる皆さんは、そのような人になってはいけません。
イエス様が一つの苦労をすれば、皆さんはその3倍以上の苦労をしなければならず、天を代表する者が一つの苦労をすれば、皆さんはその3倍以上の苦労をしなければなりません。また、天を代わる者が一つを憂い、一つだけの苦しみを受ければ、皆さんはその3倍以上の憂いをし、3倍以上の苦しみを受けなければなりません。しかし当時のイエスを追いかけた群れはイエスの3分の1も苦労しないようにしました。
今日、ここに集まった皆さん、本当に統一教会を追いかけたいですか? それなら、皆さんは統一教会を指導している文という人がどんな苦労を感じている時、皆さんも3倍以上の苦労を感じながら天の御心を立てるための防波堤にならなければなりません。
しかし、そのような人になるどころか、自分だけが快適な場所にいたいとするこのような集団が沸き立つ時は、モーセに従っていたイスラエル民族が荒野で死体の山を残したことと同様に、死に導くサタンが侵入することでしょう。
歴史の終わりに迎えるこの時、皆さんは6千年の怨みを抱えたサタンに向かって、「どうしてお前の権威を誇示させようか!」と叫びながら、血みどろのサタンと戦い、勝利の実績を神に示して、宇宙全体に希望が湧く栄光の息子娘にならなければなりません。そうでなく、「ちょうど適当に乗り切ればいいだろう」と考えるべきではありません。
皆さん自身はよく分からないかもしれませんが、今日私たちは深刻な場に立っています。私たちが進む道が真実だとするなら、私たちは深刻な覚悟をしなければなりません。それは私たちの覚悟の差によって結果が変わるためです。
アダムとヘバが堕落した時には、神様が創造主として責任を取り、救い出してくださらなければなりませんでしたので、何とか希望をかけることができましたが、栄光の主が再び来られる終わりの日には、人々が責任を果たせなければ再び救いの働きができないのです。ですから、もし私たちが救いの働きを完結させなければ、昔のアダムとヘバが堕落した以上の怨みが残ることになります。
これらの恐れ多い瞬間に直面する私たちは、もし私たちが神の心情と天の計画を理解し、神によって認められる立場にあるなら、神の心情を代弁できるかもしれませんが、できない場合は自分で謙虚な立場に立たなければなりません。イエス様は神の御心をご存じでありながら謙虚でした。神の御心を知らない者が謙虚でなければなりません。もしもそのような人がいれば、彼は死の淵に堕ちるでしょう。
2千年前、イエス様に従っていたペテロや12使徒、そして多くの群衆は、彼らが喜んでいる時にもイエス様の悲しい心情を理解していませんでした。ですから今日、皆さんはそのような立場に立たないことを誓わなければなりません。皆さん、そのような心情を持って父なる神を呼び求めてください。父なる神は生きておられるので、応答してくださるでしょう。また、皆さんがそのような心情で地球のために真心を尽くせば、皆さんは神の側に移動するでしょう。
今、皆さんはイエス様がこの地に残されたすべての怨みを解決し、イエス様を死んだ犠牲ではなく、栄光の贖いの犠牲として地上楽園を築く二重、三重の責任を負っていることを理解する必要があります。
しかし、なぜイエス様が帰られたのでしょうか? イエス様はこの世に対する執着心がなかったから帰られたのではありません。イエス様はどなたよりもこの地を愛され、認められていた方でした。しかし、あなたにしかできない天の計画があることを知っていたため、人とは異なる方向に進み、結局は十字架の道を歩まれたのです。イエス様は彼らが喜ぶ時に一緒に喜ぶことができず、彼らと同じ道を歩むことができず、自分の悲しみを表現できませんでした。これがイエス様が行かれた道と人が歩む道が異なっていた理由です。
今、私たちが最後の栄光の日を見据えて天の前に立ち、「私をすべてのものの上に立ててください!」と要求できるようになるには、どのような道を進まなければならないでしょうか? 要するに、死の道を通らなければなりません。これが天に通じる唯一の正統な道であるためです。イエス様が歩かれたこのような道を皆さんも歩む必要があります。
イエス様はゴルゴダの十字架の道をたった一日だけ歩いたのではありませんでした。イエス様は神の御心を見据えて30年以上にわたり、一貫して十字架の基準を立て、戦ってきた方でした。そして数日だけで十字架の死を覚悟したわけではありません。30年以上の生涯を通じて4千年の救済歴史を担当した立場から、「良ければこうなり、悪ければこうなります」と予測しながら、一日たりともゴルゴダの悲しい心情を超えて生きたことがなかったということを皆さんは理解すべきです。
このような準備の土台があったから、イエス様は愛する弟子、国民、教会を全て後に置き、自らを犠牲にして十字架の道を歩むことができました。
今、皆さんはイエス様が生涯を通じて築かれたゴルゴダの勝利の条件を、皆さんの生活で感じ取らなければなりません。そうでなければ、皆さんはイエス様の後を追いながら、イエス様が多くの人々に拒絶と非難を受けながら十字架を背負って死の道を歩まれる時、顔を背けた弟子たちと同じ境遇になるでしょう。また、数多くの群衆がイエス様に従っていたにもかかわらず、死を覚悟して従う者がいなかったことを皆さんは思い起こさなければなりません。
イエス様はあなたの代わりに十字架を負い、あなたの代わりに鞭で打たれ、あなたの代わりに苦しみを受けながら、ゴルゴダの死の道で「父よ!」と叫ぶ切ない声が聞こえることを願っていました。 3年、または30年にわたり、このような声が聞こえることを願ったが、その願いが消え去る時、イエス様の心情はどうだったでしょうか。
このようなイエス様の心情を皆さんは知らなければなりません。イエス様の苦しみを理解し、その苦しみに同情しなければなりません。また、自分自身も全世界のすべての人のために、このような死の道、何度も死ぬ道を進むことがふさわしいと思う心を持たなければなりません。
さらに、皆さんが知っておくべきことは、イエス様が十字架を背負ってゴルゴダに向かう途中、非常に疲れ果てた時、その十字架を代わりに負って行ったシモンのような人がイエス様の弟子たちの中には一人もいなかったということです。選ばれたイスラエルの民の中にもそのような人はいませんでした。こうして異邦人であるシモンだけがイエス様の苦悩に共感したため、キリスト教はイスラエルの宗教にならず、異邦の宗教となったのです。
今日、イエス様を信じて神を求めて進むと宣言する皆さん、皆さんは夢でもシモンのような行動をしようとする決意が立っていなければなりません。シモンは弁明することもでき、反論することもできましたが、黙々と従順してイエス様の代わりに十字架を背負って行きました。今日、皆さんも同じような人物にならなければなりません。
イエス様がそれを見守る中での心情はどうだったでしょうか?3年間喜びと共に歩んできた使徒たちはどこにもいなく、思いも寄らなかった異邦のシモンがあなたを代わって惨めな立場に立つ時、イエス様の心は恥ずかしさが大きかったでしょうし、悲しみに悲しみを加えたでしょう。 もしこれらの使徒たちの中にでもイエス様の十字架を代わりに背負う人がいたなら、イエス様はその人を見つめて死の苦しみを忘れ、逆に共感しながらあなたの苦しみに打ち勝つことができたでしょう。しかし、そうではなく、イエス様は悲しみに悲しみを加えることになりました。これらの事情を皆さんは理解しなければなりません。
今日のキリスト教界においても、グレネタシモンのような教団が現れなければなりません。どの教団がこの責任を引き受けるでしょうか?彼らが追随していた使徒たちのイエスはならず、異邦人のグレネタシモンのイエスになったことを今日のクリスチャンたちは自覚しなければなりません。だからこそ、グレネタシモンのような教会を創り上げなければならないのです。
皆さんは、イエス様が受けた十字架の苦しみの状況と、苦悩の感情的な同伴者となり、彼の生涯と同じように永遠の意志と神聖な目的を達成するために、たとえ独りでも神の前で「父」と呼ぶことのできる子供にならなければなりません。こうして苦しみの主と共にする者となり、再出発の復活の主と共にする者とならなければなりません。
十字架に戻られた後、3日間でよみがえられたイエス様は、かわいそうな方でした。3年間歓喜と共に過ごし、熱心な気持ちで戻ること3日で復活することを教えたにもかかわらず、弟子たちはその言葉を忘れてどこかへ消えていったのです。イエス様が復活される際、墓を守っていた弟子たちは一人もおらず、かえって敵対的なローマの兵士が守っていたので、何があったのだろうということです。今日のキリスト教も、イエス様の墓を守りきれず、ローマの兵士のような敵がイエス様の墓を守る場合が多いことを指しています。
ローマの兵士が囲んでイエス様の墓を望む群衆がこの地にはいないのか!当時はそんな群衆はいなかったかもしれませんが、今日では私たちの信者たちの中にも多くのこのような群衆が出なければなりません。
では、最後にイエス様に会えた人物は誰でしたか?イエス様を放置し、彼を失い、好き勝手に散り散りになってしまった人はイエス様に会うことはありませんでした。イエス様が最初に会った人は誰でしたか?イエス様を放置し、彼を失い、山里で迷子になっていた人が最初に会ったのは誰でしたか?それはイエス様を見つけるために3日間食事を取らず、自分の体の置き場所さえわからずさまよっていた人たちでした。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメなどが該当します。
国の反逆者、国の反逆者として帰られたイエス様を懐かしく思い、3日間涙を流し、我慢できずに訪れた彼らは、最初によみがえられたイエス様に会ったのです。これは終わりの聖徒たちがどのように行動すべきかを示しているものです。
今日、皆さんはイエスの墓を求めて苦しむべき終末の時代であることを理解すべきです。復活の主に会うべきイスラエルの民を代わりにして墓を求めて苦しんでいた女性たちが、最初に復活の主に会ったように、今日、世界的な復活の主が現れる時、眠りたくても寝ず、休みたくても休まず、言葉にできない切ない気持ちで山や野をさまよい、天に向かって悲しい涙を流す人が再び来られる主を最初に迎えることができるのです。
イエス様が十字架に戻られたことに対して、弟子たちも悲しむことはなかったが、思いがけず使徒たちではなく無名の三人の女性がイエス様の帰りを悲しんで同情の涙を流し、イエス様の墓を探し回ったのです。このような行動が復活の主に最初に会わせたが、同様に終末にもこのような現象が起こるでしょう。
皆さんがもし自分の生命を超えて、自分の民族と世界中の人々の生命のために夜も寝ず、心を痛める生活をしているならば、この世に再び訪れる栄光の主は必ず皆さんを訪れ、皆さんは思いも寄らぬ状況で主を迎える栄光を味わうことでしょう。これがいずれ起こるでしょうことを皆さんは知るべきです。
それから、次にイエス様が現れたのは誰でしょうか?エマオへ向かう二人の人々に現れました。彼らは使徒ではありませんでした。彼らはイエルサレムで三人の女性がイエス様の復活を証言する時一緒にいた人々で、イエス様が戻られたことを心から残念に思い話すことができたのは、イエス様の事情を他の誰よりも理解し、イエス様の悲しい心情と通じる心を持っていたからです。そのため、イエス様は彼らに現れたのです。そしてイエス様が彼らに現れたのは、彼らが使徒たちにイエス様の復活を証明するためでした。
皆さんがもし異次元の喜び、終末の世界的な新しい栄光の日を迎えたいのであれば、皆さんは悲しむイエス様の心情、涙するイエス様の生涯を心配し、悲しい心で天に向かって身をもがいて進むことができなければなりません。
しかし、これらの行動や考えがなく、ただ座っていて主の栄光を期待する人がいますか?もしそうであれば、その人は直ちに偽キリストであり、偽預言者です。弟子たちがイエスの前に偽キリストの立場に立つことが誰が知っていたでしょうか?
また、選ばれたイスラエルの民とユダヤ教徒が反キリストになるだろうと誰が知っていたでしょうか?終末にもこれを心配しなければなりません。皆さん自身を置いて、もしかしたら反キリストの立場に立っていないかを心配しなければなりません。今は他人を非難し、他人のことに干渉するときではありません。問題は他人ではなく、自分自身です。教団が問題ではありません。終末に自分がサタンになるかもしれないと心配しなければなりません。今まで他人を問題視してきた人は、結局は自分を失ってしまう歴史の流れを経てきました。
皆さんは新しいエデンの理想的な園から、宇宙全体が望む栄光の復活を喜びと共に迎えたいですか?そのならば、イエス様の気持ちを感じながら共に涙を流し、共に責任を持たなければなりません。そのような人だからこそ、栄光の復活を受けることができます。今は終末が近づいている時です。
そのため、一定の霊的な基準に到達した人々は、熱望を感じています。恵みを受けても喜ばず、不義の経験にも満足しません。そのため人々は教会を飛び出そうとしているのです。どれだけ柵を建てても教会の外に出ないように言っても止めることはできません。この中で自分を見つけ出す難しい時です。
したがって、教会を代表でき、民族と世界、そして天の意志を代表できる真の子女が現れなければ、サタンの陰謀を打破することはできません。そのような姿勢を備え、歴史的な闘争で勝者となり、敵の罪まで引き受け、ゲツセマネの園で一人で祈っていたイエス様を代わる皆さんにならなければなりません。そのような皆さんならば、たとえ死の道であってもその道を進めば復活できるのです。
しかし、逆に自分の利益のために苦難を避けて快適な道を選ぶ人々は、それが復活の道であると知りながらも最終的には死に至ることでしょう。これを心に留めておかなければなりません。
皆さんは今や神の御心を達成するために、イエス様を死んだ犠牲ではなく、山の産物として神に献げる勝利の条件を立てなければなりません。そして6千年の労苦の後、神の前で皆さんが山の産物として献げられるとき、皆さんは霊肉が復活することです。こうなると、6千年間サタンに対して恨みを抱いてきた神の苦しみと悲しみを終結させる美しい仕事をすることができ、全宇宙の前、またはサタンの前、または数々の聖徒の前、天使軍の前で誇り高く立てるようになり、永遠の理想的な園に入り、永遠にその園で栄光を持って生きていけるようになるのです。これを心に留める皆さんがなりたいものです。
そして、6千年間、一生懸命労働されてきた神の前で、皆さんが生ける犠牲としてささげられる時、皆さんは霊的なものと肉体が復活します。このようになれば、6千年間にわたりサタンに対する神の悔しさと悲しみを終わりにし、宇宙全体やサタン、または無数の聖徒や天使軍の前で誇り高く立て、永遠の理想郷に入り、そこで永遠に栄光を備えて生きることができます。これを心に留め、覚えていただきたいと思います。
愛するお父様
この村で糾弾され、他の村へ逃れていたキリストの3年間の苦難の時期を、私たちがこの瞬間に振り返り、理解できるように許してください。
愛を持ち、現れたイエス・キリストは、切実な思いで無限に悲しい涙を流されましたが、イスラエルの民は逆らう矢で彼を否定し、さまざまな陰謀を巡らせました。これを今一度感じるべきでしょう。
今日、私たちは昔のユダヤ人やファリサイ派、昔のユダヤの民を軽率に批判し、彼らが当時に誤ったことを咎めることがよくあります。しかし、私たちは2000年前にイエス・キリストが来られた当時に生まれていたとしても、イエス様に反対して彼をピラトに引き渡すことさえするかもしれません。それどころか、それらの人々よりも劣った存在であると感じさせてください。
歴史の車輪は回り、宇宙は変わり、運命の時は巡っていますが、帰還の新たな歴史はまだこの地にため息と不満と怨みが残っていることを、知らせてください。
人が不信の立場に立つと、天倫が破壊され、天の業が台無しになることを知らせてください。ここにいる子供たちの一生に一度の機会があれば、自分のすべてを捨てて神の意志を達成できるように導いてください。
お父様、私たちが天のものを天のものとして立てないと、お父様は悲しむことを知り、今、私たちが天のものを天のものとして奉納し、私たち自身のものまで天のものとして捧げられるように許してください。切に願い求めます。
ここにいる子供たちの心をお父様が一つに結びつけ、受ける者と与える者の心に差異がなくなるようにしてください。私たちの心がお父様の心と一体となり、お父様の望まれる意志の前に達し、和解の主体となるように許してください。お父様の恵みの前に調和できる存在となるように許してください。
私たちの本質と本性が永遠にお父様を尊敬すべきことをお願いします。私たちが持っているこの理知的な心と、お父様を尊敬しようとする心を妨げないでください。私たち自身が非常に小さな存在であることを感じさせてください。
厳粛なるお父様の前で、自らの不足を告白し、謙虚な心で貴方の愛の手を崇拝できるように、お許しいただけますよう、お父様、切に願い求め、望んでおります。
この一時間をただお父様に託しているので、導いてください。そして、各地で苦労している家族にも同じように恩寵を現していただけますよう、お父様、切に願いながら、すべての言葉を主の名において祈りました。アーメン。
<御言葉>
今日お話しするテーマは「私たちは主の栄光に参加する者となろう」です。
堕落した人類は、自分たちの希望であり、理想的な栄光の日が現れるのを切望しています。神様もこの一日を見つけるために6千年もの長い歳月を苦労して来られましたし、イエスと聖霊も2千年という長い歳月の中で戦いを繰り返しながら苦労して来られました。また、天を崇拝する多くの聖徒たちもこの一日を見つけるために無限の犠牲を乗り越えて来たことを知っておくべきです。
この犠牲は百度死ねど千度死ぬ一日がないと超えてはならない犠牲です。この一日を越えるためには、これまで人間だけが動員されたわけではなく、多くの宗派はもちろん、霊界の多くの導主たち、さらには三位一体まで動員されてきたことを、私たちは深く感じなければなりません。その一日を現すために神様は6千年も我慢され、人間たちは多くの苦痛と逆境を経て、新しい希望、新しい指針思想を求めて出てきているのです。
神様は目的をもってこの世界を創造されたため、創造された被造万物は神様の意志に従いたければならないものです。それゆえに神様の意志を成し遂げなければならない人間が天と地が喜べるその一日を立てないならば、これまでの神様の苦労と人間の苦労は無意味なものになってしまいます。
神様と人間に希望の一日を新たに紹介するためにこの地に来られた方がイエス・キリストです。私たち人間には神様が成し遂げようとしている意志を達成していただける力も素材もありません。それゆえに私たちはそのような力と素材を備えるために、仲介者として来られたイエス・キリストに従っているのです。
そのようなイエス様がこの地においでになり、望まれたことは何でしょうか?それは、彼の生涯を通じて人類が望む希望の一日を築き上げ、天倫と人倫をこの地に築き上げ、人類に神の福音を伝えることでした。しかし、イエス様はユダヤ民族の不信仰によって、この地で神の前に、また人間や万物の前にその意志を達成できる勝利的な基盤を築くことができないまま去られたことを皆さんは理解すべきです。
言い換えれば、イスラエル民族はイエス様を最高の栄光の支配者、全人類を代表する栄光の主役として崇め、誇示できる瞬間と状況にありながらも、そのような祝福を受け入れることができなかったため、神様が築こうとされた新しい勝利の土台はこの地上に築かれないこととなりました。
だからこそ、イエス様は十字架の苦しみを経て今日まで2千年の長い歳月をかけて歴史を切り開いて来られる中で、再びこの地に来て30年以上の生涯をささげて達成し得なかった意志を達成し、神の栄光、あなたと聖霊の栄光、全人類の栄光になる一日を築くことでした。
では、どのようにして歴史の終局を経て、この地に現れる宇宙的な栄光の日、神が望まれ、イエス様と聖霊が望まれ、人類が望む新しい栄光の日をどのように迎えるべきかが問題になります。
かつてイスラエル民族が神様から授かった使命を達成できなかったため、イエス様は悲しみの足跡を経て再び人類を訪れるとき、再び過去のイスラエル民族が歩んだ足跡を踏む者がいれば、それは天の栄光が訪れることを阻む者であり、イエス様が望む一日を阻む者であり、人類が望む一日を阻む者であるということを皆さんは理解すべきです。
では、なぜイエス様を迎えたイスラエル民族やユダヤ教徒たちは、4千年間も望んでいた栄光の一日を喜びとして迎えられなかったのでしょうか。なぜイエス様を国家の指導者として崇め、万民の前に栄光の一日を築くことができなかったのでしょうか。これはイスラエル民族が神様の前に犯した罪であることを皆さんは理解すべきです。
もしイエス様が生きていた時、ユダヤ民族がこの地に神を中心にした国土を求め、神を中心にした民を求めて天国以上を実現できる王国を築いていたならば、今日私たちは主様を待ち望んでいたイスラエル民族の希望を私たちの希望として受け継いでいなかったでしょう。
イスラエル民族がイエス・キリストを希望の実体として迎えず、また歴史的な主役として迎えなかったため、神の計画はすべて中断されてしまいました。イスラエル民族とユダヤ教が国家的にも宗教的にも天倫の意志に抵抗し、イエス様を十字架に戻らせたのです。
国家と宗教はもちろんのこと、個々の人々、つまりこの地のどんな誰もがイエス様を歓迎する者がなかったため、イエス様を送り出された神様は悲しみを感じられたのです。そのため、その悲しみが国家の悲しみ、教派の悲しみ、そして各個人の悲しみにとどまり、今もなお受け継がれていることを心に留めておかねばなりません。
では、今日、イエス様を信じる私たちの信仰はどのようにすればよいでしょうか?私たちはイスラエル民族やユダヤ教徒が犯した罪を個人的に、宗派的に、国家的に、そして世界的に償わなければなりません。私たちはこの運命に置かれているのです。私たちの先祖たちも歴史の過程を経てこの罪の清算をし、出てきたのです。
喜びの歴史となるべき人類の歴史は、イスラエル民族の不信仰によって悲しみの歴史となってしまったのです。イスラエル民族がそのような不信仰の道を歩んだために、今日、神を信じ、イエス様に従って進んできたクリスチャンたちもその道を歩んできたことを理解しなければなりません。
そして、世界人類を代表する霊的なイスラエルの責任がある皆さんも、この清算の道を歩むべきであり、また皆さんは孤独な道、十字架の道、死の道を避けて通ることはできないのです。だからこそ、キリスト教が他の宗教を信じる民族にその教義を伝え、キリスト教の信仰を築こうとする時、必ず血の祭壇を積む必要があったのです。要するに、キリスト教の歴史は苦難と迫害の中で進んできた殉教の歴史でした。そのような殉教の道が個人を通り、家庭、民族、そして世界にまで拡大し続けています。
キリスト教を中心に闘争の道を進みながらも、こうして倒れたりころがったりしながらも、歪んで乱れながらも希望を抱き、神の意志を捨てずに追い、神の意志と一致する道を歩んできた聖なる者たちが皆さんの先祖の中に多くいたことを忘れてはなりません。
元々、イスラエル民族がイエス・キリストを迎えるようになったのは、その民族が優れていたからでも、ユダヤ教団の努力の結果でもありません。それは4千年間の歴史の過程で、国を代表して天を畏れ、天の意志を受け入れてきた数多くの聖なる先達がいたからでした。しかし、イスラエル民族とユダヤ教はこの事実を忘れ、天の意志を立てることができなかったのです。そのためイエス・キリストの怨みがこの地に表れることとなりました。
したがって、主を信じている私たちが、逆境の道を経て世界的にこの怨みを清算し、栄光の日を迎えるためには、どのような立場に立っているのでしょうか?私たちは2,000年前に主を迎えるために選ばれたイスラエル民族とユダヤ教団、そして世界的な霊的なイスラエルを代表する立場にいます。これを皆さんは覚えておく必要があります。
今、私たちはイスラエル民族とユダヤ教団が責任を果たさなかった怨みを清算するために、対抗する民族と戦い、反対する教団と戦うイエス様の兵法となるべきです。
もしもイスラエル民族が神の意志を立てようとするイエス・キリストを知り、彼を十字架の死の道に送り出そうとするカイザール派と対抗し、国家的な闘争を経てこれを阻止できたなら、どうだったでしょうか?その時神の意志は実現していたでしょう。神はこのような国家的な勝利の期待をもたらし、今まで戦ってきた困難を我慢しながらいる世界を代表するどのような民族かを望まれています。
しかし、なぜ神とイエスと聖霊は戦わなければならなかったのでしょうか?平和のイエス様であり、平和の聖霊であり、平和の父でなかったのでしょうか!それは6,000年にわたりこの地で悪の支配を拡大してきた数え切れない悪魔たちから人間を守り、悪の歴史を終結させるためでした。皆さんは神とイエスと聖霊のこの苦悩を知らなければなりません。
それでは慈悲深い神、愛の神とは誰に該当する言葉でしょうか?それは悪魔たちではなく、天上の息子や娘に該当する言葉です。神は人を愛し、罪を愛するものではありません。これを皆さんは確実に知っておかねばなりません。また、悪魔が存在する場所では神の理想を崇拝することができず、そこには天国が存在することはないと知らなければなりません。
イスラエル民族の前に現れたイエス・キリスト様は、十字架に戻られる際も誰も責めませんでした。なぜならば、自分が死んでも世界を救える道が開かれることを知っていたからです。
イエス様は言い知れぬ苦痛を受けたため、その分だけイスラエル民族に対して恨むことができました。しかし、自分に逆らっている群衆からは、彼は何を感じたでしょうか?それは4,000年間にわたり天命を果たして来られた神の苦労を感じ、神の意志が実現するあの一日を迎えるために多くの聖なる先達が血の祭壇を掃除してきたことを感じたからであり、彼らを恨むことはありませんでした。
イエス様が十字架に戻られる際、ご自身を十字架に差し出したイスラエル民族に対して、天に裁きを訴えることもできましたが、神様はご自身が苦労なさった霊的な歴史を振り返り、つまり、人々が神が立てられた者に対抗しようとしても、サタンと分かれた場所にいる時は天がそれらを許し、ご自身もそれらを許す余地があったからです。
歴史的に見れば、神に対抗する者が裁きを免れて喜ぶ場面があったかもしれませんが、天が裁きをしなかったのは、彼らを許し、預言者が代わりに歴史を担い、神の計画を担い、天を代わりにして悲しむ心を持って彼らを許す人々がいたからです。
それでは、私たちが主の栄光を受けるためにはどのような立場に立っていなければならないでしょうか?イエス様の事情と通じることができ、イエス様を立てて6,000年間神が苦労なさった足跡をたどり、天の前に立てる余地を持っていなければなりません。そして、「この地が罪の地であるとしても、あなたが6,000年間苦労なさった血の足跡があることを見て、天よ、裁きの鞭を堪えてください」と言える立場にならなければなりません。そういった立場になるときに、民族的な思想、世界的な思想を継承できるでしょう。
皆さんは一人で存在できないことを知らなければなりません。どんな形や内容であれ、他の人々との関係を持ちながら生きています。したがって、どの社会や国であっても、その社会、国に属する各個人の行動が全体に影響を与えることになります。良い行動は良い影響を与え、悪い行動は悪い影響を与えるものです。ですから今日皆さんは自分を中心に考えることから脱却し、神の理想的な世界、霊的なイスラエルの理想を実現し、それを実際に生きることを考えなければなりません。
皆さんはこれまで希望の日を追い求めながら努力し、戦ってきた神様の伝統を忘れてはなりません。また、霊的な伝統、歴史的な伝統、種族的な伝統を築いていくことができるようになるべきです。
イスラエル民族がこれを達成していれば、その時「イエス」という名前一つで、一つの「メシア」という名前でイスラエル全体に変革が起こったでしょう。
イエス様がベツレヘムの小屋で生まれるとき、東方の三博士たちはユダヤ教を信じる人々ではなく、その時代の占い師たちでしたが、彼らがエルサレムに来て「新しく生まれたユダヤの王はどこにいるか」と尋ねると、エルサレムの人々は騒然となったことがありました。この事実を考えると、イスラエル民族は口ではメシアを期待していたが、どの時どこでメシアに出会えるのかという問題についてはあまり考えていなかったことが分かります。
今日、私たちもこのような過ちを簡単に犯してしまいます。天が送り出す者や天命がどんな時でどこに現れても、それを不信せずに受け入れることは簡単ではありません。
イスラエル民族は現実に起こる全ての事実や歴史的な出来事を外面的に見て批判することは知っていましたが、内容は知りませんでした。つまり、見ることは知っていたが、味は知らなかったということです。今日、皆さんも同じような信仰生活をしてはいけません。イエス様を信じることだけ知っていて、彼の心を知らないでいてはいけません。皆さんがイエス様を高く評価することは知っていても、イエス様が卑しい場所で神の意志を持ち続けた方であったことをよく知りません。
今度は私たちは過去にイスラエル民族が犯した歴史的な過ちを繰り返してはいけません。イエス様を失ったイスラエル民族を代わりにして再び栄光の日を迎えるとき、皆さんはイスラエル民族とどのような違いを持ってその日を迎えるべきか考えなければなりません。
神の意志を中心にしたイエス様の歩みを見ると、使徒に挙げられて多くの人々がイエス様に従いました。喜ぶ時に従っていた群衆もいれば、悲しい時に従っていた人もいれば、再出発する時にイエス様に従っていた人もいました。中でも特に喜ぶ時にイエス様を歓迎した人が多かったです。
五餠二魚で5千人を食べさせ、歴史的な新しい事実を提示して国民の心を動かす時、多くの群衆が彼に取り囲まれ、彼に従いました。しかし、長い間困難に耐えながらイエス様に従っていた群衆がどうして前進する歴史の過程で周囲の環境を乗り越えられずに途中で倒れるようになったのか?これはイスラエル民族がカナンの地に向けて進む際、モーセを不信仰だと感じたその歴史的な瞬間を繰り返した結果だということを皆さんは知るべきです。
モーセがイスラエル民族をカナンの地に導く際、彼が望んでいた目的地と、彼が立てた標準が国民の望みや国民の標準と異なっていたことでした。神の意志を確立しようとしたモーセは、彼が追求する目的地が明確で、方向が明確で、1年後または10年後のことを見越して生きる道を考え、その目的を達成するために実践していましたが、それに対抗してイスラエル民族はそうではありませんでした。その結果、モーセから離れてしまったのです。
イスラエル民族はもともとアブラハムから400年の歴史を経て栄光の一日を迎える許可を得た国民であったにも関わらず、栄光のその一日を迎えずに荒野で倒れたのです。同様にイエス様が来たときも、イエス様は進むべき目標と方向をはっきりさせ、10年または20年先を見据えて神の意志を人間の生活範囲内で実現するための環境を整えようと努力しましたが、イスラエル民族はそうではありませんでした。
彼らが指向し、目指していた方向や目的がイエス様と異なり、彼らの生活が永遠を目指す神聖な意志とも異なっていたため、彼らは良い時はイエス様を歓迎しましたが、自分たちにとって不利な状況になるとためらわずにイエス様を避けたのです。つまり、彼らは条件付きの目標を設定し、条件付きの方向を定めて生きていたということです。イエス様の前で反感を抱き、十字架に掛かるイエス様を嘲笑し、またイエス様の死を急がせたイスラエル民族は、モーセを裏切り、金の子牛を作ってそれを崇拝した不信心の行動を繰り返したのです。だからこそ、モーセがカナンの地で幸福を楽しむことができる目の前でさえ、荒野で40年間さまよわなければならなかったように、イエス様もまた2000年間、世界的なカナンの福祉の理想を見据えながらさまよわなければならなかったのです。これと同じような悔恨を抱いているイエス様であることを皆さんは知らなければなりません。
それではなぜイスラエル民族がイエス様を不信仰とみなしたのでしょうか?それは彼らがイエス様が神を代わっているということを知らなかったからです。また、神の計画を達成するために来られた方であること、天に至る道をまっすぐに導いてくれるイエス様であることを知らなかったし、個人だけでなく世界を代表し、国を代表し、そして自分たちの永遠の命まで責任を持つ方であることを彼らは知りませんでした。
もしイスラエル民族がイエス様が彼らの命を救ってくださるために来られたことを知っていたなら、自分の命を捨てる覚悟があったとしても彼に従わなければならず、国のために来られた方だと知っていたなら、国を捨ててでも彼に従わなければならず、教会や世界のために来られた方だと知っていたなら、教会や世界を捨ててでも彼に従わなければなりませんでした。しかし、イスラエル民族はこのようなイエス様の価値を知らずに不信仰となり、その後、長い間断絶の道をたどってきたのです。
蒔いたまま刈り取られるのが天理の原則です。そのため、キリスト教の歴史が始まった時から蒔かれたものもそのまま収穫の日が必ず来るでしょう。このようにキリスト教の歴史上に蒔かれたすべてがそのまま収穫される日が終わりであり、栄光の一日を迎える日が終わりであることを皆さんは覚えておかなければなりません。
これで皆さんはイスラエル民族がイエス様を裏切ったような立場に立ってはいけません。皆さんが望んでいる信仰の方向や目標、そして皆さんの生活環境は、6000年間神が計画された神聖な意志にふさわしくなければなりません。そして、イエスと聖霊が促しているその方向に合致しなければなりません。
皆さん自身がここで一致できるかどうか、そうでないかが問題です。イエス様が来られるか否かは問題ではありません。彼を迎える準備をしている皆さん自体が問題です。皆さんは信仰生活をして幸福になりたいですか?
しかし、皆さんは行くべき道を終え、戦わなければ幸福は訪れないことを知らなければなりません。ですから、イエス様が十字架の死の道を経て復活されたように、皆さんも困難で辛い道を経て初めて希望の日、復活の日、喜びの日を迎えることができることを知らなければなりません。イエス様も「自分の命を保全しようとする者はそれを失い、失う者はそれを保って生かされる。」(ルカ 17:33)と言われていました。
昔、イスラエルの民が神との約束を破り、バアルに仕えるようになったとき、エリヤが主の前に出て自分を殺してくれるよう懇願したところ、「ただ一人残らず私を拝まない7,000人の者が残っている」と主がおっしゃった出来事があります。
同様に今の教会も信仰の中心が揺れ動いており、混沌として進む方向が見いだせない中で、このような状況に置かれている皆さんは、エリヤが国を担ぎ、主に訴えた心情と通じなければなりません。また、荒野に出たイスラエル民が食べ物がなく、進む方向を見つけられずに40年間さまよった時、シナイ山に登って40日40夜を断食し、主に訴えたモーセの心情とも通じなければなりません。
モーセの祈りは彼自身の栄光のためではありませんでした。モーセは神が自分をこの地に送られたのが自分のためではなく、国と世界のために送られたことを誰よりもよく知っていたからです。今、世界的なカナンの福祉を見据えて進む私たちも、このようなモーセの心情を受け継がなければならない特異なイスラエルの民としての役割を自覚しながら前進する時が来ました。
今日、この言葉を聞いた皆さん、今度は第三者の立場から皆さんの信仰生活を一度批判してみてください。皆さんはいつかイエス様のように国のために悲しんだことがありますか?一度でもイエス様のように祈ったことがありますか?また、ユダミン族が思う存分寝て遊んでいる時でさえも、国のために40日40夜祈りながら知らぬ間に涙で膝を打ったモーセのように国のために涙の祭壇を築いたことがありますか?
今日のキリスト教を中心にし、様々な形の文化を持つようになったのも、現在の人々が上手くやっているからではありません。多くの聖徒たちは死を覚悟して孤独で険しい坂道を歩んできたからです。そして、小屋や穴のような寂しい場所でも孤独を克服し、罪と戦ってきたからです。そして、絶え間なく神に涙で祈り続けたからです。
今、人類は新しい目標に向かって前進しなければならない時期にあります。ですから人々は新しい目標を見つける必要があります。昔のイスラエルの民や彼らの指導者であった祭司たちのように、安楽な場所で自分たちの利益だけを追求したり、信仰を利用しようとしてはいけません。
今がイエス様がゴルゴダの十字架を前にしてゲツセマネの園に独りで神と交渉の祈りをされていた難しい時期と同じ時期です。また、モーセがイスラエルの60万の大衆を代わりにシナイ山に登り、命を賭けて40日40夜熱心に祈った時と同じように、国と世界のために熱心に祈るべき時です。そして終わりには、このような使命を担う神の子女がたくさん現れなければなりません。もし本当にそうした人がいるなら、モーセの時の12部族や70長老、イエス様の時の12使徒が問題ではないということです。
実際には、自分たちの状況を全て捨て去り、シナイ山で40日40夜の断食祈りをしていたモーセを取り巻き、彼と共に神に嘆願したイスラエルの民がいたなら、彼らには40年の怨みに苦しむ荒野の時期はなかったでしょう。また、祈られるイエス様を見つめてイエス様と同じ気持ちで共に涙を流せる使徒がいたなら、苦難の2000年もなかったでしょう。
しかし、私たちの先祖たちはこれを成し遂げませんでした。しかし、先祖たちの歴史的な誤りを許せる私たちであり、神が望まれる幸福の楽園に戻らなければなりません。そのためには、皆さんは故郷の目的地に辿り着ける正しい道を見つけなければなりません。モーセがシナイ山に祈りに行く時、彼を追うイスラエルの民に「私があなたがたのために祈りに行く。」と教えませんでした。また、イエス・キリストが孤独な場所で深い祈りをする時、誰にも教えず、ペテロ、ヨハネ、ヤコブなどの弟子たちにも教えませんでした。今でもそのような時期なのです。
なぜなら人間の祖先が神を裏切り、神を裏切った条件があるからです。したがって、私たち後継者には神が認められない時、神が認められる唯一の条件を設けなければならないという神聖な宿命にあります。これは歴史的な進展を経てよくあることであり、終わりの時代にあたる幾度となくこれが起きることを皆さんは知っておかなければなりません。
イエス様は自らを超越した場所で民族や世界、神のために語ったにもかかわらず、使徒以下イエス様を追ったすべての聖徒たちはイエス様の言葉が彼らだけのための言葉だと思い、イエス様が良いことをしても自分だけのためにすると思い、イエス様が卑しい場所に入っても自分のためにそうすると思いました。そのような信仰を持つ群れだったため、神は彼らを根本的に許容できなかったのです。ここで彼らが神と分かれることを皆さんは知っておかなければなりません。
それでは、終わりの時代に直面する今、栄光の日を求めて前進しなければならない皆さんは、今後どのような立場に立つべきでしょうか? 皆さんは何よりもイエス様の心情と共感できる自分であるべきです。皆さん一人ひとりがこのような個人的な生活環境を築かなければならず、さらにはこれが世界と宇宙全体を代表できる基盤的な環境になるようにしなければなりません。皆さん一人ひとりがそのような環境を築くと、それがまとまり、世界的なイスラエルの生活環境が形成されていくでしょう。
今日ここに参加している皆さん!現在、皆さんは神を信じ、従っている目的をどこに置いていますか?今、この時間、これについて一度自分に問いかけてみてください。皆さんはもしかして神を利用して、自分だけを立て、自分だけの幸福を求める心を持っていませんか?それではいけません。皆さんは自分を超えて神に信仰の目的を持たなければなりません。
イエス様は喜ばれる時でさえも神のために心配の心を持たれましたが、彼を追う群衆はそのような喜びが拡大されるにつれて、この地上で彼らが望んだものを達成し、彼らの地上の命令が成就されることを望む心でイエス様を歓迎しました。真に神を心配した人はイエス様しかいなかったというのが事実です。今日のキリスト教徒もそのような立場に立つと、未来が閉ざされてしまいます。また、そのような方法で信仰生活をする宗教があれば、彼らも同様です。
それではイエス様が進んだ道はどのような道でしょうか? 先ほど述べたように、イエス様は自分を捨て、喜びの時でさえ自分の喜びと考えないで、全てを神のものに返す道を進まれました。
したがって、これから皆さんはイエス様が喜ばれる時でさえ、喜べる自分たちでなければなりません。自分を中心にし、喜ぶことではなく、神とイエス様を中心にし、喜ぶべきです。また、自分に都合の良い目的を立てるのではなく、ただ神に都合の良い目的を立てることを知る皆さんでなければなりません。そうでなければ、イエス様と私たちは別れることになります。モーセとイスラエルの民が別れ、ヨシュアとカレブからイスラエルの民が別れたのと同じく、また今日の聖書の言葉の通り、羊と山羊に分かれることになります。
しかし、最初にカインとアベルが分かれた場所は2人ではなく1つでした。それは世界から分かれたのではなく、一人の個人から分かれたものでした。最後の審判の時も天から審判の行為があるのではなく、地上から人間を中心にして善悪が分かれることです。皆さん自身も心が二分されることを感じるでしょう。つまり、天運を立てようとする心と、自分を中心にした人間的な目的を達成しようとする二つの心で分かれることを感じるでしょう。これを見ると私たちの心が善悪の分岐点であることがわかります。
それでは、今日この場に参加している皆さん!私たちはすでに一つの希望に向かってどんな逆境も貫き通す覚悟を持って立ち上がりました。ですから、これからは私たちは喜びが心に生まれたらその喜びを国家と神に結びつけ、また望ましい出来事が生まれたら私たちの個体だけで終わる希望にならず、その希望を国家と世界に結びつけなければなりません。
イエス様が喜ばれる時に私たちも一緒に喜び、イエス様が苦しまれる時にはイエス様を慰めて差し上げれば、イエス様も私たちと一緒におられるようになります。そしてその時、私たちは神と向き合えるようになるのです。そのような人でなければ、父と子と聖霊が慈悲深く見守ることができず、また父と子と聖霊が慈悲深く見守ることができなければ、復活の歴史は起こり得ないことを皆さんは知らなければなりません。
帰られたイエス様を神様が復活させることができたのは、イエス様が神の御心を立てるために自分の命すら捨てることができたからであり、天運のために自分の生を捨てたその事実が神の復活の手を受けるための基準に達したからです。皆さんも復活の栄光を望むならば、自ら復活の基準を立てなければなりません。
皆さんはこれまでどのような基準を立てて生きてきましたか?復活の基準を立ててきましたか?おそらくほとんどの人がそうでないかもしれません。ですから、これからは自分が進むべき目標と方向を明確に設定し、生きていかなければなりません。
もし歴史上のどんな人間が立てた基準よりも強く、皆さんを刺激する一つの基準を立てられないなら、最初から意志に従って進んだとしても、やがては振り落とされていくでしょう。それでは振り落とされたらどうなるでしょうか?イエス様の前で旗を掲げて彼を殺すのに先導した者たちと同じ人にならないと誰が断言できるでしょうか?
この場に集まった皆さん、今皆さん自身が進むべき目標が天運を立てることであり、天と地を愛することであり、人運を立てることだという事実を知ったなら、皆さんはこの地のどの不利な条件が妨げるだろうと言われようとも、どなたが「いいえ」と言おうともこれを撃退できる信念を持たなければなりません。最初からこの方向に進むことができなければ、統一教徒はイエス様の友達になることはできません。しかし、当時イエス様と同じ心情で、イエス様を代わってイエス様を追う群衆を導かなければならなかった使徒たちはどうでしたか?
彼らもイエス様と同じ心情を持っていませんでした。イエス様を追う群衆が多くなるほど、彼らは自分たちの栄光の範囲が広がるものと考え、彼らにはその分だけ自分たちが気に入られる範囲が広がるものと思い込み、ますます日が経つにつれて、彼らには話す相手がいなくなっていったのです。
彼らのそのような行動はイエス様にとっては計り知れないほどの悲しみとなりましたが、逆にサタンの側にとっては歓びの条件となりました。言い換えれば、彼らは根本的には善悪の判別の歴史、審判の歴史を起こすことができなかったということです。皆さんも同様にしてはいけません。信じる者の数が多いか少ないかが問題ではありません。
世界的な最後の審判を前にしている今、多くの人々と国々を代表して、どんなに困難な状況であっても、孤独な場面であっても、天の御心を持ち、「ハレルヤ、アーメン」と言える真の人が立つべきです。これが問題です。このような信仰を持つ人でなければ、神の栄光を示し、復活の実体となることはできません。
天の御心に進む道は、一人で天の栄光や生命の価値を楽しもうとしてはいけません。自分を中心にし、他人を非難し、他人に害を与えるような行動が堕落をもたらしたのです。
それでは、これからの栄光を望むこの時に、皆さんはどのような位置にいますか?神様は今言うことができないほど悲しい気持ちでため息と嘆きに包まれておられます。しかし、皆さんはもしかしたらそのような神様とは違い、快適な場所から自分だけを楽しもうとしていませんか?もし今日でもそのような人がいれば、彼らはモーセを失ったイスラエルの民やイエス様を裏切った群衆と同じように哀れな立場になるでしょう。この事実を確実に理解しなければなりません。
天の御心を達成するために進む人であっても、彼が自分の喜びのための行動をすると、山羊と羊に分かれる最後の分岐点で山羊の側に立つことになります。
それでは栄光の場に参加できる人はどのような人でしょうか?イエス様と心情一致を成し遂げた人でしょう。もしも2000年前にイエス様が悲しまれる時、同じように悲しんでイエス様が喜ばれる時、同じように喜べる聖徒たちがいたなら、イエス様はそれによってますます喜ばれ、天運のすべての御心を彼らの前に示され、永遠の勝利が彼らに授けられたでしょう。
しかし、イエス様を追う群衆が増えても、信じてあなたのすべてを預けられる人がいなくて言い表せないほど孤独で悲しい気持ちだったにもかかわらず、イエス様を追っていた群衆はそのようなイエス様の気持ちを知らなかったのです。終わりの日にもこのような信仰生活をする人々がいるでしょう。
神を信じ、従う人であっても、神の悩みを無視して自分の安楽だけを追求する人は、神が必要とする人ではありません。そのような6, 7千の群れよりも、真に神が必要とする一人がもっと必要です。
イエス様がゲツセマネの庭で悪と戦いながら、神の御心を達成するために神の優しい心情で訴えられる時、人々はイエス様よりも3倍以上優しい心情を持って訴えなければなりませんでした。しかし、ペテロ、ヨハネ、ヤコブはその3分の1も感じようとしませんでした。ここにいる皆さんは、そのような人になってはいけません。
イエス様が一つの苦労をすれば、皆さんはその3倍以上の苦労をしなければならず、天を代表する者が一つの苦労をすれば、皆さんはその3倍以上の苦労をしなければなりません。また、天を代わる者が一つを憂い、一つだけの苦しみを受ければ、皆さんはその3倍以上の憂いをし、3倍以上の苦しみを受けなければなりません。しかし当時のイエスを追いかけた群れはイエスの3分の1も苦労しないようにしました。
今日、ここに集まった皆さん、本当に統一教会を追いかけたいですか? それなら、皆さんは統一教会を指導している文という人がどんな苦労を感じている時、皆さんも3倍以上の苦労を感じながら天の御心を立てるための防波堤にならなければなりません。
しかし、そのような人になるどころか、自分だけが快適な場所にいたいとするこのような集団が沸き立つ時は、モーセに従っていたイスラエル民族が荒野で死体の山を残したことと同様に、死に導くサタンが侵入することでしょう。
歴史の終わりに迎えるこの時、皆さんは6千年の怨みを抱えたサタンに向かって、「どうしてお前の権威を誇示させようか!」と叫びながら、血みどろのサタンと戦い、勝利の実績を神に示して、宇宙全体に希望が湧く栄光の息子娘にならなければなりません。そうでなく、「ちょうど適当に乗り切ればいいだろう」と考えるべきではありません。
皆さん自身はよく分からないかもしれませんが、今日私たちは深刻な場に立っています。私たちが進む道が真実だとするなら、私たちは深刻な覚悟をしなければなりません。それは私たちの覚悟の差によって結果が変わるためです。
アダムとヘバが堕落した時には、神様が創造主として責任を取り、救い出してくださらなければなりませんでしたので、何とか希望をかけることができましたが、栄光の主が再び来られる終わりの日には、人々が責任を果たせなければ再び救いの働きができないのです。ですから、もし私たちが救いの働きを完結させなければ、昔のアダムとヘバが堕落した以上の怨みが残ることになります。
これらの恐れ多い瞬間に直面する私たちは、もし私たちが神の心情と天の計画を理解し、神によって認められる立場にあるなら、神の心情を代弁できるかもしれませんが、できない場合は自分で謙虚な立場に立たなければなりません。イエス様は神の御心をご存じでありながら謙虚でした。神の御心を知らない者が謙虚でなければなりません。もしもそのような人がいれば、彼は死の淵に堕ちるでしょう。
2千年前、イエス様に従っていたペテロや12使徒、そして多くの群衆は、彼らが喜んでいる時にもイエス様の悲しい心情を理解していませんでした。ですから今日、皆さんはそのような立場に立たないことを誓わなければなりません。皆さん、そのような心情を持って父なる神を呼び求めてください。父なる神は生きておられるので、応答してくださるでしょう。また、皆さんがそのような心情で地球のために真心を尽くせば、皆さんは神の側に移動するでしょう。
今、皆さんはイエス様がこの地に残されたすべての怨みを解決し、イエス様を死んだ犠牲ではなく、栄光の贖いの犠牲として地上楽園を築く二重、三重の責任を負っていることを理解する必要があります。
しかし、なぜイエス様が帰られたのでしょうか? イエス様はこの世に対する執着心がなかったから帰られたのではありません。イエス様はどなたよりもこの地を愛され、認められていた方でした。しかし、あなたにしかできない天の計画があることを知っていたため、人とは異なる方向に進み、結局は十字架の道を歩まれたのです。イエス様は彼らが喜ぶ時に一緒に喜ぶことができず、彼らと同じ道を歩むことができず、自分の悲しみを表現できませんでした。これがイエス様が行かれた道と人が歩む道が異なっていた理由です。
今、私たちが最後の栄光の日を見据えて天の前に立ち、「私をすべてのものの上に立ててください!」と要求できるようになるには、どのような道を進まなければならないでしょうか? 要するに、死の道を通らなければなりません。これが天に通じる唯一の正統な道であるためです。イエス様が歩かれたこのような道を皆さんも歩む必要があります。
イエス様はゴルゴダの十字架の道をたった一日だけ歩いたのではありませんでした。イエス様は神の御心を見据えて30年以上にわたり、一貫して十字架の基準を立て、戦ってきた方でした。そして数日だけで十字架の死を覚悟したわけではありません。30年以上の生涯を通じて4千年の救済歴史を担当した立場から、「良ければこうなり、悪ければこうなります」と予測しながら、一日たりともゴルゴダの悲しい心情を超えて生きたことがなかったということを皆さんは理解すべきです。
このような準備の土台があったから、イエス様は愛する弟子、国民、教会を全て後に置き、自らを犠牲にして十字架の道を歩むことができました。
今、皆さんはイエス様が生涯を通じて築かれたゴルゴダの勝利の条件を、皆さんの生活で感じ取らなければなりません。そうでなければ、皆さんはイエス様の後を追いながら、イエス様が多くの人々に拒絶と非難を受けながら十字架を背負って死の道を歩まれる時、顔を背けた弟子たちと同じ境遇になるでしょう。また、数多くの群衆がイエス様に従っていたにもかかわらず、死を覚悟して従う者がいなかったことを皆さんは思い起こさなければなりません。
イエス様はあなたの代わりに十字架を負い、あなたの代わりに鞭で打たれ、あなたの代わりに苦しみを受けながら、ゴルゴダの死の道で「父よ!」と叫ぶ切ない声が聞こえることを願っていました。 3年、または30年にわたり、このような声が聞こえることを願ったが、その願いが消え去る時、イエス様の心情はどうだったでしょうか。
このようなイエス様の心情を皆さんは知らなければなりません。イエス様の苦しみを理解し、その苦しみに同情しなければなりません。また、自分自身も全世界のすべての人のために、このような死の道、何度も死ぬ道を進むことがふさわしいと思う心を持たなければなりません。
さらに、皆さんが知っておくべきことは、イエス様が十字架を背負ってゴルゴダに向かう途中、非常に疲れ果てた時、その十字架を代わりに負って行ったシモンのような人がイエス様の弟子たちの中には一人もいなかったということです。選ばれたイスラエルの民の中にもそのような人はいませんでした。こうして異邦人であるシモンだけがイエス様の苦悩に共感したため、キリスト教はイスラエルの宗教にならず、異邦の宗教となったのです。
今日、イエス様を信じて神を求めて進むと宣言する皆さん、皆さんは夢でもシモンのような行動をしようとする決意が立っていなければなりません。シモンは弁明することもでき、反論することもできましたが、黙々と従順してイエス様の代わりに十字架を背負って行きました。今日、皆さんも同じような人物にならなければなりません。
イエス様がそれを見守る中での心情はどうだったでしょうか?3年間喜びと共に歩んできた使徒たちはどこにもいなく、思いも寄らなかった異邦のシモンがあなたを代わって惨めな立場に立つ時、イエス様の心は恥ずかしさが大きかったでしょうし、悲しみに悲しみを加えたでしょう。 もしこれらの使徒たちの中にでもイエス様の十字架を代わりに背負う人がいたなら、イエス様はその人を見つめて死の苦しみを忘れ、逆に共感しながらあなたの苦しみに打ち勝つことができたでしょう。しかし、そうではなく、イエス様は悲しみに悲しみを加えることになりました。これらの事情を皆さんは理解しなければなりません。
今日のキリスト教界においても、グレネタシモンのような教団が現れなければなりません。どの教団がこの責任を引き受けるでしょうか?彼らが追随していた使徒たちのイエスはならず、異邦人のグレネタシモンのイエスになったことを今日のクリスチャンたちは自覚しなければなりません。だからこそ、グレネタシモンのような教会を創り上げなければならないのです。
皆さんは、イエス様が受けた十字架の苦しみの状況と、苦悩の感情的な同伴者となり、彼の生涯と同じように永遠の意志と神聖な目的を達成するために、たとえ独りでも神の前で「父」と呼ぶことのできる子供にならなければなりません。こうして苦しみの主と共にする者となり、再出発の復活の主と共にする者とならなければなりません。
十字架に戻られた後、3日間でよみがえられたイエス様は、かわいそうな方でした。3年間歓喜と共に過ごし、熱心な気持ちで戻ること3日で復活することを教えたにもかかわらず、弟子たちはその言葉を忘れてどこかへ消えていったのです。イエス様が復活される際、墓を守っていた弟子たちは一人もおらず、かえって敵対的なローマの兵士が守っていたので、何があったのだろうということです。今日のキリスト教も、イエス様の墓を守りきれず、ローマの兵士のような敵がイエス様の墓を守る場合が多いことを指しています。
ローマの兵士が囲んでイエス様の墓を望む群衆がこの地にはいないのか!当時はそんな群衆はいなかったかもしれませんが、今日では私たちの信者たちの中にも多くのこのような群衆が出なければなりません。
では、最後にイエス様に会えた人物は誰でしたか?イエス様を放置し、彼を失い、好き勝手に散り散りになってしまった人はイエス様に会うことはありませんでした。イエス様が最初に会った人は誰でしたか?イエス様を放置し、彼を失い、山里で迷子になっていた人が最初に会ったのは誰でしたか?それはイエス様を見つけるために3日間食事を取らず、自分の体の置き場所さえわからずさまよっていた人たちでした。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメなどが該当します。
国の反逆者、国の反逆者として帰られたイエス様を懐かしく思い、3日間涙を流し、我慢できずに訪れた彼らは、最初によみがえられたイエス様に会ったのです。これは終わりの聖徒たちがどのように行動すべきかを示しているものです。
今日、皆さんはイエスの墓を求めて苦しむべき終末の時代であることを理解すべきです。復活の主に会うべきイスラエルの民を代わりにして墓を求めて苦しんでいた女性たちが、最初に復活の主に会ったように、今日、世界的な復活の主が現れる時、眠りたくても寝ず、休みたくても休まず、言葉にできない切ない気持ちで山や野をさまよい、天に向かって悲しい涙を流す人が再び来られる主を最初に迎えることができるのです。
イエス様が十字架に戻られたことに対して、弟子たちも悲しむことはなかったが、思いがけず使徒たちではなく無名の三人の女性がイエス様の帰りを悲しんで同情の涙を流し、イエス様の墓を探し回ったのです。このような行動が復活の主に最初に会わせたが、同様に終末にもこのような現象が起こるでしょう。
皆さんがもし自分の生命を超えて、自分の民族と世界中の人々の生命のために夜も寝ず、心を痛める生活をしているならば、この世に再び訪れる栄光の主は必ず皆さんを訪れ、皆さんは思いも寄らぬ状況で主を迎える栄光を味わうことでしょう。これがいずれ起こるでしょうことを皆さんは知るべきです。
それから、次にイエス様が現れたのは誰でしょうか?エマオへ向かう二人の人々に現れました。彼らは使徒ではありませんでした。彼らはイエルサレムで三人の女性がイエス様の復活を証言する時一緒にいた人々で、イエス様が戻られたことを心から残念に思い話すことができたのは、イエス様の事情を他の誰よりも理解し、イエス様の悲しい心情と通じる心を持っていたからです。そのため、イエス様は彼らに現れたのです。そしてイエス様が彼らに現れたのは、彼らが使徒たちにイエス様の復活を証明するためでした。
皆さんがもし異次元の喜び、終末の世界的な新しい栄光の日を迎えたいのであれば、皆さんは悲しむイエス様の心情、涙するイエス様の生涯を心配し、悲しい心で天に向かって身をもがいて進むことができなければなりません。
しかし、これらの行動や考えがなく、ただ座っていて主の栄光を期待する人がいますか?もしそうであれば、その人は直ちに偽キリストであり、偽預言者です。弟子たちがイエスの前に偽キリストの立場に立つことが誰が知っていたでしょうか?
また、選ばれたイスラエルの民とユダヤ教徒が反キリストになるだろうと誰が知っていたでしょうか?終末にもこれを心配しなければなりません。皆さん自身を置いて、もしかしたら反キリストの立場に立っていないかを心配しなければなりません。今は他人を非難し、他人のことに干渉するときではありません。問題は他人ではなく、自分自身です。教団が問題ではありません。終末に自分がサタンになるかもしれないと心配しなければなりません。今まで他人を問題視してきた人は、結局は自分を失ってしまう歴史の流れを経てきました。
皆さんは新しいエデンの理想的な園から、宇宙全体が望む栄光の復活を喜びと共に迎えたいですか?そのならば、イエス様の気持ちを感じながら共に涙を流し、共に責任を持たなければなりません。そのような人だからこそ、栄光の復活を受けることができます。今は終末が近づいている時です。
そのため、一定の霊的な基準に到達した人々は、熱望を感じています。恵みを受けても喜ばず、不義の経験にも満足しません。そのため人々は教会を飛び出そうとしているのです。どれだけ柵を建てても教会の外に出ないように言っても止めることはできません。この中で自分を見つけ出す難しい時です。
したがって、教会を代表でき、民族と世界、そして天の意志を代表できる真の子女が現れなければ、サタンの陰謀を打破することはできません。そのような姿勢を備え、歴史的な闘争で勝者となり、敵の罪まで引き受け、ゲツセマネの園で一人で祈っていたイエス様を代わる皆さんにならなければなりません。そのような皆さんならば、たとえ死の道であってもその道を進めば復活できるのです。
しかし、逆に自分の利益のために苦難を避けて快適な道を選ぶ人々は、それが復活の道であると知りながらも最終的には死に至ることでしょう。これを心に留めておかなければなりません。
皆さんは今や神の御心を達成するために、イエス様を死んだ犠牲ではなく、山の産物として神に献げる勝利の条件を立てなければなりません。そして6千年の労苦の後、神の前で皆さんが山の産物として献げられるとき、皆さんは霊肉が復活することです。こうなると、6千年間サタンに対して恨みを抱いてきた神の苦しみと悲しみを終結させる美しい仕事をすることができ、全宇宙の前、またはサタンの前、または数々の聖徒の前、天使軍の前で誇り高く立てるようになり、永遠の理想的な園に入り、永遠にその園で栄光を持って生きていけるようになるのです。これを心に留める皆さんがなりたいものです。
そして、6千年間、一生懸命労働されてきた神の前で、皆さんが生ける犠牲としてささげられる時、皆さんは霊的なものと肉体が復活します。このようになれば、6千年間にわたりサタンに対する神の悔しさと悲しみを終わりにし、宇宙全体やサタン、または無数の聖徒や天使軍の前で誇り高く立て、永遠の理想郷に入り、そこで永遠に栄光を備えて生きることができます。これを心に留め、覚えていただきたいと思います。