新入社員がわずか数日でスピード退職する事例が増えている。今年もさっそくSNSでは、「仕事辞めたい」といったようなネガティブ系のワードが飛び交っている。彼らはいったい、どんな理由からスピード退職の決断を下しているのだろうか。5年前に、“出社一日”で会社を辞めた女性・ばらんさんに話を聞いた。

「この会社おかしいかも……?」女性が抱いた違和感

大学では国際学部に所属していて、さまざまな価値観や文化に触れる中で、もっと視野を広げていきたいという気持ちが自然と芽生えていった、ばらんさん。就職活動でもそうした学びを活かせるような環境を探していたが、「自分は何がしたいのか、どんな仕事が向いているのか」といった軸はまだはっきりと見えないまま、時が進んでいった。

「どちらかと言うと、社会に出てから考えればいいかなと楽観的な姿勢で動いていたように思います」

最終的には、いくつかもらった内定の中から、生活していける待遇かどうか、将来的にも応用が利きそうな業務内容かどうかを軸にして、とあるメーカー会社に総合職として入社することになった。

英語や文章力を活かしてクリエイティブな分野にも関われる可能性がある、という説明を受けたことも、ばらんさんが入社する決め手の一つになった。

そして2020年4月、ばらんさんの社会人生活がスタートした。しかしこの年は、ちょうど新型コロナウイルスの感染者が日本で発見されたころ。

ばらんさんが入社した会社では、入社早々に最初の2か月間が完全リモートでのスタートになった。

「リモート中は、課題に取り組んだり指示を受けたりする日々。深夜にピリついた内容のメールが届くなど、『この会社おかしいかも……?』と小さな違和感は抱くことはありましたが、新卒で先の見えない状況の中、とにかく順応することに精一杯でした」

そうして6月、ばらんさんは初めて会社にリアル出社。ここで、リモートワーク中に感じていた違和感の正体に触れることになった。

朝、新入社員が集められ、スマホの電源を切って箱に入れるよう指示された。さらにオフィスを見まわしてみると、若手社員の姿はほとんどない。そして研修という名のもと、社長がひとりで長時間にわたり、会社の沿革や理念を語る時間が始まった。

洗脳されていく同期「こうやって成長するものですよね」

社長の演説には圧を感じるほどの熱量があり、少しも目を離してはいけないような緊張感が漂っていたという。

「この会社で何を成し遂げたいか」

社長からいきなりそう問われて、ばらんさんの同期の女性が出した回答に社長が噛みつく。期待と違う答えだったのか、社長はその女性を厳しい口調で理不尽なまでに責め立てていき、ついにはその女性は泣き出してしまった。

「社長の研修を受けているときは、耳が遠くなる、視界に星が飛ぶ、寒いのに汗が出る……と、すさまじいストレスを感じました。そして、同期の女性が泣いているのを見ていた別の同期が『こうやって成長するものですよね』と微笑みながらつぶやいたとき、自分の中で何かがはっきりしました。

社会や仕事のことなんて何ひとつ分かりません。でも、ここに染まることがわたしの思う社会人ではない。それだけは確かでした」

こうしてばらんさんは、出社1日目の休憩のタイミングで、担当の上司に辞意を伝えた。

上司は驚いた様子はなく淡々としていて、「ちょっと早すぎるんじゃない?」「もう少し続けてみたら?」といった言葉で引き留めようとした。だが、ばらんさんの意思は固い。やがてそこへ管理職の女性がやってきた。

「そんな子、うちにはいらないから。さっさと辞めな!」

その女性の勢いにばらんさんは驚いたが、これでむしろ心がスッキリし、「やっぱりここはわたしの居場所じゃない」と思うことができたという。

その後、書類に記入して退職手続きを行ない、初めて出社したその日に会社を辞めることになった。

「辞めた直後は、重たい肩の荷がすっと下りたような、ふわふわと軽くなるような感覚がありました。もちろん、不安がまったくなかったわけではありません。でもそれ以上に、納得できない場所に無理してしがみつくより、自由でいられることのほうがずっと心地よく感じられました。

あの環境から抜け出せたこと、自分の意思で動けたことが、その後の歩みを照らす希望になりました」

ばらんさんは会社を辞めた後、“自分が本当にやりたいこと・向いていること”を改めて考え、心理士という職業を知った。

会社を辞めてから3年半、女性が掴んだもの

心理士になるには、大学院で修士課程を修了したうえで、資格試験にも合格しなければいけない。そこで6月末から心理系大学院専門予備校に通い始めて勉強に打ち込み、9月・10月の入学試験に合格した。

それから2年間の大学院生活を経て、精神科クリニックと教育機関に勤めることになり、2度目の社会人生活が始まった。

その中で資格試験の勉強を始め、その年の12月、見事に試験を合格して臨床心理士となった。新卒で入った会社を辞めてから、3年半後のことだった。

「振り返ると、大学時代に国際学部で育んだ多様性を認める感覚が背中を押してくれたのかもしれません。ここだけが世界じゃない、世界はもっと広い。そんな思いが自然と湧いてきたからこそ、あのとき一歩を踏み出せたのだと思います」

新卒で入った会社ですべてが決まるわけではない。それは一つの例でしかなく、別の場所で輝けるチャンスは無限に広がっている。自分にはなにが向いているのか、学生時代にはわからなかったことが、社会に出てからわかることもたくさんあるのだろう。

取材・文/ライター神山