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気の向くままに

山、花、人生を讃える

松から誌友会開催へと化けた話、そして我が家の奇跡

2011年12月03日 | 信仰
剪定では何といっても松だが、シルバーの仕事で時間の余裕がある時には、松の剪定をさせてもらっている。
が、これは数をこなさないことにはなかなか早く出来ないし、うまくも出来ない。うまく出来ないと、うまくなりたいと願うのは人情である。

練習用に自分の家に松を植えるのもひとつの方法だが、話はそう簡単ではない。
なんでもお宮さんの神様が松を嫌うとの昔からの言い伝えがあり、我がにはお寺さん以外は松を植えていない。

「誰か練習で松を剪定させてくれる人はいないかなあ」
と思っていたら、願ってもない話が飛び込んできた。

近くに住む白鳩のAさんから家内に、「○○さん(わたしの事)に剪定してもらいたい」との話があったらしく、家内は「主人は、松はまだ練習中だから・・・」と云うと、「それでいいからお願いしたい」とのこと。

それで実際に見に行くと、玄関脇に立派な松が・・・。
こんな立派な松を自分が剪定して台無しにしてしまってはと怖気づいたが、再度、「自分はまだ練習中だけどやらせてもらっていいですか?」と念を押すと、「是非お願いします」とのことだったので、思い切ってやらせてもらうことにした。

このAさんは、御主人が退職後、患って身体が不自由らしいのだが、それでも明るく、元気溌剌オロナミンCで大活躍しておられる素晴らしい人なので、わたしも大船に乗った気持ちでやらせてもらうことにした。

その松にはまだ手をつけず、他の木からとりかかっているのだが、いくら時間がかかってもいいし、好きな時に来てやってもらえばいいとのことなので、時間や早い遅いなど気にせず、小さな枯枝を一つ一つ落としながら気のすむようにやらせてもらっている。そうすると、夜(6時)、合掌し眼を閉じたまま聖経を読誦しているときには、小さな一枝一枝がひとりでに瞼に浮かんでくる。このぐらい夢中になれると充実感があって気持ちがよい。

さて、こうして剪定をし始めると、またまた思いもよらない話が持ち上がって来た。
なんと、「剪定をお願いしたのも御縁だと思うし、主人のためにも良いと思うので、我が家で相愛会の誌友会を開いてもらいたい」との申し出である。

思いがけない話に最初は躊躇したのですが、これこそ神さまからの贈り物に違いないと気づき、2月から誌友会を開催させてもらうことになりました。
まだ嬉しいというより、喜んでいただけるような誌友会になるだろうかと心配が先に立っているのですが、これはわたしの迷いに過ぎず、きっと祝福された誌友会になるに違いないと思う。
神様、どうぞよろしくお願いします。


話は変わって、翌日の事、
職場から帰ってきた息子に、3月の講習会のチラシを黙ってわたすと、息子は「何?」と云いながらチラシを見始めた。そこで言いました。
「一度ぐらい行ってもいいんじゃないか?」
すると息子は、
「いつも世話になっているから、一度ぐらい行ってみるかな」と云う返事。

いやあ、誘いはしたものの、こんな良い返事が返って来るとは思ってもいなかったから驚きました。
まさに、我が家に奇跡が起きた感じ。
例えれば、一瞬にして部屋中にバラの花が咲いたようだった。
生長の家へのお誘いで、今迄一度だって良い返事が返ってきたことがないのだから。
シルバーの親父が年を忘れて叫びました。
「やったあ!!」

その後、
息子「行けばいいの?」
親父「行くだけじゃない。行って話を聞くんだよ」
息子「話を聞くだけでいいの?」
親父「話を聞くだけでいい」

ひょっとして息子は、「宗教くさいことをやらされるんじゃないか」と、その事を心配していたんだろうか。

成るほど、それもわかる。
だが、時には臭い中に飛び込んでみるのも面白いじゃないか。
はたして、臭いか臭くないか、それとも何となしに漂う香気か、自分の肌で感じてみればいい。
なにはともあれ、息子が行く気になってくれてこんな嬉しいことはない。
これも、思わず「神様ありがとうございます」と言いたくなったことでした。
コメント
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