4年周期の証明 日本のサッカー大好き!

サッカーについて語るときに私の語ること サッカー大好き ジャパンフットボールで一期一会 記事上ノくーろん者。

偽造の王国

2006年11月23日 14時03分00秒 | ニュース
浦和で爆発的な得点をたたき出した後、カタール人となったエメルソンしかり、貧困の国から大枚を求めて世界にアピールするブラジル人選手は少なくない。たしかに母国ではあらゆる原石が磨かれないまま選手生命を終えている。しかし貧困だけを理由にサッカーの歴史を狂わせる事は許される事ではない。



 ブラジルのスポーツ高裁はサッカーの同国元20歳以下(U20)代表でフィゲレンセ所属のMFカルロス・アウベルト選手に対し、年齢を5歳若く偽っていたとして、360日間の試合出場停止を言い渡した。同選手は1978年1月生まれで、実際には28歳にもかかわらず、身分証を改ざんして83年1月生まれの23歳としていた。
 同選手は2003年にアラブ首長国連邦(UAE)で行われた国際サッカー連盟(FIFA)ワールドユース選手権に出場。ブラジルは準々決勝で日本を破り、決勝ではスペインを下して優勝を果たしており、優勝資格をめぐり論議が起こりそうだ。
 同選手は詐称を認めた上で、理由について地元メディアに「家庭が貧しかった。(プロになる)機会を失いたくなかった」などと釈明。年下に交じってプレーすることで、スカウトの目に留まろうとしたことを明らかにした。同選手は99年末に書類を改ざん。
 同国では2000年にも、代表、レアル・マドリード(スペイン)監督を歴任し、現在は強豪サントスを率いるルシェンブルゴ氏が年齢を3歳若く偽っていたことが発覚。

・マルシオ・エメルソン・パッソス
 2006年1月20日、本名・生年月日の異なる2つの出生証明書を悪用していた事が判明しブラジル連邦警察に逮捕。正規である最初の方の出生届は本名「マルシオ・エメルソン・パッソス」で1978年12月6日生まれ、後に年齢詐称に悪用されたもう一つの出生届は本名「マルシオ・パッソ・デ・アルバカーキ」で1981年9月6日生まれとなっていた。日本でプレーした際は登録名は最初の出生届のもの、生年月日は2度目の方を用い、3歳分、年齢を若く申告していた。

J1リーグ通算100試合71得点
J2リーグ通算52試合50得点
~1999年 - サンパウロFC
2000年 - コンサドーレ札幌(レンタル移籍)
2001年2月~2001年7月 - 川崎フロンターレ
2001年8月~2005年7月 - 浦和レッドダイヤモンズ
・2002年 - ベストイレブン
・2003年 - JリーグMVP、ベストイレブン
・2004年 - 得点王、ベストイレブン
2005年7月~- アル・サード(カタール)

U20 ブラジル代表 99ワールドユース南米予選
(同 大会にロナウジーニョ、ロドリコ・グラウ)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の10日間

2006年11月23日 13時44分04秒 | ニュース
今日を含め残りの3試合で昇格にむけチームをまとあげる城。
2003年のJ2への移籍は昨年のカズほどではないが衝撃的なものだった。
その後チームの成績はふるわず昨年はカズ、山口の加入も12チーム中11位と一部サポーターから罵声をあびる日々だった。
専用コートもシャワー室ももたない経営状況等、現在の順位に辿り着いた裏には決して楽なチーム事情ではなかったことも容易にうかがえる。
前園、小倉、ヒデにつづき90年中期以降日本のサッカーを支えた功労者の1人がまたピッチを去る。
記録的な勝利を狙うJ1の華麗な舞台の裏でまた一つの物語が終わろうとしている。

横浜FC2006年度残り試合
11/23徳島(三ツ沢 )13:00
11/26鳥栖(鳥栖 ) 14:00
12/2愛媛(三ツ沢 )14:00



城彰二
誕生日 1975年6月17日
出身地 北海道室蘭市
身長 179cm
体重 72kg
血液型 O型

J1での通算得点は95得点、中山雅史、三浦知良、藤田俊哉に次ぐ現在第4位。
1991年-1994年 鹿児島実業高等学校
(選手権大会ベスト4)
1994年-1996年 ジェフユナイテッド市原
(高卒ルーキーとしてデビュー戦でゴールを挙げ、それから4試合連続ゴール)
1997年-1998年 横浜マリノス
1999年 横浜F・マリノス
2000年1月-2000年7月 バリャドリード(スペイン)15試合出場2得点
2000年7月-2001年 横浜F・マリノス
2002年 ヴィッセル神戸
2003年- 横浜FC(J2)

1990年 ジュニアユース代表
1992年 ユース代表
1996年 アトランタオリンピック日本代表
1998年 ワールドカップフランス大会日本代表
国際Aマッチ36試合7得点

 城は今季45試合中40試合に出場し12得点。横浜FCをJ2首位に押し上げた功労者の1人だ。高木琢也監督も献身的なプレーを高く評価しており、城自身も「もう一度J1でプレーしたい」気持ちでチームを引っ張ってきた。
 しかし、左ひざは限界だった。高校時代に前十字じん帯を断裂。00年の日本代表の中国戦で再度痛めるなど古傷になっている個所だ。だましだましプレーしているが、試合後数日たっても痛みが消えないこともある。納得いくプレーができないことに悩み、8月ごろには「このひざではJ1で満足にプレーすることはできない」と今季限りでの現役引退を決意。そしてシーズン終盤にさしかかり、J1昇格の可能性が高まったことから、今月に入って奥寺康彦社長、高木監督ら幹部に引退の意思を伝えた。
 クラブ側はまだ31歳で来季も十分に戦力として働ける上に、カズと並ぶチームの顔であることから慰留に努めた。城の希望に沿い、23日の徳島戦の試合後にサポーターに直接、引退を報告することになった。
 城はJリーグ開幕2年目の94年に市原(現千葉)でデビュー。96年アトランタ五輪ではブラジルを破る「マイアミの奇跡」を起こした。日本代表として97年11月のW杯フランス大会最終予選イラン戦「ジョホールバルの奇跡」で貴重なゴールを決め、日本が初出場した98年W杯フランス大会ではエースストライカーとして3試合に先発。
 00年にはスペインのバリャドリードに移籍、日本人として初めてスペイン1部リーグでプレーした。今年引退した中田英寿氏、川口(磐田)らとともに日本サッカー躍進の歴史をつくってきた。
 引退後は指導者を目指す。既にC級ライセンスを取得済みで、B級を経て順調にいけば08年にはJリーグで監督ができるS級ライセンスが取得できる。関係者には「史上最年少でS級ライセンスを取得したい」と話し、監督としてのJリーグ復帰を目指しているという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする