郷が杜備忘録

旅行や読書と日々の行動の記録。
日常のできごとや思い出の写真が中心。 たまに旅行の記事も投稿します!

徳島城

2021-07-29 | 

徳島城跡(2012年9月撮影)

天守はないので、石垣だけ。

この時は、琴平方面から阿波池田乗り換えで、JR徳島線を使って徳島市入りをした。

この後、高松によって岡山経由で新幹線で帰る予定だったので、時間がなかった。

徳島城跡はJR徳島駅の反対側にあったので、JR牟岐線沿いに歩いて、NHKの先の

線路の横断橋を渡って城跡に入った。

正門の鷲の門。平成元年に復元されたという。

徳島県には、ここしか行ったことがないので、今後淡路島を通って、大鳴門橋を渡って行ってみたい。

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小田原城

2021-06-30 | 

小田原城(2002年2月撮影)

所在地     神奈川県小田原市城内6-1

城の種別    平山城

築城者     大森氏

築城年     15世紀中頃

歴代城主    北条氏・大久保氏(4万5千石)・阿部氏(5万石)・稲葉氏(8万5千石)・大久保氏(11万3千石)

遺構                 総構の空堀等9㎞のうち3.5㎞、三の丸の一部と二の丸以内(史跡)    

天守閣の構造  鉄筋コンクリート造、本瓦葺3層4階、地下1階

天守から見た眺望

 

小田原駅方面を望む

小田原城は、15世紀中頃に西相模を領した大森氏の居城がその前身である。

明応4年(1495)頃、北条早雲が入城してから本格的な築城が始まり、その後北条5代96年の間、

関八州支配の拠点として巨城に築き上げられていった。

しかし天正18年(1590)4月豊臣秀吉の大軍に攻められ、7月9日開城した。

その後徳川家康の家臣大久保忠世を城主に迎え、ついで阿部氏、稲葉氏をへて再び大久保氏が入った。

現在の天守閣は昭和35年に復興されたものである。

 

小田原城は過去に3度地震で破損している。

1633年 大地震発生、小田原城大破

1703年 大地震発生、小田原城大破。天守、櫓等倒壊。

明治維新により1870年(明治3年) 小田原城廃城、天守・櫓等は売却、解体撤去

1923年 関東大震災で、石垣など破損、二の丸隅櫓倒壊

 

小田原城は難攻不落と言われ過去2度の攻撃を籠城戦で撃退していた。

1度目は永禄4年(1561)上杉謙信に攻められたが籠城戦で守り抜いた。

2度目は永禄12年(1569)武田信玄の攻撃も撃退した。

ただ3度目の豊臣秀吉天下統一を目の前にした攻撃には敵わず全面降伏で屈した。

この時の石垣山一夜城は有名である。 

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吉田城(豊橋市)

2021-06-28 | 

吉田城(2002年2月撮影)

豊橋市の豊橋公園内にある。

永正2年(1505)牧野古白が築き、池田輝政が拡大した。

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岡崎城

2021-06-22 | 

岡崎城(2002年2月撮影)

所在地    愛知県岡崎市康生町561

城の種別   平山城

築城者    西郷頼嗣(稠頼)

築城年    康正元年(1455)頃

歴代城主   西郷氏・松平氏・田中氏‣本多氏・水野氏・松平氏・本多氏

遺構     石垣、堀

天守閣の構造 鉄筋コンクリート3層5階(復興天守)(昭和34年再建) 

15世紀の半ば、三河守護代西郷頼嗣によって築かれた岡崎城は、享禄4年(1531)に松平清康の本城になった。

孫の家康はこの城で生まれ、天下統一の基礎を築いた。

 

天守閣の前には、東照公遺訓碑が立っている。

織田氏、今川氏の人質時代を経て、桶狭間の戦い後、岡崎城に帰って三河の平定にあたり、

武田氏との抗争、信長との連合、本能寺の変後は秀吉との戦いと和睦と苦労を重ねた家康公は、

秀吉の死後、関ヶ原の戦いで勝利、征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。

その遺訓は、苦労を重ねただけに重みがあるものです。

じっくり読んで、座右の銘にしたい言葉です。

天下を治め、250年以上続く時代を作った創業者の偉大さが伝わってきます。

神橋 ↓

 

 

 

 

 

 

 

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鳥取城

2021-06-12 | 

時期が少しずれてしまいましたが、2013年4月の写真です。

米子での会議の帰り、鳥取市に途中下車し鳥取城を見に行きました。

ちょうど桜の時期で、花見のお客様もたくさんいました。

鳥取城は、豊臣秀吉に攻められたりしているので、今は天守がありません。

巨大な石垣だけが残されていました。

 

北御門から入っていきます。

通りの両側には、露店も出ていました。

左側のお堀です。桜もほぼ満開でした。

右側のお堀です。中ノ御門、南御門のほうに続いています。

仁風閣(じんぷうかく)です。明治40年に建てられました。フレンチルネッサンス様式の洋館です。

二の丸への坂道を上がっていきます。仁風閣が別の角度から見れます。

今来た通路と鳥取市内が見渡せます。

帰りは鳥取駅から特急「スーパーはくと」に乗り、新大阪で新幹線に乗りかえて帰りました。

鳥取城址は、中世城郭と近世城郭という二つの性格の異なる遺跡で構成されています。

天正9年(1581年)には、豊臣秀吉の鳥取侵攻により、吉川経家が籠城、秀吉の兵糧攻め

により、経家は自刃し鳥取城は落城しました。

その後宮部継潤、池田長吉、光政をへて、鳥取池田家の光仲に継承され幕末まで続きました。

 

いただいてきたパンフレットです。

 

 

 

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