ただの日記
暇である。
自分は暇なんだけど、件のウイルスのせいで職場がばたばたしている。やれ職員で感染者が出たらどうするか、在宅勤務ができないか、その場合給料はどうなるか云々。職場はばたばたしているが、自分は先日から追われていた書類をあらかた片づけたので、当面暇である。このアンバランスさゆえに疲れる。もうあまり頭を使いたくないから、今は夏目漱石の『坊っちゃん』を読み返している、職場で。
『坊っちゃん』は、竹を割ったような性格の「おれ」が、赴任した愛媛の学校であれこれする話だ。天麩羅蕎麦を4杯食べたり温泉に入ったりする、人と喧嘩したりもする。詳細は読んでみないとわからないから読んで欲しい。すぐ読める。
自分は小学生のときにはじめて読んで、いまでもときどき読み返す。夏休みの宿題で読書感想画を課せられ、この物語の一場面(イナゴを蒲団から追い出しているところ)を描いた記憶がある。
あれは今思い出してもまずい出来だった。
昔から絵がほんとうに苦手で、中学のとき美術のペーパーでほぼ満点をとったのに、実技が大いに足を引っ張り、なんなら沼の底くらいまで引きずり込まれたせいか評定は3だった。今でもアンパンマンを描くと、2歳児から「なんかちがう…」と言われる始末である。
話を本に戻す。
自分は漱石が好きである、日本の作家だと一番好きかもしれない。以前もこのブログで『行人』を取り上げたが、彼の代表的な作品はあらかた読んだと思う。自分が漱石に出会ったのがこの『坊っちゃん』だった。そう思うとなんだか感慨深い。あれから何年経ったことだろう。
最初に読んだ時は、ただ「おれ」の言動が面白いなぁ、痛快だなぁと思うだけだった。しかし今読み返していると、「おれ」と家族の情愛がいかに薄かったか、あらためて気づかされる。母の死に目にはあえない、親父からは常に「駄目なやつ」と烙印を押される、兄とは新橋で別れてから会っていない。この関係性の希薄さよ。それがきっと、周囲に対する彼の態度にも出ているのだろう。「おれ」は宿の女や生徒、周囲の教師に対して常に穿った見方をしているのだ。そう考えると彼がなかなか落ち着けなかったのも納得できる。
この小説は「親譲りの無鉄砲で子供のときから損ばかりしている」という書き出しで始まるが、彼は純粋な器質的なADHDというよりも、いわゆるアタッチメント障害が併存していた可能性もあるなぁ、なんて考えたりもする。ADHDの人も被害的になりやすい傾向があるから、厳密な鑑別は難しいところだが。
そしてこのシニカルで、ときに被害的なものごとの捉え方は、とりもなおさず漱石自体の体験の投影だったのだろう。
彼は両親が40歳くらいのときにできた子どもで、「みっともない」という理由ですぐに養子に出された。それもひどい話だが、その後もあちこちをたらいまわしにされたり、里親から「お前の本当の親は誰だい」と、グレゴリー・ベイトソンもびっくりのダブルバインド質問を浴びたりして育った。結局は実の両親のもとに戻ったのだが、自分が本当は誰の子で、誰から本当に愛されていたのか、疑わざるを得なかったのではないか。
漱石の作品ではそういった「人に対する猜疑心」を扱ったものが多い。以前紹介した『行人』もそうだが、『三四郎』では女から裏切られ、『彼岸過迄』では人の事を信頼できず「あなたは卑怯よ」と言われるし、『こころ』ではとうとう自分が人を裏切る立場となる。自分の幼少期の体験が、ここまで如実に表れるのだなあと感心すらする。ボウルビィの提唱した内的ワーキングモデルを見事に体現していると言えるかもしれない。
急に話が変わる。
自分はリモートワークが出来る人を心底尊敬する。もし私が家で仕事をすると想定したら、たぶん1時間のうち42分くらいはサボってYouTubeを観たりBoseのスピーカーでバッハを聴いたり、ハイラルの大地を駆け回ったりするだろう。いやおそらく50分はハイラルの大地を駆け巡る気がする。これから在宅勤務が始まるかもしれないことを考えると、すこぶる具合が悪くなる。
高校生の頃、よほど必要に迫られないかぎり家では勉強しなかった。学校の図書館、塾で済ませていた。なんなら塾でも途中で抜けて近所を散歩していたし、教室にあるPCでチェックテストをやる合間に「これは頭の体操...!!」と自分に言い聞かせながらソリティアをやっていた。あとでバレてソリティアも私のハイスコアもすべて消されたのはいい思い出だ、ソリティアに罪はないのに。
さて。
暇だったがそろそろ帰ろう。早くこの騒動が収まって欲しいが、海外の様子を見るとまあしばらくは無理だろう。こうして仕事が制限されると、自分が思うように仕事ができないもどかしさを感じるのも不思議である。極力仕事をしたくない、仕事をしないためにはどんな努力もいとわない、万難を排して仕事をさぼる。そう思っていた自分はどこへいったのだろう。何か悪い病気にかかっているんじゃないか、そんな気すらする。
今日は帰りに天ぷら蕎麦でも食べたいところだ。『坊っちゃん』を読んだせいか、急に蕎麦が食べたくなってしまった。しかし私の好きな蕎麦屋もいまは自粛で閉まっている。仕方ないが悲しいことだ、蕎麦に罪はないのに。
追記(2020年4月22日 0時18分現在)
今最後まで読み終わったのだけど、『坊っちゃん』にも後半でちらりと「肺炎」が出てきていた。もちろん単なる偶然なんだろうけど、そもそも毎年10万人くらいは肺炎で死ぬらしいが、少しどきりとした気持ちにもなり。思わずふぅと長い溜息が出た。
自分が不安になっていることはある程度自覚していたが、やはりまわりの人が不安になっている影響もあるんだろう。この頃むやみにピリピリした、くさくさした気分になっていることにあらためて気づく。まずは「自分が不安に陥っていること」をじゅうぶん自覚することがスタート地点なんだろうなぁ...と思う。難しいことをあまり考えないはずが、結局こんな時間までうだうだ考えてしまった。明日考えられることは明日考えよう、どうせ自分は暇で時間を持て余しているのだから。
暇である。
自分は暇なんだけど、件のウイルスのせいで職場がばたばたしている。やれ職員で感染者が出たらどうするか、在宅勤務ができないか、その場合給料はどうなるか云々。職場はばたばたしているが、自分は先日から追われていた書類をあらかた片づけたので、当面暇である。このアンバランスさゆえに疲れる。もうあまり頭を使いたくないから、今は夏目漱石の『坊っちゃん』を読み返している、職場で。
『坊っちゃん』は、竹を割ったような性格の「おれ」が、赴任した愛媛の学校であれこれする話だ。天麩羅蕎麦を4杯食べたり温泉に入ったりする、人と喧嘩したりもする。詳細は読んでみないとわからないから読んで欲しい。すぐ読める。
自分は小学生のときにはじめて読んで、いまでもときどき読み返す。夏休みの宿題で読書感想画を課せられ、この物語の一場面(イナゴを蒲団から追い出しているところ)を描いた記憶がある。
あれは今思い出してもまずい出来だった。
昔から絵がほんとうに苦手で、中学のとき美術のペーパーでほぼ満点をとったのに、実技が大いに足を引っ張り、なんなら沼の底くらいまで引きずり込まれたせいか評定は3だった。今でもアンパンマンを描くと、2歳児から「なんかちがう…」と言われる始末である。
話を本に戻す。
自分は漱石が好きである、日本の作家だと一番好きかもしれない。以前もこのブログで『行人』を取り上げたが、彼の代表的な作品はあらかた読んだと思う。自分が漱石に出会ったのがこの『坊っちゃん』だった。そう思うとなんだか感慨深い。あれから何年経ったことだろう。
最初に読んだ時は、ただ「おれ」の言動が面白いなぁ、痛快だなぁと思うだけだった。しかし今読み返していると、「おれ」と家族の情愛がいかに薄かったか、あらためて気づかされる。母の死に目にはあえない、親父からは常に「駄目なやつ」と烙印を押される、兄とは新橋で別れてから会っていない。この関係性の希薄さよ。それがきっと、周囲に対する彼の態度にも出ているのだろう。「おれ」は宿の女や生徒、周囲の教師に対して常に穿った見方をしているのだ。そう考えると彼がなかなか落ち着けなかったのも納得できる。
この小説は「親譲りの無鉄砲で子供のときから損ばかりしている」という書き出しで始まるが、彼は純粋な器質的なADHDというよりも、いわゆるアタッチメント障害が併存していた可能性もあるなぁ、なんて考えたりもする。ADHDの人も被害的になりやすい傾向があるから、厳密な鑑別は難しいところだが。
そしてこのシニカルで、ときに被害的なものごとの捉え方は、とりもなおさず漱石自体の体験の投影だったのだろう。
彼は両親が40歳くらいのときにできた子どもで、「みっともない」という理由ですぐに養子に出された。それもひどい話だが、その後もあちこちをたらいまわしにされたり、里親から「お前の本当の親は誰だい」と、グレゴリー・ベイトソンもびっくりのダブルバインド質問を浴びたりして育った。結局は実の両親のもとに戻ったのだが、自分が本当は誰の子で、誰から本当に愛されていたのか、疑わざるを得なかったのではないか。
漱石の作品ではそういった「人に対する猜疑心」を扱ったものが多い。以前紹介した『行人』もそうだが、『三四郎』では女から裏切られ、『彼岸過迄』では人の事を信頼できず「あなたは卑怯よ」と言われるし、『こころ』ではとうとう自分が人を裏切る立場となる。自分の幼少期の体験が、ここまで如実に表れるのだなあと感心すらする。ボウルビィの提唱した内的ワーキングモデルを見事に体現していると言えるかもしれない。
急に話が変わる。
自分はリモートワークが出来る人を心底尊敬する。もし私が家で仕事をすると想定したら、たぶん1時間のうち42分くらいはサボってYouTubeを観たりBoseのスピーカーでバッハを聴いたり、ハイラルの大地を駆け回ったりするだろう。いやおそらく50分はハイラルの大地を駆け巡る気がする。これから在宅勤務が始まるかもしれないことを考えると、すこぶる具合が悪くなる。
高校生の頃、よほど必要に迫られないかぎり家では勉強しなかった。学校の図書館、塾で済ませていた。なんなら塾でも途中で抜けて近所を散歩していたし、教室にあるPCでチェックテストをやる合間に「これは頭の体操...!!」と自分に言い聞かせながらソリティアをやっていた。あとでバレてソリティアも私のハイスコアもすべて消されたのはいい思い出だ、ソリティアに罪はないのに。
さて。
暇だったがそろそろ帰ろう。早くこの騒動が収まって欲しいが、海外の様子を見るとまあしばらくは無理だろう。こうして仕事が制限されると、自分が思うように仕事ができないもどかしさを感じるのも不思議である。極力仕事をしたくない、仕事をしないためにはどんな努力もいとわない、万難を排して仕事をさぼる。そう思っていた自分はどこへいったのだろう。何か悪い病気にかかっているんじゃないか、そんな気すらする。
今日は帰りに天ぷら蕎麦でも食べたいところだ。『坊っちゃん』を読んだせいか、急に蕎麦が食べたくなってしまった。しかし私の好きな蕎麦屋もいまは自粛で閉まっている。仕方ないが悲しいことだ、蕎麦に罪はないのに。
追記(2020年4月22日 0時18分現在)
今最後まで読み終わったのだけど、『坊っちゃん』にも後半でちらりと「肺炎」が出てきていた。もちろん単なる偶然なんだろうけど、そもそも毎年10万人くらいは肺炎で死ぬらしいが、少しどきりとした気持ちにもなり。思わずふぅと長い溜息が出た。
自分が不安になっていることはある程度自覚していたが、やはりまわりの人が不安になっている影響もあるんだろう。この頃むやみにピリピリした、くさくさした気分になっていることにあらためて気づく。まずは「自分が不安に陥っていること」をじゅうぶん自覚することがスタート地点なんだろうなぁ...と思う。難しいことをあまり考えないはずが、結局こんな時間までうだうだ考えてしまった。明日考えられることは明日考えよう、どうせ自分は暇で時間を持て余しているのだから。
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