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長崎県から佐賀県へ

2015-04-14 00:18:13 | 九州の梅を訪ねて

 

2月11日

 

 山茶花高原の麓で朝を迎え、エンジンをスタートさせると、花の百名山である多良岳(たらだけ)の尾根道を上って行きました。

 

 朝8時頃に着きましたが、山茶花高原は開園前で、人気のない駐車場が広がるばかりでした。
 

 

 

案内には、

 

 「山茶花高原ピクニックパークは多良岳の中腹標高約450mに位置し、対岸には有明海を経て雲仙岳、遠くは熊本までも見渡せるロケーションです。

 

 園内には高原モノレールでつながる「風の丘」と「光の丘」の2つの芝生広場があり、またスポーツスライダーやローラースケート、パターゴルフ等の遊具施設も充実している」

 

 とあります。

 

周囲から覗き見る園内にサザンカが見えますが、この時期に花の姿が無いのは当然です。

 

 

 車で周囲をはしってみると、ハルサザンカらしき木々に赤い花の姿を認めました。

 

 

 上って来た、同じ道を通るのは勿体ないので、勘だけを頼りに、目にした道を選んで山を下りますと、梅の畑の中に迷い込みました。

 

 道の横に「黒金区」の標示が見えますから、既に長崎県を外れて佐賀県に入ったようです。

 

梅畑の脇の白い水仙が、早春の到来を告げていました。

 

 

 次に訪ねた佐賀県太良町の大谷梅園は、実梅が並ぶ畑が見えますが、梅畑の手入れも不十分で、老木も多く、梅の花を愛でるには少々寂しい状況でした。

 

 

 

その先の嬉野運動公園梅園は、良く手入れがなされていましたが、残念なことに花の姿が見えません。
 

 

 

御船ヶ丘梅園は、背景となる御船山の姿が印象的で、3000本の梅が植栽された梅林は、花の季節には見事な景観が期待できそうです。

 

 

 

 長崎県から佐賀県に入り、北西方向へ進みながら、予定した梅園をリスト順に訪ねてゆきます。

 

 その中の一つ、伊万里梅園 藤ノ尾の規模が見事でした。

 

 他の梅園同様、季節的に、数本の木に花を咲かせる状況でしたが、
 

 

 

約24万平方の広大な土地に、約6500本の梅が植栽されています。

 

 一斉に花を咲かせた様子を想像し、再訪問したいと思わせるスケール感がありました。

 

 

  

 

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東京より上海が近い

2015-04-13 00:53:25 | 九州の梅を訪ねて

 

 長崎半島先端部の野母崎総合運動公園「水仙の里公園」にやってきました。

 

 ここには国内盛大級と思える、一千万本のスイセンが植栽され、2月に入った今でも、咲き並んだスイセンが、周囲に甘い香りを漂わせていました。

 

 

 「水仙の里公園」から、更に岬の先へ進み、権現山へ登って行きました。

 

  権現山展望公園にはヤブツバキが1万数千本自生しており、2月下旬~4月上旬に花を咲かせます。

 

 

 権現山(198m)の頂きからは、東に天草灘、西に五島灘が広がり、残りのスペースの全てを青い空と白い雲が占めていました。

 

 

 西の海面に、何かが見えたので、ズームしてみます。

 

 軍艦島でしょうか。

 

 

 展望台の横に、札幌1630km、東京950km、香港1890km、上海780kmと表示したポールが建っていました。

 

 この場所からは、東京よりも上海が近いようです。
 

 

 

 山の頂のスペースに鐘が設置されていました。

 

 この「発起の鐘」(まごころの鐘)は、世界の平和を願う広島平和公園の「悲願の鐘」と呼応する夫婦鐘だそうです。

 

 「発起の鐘」の真下に置かれたドーム型の石には、

 

 「まごころの かねは のろしと なりわたり さかいなきくに おこらんとする」と刻まれていました。

 

 

 まずは、私の中の「さかいなき」を図らねばなりますまい。


 広く世界の真実を学び、己の中の、つまらぬ見栄や虚勢や偏見を捨てる勇気と真心が、さかいなきくにへの道標になるはずです。

 

 私は、身を反らせるように撞木の綱を引き寄せると、鐘を一突きし、山を下りました。

 

 

 

 山の麓の鄙の港に灯りが点り始め、

 

 

 長崎市内に戻る頃には、すっかり日も暮れていました。

 

 

 私はそのまま、明日の最初の目的地である、諫早市の山茶花高原を目指し、車をはしらせ続けました。

  

 

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梅園身代り天満宮

2015-04-12 00:09:49 | 九州の梅を訪ねて

 

 黒壁に沿った路地の奥に天満宮の鳥居が見えてきました。

 

   

  


   

 石段を登りきると、右手に鳥居が並び、入口に「梅園身代り天満宮」の解説板が見えます。

 

 「この天満宮は元禄13年(1700)丸山町安田治右衛門によって創建されました。元禄6年に安田治右衛門が二重門にて梅野五郎左衛門に襲われました。

 自宅に担ぎ込まれましたが、どこにも傷が無く、身代りに庭の天神様が血を流して倒れていました。

 その後この天神様を身代り天神と呼ぶようになりました。・・・」

 

 

 境内では、梅の古木が淡い紅色の花を枝に飾っていました。

 

 

 

 天神様に付き物の牛の置物が見えます。
 

 

 更にもう一頭。

 

 こちらの牛には「御神牛(撫で牛)」の説明が添えられていました。

 

 「菅原道真公は乙丑(きのとうし)生まれ、大宰府で亡くなられた時、御遺骸を牛車で運ぶとき、牛が伏して動かなくなった場所が大宰府天満宮の始まりで・・・

 

 梅園天満宮の御神牛は氏子である楠本氏によって大正12年(1923)に青銅製の御神牛を奉納されましたが、第二次大戦により供出されました。

 

 その后 昭和27年(1952)に一体(社殿左)とここにある、昭和41年(1966)に奉納されたものがあります。・・・」

 

 と記されていました。

 

 

 拝殿の右に、石柱で囲まれた場所が見えました。

 

 「梅塚(梅の玉垣)」の標示があり

 

 「梅園身代り天満宮には昭和40年頃まで、丸山の遊女や芸妓衆が多数参拝していました、そして 自分達の生活に苦労がない様お願いしてお参りしていました。

 

 その時この玉垣の中に自分の家で食した梅干の種を身代りとして天神様と呼び、持参していました。」

 

 

 「梅塚」の中には新旧取り混ぜた梅干しの種が奉納されていました。

 

 

 境内から右を見下ろすと、料亭花月の庭が見えています。

 

 「花月」のホームページには

 

 「花月(引田屋)は、寛永19年(1642)に誕生しました。日本永代蔵では、井原西鶴が「長崎に丸山という所なくば、上方の金銀、無事に帰宅すべし」と当時の繁栄ぶりをうたっております。

 

 江戸から幕末、明治と長崎を舞台に活躍した国際人の社交場でもありました。

 

 文人墨客も数多く訪れ、なかでも頼山陽は3ヶ月にわたって逗留し、花月を「養花山館」と名付け、篆刻(てんこく)も残しております。

 

 昭和35年には長崎県の史跡に指定され、全国的にも珍しい「史跡料亭」として営業いたしております。」

 

 とありました。
 

 

 

 境内を出て、周囲を歩きますと、天満宮の隣に市指定史跡の「中の茶屋」がありました。

 

 「丸山の遊女置屋築後屋が茶屋を設けていたところで、中の茶屋と呼ばれ、唐人は千歳窩と名付けた。

 

 この名から、別名を千代の宿ともいい内外の文人墨客が好んで遊び親しんだ。

 

 「長崎ぶらぶら節」には。「遊びに行くなら花月か中の茶屋」と読みこまれている・・・」

 

 と解説板にありました。

 

 現在は、黄桜酒造のキャラクターとなっている河童を描いた漫画家、清水崑の作品展示館になっています。
 

 

 

 「中の茶屋」の周囲は高い石垣の塀に囲まれて、細い道が丘の中へと続いていました。
 

 

 

 パーキングに戻って時間を確認すると16時半でした。

 

 長崎ではもう一つ、市内から30分程の所に野茂崎というスイセンとヤブツバキの名所があります。

 

 せっかくですから、今日中に訪ねておくことにしました。

 

 夕闇が迫り始めた道を長崎半島(野母半島)へ向かっていますと、桟橋で釣り糸を垂れる小父さん達の姿を見かけました。

 

 港町には、このような情感溢れる光景が数多く散りばめられていました。

 

 

 

 

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長崎の花 アジサイ

2015-04-11 00:08:16 | 九州の梅を訪ねて

 

 島原市内を抜け、雲仙岳へる国道57号をはしってきました。

 

 あれ? 昨日の熊本から天草への国道も57号だったはずです。

 

 不思議に思って調べますと、国道57号は大分市から西に伸びて熊本市へ通じ、更に宇土半島に沿って三角まで、今度は国道が海を渡り島原外港から雲仙岳を越えて諫早まで続いていました。

 

 国道の番号とはいったいどのように決めるのでしょうか?

 

 

 雲仙岳をめざし坂道を上ってきますと、

 

 普賢岳への分岐から先が、積雪・凍結の為に「通行止」となっていました。
 

 

 

 そうですか! 

 

 この季節、1000mを越える九州の山には積雪を覚悟すべきなのですね。

 

 雲仙は花の百名山なので、主峰である普賢岳1359mを間近に見ておこうと思ったのですが、誠に残念でした。

 

 しかし、諦めながら諫早方面へ向かって下り始めますと、ゴルフ場の脇から雪を被った普賢岳が一瞬の姿を見せてくれました。

 

 

 雲仙地獄の蒸気の間を潜って雲仙道路を海岸まで下ります。

 

 

 海岸沿いの道に下り、再び普賢岳を見上げましたが、雪の頂きは雲のベールに包まれたままで、全貌を見せてくれることはありませんでした。
 

 

 

 長崎市内に入ってきました。

 

 市電の姿にビルの大きさが調和しています。


 西新宿のような高層ビル群の中に市電は似合わないと思えます。

 

 

 長崎へやってきたのは、梅園身代り天神宮の梅が主目的です。

 

 ナビの案内のままにはしっていると、思案橋と書かれたアーチが見えてきました。
 

 

 

 周囲に歴史を感じさせる建物が並んでいました。

 

 

 駐車場を探していると、「寄合町遊郭」と書かれた看板を目にしました。

 

 「江戸時代、丸山は、江戸の吉原、京の島原とともに日本三大花街として栄えました。丸山とは、丸山町と寄合町を合わせた花街の総称で・・・」と記載されています。

 

 

 

 坂本龍馬と長崎、と題する看板には

 

 「文久2年(1862)に土佐藩を脱藩し勝海舟の門人となった龍馬は1864年に勝海舟とともに長崎に滞在する。・・・慶應3年(1867)龍馬は海援隊長に任命され、業務を拡大していった。9月18日に震天丸で長崎を出帆し、その後赴いた京都近江屋で11月15日襲撃され、暗殺される(33歳)」

 

 と記されていました。

 

 龍馬はこの辺りの料亭を舞台に政治活動を行っていたようです。

 

 

 歩いていて、アジサイがデザインされたマンホールの蓋に気が付きました。

 

 

 これは多分、出島に住んだシーボルトがヨーロッパに、日本原産のアジサイを紹介し、妻の「お滝さん」にちなんで、アジサイの学名をHydrangea Otaksa (ヒドランジア オタクサ)と命名した逸話に因むだろうと思います。

 

 確認すると、長崎市はアジサイを市の花に制定していました。

  

 

 

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殿の意気込み 市民の心意気

2015-04-10 00:56:55 | 九州の梅を訪ねて

 

 島原城にやってきました。

 

 

 早速城内に足を運びます。

 

 「島原城由来」として、次のような解説が掲げられていました。

 

 「奈良から入封した松倉重政が五層の天守閣を据える城を築きました。外郭を4キロの練塀で囲んだ、四万石の大名には過分な城です。

 

 有馬氏時代から積み上げた海外貿易の利益と、松倉氏の意気込みが感じられます。

 

 島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、1792年の地震と大津波にも耐えてきました。

 

 明治維新で解体されましたが、1964年には天守閣が復元されました。」

 

 

 

 城内の一隅に「古野梅苑」の石標が見えます。

 

 城内には300本弱の紅梅、白梅が植栽されていました。

 

 

 紅梅は1月下旬~2月上旬とされますが、今年は開花が遅いようです。

 

 

 あちらこちらで、3分咲き程の紅梅が城内を飾っていました。

 

 

 本丸から見下ろすと、周囲の階段状となった場所にも梅園を認めました。

 

 

 古野梅苑の中に小さな祠があるのに気づきました。

 

 その横に

 

 「松倉豊後守重政公は徳川家康公に仕え、関ヶ原、大阪の陣にも軍忠を尽くしました。

 

 7年の歳月を費やして島原城を築き、以来250年間政治の中心として栄えました。

 

 この祠は重政公と築城工事中に死亡した人々を祀っております」

 

 とあります。

 

 これだけの城を築いた大名を祀る祠としては、極めて質素なものと言えます。
 

 

 城内には普賢岳噴火活動の歴史を解説した観光復興記館があり、島原半島世界ジオパークの案内を見かけました。

 

 これを見ても、島原半島が火山灰の堆積した、地味の貧しい土地であることは一目瞭然です。

 

 地の利である周囲の海路を介した、海外との経済活動を絶たれた江戸時代に、住民がどれだけ苦労したかは容易に想像することができます。
 

 

 

 城内に、「坂本龍馬が長崎へ最初に上陸した地は島原だった」との解説を見かけました。

 

 

 だから何なの?と突っ込みたくなりますが、人気者の話題で、少しでも島原観光を盛り上げたいと、一生懸命に努力している市民の心意気を感じます。

  

 

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原城跡と天草島原の乱 

2015-04-09 00:10:43 | 九州の梅を訪ねて

 

 フェリーが長崎県南島原の口之津に着くとすぐに、島原城を目指してはしり始めました。

 

 しかし、10分もはしらない内に、右手に「国指定遺跡 原城跡 昭和13年5月30日 文部省」の看板が目に飛び込んできました。

 

 迷わず、農道のような右手の道へハンドルを切ります。

 

 私はこの時、この遺跡名を見ても、ここが天草島原の乱の主戦場だった場所とは認識していませんでした。

 

 

 

 人気のない原城跡の駐車場のすぐ横に、「ホネカミ地蔵」の掲示板を添えた、赤い頭巾のお地蔵さんを目にしました。

 

 


  

 その掲示板には

 

 「寛永15年(1638年)2月28日、島原の乱は終わりを告げた。

 

 ホネカミ地蔵は、明和3年(1766年)7月15日 有馬村願心寺の注誉上人が、この戦乱で斃れた人々の骨を、敵、味方の区別なく拾い、霊を慰めた地蔵尊塔である。

 

 八波則吉先生は、「骨かみ地蔵に花あげろ、3万人も死んだげな、小さな子供も居たろうに、骨かみ地蔵に花あげろ」と、うたっている。

 

 「ホネカミ」とは、「骨をかみしめる」の意味で、その事から「自分自身のものにする」、更に「人々を済度する(助ける、救う)」と、理解すべきだと言われている。」

 

 と記載されていました。

 

 この掲示板を見て、私はやっと、この場所が島原の乱に関連した場所らしいことに気付きました。

 

 

 旅を終えてからの知識ですが、

 

 原城は1496(明応5)年、伊予の藤原純友の末裔とされる有馬貴純によって、日野江城(南島原市)の支城として有明海を背にした丘陵に築かれました。

 

 ほぼ100年後、有馬晴信は1600年の関ヶ原での功績により日野江藩の初代藩主となりますが、1609年(慶長14年)に晴信がマカオに派遣した朱印船がマカオ市民に襲われたことから、報復として長崎に入港したポルトガル船を爆沈させ、それに関連して、徳川家康から死罪を命じられます。

 

 有馬晴信の長男、有馬直純は1614年に幕府へ転封を願い出て、日向(宮崎県)延岡に移りました。

 

 その後、1616(元和2)年に大和五条藩主だった松倉重政が日野江城へ入城します。

 

 重政は島原城を築城し、一国一城令により日野江城と原城を廃城としました。

 

 重政とその子の勝家が島原城を築くために行った苛政と搾取が天草島原の乱の主因となりました。

 

 延岡に転封した有馬晴信の正室は、家康の養女である国姫で、延岡では日向御前と呼ばれ、この人の墓が、数日前に訪ねた延岡の本東寺にあります。

 

 また、有馬直純は天草島原の乱で軍団を率いて征伐軍に加わり、この時豊前中津藩の軍監として参戦していた宮本武蔵から書簡を受け取り、その原本が東京都青梅市の吉川英治記念館にあるそうです。

 

 かなり話が脱線しましたが、梅を訪ねる旅が、いつの間にか、戦国時代の人々の織りなす綾を辿ることになりました。

 

 原城跡の、校庭ほどの広さの本丸跡には天草四朗の像が建てられていました。

 

 

 また、四郎の母が建立したと思われる墓石がへ、西有明町の民家の石垣から発見され、像の横に移されていました。
 

 

 

 

 寛永15年(1638年)2月28日の幕府軍の総攻撃で一揆軍は、老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたそうです。

 

 この時の一揆軍は、殉教を重んずるキリシタンの信仰に従い、降伏することなく、童女までもが喜んで死んでいったと記述する資料があります。

 

 勝てるはずもない戦だったはずです。

 

 最近のイスラム国や、20年前のオウム真理教の事件など、人間が一度正しいと信じ込んだ時の、狂気にも似た行動の恐ろしさを思い起こします。

 

 それにしても、乱の主因となった、幕府の為に、評価される為に、業績を上げる為に、としか考えなかった松倉重政親子のような為政者の愚かさと恐ろしさも、歴史に類の限りがありません。

 

 もしかすると人間は、自分で自分を正しい、善い、清いと思い込んでいたり、確信することの為に、自他の命さえも惜しくはないと考える生物なのかもしれません。

 

 目の前の有明海は穏やかに広がり、雲の間に覗く午後の陽射しを柔らかに浴びていました。

 

 

 

  

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潮風の中のヤブツバキ

2015-04-08 01:21:09 | 九州の梅を訪ねて

 

 空に雲が重なる道を、天草下島を北へ向かいました。

 

 進行方向右手に、湖のような、鏡のような水面が見えてきました。

 

 ナビの画面に早浦の文字が示されました。

 

 

 白木河内で左折し、国道389号に入ります。

 

 389号はサンセットラインの名称で呼ばれます

 

 やがて左手の丘の中腹に教会が見えてきました。

 

 大江天主堂のようです。

 

 

 暫くはしると次の目的地、西平椿公園の表示が見えてきました。

 

 

 西平椿公園は、住民が椿油を採取する目的でヤブツバキを守り続けた、ヤブツバキの群生地で、約2万本のヤブツバキが花を咲かせます。

 

 

 ツバキの見頃は2月下旬から3月上旬だそうです。

 

 今はまだ季節が早いので、園内に植栽された幾本かの園芸種にのみ花を認めました。

 

 

 西平椿公園は日本の夕陽百選の一つとしても知られます。

 

 正面に広がる海は昭和45年に海中公園に指定されています。

 

 

 海上の、1100m先に見える数十個の岩礁が大ヶ瀬、そこから南へ2800m先の礁が小ヶ瀬と名付けられ、それらの岩礁は天草市の文化財に指定されています。
 

 

 

 天草灘の雄雄しい景色を眺めながら北上し、1時間少々で、天草から島原へと渡るフェリー港、鬼池港に到着しました。

 

 

 フェリーは1時間に一本運行されており、20分程も待つて乗り込むと、フェリーは島原半島の口之津を目指して岸を離れました。

 

 

 30分程の旅程で長崎県の口之津港に上陸しました。

 

 

 

 今回の「花の旅」は、これでほぼ半分が終了したことになります。

 

 旅を完結させるまでの、凡その輪郭が見えてきました。

 

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牛深の遠見山公園にて

2015-04-07 03:09:19 | 九州の梅を訪ねて

 

 2月10日

 

 牛深港で朝を迎えました。

 

 牛深港は、隣接する長島の蔵之元港との間をフェリーが繋ぎ、国道が、その先の出水や鹿児島へ通じています。
 

 

 

 何時ものように、車中で簡単な朝食を済ませると、遠見山公園に車をはしらせました。

 

 遠見山公園は牛深市街の裏手、標高217mの遠見山山頂に整備された公園で、約45万株のスイセンが植えられています。

 

 少し肌寒い朝でしたが、公園はスイセンの香に包まれていました。

 

 

 展望所から、牛深市街と港、その先に下須島が見えていました。

 

 天気が良ければ、その先に甑島列島などが望めるそうです。
 

 

 

 

 展望所には「天草夕陽八景 遠見山公園の夕陽」の標示がありました。

 

 東シナ海に沈む夕陽を見れば、多くの人が、その先の大国への感慨が伴うはずです。


 私は横浜生まれで、東日本で人生の殆どを過ごしてきましたが、九州を旅するときは、否応なく、西の方角に対する意識が高まります。

 

 

 

 遠見山には遠見山番所跡と表示された場所がありました。

 

 掲げられた解説に「番所は、新井白石が1715年に定めた鎖国を徹底する長崎新令(海舶互市新例)の2年後、異国船の来航監視、密貿易の取締り、難破船の救助、旅船旅人の入出島の管理などを行なう目的で設けられた」と記されていました。

 
   

  

 

 

 中腹に、山頂と港の番所を中継する中番所跡があり、他の番所と連絡する狼煙の管理が行われていたそうです。
 

 

 

 

 遠見山の麓には「うしぶか公園」が整備されていました。

 

 春には桜、初夏にはしょうぶなどが咲き、日本の都市公園100選に選定されているそうです。
 

 

 

 

 私は天草に関して全く知識がありませんから、ブログを書くに当たって、天草の歴史を調べてみました。

 

 天草諸島は南北に有明海と八代海、西をシナ海に囲まれ、肥前、肥後、薩摩を結ぶ海上交通の要です。

 

 参考までに旧国名を示すページを見付けましたので、リンクさせて頂きました。

  

 地図を見れば、海によって、どの国からも隔てられている為か、中世以前は、地域外の国に支配されることはなかったようです。

 

 1589年、足利義昭が征夷大将軍を返上して室町幕府が滅亡した年、小西行長が天草五人衆を滅ぼし、天草を支配下に治めました。

 

 この年、今の天草市にあった本戸城の留守を預かる木山弾正の妻、お京の方の戦にまつわる伝承の梅が、昨日見て来た兜梅です。

 

 

 

 

 その後、天草は加藤清正、寺沢氏(唐津城主)の領地となり、1637年(寛永14年)に天草島原の乱が起きます。

 

 

 天草四郎を総大将とする一揆軍は1638年に幕府軍によって鎮圧されました。

 

 1641年(寛永18年)から天領(幕府直轄地)となり、1664年(寛文4年)に一度、戸田忠昌の領地となるも、1671年以降、明治を迎えるまで天領だったようです。

 

 

 1641年に天領となった時、初代代官・鈴木重成(しげなり)が下島に3か所の遠見番所を設け、1717年には牛深と崎津にも番所が増設されました。

 

 キリシタン大名だった小西行長の遺臣、益田甚兵衛の子である天草四郎が、キリスト教再興を目指して起こした一揆が、その後の幕府の禁教策を強化し、鎖国政策を進めていく事に繋がります。

 

 だとすれば、もしかすると、キリシタン大名の小西行長軍と戦ったお京の方は、兜梅のある延慶寺(浄土真宗)と協調関係にあったかもしれません。

 

 そして、鎖国政策の徹底と、キリシタンが残る可能性がある天草では、信者が海外と交流を図るかもしれない懸念を持って、天草に複数の番所が設立されたのでしょう。

  

 更に調べましたら、遠見番所は薩摩藩支配の琉球王府によって、宮古島などにも設置されたことが分かりました。

 

 キリシタン対策だけのことでもなかったようです。

 

 天草島原の乱以降は、二度と反乱軍に利用されないよう、一国一城の方針に則り、全国で廃城となった城郭の破壊が進むことになりました。

 

 ということで、 

 

 今回の「花の旅」は、旅の中で偶然目にしたものを拾い歩いたのですが、このように整理してみると、推理小説を読むが如く、夫々が一つのストーリーに繋がっていく醍醐味を味わうことができました。

 

 

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天草の兜梅

2015-04-06 09:33:41 | 九州の梅を訪ねて

 

 国道57号から国道266号に入り、三角ノ瀬戸を跨ぐ橋を渡りました。

 

 

 天草諸島の島々を繋ぐ橋を越えて、穏やかなドライブが続きます。

 

 

 天草パールラインの周囲には小さな島々が見え隠れし、幾つかのリゾートホテルが寛ぎの表情を見せていました。

 

 

 天草上島から下島へ瀬戸大橋を渡る時、海峡を航行する船の為に、瀬戸歩道橋の中央部分をリフトする様子が見えた。

 

 急いで橋の横に駆けつけました。

 

 しかし、私が歩道橋に着いた時には、タッチの差で橋は元の姿に戻り、水面に船の航跡が空しく残されるばかりでした。

 

 

 天草市浜崎町の延慶寺は迷わずに訪ねることができました。

 

 寺の入口に「熊本県指定天然記念物 兜梅」と記された石柱が見えます。

 

 

 

 延慶寺の兜梅も臥龍梅で、一本の梅の木から東西11m、南北6mに枝が伸び、樹齢は約500年といわれています。

 

 兜梅と呼ばれるようになったのは、1589年に小西行長、加藤清正連合軍と戦った天草軍の木山弾正の妻、お京の方が騎馬武者姿で出陣した際、兜の錣(しころ)が木にからまり、身動きができずに斬られたことに由来するそうです。

 

 予想通り、目の前の梅に花はなく、花が見られるのは2月下旬から3月上旬だとか。

 

 

 延慶寺を出たのは18時頃でした。

 

 天草下島最南端、牛深町を目指すことにしました。

 

 牛深の遠見山公園にはスイセンが咲くはずです。

 

 

 明朝、朝陽の中に咲き揃う、黄色いスイセンの花を眺めることができるかもしれません。

 

 岬の先端の、広い海原を見晴らす公園で、南国の潮風に揺れるスイセンが目に浮かぶようです。

 

 私は天草市内のスーパーで焼肉弁当とビールを購入し、夜の道を牛深を目指しはしり始めました。

  


 

 

 19時過ぎに牛深に到着し、港の広場に車を停めて、天草で買い求めた弁当で夕食を済ませました。

 

 しかし牛深は、半島の先端の鄙びた漁村だろうとの私の予想に反し、見事な港を備える街でした。

 

 車を駐める場所を探して街中をはしると、数件の居酒屋に灯りが点っていました。

 

 そこで、車中で弁当を食べ終わると、身支度を整え、近くの居酒屋の暖簾をくぐることにしました

 

 

 

 カウンターに座り、最初に地酒を頼みました。

 

 

 次いで生牡蠣、キビナゴ、フグの唐揚を注文し、二本程ので、十分に満喫できました。

 

 

 

 早々に車へ戻ると、瞬時に睡魔に襲わ、後は白河夜船でした。

 

 

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有明海を眺めながら

2015-04-05 17:17:41 | 九州の梅を訪ねて

 

 熊本市で二か所の梅園を訪ねた後、天草へ向かうことにしました。

 

 熊本城にも梅が咲きますが、15時過ぎに谷尾崎梅園を出たので、今から天草に向かうと「延慶寺の兜梅」に間に合います。

 

 その後は長崎を訪ね、有明海周辺を佐賀、福岡南部、熊本北部の梅園を時計周りに巡り、再度熊本へ戻るルートが、比較的無駄が少ないだろうと思えました。

 

 熊本城はそのとき寄ることにして、その夜で熊本の酒を楽しもうと考えました。

  

 熊本市内から国道57号を西へ向かう途中、真正面に雲仙岳が見えてきました。

 

 

 国道は右手に有明海を眺めながら天草へと向かいます。

 

 それにしても、何とも不思議な海です。

 

 視界の限りに砂浜が広がっていました。

 


 

 所々に水路のように海が取り残されています。

 

 そして、無数に並ぶ木の杭が見えます。


 海苔を養殖しているようです。

 

 

 あまりにも不思議な光景なので、車を停め、暫しの間眺めていました。

 

 遠くに見える雲仙岳まで歩いて行けそうな気さえします。

 

 

 そんなとき、国道脇にレトロな駅舎を見かけました。

 

 

 駅舎の横に網田(おうだ)散策マップが掲げられていました。

 

 この辺りの御輿来(おこしき)海岸は日本の渚百選に選定されているようです。

 

 「4世紀の中頃、景行天皇がこの地を訪れた際、余りにも景色が綺麗で神輿をとめて休まれたという伝説がある」と記載されていました。

 

 また、網田駅は明治32年に開設され、現存する木造駅舎としては九州管内で2番目に古い建物なのだとか。

 

 ちなみに九州最古の木造駅舎は、鹿児島空港にほど近いJR肥薩線の嘉例川駅という無人駅だそうです。
 

 

 

 

  有明海を右手の車窓に、国道57号を進んで行くと、道路脇に白い灯台が建っていました。

 

 灯台の壁面に誰かの写真が焼き付けられています。

 

 写真の下には、

 「ローウェンホルスト・ムルドルはオランダ人の水理工師で、1879年に来日し、日本各地で治水、築港の計画、建設指導に当たった。

 三角港西も彼の指導によるもの」、


 と記載されていました。

 

 また、反対側の壁面には、当時の熊本県知事であった富岡敬明の写真が焼き付けられていました。

 

 

 三角港西は熊本から天草諸島へ向かって伸びる宇土半島の先端に位置し、有明海と八代海を繋ぐ三角ノ瀬戸と呼ばれる海峡に設けられています。

 

 明治20年(1887年)に開港し、近代的港湾としては最古のもののようです。

 

 三角港西は築港当時の埠頭、水路、橋等がほぼ原形のままに残されていることから、平成14年に国重要文化財に指定されました。

 

  

  

 埠頭の横には、三角港が開港した時すでに建てられていた、旧高田回漕店が保存されていました。

 

 

 海に面した場所には、築港当初に海運倉庫だった建物が三角築港記念館として改装され、町営レストランが営まれていました。

 

 

 港に面したテラスに人影はありませんが、桜が咲く季節にこの場所で、オランダチーズなどをつまみながら、潮風の中にビールなどを飲んでみたいものです。
 

 

 

 港の背後に、明治の中頃に旅館だった浦島屋が復元されていました。

 

 この浦島屋に明治26年小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が滞在し、「夏の日の夢」という紀行文を残したそうです。

 

 そういえばハーンは熊本で、一時期英語の教師をしていた筈です。

 

 

 

 三角港西で予定外の時間を費やしてしまいました。

 

 陽も大分西に傾き始めています。

 

 そろそろ本来の目的地へ急ぐことにしましょう。

 

 

 

 

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熊本市の梅林

2015-04-04 15:50:19 | 九州の梅を訪ねて

 

 熊本に入り、市内西部の百梅園を訪ねました。

 

 ナビに熊本市西区島崎4丁目と入力したのですが、着いてみると周囲に住宅が並ぶばかりで、梅園らしきものが見当たりません。

 

 犬の散歩をしているご婦人に道を訪ね、ようやく百梅園を探し当てました。

 

 百梅園は住宅街を見下ろす小山の斜面にあり、視界の先の市街地にビルなどが見えていました。

 

 右手前方の、緑に包まれた丘辺りに熊本城があるのでしょうか。
 

 

 

 梅園を登って行きますと、遠くに白煙を上げる山が見えました。

 

 阿蘇山のようです。

 3~4日前には、あの山の向こうで梅を訪ね歩いていました

 

 

 このブログ「花の旅」の楽しみの一つに、旅を終えた後、訪問先を再度調べ直す作業があります。

 

 ブログを書くことで、調べざるを得ない状況になるのですが、その作業を経ることで、初めて知ることや、認識を改めることが多々あります。

 

 今回も、上の写真に阿蘇が写っていることで、阿蘇は熊本のほぼ東の方向に位置することを再認識しました。

 

 何となく私は、今まで阿蘇は熊本の北、福岡は北西のようなイメージがあったのですが、今回は九州の地理を認識し直しました。

 

 地図を見ると、九州の中央をほぼ「南北」に山稜が通っています。

 

 今朝見て来たように、気象条件によっては、中央山稜西側の、鹿児島県北西部に雪が降っても、おかしくないのかもしれません。


 そして肥後は、稲作に必要な水に恵まれているだろうと推測します。

 

 人々の暮らしの中で、農業のウエイトが高かった数百年前は、地形と気象が人々の生活に与える影響が今以上に大きかった筈です。

 

 夫々の地理の特性を知ることで、歴史をより深く理解することになる気がします。

 

 そのような「実際にその場所に立つ」ことで得る知識の面白さが、私に季節外れの梅園巡りを続けさせているのかもしれません。

 

 

 百梅園のある熊本市島崎は、江戸時代中期から別荘地として開け、百梅園の地も細川藩家老の別荘地だったそうです。

 

 後に、細川藩士の漢学者「兼坂止水」の所有となり、止水は明治3年に家禄を奉還して私塾(兼坂塾)を設け、茶や梅を多く植栽して百梅園と名づけました。

 

 兼坂塾には徳富蘇峰が通ったこともあるそうです。

 

 

  

 百梅園から10分程車をはしらせ、谷尾崎梅林公園にやってきました。

 

 梅園の入口に「妙解寺別院谷隠軒跡 宮本武蔵座禅石」と記された石碑が建っていました。

 

 

 今回の旅の最初に、門司の和布刈公園から、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島を眺め、国東半島の杵築城跡で宮本武蔵の足跡を知り、そしてまた、熊本でその名に再会しました。

 

 

 今までは、宮本武蔵の名前しか知らなかったのですが、これを機に調べ直しますと、

 

 宮本武蔵は1584年に兵庫県播磨ないし岡山県美作で生まれ、美作の新免氏の養子となりました。

 大阪の陣で徳川方に参陣し、その後、江戸や尾張、明石などに足跡を残しています。

 1640年に熊本城主 細川忠利に招かれ、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、5年後の1645年に62歳で亡くなりました。

 

 杵築城跡にあった、宮本武蔵に関する記述に「決闘後、養父無二斉のいる豊後へ送り届けられた。」とあったので、私はてっきり、武蔵は大分県出身と思い込んでいたのですが、そうではなかったようです。

 

 

 その宮本武蔵が、座禅を組んだとされる、上面畳二枚程の広さの巨岩が、梅園を見下ろしていました。

 

 

 

 谷尾崎梅林公園は、古くは加藤清正が軍用梅を栽培した地で、その後細川家菩提寺の別院がありました。

 

 昭和58年以降に市が公園として整備し、公園愛護会が平成3年から約20年を掛けて梅の植栽を進め、現在では約300本の梅が2月中旬に谷を飾るようになったそうです。

 

 

 

 

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八代 松井神社の臥龍梅

2015-04-03 00:45:44 | 九州の梅を訪ねて

 

 国道3号線をバイパスする日奈久芦北道路を抜けると、目の前に八代海が広がりました。

 

 海の色は海底の草を透かし見るような、グリーンブルーに凪いでいました。

 

 北に視線をやると、褐色の斜面を見せた雲仙岳が雲を呼んでいます。

 

 

 季節を外れた海辺の公園には人影も見えず、私の愛車だけが所在無げに陽の光を浴びています。

 

 此処まで、私の無茶に愚痴一つ言いません。

 

 よくはしってくれるよな~、「無事これ名馬なり」の一言を掛けたくなります。

 

 

 ナビ任せに、川沿いの道をはしり抜け、

 

 

 橋を渡ると八代の市街地に入りました。

 

 

 目的地は八代の松井神社の臥龍梅です。

 

 神社は八代城跡の横に、すぐに探し出すことができました。

 

 

 そして、鳥居の横の臥龍梅もすぐに見つけることができました。

 

 臥龍梅は珍しい梅ですが、昨日今日と国内有数の木を見てきたので、この木のスケールは、ちょっと気の毒ではあります。

 

 

 解説板には次のようなことが書かれていました。

 

 「1640年細川三斎(忠興)が八代城の北の丸だった、この辺りに茶室を築き、臥龍梅を自ら植えたと伝えられます。

 傍らの臥龍梅碑は、明治17年3月、松井家当主、松井敏之が建てたもので、戦国乱世における三斎の遺徳を伝え、先人に恥じない立派な人物であれとの戒めが記されています。」
 

 

 

 松井神社の境内に花を咲かせた紅梅が、正午過ぎの陽の光を受けて、北の方角に影を伸ばしています。
 

 

 

 私はこの後、八代城跡を一巡りすると、次の目的地となる熊本市内の梅園をめざすことにしました。

 

 

 

 

 

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春の水辺の光景

2015-04-02 00:05:10 | 九州の梅を訪ねて

 

 県道46号から国道3号へ入ると、目の前に海が広がりました。

 

 鹿児島県の最北部に位置する出水市の名護港です。

 

 海を隔てた視線の先に長嶋と、その奥に天草の下島が見えています。

 

 そしてこの時、今夜の酒を、対岸に見える下島南端の牛深で飲むことになるとは考えてもいませんでした。
 

 

 北を望むと、天草諸島の連なりが海の彼方に霞んでいます。

 

 

 海を眺めるパーキングエリアには、アメリカデイゴと思しき木立の姿を見かけました。

 

 南国らしさを感じさせる光景です。

 

 

 やがて県境を越えて熊本県に入り、水俣の町を見下ろす中尾山に登ってゆきます。

 


 

 中尾山334m)に広がる中尾山自然公園には1500本の梅が植栽されています。

 

 季節には早すぎましたが、枝にほころぶ白梅の姿を所々に見かけました。

 

 

 マテバシイの名札を付けた木が、青空の下で豊かな葉を茂らせていました。

 

 

 眼下に常緑の森が広がり、水色の海の向こうに蒼い島影が連なります。

 

 

 中尾山自然公園で冬の気分は忘れました。


 水俣の町を過ぎ、国道3号線を北へはしります。

 

 幾つかの川を渡りました。

 

 白い雲を映し、漣が揺れる川面に、水鳥の戯れを目にしました。

 

 

 数時間前、山の木立に薄雪を見たのが夢だったかもしれないと思える、春の水辺の光景です。

 

  

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暖かな眼差し

2015-04-01 01:04:21 | 九州の梅を訪ねて

 

 薩摩川内市の東郷町で、国道267号から県道46号へ右折し、しばらくはしると、道路脇に「久留須梅」の看板を目にしました。

 

 「久留須梅」なんて、今まで聞いたこともありません。

 

 梅を訪ねる旅ですので、素通りする訳にはいきません。

 

 行き過ぎた車をバックし、県道を左折して、小川に掛かる橋を渡り、右折するとすぐに、周囲を網で囲まれた梅林が見えてきました。

 

 

 網の中に、久留須梅を説明する掲示板があります。

 

 少し長くなりますが、以下にその内容をご紹介します。
 

 

 

薩摩川内市指定文化財

 

 久留須梅(くるすうめ) 平成2年5月15日指定

 

 「学問の神様」として有名な菅原道真(すがわらのみちざね)は、昌泰(しょうたい)2年(899年)に右大臣(うだいじん)に任命に任命され、政治改革に取り組んでいましたが、有力貴族の反感を呼び、延喜(えんぎ)元年(901年)、左大臣(さだいじん)・藤原時平(ふじわらのときひら)らの讒言(ざんげん)により太宰府(だざいふ)へ左遷(させん)され、2年後に亡くなりました。

 

 後世の人々が道真の死を哀(あわ)れんでか、密かに薩摩に下って余生を過ごしたという伝説がこの地に伝えられています。

 

~菅原道真の薩摩下り伝説と久留須梅~

 

 大宰府に都から刺客(しかく)がくる噂を聞いた道真は、病死を装い密かに舟で南へ下った。

 

 湯田町砂岳(すなだけ)に上陸後、しばらく滞在したが、薩摩に刺客が追ってくると聞き、吉川(きちかわ)を経由してこの地に逃れた(出水に上陸、阿久根市田代経由との伝説もあり)。

 

 刺客に追われた道真が身の危険を感じ、ここの農家に立ち寄ったところ、農家のおばあさんに道真とは知らず、気の毒に思い、あたたかいお茶などを勧めて旅の苦労をねぎらった。

 

 追っ手が過ぎ去り、難を逃れた道真はそのお礼にと梅の実をおばあさんに送り、現在の藤川天神(ふじかわてんじん)の地に赴き、静かに余生を送った。

 

 おばあさんが道真からもらった実が芽を出し、大きくなった臥龍梅がこの久留須梅と伝えられている。

 

 久留須家の家伝として、次のことが伝えられています。

 

 一、梅の実は梅干にしない(梅の肉だけ梅干にして実は梅林に返す)

 

 一、梅の枝は切らない


             平成22年2月 薩摩川内市教育委員会

 

 

 藤川天神の臥竜梅は国の天然記念物ですが、久留須梅は薩摩川内市指定の文化財で、その名は殆ど知られていません。

 

 藤川天神の臥竜梅は薄紅色の花を咲かせますが、久留須梅は白梅だそうです。

 

 久留須家の方々が長い年月をかけて大事に育ててきたそうです。

 

 

 

 久留須梅のある東郷町藤川上園から、県道46号を進むと、道の両側に紅梅が連なっていました。 

 

  

                     

 

 久留須梅から4~5キロはしると藤川天神に到着しました。
 

 

 

藤川天神は「菅原神社」とも呼ばれ、久留須梅の解説にもあったように、太宰府に左遷された道真公が、さらに逃れて藤川の地に隠退し、没したという伝承があります。

 

 境内の梅は菅原道真手植えの1株が繁殖したと言われ、昭和16年10月3日に、国の天然記念物に指定されています。
 

 

約150本の梅の、55本は枝が地を這うように伸びる臥龍梅です。

 

 藤川天神の臥龍梅は開花が遅く、久留須梅が咲き終わる、2月末から3月上旬にかけて咲き始めるそうです。
 

 

 

 

境内で「西郷どんのツン」と表記された犬の銅像を見かけました。

 

 上野公園の西郷隆盛像の横にいる愛犬ツンの銅像です。

 


 

ツンは東郷町藤川牧野(旧藤川村)の農家、前田善兵衛という人に飼われていた犬です。

 

 明治7年頃、西郷さんは藤川天神を参詣し、境内でツンを一目見て気に入り、飼い主に犬を譲って欲しいと頼みますが、善兵衛は断りました。

 

 諦めきれない西郷さんは、土地の有力者の三原隼人に交渉を頼み、その結果ツンは西郷さんの飼い犬となりました。

 西郷さんはお礼として三原に自分の馬を与え、善兵衛には金20貫を与えたそうです。

 

 西郷さんが、明治10年(1877年)1月29日、大隅半島で木賃宿を定宿にして狩りに出ていたとき、鹿児島城下の私学校生が城下の弾薬庫を襲撃し、これが西南の役の火ぶたとなりました。

 

 西南の役で朝敵となった西郷さんでしたが、明治天皇は明治22年に、朝敵の汚名を取り消す決定をします。

 

 これを期に西郷さんの像を建てる計画が持ち上がりますが、西郷さんに反感を持つ政治家も多く、軍服正装の像には反発があり、西郷さんが隠遁後に野心を捨て、愛犬をつれて、野山で兎狩りをする姿となったのだそうです。

 

 ツンは雌犬ですが、上野の西郷さんの横の銅像は雄犬をモデルとしたもので、上野公園の銅像の姿形はツンのものではないようです。

 

菅原道真の伝承にしても、西郷隆盛のツンの逸話にしても、時代の中で報われなかった偉人に対する、人々の暖かな思いやりのような眼差しを感じるお話です。

  

 

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