続きを書きます。
だめ男子とは、朝練のさぼりと掃除のいい加減さで説明してきましたが、それは、制作にもつながりました。
美術部の活動は長いので、やる気のある生徒には自分の力を伸ばすのにこれ以上良い環境はないくらいなのですが、やる気がうせている生徒にとっては、あまりに長くて大変なのです。
それで私は、以前は工夫をして、生徒を飽きさせないようにいろいろな取り組みをしましたが、最近の生徒たちは、私があまり工夫をしなくても、絵に専念する真面目な生徒が増えたため、つい私もそれに合わせてきてしまいました。
また、私が足が悪くなってしまったことが原因で、生徒と一緒に遊んでやれなくなってしまったのも、工夫ができなくなった理由です。
以前なら、飽きると生徒を連れて利根川に散歩に行き、ドッジボールをして遊びました。また、体育館が借りられるときは、生徒を集めてバスケットをしました。
スポーツ以外では、生徒に将棋を教えたり、ギターを教えたりしました。
遊びでなくても、風景の場所を取材しようと言っては、いろいろな場所へ連れていったり、時には、ファミレスに連れて行って、なにか冷たい物でも食べようと随分御馳走もしました。
そんなことを、頻繁に行いましたが、真面目な生徒たちは、絵を描く時間が足りないとまで言いだすほどで、私が遊んでやることが、いけないかなと思わせるほどになってきました。だから、やる気のある子とない子ではギャップが激しいですね。
それと、最近はポスターやコンクールなどの挑戦をする生徒もいて、出せるコンクールは全て出すんだという意欲的な人もいて、作品作りに忙しいという状況が生まれていたのです。
だから、やりたい生徒は時間が足りないのですが、やる気のない生徒は時間を持て余しているという状態でした。
私がだめ男子などと名付けたのは、その時間を持て余している男子たちでした。
それを見た真面目な先輩たちは、頭にきてサボっている子たちに何度も注意をしました。最後は言うことをきかない男子たちに腹を立てて、パニックになり、病院騒ぎを起こした先輩もいました。
ーーーー
だから、私は、その男子たちを集めて、日曜日などは職員室で絵を描かせたこともありました。私が仕事があるので、職員室にいなければならないので、私のいる部屋で描かせたのです。職員室では騒ぐわけにはいきません。しかも私のいるところで描くのですから、無駄口一つできません。
そんなことをやらなければならない状態でした。
しかし、いくらだめといっても、県展までには絵を仕上げます。だめ男子4人の内、3人は県展に入選しています。
だから、他の学校のだめな部員とはわけが違います。他の学校の美術部の顧問が聞いたら、どこがだめなの?と言うかもしれません。あれだけの絵を描いていてだめなの?と。
私は一番だめな子でも、県展に出品するところまで持っていくのは、私の責任だと思っています。いくらだめでも連れていく。見捨てているわけではないということです。私がだめと言っているのは、ハートの問題だからです。
ーーーーーー
本当は、Hくんのことを書きたいのです。
私がだめ男子などという名前をつけた原因はこのHくんがいたからです。
このやろうと思うことがたくさんありました。
朝練習、掃除、制作態度など、どれもが該当してしまう生徒でした。それと、初めに話した併願で来たということもあり、本庄第一高校のやりかたに素直に従えない部分もあったのだろうと思います。
だから、何かというと私はHくんのだめさを例に挙げていたと思います。
しかし、そうは言っても、見放してはいなかったのです。
実は、八木橋で展覧会を開いたときに、彼の絵をほしいと言ってくれた人がいました。県展には落ちてしまったのですが、彼の絵が一番いいと言ってくれて、売ってほしいというのです。
私は、彼の絵をそこまでいいと言ってくれる人がいたことに感激して、彼にメールで知らせました。そして、少なくとも30万以下では売るなよと冗談みたいに話したことを思い出します。
彼はとても喜びました。見に来ていい絵ですねという人は多いけれど、お金を出してまでほしいという人はなかなかいない。だから、それはすごいことだぞといってやりました。
いままで、私が声をかけると、いやそうな顔をすることが多かった彼が、私がかけた言葉で嬉しそうな顔をした数少ない経験でした。なぜなら、叱られることばかりで、ほめられるようなことが無かったからです。
ーーーー
その後、まただめな状態が続くのですが、三年生のある時期に他の部員からこのような話を聞きました。
「先生、Hくんがね、最近変わってきたんですよ。掃除の時なんか、ここやらなくていいのと聞くようになったんです」と。
「ほうう、そうか、それはいいことを聞いた、どうも有難う」と私はその生徒に言いました。
それは、中学生作品コンクールの準備の時でした。私は、もう休職していて、たまたま審査や飾り付けを手伝いにきていたのでした。
そこで、その話を聞いたので、姿を見つけて、声をかけました。
「まあ、そこへ座れよ。」と私は言いました。
急に声をかけられた彼は、少し躊躇するようなしぐさをしながら、また、何か叱られるのではないかと、身構えているようでした。
「最近、お前が変わってきたとある女子部員から聞いたぞ」と私は言いました。
彼は、「何て?ですか」と問い返しました。
今までの彼なら、人が自分のことをなんと言おうが関係ないと開き直るかもしれないという可能性を私は考えたのですが、そのときの彼は、私のその言葉に興味を持ったようでした。
それで、「お前が、掃除を一生懸命するようになったと聞いたよ」と言いました。
彼は、少し照れたように、「そうですか、そんなでもないですけど」と返しました。
私は、「自分ではわからないかもしれないけど、お前の中の何かが、変わってきているのかもしれないぞ」と言いました。
そして、「まあ、少なくとも、そんなお前をきちんと見ていてくれる仲間がいることはうれしいことだな」と話しました。
そして、「先生はな、実は、そういう話は一番うれしいんだよ。展覧会に入選したという話も嬉しいけど、それよりももっと嬉しい」と付け足しました。
「ここは、もしかしたらチャンスかもしれないぞ、人は気持ち次第でいくらでも変われるんだからな」と話しました。
ーーーーー
この時は、それだけ話しました。
そして、幾日か経って、美術室を訪ねたとき、彼がいたので、次の言葉をかけました。私はときどきこのような手を使います。
「おい、Hくん、ちょっと来てみ」と呼びました。
「あのな、お前はこの美術部の中では、一番才能がある人間なんだよ、それなのに県展に2回とも落ちちゃっただろ、それはな、お前のハートの問題なんだ。いいか、この間も言ったけど、いま、お前の中の何かが変わろうとしているようだから、ここがチャンスだと思うんだ。今度、麓原展があるだろ?そこで、これがHだという絵を描いて見せてみろ。みんなが、あっと驚く絵を描いて見せてやれ!」と私は、言いました。実は、周りに他の部員がいましたが、私はわざと耳打ちして、こそこそとその言葉を囁きました。
彼は、私と内緒話をしている状態をみんなに見られているので、少し照れながら、しかし、嬉しそうに聞いていることがわかりました。
私のしたことは、それだけでした。
そして、次に彼のことを気にかけたのは、麓原展の審査の後でした。
彼の絵が特選になったのです。私は、彼がどんな絵を描いたのか知りませんでした。審査が終わってみて、初めてその絵が彼の絵だとわかりました。
私は、審査員です。私は知らないで、彼の絵に投票していました。
その後、顧問の竹内先生に聞く話では、Hくんがある日から急に変わったとのことでした。
振り返ってみれば、私が声をかけたその日辺りからでした。普段なら我先と帰っていく彼が、残って描いて行っていいですかというようになったのだそうです。
また、家にも絵を持ち帰って、夜中まで描いたりしたそうです。
今回のこの絵にかける彼の取り組みは周りの者が目を見張るものがあったということです。
「へええ、そうでしたか」と私も驚き、声をかけて良かったと思いました。
後日談ですが、彼の心に火をつけたのは、やはり私の一言だったようです。彼自身が語りました。あのとき、声をかけてもらわなかったら、ここまで頑張れなかったと思うと。
そして、有難うございましたと言ったのです。私は涙が出そうでした。
だめ男子なんて言って悪かったなと思いました。
言いませんでしたが。
よく、教師の一言が子供を変えたというような話を聞きます。もし、私の一言が彼を変えたのなら、それに該当するかなと思いました。
でも私は、ただちょっと声をかけただけなのです。きちんと面倒を見てくれたのは、顧問の竹内先生です。竹内先生の指導がなければ、彼もあの絵はできなかったでしょう。
ただ、もうひとつ面白いのは、彼が本庄第一高校に来て良かったと何度も言いだしたことでした。お母さんが麓原展に来て、開口一番に言ったことは、そのことでした。
「先生、内のがね、本庄第一高校へ来て、本当に良かったと言ってるんですよ」と。
実はお母さんは、本庄第一は内の子には向いてないのかなと思っていて、進路を間違ったかなと感じていたというのです。それは、彼が1年生のときでした。保護者会でお母さんがそのように発言したのです。
それを聞いた他の保護者が、そんなことはないですよ、3年間いればわかりますからと、いろいろ声をかけてあげたことを思い出します。
顧問の私は、よくわかりもしないのに、生意気なことを言う保護者だなと少し腹が立っていました。
そして、こんなとき思うのは、よし、それなら、お母さんに本庄第一へ入れて良かったと絶対言わせてやるぞと、いうことでした。
それが、今回叶ったことになります。
しかし、お母さんの発言は、その後の彼の様子を見ていると、時間が経てば経つほど、だめになっていき、お母さんの言うことが当たりだなとさえ思う日々でした。
それが、どうでしょう。ここへきて、大どんでん反しです。
Hくん本人が、来て良かったと言いだしたのです。
実は私は、彼が特選と決まった日に、彼にメールを入れました。
今回頑張れたのは、誰のお陰だ?一番感謝しなければならない人は誰だ?と。
すると、彼は、「先生です」と答えました。
だから、私は、「違うだろ、お母さんだろ」と言いました。
「一回でいいから、お母さん、有難うと言うんだな、今回の結果を一番喜んでくれているのはお母さんなんだから」と。
無理に思ってもいないことを言う必要はないけど、もし、お前がそう思うなら、お母さんに、本庄第一へ来たことを後悔してないよと言ってやれよ、お母さんは、間違いだったかもしれないと言ってたんだから。お母さんの本音は、どこであっても、お前が自分を生かせるように生きてほしいということだと思うよ。と。
私は彼から、聞いた言葉の中で、一年生の時のことが気になっていました。
自分は男兄弟の末っ子で、二人のお兄さんたちはかわいがられて育ったのに、俺だけ虐げられて来たんだと言っていたのです。
お母さんに聞いてみると、そんなことはなく、むしろかなり力を入れて面倒をみてきたのだと聞きました。
どちらが、本当かは、私にはわかりませんが、少なくとも一番心配して応援してくれているのは、お母さんなんだから、今は、有難うというチャンスだろうと話しました。
でも、このことで、Hくんは変わりました。
送別会での、彼の挨拶は、忘れられません。
「おれ、一体今まで何をしていたんだろうと思います。時間を無駄にしていた。だから、卒業したくありません。もっと、ここで学びたいです」だった。
一年からもう一度やり直したいとも言ったかもしれない。
その言葉通り、彼は卒業しても絵を描いています。県展にも高校時代に描いた絵が入選しました。その後の県北展でも入選して、お母さんと一緒に見学に来ていました。卒業したらなかなか描かなくなってしまう生徒が多い中、彼は言葉通り、絵を続けて学んでいます。
これは、サクセスストーリーになりました。
だめ男子の冗談みたいな話から、ちょっと感動的なドラマになったと思います。
この学年は、そのだめ男子がみんな良くなります。本当に気持ちの良い送別会になりました。それは、真面目な女子がいたからです。そのことも忘れられません。
そして、だめだといいつつ、良いところを見て報告してくれた仲間がいたからでもあるのです。
よく、学園ドラマがありますが、一つ一つの問題が1時間以内に解決します。しかし、現実はそんなに簡単ではありません。このHくんのように3年間かけて、一つのことを教えるのです。とても簡単なドラマにはなりませんね。
だめ男子とは、朝練のさぼりと掃除のいい加減さで説明してきましたが、それは、制作にもつながりました。
美術部の活動は長いので、やる気のある生徒には自分の力を伸ばすのにこれ以上良い環境はないくらいなのですが、やる気がうせている生徒にとっては、あまりに長くて大変なのです。
それで私は、以前は工夫をして、生徒を飽きさせないようにいろいろな取り組みをしましたが、最近の生徒たちは、私があまり工夫をしなくても、絵に専念する真面目な生徒が増えたため、つい私もそれに合わせてきてしまいました。
また、私が足が悪くなってしまったことが原因で、生徒と一緒に遊んでやれなくなってしまったのも、工夫ができなくなった理由です。
以前なら、飽きると生徒を連れて利根川に散歩に行き、ドッジボールをして遊びました。また、体育館が借りられるときは、生徒を集めてバスケットをしました。
スポーツ以外では、生徒に将棋を教えたり、ギターを教えたりしました。
遊びでなくても、風景の場所を取材しようと言っては、いろいろな場所へ連れていったり、時には、ファミレスに連れて行って、なにか冷たい物でも食べようと随分御馳走もしました。
そんなことを、頻繁に行いましたが、真面目な生徒たちは、絵を描く時間が足りないとまで言いだすほどで、私が遊んでやることが、いけないかなと思わせるほどになってきました。だから、やる気のある子とない子ではギャップが激しいですね。
それと、最近はポスターやコンクールなどの挑戦をする生徒もいて、出せるコンクールは全て出すんだという意欲的な人もいて、作品作りに忙しいという状況が生まれていたのです。
だから、やりたい生徒は時間が足りないのですが、やる気のない生徒は時間を持て余しているという状態でした。
私がだめ男子などと名付けたのは、その時間を持て余している男子たちでした。
それを見た真面目な先輩たちは、頭にきてサボっている子たちに何度も注意をしました。最後は言うことをきかない男子たちに腹を立てて、パニックになり、病院騒ぎを起こした先輩もいました。
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だから、私は、その男子たちを集めて、日曜日などは職員室で絵を描かせたこともありました。私が仕事があるので、職員室にいなければならないので、私のいる部屋で描かせたのです。職員室では騒ぐわけにはいきません。しかも私のいるところで描くのですから、無駄口一つできません。
そんなことをやらなければならない状態でした。
しかし、いくらだめといっても、県展までには絵を仕上げます。だめ男子4人の内、3人は県展に入選しています。
だから、他の学校のだめな部員とはわけが違います。他の学校の美術部の顧問が聞いたら、どこがだめなの?と言うかもしれません。あれだけの絵を描いていてだめなの?と。
私は一番だめな子でも、県展に出品するところまで持っていくのは、私の責任だと思っています。いくらだめでも連れていく。見捨てているわけではないということです。私がだめと言っているのは、ハートの問題だからです。
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本当は、Hくんのことを書きたいのです。
私がだめ男子などという名前をつけた原因はこのHくんがいたからです。
このやろうと思うことがたくさんありました。
朝練習、掃除、制作態度など、どれもが該当してしまう生徒でした。それと、初めに話した併願で来たということもあり、本庄第一高校のやりかたに素直に従えない部分もあったのだろうと思います。
だから、何かというと私はHくんのだめさを例に挙げていたと思います。
しかし、そうは言っても、見放してはいなかったのです。
実は、八木橋で展覧会を開いたときに、彼の絵をほしいと言ってくれた人がいました。県展には落ちてしまったのですが、彼の絵が一番いいと言ってくれて、売ってほしいというのです。
私は、彼の絵をそこまでいいと言ってくれる人がいたことに感激して、彼にメールで知らせました。そして、少なくとも30万以下では売るなよと冗談みたいに話したことを思い出します。
彼はとても喜びました。見に来ていい絵ですねという人は多いけれど、お金を出してまでほしいという人はなかなかいない。だから、それはすごいことだぞといってやりました。
いままで、私が声をかけると、いやそうな顔をすることが多かった彼が、私がかけた言葉で嬉しそうな顔をした数少ない経験でした。なぜなら、叱られることばかりで、ほめられるようなことが無かったからです。
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その後、まただめな状態が続くのですが、三年生のある時期に他の部員からこのような話を聞きました。
「先生、Hくんがね、最近変わってきたんですよ。掃除の時なんか、ここやらなくていいのと聞くようになったんです」と。
「ほうう、そうか、それはいいことを聞いた、どうも有難う」と私はその生徒に言いました。
それは、中学生作品コンクールの準備の時でした。私は、もう休職していて、たまたま審査や飾り付けを手伝いにきていたのでした。
そこで、その話を聞いたので、姿を見つけて、声をかけました。
「まあ、そこへ座れよ。」と私は言いました。
急に声をかけられた彼は、少し躊躇するようなしぐさをしながら、また、何か叱られるのではないかと、身構えているようでした。
「最近、お前が変わってきたとある女子部員から聞いたぞ」と私は言いました。
彼は、「何て?ですか」と問い返しました。
今までの彼なら、人が自分のことをなんと言おうが関係ないと開き直るかもしれないという可能性を私は考えたのですが、そのときの彼は、私のその言葉に興味を持ったようでした。
それで、「お前が、掃除を一生懸命するようになったと聞いたよ」と言いました。
彼は、少し照れたように、「そうですか、そんなでもないですけど」と返しました。
私は、「自分ではわからないかもしれないけど、お前の中の何かが、変わってきているのかもしれないぞ」と言いました。
そして、「まあ、少なくとも、そんなお前をきちんと見ていてくれる仲間がいることはうれしいことだな」と話しました。
そして、「先生はな、実は、そういう話は一番うれしいんだよ。展覧会に入選したという話も嬉しいけど、それよりももっと嬉しい」と付け足しました。
「ここは、もしかしたらチャンスかもしれないぞ、人は気持ち次第でいくらでも変われるんだからな」と話しました。
ーーーーー
この時は、それだけ話しました。
そして、幾日か経って、美術室を訪ねたとき、彼がいたので、次の言葉をかけました。私はときどきこのような手を使います。
「おい、Hくん、ちょっと来てみ」と呼びました。
「あのな、お前はこの美術部の中では、一番才能がある人間なんだよ、それなのに県展に2回とも落ちちゃっただろ、それはな、お前のハートの問題なんだ。いいか、この間も言ったけど、いま、お前の中の何かが変わろうとしているようだから、ここがチャンスだと思うんだ。今度、麓原展があるだろ?そこで、これがHだという絵を描いて見せてみろ。みんなが、あっと驚く絵を描いて見せてやれ!」と私は、言いました。実は、周りに他の部員がいましたが、私はわざと耳打ちして、こそこそとその言葉を囁きました。
彼は、私と内緒話をしている状態をみんなに見られているので、少し照れながら、しかし、嬉しそうに聞いていることがわかりました。
私のしたことは、それだけでした。
そして、次に彼のことを気にかけたのは、麓原展の審査の後でした。
彼の絵が特選になったのです。私は、彼がどんな絵を描いたのか知りませんでした。審査が終わってみて、初めてその絵が彼の絵だとわかりました。
私は、審査員です。私は知らないで、彼の絵に投票していました。
その後、顧問の竹内先生に聞く話では、Hくんがある日から急に変わったとのことでした。
振り返ってみれば、私が声をかけたその日辺りからでした。普段なら我先と帰っていく彼が、残って描いて行っていいですかというようになったのだそうです。
また、家にも絵を持ち帰って、夜中まで描いたりしたそうです。
今回のこの絵にかける彼の取り組みは周りの者が目を見張るものがあったということです。
「へええ、そうでしたか」と私も驚き、声をかけて良かったと思いました。
後日談ですが、彼の心に火をつけたのは、やはり私の一言だったようです。彼自身が語りました。あのとき、声をかけてもらわなかったら、ここまで頑張れなかったと思うと。
そして、有難うございましたと言ったのです。私は涙が出そうでした。
だめ男子なんて言って悪かったなと思いました。
言いませんでしたが。
よく、教師の一言が子供を変えたというような話を聞きます。もし、私の一言が彼を変えたのなら、それに該当するかなと思いました。
でも私は、ただちょっと声をかけただけなのです。きちんと面倒を見てくれたのは、顧問の竹内先生です。竹内先生の指導がなければ、彼もあの絵はできなかったでしょう。
ただ、もうひとつ面白いのは、彼が本庄第一高校に来て良かったと何度も言いだしたことでした。お母さんが麓原展に来て、開口一番に言ったことは、そのことでした。
「先生、内のがね、本庄第一高校へ来て、本当に良かったと言ってるんですよ」と。
実はお母さんは、本庄第一は内の子には向いてないのかなと思っていて、進路を間違ったかなと感じていたというのです。それは、彼が1年生のときでした。保護者会でお母さんがそのように発言したのです。
それを聞いた他の保護者が、そんなことはないですよ、3年間いればわかりますからと、いろいろ声をかけてあげたことを思い出します。
顧問の私は、よくわかりもしないのに、生意気なことを言う保護者だなと少し腹が立っていました。
そして、こんなとき思うのは、よし、それなら、お母さんに本庄第一へ入れて良かったと絶対言わせてやるぞと、いうことでした。
それが、今回叶ったことになります。
しかし、お母さんの発言は、その後の彼の様子を見ていると、時間が経てば経つほど、だめになっていき、お母さんの言うことが当たりだなとさえ思う日々でした。
それが、どうでしょう。ここへきて、大どんでん反しです。
Hくん本人が、来て良かったと言いだしたのです。
実は私は、彼が特選と決まった日に、彼にメールを入れました。
今回頑張れたのは、誰のお陰だ?一番感謝しなければならない人は誰だ?と。
すると、彼は、「先生です」と答えました。
だから、私は、「違うだろ、お母さんだろ」と言いました。
「一回でいいから、お母さん、有難うと言うんだな、今回の結果を一番喜んでくれているのはお母さんなんだから」と。
無理に思ってもいないことを言う必要はないけど、もし、お前がそう思うなら、お母さんに、本庄第一へ来たことを後悔してないよと言ってやれよ、お母さんは、間違いだったかもしれないと言ってたんだから。お母さんの本音は、どこであっても、お前が自分を生かせるように生きてほしいということだと思うよ。と。
私は彼から、聞いた言葉の中で、一年生の時のことが気になっていました。
自分は男兄弟の末っ子で、二人のお兄さんたちはかわいがられて育ったのに、俺だけ虐げられて来たんだと言っていたのです。
お母さんに聞いてみると、そんなことはなく、むしろかなり力を入れて面倒をみてきたのだと聞きました。
どちらが、本当かは、私にはわかりませんが、少なくとも一番心配して応援してくれているのは、お母さんなんだから、今は、有難うというチャンスだろうと話しました。
でも、このことで、Hくんは変わりました。
送別会での、彼の挨拶は、忘れられません。
「おれ、一体今まで何をしていたんだろうと思います。時間を無駄にしていた。だから、卒業したくありません。もっと、ここで学びたいです」だった。
一年からもう一度やり直したいとも言ったかもしれない。
その言葉通り、彼は卒業しても絵を描いています。県展にも高校時代に描いた絵が入選しました。その後の県北展でも入選して、お母さんと一緒に見学に来ていました。卒業したらなかなか描かなくなってしまう生徒が多い中、彼は言葉通り、絵を続けて学んでいます。
これは、サクセスストーリーになりました。
だめ男子の冗談みたいな話から、ちょっと感動的なドラマになったと思います。
この学年は、そのだめ男子がみんな良くなります。本当に気持ちの良い送別会になりました。それは、真面目な女子がいたからです。そのことも忘れられません。
そして、だめだといいつつ、良いところを見て報告してくれた仲間がいたからでもあるのです。
よく、学園ドラマがありますが、一つ一つの問題が1時間以内に解決します。しかし、現実はそんなに簡単ではありません。このHくんのように3年間かけて、一つのことを教えるのです。とても簡単なドラマにはなりませんね。