百歳に向かってもう一度歩いて世界一周

平成7年1月1日より歩いて世界一周に挑戦して居ますので引き続き続けますのでご照覧あれ!

野郎自大

2013年02月13日 17時40分49秒 | 十八史略

 

歩 い て 世 界 一 周  2月13日(水) 晴れ後雪

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

        1 

16,360

11,452

 

今  月

13

216,356

151,449

16,643

今  年

44

726,901

508,831

16,520

2005年から

2,975

41,045,620

29,431,934

14,133

70歳の誕生日から

6,507

123,995,756

86,797,029

19,056

イツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 510,929m

 何かの記事で評論家が石原都知事を評して【野郎自大】と言ったのを思い出した。悪戦苦闘の末、遂に見つけた。

以下その記事の抜粋

 ■ みんなバカにみえて、自分ひとりだけ松の上にとまった鶴みたいな気でいる。自分以外の他人はほとんどバカにしかみえない慎太郎の唯我独尊的な体質は、危惧の念を抱いてみるべきである。

■ 慎太郎の論理の特徴は、自己を正当化するためなら、事実を自分の都合のいいようにねじまげてもかまわないと考える我田引水と夜郎自大の習性が、随所ににじみ出ていることである。

■ 早くから万能感と超人意識、そして強烈な自己愛の萌芽をみせた慎太郎は、他方で、いつになっても加齢と成熟をせず、大人になれない餓鬼大将の印象を慎太郎に刻んでいる。そのナルシスティックでチャイルディッシュな感触は、安定感と寛容をいちじるしく欠くわがままと傲慢さの感触につながる。これは慎太郎を慎太郎たらしめている宿痾というべき独特のパーソナリティである。

 そこで【夜郎自大】とは何かを調べて見た。簡単に言えば、「自分の力量を知らずにいばること」という。ところがその語源・由来が面白い。【野郎】とはどんな人物か思ったら、以外にも「史記」西南夷伝を解析したこんな記事があった。

 中国は漢の時代、今の雲南省あたりに夜郎(やろう)という国がありました。この国は西南夷(せいなんい)と呼ばれる少数民族が立てた国で、1つの独立国でしたが、国土はとても狭く、物産もほんの僅かほどの国でした。それでも十ばかりあった西南夷の国々の中では最も大きな国でした。夜郎国の国王はこの国を離れたことがないので、いつも自分の国が世界で一番大きな国と思っていました。

 一方、すでに強大な国家を作り上げていた漢は、身毒国(みどくこく=今のインド)との交流を図るため、武帝の時代に張騫(ちょうけん)という人物を身毒国に派遣することにしました。今後の身毒国との交流には立派な交通路が必要であると感じた張騫は、武帝に「漢と身毒国との途中にある夜郎国とは緊密な連絡をとるようにしなければなりません」と進言しました。そこで武帝は夜郎国に使者を遣わしました。
 武帝の使者達に会った夜郎国の王は漢との違いもわきまえない尊大な態度で「漢とわが夜郎国とどちらが大きいのかね?」と尋ねたのでした。余りの世間知らずの質問に、漢の使者達は互いに顔を見合わせながら、思わずこらえきれずに笑ってしまったとのことです。道路が通じていなくて交流がなかったために、自分の国が世界で一番大きいと思いこんでいた発言だったのです。

 それから、人々は世間知らずのことを「夜郎自大」(夜郎は自らを大なりとする)というようになったということです。

 

 〇 今日は妻の誕生日。娘の千里クンがケーキを持って来てくれた。86歳になった。”目出度くもあり、目出度くも無し”だ。かくいう私も後10日で88歳。米寿だ。我ながら長生きしたもんだと感心する。周りを見ると、夫婦そろって生きて居るのは見当たらない。有り難い話だ。


漁夫の利

2013年02月12日 19時33分44秒 | 十八史略

 

歩 い て 世 界 一 周  2月12(月火) 晴れ

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

        1 

16,141

11,299

 

今  月

12

199,996

139,997

16,666

今  年

43

710,541

497,379

16,524

2005年から

2,974

41,029,260

29,420,482

14,132

70歳の誕生日から

6,506

123,979,396

86,785,577

19,056

イツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 522,381m

「漁夫の利」という諺は知っていたし、その意味も判っていたが、今から2千年も前の話で、それが【燕】と【趙】とに纏わる話だとは知らなかった。漁夫というから何処かの海についての逸話だろうと思って居たが、燕・趙に関わる話だと判って取り上げることにした。

 私の通訳を良くやって呉れて居た支西君さんから電話で「河北省が”燕趙友誼章”を作って河北省に貢献された人に差し上げることになりました。先生が推薦されました。」と言ってきた。私は「中国政府から友誼章は頂きましたから辞退します。大学の卒業証書を持って居る人は高校の卒業証書は要りません。」と断ったが、飯山から河北省へリンゴの指導に行っていた塩崎さんがリックサックで”燕趙友誼章”を担いで持って来てくれた。

それで”燕趙”とは河北省の事だと判った。”燕”は北京を中心に河北省の北部、”趙”は邯鄲を中心にした河北省の南部、合わせて”燕趙”とは河北省の事なのだと知った。長野県が”信濃の国”と云うが如しだ。

     趙且伐燕。蘇代爲燕謂惠王曰、「今者臣來過易水、蚌正出曝。而鷸啄其肉。蚌合箝其喙。鷸曰、『今日不雨、明日不雨、即有死蚌。』蚌亦謂鷸曰、『今日不出、明日不出、即有死鷸。』両者不肯相舎。漁者得而并擒之。今趙且伐燕。燕趙久相支、以敝大衆、臣恐強秦之爲漁父也。願王之熟計之也」。惠王曰、「善」。乃止。

 【訓読】

趙まさに燕を伐たんとす。蘇代、燕に為りて惠王に謂ひて曰はく、「いま臣来るとき易水を過ぐ。蚌まさに出でて晒す。しかうして鷸その肉を啄む。蚌合はせてそのくちばしをつぐむ。鷸曰く、『今日雨ふらず、明日雨ふらずんば、すなはち死蚌有らん』と。蚌もまた鷸について曰く、『今日出ださず、明日出ださずんば、すなはち死鷸有らん』と。両者、相すつるをがへんせず。漁者、得て之をあはせとらへたり。今、趙まさに燕を伐たんとす。燕と趙久しく相支へ、大いに衆の敝するをもちて、臣強秦の漁父となるを恐る。願はくは、王、之を熟計也」。惠王曰わく、「善しと」。すなはち止む。

 【訳文]

趙は、今にも燕に攻め込もうとした。蘇代は趙の惠王に説いて言った、「今私が来るときに、易水で見たことです。どぶ貝が身を曝していたところ、しぎがやってきて、つついて食べようとしました。どぶ貝は貝をとじて、鴫の嘴をはさみました。鴫は貝に『今日も明日も雨が降らなければ、干からびて死んでしまうぞ』と言い、貝もそれに応え『今日も明日もものが食べられなければ、死んでしまうぞ』と言って、お互い離そうとしませんでした。そこに漁師がやってきて、ともに捕らえられてしまいました。今、趙は燕に攻め込もうとしています。長期に交戦することとなれば、両国は大いに疲弊することでしょう。ここで強国である秦が漁父となるのを私は恐れるのです。惠王さまにも、そこを熟慮願いたいものです」、と。惠王は「なるほど」といって、すぐに派兵を止めた
 

※ 今日の歩数が昨日より1歩しか多くないとは驚いた。これは奇跡だ。


燕雀安知鴻鵠之志哉

2013年02月06日 13時19分52秒 | 十八史略

 歩 い て 世 界 一 周  2月6日(水) 雪

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

        1 

16,906

11,820

 

今  月

101,540

71,078

16,923

今  年

36

612,085

428,460

16,543

2005年から

2,968

41,930,804

29,351,563

14,127

70歳の誕生日から

6,500

123,880,940

86,716,658

19,059

 イツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 591,300m

本文

 陽城人陳勝、字渉。少与人傭畊。輟畊之隴上、悵然久之曰、「苟富貴、無相忘。」傭者笑曰、「若為傭畊、何富貴也。」勝大息曰、「嗟呼、燕雀安知鴻鵠之志哉。」至是、与呉広起兵于蘄。時發閭左、戍漁陽、勝・広為屯長。会大雨道不通。乃召徒属曰、「公等失期、法当斬。壮士不死則已、死則挙大名。王侯将相、寧有種也。」衆皆従之。乃詐称公子扶蘇・項燕、称大楚。勝自立為将軍、広為都尉。

読み

 陽城の人陳勝、字は渉。少きとき人と傭畊す。畊を輟めて隴上に之き、悵然たること久しうして曰わく、「苟くも富貴とならば、相い忘るること無からん。」と。傭者笑いて曰わく、「若傭畊を為す、何ぞ富貴とならんや。」と。勝大息して曰わく、「嗟呼、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。」と。是に至りて、呉広と兵を蘄に起こす。時に閭左を發して、漁陽を戍らしめ、勝・広屯長と為る。会大雨して道通ぜず。乃ち徒属を召して曰わく、「公等期を失し、法斬に当たる。壮士死せずんば則ち已む、死せば則ち大名を挙げんのみ。王侯将相、寧くんぞ種有らんや。」と。衆皆之に従ふ。乃ち詐りて公子扶蘇・項燕と称し、大楚と称す。勝は自立して将軍と為り、広は都尉と為る。

 解釈

 陽城の人、陳勝は字を渉と言った。若いときは他の人と一緒に雇われて耕作をしていた。ある時、耕作の手を休め、畑の中の小高いところに行き、長い間嘆いた様子を見せて、こう言った。「もし金持ちで身分の高い人物になったら、あなたのことを忘れないようにしよう。」雇われ人夫はこう言った、「君は雇われて耕作などしている、どうして金持ちで身分の高い人物になれようか(、いやなれない)。」陳勝はため息をついて嘆きながら、こう言った、「ああ、ツバメやスズメのような小鳥に、どうして大鳥の志がわかろうか(、いやわからない)。」その後、呉広と蘄県で挙兵した。当時は集落の左側に住む免役者までも徴兵して、漁陽郡の守備に動員することになっており、陳渉と呉広はその前線守備隊の小隊長だった。前線へ赴く途中、たまたま大雨が降って道を通れなかった。そこで、仲間を呼んでこう言った、「あなた方は到着の期日に間に合わない、これは秦の法律では斬殺の刑に当たる。壮年のあなた方が、死にたくないのならば、ここまでである。だが、死ぬ覚悟があれば、大きな名声を得ることも可能だ。王や諸侯、将軍や宰相に、どうして血統があろうか(、いやない。今こそは我々がそうなれるチャンスだ)。」そこにいた者は、みな陳勝の言葉に従ったそこで、公子扶蘇と項燕の名を詐称し、また、国を大楚と称した。陳勝は自立して将軍となり、呉広は都尉となった。

 陳勝と呉広

 陳勝は秦末の農民反乱の指導者。陽城(河南省)の人。字(あざな)は渉。雇農の出身。前209年、呉広とともに兵を挙げ、一時は 張楚国を建てて王となったが、6か月後鎮圧された。雇農から張楚国王となった人物。すごい!


多多益々辦ず

2013年01月31日 13時06分58秒 | 十八史略

 歩 い て 世 界 一 周  1月31日(木) 快晴

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

17,068

11,948

 

今  月

31

510,545

357,382

16,469

今  年

31

510,545

357,482

16,469

2005年から

2,962

41,829,264

29,280,485

14,122

70歳の誕生日から

6,494

123,779,400

86,645,580

19,061

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 662,378m

 「多々益々弁ず」という言葉は好きではなかった。私はこの言葉を「自分考えを益々調子に乗って主張する」と解釈していたので、野党の政治家が、何か言いがかりをつけて大声で長々と我が党の主張こそ正当なりと主張している様を想像して「多々益々弁ず」と解釈していたが、私の間違えであることを知った。

 と云うのは十八史略では「練習」(一)多々益益辦 となっていて先生は「自習しなさい」と言って飛び越したし、私は真剣に読解しようとしなかった所為だ。

 高祖嘗従容問韓信諸将能将兵多少。帝曰、「如我能将幾何。」信曰、「陛下不過将十万。」帝曰、「於君何如。」曰、「臣多多益辦。」帝笑曰、「多多益辦、何以為我禽。」曰、「陛下不能将兵、而善将将。此信所以為陛下禽。且陛下所謂天授、力也。」

 高祖 嘗て従容として韓信に諸将の能く兵に将たるの多少を問う。帝曰く、「我のごときは能く幾何に将たるか。」と。信曰く、「陛下は十万に将たるに過ぎず。」と。帝曰く、「君に於いては何如。」と。曰く、臣は多多益辦ず。」と。帝笑いて曰く「多多益辦ぜば、何を以て我が禽と為る。」と。曰く陛下は兵に将たること能はざるも、善く将に将たり。此れ信が陛下の禽と為りし所以なり。且つ陛下は所謂天授にして、人力に非ざるなり。」と。

 高祖は以前、ゆったりとした様子で、韓信に諸将がどれくらいの兵力を率いる将軍となれるかを聞いた。高祖は言った、「私のような者どれほどの兵力を率いる将軍となれるか。」韓信は答えた、「陛下は十万を超える兵力を率いる将軍とはなれません。」高祖は言った、「君の場合はどうなのか。」「私の場合は、多ければ多いほどうまく処理します。」高祖は笑って言った、「多ければ多いほどうまく処理するなら、どうして私の臣下などに収まっているのだ。」「陛下は兵士を率いる将軍とはなれませんが、将軍の将軍となる技量があります。これが私、韓信が陛下の臣下となっている理由です。また、陛下の能力は、いわゆる天授のもので、単なる人間一人の能力ではないのです。」と。

 狡兔死走狗烹。飛鳥盡良弓蔵敵国破謀臣亡 

 狡兔死して走狗烹(にら)れ飛鳥尽きて弓蔵(おさ)まり、敵国破れて、謀臣亡(ほろ)ぶと。

 創業の功臣 さすがの韓信も高祖に謀反人として捕えられ一族すべて誅せられた。


韓信の股くぐり

2013年01月30日 17時23分59秒 | 十八史略

 歩 い て 世 界 一 周  1月30日(水) 小雪

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

16,559

11,590

 

今  月

30

493,477

345,434

16,446

今  年

30

493,477

345,434

16,446

2005年から

2,961

41,812,196

29,268,537

14,121

70歳の誕生日から

6,493

123,762,332

86,633,632

19,061

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 674,326m 

 十八史略 「韓信拜大将」の項に「俛出股下」があった。読んで行く中に、韓信の股くぐりの話と判った。韓信はエライ人物だということは知っていたが、詳しいことは何も覚えて居ないので、そこから調べ出した。

 淮陰人韓信、家貧、釣於城下、有漂母見信饑、信。信曰:「吾必有厚報母。」母怒曰:「大丈夫不能自食、吾哀王孫而進食、豈望報乎!」淮陰屠中少年有侮信者、因衆辱之曰「若雖長大、中情怯耳。信能死刺我;不能死、出我胯下!」信熟視之、俛出胯下、蒲伏。一市人皆笑信怯。

 韓信は淮陰の生まれで、家は貧しく、幼いときに両親を失ったそして韓信は空腹を満たすため、地元を流れる淮水という河で魚を釣っていたが、洗濯物をしていたある婆さんが、彼は腹をすかしていると知って、持参してきた弁当を彼に食わせ、このようなことが数日続いた。韓信は非常に感動して婆さんに「いつかはこの恩をちゃんと返しますからね」といった。ところが婆さんはこれを聞いて怒り出した。「あんたは男なのに自分すら養えないから、こうしてあんたに飯をあげたんだよ。始めから恩を返してもらうなんて考えてないよ」。これには韓信、顔を真っ赤にし、きっと出世して見せると心に誓った。

 韓信のふるさと淮陰には、彼を馬鹿にする若者たちがいた。ある日、一人の若者は体が大きい上に剣まで提げている韓信は実は臆病者だと思って、賑やかなところで彼の前に立ちはだかった。「お前に勇気があったら、この俺を切ってみな!臆病者なのなら、俺の股をくぐれ」という。これを見た人々は、この若者が韓信に恥をかかせようと企んでいることを知り、当の韓信がどうするかを見物していた。こちら韓信、しばらく考えていたが、やがて黙ってその若者の股の下をくぐったので、周りは「こいつは臆病者だ!」と彼を嘲り笑った。これがのちに伝わった「韓信の股くぐり」である。

 出世した韓信は、空腹の時に世話になったあの老婆を呼んで、大金を与えて感謝の意を表したという。また股くぐりをさせた青年を呼んだ。青年は復習を覚悟していると、韓信は「お前のお蔭で立ち上がることが出来た。感謝する」と言ってお礼にの金子を渡したという話も伝わっている。

 実は韓信は謀に非常に長けた人物だった。当時は時勢が変わるときだと見て取った韓信は、いつかは出世する道が開けると確信し、兵法を学び、武芸の修練に励み続けた。紀元前209年、各地では秦王朝に反抗する農民蜂起が起こり、韓信はそのうちかなりの勢力を持つ蜂起軍に加わった。この蜂起軍の首領は、漢王朝の建国皇帝劉邦だったのだ。ところで韓信、初めのころは食糧と飼料を運ぶ係りを命じられ、志を得られず、毎日くさっていたが、のちに劉邦の策士である蕭何を知り、いつも時勢や兵法を論じていたので、蕭何はこの韓信が非常に才能のある人物であることを悟り、劉邦に彼を極力推薦したが、当の劉邦は韓信を重用しようとはしなかった。

  ある日のこと、ここでは出世できないとあきらめた韓信は黙って劉邦の蜂起軍を離れ、他の蜂起軍を頼って行ったが、これを知った蕭何は、韓信を連れ戻すことを劉邦に告げず、馬に乗って韓信の後を追った。劉邦はこのことを知り、二人は逃げた思ったが、数日後に蕭何が韓信をつれて戻ってきたので大喜び。「蕭何や、どうしたのじゃ?」と劉邦は聞くと、蕭何は「あなた様のために人を追うかけていったのですよ」と答える。「これまで逃げ出した武将は数十人もいたが、その方、韓信だけを連れ戻したのはどうしてじゃ?」「これまで逃げ出したは、そこらにいるつまらん人物ばかりでしたが、韓信は得がたい奇才ですぞ。天下をお取りになさるには、韓信以外に頼れるものはおらんでしょう」。自分が信じきっている蕭何がこういうものだから、劉邦は「では、そちの下で武将をやらせよ」というと蕭何は「只の武将だけでは、韓信はここには残りますまい」と勧める。そこで劉邦は、「では、奴を大将軍にしよう」ということになり、韓信はこのときから、元の食糧飼料運びから一躍大将軍となり、その後は劉邦が天下を取る過程で、勝ち戦を続け、輝かしい手柄を立てたのである。

 韓信の大胆不敵で恐れを知らない行動に主君の劉邦も己の身の危険を感じたので、処罰されたとも言われています。不幸にも主人にまで警戒されるほど、韓信の頭脳は明晰だったのでしょうか。