Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

4月27、28日 立宗会・第一回支部総登山

2019年04月29日 16時56分44秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
那須高原SA。
羽生SA。
談合坂SA。ここで小休憩。
お茶を頂く。
朝方、月と共に富士山がぼんやり見えてくる。
富士の稜線。
大石寺着。
奉安堂と富士山。
御影堂。
バス車中からの富士山。
この日は、四月二十八日の立宗会に当たり、所化小僧さん、御僧侶方、日如御法主上人猊下様ご臨席の元、式が執り行われた。引き題目を五、六回唱え、その時間たるや、五、六分を超えていた。素晴らしかった。
戒壇の大御本尊の御開扉が十時に執り行われ、鎌倉時代の大御本尊様が目の前に現れた。御祈念を沢山しました。満足出来ました。
この両日は、連休初日に当たり、大渋滞が予想されたが、さほどでもなく、ホッとしました。夜七時すぎにはお寺に帰れました。
富士山も立派に見え、心地よい疲れの中、帰路につきました。

決意、読者投稿の返信からー日蓮正宗への御恩返しの為に

2019年04月23日 21時00分47秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
返信 (わたし、より)「創価学会の『ニセ本尊』を破す」という御本を読了-ブログ記事よりコメント欄から
2018年03月30日 | 日記
2019-04-23 20:58:48
創価学会第二代会長戸田先生時代の、古い日寛上人の昭和の頃の真正御本尊様から、創価のニセ本尊に替えた日を境に、魔に堕ち、あの勤行唱題の大歓喜も無くなり、自然とうつらうつらとドブ底の目の死んだ魚のように、私の生活は破綻をきたして、落ち目になりました。
その時点で気付けば少しは助かったのに、創価は日本最大の宗教教団、池田の「勝って勝って勝ちまくれ」のスピーチを過信し、ぬるま湯の中で次第にお湯の温度を上げても、死ぬまで気づかないカエルのような、手遅れの一歩手前まで行ってしまいました。
今では、創価やその後に触れたキリスト教の害毒の罪障に苦しみ、もっと早く日蓮正宗に帰伏していれば、の悔いが残ります。
まあ、今は、これでも自分としては間違いに気付けただけでも良かった、と胸をなで下ろして、安心立命の境涯で日々を過ごせていて、創価学会を辞めて良かった、本当に命拾いをした、とお寺の皆さんと一緒に行事に参加できる喜びに感謝感激の一念で過ごしています。
お寺の皆様は、私の至らない所を見ても「いいんだよ」「今度気を付ければいいんだよ」とか逐一アドヴァイスをされて、私にとり、とても居心地が良いです。創価学会では、ここまで優しく温かな雰囲気、世界はあり得なかったです。
創価学会では、男子部の会合に出ても、上意下達の、一喝に付すだけの、冷たくドライな人間関係しかなかったです。いい先輩も居ましたが、後でその冷たい人間性にガッカリする、という事の連続でした。
ほんの小さな所でも、創価学会と日蓮正宗ではこれだけ差がある。創価は邪悪教団、日蓮正宗は重厚長大、真正の真実の宗教です。これだけは間違いないです。
これだけ日蓮正宗には御恩をこうむり、受けているのだから、絶対に御恩を仇で返す真似だけはすまい、と心に決めています。
もっと自分も、自行化他、自行の勤行唱題のみならず、化他行の憧れの折伏行にもっと邁進挺身して、自身の罪障消滅に、日蓮正宗の大興隆に貢献したいです。

間違った宗教の怖さ

2019年04月17日 17時50分39秒 | 邪宗教キリスト教一神教・邪教占い・統一教会・神社神道・新興宗教・神様系・等々邪教
オウム真理教はサリン事件を起こした。その他数々の犯罪を犯した。教祖以下有力弟子達は死刑となった。
 キリスト教も数々の事件、犯罪、戦争まで犯した。宗教戦争、魔女狩り、宗教裁判、十字軍…。西洋史に汚点を残した。何億人も殺戮殺人の被害者を生んだ。二重人格・偽善者の最たる宗教がキリスト教。
 オウムは破壊の神シヴァ神を拝み、キリスト教は破壊的な父なる神、子なるキリストは感情屋、聖書は人が作り、欺瞞、矛盾に満ちている。歴史、historyとは、ヒズストーリー彼の歴史、つまり、父なる御神、或いはキリストの歴史なんだと未だに言葉の上からも西洋では信じていると法華講の先輩が教えてくれた。
 これらは教義が間違っている。教えが陳腐で幼稚で邪義邪論邪見に満ちている。内道の仏教とこれら外道宗教の歴然とした差がある。
 日蓮正宗の教えからすれば、こうした宗教どもは低級宗教、邪教と言う事になる。創価学会はエセ仏教であり、日蓮正宗を完全に模倣しパクっている。創価は犯罪、事件の多さでも名を馳せた。
 日蓮正宗しか知らなくても、世の中の宗教には敏感になり、日蓮大聖人の御書から学べば、誰もが布教者、折伏を行ずる者となる。
 一人一人が束になって折伏するから強い。教えに自信があるから人にも勧められる。創価や顕正会はエセ仏法だから、日蓮正宗から多くを学び、取り入れ、まるで嘘の折伏を行い、騙される人も多い。しかし、そこには功徳・御利益は何もない。あるのは魔の通力のみ。
 何しろ、邪宗教はお金がかなり掛かる。統一教会などは何十、何百万円の壺等を買わせられる。創価は財務三桁四桁を強奪する。三桁は100万、四桁は1,000万円。
 正に、邪教の塗炭の苦しみに喘ぐ民衆。皆、この世には神も仏もいない、と嘆き、あるのはそのシステムに則ったねずみ講式互助会形式組織の教団たち。救われない。
 日蓮正宗という、現代には稀な、貴重な法脈、血脈相承・唯授一人の法灯連綿たる宗派がこの日本国にある事を知って欲しい。日蓮正宗に固有の、三大秘法の戒壇の大御本尊様を戴く我ら日蓮正宗法華講こそが、宗祖日蓮大聖人の出世の本懐を現わされた事実を如実に物語る、この世の太平、仏国土と成すに余りある素晴らしい御教えの正統な後継者なのである。

仏教、なかんずく日蓮正宗とキリスト教

2019年04月05日 20時34分09秒 | 邪宗教キリスト教一神教・邪教占い・統一教会・神社神道・新興宗教・神様系・等々邪教
 キリスト教のラジオを性懲りもなく聞いていたら、そのパーソナリティがこんな事を述べていた。何故この世に不幸や障碍者や悪い事が起こるかについて、
 「キリスト教以外の宗教は、その原因を親やその祖父母、祖先・御先祖様、果ては前世のせいだ、と決め付け、そのせいにする。一人キリスト教は、イエスが目の見えない人を前にして、周りの人が、先生、この人の目が見えないのは、この人が悪いのかこの人の親ないし先祖が悪いのかと聞くと、イエスは、それは神のみわざがあらわれる為である、と言った位で、キリスト教は前世も問わないし、むしろ親やその親のせいにもしない宗教だ」と言った。
 日蓮正宗を始め仏教は、仏様と自分とを静かにして冷徹に現実を見つめる。それは他者を介さず、孤独な自分自身との自問自答に尽きる。そして、原因と結果、因果の理法を見つめる。孤独な対話だ。仏教が科学的だという見方が、科学に反しない理由がここにある。
 自分の過去世において、現世での結果の原因が、現実から照らして、過去世にあり、とこれは自分が納得して初めて得られる智慧、知識となる。
 ここで、大聖人の御書から。
『開目抄』
「天台云はく『今我が疾苦(しっく)は皆過去に由(よ)る、今生の修福(しゅうふく)は報将来(むくいしょうらい)に在(あ)り」等云云。心地観経(しんじかんぎょう)に云はく「過去の因を知らんと欲せば、其(そ)の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ』等云云」
(御書・五七一頁) (通解)
天台大師は、「今、私たちが悩み苦しむのは過去に原因がある。今生で福を修めればその報いはこれから表れてくる」と述べている。心地観経には、「現在の結果から過去に行ったことが明らかになる。同じように現在の行いを見ることで、未来の結果を知ることができる」と説かれている。

 キリスト教は、障碍者が生まれるのは神の御業が現れる為、と言うが、何と無責任で無慈悲な所業だろうか。つまりこの世は神(ゴッド)の巨大な実験場であり、神は障害を負った子供が大人になるまでの長大な時間を無言・沈黙のまま見つめている、何もしない。そしてその苦しみは何よりも神を喜ばせるための計画、仕組みとして、その障碍者は生まれて来た。何で完全無欠の、全知全能の神ならば五体満足の、何不自由しない人間として、全ての人を生まれさせ、生かさないのか。冗談じゃない。だから神は無責任・無慈悲だと言うのだ。
 因果の法則からすれば、神が生じた原因については聖書には何一つ述べられていない。神は原因も結果もなく昔から存在した、と彼らは言う。この世を神が作ったならば、それ以前の、この世が出来る前、無の世界に、神はどこにおったと言うのだ。神の存在するスペースすらない。
 神などは初めからいない、と自らが、神を人の前に立てた時点で全ての間違い、矛盾が噴き出してくる。仏教以前の、外道宗教の限界、無責任さを露呈している。
 キリスト教は実に幼稚で、程度が低い宗教だ。鎌倉時代の日蓮大聖人の仏教各宗派との論争の時の方が、数倍宗教論としては格が上であり、高度な法論だ。キリスト教という邪教は、この世から除去、根絶、禁止させねば絶対にならぬ。

令和が良い時代となる事を祈る

2019年04月02日 18時03分28秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 昨日の四月一日、新元号・令和が発表された。私は、平和を願う人が多い事から、ひょっとすると「和」の字は使われるかどうか、しかし、昭和とダブる事から、まあないだろう、世間の人は「安久」を推していたが、これも事前に漏れたので無いと思った。安倍首相が、自分の「安」の字を用いるのかも焦点となったがこれもあり得ないと思った。
 私はその日、母の老健施設にて皆でテレビを見ていて、決まる瞬間を画面からうかがった。菅官房長官が「令和」の額縁を見せた時、新しい時代の幕開けの瞬間に今自分は接している実感があった。母は「いいんじゃない、令和で。実にいい」と言っていた。中には「何か変な、ピンと来ないわ」という職員もいるにはいたが、皆厳粛に受け止めていた。私も、「和」が昭和に続いて使用されたのが気になったが、直に慣れると思った。
 その日は余り眠れなかった。一日、保健所・市役所などに用事があり、寒い中駆けずり回ったせいかも知れない。「令和」の余韻に浸り、その日は家に帰ってもテレビに釘付けだった。
 昭和天皇が崩御した日、私は高校生で、その日は郡山はうすい百貨店の中町通りにいて、新聞の号外を受け取った。そして平成が元号に決まり、その日は今回の様なお祝いムードではなかった。何より昭和天皇が亡くなった事が、国民を沈鬱ムードに押しやった。事前に平成今上天皇が退位された事による、今回は恵まれた、稀な改元だろう。
 令和が、災害の無い、平和な世の中、時代になる事を祈り、願う。いよいよ新時代だ。