帰り道の畑の上を、カラスよけ?でしょうか、カイト(凧)が飛んでいました。
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先日投稿した記事の続き
松本健次郎についてである。
松本健次郎は近代石炭産業の功労者と言われている。松本は1870年に安川敬一郎の次男として福岡市に生まれている。
父の安川敬一郎は慶應義塾に学び、炭鉱事業家として財を成した人物である。
養子縁組をして松本姓となった。1891年、米国に留学、ペンシルバニア大学に入学、1893年に帰国して、翌年日清戦争に出征している。
1904年に日露戦争のために召集され大本営付となっている。そのとき米国からの観戦武官として来日したアーサー・マッカーサー中将一行
を満州に通訳として案内した。のちのGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーの父親である。
1905年、健次郎は再び満州行きを命じられた。米国鉄道王E・Hハリマン一行の満州視察の案内役であった。
この時日本の桂内閣は1億円の資金提供と引き換えにハリマンによる満州鉄道の共同経営権取得を認める覚書にサインしていたのである。
その覚書を強引に破棄させたのは外相小村寿太郎であった。この時陰で動いたのが松本健次郎であった。
ハリマンの計画をつぶしたことが日本にとっていかなる意味をもったかを評価することは難しい。
日露戦争後、健次郎は産業人として本格的に活動を始めた。
明治鉱業に加え、明治紡績、安川電機製作所、黒崎窯業、九州製鋼、九州水力電気などの会社を興し、社長を務めた。
さらに技術者教育に熱心であり、明治専門学校を設立したという。今日の九州工業大学の前身である。
骨太な明治の産業人の典型が、松本健次郎であった。
戦前は財界要職や貴族院議員も務めたため、戦後はGHQに公職追放となった。追放指定解除後は、経団連や日経連の顧問となった。
1963年、東京の自宅で92歳の生涯を閉じた。
寺島実郎氏の父は、明治鉱業に就職し筑豊の赤池鉱業所に配属されたのが1938年、陸軍軍人として軍役につき、終戦後明治鉱業に復帰した。
1947年、父は北海道雨竜郡沼田町の明治鉱業・昭和鉱業所に転勤となり、その昭和鉱業所で生まれたのが、寺島実郎氏であった。
父の転勤に伴い、実郎氏も北海道~九州~北海道と転校を繰り返したという。
この節で私が気になったのは、松本健次郎氏のことよりも、米国鉄道王E・Hハリマンとの覚書の破棄であった。
桂内閣のこの政策の破棄がその後の日米関係にどのような意味があったのか、なかったのか?
1905年の日露戦争終了後の時点での、東アジアへの英、米、独、仏、露などの進出と日本の関係、
その辺のことがもっと知りたくなった。