2月10日
牛深港で朝を迎えました。
牛深港は、隣接する長島の蔵之元港との間をフェリーが繋ぎ、国道が、その先の出水や鹿児島へ通じています。
何時ものように、車中で簡単な朝食を済ませると、遠見山公園に車をはしらせました。
遠見山公園は牛深市街の裏手、標高217mの遠見山山頂に整備された公園で、約45万株のスイセンが植えられています。
少し肌寒い朝でしたが、公園はスイセンの香に包まれていました。
展望所から、牛深市街と港、その先に下須島が見えていました。
天気が良ければ、その先に甑島列島などが望めるそうです。
展望所には「天草夕陽八景 遠見山公園の夕陽」の標示がありました。
東シナ海に沈む夕陽を見れば、多くの人が、その先の大国への感慨が伴うはずです。
私は横浜生まれで、東日本で人生の殆どを過ごしてきましたが、九州を旅するときは、否応なく、西の方角に対する意識が高まります。
遠見山には遠見山番所跡と表示された場所がありました。
掲げられた解説に「番所は、新井白石が1715年に定めた鎖国を徹底する長崎新令(海舶互市新例)の2年後、異国船の来航監視、密貿易の取締り、難破船の救助、旅船旅人の入出島の管理などを行なう目的で設けられた」と記されていました。
中腹に、山頂と港の番所を中継する中番所跡があり、他の番所と連絡する狼煙の管理が行われていたそうです。
遠見山の麓には「うしぶか公園」が整備されていました。
春には桜、初夏にはしょうぶなどが咲き、日本の都市公園100選に選定されているそうです。
私は天草に関して全く知識がありませんから、ブログを書くに当たって、天草の歴史を調べてみました。
天草諸島は、南北に有明海と八代海、西をシナ海に囲まれ、肥前、肥後、薩摩を結ぶ海上交通の要です。
参考までに旧国名を示すページを見付けましたので、リンクさせて頂きました。
地図を見れば、海によって、どの国からも隔てられている為か、中世以前は、地域外の国に支配されることはなかったようです。
1589年、足利義昭が征夷大将軍を返上して室町幕府が滅亡した年、小西行長が天草五人衆を滅ぼし、天草を支配下に治めました。
この年、今の天草市にあった本戸城の留守を預かる木山弾正の妻、お京の方の戦にまつわる伝承の梅が、昨日見て来た兜梅です。
その後、天草は加藤清正、寺沢氏(唐津城主)の領地となり、1637年(寛永14年)に天草島原の乱が起きます。
天草四郎を総大将とする一揆軍は1638年に幕府軍によって鎮圧されました。
1641年(寛永18年)から天領(幕府直轄地)となり、1664年(寛文4年)に一度、戸田忠昌の領地となるも、1671年以降、明治を迎えるまで天領だったようです。
1641年に天領となった時、初代代官・鈴木重成(しげなり)が下島に3か所の遠見番所を設け、1717年には牛深と崎津にも番所が増設されました。
キリシタン大名だった小西行長の遺臣、益田甚兵衛の子である天草四郎が、キリスト教再興を目指して起こした一揆が、その後の幕府の禁教策を強化し、鎖国政策を進めていく事に繋がります。
だとすれば、もしかすると、キリシタン大名の小西行長軍と戦ったお京の方は、兜梅のある延慶寺(浄土真宗)と協調関係にあったかもしれません。
そして、鎖国政策の徹底と、キリシタンが残る可能性がある天草では、信者が海外と交流を図るかもしれない懸念を持って、天草に複数の番所が設立されたのでしょう。
更に調べましたら、遠見番所は薩摩藩支配の琉球王府によって、宮古島などにも設置されたことが分かりました。
キリシタン対策だけのことでもなかったようです。
天草島原の乱以降は、二度と反乱軍に利用されないよう、一国一城の方針に則り、全国で廃城となった城郭の破壊が進むことになりました。
ということで、
今回の「花の旅」は、旅の中で偶然目にしたものを拾い歩いたのですが、このように整理してみると、推理小説を読むが如く、夫々が一つのストーリーに繋がっていく醍醐味を味わうことができました。
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