一昨日「大阪文学散歩委」というツアーに参加し、直ぐ近くの守口市まで行って来ました。
実はこの日は京都府美山の茅葺集落の放水訓練の様子を見る写真ツアーに申し込んでいたのですが、生憎とコロナの影響でこのイベントは中止となり、従ってツアーも中止となったので、何か替りのツアーがないかと探していたら、偶々同じM新聞社系のツアーで「大阪文学散歩 江戸川乱歩」というのが目につきました。
特に江戸川乱歩に興味を持っているわけではありませんが、ツアーのチラシに江戸川乱歩がかって守口市に住んでいた住居跡などを回ると共に、守口市と大阪市旭区のややこしい境界線も探るとのことが記載されていました。
守口市と大阪市旭区東北部の境界は本当にややこしくて、何度か戸惑ったこともあり、その由来は気になっていましたし、かって少年時代に少年雑誌に連載されていた「怪人20面相」の著者であり有名な推理小説家であった江戸川乱歩氏が守口市に住んでいたというようなことは全く知らなかったので、このツアーに参加することにしたのです。
ツアーと言えば大袈裟ですが、現地集合なので我が家からは市バスと徒歩で30分程度で集合場所の地下鉄の守口駅の改札口に到着。
15名ほどの参加者でしたが、他の方はこの文学散歩の常連者らしく、初参加の私は遠慮しながら大阪案内人の西俣稔という方に付いていきました。
先ずは、地下鉄駅から直ぐの所にある江戸川乱歩居住地跡という所に到着。
近くの公園内にその旨の案内碑があるのですが、当然ながら当時の住宅は無くなっていて、3階建てのマンションらしい建物があるだけで、その前にも何ら看板らしいものもなく、西俣氏の案内がなければ全く判らなかったでしょう。
その後、同氏からかっての淀川の古地図などを案内いただきながら、かっての五箇荘水路跡と言われる桃町緑道公園を通ってかっての淀川の跡地を散策。
もうすっかり住宅地になっていて、河川だった形跡は全く見受けられませんが、わずかに起伏があって説明を聞くとなるほどという感じでした。
その少し先の住宅街の中の何という特徴もない道路に斜めにブロックが通っていて、なんとこれが大阪市と守口市との境界だということで、改めてビックリ。
この線の片方などは民家の真ん中に当たっていて、この家などは理論上は家の敷地の中を境界線が通っていることになります。
理由はというと、渡された古地図をみれば極めて簡単。
明治18年の大洪水をきっかけに、明治29年(1896年)河川法が制定され、淀川の洪水対策が本格化して、守口から下流がほぼ直線の現在の新淀川になったのですが、政治の世界はややこしくてかっての淀川の中央線がそのまま現在まで境界線として引き継がれているのです。
流石にこれでは余りにオカシイとなったのか、現実には家屋の中に境界線はなく、細い路地が境界線になっているようで、結果としてジグザクの境界になったようです。
しかし、細い路地を隔てて、向かいや隣の家の所属する自治体が違うなど通常生活では想像も出来ません。
学校・税金・ごみ収集・生活支援などがお向かいの家と違っているなど、大変でしょうね…
以前から気になっていた大阪市と守口市の境界線の由来がある程度分かった後は、秀吉が構築を命じたという文禄堤や守口宿の跡を辿ったりして守口市内の中心部をブラリ歩き。
その後、昼食を終えての現地解散となりましたが、私は文禄堤を西側にかっての京街道に辿ってブラリ歩きをした後、バスで帰宅。
近いながらも余り知らなかった守口市の歴史が少し理解できた小ツアーでした。
先ずは、江戸川乱歩居住跡や、大阪市との境界や文禄堤などの様子をお知らせします。(まさ)
江戸川乱歩居住地跡の案内(桃町緑地公園内)
左側2軒目のマンションの場所が、住居の跡地の様です
桃町緑地公園 かっては淀川から農業用水を引く五箇荘水路の跡地のようです
同上の地図案内 中央部から下の方にある緑色の水路の部分です
同上 狭いけど趣のある園路です
大阪市(手前側)と守口市(向こう側)の境界線の白いブロック。
同上 左側の家はこの線上にあります 奥は桃町緑地公園です
少し離れた所ですが、右が守口市、左が大阪市(参考)大阪市旭区と守口市の境界マップ 境界線はジグザクです
(参考)淀川の地図 真ん中の黒い塗りつぶしは明治8年当時の淀川。オレンジの線が現在の新淀川
市の境界線は、古い淀川の中央部に沿っています。文禄堤の東側 大塩平八郎蜂起のゆかりの場所
同上 案内板
文禄堤 案内板
来迎坂
同上 下から
同上 道標、野崎観音を経て奈良への道だったようです
京街道に面した虫小窓の残る家屋
虫小窓とウダツある家屋
近くのマンションの廊下にも虫小窓を模した装飾がありました
道にある京街道の標示
守口宿の高札場跡
かっての淀川の船着き場への階段跡
同上 下から見た所(撮った場所は、以前の淀川のなかということになります)
京街道の風景
残存する文禄堤の西端 文禄堤に向かって上っています。京街道の案内
この近くにある守居神社
コメントありがとうございます。
今回江戸時代の古地図を見て気付いたのですが、守口は京街道の宿場町として発展したためか、淀川沿いの他の集落が「〇〇村」なのに、守口だけは「守口町」となっていました。
大根やレンコンの産地としても有名だったようですね・・・ (まさ)