人生を生きる上において、人間とは何か? 自分とは何か? は誰もが一度は考えることであり、またわかることなら誰もが知りたいと思っていることではないかと思う。以下は、谷口雅春先生の著書から抜書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。(と言っても、さわりの部分だけですが)
○宗教というものは、決して死後のみの問題をとりあつかうのではなく、「生命」の問題をとりあつかうべきものである。それが死後の問題をとりあつかうかの如く見えているのは、死後にも「生命」が存続するからであって、しかも死後存続する「生命」はその働きが肉体のように可視的でないが故に、科学者の対象となることができないで、その結果宗教家のとりあつかう対象になったにすぎないのである。
○人間の本質は生命である。しからばその「生命」を此処にだしてみせてくれといわれても、それをみせるわけには行かないのである。吾々が目に視ることができるのはその働きだけであるのである。「自分」とは何であるか。それは決して肉体ではないのである。肉体に於いて働いている所の不可視なる「生命」そのものである。しかしそれは不可視であるが故に、多くの人間は「肉体」を自分自身だと思いあやまる。そして顛倒妄想(てんどうもうそう)に陥るのである。即ち人間は肉体ではないのに、顛倒(さかさま)の想いを起こして、肉体であると思い、目にみえない「生命」であるのに、それに気づかないのである。
○宗教家の第一眼目は、ソクラテスの「汝自らを知れ」の箴言に始まるのである。仏教に於ける覚者とは「自分」自らが何であるかを悟った所の人であるのである。キリストは「自分」みずからを「神の子」として悟った所の人であったのである。そしてキリストは、「吾を信ずるものは、吾より大いなる業をなさん」と教えているのである。そして多くの奇跡を生活に実践したのである。『般若心経』には、「顛倒夢想を遠離すれば恐怖なし」と書かれているのである。最も恐れないでいられる人は自分自らの本質を知る所の人であるのである。自己みずからを肉体であると思う者は、肉体は、老い、病み、傷つき、滅びるものであるが故に、恐れざるを得ないのである。これに反して、自己を「生命」と観ずるものは、「生命」は老い、病み、傷つき、滅びることなきものであるが故に、恐れるということはないのである。