人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

文鮮明先生 御言選集 7-8

2025年02月01日 15時07分28秒 | 学習
文鮮明先生 御言選集 7 - 8. 天を知って奉る者になろう(1959年9月13日)
天を知って奉る者になろう
1959年9月13日
マタイによる福音書 10:24-29


1
<祈祷>


今お読みしたこのみ言葉は、真理の福音を宣べ伝えるために立ったイエスが、ご自身の深い心情に秘められた事実を発表されたみ言であることを、私たちは知っていますございます。


お父様、4千年の摂理歴史を締めくくり、選ばれたイスラエルの多くの民を踏まえ、あなたの前に勝利の祭壇を見据え、大祭司の名分で栄光の祭壇を積み上げ、すべてを復帰して敬意でなければならなかったイエスでしたが、地上においてその歴史的な使命を完遂する次に去られたことも、私たちは知っております。


お父様、歴史はイエスその後2千年が経ちましたが、そのときのイエスの御姿を思い出せるこの時間となることをご容赦ください。この時を「終わりの日」と言いました。罪悪の要素を清算する時期が近づいていることを、私たちは日々の生活の中に現れる現象の間ずっと悟っております。


すべての動きを見るときも終わりであり、世の中のすべての現象を見るときも終わりであることがわかります。なければ、感じなければならぬ、誇張らなければならないものがあるとすれば、それは世のどのような権勢であっても、物質的などのようなものであっても、人格的な何かでもありませんただひたすら、2000年前に来て続いたイエス・キリストの姿に似ている者とならなければいい。


私たち自身が作らなければいけないという事実を、私たちが思いつくようにしてください。


2


その当時のイエスは、外見上は取るに足りない姿でした。 洗礼者ヨハネよりも足りない姿で現れたイエスでした。 新しい法である洗礼を受けるために群がるイスラエルの民の前に現れた洗礼者ヨハネは、ユダヤ人たちの目に非常に素晴らしく映りました。イスラエルの民は彼を予言者としてまで仰ぎました。


イエスがこのようにそのユダヤ人の前に、洗礼者ヨハネよりも時代人格が劣る者のように現れたとき、人々は彼を信じることができず、彼は行く先々で反対を受けました彼に正義者たちは、ごくわずかであり、そのほとそのことを思うとき、その時代にイエスを独り子として知り、苦しい主として信じ、主として受け入れることのできる真の天の子女がいなかったという歴史的な悲しみを感じます。


人間的にも社会的にも何の地位も持たず、厳しい環境の中にいたイエスを、神の独り子として信じ、苦しみ主として受け入れ、主として受け入れることのできる人々が必要であることを、私たちは知ってます。


この時間、当時の心情を振り返りながら、イエスの前に謙虚にひれ伏し、父なる神が直接愛し導いてくださる仲間の中で、その教えと戒めを受け入れることができる息子・娘となれるよう、心から求めたい願います。






<祈祷>


今、父の御言葉を持って語っています。語る人の心と見る人の心に隔たりがあるとすれば、この場はたまたまサタンの舞台となり、私たちの生命の門を閉ざしてしまったりそのようになるのであれば、何らかの御言葉を聞かない方が良いことを、私たちは知っています。


3


どうか、心の扉を大きく開き、自らの主張や主張をすべて捨てて、父の生命の働きに自分の体と心を真剣に、父が動けるままに動き、感じ、体験することのできる時間とならしてください。


そして、再創造の御言葉の力によって、ここに集う人々が生命の核心を自覚し、父の御旨の前に生命そのものとして立つことができる時間となるよう導いて協力してくださることを、心から願いを求めますます。


すべてをお決めいたしますので、どうか主が導いてください。愛する兄弟姉妹も、この時間、同じ恵みの場となります様に願い、主の御名によってお祈りいたします。


イタリアで最も孤独な人とは、前を見ても、左右を見ても、あるいは後ろを振り返っても、自分を冷静に考えてくれる人が一人もいない人です。いないことほど、孤独で悲しいことはないでしょう。


皆さんは、自分のことを理解しているつもりかもしれません。


4


私たちには「心」があります。その心は、より高い理念を目指し、昼も夜も、時間や空間を超えて、私たちのある方向へ向かって駆り立てています。働きを感じながらも、なぜ自分がそうした衝動を持っているのかを説明できないままでいます。


皆さんは、「私のことを理解してほしい」「私を信じてほしい」と言っていたでしょう。 そして、自分が考え、自分が主張するすべてのことが、かなり動きと注目して、意味を持つことを願いながら、これまで生きてきたという事実を否定することはできないはずです。


しかし、自分を信じてほしい、自分を理解してほしいと求めるとき、自分を確固としたものとして定める、ほんの天倫の大目的と注目した位置に自らを考えた交渉、その要求をしているはずだうか。今はありません。


このように考えるとき、今日の自分の価値はどこで決まるのでよろしくお願いします。万象を動かすことのできる主体、あるいは主導者となることを心に願い、生活においても行動においても、それを実現しようとします一歩進んだ分析し、冷静に批判する過程を経ることなく、大きな目的を見据えて


天倫の目的を果たされたとしても天があるとしても、自分がその役割を果たせなければ、天の前に堂々と立つことはできません。


5


私自身の信念、私自身の希望、私自身のは理想誰のためなのか。


それは自分自身のためのもののように思えますが、実際には自分とは関係のない立場に置かれています。が、その心の奥底では、どうしても迷いが込み上げ、苦悩の波に飲み込まれることは避けられません。


そのため、歴史上の聖賢たちは、意識する周囲「理想とともに喜び合える自分を探そう」「理想とともに生き、共鳴できる自分を知ろう」といった標語を大切にしました。しかし、彼らは求め続けたにもかかわらず、最終的にその答えを出すことができませんでした。の日が訪れることを願っているのです。


人間だけでなく、今日のすべてのものは相対的な関係を持っています。


天があれば地があり、身体があっても心があります。このような相対的な世界観を持って考えるとき、心の動きがあるなら、その心を動かすことのできる主体的な存在もそれは「絶対者」と呼ぶか、「神」と呼ぶか、「創造主」あるいは「天」と呼ぶか、その名前は問題ではありません。存在が必要であるという事実だけは、一時的に否定できないのです。


5


当事者が存在するなら絶対、その者は私の心と少数縁を結び、時の流れを超えて歴史の中で活動し続けているのです。そのためにこそ、人間は真実を求めます、より良いものを願うことができます。


何か一つの事実を批判したり判断しようとするときも、それを比較するための相対的な条件を設定しなければなりません。また、推論を行ったり、あるいは理論を展開しようとします時には、主流的な対立条件を立てずには、その論理は成り立ちません。


なぜなら、自分自身を完全に見るために、自分を犠牲にするためには、比較し判断することのできる相対的な基準が必要です。そして、それこそが、人間が信仰の対象としている者です。


この絶対者と自分が関係を持ち、その違いを比較し、論じることによって、自分がどのような存在なのかが危うくなる。支配し、動ける絶対的な存在、あるいは主体となる何かがあるという事です。


宗教や哲学が究極的に追求する目的も、これは絶対者なのです。


6


人間は、その者絶対を探し求め、自分の心と永遠の関係を結び、生活の理念、世界観、宇宙観をその絶対者の理念と一致させ、共に生き、共に喜びを分かち合うことのできる神を慕い求めながら、歴史を動かす、このような道を最大限たのできが、多くの聖賢や賢哲たちであり、また、これまでの歴史多くの幼い宗教人たちが目指してきたものでもあるのです。こそが、この絶対者との真の関係なのです。


私を知るためには、相対的な位置にある存在の価値を知らなくてもなりません。まず、どこにおいても私が相対的な存在であることを感じる立場に


天が私たちの前に来るとき、いつでも真正面から現れます。 善というものは、常に横から入ってくるのではなく、真正面から現れるのです。


では、その「知る」という基準をどこに言うべきでしょうか?間違ってくれる一つの基準であることを、私たちは知らなければなりません。


今日、多くの信仰者たちが、自ら「私は天を知っている」「私は天を信じている」「私は天に頼っている」と自負し、自らを慰めています。 「その知識はどこから生まれたのか?」「その信仰はどのような環境の中で育まれたのか?」「天を信じて生きているというその姿は、どれよう「な環境にあるのか?」と問いかけてみたとき、それが心と永遠に相対する位置で動いていないのであれば、それはすべて天が認める立場に立たず、天が信じることのできる立場にも立っておらず、天が関与できる立場にも立っていないということを、皆さんは覚えておかなければなりません。


7


神はイスラエル民族を選んで民として選ばれました。 多くの民族の中から、神だけを愛する民族を探し、立てられたのです。では、天がこのようにして一つの民族を探すとき、どれ天は真正面から向き合いながら、イスラエル民族を選び導かれました。


天は、真正面から対面距離を縮めながら、「あなたが私であり、私があなたである」と環境の歴史を導いてこられました。 天は、人間と直接関係を結ぶ、人間が天共に生きることができる環境を優先するために、歴史を導いてこられたのです。


イエスはこの地上に来られ、「私があなたの中にあり、あなたが私の中にあり、父が私の中にあり、私が父の中にあることに、父はあなたの中にもおられる」と言われました。


神が選ばれた民族を立て、導いてこられた目的は何でしょうか? それは、「あなたと私は一つである」と言える位置にまで進むためです。神はこのような「知る」という関係を求めてこられたのだということを、私たちは知らなかったのです。


人間は堕落によって、神と真正面から向き合うことのできる位置を学びました。


8


本来の人間の価値とは、神に対して希望においても、事情も、心情においても、真正面から向き合うことのできる存在です。


しかし、人間は堕落によって、その希望が正しくなく、その事情が正しくなく、その心情が正しく消えて、天から追放されました。追放されたのです。その無数の人類は、正しい希望、正しい事情、正しい心情に立って見ることができる事が出来ていません。


つまり、「私は天上天下において、天を動かす、地を動かすことの存在である」と言う人は、歴史の中にいないのです。そのため、皆さんの希望は歪み、出来事は不正確で、心情は反対の方向を向いているという事です。


「私たちはどのような後孫なのか?」と言えば、根本的にその出発点から、異なる希望、異なる事情、異なる心情が絡み合い、交わって繁殖してきた後孫であるということです。すなわち、神の前に直立して立つことができる人間にはならなかったということです。自分の希望、事情、心情がどのような曲折に縛られ、絡み合っているのかを知らないなら、それは自分自身を理解していないということです。


世界で最も孤独な人とは、前を見ても、左右を見ても、あるいは後ろを振り返っても、自分を理解できる人がいない人です。自分を理解している人がいないこと以上に、孤独で悲しいことはありません。


9


私たちには心があります。 その心は、より大きな理念に向かって、昼も夜も、時間と空間を超えて、私がある方向へ突き出しています。


皆さん、「私を理解して欲しい」「私を信じて欲しい」と言いたいでしょう。 そして、自分が考え、自分が主張するすべて自分自身が、ある程度は動機と縁を結ぶことを願いながら生きてきたという意見も否定できないはずです。


そう考えるとき今日私の価値はどこで決定されるか。万象を動かすことができる主体、あるいは主動体になることを心に願い、生活に、そして行動で動かしていこうとする自分をもう一度分析してみて、冷静に批判する過程を経る前には大目的を成し遂げることができません。天輪の目的を成し遂げようとする空がある 割振台 自分がそんなことをしなければ、空の前にもたれが立つことができません。天倫の前に頭を上げることができないことを、私たちは推理によって、あるいは論理的な立場から見ると否定できないでしょう。


自分自身の信仰、自分自身の願い、自分自身の理想は誰のためのものなのか。自分のためであるようで、自分とは無関係な立場にあります。このような悲しい境遇にあるゆえに、人間は理想と希望を抱いて生きていますが、その心中では悲しみが曲がりくねった曲折にぶつからないわけにはいかないということです。 そのため、歴史上に往来した聖賢たちは、「理想と共に楽しむことができる私を見つけよう、理想と共に動かし、決心して生きることができる私を知ろう」という標語を知らず知らずのうちに掲げ、また、これを探して立てようと彷徨ったという事実を私たちは聖書の御言葉を通してよく知っています。 このように彷徨ったが解決できなかったので、解決する日が来ることを私たちは願っているのです。


人間だけでなく、世の中のすべてのものはすべて相対的なものです。天があれば地があり、体があれば心があるのです。 このような相対的な世界観を持って考えるとき、心の動きがあれば、この心を動かすことができる主体的な何かしらの存在がなければなりません。 これを絶対者と呼ぼうが、神と呼ぼうが、創造主と呼ぼうが、あるいは神と呼ぼうが、その名詞は問題ではありません。 そのようなものがなければならないという事実だけは否定できないでしょう。


10


何らかの絶対者がいるとするならば、その絶対者は私の心と何らかの縁を結び、時間をかけて歴史してきています。 そのような縁で、人間は真のもの、より良いものを願うことができるのです。


ある一つの事実を批判したり、判断しようとするときにも、比較できる相対的な条件を立てなければなりません。推理をしたり、何らかの論理を展開させる時にも、仮説的な何らかの相対条件を立てなければ、その論法は成立しないのです。


ですから、私を完全に知り、私を解明するためには、比較し、判断できる相対的な条件がなければなりません。 それが、人間が信仰の対象としている絶対者である神様なのです。 その絶対者と私が関係を結び、その違いを比較し、論破する時に、自分がどうであるかが解明されるのです。 そのような縁で、私の心があるとしたら、この心を支配し、動かす絶対的な存在、あるいは主体となるその何かがあるという事実を、皆さんはまず感じなければなりません。


宗教や哲学が探すべき究極の目的点も絶対者です。 その絶対者を探して、私の心と永遠の関係を結び、私の生活の理念、あるいは世界観・宇宙観が彼の理念と同じように動き、共に生きて共に喜ぶことができる神を慕い、探し求め、歴史を動かしてきた者たちが、数多くの聖賢現哲なのです。 さらに、数多くの宗教人たちなのです。 彼らが目的にして探すのは、そのことでしょう。


私を知るためには、相対的な位置にある存在の価値を知る必要があります。 私の心が作用するのは、私の心が自ら何らかのイデオロギー的な要素を作り出しながら動くのではありません。 まず、どこにいても私が相対的な自己であることを感じる位置に入る必要があります。


11


天は私たちの前に来られる時、いつでも正面から現れます。善というのはいつも横から入ってくるのではなく、正面から現れるものです。


それでは、その知識の基準をどこに立てるのでしょうか。 正面から入ってくることが全万象を通じることができ、すべての認識を通じることができ、良心世界を動かすことができるとするならば、それが私を解明してくれる一つの基準であることを私たちは知らなければなりません。 そうすれば、人を見る時も違って見えます。


今日、信じていると自称する多くの信者たちは、自ら「私は天を知っている、天を信じている、天を頼りにしている」と自画自賛し、自信を持っていますが、知っているという「その知識はどこから来たのか、信じているその信念はどのような環境で信じているのか、天を信じて生きること自体がどのような環境にあるのか? と問われるとき、それが心と永遠に相対できる立場で動くものでない限り、それはすべて、天が認めることができる立場に立たず、天が信じることができる立場に立たず、天が干渉することができる立場に立たなかったということを皆さんは覚えなければなりません。


神様はイスラエル民族を選民として選びました。 多くの民族の中から神様だけを愛する民族を探し、立てたのです。 神様がこのように民族を探し、立てた時、どのようにされたのでしょうか。 正面から向き合いながら、イスラエル民族を探し、立てました。正面から向き合いながら、イスラエル民族を探し立てました。 天は正面から向き合う距離を短くし、「あなたと私、私とあなた」と言えるような環境に歴史を追い詰めて来られたのです。


イエス様はこの地上に来られ、「私があなたの中にあって、あなたが私の中にあり、父が私の中にあって、私が父の中にあるように、父もあなたの中にある」とおっしゃいました。 神様が選ばれた民族を立てて導いてくださる目的は何でしょうか。 あなたと私は一つである」と言える位置まで行くためです。直線上に引き寄せて、「私があなた、あなたが私」と言える条件を立てるためでした。 神様はこのような知の関係を求めて来られたことを私たちは知らなければなりません。


12


人間は堕落によって、神様と正面から向き合える立場を離れてしまいました。 神様に接する上で、願いでも、事情でも、心情でも正面から接する人間が本来の価値のある人間です。


人間は堕落によって、その願いが正しくなく、事情が正しくなく、心情が正しくないために、天から追放されました。 追放されたのです。 追放されたのです。 先祖から今まで歴史の道のりを行き来してきた数多くの人類は、正しい願い、正しい事情、正しい心情に基づく冠を持てなかったということです。言い換えれば、「私は天上天下で天を動かし、地を動かせる自分を持っている」という人が歴史の道程にいなかったということです。 ですから、皆さんの願いはずれており、事情は間違っており、心情は反対の方向に向いていることを知らなければなりません。


私たちはどのような子孫なのでしょうか。 根本的に、その出発から違う願いと違う事情と違う心情に絡まって繁殖された子孫です。 つまり、神様が望む願い、神様が望む事情、神様が望む心情を持って神様の前に立つことができる人間になれなかったということです。 自分の願いと事情と心情がどのような曲折に縛られ、絡まっているという事実を知らなければ、自分を知らないということです。


ですから、堕落した人類の前に天は提示しました。 人間が願い、願うべきものは、地でもなく、地上のどのような偉大な聖人でもなく、神様だと! 天は、人間がこの世の事情に絡まって生きていることを拒否しました。 なぜかというと、それは偽りだからです。 そこで、天はこれに対する対策を立てて出て来られました。 この事情を回して天敵の事情に追い込もうという使命を、神に代わって歴史の路程で責任を持って出てきたのが宗教であり、この宗教を中心にして良心の路程を開拓してきたのが宗教人たちの生活でした。


皆さんの願いと皆さんの事情、さらには皆さんの心情を、皆さんは神様の前に向けましたか? 向けることができなかったということです。


13


このようなことをご存知のイエス様は、この世界を見据え、全人類を神様の側に、つまり新しい願い、新しい事情、新しい心情の世界に回そうとされました。 そのような責任を負ってこの地上に来られたので、彼を願いの主人公、事情の主人公、あるいは心情の主人公、愛の主人公と言えるのです。


ですから、イエス様の前では、誰も堂々と私はこのような願いと心情を持っていると大声で言うことができないということです。 その願いが神様が持っている願いですか、その事情が神様がそう生きろと言われた事情ですか、その心情が神様を通して出てきた心情ですか」と問われるとき、そうではないということです。


今日、私たちにとって重要な問題は、人間の願いが何なのかということです。 これを知ってこそ、私を知ることができます。現在生きている人間の事情も知らなければなりませんし、また心情の問題もどうにかして知らなければなりません。これを知るためには、相対的な基準を探さなければなりません。 ところが、漠然とでもこれを人間の前に提示してきたのが宗教でした。堕落した人間の子孫である私たちは、天の前にどのような種族、どのような民族なのでしょうか。 天を裏切った民族です。神様の願いを妨害し、神様の事情を妨害し、神様の心情を妨害し、裏切った人間たちであることを知らなければなりません。


このような立場にある人類ですから、どのような願い、どのような事情、どのような心情の世界に住んでいるように見えますが、その心中には別の心が入り込んでいるということです。 この二つの間で争う苦しみを切実に感じる人は、死ぬか、神様を探すか、どちらかを選ぶのです。 ところが、理性的で賢く深刻な人は、死を覚悟してこのような道を探しに行ったのです。


では、私たちはどのような感覚を感じなければならないのでしょうか。 天を知り、自分を知るためにはどのような感覚を感じなければならないのでしょうか。私たちは天を裏切った反逆者の子孫です。誰がこの言葉に反対するでしょうか? 天を裏切った反逆者の子孫です。 しかし、私たちの心は本来の世界と連絡を取り合っています。時々連絡するのではなく、定期的に連絡しているのです。 あなたの体は、天を裏切った反逆者の血と骨と肉が移った体です。 これをどうするのか、これをどうするのか、これをどうするのか!


14


天は私たち人類が憎くて裁くのではありません。 人類をこのように作ってしまったサタン、悪を支配して出てくる主人公、神様を裏切って出てくるその主人公を打って分立させるのが神の摂理の目的です。私たち人間を捕まえて死の大釜に入れることが目的ではなく、人間を荒らし、この地を荒らして出てくるサタンを撲滅することが神の目的なのです。


ですから、この道を去れ、この道を避けて出て戦え、敵視せよと皆さんの心に警告しているのです。良心を持っている者には、行けば行くほど、お前はここから離れなければならないと警告しているのです。 敵の魔物に捕らわれた捕虜になることが、人間がこの地上に生まれた本位ではありません。


神様が人間を創造された本来の目的は何でしょうか? 真の息子・娘、神様の息子・娘になることです。 神様と私との本来の関係は、愛を中心にして切れ目のない豊かな関係を持つことです。 このような縁を結ばなければならない今日の人類は、死のような絶望の中に捕らわれ、この事実に気づいていません。 また、自分たちがどのような立場でどのように動かなければならないのか、全く分かっていません。


このような人間の前に、本来の願望と事情と心情の世界観を持って来て、どうすればどうすれば本郷に帰れるかを教えてくれる方がいれば、彼は願望の救い主、事情の救い主、心情の救い主でしょう。 皆さん、そうではありません。 生きるためには、願望と事情と心情、この三つの要素がなければなりません。 皆さんは、どんな事情、こんな事情、あんな事情、またどんな願望、こんな願望、あんな願望、またどんな心情、こんな心情、あんな心情を持っています。人間の生活は、ある意味、願いや事情や心情に首をつないで生きる遊びです。


ですから、今、人間が望むのは、今生きていることが苦しいので、これを恨み、これを打ち破り、新しい願い、新しい事情、新しい心情の世界を求めることです。 堕落した人間が望むのは、本来の世界です。


15


今日、皆さんの中に自分を立てて自慢する人がいるかもしれませんが、立ち止まって自分を冷静に批判しなければなりません。 誇る者は打たれます。 誇る者は打たれます。邪悪な世の中ですから、自分を立てて自慢しようとする人はそうなります。 ですから、良心的でなければなりません。良心に従って動こうとする人は、邪悪な者たちが動く環境が過ぎ去った後は、いつか必ず立てられるのです。 これは小さな事実ですが、歴史的な生きた証拠です。 このようなことが世界的に天地で起こる時は、悪が退き、善の時代が来る時です。


そして、私たち人間は今まで6千年の長い歳月の間、天は私たちを訪ねてきました。 そして、私たち人間は今まで6千年の長い歳月の間、天に向かって天を訪ねてきました。天が立てたその願いが真の願いだと思い、イエス様が私たちを救った事柄が完全な救いだと思い、イエス様が立てた愛が真の心情を通じることができる愛だと思い、出てきています。


それなのに、イエス様を信じたその日から、「世の願いよ遠くに行け」、「世の事情よ遠くに行け」、「世の心情よ遠くに行け」と言える自分になれませんでした。まだその限界線を越えられなかったということです。 このような罪深い地にイエス様が来てすべきことは何かというと、この罪深い地に革命を起こすことでした。 新しい希望の世界、新しい事情の世界、新しい心情の世界である理想ルウータを成し遂げなければなりませんでした。 イエス様はこのような使命を持って来られたのです。


人間は苦しみの世界に生きています。 体と心の世界において、激しい戦いをしています。 体が接する世界は実体の世界ですから、接するすべてが実体的な刺激として現れるので、心がどんなに強くても、この実体的な世界の刺激の前に囚われてしまうのです。


ですから、心は円でありながら肉体は弱いと嘆きました。 それはなぜでしょうか。 実体として感じられる感情、つまり実体を中心にして四方から入ってくる刺激が強いからです。 しかし、心の刺激は四方から来るのではなく、一方向に流れてきます。一筋の方向に入ってくるこの心の刺激よりも、外部から入ってくる実体の刺激の方が強いので、心の刺激は断たれ、踏まれてきました。 このようなことが今日、私たちの心に押し寄せていることを否定できないでしょう。


16


私たちの心に刺激が来るのですが、その方向は四方から来るのではなく、後ろや左右から来るのではなく、正面から来るのです。


ですから、皆さんが悪の世界に住んでいても、自分が知らないうちに「ああ!」と何かが恋しくなることを感じる時があります。 あるいは、信仰生活をしている人も、自分が知らないうちに祈りたくなります。 それは、心に何らかの動きがあるからです。 心に扉があれば、その時々に合わせてその扉が開き、その扉を通して天の縁が動いて入ってくるとき、皆さんは心に刺激を感じ、その世界を求めるようになるということです。 私たちはこのようなことを知らなければなりません。


悪は四方八方から実体として私を攻撃してきますが、天は正面から一方向から、心の底から私を訪ねてくるのです。 しかし、私たちはこのような天を何度も荒らし続けてきました。 ですから、皆さんは天の前に立つことのできない反逆者です。 それを否定することはできないでしょう。


人間はサタンの鉄網権、つまりサタンの主管下にあります。神様の主管の下に生きるべき、天の民であるべき、天国の民であるべき私たちが、サタンの主管権の下にある捕虜のような立場にあります。捕虜のような私たちです。 私たちはこのような立場にあります。


それでいて、私たちの心の奥底には本郷の理念、本郷の事情、本郷の心情を通じることができる何らかの動きがあります。この動きが心から爆発して体まで自在に動かし、天と地のすべてを屈服させるために、天は人間を造られたのです。 皆さんもこれを知っておく必要があります。


17


ですから、糸のような心の動きによって善の方向を探し、それを実現させるための闘いの生活を進めています。サタンはここに三面攻撃をしてきます。 良い物質を持って、世の中のどのような権威を持って、世の中のどのような権威を持って、三面攻撃をしてきます。 これを断ち切り、断ち切り、また断ち切りながら戦っていく道が信仰の道です。 ですから、休まず祈れと言われました。祈りの時間は戦いの時間なのです。


イエス様はこのような観点から、サタンの捕虜となった人間を見据え、サタンの主権世界を滅ぼし、潰滅させる責任を背負って来られました。サタン世界を潰滅させる基盤を構築して工作するために、先陣を悪の世界に作っておこうというのが先生のお考えです、先生のお考え。そして摂理できる先頭工作隊を作り、神様がこの世界を復帰するための一つの足場として使うために選んで立てたのがイスラエル民族でした。 ところが、その民族は知らなかったのです。 その民族は知らなかったのです。


アブラハム以後、イエス様まで2千年、神様はその間、イスラエル民族の前に信仰という条件を立て、個人が信じれば個人を越えて家庭が信じられる期待を開拓し、家庭が信じれば家庭を越えて民族が信じられる期待を開拓し、民族が信じれば民族の期待を越えて世界が信じられる期待を開拓してこられました。 皆さん、これを知っておく必要があります。


天が選んだ信仰の祖先アブラハムはどのような人でしたか? 個人として天と連絡できる、サタンの世界に対する偵察者でした。今の言葉で言えばスパイでした。 世界がサタンの世界だったので、誰も歓迎する者がいませんでした。すべてが敵であったため、彼は聞くことも遮りながら聞かなければならず、見ることも遮りながら見なければなりませんでした。 考えも分別してしなければならず、行動も見境をつけながらしなければなりませんでした。


ご飯を食べても目分量で食べ、寝ても目分量で眠り、生活も目分量で生活してきたということです。 これが、天の摂理を受け入れてきた、摂理の御心に接した私たちの信仰の先祖たちが歩んできた道でした。


18


天は選ばれたアブラハムを葦原のウルから引きずり出し、そのような場所に送りました。荒れ地のようなところから追い出したのです。アブラハムはそこで、天が立てようとしていた天の主権の国が建立される日が来るのを待ちました。 天が祝福した息子たちが海の砂粒のように、天の星のように繁栄して悪の世界を打ち負かすことができるその日を待ち望みながら、私たちの先祖たちは祖国山川を捨てて出て行ったという事実を私たちは知らなければなりません。


なぜかというと、敵の国、敵の鉄の網の中に捕らわれているので、嫌になるはずです。 身体にゾクゾクすることを皆さんも感じるはずです。このようなことを感じられないなら、皆さんは天の前に完全な信仰者とは言えないということです。


天がアブラハムを立てた目的は何でしょうか。 遠くにいる人間、敵陣の中にいる人間、サタンの世界にいる人間と連絡できる一つの基盤として、これを土台にして横方向に伸びていきたいということだったのです。 しかし、下手をすると天と地の関係が切れてしまうので、仕方なく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神という直系の血統を通して動いたのです。 皆さん、これを知っておく必要があります。


イサクとアブラハムが祝福を受けた時、彼らが持っていたものは何でしたか? 選民ということしかありませんでした。 お前はサタンの世界と妥協してはならない。和合してはならない。お前は選民だから生活も違うし、感情も違うし、望む願いも違うし、お前が夢見る理想も違う。あなたは私を通して勝利の一日を見なければ、あなたの子孫が生きることができない」という観点から、神様はアブラハムを祝福されました。 ですから、アブラハムもそのような観点からイサクを祝福しなければならなかったし、イサクもそのような観点からヤコブを祝福しなければならなかったし、ヤコブもそのように彼の後代の前に祝福しなければなりませんでした。 それにもかかわらず、イスラエルがその伝統的な祝福の縁を裏切ったのです。


アブラハムを選んで個人的な信仰の環境を開拓した後、ヤコブの時代に入り、家庭を経て70家族を抱え、サタンの世界であるアベルに入らせました。 この家庭的基盤を土台にして何をしたかというと、民族を形成するためにサタンの世界へ追い出したのです。 本国ではなく、サタンの世界の一番の巣窟です。 その時代のイスラエル民族の前に、歴史的に敵であるサタンの世界であるアベルに追い出したのです。 そうでしょうか。 そうですね。


19


この家庭的な土台を中心にして、どんな苦しみ、どんな死の道、どんな恨みがあっても我慢しなければなりませんでした。 辛抱するためには、いつまで我慢しなければならなかったかというと、民族が構成されるまででした。 イスラエル民族は4百年を流浪の旅をして苦痛の生活をしながらも、民族構成の願いの下で、「神様、あなたの恨みを晴らしてください。 しかし、4百年の歴史は過ぎましたが、イスラエル民族は天の伝統的な願いと事情と心情から外れるばかりでした。 そうなると、これを再修復するために来られたのがモーセでした。 このモーセは60万のイスラエル民族の指導者でした、民族の指導者。


では、神様はこの民族を土台に何をしようとされたのでしょうか。 民族を土台に世界舞台に出ようとされたのです。 そのため、選ばれた民族の前に、天はこの民族を連れて新しい王国を建設できる、万王の王となるメシアを送ると約束されました。民族に基づいて約束をされました。


これがアブラハムを基準としたものではなく、ヤコブを基準としたものではなく、モーセ以後の民族を基準としたものでした。 しかし、そのように民族を基準にして世界のサタンの主権を打ち破り、天の勝利の土台を築くために、世界的な大王として送られた方がメシヤであることを、その民族は知りませんでした。


イスラエル民族はどのような観点からメシヤを期待しましたか? メシヤが現れたら、民族全体が団結して世界舞台を開拓し、サタンの世界を征服しなければならない天の摂理の前に選ばれた民であるという確固たる信念を持って、サタンの世界に住んでいることを痛切に思い、痛切に感じていたのに、彼らがイエスを捕まえて殺すはずがないということです。


この地上にイエス様は来られました。 彼の願いは何だったのでしょうか。 個人が問題ではありませんでした。12弟子が問題ではありませんでした。イエス様が問題視した基準は、イスラエル民族全体だったのです。 選ばれた民族を統治して結束させ、新しいカナンの福祉を建設するための、世界カナンの福祉に向かって行進のラッパを吹くべきイエス様が民族の代表的な席から追い出されたその恨みに苛まれたことは、歴史の過程でイスラエルが滅びる動機になったという事実を私たちは知らなければなりません。


20


これまでは死ぬために来たイエスだと知っていました。 なぜこのようなことを言うのでしょうか? 実はそうではないからです。 天倫のために戦う勇者が必要です。理にかなっていますよね?


4千年という長い歴史を経て、天がサタンの世界と連絡できる情報機関のようなもの、軍事基地のようなものを作っておいたのに、これらが全部崩壊してしまったということです。4千年苦労して作った民族の基盤にイエス様を送りましたが、彼らがイエス様を不信しました。 それで民族の基盤が崩れたので、民のない王があるでしょうか。 だから、サタンの世界で彼を捕まえて勝手にしたのが十字架の死です。王子の惨めな死刑です。 しかし、その民族は、イエスの十字架の死がイスラエル国の王子の惨めな死刑であることを知りませんでした。


どこで死にましたか? サタンの主権の下で死にました。 皆さん、ここの具体的な内容をもっと知りたければ、後で時間があれば私に会いに来てください。 そうなっています。 だから、神様は怒っているということです。 イエス様は、「私が来て死ぬのは死ぬことだが、死ぬ前に、天の通達を、秘密の約束の文書を与えよう」と言われました。 これが新約聖書です。 この秘密の文書が新約聖書ということです。


ですから、「私を信じなさい。私を信じてついて来なければ生きられない。私を信じればどこに行くのか? 解放の場所へ....。私を信じなければ生きられない、信じなさい。私があなたがたのために来て、あなたがたのために死ぬので、私を信じて、私の言ったことを信じなさい」これです。 イエス様の御言葉は、私たちが生きることができる約束の御言葉です。聖書の言葉は暗号です。天がサタンの世界に来て連絡できる暗号です。 比喩と象徴で書いたものです。 ですから、聖書はいくら読んでも分かりません。この暗号を解く日が来るのですが、そのためには忠誠を尽くし、精誠を尽くさなければなりません。 イエス様が望まれたことは何だったのか? 民族を基盤として世界復帰の理念を立てることでした。世界のどのような思想や主義主張もそれを解明することができないので、いつかこの秘密文書を解明して、私たちが行くべき方向と目的地を提示すると約束されました。


今日、キリスト教信者は消えたイスラエルの第2の基盤です。今日の世界にいるキリスト教信者は、2千年前に世界のカナン福祉に進撃するために立てようとした選民、第2のイスラエルであることを自覚しなければなりません。

21


皆さん、そんな言葉を聞いたことがありますか?第2イスラエルの息子・娘であることを知って覚醒しなければなりません。 そうなれば、今、私がここで苦しみ、苦しい苦難を受けていますが、いつの日か来る日が来ますが、その日には、天の権威の前に堂々とした姿を誇れるようになります。 これが希望する再臨の日です。


それでは、今日、この世界にいる第2イスラエルはどうすべきでしょうか。 イスラエル民族が荒野を通過する時、班編成がありました。第2イスラエルの皆さんはどの班に属していますか? これを知る必要があります。 自分がどの班に属しているかを知る必要があるということです。


天上には十二の真珠の門がありますが、その十二の真珠の門の一つ一つの門には使徒の銘板がついています。 ですから、どの教派、あるいは長老派であれば、その長老派がどの部族に属しているかを知る必要があります。 部族を失った第2イスラエルです。今がまさに荒野で喘いでいるあの時と同じです。そのような時です。 ですから、皆さんの前にはアマルエクのような種族が攻撃してくる時があります。 その時は生死の分かれ目を決めなければならない時です。2つの陣営が対峙しているのですが、片方から攻撃、進撃してきます。天は先に攻めてくる日がありますが、その日には思想的に攻め、心的に攻め、身体的に攻め、生活的に攻めることになります。根本とは反対の方向から私たちに向かって進撃してくるのです。


ここで私たちは目覚めなければなりません。 世界中の第2イスラエルは結集しなければなりません。 イエスの十二使徒のように、私はどの使徒だ、私はどの階級だ、と戦えば滅びます。 そのような時代が来るということです。


イスラエル民族が出エジプトでモーセを中心にして十二支派に分派を作り、民族観念を強く持っていたように、その十二支派がモーセに接し、天の御旨に接したように、イエス様の当時もメシヤをお迎えするために反列の組織を作り、団結していたら、イエス様は死ななかったでしょう。 反列を失った民族になってしまったので、みんなそれぞれになってしまいました。自分勝手な、自分勝手な、自分勝手な、自分勝手な遊びをしていると、滅びるのです。 理屈はそうではないでしょうか?


22


天は私たちを訪ねてきて、こう教えてくださいました。 個人に対しても私はあなたの父であり、家庭に対しても父であり、民族に対しても父であり、世界に対しても父であると。民族が父を持っている限り、あなたの父であり、私の父です。世界がその父を持っている限り、あなたの父は私の父であるということです。 天はそうなることを望んでおられます。


天は私たちを訪ねて来られました。 天は、サタンの主権の捕虜となった私たち人間一人一人に対して訪ねて来られました。 しかし、個人的な信仰の祖先であるアブラハムを立てられたにもかかわらず、言いたいことが言えなかったのです。家庭を立てたが、言いたいことを言い尽くせませんでした。民族的にモーセを立てられましたが、言いたいことを言い尽くせませんでした。 イエスを立てられましたが、その時もやはり言いたいことを言い尽くせませんでした。聖書にはっきり書いてあります。 言い切れませんでした。 なぜそうなったのでしょうか。


なぜそうなったかというと、イエス様は世界的な神様であり、天主的な神様を代表し、天と地全体を代表する方として来られたので、そのような足場がなければ仕事を成し遂げることができなかったということです。 だから、イエス様は終末に再び来ると言われました。


皆さん自身について考えてみてください。皆さん自身は歴史的な借りを背負っています。


天は、皆さんに知らせて教えるために、何十回、何千万回と皆さんの種族、あるいは皆さんの預言者たちを訪ねて来られました。 これを皆さんは知っていますか?


23


では、イエス様は何を持って来られたのでしょうか。 イエス様は、父を中心にして、万王の王として万民を天の子として立てて、サタンの世界を裁き、幸福の園を成し遂げようとする理念を持って来られたのです。 そのような願いを持って、そのような事情を持って、そのような愛の心情を持って来られたのです。 しかし、今日、皆さん、そのような願いを持ってみたことがありますか、そのような事情を通してみたことがありますか、そのような心情を感じてみたことがありますか。 できなかったら、裁かれるしかありません。


ですから、私たちは「ああ、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセと歴代の預言者、4大預言者と12小預言者が呼んだ父、あるいはイエスが呼んだその父よ!」と叫んではいけません。 アブラハムの力の神よ、ヤコブの神よ、モーセの神よ、イエスの神よ、私の神になってください!私の神であってください」このように祈るべきです。 他人の神であってはなりません。 私の神でなければなりません。私たちはそうしなければなりません。


歴史的な神様を呼ぶ時は過ぎ去りました。 ですから、時代的な神様が私と関係なくてはならないし、未来的な神様が私と関係なくてはならないのです。 歴史的な神様よ!時代的な神様、事情はこうではないですか!未来的な神様、事情がこうではないですか、事情がこうではないですか、願いがこうではないですか」と言った時、神様が「来てください」と言えるような関係を結ばなければなりません。


そのためには、私たちはまず、サタンの世界に置かれていることを知らなければなりません。 皆さんはサタンの子孫です。神様の味方ではなく、サタンの捕虜になった捕虜の兵士たちです。 そんな皆さんを奪い返すための世界的な連絡の代表が救い主です。救い主、救ってくれるということです。救い主は捕虜の兵士たちを救うための使命を帯びて来た人です。心を励まし、行動で戦わせました。 そのため、イエス様は「私は世界を平和にするために来たのではなく、武器を与えて紛争を起こさせるために来た」と言われました。 しかし、紛争が行われていますか、行われていないのでしょうか。 一度見てください。


私たちは神様の前に行くべき民であり、天の息子・娘であり、天の家族であり、天の夫婦であり、天の真の兄弟です。 しかし、これはどういうことでしょうか。 私たちは兄弟も失いました。親もなく、家庭もなく、民もなく、相手もない哀れな人間です。 ですから、これを再び復帰しなければならないということです。 これを探さなければなりません。


24


これを探すためには、心で探さなければなりません。 天は心を通して探して入ってきます。心のドアをノックして開けて入ってきます。 そして、「私はこれではいけない。この世界から離れなければならない」という気持ちを植え付け、その環境と戦うように摂理してきたのが6千年の歴史です。善を代表する人と悪を代表する人の戦いが繰り返されたのが6千年の戦争史です。 人類の歴史が戦争史だということです。


最初は邪悪な人たちが善良な一人を倒して勝ったように見えますが、その善良な一人を倒した後はまた繁殖します。死んだら繁殖するということです。一人が打たれれば、三人以上を見つけることができる天的な条件があります。 ですから、キリスト教はどの国でも先に打たれます。 神様の作戦法は、愛する息子・娘をサタンの世界に送り、彼らから打たれて殺されるようにし、その代償として、その分だけサタンの世界から奪ってくるのです。 善い人が先に打たれることはありません。 先に打たれたその代償分だけサタンの世界に損害賠償をしてやってくるのです。 天の作戦法がそうだということです。 ですから、今日までのキリスト教の歴史は殉教の歴史であり、血の歴史です。


ですから、歴史の道のりを見ても、打った者が必ず負けます。世界大戦を見てください。第1次戦争でも先に味方した側が、第2次戦争でも先に味方した側が負けました。 第3次戦争でも先に味方した側が負けました。個人的な生活でも「我慢しなさい、我慢する者に祝福があるので、打たれても我慢しなさい」ということです。 なぜなら、我慢すれば立てられる日があるからです。


神様が恨みを我慢しておられ、6千年の間、サタンの前に訴えられ、恨み、憤りを晴らすことができなかったので、「あなたも恨みだ。おいで、お前は私の味方だな」と言われる日が来るでしょう。


ですから、今日、信仰の世界では我慢しろと言います。 信じて我慢しろと言うのです。 従順、服従、犠牲と言うのです。 なぜかというと、そうすれば立てられる日が来るからです。


25


天の作戦法が先に当たって奪い取るのですから、イエス様も当たって祈ったのです。サタンの世界の法則にも引っかからないということでした。敵視していると、サタンの世界の法則に引っかかります。そのような作戦法を立てて出てくるのです。


私たちはこれを知らなければなりません。 そして、今日ここに出席した皆さんの個体は、歴史の道程で何度も何度も訪ねてきた神の息子・娘であること、天国の民であることを知らなければなりません。 天国の家族であることを知らなければなりません。 天国の兄弟であることを知らなければなりません。 さらに、神の直系の息子・娘であることを知らなければなりません。


ですから、このような息子・娘、このような家族、このような人間、このような民にならなければなりません。


今日、私たち人間は神様を知りませんでした。 歴史的な神様が私のために、時代的な神様が私のために、未来的な神様が私のために見つけてくださいました。 しかし、私たちは、真の息子・娘になるように私を見つけてくださった神様であることを知りませんでした。 哀れな神様です。見てください、このように私を捜してくださった神様であることを知りましたか?


結局、私たちはその父に対する責任があるのです。6千年の間、神様はこの地上で働いてこられましたが、息子として永遠にサタンの前に自慢でき、サタンの世界に侵略されないことができる者がいますか? ありません。 この家庭は私の家庭だ」と言える家庭がありません。 この民族は私の民族だ」と言える、サタンが侵略できない民族がありません。 この地は私の土地だ」と言える土地もありません。


26


天がこのような立場におられるのですから、誰がこの仕事をしなければなりません。 人間が堕落したのですから、人間がその仕事をしなければなりません。 お父様、私の家は父の家ですから、この家では絶対にサタンを許しません。 永遠に許せません」と言わなければなりません。 しかし、そう言える家がありますか?


歴史的に来られた神さま、時代的に来られた神さま、民族的に来られた神さま、国家的に来られた神さま、さらに世界的に来られた神さまの前に裏切り者になるか、それとも忠臣になるか、どちらか一方を選ぶしかありません。


そのため、綿羊と山羊を分けるというのです。忠臣になるためには、憤りと恨みを知らなければなりません。 私の父が過去にはこのように憤ったのだな。 今日の父がこのように憤るのだな。 将来の父がこのような立場にいるのだな!」その父の憤りを知らなければなりません。


今、私たちは団結しなければなりません。 天の民を求める天の前に天の民がいないのですから、私たちは旗を高く掲げ、死を覚悟して天の民を集めなければなりません。


天の民族、天の民族、天の種族、天の家庭、天の子女、天の父母を持てない神様を思い浮かべるとき、私たちは頭を上げることができません。 天の前に頭を上げることができない人間たちです。今日、皆さんがここに来て知るべきことは、天の前に頭を上げることができない人間であるということです。 私の家に寝ている兄弟が私の兄弟かと思ったら、そうではありませんでした。 私が住んでいるこの天地が私の住む国かと思ったら、そうではありませんでした。 私が連絡している人たちが私の友人かと思ったら、そうではなかったということです。


27


このような視点で考えると、さすがにイエス様のお言葉は当然のことです。 彼は人間の前でできることを全部言って行かれました。できることはすべて言いましたが、その言葉を理解できない群衆を見て、イエス様は嘆かれたのです。 人のために来たイエス様、民族のために来たイエス様が、民族を捨て、反対する群衆を後ろに置いて山の中に入り、天の前に涙を流す祈りの生活をしたことを私たちは知らなければなりません。


体から心から御旨に対する願いを抱いて「お父様」と正面から走っていく、つまり、民の代わりに、民族の代わりに、種族の代わりに、兄弟の代わりに、子供の代わりに走っていく息子・娘がいるとすれば、神様はその息子・娘を抱きしめ、嘆かれることでしょう。 復活したイエス様をマグダラのマリアが抱きしめようとした時、このような原理的な内容を通せなかったので、「私を抱きしめないでください」と言われました。


歴史上の人類は、まだ神様に向かって正面から向かって走り出せませんでした。 民族や種族、兄弟の立場を越えて、子供の立場に立って父に対して父と言える立場に出た人は一人もいません。 歴史の道程において、イエス様はこのような責任を果たされたので、救い主になることができたのです。ところが、イエス様が「父よ」と言う時、神様が「おいで、もう勝利したんだね」と言うことができない境遇で、イエス様は死にました。 ですから、イエス様は全宇宙と天上天下のサタンに対する勝利の目的を終結させるために、この地に再び来なければならないということです。 しかし、雲に乗って来ればいいのでしょうか?


今、私たちは知らなければなりません。 私を知らなければなりません。 重層的に遮断された捕虜収容所にいる私の体です。 ですから、解放された自由の天地、私たちの民が住んでいるところ、私たちの兄弟が住んでいるところ、私たちの親が住んでいるところ、私たちの子女が住んでいるところを、神様はどれほど懐かしく思われたでしょうか。


神様は6千年の間、一日一時間もそのような心情の世界を忘れたことがなく、人類に対して出てきておられます。私たちはこれを知りませんでしたが、今、知ってからは、天に向かって正面から突っ走って行かなければなりません。 天の全てと地の全てが歓喜して祝福してくれるその一日に向かって、個人として人類を代表して、そのような責任を背負って走ることができる人が一人でも出てこなければならないということです。


28


私たちの信仰の目標はそれです。 ただ信じて天国に行くというだけで、天国に行くことができますか? どこの官庁に行って手続き一つをする際、文字一つ間違えたらやり直すのに、天国の門をそのまますり抜けられると思いますか?千載一遇の不当な話です。どんな事情的な条件では入れません。天国は心情館を通ってこそ入ることができるのです。 心情の世界は空間と時間を超越することができるので、そこには進歩も退化もありません。 一定の觀も型もありません。 そこだけはアルファとオメガであり、始まりであり、永遠なのです。


愛の神様は愛を賭けて動いておられるのですが、私たちはどうすればよいのでしょうか。 民となった私を感じることができ、天の民を愛することができる人にならなければなりません。 天の民族を愛することができる私にならなければなりません。 天の兄弟を愛することができる私にならなければなりません。 天の家族を愛することができる私にならなければなりません。 天の子どもを自分の体のように愛することができるようにならなければならないということです。 願いや事情は過ぎても愛は残ります。このようなことを知らなければなりません。


天の願いは何でしょうか? ただ、イエス様をよく信じる人を天国に送って冠を百個くらい被せてあげるのが神の願いだと思いますか? そうではありません。 心を開いて胸を開いて愛したいのです。 私は多くの苦労をしましたが、あなた一人に会った喜びのために、その苦労をすべて忘れることができます。望んだすべてのことが成就したので、天地のすべての存在も私の息子と娘を見て喜ぶ私と同じように喜びなさい』と言えるその時、天地は喜ぶのです。


ところで、神様はそのような日を持たれましたか? 持ったならば、サタンによる恐怖がどこにあり、サタンの 8フ乎


では、神様の愛は何でしょうか? 空中に浮かんでいるものではありません。 皆さん、外国に行って自分の同胞が殴打され、迫害を受けていたら、自分が殴打されるのと同じように分かれるものです。同じように、サタン世界の捕虜収容所に入っている民を見るとき、「この民が私たちの民だ、私たちの民がこのように流されるのだな、私たちの民族がサタンの鉄の網に閉じ込められてうめき声を上げているのだな」と胸を打たなければなりません。 その鉄の網に触れるために、天の前に「父よ、力を与えてください。父よ、力を与えてください。私は父の民であり、父の血族であり、父の家族であり、父の息子・娘です」と言える者を、天は探しておられます。このような息子・娘を探すのが天の願いです。天の願いは他のものではなく、これだということです。


29


このような息子・娘に会うことが神様の願いです。 そのような息子・娘と一緒に自分の事情を分かち合いたいと思っておられます。このような息子・娘をサタンの誹謗中傷を受けずに永遠に愛したいというのが神様の心情なのです。 天の心情は別のところにあるわけではありません。 天の心情はまさに私たち人間にあります。 そのような私を知るとき、アブラハムを立てられたのも私のためであり、モーセを立てられたのも私のためであり、イスラエル民族が悲惨な環境にぶつかるようになったのも私のためであり、イエス様が来られたのも私のためであり、私たちのためであり、再び来なければならないのも私のためであり、私たちのためであることを知ることができるでしょう。


このような共同理念、共同目標の下にいる私たち、兄弟が出会う時、お互いにどれだけ苦労したか、どれだけ苦労したかと涙を流すことができなければなりません。 皆さん、そのような嬉しい家族に会ったことがありますか?


8.15解放後、私たち三千万民衆には食べるものがなかった困難な時にも、私たちには物質が問題ではありませんでした。 飢えればお互いに食べさせようとし、お互いに抱き合って喜んでいました。 喜んでおられる天をお迎えして、この世界のキリスト教信者たちがお互いに抱き合って、「ああ、解放よ、解放よ」と歌える日を迎えなければなりません。 これが神様の願いです。


天の民が私だ、天の家族が私たちだ、私たちは一つの兄弟だ、一つの人類だと言って、お互いに励まし合い、お互いに先頭に立って困難を担おうとする動きがキリスト教の中に現れない限り、キリスト教は滅びます。ユダヤ教のようになります。荒野に出たイスラエル民族がそこで倒れたようになるのです。


それでは、民族的な摂理の御旨を誰が受けるのでしょうか。 キリスト教が知らなければ、異邦の人々、他宗教の人々が受けてキリスト教の祝福を成し遂げる日が必然的に来るでしょう。 ですから、歴史的摂理は、自己陶酔して自惚れる群衆に、こうしろと忠告することはありません。 人間が摂理に従って動くようになっているのであって、摂理が人間によって人間に従って動くわけではありません。


30


ですから、私たちはある精誠を尽くし、ある力を尽くして、お互いがお互いが天の民、民族、あるいは家族、兄弟であることを知り、天の主権者、天の統治者を慕うべきです。 そうする時がこの時です。天の願いはそれです。 天の願いはそれです。 天が思慮を通そうとする国はそのような国です。 神様が愛そうとする理想世界はそのような世界だということです。


これを知らなくても、天の民であることを知らなければなりません。 天の種族、あるいは家族であることを知らなければなりません。 凛々しい息子と娘に、皆さんは会わなければならないのです。 これを知る者は、地上で天を知る者です。イエス様は「だれでも人の前で私を知っていると言う者は、私も天の前で私を知っていると言うであろう」と言われました。 そうではないでしょうか?


ここに来た皆さんは何を知ろうとしているのですか? 天の願いと目的を知り、天の民を知らなければなりません。 神様は人間がサタンの世界の捕虜になっていることを払拭するために、人間が哀れんでいることを皆さんが知らなければなりません。


イエス様が死を 4サ・牀、困難を 4サ・牀十字架の鉄の網を飛び越えたように、そうする者はそれを知ることができるのです。 地上でそのように実践する民族がいるとすれば、新時代の王国を建設する民族になるはずです。 また、そのような皆さんになれば、天が認める者になることをしっかりと知らなければなりません。




<祈り≫


お父様、天の願いが天にあるのではなく、お父様の事情が神にあるのではなく、お父様の心情が神のものではないことを知りました。 歴史とともに、時代とともに、未来とともに、お父様の願いがあること、お父様の事情があること、天の心情があることをどれほど待ち望んでおられたことでしょうか。 これを知らなかった私たちは、裏切り者であり、反逆者であることを知らせてください。


31


サタンの網に生捕らわれている自分たちであることを知ることができるようにお許しくださり、ここに憤りの心を抱いてお父様を呼ぶ叫び声が天地に現れるようにお許しくださり、集まった人々の胸に父の心情が届くようにお許しくださいますよう、お父様、切に願っております。


これがこの民族の前に、この世界とこの人類の前に成就する日、その喜びは天地間に満ちることを知っております。民を慕い、民族を慕い、兄弟を慕い、家庭を慕い、子どもを慕いながら、お互いに十字架を背負って戦っていく私たちでなければ、このような理想世界を建設することができないことを知りました。


サタンの世界に対して無限の敵意を持ち、今日も明日も戦っていくことができる息子・娘たちであることを許可して下さることを切に願っております。


今日下さったあなたの御言葉を通して、自分が置かれているその位置を解明して、これからどこへ行くべきかを知り、お父様が認める息子・娘となり、お父様を知る息子・娘となるように導いてくださることを切にお願い申し上げながら、主の御名によってお祈り申し上げました。アーメン。

     <前ページ> <次ページ>

コメント