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梅園身代り天満宮

2015-04-12 00:09:49 | 九州の梅を訪ねて

 

 黒壁に沿った路地の奥に天満宮の鳥居が見えてきました。

 

   

  


   

 石段を登りきると、右手に鳥居が並び、入口に「梅園身代り天満宮」の解説板が見えます。

 

 「この天満宮は元禄13年(1700)丸山町安田治右衛門によって創建されました。元禄6年に安田治右衛門が二重門にて梅野五郎左衛門に襲われました。

 自宅に担ぎ込まれましたが、どこにも傷が無く、身代りに庭の天神様が血を流して倒れていました。

 その後この天神様を身代り天神と呼ぶようになりました。・・・」

 

 

 境内では、梅の古木が淡い紅色の花を枝に飾っていました。

 

 

 

 天神様に付き物の牛の置物が見えます。
 

 

 更にもう一頭。

 

 こちらの牛には「御神牛(撫で牛)」の説明が添えられていました。

 

 「菅原道真公は乙丑(きのとうし)生まれ、大宰府で亡くなられた時、御遺骸を牛車で運ぶとき、牛が伏して動かなくなった場所が大宰府天満宮の始まりで・・・

 

 梅園天満宮の御神牛は氏子である楠本氏によって大正12年(1923)に青銅製の御神牛を奉納されましたが、第二次大戦により供出されました。

 

 その后 昭和27年(1952)に一体(社殿左)とここにある、昭和41年(1966)に奉納されたものがあります。・・・」

 

 と記されていました。

 

 

 拝殿の右に、石柱で囲まれた場所が見えました。

 

 「梅塚(梅の玉垣)」の標示があり

 

 「梅園身代り天満宮には昭和40年頃まで、丸山の遊女や芸妓衆が多数参拝していました、そして 自分達の生活に苦労がない様お願いしてお参りしていました。

 

 その時この玉垣の中に自分の家で食した梅干の種を身代りとして天神様と呼び、持参していました。」

 

 

 「梅塚」の中には新旧取り混ぜた梅干しの種が奉納されていました。

 

 

 境内から右を見下ろすと、料亭花月の庭が見えています。

 

 「花月」のホームページには

 

 「花月(引田屋)は、寛永19年(1642)に誕生しました。日本永代蔵では、井原西鶴が「長崎に丸山という所なくば、上方の金銀、無事に帰宅すべし」と当時の繁栄ぶりをうたっております。

 

 江戸から幕末、明治と長崎を舞台に活躍した国際人の社交場でもありました。

 

 文人墨客も数多く訪れ、なかでも頼山陽は3ヶ月にわたって逗留し、花月を「養花山館」と名付け、篆刻(てんこく)も残しております。

 

 昭和35年には長崎県の史跡に指定され、全国的にも珍しい「史跡料亭」として営業いたしております。」

 

 とありました。
 

 

 

 境内を出て、周囲を歩きますと、天満宮の隣に市指定史跡の「中の茶屋」がありました。

 

 「丸山の遊女置屋築後屋が茶屋を設けていたところで、中の茶屋と呼ばれ、唐人は千歳窩と名付けた。

 

 この名から、別名を千代の宿ともいい内外の文人墨客が好んで遊び親しんだ。

 

 「長崎ぶらぶら節」には。「遊びに行くなら花月か中の茶屋」と読みこまれている・・・」

 

 と解説板にありました。

 

 現在は、黄桜酒造のキャラクターとなっている河童を描いた漫画家、清水崑の作品展示館になっています。
 

 

 

 「中の茶屋」の周囲は高い石垣の塀に囲まれて、細い道が丘の中へと続いていました。
 

 

 

 パーキングに戻って時間を確認すると16時半でした。

 

 長崎ではもう一つ、市内から30分程の所に野茂崎というスイセンとヤブツバキの名所があります。

 

 せっかくですから、今日中に訪ねておくことにしました。

 

 夕闇が迫り始めた道を長崎半島(野母半島)へ向かっていますと、桟橋で釣り糸を垂れる小父さん達の姿を見かけました。

 

 港町には、このような情感溢れる光景が数多く散りばめられていました。

 

 

 

 

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