カウンセラーの勉強の中で、
よく「あなたはあなたのまま、そのままでいい、そのままで価値がある」
というような考え方が出てくる。
どうもこの考え方になじめない。
確かにそのとおりなのだが、自分自身に当てはめると、
どうにもやる気が出てこない。
役に立たないなら死んだほうがまし。
という気概で生きているほうがおもしろい気がするのだが。
しかし、健康な人に薬を飲ませることはないので、
今の自分は確固として自己肯定しているのだろう。
「誰かに必要とされる」ということは
このうえない自己肯定なのだろう。
「存在しても良い」という許可。
人間は「自分のため」に何かをするよりも
「人のため」に何かをしたほうが喜びを感じるように
なっているようだ。
ただし、当然動くためのエネルギーは必要で、
それが感謝の言葉だったり、誰かの笑顔だったり
するのだろう。
「考える」時期は終わりつつあるのかもしれない。
確かにいろいろ考えはするのだが、自分のスタイル、
自分のバランス、自分の位置と理想、そういうものが
少しずつ見えてきたような気がする。
ちょっとはやいかもしれないが、「中年の自己」に
近づきつつあるような気がする。
存在の許可を求めてきたけど、
その必要はもう、ないのかもしれない。
よく「あなたはあなたのまま、そのままでいい、そのままで価値がある」
というような考え方が出てくる。
どうもこの考え方になじめない。
確かにそのとおりなのだが、自分自身に当てはめると、
どうにもやる気が出てこない。
役に立たないなら死んだほうがまし。
という気概で生きているほうがおもしろい気がするのだが。
しかし、健康な人に薬を飲ませることはないので、
今の自分は確固として自己肯定しているのだろう。
「誰かに必要とされる」ということは
このうえない自己肯定なのだろう。
「存在しても良い」という許可。
人間は「自分のため」に何かをするよりも
「人のため」に何かをしたほうが喜びを感じるように
なっているようだ。
ただし、当然動くためのエネルギーは必要で、
それが感謝の言葉だったり、誰かの笑顔だったり
するのだろう。
「考える」時期は終わりつつあるのかもしれない。
確かにいろいろ考えはするのだが、自分のスタイル、
自分のバランス、自分の位置と理想、そういうものが
少しずつ見えてきたような気がする。
ちょっとはやいかもしれないが、「中年の自己」に
近づきつつあるような気がする。
存在の許可を求めてきたけど、
その必要はもう、ないのかもしれない。