(Susan Sontag)
近藤耕人訳/晶文社/1979年4月10日初版、1979年5月20日第二刷。 著者は、まだTVが無かった時代、図書館で見た「写真」で衝撃を受け、いままで認識してきた「美しい自然」が崩壊した。文字よる長い説明や解説ではなく、一枚の「写真」によって「自然には悪がある」のを知った瞬間である。これを期に「写真」に対する興味、憧憬を持ち続け、「アメリカの社会と文化」を見ながら、考察してきたのが「写真論」である。
この写真論は著者が時々思い付き書き留めたものをまとめたものらしい。随分辛口ではあるが、そこには写真に魅了された著者の思いがある。カメラの発明以降、その時代を代表する写真家の視点を分析する。しかし、原書がそうなのか翻訳がそうなのか、やたら観念的で難解な解釈が多く、哲学的な考察が頻繁に出て来る。しかしそのことは、写真の本質を捉えることに役に立っているのかどうかは、判らないが、読み進むにつれ(慣れもあって)判って来ることもある。
「写真はこうあるべき」ということを言っている訳ではない。もっぱら当時の「写真」と写真家の視点の評論(批評)に尽きるわけだが、結論は最終章の「映像世界」で語られることに尽きるだろう。
最初の「プラトンの洞窟で」の結論であるともいえる。
現代人にとってはあまりにも無自覚に受け入れており、珍しくもないことだが、写真がもたらした奇妙な世界観を余すことなく説明し切る。そこには「無自覚に受け入れる」ことの根底にある、カメラの持つ魔力、憑りつく魅力がある。
160pに「周知のように未開人たちはカメラが自分たちの存在の何某かを奪い去ることを恐れる」という話がある。そう言えば子供の頃、三人で写真を撮ると真中の人は禍に遭うなどという、まことしやかな話しがあったのを思い出す。漠然とした不安=現代人が無意識のうちにある「写真の力」である。
全ては視覚という人間に具わった機能と、カメラの諸特性(性質)が結び付いたことにより、そこに無限の可能性が出てきたことによる。それは自由であり、どんな根拠によるものでもなく、どんな仕切りや制限もない。それが故に写真自体は、善でもなく悪でもない、日常でもあり非日常でもある。何処にでも在りそうなありふれたものであり、それはその時にしかないものでもあった。「写真」が持つ無限の可能性であった。
嵌り込んだら難儀な「レンズ沼」などという言葉もあるが、クラシックなカメラやオールドレンズもまた、カメラが持つ諸特性(性質)の断片なのかもしれないと気が付いた。
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