先ほど、須永博士からの電話での内容には、その前の話がありました。
電話がかかってきて最初に
「今、最大の詩人としての、𠮟責というよりも、間違えをしていたことに気づいた。」
と。
なに?と思ったら
「今、ここまで長い79年だったけど、しょうこに言ってもらったなぁと。
考え違いをしていた。
読んでくれる人のことを考えて、字を間違えちゃいけない、きっちりと書かなくちゃいけない、
昔はフリーで自由気ままに書いていたんだけど
今も、そう書いているんだけど、原稿に書き直すと、
それでいいと思っていたけれど
規格通りに書いたものはおもしろくない
読んだ人は、なんか、もっと・・・
自然体を感じられない
規格通りのものでおもしろくないなと気づいた。
朝から、「生きている」の原稿書いていて、それを読み返したら
規格通りにきちんと書こうと意識してたのが、
読みにくいことに気づいた。
ずっと間違っていたなぁと感じた。
それに気づけて、良かった良かった。」
と、明るい声で話していました。
私からしたら、「間違い」ではないけれど、昔の詩は、なんだかほっとして、いいなぁ~~
でも、最近届く詩は、きれいにそろっていて、字の間隔がぎゅっと詰まっていて、
なんとなく活字のように綺麗に書いてあるのが、なんだろう、読んだときに伝わり方が違うんですよね・・・
そんなことを、これから原稿を書く時のお願い・・・という感じでファックスしていて、
それに対して須永博士からの電話でした。
それから、さっきのブログでも書いた
「私が詩を書く原点は、
生きることを、正当に、誠実にを主体にしている。
でもその、正しいってことが人それぞれある。
時に、周りから見たらそれは違うよ、やめたほうがいいよ
と言われることもあるだろう
周りに迷惑はかけたくないけれど、自分の思いや信念を、良いものは良い、悪いものは悪い
おもしろいものはおもしろい、おもしろくないものはおもしろくないと言いたい。」
につながりました。
自分で方向修正を柔軟にしていくこと・・・も大切だなぁ・・・
そんなことを思いながら、ご注文のポストカードを準備しながら一覧リストを見ていて、
須永博士の原点、伝えたいこと、感じてきたことがその詩にたくさん現れていることに気づきました。
↑ポストカード、たくさんの種類があります。