いつかあの青空の心に

少年のころ見上げた、あの青い空。澄み切ったあの空のような心になりたいと願った。その心に近づいているのだろうか・・・

演じること

2004年03月31日 | その他
嘘はいけないと、子供のころおしえられた。
でも、大人になって本当のことを言っては
いけないと思うことが多い。

大人とは何かと言われれば、
周囲を把握し、そのとき求められているものを
出すことができる人だと思う。

自分はそれが苦手だ。
でもいま、それが求められている。

今までは思ったこと、苦しいことを
自分の苦しさに負けて相手にぶつけていた。

でも、今回からはそうしない。

話を聞くだけのはずだったのに、
いつの間にか好きになっていたらしい。

でも、この思いを伝えても、先は行き止まりだ。
それは分かっているし、彼女も苦しむだろう。

引き返さなければならない。

友達として相談を受けたのだから、
友達としての役割を最後まで演じなければならない。
たとえそれがどんなに辛いことだとしても。

君は言ったね。
「友達のままでいれば、ずーっと関係が続くけど、
  好きになってしまえばいつか終わりがくる」と。

確かに終わりが来るかもしれない。
でも、それが今日だとはかぎらない。

これの悲しさを乗り越えれば、
すこしは成長できるのだろうか?
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嫌いな人を考える

2004年03月30日 | 考える
嫌いな人がいる。

なぜだろうか。理由はいくつかあるように思う。
1.その人の考え方が自分と合わない
2.その人の姿が昔の自分に似ている
3.本当は好きなのだが素直になれない
4.本当はその役割を自分がやりたいのだが、できないので
  うらやましく思っている。

理由は何にせよ
この「理由を考える」ということだ大切に思える。

自分に合う人、仲がよい人と
いつもいつも一緒にいたのでは
たしかに面白いのだが、自分の成長という点では
物足りない。

嫌いな人を見つめることは、
実は自分自身を見つめることになる。

どこが、なぜ嫌いなのか。
理由を突き詰めると、
そこには他人ではなく自分自身が見えてくる気がするのだ。

嫌いだと感じてそのままであればそこには何もない。
しかし、その理由を考えるとき、
マイナスの感情はプラスに転化され、
自己を知ることができるような気がする。

嫌いな人こそいろいろなことを教えてくれる。
それに気付くかどうかは自分次第だ。
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死を考える

2004年03月29日 | 考える
「明日死んでもいいように生きています」
ということを言うと、たいていの人は
怪訝そうな顔をする。

そう思うのは理由があって、
大学のころとある先輩がいた。

その人は運がよかった人で、
くじなんかでは必ず当たるような人で
面白くて、頼りになって、いつもみんなを笑わせていた。

卒業して、実家に戻り働いていたのだが
ある日、その先輩が事故で死んだと聞かされた。

涙はでなかった。何がどういうことなのか理解不能だった。
信じられなかった。

それを受け入れたのは白黒写真の中で笑う先輩を
見たときだった。

あの笑顔をもう見ることはできない。

人は誰でも死ぬ。
普段は意識していないだけだ。

人生は逆説でできている。
「自分の死」を見つめた者だけが、「生きる」
ということを本当に知るような気がするのだ。

「後悔はしたくない」と思う。
その瞬間、瞬間を自分らしく悔いのないように
生きていたい。

たとえこの瞬間に命がなくなっても、
悔いはなかったと笑顔で行きたいと思う。

「明日死んでも悔いがないように生きています」
と、今日も笑顔で語り怪訝な顔をされる。
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ありがたさを感じる心

2004年03月28日 | 考える
食事に行った。
隣のテーブルに、家族連れが座っていた。

両親と高校生らしき息子の3人だ。
親はあれこれ息子に世話をやき、
「肉を食べろ」だの「もっと食べろ」
といった具合だ。

ふと自分の親の言葉を思い出した。
「世の中に出れば、お前のことを
 こんなに思って、こんなに気にかけてくれる人はいないんだよ」

そのころの自分は、さほど感謝もせず
「そういうものなのかな・・・」
と考えていた。

言葉ではわかっていたものの
その後にそれを実感するのにそれほど時間がかからなかった。

本当に重要なことはいつも見えない。
失って初めてその重さがわかる。
それゆえ、普段からそれを感じることが重要な
ことなのだと思う。
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救いの手

2004年03月27日 | 考える
友達に会った。
職場に心を病んでいる女性がいて、
なんとか力になりたいのだが、部署が隣であるし、
できることは、一緒にコーヒーを飲んだり、
楽しい話をして笑わせたり、
「そういうことしかできないのだ」
と、苦しそうに話していた。

「完全に救うとすれば、結婚するか
 プロの手にゆだねるかしかない」
と友人は語った。

他人に対して、できることは少ないのだと思う。
それでも、自分にできることがあれば何かしたいと思う。
かつて自分がしてもらったように。
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九州男児の正体

2004年03月26日 | 考える
自分は九州出身なのだが、
何かを言うと、「さすがは九州男児」
という賛辞だか小ばかにされているのか分からない
ことを言われることがある。

さて、この九州男児の正体とはなんだろうかと
考える。

一言で言えば男らしさと同じく
「やせがまんと、潔さ」
であるような気がしてならない。

子供のころを思い出してみると、
「ランドセルは黒、赤は女の色」
「それぐらい泣くな、男だろ!」
「男なんだからうじうじ考えるな!」
「男なんだからこれぐらいがまんしろ!」
などなど・・・

ランドセルの話はおいといても、
今ではこんな話ナンセンスなのだろうが
自分は結構この考え方は好きなのだが。
たとえば、自分が寒くても寒くないと言って
上着をかけてやるくらいの気遣いとやせがまんは。

辛いときに辛いと言ってしまえば、
それまでだが、それをぐっとこらえる。

本当の心情とは反対のことをわざと演じる。
それこそが美学のような気がする。

でも、そういうことができたのは
それを陰から見ていて、本当の気持ちを理解してくれていた、
懐の広い九州の女の存在があったからであるような気がしてならない。

だからこそ、九州男児が存在できたのかもしれない。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
九州出身だからといって酒が多く飲めるわけでも
焼酎好きであるわけではありません。
自分は酒と女が大好きなのですけども(笑)。
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気持ちがすべて?

2004年03月25日 | 考える
女友達と話していて、
戯れに「じゃぁ、すべてを捨てて一緒に九州に行くか」
という風なことを言ってみたのだが、

「私のことを大事に思ってくれるなら、どこへでも行くよ」

と返されてしまった。
その一言はなぜか心に響いた。

その一言がその人の全てを表現していたからだ。

生きる意味はその一言に尽きるのかもしれない。
誰かが必要としてくれるから生きてゆけるし、
がんばれる。

人は一人でも生きていけるが、
それはただ生きているということにすぎない。
人に必要とされ、必要とする人ができたとき
本当の意味で「人として生きている」と言えるのかもしれない。
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人に合わせる

2004年03月24日 | 考える
友達に人に合わせてしまう人がいる。
どうしてだろうか。理由を考える。

自分はこの「人に合わせる」ということが
かなり下手なほうだと思う。

あわせることができなくはないのだが、
完全に合わせてしまうか、完全に合わせないか
どちらかになってしまう。

で、どっちかというと合わせない方向で生きている。
合わせると自分も辛いし、ウソをつくのは苦手なので
いつか本当の気持ちが露見してしまい、余計にまずいことに
なってしまうのだ。

人を好きになってしまうと、その人に合わせようとしてしまう
でも、振り向いてもらえると合わせなくなってしまい、
本当の自分が出てきて結局は本当の自分を出さざるをえない。

どうせならはじめから本心を出してしまえばよいのだが
そうもいかないのが悩ましいところ。

結局人に合わせるということは
本当の自分を出した場合、拒否されるかもしれない
という恐れ(最悪その人を失う)からきているのか、
もしくはその人を信用していないのか
ということになるのだろう。

もし、素の自分を受け入れてくれる人が
いるのならばそれだけで幸せなのかもしれない。
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気持ちの制御

2004年03月23日 | 考える
気持ちを切り替えることが苦手だ。
どうしても考えてしまう。

小さなことにとらわれて大きなことを見失ってしまう。
そのせいで心の安定性に欠け、
突然の感情の放出に耐えられないこともしばしばある。

上手く制御できればよいのだろうけど、制御の仕方が
わからない。

いらいらしているときには人に優しくすることは
かなり難しい。

自分の気持ちに正直でかつ、他人にもやさしく接するということは
難しいものである。

だから「無愛想」という鎧に逃げ込みたくなる。
自分と他人を守るために。

考えなければならないのはいつも逆で、
逆境のときこそ笑顔を、
順調なときこそ用心を、
笑顔のときこそ思いやりを

その道のりはまだまだ長い。
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無知は力?

2004年03月22日 | 考える
知らないほうが強いことがある。
理由、感情など知らなければ思いやることもなく能天気に接することができる。
その人が悩んでいる理由を知ってしまうと、その人に対する発言にもいちいち気を使ってしまい、
かえって関係がギクシャクしてしまう。
また、その本人も事情を知らない人と接するほうが気が楽なんだろう。
気になっていることがあり、どうにかしたいのだけれど
どうにもならない。自分の問題ではないし、こうなって欲しいと
思うのだが、その意見を押し付けるわけにもいかない。
どうにもこうにもいまはそのやるせない気持ちを抱えて
いくしかないようだ。

「割り切りは弱さだ」という言葉を思い出す。
割り切ってそれにしたがうのはたやすいが、
はたしてそれでよいのかどうか。優柔不断ではなく、
時期を待ち、不定の状態に耐えていくことが重要なのだろう。

知らない方がよいこともある。
しかし、それは弱者の論理であり、
強者たらんとするならば、知った上で耐えていける
ような強い人になりたいと思う。
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