2010年、長崎出張の帰り、佐賀市に立ち寄った。
JR佐賀駅からタクシーで佐賀城跡に立ち寄り、大隈記念館に向かった。
記念館の隣に大隈重信旧宅(生家)があった。
生家の前に、大隈重信の銅像が立っていた。
大隈重信は世界的政治家として、また早稲田大学の創設者として知られる。
大隈重信誕生の地の記念碑
大隈重信は、天保9年(1838)この生家で生まれ、この生家は国の史跡にも指定されている。
大隈は日本初の政党内閣を組閣、早稲田大学の創始者で、佐賀の七賢人の一人でもある。
他の6人は副島種臣、鍋島直正、江藤新平、島 義武、大木喬任、佐野常民である。
大隈は、明治元年徴士として政府に召し出され、外国事務局判事となって長崎に勤務する。30歳であった。
翌月、イギリス公使パークスと論争して名を上げたという。12月外国官副知事となる。
明治2年大蔵大輔、明治3年参議、明治6年大蔵卿となる。
明治14年国会開設問題で伊藤博文と対立、10月政変により参議を辞任する。
明治15年立憲改進党を結成し、その総理となる。東京専門学校(のちの早稲田大学)を開校する。
明治21年外務大臣となり、条約改正に取り組む。
明治22年玄洋社員来島恒喜に爆弾を投げられて負傷し、右足を切断する。
明治31年憲政党を結成、第一次大隈内閣をつくる。(日本初の政党内閣)
大正11年1月10日死去、84歳、日比谷で盛大な国民葬が行われた。